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2017年10月20日

上野界隈散策(2017年10月)

 日暮里駅の近く、谷中墓地に隣接するような場所に、彫刻家朝倉文夫の旧宅がある。数年前に保存修理が行われ一般に公開されている。昭和初期に増築が重ねられ完成した建物で、アトリエは鉄筋コンクリートの建物になっている。国の指定名勝になっており、国の登録有形文化財でもあり、台東区が「朝倉彫塑館」として管理している。入館して驚いたのは、建物や庭の隅々に朝倉文夫の芸術的空間が広がってことである。池のある中庭といい、それを取り巻く居室は和風建築であり、日本文化の伝統も流れ、アトリエや書斎は西洋風でそれが、違和感無く調和している。アトリエの上も和風建築になっていて、屋上は緑化のために、庭園と菜園になっている。都会の先駆的発想になっている。入館して、靴を入れる袋を渡された意味が了解できた。
 朝倉文夫の代表作に「墓守」があるが、「大隈重信像」とともにアトリエに展示されていた。角界の著名人の像を多く製作したことでも知られている。滝廉太郎像は、同郷竹田の縁であろう。鹿児島に旅行した折、照国神社を訪ねたが、立派な礎石の上にあった島津斉彬像も朝倉の作品である。鳩山和夫夫妻の像も良く知られている。意外だったのは、晩年まで猫の彫刻に情熱を注いだということである。猫百態を目指したが、彼の死によって達成できなかった。家に猫を飼い、観察もしたが写真を撮って製作したという。
 

朝倉彫塑館を出て、団子坂の坂上にある森鴎外記念館を訪ねることにした。それほど遠い距離ではないが、上野近辺は坂道が多い。上野だけではなく、東京そのものが坂の多い都市なのだという。歩いてみるとそのことが良くわかる。三菱財閥の岩崎邸のあたりは、無縁坂がある。暗闇坂という坂まであるらしい。森鴎外邸は既に火災や戦災で焼失しており、面影を残すのは銀杏の木くらいである。森鴎外邸は、観潮楼と呼ばれ、2階建てで東京湾も見ることができたらしい。アララギ派の歌人や、石川啄木、与謝野鉄幹夫妻もこの家に会している。今は、近代的なコンクリート造りの記念館になっている。「慶応三年生まれの文人たち」という企画展で、鴎外ゆかりの文人が紹介されていた。夏目漱石、正岡子規、幸田露伴、尾崎紅葉といった作家たちである。「めさし草」という雑誌を鴎外が発行し、そこには、樋口一葉も寄稿していた。陸軍の要職も勤め、一方文壇にも影響力を持った鴎外の能力は群を抜いている。明治の生まれであるが、永井荷風も紹介されていた。東京散歩に、『断腸亭日乗』を携帯したのも、鴎外の記念館を訪ねることと無関係ではない。荷風は鴎外を尊敬していたし、影響も受けた。
 鴎外邸のあったところは、千駄木で文京区になる。森鴎外記念館は、文京区立である。文豪漱石もこのあたりに住んでいたはずである。漱石が教鞭に立った第一高等学校は、東大農学部の場所にあった。歩いて通える距離である。そう思って、標識や観光地図を探していると、観潮楼跡と書かれた近くにあった。日本医科大学の近くである。たどり着いてみると、跡地の解説と、猫の像があるだけである。ここで『我輩は猫である』を書いたのか、あらすじなどを思い出してみるが、百年も経った景観に何の感慨も浮かんでこない。カメラに収め、足早に立ち去る。朝倉彫塑館といい、漱石居住跡といい、猫にご縁があった。
 

根津神社に立ち寄る。都会の緑の空間は貴重である。境内に入ると都会の喧騒と無縁である。木々の合間にビルが見えるが、許容の範囲である。東京十社の一つで、歴史も古い。徳川綱吉との関わりが書いてあったが、徳川家の保護があったということである。春になれば、つつじが咲き、多くの人が訪れる。森鴎外も夏目漱石も鑑賞したであろう。
 今夕七時に鹿児島からの友人と会うことになっている。友人と言っても十歳以上年上である。大学の同窓会が明日あり、その前日にお会いしましょうという声かけがあった。「オフ会」というのだが、いわゆるフエースブックの友達の会である。主催者である鹿児島の友人を含め、四人の会食会である。二人は、当方にとっては初対面と言うことになる。鹿児島の友人の母校は東京大学である。キャンパスに入ったことは一度も無い。友人に敬意を表し、立ち寄ってみることにした。実に広い。緑も豊かである。安田講堂を初め、校舎の外観は古めかしい。それがかえって重厚感と伝統を感じさせる。関東大震災や、東京大空襲から被害に遭わなかった建物が多かった。この日も、古い校舎の修復工事が行われていた。加賀藩ゆかりの赤門も見た。高校生の観光客らしき団体がいた。この生徒の中に、入学生が生まれるかもしれないが、当方は試験で入ることはない。今回が、最初で最後になる可能性が大である。残念だったのは、安田講堂の中にある小杉未醒の壁画が見られなかったことである。二人のガードマンが入場する者を監視していたのである。


 本郷三丁目の交差点を左折し、夕食会場に向かう。湯島天神の鳥居を過ぎ、山手線が眼に入る。御徒町駅前にある吉池食堂に着く。鮮魚を扱った店で、東京に出ると良く立ち寄る店である。しかもアメ横も近い。定刻より早くついたので、アメ横での買い物もできた。
  

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2017年09月12日

この母にこの子あり(2017年9月)

 いつかはとは思いつつ、野口英世の生家を訪ねることができた。青春十八切符が一回分残り、思案していると猪苗代の広々とした田園と磐梯山が浮かんできた。野口英世にあこがれたというより、野口英世を生んだ風土への関心が強かったのである。同じことは、信州の安曇野にも言える。言葉では説明できないが何故か惹かれる土地なのである。野口英世は、偉人としての伝記が広く読まれている。千円札は野口英世の肖像が使われて久しい。その知名度は高い。上野の東京国立博物館に行く途中、森の中にある博士の像の前を良く通る。
 青春十八切符の有効期限の最終日、九月十日の天気は、快晴に近かった。信越本線の群馬八幡駅を六時三十三分に経ち、高崎で高崎線に乗り換え。高崎弁当の限定の「朝粥」を口にできたのは幸運である。朝七時の販売で直ぐに売れきれると言う幻の弁当とも言われている。大宮で乗り換え、東北本線で宇都宮へ。快速電車でそれほど時間はかからない。これからが大変である。宇都宮駅の乗り換え、黒磯駅の乗り換えは、慌しい。帰りは、帰宅時間も考え、郡山から大宮までは新幹線を利用することにした。郡山から目的地の猪苗代駅は磐越西線の会津行きである。沿線の風景は、磐梯熱海を過ぎ、猪苗代湖方面には、収穫が近い稲田が広がっている。休耕地には、蕎麦が植えられ白い花が見事である。会津磐梯山の雄姿が眼に入る。山の形が変わるほど大爆発が、野口英世が十一歳の時にあった。そんな活火山には見えない宝の山である。宝の山には、三説あるとタクシーの運転手さんから聴いたが、麓に広がる美田を生んでいることがふさわしいと思った。爆発によってもたらされた鉄資源もまんざら嘘ではないが、磐梯山と猪苗代湖に挟まれた田園地帯は、かけがえがないと思った。
 猪苗代の駅は小さく、駅前も簡素で商店街はない。数台タクシーが停まっているが、青春十八切符の旅のため、タクシーの利用には抵抗がある。バス停を覗くと、十分後の野口英世記念館行きのバスがあった。帰りの時間もわかったが、見学時間を考え、猪苗代駅に帰る手段はタクシーにすることにした。経費削減が全てではない。おかげで、「会津磐梯山は宝の山よ」の意味を教えてもらえたのだから。運賃は、野口英世が二枚で足りた。磐梯山と田園が移る場所に車を停めてもらい、薄も入れて撮影することができた。
 記念館の横に、野口英世の生家が保存されている。幼児の時に大火傷をした囲炉裏もあった。今にも囲炉裏に向おうとする清作の人形があった。床柱には、「志を得ざれば、再び此地を踏まず」が刻まれている。そして、記念館には母シカの手紙があった。このあたりが、『偉人野口英世』の記憶である。母親のシカは英世にとっては、慈母であり、
終生心の支えだったことは、知られている。記念館に『野口博士とその母』という本があった。野口シカ伝と言ってよい。美談が散りばめられ過ぎている感があるが、「野口英世にこの母あり」である。この母にこの子ありと言い換えてもよい。
 野口シカは、嘉永六年の生まれとある。黒船来航の年である。生まれて直ぐに、両親は家から出て、祖母に育てられたと書いてある。父母恋しい、淋しい幼年期を過ごしたのである。しかし、シカは、近所の人々が感心するほどの賢く、健気で勤勉な子供であった。八歳から家の貧しさを凌ぐために奉公に出ている。もちろん学校には行けず無学であった。後年、ひらがなを覚え、息子の帰国を嘆願した手紙は、名文として有名になった。
 二十歳の時、婿養子を迎え、野口英世を含み、三人の子供を生んだ。英世の姉が家を継いだが、貧農であった。野口英世の父親は、大酒のみで、仕事も好きではなかったと書いてあるだけで影が薄い。家の厄介者で、母親だけが野口英世を偉人たらしめたという書きぶりなのである。『野口シカ伝』だから仕方がないかもしれない。
 野口英世と言う人は、努力家で寸暇を惜しんで勉強したことにより、世界的な医学者になることができたのは事実である。明治から昭和にかけこうした人物が、子供たちの手本になる生き方として、教科書にも取り上げられた。戦後になっても、人類に貢献した野口英世の実績は変わらない。教科書で子供たちに知らされていない、野口英世の人間模様が、もう四半世紀前にもなるが、映画化された。「遠き落日」である。人から借りたお金を浪費する、堕落してもおかしくない野口英世が描かれている。まるで、父親譲りの性癖もあったのである。
 資料館に展示されていたが、野口英世の趣味は多く、将棋や囲碁には熱中したようだ。海外に長くいたのでチェスもできたらしい。浪花節も趣味だったと言うから驚く。油絵は画家に学び、素人離れしている。信仰心が強く、ひたすら息子の出世を願い、体にむちを打って家計を支えた母の血ではない。父親は、酒飲みではあったが、人の良い憎めない人物だったらしい。野口英世には、渡航する前に婚約した女性がいた。目的が渡航するための資金を工面するためだというから偉人らしくない。しかも、相手から婚約を破断するのを待ち、お金も返さなかったらしい。そのような面もあったが、つぎのような言葉は、この旅で彼に学んだことである。
「過去は変えることも出来ないし、変えようとも思わない。人生で変える事ができるのは、自分と未来だけだ」
「人の人生の幸せも、災いも自分が作るもの、周りの人間も、周りの状況も、自分が作り出した影と知るべきである」
後者には、説明が要る。野口英世の才能を愛し、援助した人物はかけがえのない人間である。小林栄、血脇守之助といった人物である。人類の幸福のために研究したことが美しいのである。
  

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2017年08月26日

九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)

唐津からJR九州で平戸に向かう。宿泊はしないが、二日目の目的地である。長崎と平戸は、同県であるが共鳴する響きがある。キリスト教と南蛮貿易である。九州北岸を行くとしたタイトルは、福岡から唐津、伊万里、松浦、平戸への移動を意識している。最初の予定では、帰路も伊万里に戻り武雄温泉駅に行くコースになっていたのである。伊万里からたびら平戸口までは、JRではなく、松浦鉄道になっている。元々は、JRであったが、第三セクターの経営になっている。JRの民営化になって、不採算路線は、こうした形で残っているケースが多い。松浦鉄道は、佐世保と有田間を運行している。


途中通過した松浦は、漁業が盛んだが、古くは、松浦水軍が拠点を置いていた。平戸の藩主も松浦氏である。その系図は詳しくは知らない。
 たびら平戸口は、日本西端の駅である。小さな駅である。乗車券をワンマンカーの運転手に渡し、改札口を抜けると売店の前の長椅子に猫が寝ていた。この猫は帰りにも同じ場所から動かないでいた。平戸は島であって、平戸桟橋を路線バスで渡った。市街地までは橋を渡りそれほど遠くない。平戸で最初に訪ねたのは、フランシスコ・ザビエル記念聖堂である。寺院と教会の見える観光スポットがある。本当にこの坂からは、お寺と教会が重なって見える。ザビエルは、鹿児島に上陸し、山口や京都へ布教に行くが、平戸も三度訪ねている。藩主が、ポルトガルとの貿易に前向きだったことと無関係ではない。藩主松浦氏は、自らキリシタン大名には、ならなかったがキリスト教の布教は許した。多くの宣教師が伝道活動をして信者も全島に広がっていった。隠れキリシタンの歴史を経て、今も教会があり信者がいる。カソリック教徒が多い。
 

やがて、貿易の相手は、オランダに移っていく。近年になって、オランダ商館が復元され、建物が港の海べりに建っている。この白亜の洋館は、当時の平戸の人を驚かせたに違いない。島原の乱などがあり、キリスト教の布教に熱心なポルトガルは去り、オランダは、平戸を去り長崎の出島で貿易を許された。短い、平戸滞在であったが、オランダ通りという町並みで、ちゃんぽんをご馳走になった。イギリス人、ウイリアムアダムス(三浦按人)や吉田松陰ゆかりの地は訪ねられなかったが、松浦資料館で鄭成功が紹介されていた。近松の浄瑠璃にもなった国姓爺は、平戸の生まれである。たびら平戸口に戻り、佐世保経由で二日目の宿、武雄温泉を目指す。
 

武雄温泉に宿をとったのは、有田焼で知られる有田の町に近いからである。佐世保線の駅だが特急が停まる。ホテルにチェックインし、共同浴場に向かう。ここには、唐津出身の明治大正の建築家辰野金吾が設計した楼門がある。門をくぐると何種類からの共同浴場があって、元湯に入ることにした。入湯料は四百円だが、翌朝ホテルから三百円の優待券があることを知った。湯の温度は高いが、源泉の温度を下げ、入り分け出来るよう
に湯船が区切られている。二回目の朝風呂は、長湯ができた。


 日の出ともに早起きをして、再度元湯に入るために街を散策する。ホテルと元湯と正三角形の(?)一画の距離に武雄神社がある。歩いて十五分ほどである。神社を参拝するのが目的ではなく。神社の裏山に樹齢三千年の御神木がある。これは見るべき価値があると思ったのである。何せ紀元前からの樹木である。有史より古い生命体である。楠である。本殿の横の鳥居くぐり、よく整備された通路を行く。道の脇には紅葉が植わり、やがて竹林と杉林があり、その先に広々とした場所があって、ご神体は一部の幹は朽ちているが、朝日を浴びて聳えていた。木の近くまでは寄ることができない。神々しいとは、こういう雰囲気を言うのだと思った。神が宿っていても不思議ではない。ザビエル先生に感想を求めたら、無神論者と言われるに違いない。この旅の圧巻だったかもしれない。有田焼のことは、語るに及ばず、贅沢な客用皿として家に宅急便で送ることにした。もちろんお土産も含んでいる。元々陶器への趣味もない。生活用品として使えれば良いのである。有田は、秀吉の朝鮮出兵がらみの訪問である。
  

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2017年08月25日

九州北岸を行く(唐津編)

 六十五歳の誕生日を迎えるにあたり、小旅行を思い立った。八月六日から八月九日まで三泊四日の旅で、出発の日は広島、帰着の日は長崎の原爆の投下の日でもある。羽田、福岡の空港を往復する切符は、全日空のマイレージのポイントがたまり、無料で航空券が予約できたことも大きい。空と陸から慰霊をしたいと思ったからである。けれども、迷走台風が九州に接近し、その影響も考え、二週間後八月二十日に延期し、日程も一日短縮した。長崎の訪問は諦めることにした。慰霊の旅の見返りというわけではないが、長い間の喫煙の習慣を絶つことにした。旅から帰り、この紀行を書いている現在、禁煙は守られている。紀行に書くほどのことではない私事ではある。
 福岡市から列車で一時間あまりの距離に唐津市がある。県境を越え、佐賀県である。唐津市街地から烏賊料理で知られる呼子の港の近くに巨大な城跡が残っている。豊臣秀吉が晩年、ここに名護屋城を築き、朝鮮半島への侵攻の拠点とした。長い年月に風化したがその城の痕跡はしっかり残っている。近くの県立資料館の説明によれば、大坂城に次ぐ城郭の広さがある。天守閣があった場所からは、天気が良ければ対馬の島影も見ることができるという。
 

城跡には、大木が茂り蝉の鳴き声がしきりである。
太閤の 城跡とやら 蝉時雨
文禄・慶長の役という二度に渡る戦役は、秀吉の死によって終結した。朝鮮半島はもちろん、明の国を領土にしようとする野望は実現しなかった。このことが、豊臣政権の衰退滅亡を早めたとされる。名護屋城の周辺には、全国の有力大名が陣を置き、数年間ではあるがにわか城下町が出現したのである、多くの陣跡が発掘され確定されている。徳川家康も二か所に陣を置いているが、配下の兵士は海を渡っていない。
 この無謀ともいえる戦役は、多くの悲哀を生んだに違いない。明らかな侵略戦争である。四半世紀くらい前、慶州の近くにある仏国寺を訪ねたことがあった。案内してくれた韓国の人が、秀吉のことを責めていた。
 古寺に 悲話あり秋の 雨しとど
悲話の内容は忘れたが、恨みが五百年以上も国民の中に残ることを思い知らされて、心は暗くなった。この韓国人は女性であり、日本人青年に嫁ぐことになっていたからである。二人の仲人役として韓国に行った時の思い出である。
 話は飛ぶが、有田焼を創始したのは、朝鮮半島人である。有田にはこの人の碑があるという。李参平。文禄・慶長の役によって、多くの朝鮮人が日本に連れてこられたが、李参平のような優秀な陶工も含まれていた。伊万里焼は江戸期に海外に渡り、莫大な富を生むことになった。今も古伊万里といわれ貴重な価値がある。李参平は、有田の恩人であるが、今も子孫が窯を守っているらしい。旅の最後に訪ねることにしている。
 名護屋城址と唐津市街地の移動手段は、バスである。沢のような場所に稲田があるが驚いたことにもう収穫されている田もあった。友人が同行するわけだったが、こちらの日程の変更でかなわず、そのかわり割烹料理の店を予約してくれた。その店の名前は「天山」である。名前の由来は、唐津の地酒である。暑い地方の日本酒は、発酵が早まるためか製造に限界があるようだ。ホテルのチェックインを済ませ店に直行。店はホテルの隣にあった。
 予約した時間、店には客がいない。最後まで、たった一人の客となった。旅先でこんな経験は始めてである。カウンターに座り、店の主人と会話してみるが、多弁ではないが、短い言葉の中に含蓄のある内容に只者ではない雰囲気を感じた。老夫婦で店を開いている。生粋の佐賀人である。


 「佐賀モンの歩いた後に草が残らない」
しばらく聞かないでいた言葉である。佐賀の人の勤勉さを行っているのである。佐賀の乱の話になった。
 「こちらでは(乱)とは言わない。(役)というんです」江藤新平は、偉人であり。佐賀の乱は、義挙なのである。
話が進むうちに、ご主人は料理人だけではなく、多趣味な人だということがわかった。
カウンターの上に飾ってあった版画は、ご主人の作品であり、「唐津くんち」を描いている。食器やぐい飲みなどの唐津焼も自作である。無口なご主人の変わりに奥さんが教えてくれた。
「唐津くんち」は、秋祭りである。さまざまな曳山が街を練り歩くのだという。版画はその模様を教えている。話が弾み、地酒「天山」をしこたま飲んだ。二人予約にならなかった返礼のつもりもある。
  

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2017年04月04日

春めくや人様々の伊勢参り(2017年4月)

 四月一日(土)、新年度最初の日の伊勢参りは、心改めるにはふさわしい日に感じられる。東日本大震災の年から、三度目の参拝になるが、六十二回の遷宮は、昨年既に済み、新しい神殿に神様は、お移りになっている。この日は、春雨が参道の砂利を濡らしていた。生涯五度目の伊勢参りになった。何ゆえに、この地に歩を進めるかと問われれば、西行法師が詠んだ和歌の心境というしかない。
 何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる
どうしても、人は自分が大切になってくる。思い通りにならないと悩み、他人を憎んだりする。その果てには、生きがいも失うことになる。大いなるものに生かされているという自覚は生まれてこない。伊勢神宮の神域に、大御心を求め、とりわけ内宮に参拝することは、説明はつかないが、日本人として大事な行為だと思っている。天皇崇拝ということではない。
 日本人としての自覚を呼び覚ましてくれた人物がいる。故人となって久しい。数学者岡潔である。春雨忌という故人とゆかりのあった人たちが集う会に今年も参加することになった。同行したのは、以前から尊敬する彫刻家の大先生である。春雨忌に参加するメンバーは、春雨村塾の塾生でもある。この方は、塾頭と言ってもよい。同じ群馬在住なので、高崎駅で待ち合わせ、奈良までの往路をご一緒した。渥美半島の伊良湖崎のホテルに一泊し、翌朝、フェリーで鳥羽まで渡り、伊勢神宮に寄り、松坂の本居宣長の記念館を訪問するコースを提案したら、喜んでご一緒しましょうということになった。
 渥美半島は未踏の地であった。豊橋から伊良湖崎に行くには大変な距離があるが、駅にホテルのバスが迎えに来る。無料サービスになっている。駅前で食事をして、バスに乗り込んだが、すっかり雨になり、窓はくもって景色は見られない。海岸線や、常春の半島と言われる春の風情を感じてみたかったが、雨は容赦なく降り続いている。途中、保美という地名があり、ここに芭蕉門下の俳人が住んでいた。というよりは、幽閉された流刑の地であった。
 

 芭蕉の紀行文に『笈の小文』がある。芭蕉の死後、世に出されたものだが、旅に伴ったのが杜国である。杜国は、富豪な商人であったが米の先物買いが発覚し、死罪は免れたが、財産を没収された。渥美半島の保美の里で、罪人として静かに過ごす身分であった。芭蕉は、杜国の才能を高く買っていたが、今風な言葉で言えば、イケメンであったらしい。年も若い。
 伊良湖崎にも連れ立った。杜国が、遠路わざわざ訪ねて来た師を労ったのだろう。
鷹一つ見付けてうれしいらご崎
という句を残している。鷹は、杜国なんだと言いたいところなのだろう。それにしても素直な感情を吐露した句である。句の中に「うれし」などという言葉は、俳聖と称される芭蕉には、不具合な感じがする。
 『笈の小文』の中には好きな句が多い。
草臥て宿借る比や藤の花
雲雀より空にやすらふ峠かな
ほろほろと山吹散るか滝の音
若葉して御目の雫拭はばや
蛸壺やはかなき夢を夏の月
故郷、伊賀上野、奈良、吉野そして明石まで足を伸ばしている。六カ月の長旅である。路銀はどうしたのだろう。もしかして、杜国に隠し財産があって工面したのかも知れない。
宿泊した伊良湖ビューホテルは、高台にあって眼下に浜辺が見える。恋路ヶ浜と名づけられている。柳田国男が若き日この地を訪ね、岸に打ち上げられた椰子の実を発見した。そのことを、島崎藤村に話すと、それをヒントに想像を豊かにして名作「椰子の実」の詩が生まれた。大中寅二によって曲がつけられ、今日まで多くの人に歌い継がれている。昼から降り出した雨は、降り続いている。海は煙っているが、沖には島が見える。三島由紀夫の小説の舞台になった神島である。岬と島の間を、大きな船が何隻も通過していく。岬の森には霧が立っている。彫刻の大先生の美意識には感心した。そうした風景を美しく深く観察して語ってくれる。藤村の程の詩才があれば、それをヒントに新たな名作が生まれるのだが及ぶべきもない。
 名も知らぬ遠き島より
 流れよる椰子の実ひとつ
 故郷の岸を離れて
汝れはそも波に幾年月
杜国は、船で漕ぎ出し伊勢で芭蕉に再会し、旅を共にする。我々は、芭蕉と杜国の関係ではないが、早朝この海を渡る。一時間とかからない。

  

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2017年03月27日

東京の桜(2017年3月)

 東京の開花宣言は、いつもの年より早かった。靖国神社の桜の開花模様が基準になるらしい。ところが、それから気温は上がらず、開花は順調に進んでいない。三月二十六日(日)に、ハイキング同好会のメンバーと東京花見散策を決行したが、あいにくの雨で、気温も低い。同行者の提案で、駒込駅に近い、六義園の枝垂れ桜を見てみようということになった。
六義園は、柳沢吉保が造園したことで知られる、日本の代表的な大名庭園である。明治になって、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎が購入して使用したこともあったが、寄付されて、現在では東京都が管理している。大震災や空襲の被害もほとんど受けず、名庭園の景観が維持されている。広島市の縮景園が爆心地に近かかったために、名木が焼失したのとは、対照的である。肝心の枝垂れ桜は、咲き初めという感じで、花見客も少ない。ただ、氷雨に濡れている庭園を見るのも味わいがある。都会の中に広大な、しかも閑静な緑の空間が残されているのも素晴らしい。
お目当ての隅田川の桜も期待できないと思いつつ、両国駅に向かう。昨年開館した、すみだ北斎美術館もコースに入っている。六義園を散策したので、駅についた頃には昼時になっている。ガード下にあるちゃんこ料理の店に入る。グループなのでちゃんこ鍋を注文する。両国は大相撲のメッカであるが、力士の多くは大阪に出張中である。久しぶりのちゃんこ鍋は、実に美味しかった。この日が寒い日であったことも良かった。


葛飾北斎は、墨田区ゆかりの人物である。当時としては、長寿で九十歳まで画業を続け、その力量は衰えなかったと言われている。長野県の小布施にも北斎の痕跡を見ることが出来る。有名なのは、岩松寺の天井画である。高井鴻山という高弟もいた。モネなどの印象派の画家にも影響を与えたし、ゴッホはとりわけ北斎を賞賛している。北斎の誕生地に近い公園の一角に美術館はオープンしたが、外観もモダンで近代的な建築になっている。会館から半年も過ぎたが入場者は多い。外国人の入館者もいた。
北斎の作品は、海外に多く流失している。若冲のコレクターで知られている、ジョー・プライスのように個人で北斎の作品を収集した外国人がいた。ピーター・モースという人で、故人になっているが、遺族からその作品は墨田区に譲渡され、美術館の核となっている。芸術は、文化の違いが障害とはならず国境を越えていく。作品の芸術的高さは、万国民に共感と感動を与える。
北斎の代表作は、「富嶽三十六景」である。七十歳過ぎてからの作品だというから驚きである。とりわけ、「神奈川沖浪裏」は、有名で海外でも良く知られている。誇張されているが躍動感がある。「凱風快晴」は、赤富士である。決して写実的ではないが、一度見れば、心に焼き付けられて忘れない作品である。子供の頃、記念切手を夢中になって集めたことがある。趣味週間切手で浮世絵が発売されたことがある。その中にあった「東海道程ヶ谷」はシートで購入して半世紀以上も所有している。「富嶽三十六景」の中には、隅田川からの風景もある。
現代、隅田川沿いには高層ビルも立ち並び、富士山も隠れてしまうほどである。近年スカイツリーが、隅田川の近くに建ち、東京の街を鳥瞰することができるようになった。見通しが良ければ、富士山を遮る物は無い。北斎が、今日生きていれば、新しい富嶽百景が加わるに違いない。スカイツリーに昇らずとも、創造力で描く素質は、北斎にはある。「東海道名所一覧」という作品がそれである。右下には、日本橋が描かれ、右上には、京都の二条大橋が描かれている。左上には富士山が大きく聳えている。
美術館の一角に、蝋人形の北斎が絵を描いているコーナーがあった。北斎の弟子の露木為一が、描いた「北斎仮宅之図」を基にして設営したのだが、畳の上に和紙を置き、墨で描いている北斎は、ユーモラスにも見える。冬なのか、炬燵布団を肩にかけている。何度も書きなおしたと見えて、紙が乱雑に部屋の隅に丸められている。近くに娘が覗き込んでいる。娘も絵を習っていて、声は出さないが、なにやら注文をつけているような感じがある。手には煙管を持っている。北斎には、先妻と後妻があり、娘は北斎を看取っている。彼が残した最後の言葉は、「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」だというから、死の直前まで画業の高みを目指していたのである。一説には、北斎の祖父は、赤穂浪士の討ち入りの時、吉良家の家老で討ち死にした小林平八郎であるといわれているが定かではない。


すみだ北斎美術館を出て、徒歩で墨田公園を目指す。このあたりが花の名所になる。ビルの間に、スカイツリーが見えるはずだが、近距離なのに霧で見えなくなることもある。相変わらず春雨は、小止みなく降り続いている。桜は、諦め桜餅の老舗に行くことにした。美術館からは一里はある。長命寺桜餅といって、創業三百年だというから、北斎の時代にもあったことになる。休憩場所としてお茶と一緒にいただこうと思ったが、入り口にそのサービスはできないという張り紙がある。ようやくたどり着いたのに。思い直し土産にして、一個は、外で腰掛けて食べた。岸の桜は咲いていない
  

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2017年03月18日

三十年後の伊豆下田(2017年3月)



 正確な記憶ではないから、三十年前だったかは、定かではない。職員旅行だったのだろう。俳句が残っている。伊豆の山に霧が横にたなびいている風景を詠んだ句で、ホテルの窓からの眺めだったのだと思う。宿は、伊豆東急ホテルだったかもしれない。これまた定かではない。こんなに記憶が曖昧になるのも、全てがお任せの団体旅行だったからかもしれない。けれども、一つの情景は明瞭に残っている。寝姿山から見下ろす下田湾である。
 ペリーの黒船に向かい、決死の海外渡航を企てた吉田松陰のことを意識していたからである。資料館を訪ね、松蔭の行動のあらましなども見た記憶も残っている。今回は訪ねなかったが、下田開国博物館は、一九八五年の開館となっている。なまこ壁造りの建物である。そういえば、下田の町にはなまこ壁の建物が多く残っている。近くに、開国の外交の舞台になった、了仙寺もある。三〇年程前の下田旅行の根拠はこのあたりにある。
 友人のお誘いで、ホテル伊豆急に宿をとった。海辺に近い高台にあり、砂浜も長く、日の出も見られる景観は素晴らしい。もちろん天然温泉の浴場があり、適温で温泉の質もよい。川端康成の名作『伊豆の踊子』の文庫本を携帯し、海を眺めながら読んでみた。短編だが味わいがある。踊子と主人公(康成)が別れるのは、下田港だった。一人旅だったが、踊子との束の間の出会いに叙情がある。何度も映画化され、踊子も時代時代の女優が演じた。田中絹代、吉永小百合、山口百恵といった人達である。伊豆の踊子は歌にもなっている。
その一節
「さよならも言えず泣いている。私は踊り子よ、ああ船が出る」
日本人は、こういう場面に共感する。
 

  翌日、ペリー通りなる道を歩いていると、三島由紀夫の色紙や新聞記事のコピーが貼ってあるお店があった。しばらく眺めていると、ドアが開き、新聞の写しを差し出し、「これお読みください」
と、同じものを渡された。
「ありがとうございます」
と受け取ると、ドアがしまり、説明もなかった。
 駅のホームで眼を通すと、三島由紀夫は、夏になると下田東急ホテルに泊まり、周囲を散策し、下田を取材しつつ、数々の作品をこのホテルで執筆していたことが書かれている。新聞記事には、下田市民大学講師、前田實と書かれている。コピーを手渡してくれた本人だったかもしれない。前田さんは、昭和四十四年の八月、いきつけの理髪店で三島由紀夫に偶然出会った。色紙に揮毫してもらい、『豊穣の海』の一巻と二巻に署名してもらっている。二人の間に言葉は交わされなかったという。三島は、気軽に町を歩いていたらしく、インターネットで見たのだが、日新堂というお菓子屋さんのマドレーヌが好きで、よく買いにきたらしい。今も店主をしている横山郁代さんは、昭和三十九年に三島に出会った。その時、横山さんは、中学生だった。
 『三島由紀夫の来た夏』という本を書いている。その中に書かれているらしいが、散策する三島の後を、友達と追跡した思い出がある。ホテルに帰る、細道の途中で、三島がサングラスをとって、「あかんベー」をして見せたというのである。その顔は、笑っていたという。昭和四十五年に割腹自殺した年の夏も、子供たちを伴って、下田に避暑に来ていた三島由紀夫のことは初めて知った。三月末には伊良湖崎のホテルに泊まる。すぐ近くに神島がある。小説『潮騒』の舞台になった島である。
  

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2017年01月04日

相模国一宮



元旦の日帰りの旅を続けて久しいが、初詣が目的ではなかった。そろそろ、神様に1年の願い事をしても良い年になったという自覚から、神社にお参りすることにした。茅ヶ崎市から近い場所に、寒川神社があることを知った。この神社は、相模国の一宮でもある。関東近辺の一宮でお参りしていないのは、この神社と栃木県の宇都宮市にある二荒山神社だけである。
昭和29年の元旦は、天気に恵まれた。晴れ渡り、冬の厳しい寒さもない。藤沢あたりを過ぎると富士山がくっきりと見える。元旦の富士も拝みたかったのでその願いが、先ず叶えられた。寒川神社あたりから、ゆっくりと眺めてみようと楽しみにしていたが、高速道路が邪魔して裾野が見えない。しかたなく高速道路を超え、見晴らしの良い堤防に出て、カメラに収めた。
寒川神社の人出は尋常ではない。参拝するのに1時間以上かかった。タクシーの運転手に聞いたら、1月、2月は参拝する人が多く、近くに住んでいるが季節を選んで参拝すると話してくれた。神社は、普段は人がまばらだと思っていたが、さすが一宮である。元旦のもう一つの目的は、天然温泉に入ることである。茅ヶ崎駅から近い場所に、竜泉寺の湯という日帰り温泉がある。昼食もそこで摂り、くつろぐことができた。昭和30年は、宇都宮に行くことも決めた。
  

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2016年12月24日

行く我に留まる汝に秋二つ(2016年12月)

(津山編)
新幹線と在来線の乗り継ぎは上手くいって、吉永駅には午後一時前に着くことができた。無人駅でバス停は見当たらない。タクシーが二台停まっている。帰りの岡山行きの列車の時間を確認し、帰りのタクシーを予約することになった。約一時間半見学することにした。資料館もあるらしい。見学者は、少ない。山間にあっても意外と広い。日当たりも良い。建物は、古いがしっかりしている。講堂は国宝だという。敷地は、枯れているが芝生になっている。観光シーズンは秋の紅葉の時期らしい。既に落葉しているが、孔子廟のある斜面に二本の大樹があって、桑の木かと思ったら、楷の木であった。孔子のゆかりの地から種を持ち帰り苗にして育てたものだという。
閑谷学校の創建は、一六七〇年で初代岡山藩主の池田光政による。儒教、とりわけ陽明学に関心を寄せた人で、名君の誉れが高い。中江藤樹の弟子である熊沢蕃山を招聘し校風を確立した。儒教には、朱子学があるが、こちらは体制側の思想になる。保守的な思想でもある。熊沢蕃山も幕府から危険視され、不遇な人生を送っている。岡山には、山田方谷がいるが、幕末になって熊沢蕃山は評価されるようになった。閑谷学校が、庶民も学ぶことができたのは、陽明学と無関係ではない。建設に当たったのは津田永忠という家臣で、閑谷学校の近くに居を構え、屋敷跡は今も残っている。


閑谷学校の景観をもう少しスケッチすると、堤防のような石塀で囲まれていることである。城ほどではないが、外敵の襲来にも備えているような機能を持っている。また、城下や住宅地から離れた場所にあり通学するのには、不適である。そのため、寄宿舎が整備されていた。教師と生徒は近くにあって学んだことになる。明治になって、閑谷学校は廃止されるが、中学校、高等学校となり、明治期に建てられた校舎は、資料館になっている。正宗白鳥や三木露風もこの地で学んでいる。駅に戻り、津山の友人に到着時間を連絡した時
「おぬしの国は学問の底辺が広いのう」
という言葉になったのは、閑谷学校を見た素直な感想でもある。
吉永駅から岡山駅で津山線に乗り換える。各駅停車のワンマン列車である。沿線には旭川が流れ、谷あいを列車はゆっくり進む。冬山に夕陽が当たっている。民家の付近では、焚き火かしれぬが、煙が昇り、谷間を這うように流れている。
津山線 斜陽に映えて 山眠る
 津山駅の一駅前の津山口の午後五時に到着。この駅も無人駅である。友人が車で迎えに来る予定になっているが、それらしき車はない。少し遅れて、友人の友達が運転して迎えに来てくれた。友人は後部座席に同乗している。昨年、腰を圧迫骨折して、歩行が不自由になっていることを気にかけていたのである。車は、運転できるが歩行には杖が必要になっている。
 彼の友人には、過去にも会っている。職場時代の友人で親切な人である。二人の岡山弁が微笑ましい。いつも貶しあっているようなやり取りの中にも、友情が感じられる。
「おまえ、夕食はまだじゃろ。肉食うか」
焼肉店に直行。出された肉は牛肉である。それもステーキほどの厚さがある。それに柔らかい。こちらのでは、肉は牛肉という感じで、ホルモンも牛肉の内臓である。津山のB級グルメの「ホルモンうどん」の肉も牛肉である。昨日のこともあり、お酒は控えめにした。友人は、酒の酔いもあったが、家の玄関で転んでしまう。おでこに傷を負ったが、大事には至らなかった。来春、群馬に行きたいと言うが、先年果たせなかった日光詣は一人では難しそうである。御つきの者と車椅子が必要になりそうである。
 

 翌日は、彼の家でゆっくり過ごそうと思っていたが、温泉と津山城に友人が案内してくれた。何度か津山に来ているが、城に上ったのは、新婚旅行以来だから四十年近く前のことである。櫓が復元され、石垣も修復されつつある。初代藩主は、本能寺の変で、信長と共に死んだ森蘭丸の弟の森忠政であるが、大大名の城といっても良い城である。明治になって城の建物は壊されたが、復元した映像は、見事というしかない。国宝の資格がある。津山は鶴山が転じた地名で、津山城は、鶴山城ともいう。天守閣があった場所まで上り、津山の市街を眺めると、東西に吉井川が流れている。ちょっとした運動後の入浴になったが、温泉は病院の一角にあった。最近出来た日帰り温泉である。市内に、衆楽園という大名庭園があるが、翌日見ることが出来た。池が広々としていて、鴨やオシドリが優雅に泳いでいた。近くには市役所がある。城にも近い。
 

 津山の二日目の夕食は魚料理である。彼の好物の「のどぐろ」がメインである。いつからか高級魚になった。煮魚にして食べた。こちらは、予約である。キスのフライも柔らかくて美味しかった。ウツボのフライも酒の肴としてなかなかいける。昨夜は焼酎だったが、河豚の鰭酒をいただくことにした。三杯飲んだが熱燗の日本酒を継ぎ足せば、味もそれほど落ちない。経済的な飲み方だといつもそうしている。
 帰宅の日、昨日に続き将棋を指した。運転しない気楽さか、朝から缶ビールを飲んでの対局になったが、これまでなら飲んでもなかなか崩れない棋風だが、今回は読みがあっさりしている。勝負に拘る執念も感じられない。連勝したが、勝利の喜びよりも、少し心配になってきた。介護保険の申請もしてあって、認定が出たら週一回、ヘルパーに掃除をしてもらうつもりだという。仕事柄、ケアプランのアドバイスをしたが、買い物や入浴も不自由があるようだ。福岡の友人の年金相談と言い、確実に老齢期に差し掛かっている。岡山空港まで送って来てくれたが、足取りはおぼつかない。
 行く我に留まる汝に冬二つ
  

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2016年12月23日

行く我と留まる汝に秋二つ(2016年12月)

(福岡編)
俳句を紀行のタイトルにするのは、初めてだが、今回の旅は、この句がふさわしいと思ったのである。正岡子規の句で、汝は夏目漱石である。旅の拠点にするのに友人とは重宝なものというのは失礼な言い方だが、日常の時空間にない再会と言う時間と旅先の新鮮さが貴重なのである。一人は、福岡市、一人は津山市の住人である。福岡空港に行き、博多駅から鉄道で津山駅に行き、岡山空港から帰路に着く三泊四日の旅である。二人とも、老後の窓口に立っていると言って良い。健康や、年金生活を意識する年でもある。「行く我」も同様である。
博多駅から鹿児島本線で小倉方面に向かう途中に東郷駅がある。海岸に向かって数キロ行ったところに、古いお社がある。宗像大社である。官幣大社でもある。神社は、三社に分かれているが、辺津宮にお参りすることにした。もう二つの宮は、島にあり普段はお参りすることができない。中津宮は、大島にあり、更に沖合いにある沖ノ島に沖津宮がある。共に玄界灘に浮かぶ小さな島である。宗像大社の歴史は古い。由来は、神代に遡る。


祀られている神様は、宗像三女神と呼ばれ、天照大神の御子とされる。古事記や日本書紀に記述される御子の誕生は神秘的である。天照大神の弟君であるスサノオノミコトとの「うけい」によって生まれた姫君とされている。スサノオノミコトの剣を貰いうけ、洗い清めた後、剣を噛み、それを霧としてはいた時に生まれたというのである。スサノオノミコトも天照大神の勾玉などでできている飾り物をすすぎ、これを口に噛んではきだした霧の中に五人の男神を生んだとされる。
辺津宮に祀られているのは、市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)であるが、ご神体は、鏡である。ご神体と社殿に向かいお参りしたが、不思議な気持ちになった。友人の家は、宗像大社の氏子だということを思い出したからである。しかも、三人の女の子の親であることも。一年ほど前に父親を亡くし、辺津宮の一画にある祖霊社に祀られている。鳥居の外から、お参りする友人の後ろ姿を見ながらお参りさせてもらった。
宗像三女神は、天照大神から皇室を守護するように申し付けられている。そのためかは分からないが、三度に渡る国難を救っている。鎌倉時代の元寇(二回)と日露戦争の日本海海戦である。神風を吹かせ、連合艦隊の歴史的大勝利に導いたのは、宗像三女神だと、日本人なら思いたい。特に日本海海戦の戦場となった海域は、沖津宮のある沖ノ島にごく近かった。明治三十八年五月二十七日、海は「天気晴朗なれど波高し」であった。司令官であった東郷平八郎は、戦艦三笠の羅針儀を宗像大社に奉納している。神宝館を見学したが、見ることはできなかった。


福岡市に戻り、夕食には時間があったので、友人に水鏡天満宮に案内してもらった。菅原道真を祀っている。この地に移ったのは、黒田長政の時代である。一度お参りした記憶がある。東京裁判でA級戦犯になり刑死した広田弘毅は、この近くに生まれ、石工であった父親の関係で、幼いときに書いた文字が鳥居に掛けられていることでも知られている。誕生地の碑が前にある店で、九大の友人の先生と飲んだ記憶がある。天神の地名もこの神社に由来する。
友人の予約してくれた店も天神にあった。高校時代の友人の息子さんが経営しているお店で、その日に釣れた魚を食べさせてくれるのだという。その日に釣れた魚の名前は忘れたが、刺身や煮魚、天ぷらにしていただいた。海のない県の人間には、こうした食事はなかなかできない。焼酎をボトルで注文し、すっかり酔いがまわってしまった。ホテルは近いのだが、タクシーを拾い、予約した部屋に千鳥足でたどりつく。翌日、友人からメールが届き、無事に着けたかの確認と酒は控え目にというアドバイスを頂戴した。
行く我と留まる汝に冬二つ
盗作である。
ホテルでは、すっかり寝坊。いつもなら五時半に起床するのだが、時計を見ると八時を過ぎている。博多駅からの新幹線は十時をまわっている。津山までは、直行せずに寄り道をすることにしたが、冬至に近く明るいうちにたどり着けるか心配になってきた。岡山県には、閑谷学校と言う史跡がある。亡くなった牧師さんから薦められた史跡で、日本遺産第一号に認定されている。地図を見ると、岡山駅から山陽本線で結構な距離がある。しかも山間にあり、バスやタクシーを使わないと行けそうもない。
  

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2016年11月15日

聖徳記念絵画館



神宮外苑に、国会議事堂に似た建物がある。大正15年に完成し、現在は重要文化財に指定されている。日本史の教科書に使われる絵画が展示されている。例えば、「大政奉還」、「江戸城開城談判」、「岩倉大使欧米派遣」などは、記憶に残る絵である。いつの頃のことか定かではないが、昭和50年代に来館したことがある。30年以上も前のことだが、建物は変わっていない。
数日前に、天皇皇后両陛下がご訪問されたというニュースを見て、足を運ぶ気になった。天気も良さそうだし、友人を誘うことにした。幕末から明治の歴史には関心を持っている人で、「行きましょう」ということになった。JR信濃町の駅から歩いて数分の距離である。石造建築は、青空を背景に重厚感がある。銀杏並木が有名だが、紅葉には少し早い。入館料はないが、寄付金と言う形で500円を入り口で払う。宗教法人明治神宮が管理している。
建物はシンメトリーになっていて、入り口右手が日本画、左手が洋画で、それぞれ40点が展示されている。絵の大きさは統一されている。かなりの大きさである。『海舟余波』を読んだ後なので、「大政奉還」、「王政復古」、「鳥羽伏見戦」、「五箇条御誓文」、「江戸城開城談判」をじっくり鑑賞した。主な登場人物の説明版が手前にあり、見比べながらみることになる。御簾におられる明治天皇の前で、山内容堂と岩倉具視の激論の場面は、コミカルな感じがした。勝海舟と西郷隆盛の薩摩藩邸での会談は、威儀を正して品がある。いずれの絵も日本画である。
洋画の方は、明治中期以降を題材にしているものが多い。奉納した人や団体と、作者の名前が書いてあって、興味を惹かれた。「帝国議会開院臨御」は、小杉未醒、「日露役日本海海戦」は、中村不折、「帝国大学行幸」は、藤島武二である。新島襄の肖像画を書いた湯浅一郎の絵があった。彼の絵は群馬県立美術館にあって、郷土の作家としての親近感がある。
中央はドームになっていて、西洋建築の荘厳さがある。その奥に名馬、金華山の剥製がある。久しぶりに会った。やはり脚が短い。明治天皇が騎乗している姿は、展示されている絵の中に描かれている。
聖徳記念絵画館の石段を降りたところで
「小学生の頃、母親と弟と一緒に来たことを思い出したよ。あの時の弁当の美味かった方が相当思い出になっているけどね」
昭和30年代の頃の話である。彼を誘ったのも無駄にはならなかったと思った。
  

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2016年10月14日

札幌、小樽、余市へ(2016年10月)



 北海道への旅は、意外と少ない。札幌も二度目で、三十年以上前のことである。時計台に立ち寄った写真が残っているが、旅の記憶もすっかり薄れている。小樽や余市は、初めて訪ねることになる。残暑から長雨を経て、秋の気配が漂うようになって、金木犀の香りに惹かれるように北海道に渡ってみたくなった。あえて言葉にすれば、「開拓使」、「札幌農学校」という、明治維新後の薄れた奇跡を追ってみたいという気持ちである。そこから始まった、殖産による北海道の発展である。二百万都市、札幌は、その成果であるが、揺るぎもない、日本有数の大都市となっている。
 十月九日(日)の出発の日、関東と札幌周辺の天候は、同じ日本とも思えない違いがあった。羽田は、雨で千歳は晴れて風が強かった。温度も十度近い差があった。服装が難しい。千歳空港に降り立つのは初めてである。札幌までは列車で行く。空港に隣接して駅があり、札幌までは三十分そこそこで着く。九州の福岡市と札幌市は距離があっても、飛行機を利用すれば日帰りが可能である。札幌まで車窓の眺めは、北海道らしく平地の森に白樺の木が目立つ。高原に来たような爽やかさがある。
 ホテルは、札幌駅から近いがチェックインには、時間がある。北海道大学のキャンパスに向かう。駅からごく近い場所にある。広大な敷地に緑が豊かなことで知られている。案内板に眼をやると、農場まである。札幌農学校を基礎にした伝統を想像せざるを得ない。正門から近い場所に、小川が流れ、芝生に覆われ、木々もそこかしこに植えられた公園のようなエリアがある。解説書を見ると、「中央ローン」という呼び名がある。少し傾斜があり、冬にはスキーもできたらしく、日本のスキーの発祥地という人もある。川の水の流れを止めればスケートもできる池になったとも書いてある。はるか昔の話だが、大学構内ということを考えるとロマンがある。
 

 標識を頼りに歩くと、クラーク像にたどり着く。二代目で作者も違う。一代目は戦時中供出され、溶けて戦争のために使われた。初代の像の作者の魂も溶かされるようで、このことだけでも戦争の愚かさを思うのである。クラーク博士は、「青年よ大志を抱け」という有名な言葉を残したことで知られているが、真相は、異説があるようだが、北海道開拓の恩人と言う功績は揺るがない。大正十五年の除幕式には錚々たる要人が参列したが、内村鑑三は参列しなかった。偶像崇拝から程遠い彼の思想からしたならば、クラークの精神とは無関係の事業に思えたのだろうが内村鑑三らしいと思った。
 クラーク博士が日本に招聘されたのは、明治九年で札幌農学校の教職にあったのは、一年に満たない。しかし、彼の残したキリスト教精神は、札幌農学校に残り、新渡戸稲造や内村鑑三、宮部金吾などを輩出したことで知られている。第一期生の中には、初代の北海道帝国大学の総長になった佐藤昌介がいる。南部藩士の家に生まれ、直接クラーク博士の薫陶を受けている。札幌農学校から北海道帝国大学になったわけではなく、東北帝国大学農科大学として文部省に移管され、やがて北海道帝国大学という名称に変わるのである。その間に学校経営の先頭に立ったのが、佐藤昌介である。だから、今日北大の功労者として顕彰されている。余談だが、同志社の創立者新島襄は、アマースト大学でクラーク博士に学び、日本への招聘を明治政府に紹介している。
 札幌農学校は「開拓使」という明治の初めに北海道に置かれた中央直轄の行政府のもとに設立された官立の学校である。ロシアの領土欲に危機感を感じた明治政府は、北海道の開発に力を入れることになる。人が住むことが、領土を主張する根拠になる。居住権のようなものである。北海道を空き家にしないためには、人の生活の基盤を作らなければならない。その基本は農業だと考えたのである。しかし、北海道の気候は寒冷で、加えて、本土のような農産物を生産するにはその土壌が適していなかった。石狩の原野は、泥炭質の土壌であった。屯田兵という言葉を教科書で学んだが、この発想を最初に持ったのは榎本武揚だと言われている。農業に従事しながら警備にもあたる兵士である。榎本は、北海道を独立国にしようと函館戦争を戦ったが敗れた。榎本を助命するように奔走したのが、黒田清隆である。西郷隆盛は、国の礎は農にありと考えていたので、士族が農を兼ねて北方警備にあたる構想を持ったが、下野し西南戦争にも破れ、実現しなかった。榎本の夢と西郷の構想を引き継いだのが黒田であった。毀誉褒貶のある人物であるが、北海道の人は、今日でも大恩人だと考えている。これも余談だが、榎本武揚は、東京農業大学の創設にも関係している。
 北大構内をゆっくり散策しても良いと思ったが、総合博物館を見ることにした。北大の歴史もわかると考えたからである。『北大歴史散策』という手頃な著書を館内で購入できた。館内の展示は、興味をそそられるものであったが、一箇所だけ見たいところがあったのである。受付で尋ねてみた。
「人工雪を作ったことで知られる中谷宇吉郎の研究室がこの建物の中にあると聞いたのですが」
答えは、わからないということであった。
中谷宇吉郎は、寺田寅彦に学んだ物理学者で、北海道帝国大学に赴任し、昭和十一年に人工雪の結晶をつくることに成功している。さらに、戦時中、数学者岡潔を非常勤職員として招き、岡潔は、ここで数学上の大発見をしたのである。その往時を偲んでみたかかったのである。しかし、中谷博士の記念碑が残っていた。除幕式には、中谷夫人が参列した。夫人の詠んだ歌がある。
天からの君が便りを手にとりて
      よむすべもなき春の淡雪
中谷宇吉郎が残した「雪は天から送られた手紙である」に見事に応えている。
宇吉郎直筆の色紙は、由布院の亀戸別荘、見せていただいたことがある。


時代は下って、北海道の自然がウイスキー作りに適していることに目をつけ、その夢を実現した人物は、NHKの朝ドラ「マッサン」でも紹介され世に広く知られるようになった。広島竹原市の造り酒屋の息子、竹鶴政孝である。翌日、朝早くホテルを立って、余市に向かう。小樽までは、列車の本数が多いが、その先の余市までは、乗換えで本数も少ない。余市工場の見学は、無料だが説明を聞くためには予約が必要になる。
余市蒸留所の建物は、外壁に大谷石を使用した建物であって重厚感がある。ガイドさんに聞くと、スコットランドの景観を思い描いてこうした建物になったのだという。現在、この建物群は、国の有形文化財になっているものが多いという。本物のウイスキー作りを目指した、こだわりの人竹鶴政孝の心意気が伝わってくる。敷地内の景観も美しい。スコットランドに行ったことはないが、余市蒸留所の環境はリタ夫人も心安らぐものがあったであろう。夫妻の住まいもあり、中には入れなかったが、夫人の故国の家のように建てられているのであろう。いずれは、竹鶴政孝の生地、竹原市も訪ねてみたいと思っている。レストランでウイスキーをいただきゆっくり過ごそうかとも考えたが、札幌への帰路、列車の本数が少ない。
昼食は、小樽ですることにした。この日は寒く、十度を切りそうで、街を散策する勇気は湧いてこない。名所になっている運河を眼に焼きつけ、ラーメンで体を暖めて立ち去ることにした。夜景が素晴らしいのだが、一人旅には、想像するだけで十分だと思った。この地にゆかりのある人物で、小説家の小林多喜二のことが浮かんだが、記念館があるわけではない。


ウイスキーの次はビールである。サッポロビール園がある。札幌駅から直通のバスがある。歩くのには遠いのである。レンガ造りの建物に展示コーナーとレストランがあり試飲ができる。余市と違って有料になっている。三種類、グラスで六百円と手頃な値段でおつまみつきである。一種類に「開拓使麦酒」というのがあって、飲み比べて美味しさを感じたが、ネーミングのせいかも知れない。サッポロビールの前進は、明治九年に開拓使が設立した札幌麦酒醸造所であった。ビール作りの技術的責任者は、日本人である。こちらの「マッサン」にあたるこの人物の名前は、中川清兵衛という。幕末、国禁を犯してイギリスに渡り、ドイツでビール製造の技術を取得した。新島襄と同じように命がけで海外渡航に成功した人がいたのである。こちらは、横浜からである。郷里は新潟の与板というから良寛さんの生地に近い。初めて知る名前である。明治一九年には、民間に払い下げられ、翌年株式会社としてスタートしている。大倉喜八郎、渋沢栄一らが参加している。その後、社名などは変わって今日に至っているが、百四十年という歴史がある。
今回の二泊三日の旅で北海道の歴史が分かったとは言えないが、蝦夷地から北海道にかわり大きな変革をとげていることを実感した。それを、まざまざと感じさせてくれるのが札幌市の変容で、北海道の人口の札幌市への集中は驚くばかりである。イギリスのロンドンを髣髴させる。市街地を離れれば、冬は雪に閉ざされ自然の厳しさは今も変わらない。野生動物とすれ違うこともあるだろう。定住してみなければ、北海道のことはわからない。先祖も、親戚も北海道とは無縁だが、戦前父親が北海道に住んだことがあると言っていた。戦前まで、農林省の外局に馬政局というのがあった。北海道の厚岸にあったと言っていた。軍馬の生産管理する組織で、短い間の公務員であった。召集令状により満州に渡り、敗戦とともにシベリヤ抑留となった。北海道に優る寒冷地である。北海道も、シベリヤも懐かしい土地ではなかったのか、多くを語らず、子供への情報は少ない。だから無意識に、寒冷地を避ける意識が働いていたのかもしれない。これを機会に、再度北海道を訪ねることになれば良い。最後の晩食べた蟹と日本酒は美味しかった。北海道の食材は、魅力的である。
  

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2016年09月14日

室生犀星の苔の庭



 軽井沢は避暑地として、外国人の目に留まった。明治の後期から、別荘が増え、文人墨客も訪ねるようになった。政財界の人々の別荘も多い。冬の寒さは、敬遠され、夏に利用する場合が多い。軽井沢をこよなく愛し、定住した作家がいる。室生犀星と堀辰雄である。年の差はあったが、二人は親しく交わっている。
室生犀星の旧宅は、今も保存されて残っている。室生犀星は、庭造りに関心が強く、作庭も自分の好みに設計した。特に拘ったのは、苔と石である。庭を見て驚いたが、苔はもちろん良く管理されて、緑が美しかったが、石は敷石というよりは、河原のようである。飛び飛びではあるが、雑然としている。うっかりすると躓いて転びそうである。
 室生犀星は、金沢の人で、犀川のほとりで生まれている。幼い時は、良く犀川で遊んだ。河原で石を並び替えて小川を作ったりして、自分の世界に入り込んだ時期があったらしい。作家になる素養があった。石は、毎日見ていても飽きない。だから日本人は庭に石を置くのかも知れない。石に興味を持った人物として有名なのは、宮沢賢治である。地質への関心からで、北上川の河岸の一部を、イギリス海岸と命名したのは、賢治である。
  

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2016年09月13日

軽井沢散策(2016年9月)

 


堀辰雄の文学記念館は、追分にある。国道十八号線を車で移動。建物は、追分宿の一角にあった。門が立派である。表札があって、追分本陣の門を移築している。記念館は、平成になって開館したが、堀辰雄が晩年過ごした家が残っている。昭和二十八年に四十九歳で亡くなったが、ほとんど病床に伏す日々が多く、文筆活動はできなかった。新居には、二年も住むことはできなかったが、夫人と幸せな時間を過ごすことが出来たのではないだろうか。
 作家が読書家というのもおかしいが、若いときから病弱であった堀辰雄に書物は特別なものであったことがわかる。それは、庭先に書庫を造っていることである。和室四畳半くらいの独立した建物である。本の並べ方も、夫人に指示していたが、完成を見ることなく亡くなった。一人静かに、来し方をたどり読書する空間にしたかったのであろう。健康が許せば、小説も書いたかもしれない。妻多恵は、夫の死後半世紀を生き、二〇一〇年になくなっている。夫の死後建てた家は、展示室になっている。
 数年前に宮崎駿監督が『風立ちぬ』のタイトルでアニメ化したことがある。内容全てが『風立ちぬ』ではないが、小説の雰囲気は出ていた。堀辰雄には、多恵と結婚する前に婚約していた人がいる。矢野綾子という人で、婚約後一年もしないで結核で亡くなってしまう。風立ちぬ』に登場する節子は、矢野綾子がモデルになっている。
 堀辰雄には、若いときから健康問題が付き纏っていた。肋膜炎で死に掛けた時もあり、結核は完全に治癒しなかった。いつも「死の影の谷」を歩んでいた。尊敬する芥川龍之介の自死や、母親が大震災で亡くなった体験もあった。身近に綾子の死にも出会っている。人の世の儚さ、侘しさを痛いほどに味わった人生であったと思う。彼の生きがいは、物を書くことであったし、それが生活の糧になったことは、才能に違いないが、愛するものの存在は必要であった。その存在は、ただ傍らにあれば満足だというの『風立ちぬ』から伝わってくるし、高原の自然が背景にあって、なんとも清淨観がある。病弱ではあるが、精神的には逞しく生きている。散歩と読書、文学としての創作が多くの時間を占めている。
 「風立ちぬ、いざ生きめやも」
  

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2016年08月03日

安倍川の花火大会(2016年8月)

夏は、花火大会のシーズンである。夜空に打ち上げられる花火の形、その色合いは美しい。いつ頃から、夏の風物詩になったのだろうか。江戸に幕府が置かれ、太平の時代になって、庶民に愛され伝統行事になったという印象がある。ただ、三河の地は、花火と切放せない地であり、徳川家康の出生の地でもある。
徳川家康は、千六百五年に江戸に幕府を開いたが、将軍職を家忠に譲り、駿府城に隠居した。政治の実権は、家康にあり大御所となって徳川幕府の基礎を固めて行った。安倍川は、駿府城から近い。駿府城内は、静岡県庁の建物もあり、今も政治の中枢部になっている。花火大会の当日、ここからシャトルバスが出ている。開催時間は、七時からだが、四時から運行している。大変な台数である。
静岡の友人から誘いを受け、群馬から遠路の観覧になったが、その規模と迫力に感激した。実行委員長の挨拶でわかったのだが、今年が六十三回目の開催だと言う。静岡市も空襲を受けて、多くの犠牲者が出ている。花火を打ち上げる前に黙祷の時間があった。娯楽だけでなく、慰霊の行事でもあった。
花火打ち上げの二時間前に、会場に到着。それでも結構な人手である。河川敷に場所をとる。安倍川の川幅は広いが、水量は少ない。友人によれば、農業用水に使われているからだという。下流域に架かる橋を東海道新幹線がひっきりなく走る。陽は傾いてはいるが、青空である。夕立の心配も無い。最高の場所と天候に恵まれた。
安倍川で連想するのが「安倍川もち」である。この類のお菓子は、全国にあるからことさら土産物とは考えていなかったが、今回は購入することにした。お菓子の包みを見ると由来が書いてある。こちらも、家康がらみである。安倍川の上流で金が採れることを知った男が、餅をつき、それに砂糖入りの黄な粉をまぶして、家康に献上したのがはじまりだという。黄な粉を金粉に見立てたのである。家康も気に入ったらしく、銘菓として広まった。機智にとんだ富んだ発想と言える。
まだ西の空は暮れてはいないが、花火が上がった。暗闇でない時間の花火も良い。ほとんど間隔がないほどに打ち上げられる花火の数も驚きである。帰りの混雑を考えて、終了の三十分前に場所を後にしたが、友人は心残りがあったのか、会場の方を何度も振り返っていた。花火大会は、何度も見ているが、これほどの規模のものをまじかで見たのは初めての経験である。
この日は、隅田川の花火大会が開催されている。首都で行われるので規模も大きい。江戸時代中期の両国川開き花火大会を継承している。この日の翌日、名横綱千代の富士が亡くなった。両国は、大相撲ゆかりの地である。病室で花火を思い浮かべ、旅立ったかもしれない。
一方、東京都知事選挙が行われ、小池百合子氏が当選し、初めての女性都知事が誕生した。花火のように美しく咲いたわけだが、任期は四年である。着実に成果を上げてもらいたい。政党が応援した候補者は、いずれも大差で敗退した。地方自治なのだから、あまり政党色を出して選挙するのもいかがなものかという感じもしないでもない。戦い終われば、良好な関係を築き、しこりを残さず都政を進めてもらいたい。昨日の敵は今日の友である。増田氏の実務能力を買って、副知事に任命するほどの懐の深さを示してもいいのではないか。政治の素人だからの発想であるが。
  

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2016年05月06日

伊那谷の春(2016年5月)



 信州は、山々に囲まれ、水が豊富で、大きな川が流れ、その川に沿うように盆地がある。代表的なのが、善光寺平、佐久平、松本平、伊那平である。県歌「信濃の国」にも歌われている。伊那市のある伊那平は、諏訪湖から発する天竜川が流れ、形状は細長く、伊那谷と呼ぶこともある。桜で有名な観光地、高遠も近い。
 ここ何年も、信州の春の風景が見たくて、五月の連休を利用して訪ねている。今年は、諏訪で御柱祭が開催されていることもあり、友人を誘い、諏訪から伊那谷を目指すことにした。伊那には、一度は訪ねてみたい場所があった。観光地や、旧所、名跡ではない。日本一の生産量を誇る、寒天食品を製造する会社である。伊那食品工業という。戦後創立された会社である。当時から、会社経営の先頭に立っている人物がいる。塚越寛という人物である。この人の著書を読んだことがある。四年前のことである。『リストラなしの年輪経営』、タイトルが良い。
 塚越寛は、一九三七年に長野県に生まれ、終戦の年に父親を亡くしている。高校生の時に、結核になり、三年間闘病生活を体験している。そのために、東大受験を断念したというから、秀才でもあったのであろう。それよりも、経営の理念が素晴らしい。二宮尊徳を尊敬し、経営に道徳がある。実績も上げている。四十八年連続増収増益の記録を持つ。その記録は、経営者が経営哲学を曲げなかったら伸びていたかもしれない。健康ブームに乗って増産を求められたことがあった。塚越社長は、増産に反対であった。しかし、従業員から強く増産の要望があった。塚越社長の経営理念の一つに、働く人の幸せを重視するというのがあり、情に流されたわけではないが、結果は失敗であった。過剰投資の付けがまわり、ブームが去った後、在庫が残ることになった。
 初心に戻り、現在は安定した「年輪経営」になっている。「売り手よし、買い手よし、世間よし」は、近江商人の有名な「三方よし」の考え方である。伊那食品工業は、それに加えて「将来もよし」を加えている。持続発展する企業である。成長は、急激ではなくても良い。ゆっくり育つ樹木のように。そのこともあり、一九八八年に、伊那谷の森林の中に工場、事務所を造り、庭園も造り、販売所も造り、レストランやホールもある。これもいっぺんに整備したのではなく、年月をかけて今日の姿になったのである。「かんてんぱぱガーデン」という名称で呼ばれ、来訪者は多い。
 昼食は、「さくら亭」というレストランですることになった。「春の御膳」というちらし寿司をメインにした定食で、味噌汁や漬物にも寒天の素材を使っている。食べて見れば違和感はない。森の中のテラスで、木漏れ日の差し込む食事は、なんとも表現できない良さがある。「かんてんぱぱガーデン」が斜面にあるために、遥か彼方に残雪のある八ヶ岳連峰も見ることが出来る。子供たちは、広い芝生で遊び、弁当を広げて食べている家族もある。人々の幸せの空間を作っている。
 職員の応接も良い。おもてなしの心である。マニアルがあるというより、心遣いを感じるのである。庭の手入れも、業者任せにしないで、草取りや、チューリップなどは職員が植えている。また、駐車するとき、庭木に向けてバックで停めない。出勤する時、右折して会社内に入らないようにしている。渋滞の原因になり、地域の人の迷惑にならないことを心がけているのだという。日本にこうした会社があることは誇りにして良い。上場企業でもないことも特筆できる。
  

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2016年02月29日

皇居御濠端巡り(2016年2月)

建築当時の東京駅に復元修理されたレンガ造りの建物はいつ見ても美しい。また、丸の内の駅前も開発が進み、景観が変わった。丸ビルは高層化し、中央郵便局も少しは、昔の面影を残しているが、「キッテ」として生まれ変わっている。地下街も整備中である。
皇居は、明治の遷都によって、天皇の居住する場所になったが、徳川幕府の居城であった。堀を巡らせ、今も広大な敷地を都心に残している。北の丸のあった武道館あたりも江戸城の一角であったが、今は公道で仕切られている。その道の御濠端の歩道を歩いて千鳥ヶ淵に抜けるコースで、皇居を一周することができる。その距離が、約5キロだというので、ハイキング同好会のメンバーと歩いてみようということになった。
この日は、東京マラソンが開催されている。皇居前を通る国道一号線もコースになっている。参加者3万7千人とあって、ランナーの列はなかなか切れそうにない。横断するのは諦めて、時計と反対周りに歩く。東京消防庁の建物を過ぎて地下通路があり、御濠端の歩道に出ることができた。御濠から皇居の緑を見るのは何よりも散歩気分にさせてくれる。まず目に入ったのは、古代の宮廷人らしい像である。随分と大きい。腰に剣を挿し、笏を持っている。
「聖徳太子かな」


とメンバーの一人が呟く。像の周辺が工事中で立ち入り禁止になっており、確かめようも無い。帰ってから調べて見ると和気清麻呂像だと分かった。佐藤朝山の作品で、紀元2600年(昭和15年)に建立された。和気清麻呂は、奈良時代の末の人で、万世一系の天皇制の断絶を救った人物である。なるほどと納得した。
日比谷公園には、高村光雲をリーダーとして10年近くを費やした楠木正成像がある。騎馬像であるが、こちらは小学校の修学旅行以来会っていない。明治33年に建立されていて、住友財閥が資金を出している。和気清麻呂も楠木正成も忠臣ということである。近くに観光バスの停車場があって、大勢の中国人観光客がこの像にカメラを向けている。

平川門から、皇居の中に入ることができた。無料で入園できる。椿や梅が咲いている。広々とした場所に出ると、一段高い石垣が目に入る。江戸城の天守閣があった場所である。三代将軍家光の時代に焼失し、それ以来再建されていない。世は平和となり、為政者はその必要を感じなかったということだろうか。
本来の目的に戻り、濠の外に出る。千鳥ヶ淵公園には桜が多く植えられている。種類は多いが、開花には早い。お濠は深く、広い。半蔵門近くまで公園が続く。国会議事堂の建物も姿を見せる。最高裁判所、国立劇場の建物を通り過ぎていく。桜田門をくぐれば二重橋である。この門の外で井伊大老は暗殺された、その近くには、警視庁や各省庁の建物が集中している。いわゆる霞ヶ関官庁街である。自然豊かな皇居と周囲を近代ビル群が囲み、政治経済の枢要な建物が林立する様は、なんとも言えない風景である。


  

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2016年02月16日

湯河原の梅林(2016年2月)

 熱海に近い、湯河原は、古くからの温泉地で文人墨客にも愛された。夏目漱石、与謝野晶子、芥川龍之介、谷崎潤一郎といった文人。画家の竹内栖鳳、安岡曽太郎も湯河原温泉にゆかりがあるようである。湯河原町立美術館に二人の作品が展示されている。道を挟んですぐ近くに、私学共済の宿泊施設、敷島館があり、チェックインには早いので入館することにした。町立の美術館というのもあまり聞かない。小さな自治体で美術館を運営するのは、大変なことは容易に想像される。廃業になった旅館を改造して美術館にしたらしい。
  

 竹内栖鳳も、安井曽太郎も晩年、湯河原に居を構えているのである。美術館で購入した図録で知ったのである。竹内栖鳳は、日本画家で文化勲章を受章している。安井曽太郎は、洋画家の重鎮である。二人とも、京都の出身であるというのも偶然だが面白い。
当日は、竹内礼二の企画展が開催されていた。雑誌文芸春秋の表紙絵を描いている画家である。彼が日本に持ち込んだ、モネの蓮は冬眠中だったが、裏庭にある池には、河津桜の花びらが、冬には珍しい、春の嵐のような風に散っていた。
 今回、湯河原に宿をとったのは、友人の配慮である。現在は、国立大学の教授だが、私学にも籍を置いたことがあり、私学共済の会員の特権がある。以前にも宿泊したことがありお薦めの宿だと言う。築は古いが、湯も良し、食事も良し、もてなしも良し、彼の見立てのとおりの宿だった。別に部屋をとり、気ままな逗留となった。
 一日中宿に篭るのも別に気にならない。本を携帯しているから、読書に耽ることも普段の習性として自然な休日の過ごし方である。なによりも、再会の雑談も話題に共通点があるので意味がある。将棋の対局もいつもの温泉宿での楽しみになっている。接戦になるが最近は分が悪い。お酒のせいにはできないが、寄せは彼の方が鋭い。今回も敗戦となった。囲碁対局は、勝利となったが、お互いザル碁で、傍で観戦する高段者がいたら、赤面ものである。将棋も囲碁も手談だと思っている。会話である。
 

 そんな彼が、宿から連れ出した。梅の花を見に行こうというのである。湯河原の梅林は有名である。幕山の麓に、約四千本の紅白の梅が植えられている。まだ、二、三分咲きだというが、見る価値はある。なるほど、梅を春告草というのも分かる。幕山の雑木は、冬枯れのままである。満開になれば、まるで吉野の梅版だと思った。梅林を散策すると、岩山で良く梅が植えられたと感心するばかりである。傾斜地に梅は植えられるが、それなりの土壌である。鑑賞が目的の梅林なのだろう。収穫するのには環境が悪いし、集荷するに値する品質は、この農園では困難であろう。
 我が家も梅農家の端くれ。梅には愛着がある。三月になれば、梅の花が咲く。梅の香りは格別である。その、梅の畑の一角に、もう少しで庵が完成する。来年の春には、彼を招けるようにするつもりである。収穫した梅を送ると、器用に漬ける趣味もある。新築祝いに、スモモの苗を贈ってくれるらしい。品種も決めていて、「大石早生」という名前らしい。
 湯河原と言えば、この地を有名にした文人がいる。国木田独歩である。宿に持参して『武蔵野』を久しぶりに読んだ。今は、ほとんど消滅してしまった平地の雑木林は、日本人とっては懐かしい風景である。『武蔵野』は短編であるが、俳句のような趣がある。
 山は暮れて野は黄昏の芒かな
国木田独歩は、蕪村のこの句を文章の中に引用しているが、まさに『武蔵野』の一風景を切り取った情景のように思える。
  

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2016年01月01日

大晦日日帰り旅行



元旦の日帰りの旅は、2016年で15年連続となるところだったが、途切れることになった。
前倒しというわけではないが、大晦日になった。「継続は力なり」というが、拘ることも良くない。事情が変われば変更してもよい。難しく言えば、心の調和。旅立の思いである。何故に変更したかといえば、友人との再会である。
再会の場所は、江ノ島である。でも再会は実現しなかった。友人に事情ができたからである。仕事という事情である。「遊びは自分の都合、仕事は他人の事情」。人は、他人を先にして、自分を後にするものでしょう。元々、元旦日帰り旅行は、一人旅が多かった。元旦は、家に居たり実家に居るのが日本人の習慣だから、友人に会えなかったことは苦にならない。
しばらく、俳句から遠ざかっているが、高浜虚子の「去年今年貫く棒の如きもの」という句が実感できたような気がするのである。何も、大晦日から元旦へと特別な時間の推移があるわけではない。高齢になればなおさらそう感じるのではないだろうか。湘南海岸は良い。さらに言えば海は良い。肝心の富士は、晴れていたが見えなかった。


「江ノ島の富士はいずこか冬の旅」
鎌倉には行かなかったが、江ノ島の観光客は外国人客が多いのに驚いた。中国語がしゃべれるわけではないが、東南アジアの人らしき人もいたように感じた。別段、違和感もない。楽しそうである。意外と若者が多い。笑い方は万国共通なのかそこだけは、理解できる。情の世界だから。大晦日の旅行で、元旦は数十年ぶりに違う気分を味わえた。日曜日でもテレビなど見ないのだが、読書の傍ら、画面を見る時間ができた。NHKを見たら難民を取り上げていた。20世紀は、難民の世紀だと言っている。その原因は争いである。難民になるほどの争いはやめたい。意見の違いは当然。生きる権利を奪う権利は人間にはない。良寛さんのように。植物のように。少し観念的ですが、人は生かされるままにということを日帰り旅行で実感した。そうは言っても日々の糧は必要。経済のことは無視できない。
  

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2015年12月17日

大隅半島の旅(2015年12月)

 今年は暖冬なのか、師走になっても寒い日が続かない。数カ月前から計画していた鹿児島行きは、十二月半ばになった。日本の南端にあるだけに、さすがに暖かい。昼間は、コートいらずである。目指すは、鹿児島市からさらに南にある大隅半島である。この旅行を企画したのは、友人で、当初の計画では、鹿児島市から指宿まで鉄道で行き、フェリーで大隅半島に渡り、バスで鹿屋市に行くことになっていた。列車の車窓から錦江湾を眺めながら、船で海を渡るのも良い。海なし県の人間にとっては、海には憧れがある。
童謡「海」、「海は広いな大きいな。行ってみたいなよその国」の作詞者は、群馬県の人である。
 大隅半島にある鹿屋市には現在でも、海上自衛隊の基地がある。戦前もこの地に、海軍の航空基地があった。この基地から終戦近くになって特攻機が飛びたって行った。薩摩半島にある知覧基地からの特攻も知られているが、こちらは、陸軍による。特攻機の機数は、海軍の方が多かった。そのことは、意外と知られていない。いずれにしても、将来の日本を背負う、有為な青年が尊い命を犠牲にした。
 以前、知覧にある特攻平和記念館を訪ね、自分の中では特攻についての整理はできているつもりだったので、今回の旅のメインテーマにはなっていない。ただ、手記などが展示されていて改めて、慰霊の気持ちが高まったのも事実である。鹿屋航空基地資料館については、これ以上触れない。
 鹿児島市内には、以前から尊敬している人がいて、数年前お会いして知己を得た。厚生官僚から、大学で教鞭を執り、研究者の道に進んだ人である。その生きる姿勢に共感し、再度親交を深めたいと思っていたのである。前回お会いし、フェイスブックにより友人に加えていただいている。紀行文などを小冊子に纏め、友人知己に贈っていたが、ブログで掲載する方法も教えていただいた。大変な読書家で、退職後も思索を深められている。メールで鹿児島行きのことを送ると、我々の旅に同行してくださることになった。
 維新の偉人を多く出した、加治屋町に近いホテルで待ち合わせ、フェリーで垂水へ渡るコースとなった。鹿児島の港から垂水港までは四十分位で行ける。左手に櫻島が見える。角度を変えると、櫻島も円錐形に見える。晴れていて、近くにその雄姿を見ることができた。


 垂水市には、友人が訪ねてみたい理由があった。「軍艦行進曲」を作曲した瀬戸口藤吉の生地だったからである。垂水市のタクシーの運転手に案内してもらったが、公民館の垣根に看板があるだけであった。軍艦マーチは、すっかりパチンコ店のメロディーになった感があるが、友人には名曲として記憶されている。鹿児島市内にある「ふるさと偉人館」で、フェントンが作曲した「君が代」のメロディーにも痛く感心していた。共に軍楽隊が演奏する曲であった。軍隊と音楽には人並み以上の関心を持っている。戦争を鼓舞する手段と言うことではなく、明治以降の日本の音楽の歴史に軸を置いている。鹿児島の友人の配慮でもある。
 垂水市から鹿屋市へ向かう道は、しばし海岸線を走る。列車ではなく車での錦江湾の眺めになった。彼方に開聞岳が見える。街路樹を見ると南国に来たという感じがする。背の高い椰子や低いのがあって「ワシントン」、「フェニックス」は覚えたが、他のものは、失念した。赤い実をつけた木は、「クロガネモチ」で、ヒヨドリが好んで食べるのだと言う。運転手は、鳥に詳しい。幼い時、トリモチで野鳥を獲って遊んだらしい。この旅で、鳥の句をものにしようと思っていたが、肝心のヒヨドリが現われないのでは、句も創れない。
 

 鹿屋市にある海上自衛隊の航空基地資料館に立ち寄る。観光バスが何台も停まっていて平日であっても入場者は多い。多くの航空機が、資料館の周囲に置かれている。ひときわ目に付くのが飛行艇である。二式大型飛行艇として知られているが、日本にはこの一機しかないという。館内には、ゼロ戦があった。約一時間の見学だったが、友人からすれば、もっと時間をかけて見たかったかもしれない。
 次に向かったのは、肝付町である。島津氏に征服される前に肝付氏が治めていた土地である。鹿児島市在住の友人の奥様の実家があって、石高の高い由緒ある家柄の武家で立派な門がある。一昨年、老朽化が進んだ門を、昭和三十年代の写真を参考に修復した。その門と屋敷を見せていただいた。日高家は、江戸初期からこの地に屋敷を構えた。現在残る家に、西郷隆盛も立ち寄ったらしい。愛犬を連れて狩をし、温泉などで体を休めた後のことだったのだろう。歴史を感じる。
 武家門の施主の思いや冬の空
自費で改修した思いは、いかばかりかと想像して見た。門の上の冬空は青々としていていた。この門の前の通りを流鏑馬祭りの行列が通る。若武者の射手は中学生だという。日高家と同じような門を持つ家が、続いていて、歴史的景観が残されている。
 武家門を見学する前に、町の食堂で昼食になった。店の古さは、四、五十年前に立ち戻った感じがした。地元の人で空席がないほどである。メニューも多い。店のおすすめの「魚フライ定食」を注文。なんと三枚のフライが出てきた。他にサツマイモと野菜のてんぷらも付いている。キャベツの千切り、ポテトサラダと皿から溢れんばかりである。もちろん味噌汁つきである。値段が五百五十円というから驚く。タクシーの運転手も同席した。
 

 大隅半島は神話の地でもある。古事記や日本書紀を詳細に読んだことはないが、およその流れは、分かっているつもりである。肝付町にある神代三山稜の一つ吾平山上稜に案内してもらった。石橋を清掃している業者以外に参拝者はおらず、原生林に囲まれた神域の雰囲気は格別なものがあった。正月には多くの人々が訪れるらしい。神代三代は、天孫ニニギノ命から始まる。天照大神の孫にあたる。高千穂の山に降臨したと言われる。
ニニギノ命は大山祇神の娘コノハナサクヤ姫の間にヒコホホデミノ命をもうけ、その子がウガヤフキアエズノ命である。吾平山上稜は、この命の御稜ということになっている。明治になって政権が朝廷に移ると、神代三代の御稜を特定する必要に迫られた。政治的な目的もあったが、訪ねて見るとヒコホホデミノ命がお隠れになったといっても不思議ではない場所に感じる。御稜の前を流れる清流は、まるで伊勢神宮の五十鈴川のようである。
山形や福島、栃木などの県令や警視総監を歴任し「鬼県令」、「鬼総監」と恐れられた三島通庸も調査に加わった。三島通庸は、尊王思想の持ち主であったが、調査の中で熊襲の踊りを見た時、自分の中に流れる血と同じものを感じたと言う。熊襲は、時代が下って、景行天皇の御世にヤマトタケルノ命によって征伐されている。薩摩隼人の血は熊襲の血が流れているのかもしれない。鹿児島に戻り、夕食を共にすることになったが、友人が予約してくれた店は、熊襲亭であった。不思議な巡り会わせとなった。肝付町の芋焼酎「小鹿」も店に置いてあり、郷土料理のコースに満喫することができた。このような旅はなかなかできるものではない。
  

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