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2017年10月21日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)8

次は、自身の体験も含んでいる。まさに、建設の歴史であった。昭和から平成にかけて、老朽化する施設群の移転新築が実施されることになる。先ずは、昭和三十七年に開設された軽費老人ホームの移転である。用地買収、建築、旧施設の解体撤去が行われた。完成が昭和六十一年。総工費四億八千万円。有料ホームの増築。完成が昭和六十一年。総工費五億六千万円。養護老人ホーム、特別養護老人ホームの一部移転、有料介護施設の新築。総工費十三億五百万円。昭和六十三年完成。と数年間で多額の資金が投入された。
 そして平成九年特別養護老人ホームの一部、有料老人ホームを合築した施設が完成。総工費二十三億五千万円。まさに建設ラッシュである。よく整備できたものである。この二十三億を超える一大事業には、さまざまな難関があった。国庫補助、県費補助あるといっても実質的には半分である。先ず特別養護老人ホームの分の自己資金を作らなければならない。近隣市町村に補助申請を求めたが、ルールがあるわけではない。議会などにも陳情して何とか一億数千万円の補助を得た。一般募金、寄付が一億円近くあったのも天の恵みというしかない。残りは借り入れることにした。老朽改築のため一億六千万円の無利子融資を受けることができた。有料老人ホームについては、全て借り入れであり、市中銀行からも借りざるを得なくなった。利子の返済が大変である。二十年経った今日に至っても返済できていない。社会福祉施設整備の借入金には、利子の補助もある。県の担当者が、有料施設の借入金に誤って利子補給をした。このお金は貰うお金ではない。連絡して返還した。税金をもらっての事業である、ルール違反は出来ないし、誤りだと分かれば相手に知らせるのは当然である。
  

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2017年10月20日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)7

この特別養護老人ホームは、平成十六年の移転新築によって一部建物を残し解体されている。建設当時の建物を年代順に列挙してみることにする。( )は補助金。
榛名○○園新設(20.120千円)日本自転車振興会、解体
榛名○○園管理サービス棟増築(11.560千円)日本自転車振興会、解体
榛名○○園収容棟・事務本館(17.568千円)県費補助金、事務本館だけ現存
榛名○○園付属職員宿舎新設(4.120千円)日本自転車振興会、解体
榛名○○園浴室増築(420千円)解体
榛名○○園友愛棟増築(50.350千円)日本小型自動車振興会、解体
榛名○○園友愛棟増築(6.600千円)県費補助金、解体
榛名○○園コミュニティーホール増築(7.450千円)日本小型自動車振興会、解体
榛名○○園職員宿舎増築(6.684千円)県費補助金、現存
榛名○○園訓練棟増築(24.610千円)日本小型自動車振興会、現存
榛名○○園デイルーム増改築(695千円)共同募金会、解体
榛名○○園清泉棟増築(122,691千円)県費補助金、現存
これは、建築関係の補助金や助成金を列挙しただけだが、設備関係や、機械の購入などの補助金もあった。よくも、交渉、申請をまめにして実現したことかと驚かされるのである。自己資金も必要だが、施設の運営費は公費(措置費)のため、引き当てられるお金は限られている。寄付金、いわゆる民間の浄財を募ったのである。この法人には、外野席応援団と言う後援会があり、法人の創立から今日まで十億円以上の寄付金を集めている。
  

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2017年10月20日

上野界隈散策(2017年10月)

 日暮里駅の近く、谷中墓地に隣接するような場所に、彫刻家朝倉文夫の旧宅がある。数年前に保存修理が行われ一般に公開されている。昭和初期に増築が重ねられ完成した建物で、アトリエは鉄筋コンクリートの建物になっている。国の指定名勝になっており、国の登録有形文化財でもあり、台東区が「朝倉彫塑館」として管理している。入館して驚いたのは、建物や庭の隅々に朝倉文夫の芸術的空間が広がってことである。池のある中庭といい、それを取り巻く居室は和風建築であり、日本文化の伝統も流れ、アトリエや書斎は西洋風でそれが、違和感無く調和している。アトリエの上も和風建築になっていて、屋上は緑化のために、庭園と菜園になっている。都会の先駆的発想になっている。入館して、靴を入れる袋を渡された意味が了解できた。
 朝倉文夫の代表作に「墓守」があるが、「大隈重信像」とともにアトリエに展示されていた。角界の著名人の像を多く製作したことでも知られている。滝廉太郎像は、同郷竹田の縁であろう。鹿児島に旅行した折、照国神社を訪ねたが、立派な礎石の上にあった島津斉彬像も朝倉の作品である。鳩山和夫夫妻の像も良く知られている。意外だったのは、晩年まで猫の彫刻に情熱を注いだということである。猫百態を目指したが、彼の死によって達成できなかった。家に猫を飼い、観察もしたが写真を撮って製作したという。
 

朝倉彫塑館を出て、団子坂の坂上にある森鴎外記念館を訪ねることにした。それほど遠い距離ではないが、上野近辺は坂道が多い。上野だけではなく、東京そのものが坂の多い都市なのだという。歩いてみるとそのことが良くわかる。三菱財閥の岩崎邸のあたりは、無縁坂がある。暗闇坂という坂まであるらしい。森鴎外邸は既に火災や戦災で焼失しており、面影を残すのは銀杏の木くらいである。森鴎外邸は、観潮楼と呼ばれ、2階建てで東京湾も見ることができたらしい。アララギ派の歌人や、石川啄木、与謝野鉄幹夫妻もこの家に会している。今は、近代的なコンクリート造りの記念館になっている。「慶応三年生まれの文人たち」という企画展で、鴎外ゆかりの文人が紹介されていた。夏目漱石、正岡子規、幸田露伴、尾崎紅葉といった作家たちである。「めさし草」という雑誌を鴎外が発行し、そこには、樋口一葉も寄稿していた。陸軍の要職も勤め、一方文壇にも影響力を持った鴎外の能力は群を抜いている。明治の生まれであるが、永井荷風も紹介されていた。東京散歩に、『断腸亭日乗』を携帯したのも、鴎外の記念館を訪ねることと無関係ではない。荷風は鴎外を尊敬していたし、影響も受けた。
 鴎外邸のあったところは、千駄木で文京区になる。森鴎外記念館は、文京区立である。文豪漱石もこのあたりに住んでいたはずである。漱石が教鞭に立った第一高等学校は、東大農学部の場所にあった。歩いて通える距離である。そう思って、標識や観光地図を探していると、観潮楼跡と書かれた近くにあった。日本医科大学の近くである。たどり着いてみると、跡地の解説と、猫の像があるだけである。ここで『我輩は猫である』を書いたのか、あらすじなどを思い出してみるが、百年も経った景観に何の感慨も浮かんでこない。カメラに収め、足早に立ち去る。朝倉彫塑館といい、漱石居住跡といい、猫にご縁があった。
 

根津神社に立ち寄る。都会の緑の空間は貴重である。境内に入ると都会の喧騒と無縁である。木々の合間にビルが見えるが、許容の範囲である。東京十社の一つで、歴史も古い。徳川綱吉との関わりが書いてあったが、徳川家の保護があったということである。春になれば、つつじが咲き、多くの人が訪れる。森鴎外も夏目漱石も鑑賞したであろう。
 今夕七時に鹿児島からの友人と会うことになっている。友人と言っても十歳以上年上である。大学の同窓会が明日あり、その前日にお会いしましょうという声賭けがあった。「オフ会」というのだが、いわゆるフエースブックの友達の会である。主催者である鹿児島の友人を含め、四人の会食会である。二人は、当方にとっては初対面と言うことになる。鹿児島の友人の母校は東京大学である。キャンパスに入ったことは一度も無い。友人に敬意を表し、立ち寄ってみることにした。実に広い。緑も豊かである。安田講堂を初め、校舎の外観は古めかしい。それがかえって重厚感と伝統を感じさせる。関東大震災や、東京大空襲から被害に遭わなかった建物が多かった。この日も、古い校舎の修復工事が行われていた。加賀藩ゆかりの赤門も見た。高校生の観光客らしき団体がいた。この生徒の中に、入学生が生まれるかもしれないが、当方は試験で入ることはない。今回が、最初で最後になる可能性が大である。残念だったのは、安田講堂の中にある小杉未醒の壁画が見られなかったことである。二人のガードマンが入場する者を監視していたのである。


 本郷三丁目の交差点を左折し、夕食会場に向かう。湯島天神の鳥居を過ぎ、山手線が眼に入る。御徒町駅前にある吉池食堂に着く。鮮魚を扱った店で、東京に出ると良く立ち寄る店である。しかもアメ横も近い。定刻より早くついたので、アメ横での買い物もできた。
  

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2017年10月19日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)6

順序が逆になるが、昭和四十四年開設の特別養護老人ホームは、群馬県の第一号施設であり、この社会福祉法人で最初の鉄筋の建物である。法人本部の建物も同時に建てられている。建設の苦労話は、亡くなった理事長から聞いている。普通は、県を窓口として補助金が決まるが、オートレースや競輪からの補助もある。正式な名称は、日本小型自動車振興会、日本自転車振興会という。競艇は、日本船舶振興会という。競馬は、中央競馬会であるが、建築物の補助金は出していない。公的ギャンブルの益金だが、お金に色はついていない。同じギャンブルでも、パチンコの益金は、今も福祉関係に流れてこない。この特別養護老人ホームの補助金は、日本自転車振興会の補助金と国庫補助金を二年度に分けてもらっている。老人の居室棟は、平屋建てで一棟が十二人という仕切りのない相部屋であったが、中庭があってなかなかモダンな設計であった。廊下が管理棟を挟んで長く延びていた。天井は低く、配管がむき出しで、船室のようだと思ったが、廊下の一部が坂になっていたのには驚かされた。理由があって、坂の上と下の居室棟は、補助の出所が異なっていたためで、あえてそうしたのだと聴いた。老人の施設は、フラットのほうが良いというのは自明なのだが。将来的に、建物が老朽化したときは、その修繕費は、補助金を出したところが行う。オートレースと競輪は、共同で修繕の補助をする組織を持っている。車両競技記念財団といったと思うが、申請の窓口で県に相談に行ったりして、ピンポン球のような経験をしたことを覚えている。今、この補助金で建てられた建物で残っているのは、本部事務所の建物だけになっている。  

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2017年10月17日

大河ドラマ『翔ぶが如く』

原作は、司馬遼太郎。NHKの大河ドラマで放送されて久しい。番組全てがDVDに収録されているので見ることにした。さすがに、全巻はきついので、維新前は一部省いて鑑賞。鳥羽伏見の戦いからは、通しで見た。
10月18日に、鹿児島の友人が東京に出てくると言うので、少し鹿児島の歴史を調べてみようと言う気になった。しかも、来年は、西郷隆盛が主人公になって、大河ドラマが放送されることになっている。「西郷(せご)どん」を理解するのに、このドラマは適任だと思う。鹿児島弁で字幕説明まである。役者も良い。
この時代、日本の激動期だっただけに、政治家は命がけである。鹿児島の二人の巨人、西郷と大久保は共に非業の死を遂げるが、私欲がない。西郷に至っては、入水自殺失敗後、島流しになったりして、生命の危機があった。彼を生かしたのが「敬天愛人」という言葉である。こんな、人生まれである。「天に生かされる」凄すぎる。
  

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2017年10月14日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)5

当時の募金趣意書が残っていた。原案は、田原さんが書いた。一部、理事長が加筆している。
 (軽費老人ホームB型設立趣旨書)
 「ついこの間まで人生五十年と言われていたものが、今や七十五歳となり、殆どの方が老人になるまで生きられる時代になりました。これはまことに喜ばしいことですが、言い換えれば二十五歳から働き始めて五十五歳の停年まで三十年間働いた後、この三分の二の長さのある二十年間という長い老年期があることになるのです。この期間を如何にすごしてゆくかということは人生の重大問題と言えないでしょうか。この期間は『子供が面倒見てくれるから』という漠然とした考えは、身体の自由がきかなくなった時、家族から見放されてしまうという結果になりかねない。これは、私達が永年お年寄りの世話をしてきた結果得た多くの実情なのです。
(中略)
(軽費老人ホームB型に生活すら方々が)健康で生きがいのある生活をして一日でも長生きをして頂くための付帯施設として諸設備を完備した福祉サービスセンターを同時に計画したわけであります。『終わりよければ全てよし』人生の幸・不幸は老年期にあると言っても良いでしょう。
(以下略)」
として、募金を呼びかけているのである。
さらに話は、現在の有料施設に及ぶ。
「この健康型の有料老人ホームの入居者が、さらに一時金を負担しなくて入れる介護施設があると良い。介護保険の負担金も含め、十五万円程度の月額負担で入れる有料施設があればね」
という話題になった。
「あなたが希望すれば最後までお世話します」
という法人の理念に沿っていないというのである。
  

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2017年10月14日

『白秋愛唱歌集』藤田圭雄編 岩波文庫



北原白秋の詩は、曲となり、多くの人々に親しまれている。童謡もあり、歌謡曲もあり、歌曲もあり幅広い。好きな曲が多い。拙ブログの「心に浮かぶ歌」にも紹介している。重複するが、あらためて取り上げてみる。歌と作曲者を紹介する。
「空に真赤な」(陸軍抜刀隊の歌)陸軍軍楽隊
「曼珠沙華」山田耕筰
「城ヶ島の雨」梁田貞
「さすらいの唄」中山晋平
「芭蕉」小松耕輔
「ちゃっきり節」町田嘉章
「帰去来」信時潔
「ちんちん千鳥」近衛秀麿
「揺籠のうた」草川信
「砂山」山田耕筰「砂山」中山晋平
「すかんぽの咲く頃」山田耕筰
「秋の野」団伊玖麿
  

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2017年10月13日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)4

「僕は、この保養所の患者だったんです。一年近く療養したかな。その施設が白雲寮(昭和二十五年完成)だったと思います」
田原さんは、療養の後、少し保養所のお手伝いをして、郷里に帰り、再就職を考えていたが、保養所の経理の仕事を頼まれ、正式に従業員になった。患者から職員にというケースが多かった。そこからは、家族的な親密な人間関係が生まれる。
 田原さんは、二十年程財団法人となって医療施設として発展していくこの組織の事務に係り、創設者である理事長の経営を支えた。昭和五十年には、創立から二十年近くになった社会福祉法人の総合事務所の事務長に就任した。社会福祉法人の理事長は、財団法人の理事長が兼務したが、結核撲滅の使命を終え、老人問題に情熱を傾けていた。新任事務長に、大きな事業が待ち構えていた。
 軽費老人ホームと有料老人ホーム、食堂を兼ねた高齢者の健康研修センターの建設である。この施設群は、利用料の補助はない有料の老人施設の先駆けである。最初に構想されたのは、年金で入居できる施設で、ウィーンで視察した施設がヒントになった。軽費B型で建設の補助があった。ところが、オイルショックと呼ばれた時代、建築資材も急騰し、建築の予算が組めなくなった。この時、どのような判断に迫られたのかを田原さんに聞いてみた。
 「東京に出て、諸事情でこの事業を断念することの説明会を開催した。資金の不足が明らかだったから。でも、説明会に集まった人たちから中止しないでほしいという声が強く、募金して資金を責任を持って集めるからという声に押され建設が始まった」
「自己資金として募金が集まったのですか」
「いや集まらなかったのです」
「建設会社に支払いはできたのですか」
「大阪の会社で、関東に進出すると言う理由で、安く工事を引き受けてくれたり、工事費の支払いも猶予してくれたのです。そうした幸運が無ければ実現していません」
軽費老人ホームに続き、有料老人ホームの建築は、予約希望者が待機しており予定通り建設できた。さらに、食堂部分として高年者開発センターを船舶振興会の補助で落成することができたのである。健康で介護が必要ではない施設群が誕生した。昭和五十一年のことである。
  

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2017年10月12日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)3

創立から三十年を経過したこの財団法人の航空写真が、「三十年史」の見開きの最初にある。この写真には、創立当時の一部建物は除き、ほとんどの建物が残っている。三十年間、あらゆる方面の資金を得て増改築をしてきた歴史が映し出されている。創立当時の敷地から県道安中榛名湖線を越えて、榛名山側に用地を拡大し、戦後立てられた病棟に加え、財団法人から枝分かれした社会福祉法人の高齢者施設も立ち並んでいる。県道の舗装の真新しさが印象的で、この先には、この財団の経営者の一人が、重度の障害者の施設を建設した。皇太子夫妻が、この施設を訪問されたのは舗装完成後であった。
 この航空写真よく観てみよう。県道の左側が結核保養所の発祥地であり、戦前から建てられた建物が残されている。しかし、財団法人の建物は、全て社会福祉法人に寄付され、養老施設(養護老人ホーム)の建物になっている。ただ、准看護学校の建物は、財団所有であり、報公館は、職員住宅になっている。
 県道の右側を見てみよう。宗教施設としての教会と、修道院の建物があるのが眼を引く。キリスト教の経営理念が基本にあることがわかる。昭和三十二年に設立された社会福祉法人の事業として、日本で第一号となった軽費老人ホームと昭和四十四年に建築された特別養護老人ホームの真新しい平屋の鉄筋の建物がある。隣接して、社会福祉法人の本部事務所がある。その北側に、保養所の直系の財団法人の病院群があるが、本院は木造の建物になっている。事務棟に隣接してバルナバ寮(昭和二十六年完成)があり、榛名山に向かって廊下が延び、聖母寮(昭和二十七年完成)、フランシス寮(昭和三十一年完成)が繋がっている。そのさらに北側に二階建ての鉄筋のリハビリテーションの病棟(昭和四十二年完成)が見える。建物だけを見てみると、結核保養所から病院へと歩みを進めた財団法人は、老人福祉のための社会福祉法人に比重を移したように見える。
田原さんの思い出を追ってみよう。

  

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2017年10月10日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)2

この保養所は、昭和二十五年に財団法人として認められる。昭和十三年から財団認可の年までを旧約聖書の創世記としよう。保養所の建物の歴史である。緑野寮でたった一人の住宅棟から保養所は、スタートした。次に新生寮が落成。定員十二名になった。昭和十五年には、従業員宿舎、調理場、食堂として報公館が完成。さらに寄贈者による八坪の療養棟が完成。昭和十六年からは、太平洋戦争で増床計画は頓挫したが、高原寮の寄贈があった。
 戦後間もなく、政府は結核撲滅五か年計画を立てた。国の補助金を使い、増床することにした。補助金は、建築費の二分の一と決められていた。残りは、自己資金である。療養する患者さんの利用料から捻出するだけでは足りない。浄財も募ることになる。政府系金融機関からの借入れが必要になる。そのため、建築を自前で行うことにした。従業員の中に、建築士の資格を持つ者もおり、大工経験のある者もいた。そのため、ほとんど補助金以外の費用が必要なく完成した。これは、おかしいと会計検査院の指摘することになった。正直に事情を話し、自前の部分の経費を算出し、支出資料を提出したところ
「法律上は、五万円の返還金が必要」
と言われたが、結局は返還せずに済んだ。不正がなかったからである。
この、国の補助金を使い、建てられた木造の病棟は、南向きで病棟の間には、銀杏の木その他の落葉樹が植えられていた。小さい時に、病棟を見舞った記憶もある。高原のサナトリウムという感じがあり、白衣の看護師さんの清潔さを印象的に覚えている。外来棟で火傷の治療をしたこともあった。中学生だった気がする。

  

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2017年10月07日

『人間中野正剛』 緒方竹虎著 中央文庫



一昨日、清沢洌の『暗黒日記』を読了したばかり。昨夜、寝る前に本棚に眼をやると、この本が眼に留まった。清沢洌とは、思想、信条もかけ離れた人物だが、気になっていた。本棚にあるのだから、少しは読んだのかもしれないと思いつつベッドに入りページを開いた。緒方竹虎と竹馬の友なのか、そして福岡県の人なのかということが頭に残り、書き出しの部分だけ読んで寝た。
太平洋戦争は、避けられなかった戦争かというのがここ数年の、関心になっていて、それなりの文献を調べている。清沢洌は政治家ではないが、石橋湛山、緒方竹虎、中野正剛は、言論人から政治家になった。中野正剛は戦争推進者だったのか。三国同盟に賛成し、ヒットラーやムッソリーニに会っているところから国粋主義、軍国主義、ファシズムに近い思想を持った人物なのかという視点は、この本から断定できない。
タイトルが人間中野正剛であり、政治家中野正剛ではないのである。中野正剛の妻は三宅雪嶺の娘である。よき家庭を築き子供にも恵まれたが、長男は、山で滑落死し、妻には先立たれ、自身も医学的ミスで片足を切除していることを知った。そうした点では苦難の人生になっている。何とも強烈なのは、東條英機を批判し、現職の議員ながら逮捕、拘束され自宅に戻った後自刃していることである。
中野正剛の尊敬する人物が、西郷隆盛、大塩平八郎だという。共に陽明学を深く学んだ歴史的人物である。知行合一の思想。このあたりが、中野正剛という人の核なのかと納得した読後感である。
  

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2017年10月06日

『暗黒日記』清沢洌著 岩波文庫


1942年の12月9日(日米開戦の1年目の翌日)から書き始め、終戦の年1945年の5月5日で終わっている。空襲が激しい中、江戸、東京の大火の歴史を綴っている。戦争を煽ったジャーナリストの代表格として徳富蘇峰をあげている。戦争遂行者、東条英機の太鼓もちとまで言っている。軍人では、末次信正、政治家では中野正剛、右翼では頭山満、笹川良一などの名前をあげて批判している。逆に交友があった人物として、芦田均、吉田茂、広田弘毅、石橋湛山、緒方竹虎の名前がしきりに登場する。小林一三、藤山愛一郎などの財界人、正宗白鳥、長谷川如是閑とは親しい関係にあったようだ。とにかく人脈が広い。経済的にも恵まれており、軽井沢に別荘を所有し、戦時中でもゴルフを楽しんでいた。アメリカに長く住んでいたから、合理主義であった。それよりも、自由主義と平和主義は筋金入りで、軍人や官僚の形式主義や封建主義を嫌っていた。戦時中は、言論界から政府権力に警戒され、遠ざけられていた。この日記は、日本の敗戦を意識、戦後をどうするか、そのための資料として書き残そうと考えたのである。清沢洌も愛国者であったのである。皇室への崇拝は、徳富蘇峰と同じであるが、戦後の象徴天皇観がある。亡くなったのが55歳と若い。
  

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2017年10月05日

映画『晩春』小津安二郎監督 松竹映画



高崎の古い映画館で、『麦秋』(小津安二郎監督)を見てから、小津作品を見たいと思うようになった。子供に相談したら、DVDをレンタルして、自宅のテレビで見られるというので、早速見たのが、『晩春』である。あれあれと思ったのが、『麦秋』と同様に、北鎌倉駅が映し出されている。昭和24年の作品で、終戦直後でもあり、空襲を免れた、鎌倉は、古きよき日本の風景が残っていたから、ロケ地になったことは納得できる。原作は、広津和郎の小説『父と娘』である。淡々と語られる、親子の会話。家の中の風景。鎌倉の風景。現代人が見れば、眠気を誘う構成である。しかし何ともいえない情感が漂っている。父親は、娘の結婚を心配する。娘は、父親の一人暮らしを心配する。父親の嘘が決定的になり、娘は結婚することを決める。嘘とは、後妻を貰うという話である。能を鑑賞する場面と帰り道を父娘が歩く場面が、記憶に残る。父役の笠智衆と娘役の原節子のコンビである。次は、『東京物語』を観ることにする。
  

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2017年10月04日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)1

「風立ちぬ、いざ生きめやも」という堀辰雄の小説に出てくる言葉であるが、結核と言う病気は、死をいつも意識しつ不安な心境を心に宿すことになる。堀辰雄がこの小説を軽井沢で書き上げたのは、昭和十二年の十二月であった。その翌年の昭和十三年の十月に榛名山の南麓に結核保養所が生まれた。
 小説『風立ちぬ』で若き女性が療養するサナトリウムも高原にあった。結核菌の感染も考え、患者が清涼な空気を吸える環境として高原は、結核保養所に適した場所と考えられていた。時は流れ、この榛名山麓の保養所は病院となり、高齢者の施設を併設している。高齢者には、やがて訪れる死も意識され、結核とは違うが「風立ちぬ、いざ生きめやも」という言葉を意識させる。こうしてみると、安心して暮らせる住環境を八十年近い今も提供し続けているのである。
 あえて名前を出さないのだが、この結核保養所を創設した人物は、結核体験者であった。数年にわたる結核の療養を親族の愛に支えられ、見事回復し、同じ病気に苦しむ人々のための保養所を始めたのである。感染を恐れる周囲住民の反対、生活の糧になる水の確保にも苦しんだ。法制度も十分ではなく、経営が大変だったことは、昭和四十四年に発刊された法人の「三十年史」から読み取れる。
 創立者は、既に他界し、創立の当時を知る人は、ほとんどいない。戦後間もない頃に、従業員となり、保養所から枝分かれした、社会福祉法人が経営する有料の施設の入居者になっている九十歳を過ぎた方の思い出の中に結核撲滅のために働いた人々の奮闘を垣間見ることにした。取材する関係で、田原さんとしておこう。もちろん、偽名である。ご本人に不都合な体験を聞くわけではないが。
  

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2017年09月30日

『清沢洌』 北岡伸一著 中公新書

清沢洌の名前と人物像を知ったのは、臼井吉見の小説『安曇野』を読んだからである。言論人であり戦前には珍しく自由主義者であり、親米の日米開戦に反対した人物だという認識があったが、詳しくは知らないでいた。石橋湛山に興味があり、清沢洌が再度関心の的になった。単身渡米し、言論人になったことは驚きである。留学したというよりは、アメリカで働きながら、批評家の道を切り開いたのである。執筆に才があったのである。大蔵大臣や総理大臣になった高橋是清と重なってくる。
終戦の年に55歳で亡くなっているが『暗黒日記』という著述を残している。この本は、前座のようなもので『暗黒日記』は、是非読んでみたい。
  

Posted by okina-ogi at 16:29Comments(0)書評

2017年09月26日

禁煙のその後

8月1日から始めた禁煙は、継続している。もう2か月近くなる。こんな長い禁煙は初めてである。何となく吸いたいと思う瞬間もあった。友人が目の前でタバコを吸っている時。お酒を飲んで気分が明るくなった時。食後。旅先で喫煙できる部屋に泊った時。朝目覚めた時等々。『やめたんだから』と心の中で呟くだけで吸わないで済んでいる。
もうひとつは、ゴルフの費用の捻出のこと。8月は2回、9月は4回ゴルフを決行。費用が安かったので何とか予算の範囲に収まっている。ところが、原因不明の肩こりというか、背中が重い感じに悩まされるようになった。9月末になって、何ともいえない不快感は薄らいできたが、何かをやめることへの言い知れない不安から来る欝症状ではないか疑うようになった。こういうところは、心理学を齧った専門馬鹿の思いつきだと思いたい。ただ、何かに執着しているということだが、退職を決意したことが原因していることに気付いた。何か未練もあり不安がないと言ったら嘘になる。
やめなければ始まらないこともあると考えたい。自分にあったことをやるしかない。お金、健康も大事だが、孤独になるという心から離れるようにする。
  

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2017年09月12日

この母にこの子あり(2017年9月)

 いつかはとは思いつつ、野口英世の生家を訪ねることができた。青春十八切符が一回分残り、思案していると猪苗代の広々とした田園と磐梯山が浮かんできた。野口英世にあこがれたというより、野口英世を生んだ風土への関心が強かったのである。同じことは、信州の安曇野にも言える。言葉では説明できないが何故か惹かれる土地なのである。野口英世は、偉人としての伝記が広く読まれている。千円札は野口英世の肖像が使われて久しい。その知名度は高い。上野の東京国立博物館に行く途中、森の中にある博士の像の前を良く通る。
 青春十八切符の有効期限の最終日、九月十日の天気は、快晴に近かった。信越本線の群馬八幡駅を六時三十三分に経ち、高崎で高崎線に乗り換え。高崎弁当の限定の「朝粥」を口にできたのは幸運である。朝七時の販売で直ぐに売れきれると言う幻の弁当とも言われている。大宮で乗り換え、東北本線で宇都宮へ。快速電車でそれほど時間はかからない。これからが大変である。宇都宮駅の乗り換え、黒磯駅の乗り換えは、慌しい。帰りは、帰宅時間も考え、郡山から大宮までは新幹線を利用することにした。郡山から目的地の猪苗代駅は磐越西線の会津行きである。沿線の風景は、磐梯熱海を過ぎ、猪苗代湖方面には、収穫が近い稲田が広がっている。休耕地には、蕎麦が植えられ白い花が見事である。会津磐梯山の雄姿が眼に入る。山の形が変わるほど大爆発が、野口英世が十一歳の時にあった。そんな活火山には見えない宝の山である。宝の山には、三説あるとタクシーの運転手さんから聴いたが、麓に広がる美田を生んでいることがふさわしいと思った。爆発によってもたらされた鉄資源もまんざら嘘ではないが、磐梯山と猪苗代湖に挟まれた田園地帯は、かけがえがないと思った。
 猪苗代の駅は小さく、駅前も簡素で商店街はない。数台タクシーが停まっているが、青春十八切符の旅のため、タクシーの利用には抵抗がある。バス停を覗くと、十分後の野口英世記念館行きのバスがあった。帰りの時間もわかったが、見学時間を考え、猪苗代駅に帰る手段はタクシーにすることにした。経費削減が全てではない。おかげで、「会津磐梯山は宝の山よ」の意味を教えてもらえたのだから。運賃は、野口英世が二枚で足りた。磐梯山と田園が移る場所に車を停めてもらい、薄も入れて撮影することができた。
 記念館の横に、野口英世の生家が保存されている。幼児の時に大火傷をした囲炉裏もあった。今にも囲炉裏に向おうとする清作の人形があった。床柱には、「志を得ざれば、再び此地を踏まず」が刻まれている。そして、記念館には母シカの手紙があった。このあたりが、『偉人野口英世』の記憶である。母親のシカは英世にとっては、慈母であり、
終生心の支えだったことは、知られている。記念館に『野口博士とその母』という本があった。野口シカ伝と言ってよい。美談が散りばめられ過ぎている感があるが、「野口英世にこの母あり」である。この母にこの子ありと言い換えてもよい。
 野口シカは、嘉永六年の生まれとある。黒船来航の年である。生まれて直ぐに、両親は家から出て、祖母に育てられたと書いてある。父母恋しい、淋しい幼年期を過ごしたのである。しかし、シカは、近所の人々が感心するほどの賢く、健気で勤勉な子供であった。八歳から家の貧しさを凌ぐために奉公に出ている。もちろん学校には行けず無学であった。後年、ひらがなを覚え、息子の帰国を嘆願した手紙は、名文として有名になった。
 二十歳の時、婿養子を迎え、野口英世を含み、三人の子供を生んだ。英世の姉が家を継いだが、貧農であった。野口英世の父親は、大酒のみで、仕事も好きではなかったと書いてあるだけで影が薄い。家の厄介者で、母親だけが野口英世を偉人たらしめたという書きぶりなのである。『野口シカ伝』だから仕方がないかもしれない。
 野口英世と言う人は、努力家で寸暇を惜しんで勉強したことにより、世界的な医学者になることができたのは事実である。明治から昭和にかけこうした人物が、子供たちの手本になる生き方として、教科書にも取り上げられた。戦後になっても、人類に貢献した野口英世の実績は変わらない。教科書で子供たちに知らされていない、野口英世の人間模様が、もう四半世紀前にもなるが、映画化された。「遠き落日」である。人から借りたお金を浪費する、堕落してもおかしくない野口英世が描かれている。まるで、父親譲りの性癖もあったのである。
 資料館に展示されていたが、野口英世の趣味は多く、将棋や囲碁には熱中したようだ。海外に長くいたのでチェスもできたらしい。浪花節も趣味だったと言うから驚く。油絵は画家に学び、素人離れしている。信仰心が強く、ひたすら息子の出世を願い、体にむちを打って家計を支えた母の血ではない。父親は、酒飲みではあったが、人の良い憎めない人物だったらしい。野口英世には、渡航する前に婚約した女性がいた。目的が渡航するための資金を工面するためだというから偉人らしくない。しかも、相手から婚約を破断するのを待ち、お金も返さなかったらしい。そのような面もあったが、つぎのような言葉は、この旅で彼に学んだことである。
「過去は変えることも出来ないし、変えようとも思わない。人生で変える事ができるのは、自分と未来だけだ」
「人の人生の幸せも、災いも自分が作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである」
後者には、説明が要る。野口英世の才能を愛し、援助した人物はかけがえのない人間である。小林栄、血脇守之助といった人物である。人類の幸福のために研究したことが美しいのである。
  

Posted by okina-ogi at 17:44Comments(0)旅行記

2017年09月09日

青春18切符の活用


夏に発行された青春18切符を活用して宇都宮に行った。市内散策と名物餃子を食べる日帰り小旅行である。朝高崎を経ち、両毛線で小山に行き、乗り換えて宇都宮で下車。帰りは、大宮で乗り換え高崎に夕方着く。通常の乗車券だと5000円近くになる。綴りにはなっていないが1回分が2370円だから半額で旅行が出来たことになる。お得である。ところが、一人欠席者が出て、1回分が残ってしまった。身内や友達にプレゼントしても良いと思ったが、有効期間も迫っていて使ってもらえない。自分で使うしかあるまいと考え考えたのが以下のコースと青春切符の活用法である。ルール違反にはならない。
往路は、高崎7:04―8:19大宮8:27-9:29宇都宮9:32-10:22黒磯10:27―11:30郡山11:39-12:25猪苗代
野口英世記念館と生家を訪ねます。目的地に3時間滞在。温泉も含めます。
そう考えて、帰路は、猪苗代14:42-15:01磐梯熱海16:02―16:19郡山。ここまでが青春18切符。
郡山で大宮までの東北新幹線の自由席特急券と乗車券と家族のお土産を買います。
郡山17:30-18:22大宮
ここで在来線に乗り換え青春18切符が使えます大宮18:47-19:59高崎。
高崎で下車しても24時までは使えるので、切符は記念品になります。
自宅に戻る最終バス20:30に間に合います。
旅行日は、明日9月10日日曜日。有効期間の最終日。若い時なら全区間青春18切符だが、無理はしません。鉄道の実質費用は、8310円也。
  

Posted by okina-ogi at 15:17Comments(0)日常・雑感

2017年09月07日

映画「関ヶ原」鑑賞



天下分け目の戦い。西軍は石田三成。東軍は徳川家康。勝利したのは徳川家康だった。原作は司馬遼太郎の小説である。その文章の一部がナレーションで流れていた。関ヶ原は、新幹線で通り過ぎることが多いが、在来線で現地に行ったことがある。資料館があって、その戦いの様子をパノラマで解説していた。両軍の布陣した位置が示されているが、この地図を見た日本陸軍の指導に当たったメッケルは、西軍の勝ちと断定したほど攻めるのに有利な場所に布陣している。資料館から少し歩くと、笹尾山の石田三成の陣地に旗がたなびいていたのを覚えている。この戦いで敗れた西軍で必死に戦ったのは、石田三成はもちろん、大谷吉継、宇喜多秀家、小西行長であった。あらためて人物を知ることができたが、宇喜多秀家のように逃亡し、80歳以上の人生を生きたケースがあったのには、驚いた。石田三成も逃亡したが捕縛され斬首されている。島左近も石田三成の配下で勇猛に戦ったが戦死している。その軍が取り囲まれ、槍で刺されて殺されていく場面は、悲惨というより残酷すぎる。ワーテルローの映画でフランス軍が包囲され次々に銃殺される場面を思い出した、救護場でも容赦なく殺戮があったし、苦悶して倒れている兵士も止めを刺されて行く光景も辛い。政権を得るためにこうした戦争による殺戮があった時代について考えさせられた。
  

Posted by okina-ogi at 17:23Comments(0)日常・雑感

2017年08月31日

『定年後』 楠本新著 中央公論



フェースブックの友人の紹介本である。こうしたタイトルの本は、人それぞれの人生観があってあまり関心がないのだが、さらっと読んでみることにした。帯に、大事なのは、健康?お金?孤独です。と書いてあったのが気になって購入することになった。孤独感は、大事な問題である。前向きに生きられなくなったらつまらない。お金があっても。
退職鬱ということはある。経済も、人間関係も組織に依存していたのだから、その環境から急に外れれば、精神的に落ち込むことは十分考えられる。定年と言う制度はわかっていても、無意識に気がめいってくることはあるのである。理性的には割り切れない世界である。定年後の生き方は、この本が強調しているように、前から準備しておくことだというのは、共感する。俳句に「去年今年貫く棒の如きもの」(高浜虚子)というのがある。定年前も定年後も節目を意識しないほうが良い。要は「宮仕え」を辞めるのである。自分のペースで生きられるのだということである。社会的動物ではありますが。
  

Posted by okina-ogi at 14:59Comments(0)書評