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2017年11月24日

将棋「竜王戦第4局」

竜王戦と言えば、将棋のタイトル戦では、名人戦に匹敵する。伝統的権威は、名人戦だが、賞金額は名人戦を上回る。対局は、新潟県の温泉旅館で行われ、インターネットで生放送として見ることができる。結果は、挑戦者の羽生善治が勝ち、3勝1敗とし、第5局に勝てば竜王のタイトルを獲得し、永世竜王の称号を得ることになるという。
大山康晴という昭和の大名人がいたが、タイトル獲得数では、羽生善治は上回っている。しかも50歳に達していない。ただ、大山は、70近くまで、名人に挑戦できるA級のクラスにいた。癌に蝕まれながら対局を続けていた。棋士道ともいうが、礼儀正しい竜王渡辺明の立ち振る舞いも見事だ。2日間をかけての対局は、驚くべき頭脳戦だということもわかる。
  

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2017年11月22日

心に浮かぶ歌・句・そして詩179

瞬間
瞬間が全部であり
瞬間が永遠である
瞬間が初めであり
瞬間が終わりである
一切を
ただこの瞬間に集中する
刻々の完成が
永遠の完成である
今の今なる自己の完成が
永遠の自己の完成である

後藤静香『天よりの声』より
将棋のように次の一手に集中することは、時間をかけたとしても瞬間そのものである。相手が、どのように対応するかを考えることも瞬間の延長である。必ず決断の時が来る。将棋に待ったはない。相手に指し手がまわり、新たな瞬間が始まる。過去の決断は、変えられないし、現在の局面が全てである。「着手小局、着眼大局」という言葉がある。

  

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2017年11月21日

『宮沢賢治』 佐藤隆房著 富山房

宮沢賢治の伝記だが、初版は昭和17年である。宮沢賢治が亡くなったのは、昭和8年なので、草野心平らの評価、尽力により世に知られるようになった頃なので、この本が元になり、後の宮沢賢治の人物像が固定し、また賢治論が深まれていったと思われる。37歳という短い人生であったが、深さがあり、4次元的という広がりがある。
40年近い宮仕え(老人福祉)を終え、農民になる時、宮沢賢治に学ぶことが多いに違いない。農学の基礎はないが、大地の恵みに感謝できる感性は、兼業であったために継続して残っていると思う。童話は書きたいが、紀行を基軸としたエッセイは、かけるかもしれない。
  

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2017年11月20日

心に浮かぶ歌・句・そして詩178

今日
今日は過去の結論である
現実に生きていない過去は
無にひとしい
今日は未来の準備である
未来に伸びえない今日は
徒労である
今日の誉れが明日に及ぶように
今日のあやまちが明日に残ってゆく
今日の一切が不滅である
現実の今日に生きることは
「永久の今日」に生きることである
後藤静香『天よりの声』より
最近は、天気も良く日の出がある。また今日が始まるという感じがする。お日様に手を合わせたくなる心境にもなる。
  

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2017年11月19日

心に浮かぶ歌・句・そして詩177

後藤静香著 『天よりの声』より
集中
人生の価値は内容にあり
内容の充実の秘訣は各瞬間の集中である
集中には六つの条件がいる
集中しうる健康
集中しうる習慣
集中しうる順序
集中しうる方法
価値の認識
それに対する信仰
集中の鍵をにぎった者のみが
永遠の人生に勝利をしめる
過去を遮断して、将来に展望を持たない限り、心の迷いは深まるばかりで、集中力が生まれない。瞬間の積み重ねが人生なのだから、考えながら行動するのは、哲学者だけでよい。カントの行動範囲は狭かったらしい
  

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2017年11月06日

禁煙100日目の発見

 3か月以上もすれば、禁煙できたというものだと思うが、お酒を飲んで気分が良かったのか、傍にいた娘の煙草を吸ってみたくなり、手にしたところ「やめなさいよ」と大きな声で、ライターを隠されとめられた。自分も喫煙者だし、娘の喫煙をとがめたことはなく、たまには吸ってみたくなる気持ちもないわけではないが、車の中の受動喫煙の時も吸わないですんでいた。煙草を持ったまま、火がつけられないので、娘の言うとおりに匂いをかいだだけにした。その後、つかんでいた煙草をもんでダメにし、吸ったことにした。
その瞬間思い出したのは40年前、ご自宅でお会いし、1時間もお話をしてくださった、世界的数学者岡潔先生のことである。お話の内容はほとんど忘れたが、正面に居られたので、煙草(ハイライト)を手にされたが、もみほぐすばかりで吸われない。強烈な情景だったので、今でもはっきり覚えている。不思議だなあと思っていた。なぜだろうかなどと考え続けていたわけではないが、私の結論は、聞き手に迷惑になると思っておられたのだろうと思う。「自分を後にして他人を先にせよ」というのが岡潔先生の一つの教えである。娘が引き留めてくれなかったら、禁煙は続いていなかったかもしれない。先のことは、わからないが、当分禁煙は続きそうである。感謝したい。でもあなたもやめなさいよと言いたい。親心である。それでもやめることは当然、彼女の意思である。
  

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2017年10月28日

『一葉舟』岡潔著 角川ソフィア文庫

「閑雲野鶴空濶く 風に嘯く身はひとり
月を湖上に砕きては ゆくへ波間の舟ひと葉
ゆふべ暮鐘に誘はれて 問ふは山寺の松の風」
土井晩翠の『天地有情』の「星落秋風五丈原」の一節である。舟ひと葉を引用して『一葉舟』として本のタイトルにした。その気分は、いかに。
一方、旧約聖書の「創世記」にノアの方舟の話が出てくる。このイメージの違いはなんであろうかと考えてしまった。

  

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2017年10月26日

『鴎外の坂』 森まゆみ 中公文庫 895円+税



久しぶりに谷中から千駄木、本郷あたりを散策した。東京は、坂が多いと聞いていたが実感できた。特に森鴎外の自邸観潮楼のあった団子坂は舗装されているが、急坂だということがわかる。観潮楼は、燃えてないが、その跡地にモダンな文京区立の森鴎外記念館が建っている。うっかりすると通り過ぎてしまう記念館らしからぬ外観をしている。
作家の森まゆみの本は、一冊読んでいる。大正3美人の一人とされる、林きむ子を紹介した本である。森鴎外の住んでいた近くに生まれ、この界隈の土地に愛着を持った作品が多いことを知った。鴎外について書かれているが、津和野から明治の初めに家族と東京に出てきたのは、墨田区で鴎外の家が御殿医だったために、藩主の亀井邸に移り住んだのだという。江戸時代からの老舗、長命寺桜餅が近くにある。その後、町医として千住に父親が開業し、その後千駄木の借家に住む。後に夏目漱石も住んだ家で、今日、明治村に保存されている。鴎外を通して明治の東京が浮かんでくるような本になっている。

  

Posted by okina-ogi at 16:46Comments(0)書評

2017年10月24日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)10 完結

次の経験談は、建物の建築ではない。県道に横断歩道橋を架ける計画があったが、構想してから二十年後に実現した。横断歩道橋の設置は、県道ならば県が設置する。民間団体が私有地の間に橋を架けるとなるとなかなか許可が下りない。ゴルフ場や一部企業の横断歩道橋があったが、やむをえない理由があるからだ。
 高齢者の安全のためというのが一番の理由だが、なだらかなスロープで車椅子で横断できる橋なので、道からの高さが問題になる。行政が設置する橋は、4.5メートルだが、民間が設置する橋は、5.3メートルという決まりがある。その基準は、昭和三十七年に決められたものだという。そのために、橋のスロープは長くなり予算も多くかかってしまった。補助金は、共同募金会を通じ、中央競馬会が出してくれた。ちなみにこの橋は、横断歩道橋とはいわず、上空占用物という名称になっている。

第二次の特別養護老人ホームの移転建築も数年後に行われたが、併設の法人本部の事務機能を持つ施設は、設計図だけが引かれただけで実現できなかった。資金が足りなかっただけでなく、文化会館的要素もあり、行政とは違い、運営の継続に困難が伴うことが予想されるからである。そのため、事務の法人本部棟は、未整備のままになっている。前述したように、昭和四十四年の建物に増築はしたが、老朽化と手狭になって、収納する場所も不十分である。ここに元事務長の田原さん言葉が浮かぶのである。
「本社ビルは、富を生み出す工場ではない。一番最後になるものだ」
そろそろ整備する時代になったかも知れないのである。
  

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2017年10月23日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)9

土地の購入と整備もすんなりいかなかった。用地買収ができたと思ったら、有料施設の建築計画が持ち上がり、税金の特別免除がなくなり、しかも開発行為の手続きが発生し、事務手続きの変更、追加用地買収の必要が発生、しかも補助事業がらみで期限が限られたことは交渉ごとだけに困難を極めた。施設への進入路の確保、一般道路の自費負担による拡張、近隣住民への補償問題、設計変更による用地の借り入れと取得。
 用地の取得の中で、国有地の購入はなんとも違和感があった。特別養護老人ホームの用地として購入した土地に隣接して町道があった。しかも途中で切れている。以前、宅地になっていて家があった名残であり、購入する必要が生じた。公の土地の上には建物が建てられないからである。河川があったところも公の土地で、青線と呼ばれている。道路は赤線である。この土地の購入は、手続きが簡単ではない。先ず、最初に管理している自治体の承認が必要である。購入先は、財務局である。前橋にあった。法人印と現金を持って手続きをしたのを覚えている。このような場合、「買い上げる」という。民間が買う場合は、「払い下げる」というのである。
補助金の申請書の作成も複雑だった。有料部分と特別養護老人ホームの共有部分である食堂の費用按分などは、行政側との折衝でもなかなか見解が出なかった。さらに建物の登記となると了解がなかなかでなかった。今から考えても根拠に無理があると思えるところがある。
 この施設建築の二年間は、定時に帰宅などはできなかった。午前様も週に何度あったか知れないが、もう遠い過去の記憶になっている。建築補助の申請書の提出は期限が決まっている。建物の完成の暁には、事務方の同志と杯を交わしたいと思った。この時、結核保養所の創設者は九十歳の高齢であったが、影に陽に励ましてくれた。自分の経験も交え話してくれたことは大いなる支えになったが、この保養所の歴史は、住まいの建築だと思った。「僕の人生は乞食のようなものだった」という一言には、なるほどそうだといやに共感するところがあった。純粋に結核患者、高齢者のその時代の目いっぱいに快適住環境を提供してきた歴史がある。
 
  

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2017年10月21日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)8

次は、自身の体験も含んでいる。まさに、建設の歴史であった。昭和から平成にかけて、老朽化する施設群の移転新築が実施されることになる。先ずは、昭和三十七年に開設された軽費老人ホームの移転である。用地買収、建築、旧施設の解体撤去が行われた。完成が昭和六十一年。総工費四億八千万円。有料ホームの増築。完成が昭和六十一年。総工費五億六千万円。養護老人ホーム、特別養護老人ホームの一部移転、有料介護施設の新築。総工費十三億五百万円。昭和六十三年完成。と数年間で多額の資金が投入された。
 そして平成九年特別養護老人ホームの一部、有料老人ホームを合築した施設が完成。総工費二十三億五千万円。まさに建設ラッシュである。よく整備できたものである。この二十三億を超える一大事業には、さまざまな難関があった。国庫補助、県費補助あるといっても実質的には半分である。先ず特別養護老人ホームの分の自己資金を作らなければならない。近隣市町村に補助申請を求めたが、ルールがあるわけではない。議会などにも陳情して何とか一億数千万円の補助を得た。一般募金、寄付が一億円近くあったのも天の恵みというしかない。残りは借り入れることにした。老朽改築のため一億六千万円の無利子融資を受けることができた。有料老人ホームについては、全て借り入れであり、市中銀行からも借りざるを得なくなった。利子の返済が大変である。二十年経った今日に至っても返済できていない。社会福祉施設整備の借入金には、利子の補助もある。県の担当者が、有料施設の借入金に誤って利子補給をした。このお金は貰うお金ではない。連絡して返還した。税金をもらっての事業である、ルール違反は出来ないし、誤りだと分かれば相手に知らせるのは当然である。
  

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2017年10月20日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)7

この特別養護老人ホームは、平成十六年の移転新築によって一部建物を残し解体されている。建設当時の建物を年代順に列挙してみることにする。( )は補助金。
榛名○○園新設(20.120千円)日本自転車振興会、解体
榛名○○園管理サービス棟増築(11.560千円)日本自転車振興会、解体
榛名○○園収容棟・事務本館(17.568千円)県費補助金、事務本館だけ現存
榛名○○園付属職員宿舎新設(4.120千円)日本自転車振興会、解体
榛名○○園浴室増築(420千円)解体
榛名○○園友愛棟増築(50.350千円)日本小型自動車振興会、解体
榛名○○園友愛棟増築(6.600千円)県費補助金、解体
榛名○○園コミュニティーホール増築(7.450千円)日本小型自動車振興会、解体
榛名○○園職員宿舎増築(6.684千円)県費補助金、現存
榛名○○園訓練棟増築(24.610千円)日本小型自動車振興会、現存
榛名○○園デイルーム増改築(695千円)共同募金会、解体
榛名○○園清泉棟増築(122,691千円)県費補助金、現存
これは、建築関係の補助金や助成金を列挙しただけだが、設備関係や、機械の購入などの補助金もあった。よくも、交渉、申請をまめにして実現したことかと驚かされるのである。自己資金も必要だが、施設の運営費は公費(措置費)のため、引き当てられるお金は限られている。寄付金、いわゆる民間の浄財を募ったのである。この法人には、外野席応援団と言う後援会があり、法人の創立から今日まで十億円以上の寄付金を集めている。
  

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2017年10月20日

上野界隈散策(2017年10月)

 日暮里駅の近く、谷中墓地に隣接するような場所に、彫刻家朝倉文夫の旧宅がある。数年前に保存修理が行われ一般に公開されている。昭和初期に増築が重ねられ完成した建物で、アトリエは鉄筋コンクリートの建物になっている。国の指定名勝になっており、国の登録有形文化財でもあり、台東区が「朝倉彫塑館」として管理している。入館して驚いたのは、建物や庭の隅々に朝倉文夫の芸術的空間が広がってことである。池のある中庭といい、それを取り巻く居室は和風建築であり、日本文化の伝統も流れ、アトリエや書斎は西洋風でそれが、違和感無く調和している。アトリエの上も和風建築になっていて、屋上は緑化のために、庭園と菜園になっている。都会の先駆的発想になっている。入館して、靴を入れる袋を渡された意味が了解できた。
 朝倉文夫の代表作に「墓守」があるが、「大隈重信像」とともにアトリエに展示されていた。角界の著名人の像を多く製作したことでも知られている。滝廉太郎像は、同郷竹田の縁であろう。鹿児島に旅行した折、照国神社を訪ねたが、立派な礎石の上にあった島津斉彬像も朝倉の作品である。鳩山和夫夫妻の像も良く知られている。意外だったのは、晩年まで猫の彫刻に情熱を注いだということである。猫百態を目指したが、彼の死によって達成できなかった。家に猫を飼い、観察もしたが写真を撮って製作したという。
 

朝倉彫塑館を出て、団子坂の坂上にある森鴎外記念館を訪ねることにした。それほど遠い距離ではないが、上野近辺は坂道が多い。上野だけではなく、東京そのものが坂の多い都市なのだという。歩いてみるとそのことが良くわかる。三菱財閥の岩崎邸のあたりは、無縁坂がある。暗闇坂という坂まであるらしい。森鴎外邸は既に火災や戦災で焼失しており、面影を残すのは銀杏の木くらいである。森鴎外邸は、観潮楼と呼ばれ、2階建てで東京湾も見ることができたらしい。アララギ派の歌人や、石川啄木、与謝野鉄幹夫妻もこの家に会している。今は、近代的なコンクリート造りの記念館になっている。「慶応三年生まれの文人たち」という企画展で、鴎外ゆかりの文人が紹介されていた。夏目漱石、正岡子規、幸田露伴、尾崎紅葉といった作家たちである。「めさし草」という雑誌を鴎外が発行し、そこには、樋口一葉も寄稿していた。陸軍の要職も勤め、一方文壇にも影響力を持った鴎外の能力は群を抜いている。明治の生まれであるが、永井荷風も紹介されていた。東京散歩に、『断腸亭日乗』を携帯したのも、鴎外の記念館を訪ねることと無関係ではない。荷風は鴎外を尊敬していたし、影響も受けた。
 鴎外邸のあったところは、千駄木で文京区になる。森鴎外記念館は、文京区立である。文豪漱石もこのあたりに住んでいたはずである。漱石が教鞭に立った第一高等学校は、東大農学部の場所にあった。歩いて通える距離である。そう思って、標識や観光地図を探していると、観潮楼跡と書かれた近くにあった。日本医科大学の近くである。たどり着いてみると、跡地の解説と、猫の像があるだけである。ここで『我輩は猫である』を書いたのか、あらすじなどを思い出してみるが、百年も経った景観に何の感慨も浮かんでこない。カメラに収め、足早に立ち去る。朝倉彫塑館といい、漱石居住跡といい、猫にご縁があった。
 

根津神社に立ち寄る。都会の緑の空間は貴重である。境内に入ると都会の喧騒と無縁である。木々の合間にビルが見えるが、許容の範囲である。東京十社の一つで、歴史も古い。徳川綱吉との関わりが書いてあったが、徳川家の保護があったということである。春になれば、つつじが咲き、多くの人が訪れる。森鴎外も夏目漱石も鑑賞したであろう。
 今夕七時に鹿児島からの友人と会うことになっている。友人と言っても十歳以上年上である。大学の同窓会が明日あり、その前日にお会いしましょうという声かけがあった。「オフ会」というのだが、いわゆるフエースブックの友達の会である。主催者である鹿児島の友人を含め、四人の会食会である。二人は、当方にとっては初対面と言うことになる。鹿児島の友人の母校は東京大学である。キャンパスに入ったことは一度も無い。友人に敬意を表し、立ち寄ってみることにした。実に広い。緑も豊かである。安田講堂を初め、校舎の外観は古めかしい。それがかえって重厚感と伝統を感じさせる。関東大震災や、東京大空襲から被害に遭わなかった建物が多かった。この日も、古い校舎の修復工事が行われていた。加賀藩ゆかりの赤門も見た。高校生の観光客らしき団体がいた。この生徒の中に、入学生が生まれるかもしれないが、当方は試験で入ることはない。今回が、最初で最後になる可能性が大である。残念だったのは、安田講堂の中にある小杉未醒の壁画が見られなかったことである。二人のガードマンが入場する者を監視していたのである。


 本郷三丁目の交差点を左折し、夕食会場に向かう。湯島天神の鳥居を過ぎ、山手線が眼に入る。御徒町駅前にある吉池食堂に着く。鮮魚を扱った店で、東京に出ると良く立ち寄る店である。しかもアメ横も近い。定刻より早くついたので、アメ横での買い物もできた。
  

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2017年10月19日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)6

順序が逆になるが、昭和四十四年開設の特別養護老人ホームは、群馬県の第一号施設であり、この社会福祉法人で最初の鉄筋の建物である。法人本部の建物も同時に建てられている。建設の苦労話は、亡くなった理事長から聞いている。普通は、県を窓口として補助金が決まるが、オートレースや競輪からの補助もある。正式な名称は、日本小型自動車振興会、日本自転車振興会という。競艇は、日本船舶振興会という。競馬は、中央競馬会であるが、建築物の補助金は出していない。公的ギャンブルの益金だが、お金に色はついていない。同じギャンブルでも、パチンコの益金は、今も福祉関係に流れてこない。この特別養護老人ホームの補助金は、日本自転車振興会の補助金と国庫補助金を二年度に分けてもらっている。老人の居室棟は、平屋建てで一棟が十二人という仕切りのない相部屋であったが、中庭があってなかなかモダンな設計であった。廊下が管理棟を挟んで長く延びていた。天井は低く、配管がむき出しで、船室のようだと思ったが、廊下の一部が坂になっていたのには驚かされた。理由があって、坂の上と下の居室棟は、補助の出所が異なっていたためで、あえてそうしたのだと聴いた。老人の施設は、フラットのほうが良いというのは自明なのだが。将来的に、建物が老朽化したときは、その修繕費は、補助金を出したところが行う。オートレースと競輪は、共同で修繕の補助をする組織を持っている。車両競技記念財団といったと思うが、申請の窓口で県に相談に行ったりして、ピンポン球のような経験をしたことを覚えている。今、この補助金で建てられた建物で残っているのは、本部事務所の建物だけになっている。  

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2017年10月17日

大河ドラマ『翔ぶが如く』

原作は、司馬遼太郎。NHKの大河ドラマで放送されて久しい。番組全てがDVDに収録されているので見ることにした。さすがに、全巻はきついので、維新前は一部省いて鑑賞。鳥羽伏見の戦いからは、通しで見た。
10月18日に、鹿児島の友人が東京に出てくると言うので、少し鹿児島の歴史を調べてみようと言う気になった。しかも、来年は、西郷隆盛が主人公になって、大河ドラマが放送されることになっている。「西郷(せご)どん」を理解するのに、このドラマは適任だと思う。鹿児島弁で字幕説明まである。役者も良い。
この時代、日本の激動期だっただけに、政治家は命がけである。鹿児島の二人の巨人、西郷と大久保は共に非業の死を遂げるが、私欲がない。西郷に至っては、入水自殺失敗後、島流しになったりして、生命の危機があった。彼を生かしたのが「敬天愛人」という言葉である。こんな、人生まれである。「天に生かされる」凄すぎる。
  

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2017年10月14日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)5

当時の募金趣意書が残っていた。原案は、田原さんが書いた。一部、理事長が加筆している。
 (軽費老人ホームB型設立趣旨書)
 「ついこの間まで人生五十年と言われていたものが、今や七十五歳となり、殆どの方が老人になるまで生きられる時代になりました。これはまことに喜ばしいことですが、言い換えれば二十五歳から働き始めて五十五歳の停年まで三十年間働いた後、この三分の二の長さのある二十年間という長い老年期があることになるのです。この期間を如何にすごしてゆくかということは人生の重大問題と言えないでしょうか。この期間は『子供が面倒見てくれるから』という漠然とした考えは、身体の自由がきかなくなった時、家族から見放されてしまうという結果になりかねない。これは、私達が永年お年寄りの世話をしてきた結果得た多くの実情なのです。
(中略)
(軽費老人ホームB型に生活すら方々が)健康で生きがいのある生活をして一日でも長生きをして頂くための付帯施設として諸設備を完備した福祉サービスセンターを同時に計画したわけであります。『終わりよければ全てよし』人生の幸・不幸は老年期にあると言っても良いでしょう。
(以下略)」
として、募金を呼びかけているのである。
さらに話は、現在の有料施設に及ぶ。
「この健康型の有料老人ホームの入居者が、さらに一時金を負担しなくて入れる介護施設があると良い。介護保険の負担金も含め、十五万円程度の月額負担で入れる有料施設があればね」
という話題になった。
「あなたが希望すれば最後までお世話します」
という法人の理念に沿っていないというのである。
  

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2017年10月14日

『白秋愛唱歌集』藤田圭雄編 岩波文庫



北原白秋の詩は、曲となり、多くの人々に親しまれている。童謡もあり、歌謡曲もあり、歌曲もあり幅広い。好きな曲が多い。拙ブログの「心に浮かぶ歌」にも紹介している。重複するが、あらためて取り上げてみる。歌と作曲者を紹介する。
「空に真赤な」(陸軍抜刀隊の歌)陸軍軍楽隊
「曼珠沙華」山田耕筰
「城ヶ島の雨」梁田貞
「さすらいの唄」中山晋平
「芭蕉」小松耕輔
「ちゃっきり節」町田嘉章
「帰去来」信時潔
「ちんちん千鳥」近衛秀麿
「揺籠のうた」草川信
「砂山」山田耕筰「砂山」中山晋平
「すかんぽの咲く頃」山田耕筰
「秋の野」団伊玖麿
  

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2017年10月13日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)4

「僕は、この保養所の患者だったんです。一年近く療養したかな。その施設が白雲寮(昭和二十五年完成)だったと思います」
田原さんは、療養の後、少し保養所のお手伝いをして、郷里に帰り、再就職を考えていたが、保養所の経理の仕事を頼まれ、正式に従業員になった。患者から職員にというケースが多かった。そこからは、家族的な親密な人間関係が生まれる。
 田原さんは、二十年程財団法人となって医療施設として発展していくこの組織の事務に係り、創設者である理事長の経営を支えた。昭和五十年には、創立から二十年近くになった社会福祉法人の総合事務所の事務長に就任した。社会福祉法人の理事長は、財団法人の理事長が兼務したが、結核撲滅の使命を終え、老人問題に情熱を傾けていた。新任事務長に、大きな事業が待ち構えていた。
 軽費老人ホームと有料老人ホーム、食堂を兼ねた高齢者の健康研修センターの建設である。この施設群は、利用料の補助はない有料の老人施設の先駆けである。最初に構想されたのは、年金で入居できる施設で、ウィーンで視察した施設がヒントになった。軽費B型で建設の補助があった。ところが、オイルショックと呼ばれた時代、建築資材も急騰し、建築の予算が組めなくなった。この時、どのような判断に迫られたのかを田原さんに聞いてみた。
 「東京に出て、諸事情でこの事業を断念することの説明会を開催した。資金の不足が明らかだったから。でも、説明会に集まった人たちから中止しないでほしいという声が強く、募金して資金を責任を持って集めるからという声に押され建設が始まった」
「自己資金として募金が集まったのですか」
「いや集まらなかったのです」
「建設会社に支払いはできたのですか」
「大阪の会社で、関東に進出すると言う理由で、安く工事を引き受けてくれたり、工事費の支払いも猶予してくれたのです。そうした幸運が無ければ実現していません」
軽費老人ホームに続き、有料老人ホームの建築は、予約希望者が待機しており予定通り建設できた。さらに、食堂部分として高年者開発センターを船舶振興会の補助で落成することができたのである。健康で介護が必要ではない施設群が誕生した。昭和五十一年のことである。
  

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2017年10月12日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)3

創立から三十年を経過したこの財団法人の航空写真が、「三十年史」の見開きの最初にある。この写真には、創立当時の一部建物は除き、ほとんどの建物が残っている。三十年間、あらゆる方面の資金を得て増改築をしてきた歴史が映し出されている。創立当時の敷地から県道安中榛名湖線を越えて、榛名山側に用地を拡大し、戦後立てられた病棟に加え、財団法人から枝分かれした社会福祉法人の高齢者施設も立ち並んでいる。県道の舗装の真新しさが印象的で、この先には、この財団の経営者の一人が、重度の障害者の施設を建設した。皇太子夫妻が、この施設を訪問されたのは舗装完成後であった。
 この航空写真よく観てみよう。県道の左側が結核保養所の発祥地であり、戦前から建てられた建物が残されている。しかし、財団法人の建物は、全て社会福祉法人に寄付され、養老施設(養護老人ホーム)の建物になっている。ただ、准看護学校の建物は、財団所有であり、報公館は、職員住宅になっている。
 県道の右側を見てみよう。宗教施設としての教会と、修道院の建物があるのが眼を引く。キリスト教の経営理念が基本にあることがわかる。昭和三十二年に設立された社会福祉法人の事業として、日本で第一号となった軽費老人ホームと昭和四十四年に建築された特別養護老人ホームの真新しい平屋の鉄筋の建物がある。隣接して、社会福祉法人の本部事務所がある。その北側に、保養所の直系の財団法人の病院群があるが、本院は木造の建物になっている。事務棟に隣接してバルナバ寮(昭和二十六年完成)があり、榛名山に向かって廊下が延び、聖母寮(昭和二十七年完成)、フランシス寮(昭和三十一年完成)が繋がっている。そのさらに北側に二階建ての鉄筋のリハビリテーションの病棟(昭和四十二年完成)が見える。建物だけを見てみると、結核保養所から病院へと歩みを進めた財団法人は、老人福祉のための社会福祉法人に比重を移したように見える。
田原さんの思い出を追ってみよう。

  

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2017年10月10日

ある結核保養所の歩み(建築の歴史)2

この保養所は、昭和二十五年に財団法人として認められる。昭和十三年から財団認可の年までを旧約聖書の創世記としよう。保養所の建物の歴史である。緑野寮でたった一人の住宅棟から保養所は、スタートした。次に新生寮が落成。定員十二名になった。昭和十五年には、従業員宿舎、調理場、食堂として報公館が完成。さらに寄贈者による八坪の療養棟が完成。昭和十六年からは、太平洋戦争で増床計画は頓挫したが、高原寮の寄贈があった。
 戦後間もなく、政府は結核撲滅五か年計画を立てた。国の補助金を使い、増床することにした。補助金は、建築費の二分の一と決められていた。残りは、自己資金である。療養する患者さんの利用料から捻出するだけでは足りない。浄財も募ることになる。政府系金融機関からの借入れが必要になる。そのため、建築を自前で行うことにした。従業員の中に、建築士の資格を持つ者もおり、大工経験のある者もいた。そのため、ほとんど補助金以外の費用が必要なく完成した。これは、おかしいと会計検査院の指摘することになった。正直に事情を話し、自前の部分の経費を算出し、支出資料を提出したところ
「法律上は、五万円の返還金が必要」
と言われたが、結局は返還せずに済んだ。不正がなかったからである。
この、国の補助金を使い、建てられた木造の病棟は、南向きで病棟の間には、銀杏の木その他の落葉樹が植えられていた。小さい時に、病棟を見舞った記憶もある。高原のサナトリウムという感じがあり、白衣の看護師さんの清潔さを印象的に覚えている。外来棟で火傷の治療をしたこともあった。中学生だった気がする。

  

Posted by okina-ogi at 09:20Comments(0)日常・雑感