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2015年10月01日

真田丸(2015年9月)



 来年のNHK大河ドラマは、真田幸村を主人公にしたドラマになるようだ。真田氏の居城のあった、上田市は、観光客の来訪を予期して、モニュメントを整備したり、ポスターを商店街に貼ったりして、真田氏をアピールしている。一時的なブームに終わることが多いが、大河ドラマの経済効果は大きい。
 観光客で溢れる前に、上田市を散策してみることにした。ハイキング同好会、有志五人を誘って、上田市、別所温泉を訪ねることにした。五月の連休中に既に訪問していて、下見はできている。故人になったが俳優の地井武男の「ちい散歩」、加山雄三の「若大将のゆうゆう散歩」、タモリの「ブラタモリ」にあやかって、「おぎ散歩」ということになった。企画者を兼ねているので、真田氏のことを少しは調べておかねばならない。
 高崎を朝六時に出発。上田市までは、高速を使わず二時間もすれば着く。上田城址公園の駐車場に車を停め、お城の中をゆっくり散歩し、市内をぶらぶらしながら、近年できた「池波正太郎真田太平記館」を見学し、信州の鎌倉といわれる別所温泉に行き、お湯に浸かって帰ると言うのが、「おぎ散歩」の概略である。
 真田氏は、上田市に近い、真田町あたりに居城を構える信州の小豪族であったが、武田信玄の配下となり勢力を伸ばしていく。戦国の世の複雑な時代に、真田家は、親兄弟敵味方になって、徳川の時代、家名を残した。松代藩真田氏がそれである。幸村の兄である信幸が藩祖である。信幸は、当時には珍しく九十三歳という長寿で世を去っている。幕末の藩士の中には佐久間象山がいる。
 真田氏を一躍、天下に名を知らせたのは、上田城に押し寄せる徳川の大軍を二度にわたって撃退したことである。真田の戦上手は、世の人に知られることになった。そして圧巻は、大阪冬の陣と大阪夏の陣の幸村の奮戦である。大阪冬の陣で築いた小さな砦が真田丸である。ここに敵軍をおびき寄せ大戦果を上げた。大阪城の外堀を埋められた夏の陣では、さすが防御はかなわず、籠城戦にはならなかったが、家康の本陣を攻め、家康もう少しで討ち取るところまで善戦した。家康からすれば、恐るべし敵幸村である。
 「池波正太郎真田太平記館」では、特別展として、大阪夏の陣の資料を展示していた。黒田家が夏の陣の屏風絵を描き残したのは、幸村の兵(つわもの)としての印象が強烈に残されたからである。関が原の戦いで、西軍に組したため、高野山や九度山に配流された幸村は、十四年も苦渋に耐え、華々しく散ったのである。戦によって、社会の秩序が保たれた時代である。戦争は悪である。だから、幸村の生き方は否定するという平和論者の弁もあるだろう。しかし、日本人はこうした人物に惹かれるのも事実である。義経もしかり。幸村のことは、来年テレビで見れば良い。これ以上深入りはしない。
 上田城址に赤松小三郎という人物の顕彰碑があった。どのような人物なのか、碑に刻まれた文章読むほどではなかったのだが、長崎の海軍伝習所で勝海舟らと学んだ人物らしい。その後、明治の陸海軍の中枢を占める軍人を門下生とした。その中には東郷平八郎がおり、この碑は彼が中心になって建てられたようである。門下生の多くは、薩摩藩士であるが、その中の一人桐野利秋に暗殺されている。西南戦争に加わり、戦死した陸軍少将である。幕末、中村半次郎と名乗り、人切り半次郎と恐れられた。池波正太郎も
『人切り半次郎』というタイトルで小説を書いている。池波正太郎真田太平記館に文庫本が置かれていた。北国街道の古い町並みが残っている柳町通りの近くに、彼の生家があり、赤松小三郎の旗がなびいていた。改めてこの人物を意識した。幸村以上に関心が向いた。ぶらぶら散歩には、こうした副産物がある。
 別所温泉には触れない。ただ昼食に出たそばがふるっていた。六種類の味が楽しめるようにお膳に六個の器に入っている。六文銭である。真田の旗印である。
  

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2015年09月23日

京のことは、夢のまた夢(2015年9月)

 露と落ち露と消えにしわが身かな難波のことは夢のまた夢
太閤秀吉の辞世だと伝えられている。秋の連休を利用して京都を訪ねた。大学時代の友人夫妻が相次いで亡くなり、二人を偲ぶ会に出席するためだ。遺児二人、友人親娘、ゼミの担当教授と私の六人である。場所は、先斗町にある川床のある店である。現地集合ということにして、時間まで京都を散策することにした。
 京都駅から、二条城を目指す。市バスに乗ることにした。下車するのは堀川下立売。バス停の近くに、江戸初期の儒者、伊藤仁斎の開いた塾の跡が残っている。古義堂と言った。伊藤仁斎は、私財を投じて高瀬川を開通させた角倉了以を曽祖父にもつ。林羅山のように御用学者にならず、大衆に多くの弟子を持った。その姿勢は、教授というより共に学ぶというものだった。古典に戻り、孔子から遥か後に体系化された、朱子学とは違っていた。今日流に言えば、情や愛を掘り下げた思想になっている。その教えは、子孫によって明治まで続いたというから驚きである、今の建物(書庫)は明治時代のものらしい。松も由緒あるものと立て看板に書いてあった。
 堀川通りを横断し、上長者町通りに入り、何筋か目が、黒門通りである。ここから、数十メート北に行った右側に下宿した家があった。住所は、京都市上京区黒門通り上長者町上ルとなっていたと思う。番地は覚えていない。上ルというのは、北に行くことで、上長者町(東西の通り)の通りから、黒門通り(南北の通り)を北に行ったところですよということなのだが、碁盤の目の京都市街ならではの住所表記である。典型的な町屋造りの家で、間口が狭かったが、奥行きはあった。この家の二階に住んだが、外窓はなかった。『罪と罰』のラスコーリニコフの屋根裏部屋ほどではないが、寝るだけの部屋のようだった。隣の友人の部屋は、中庭に面し、陽光も差込み、面積も広かった。家賃のことがあったのだろう。良い部屋を、友人に譲ったわけではない。定年退職後の教師夫妻が、一階に住んでいて、あまり門限などの決まりにはうるさくなかったような記憶が残っている。朝になると豆腐売りのラッパや、機織の音が聞こえてきた。いわゆる西陣と呼ばれる地域だった。応仁の乱の山名宗全の陣があったからその名があると言われている。どこかに、碑があったような気がする。
 下宿先の家は、見つからなかった。人に尋ねることもしなかったが、記憶にある家はなかった。家主は既に他界しているだろう。四十五年の月日が流れている、
 ふるさとは 家なくてただ 秋の風
という句が浮かんだ。
「物質はない、映像だ」と言った人の句である。


黒門通りの西側一帯に秀吉が築いたとされる聚楽第があった。その位置は、推定の域を出ないが、堀もめぐらされた広大な敷地の中の建物で、金箔に装飾された豪華なものだったらしい。近年、石組みや、屋根瓦が発掘され、その存在が確かめられている。秀吉の甥にあたる秀次も住んだらしいが、築いた秀吉の手で破壊されたらしい。秀頼の誕生により、秀次は聚楽第のように抹殺されている。秀吉の権力への執着は凄まじい。京都の町を土塁で囲んだ御土居といい、大阪城の築城といい、膨大な資金と労力を注ぎ込んだ力は驚愕に値する。権力を得てからの所業は、家康と対比されるが、一代で権力の頂点に上り詰めた運と力量は認めても、秀吉に対しては、何か違和感が残る。
偲ぶ会までには時間がある。聚楽第が見られない代わりに二条城を見ることにした。連休ということもあり、入場者で溢れている。外国人も多い。爆買いで知られる中国人が目立つ。日本庭園や二の丸御殿を見てどう感じるのだろう。ごみ等落として行ってほしくないし、落書きなどはご法度だ。相変わらず声が大きい。
京都を今回訪ねたもう一つの目的は、庭園の鑑賞である、方丈庭園や、枯山水の庭園、りっぱな松の配置された庭は参考にはできないが、和洋折衷のシンプルな庭を考えてみたいと思っている。芝と石を使い、庭に高低を作り、安らぎの眺めが作れれば良い。新築予定の小家屋は、高台にあり、遠山の借景と敷地は梅林の中にあるので、植木はいらない。手のかかる松などは論外である。問題は採光である。芝が育つ環境であるかが肝心である。京都の土壌は、粘土質である。芝には向いていない。苔には向いている、二条城の庭園の芝もなんとなく元気がない。大政奉還の舞台になった部屋、四百五十メートルもあり鴬張りの廊下のある建物には関心が向かなかった。
二条城を出て、御池通りを東に行く。御池通りは広い。京都の火災の延焼を防ぐ通りとも聴く。車社会になってみればこうした広い道があっても良い。京都市役所のレトロな建物が見えてくる。このあたりは、長州藩邸や本能寺があった場所である。高瀬川に出る。高瀬舟が固定されている場所が、一之舟入として残されている。舟入は、下流にも多くあったが、埋め立てられている。『曳き舟の道』という本を読んだが、角倉了以という人は、今日なら確実に京都名誉市民。あるいは名誉府民、あるいはそれ以上の存在である。人々の暮らしを豊かにした。豪商ではあったが、私欲から発想した事業ではない。一族からは学者や芸術家も出ている。息子角倉素庵は、「嵯峨本」で知られ、自身は能筆家でもあった。藤原惺窩にも師事した教養人でもある。辻邦夫の『嵯峨名月記』に本阿弥光悦や俵屋宗達とともに描かれている。
川床での食事会になった。なるほど風情がある。鴨川の流れは緩やかで、どこからとなく三味線の音色が聞こえてくる。陽も次第に暮れて、月が浮かぶ。亡き友人夫妻の遺児は、好青年であった。兄には、父親の面影があり、弟は母親似に見えた。葬儀に参列できなかったので、親しく会話できる時を持てて、一つの心の区切りができた。父親のようにお酒が好きだと聞いていたが遠慮がちにしていた感じである。
三条木屋町からタクシーで恩師の家へ。何度となく泊めていただいている。家までの道は私道となっていて市街地には珍しく舗装がされていない。道脇に敢えてというふうに野草が植えられている。夜目にも芒はわかる。女郎花が目に入った。秋の風情が、玄関までの道に感じられる。恩師の奥様が種を蒔き、育てられていた。東京国立博物館で見た酒井抱一の『夏秋草図屏風』を思い浮かべた。
高級な焼酎が用意され、すっかり飲みすぎて酔いがまわってしまった。女郎花の話になった。野草、薬草に関心がおありで、自宅の庭にも鉢植えの野草もある。カリガネ草の花が、翌朝応接間の窓から、ひときわ美しく咲いているのが見えた。奥様は、心理学の大学教授であったが、臨床家でもあり、長くカウンセラーをされていた。快活に良くしゃべられるが人の話も良く聴いている。大脳前頭葉が優れているというしかない。思考の回転がとにかく速い。人物評などすべきでない。新島八重、平塚らいちょうといった女性と重ねた思慮のない発言は、前頭葉が低下した酔っ払いの口から出たものとお許しいただいたが、全くの失言だった。
ご主人は、対照的に寡黙である。ただ、人の話を良く聴いてくださることに共通点がある。教えていただいた古人の歌がある。今もって忘れない。
人はただ情けあれ 朝顔の花の上なる露の世に(閑吟集)
人の悪口や愚痴もこぼしたらしい。傍らでご主人が苦笑していたところを見れば、辛辣な内容ではなかったらしい。他人の前では、他人の悪口は言わない。むしろ褒めることが大事と言い聞かせていたが、お酒の勢いだったのかと猛省。
 翌日、恩師の運転で大徳寺の前まで送っていただいた。もう一つの下宿を訪ねたかったからである。その下宿は、今宮神社に近く、大徳寺の脇にあり、同じ建物が残っていた。利休像の置かれた山門、秀吉が築いた御土居跡も見た。これより先、鷹ヶ峰地区には、本阿弥光悦一族や、職人、富裕な町民が住む村があった。芸術村と言っても良い。その名残は、光悦寺くらいにしか残っていない。時間の制約もあり、その寺を訪ねることはできなかったが、京の町を見下ろせるような場所にある。当時も今も閑静な場所である。本阿弥光悦という人は、書もできたし、陶芸もできた。画家でもあり、作庭師でもあった。俵屋宗達を見出した人でもある。宗達が描いた鶴の絵の上に、三十六歌仙の歌を書いて蒔絵にしている。平家納経の修復を経験したことが素地にあるが、重要文化財になっている。日本のダ・ビンチと呼ぶ人もいる。前田家をパトロンとしたようだが、角倉了以と同様、権力からは距離を置き、特に晩年は、芸術に打ち込んだ人物である。やがて、その精神は尾形光琳などに引き継がれていく。
一泊二日の京の旅だったが、不思議な印象が残った。人生は夢のようである。まさに、京のことは、夢のまた夢という感じがした。京都は、第二の故郷のような気がしている。秀吉と違うのは、為政者でもなく、巨大な建造物や構造物を築いたわけではない。思い出多き地ということである。それも移ろって無常だが、ただ大事なものが京の地には残っているような気がする。情と言う心の働きは、消えざるものかもしれない。
  

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2015年06月02日

長瀞渓谷(2015年5月)

五月後半、雨が降らない日が続いている。しばらくすれば入梅という季節にもかかわらずである。梅の出荷も始まっているが、せっかく友人たちが前々から計画してくれた長瀞散策に出かけることにした。この日も気温は、三十度を超えた。ただ、風が爽やかで湿度は低い。晴天で日差しは強い。


長瀞町は、群馬県境に接している。三波石で知られる藤岡市鬼石から山越えで行ける。長瀞を訪ねたのは、はるか昔である。小学生、あるいは中学生の時だったか記憶は定かではないが、半世紀前のことだと思う。天然記念物だから景観は変わっていないのだろうが、あらためて景勝地だということを実感させてくれる。
鬼石には、神流川が流れ、上流には長瀞に劣らない渓谷がある。古くから群馬は、仏教信仰が広まった地区であり、鬼石の浄法寺は、奈良時代に創設された古い寺である。唐から日本に渡ってきた、鑑真の高弟であった、道忠が開祖と伝えられている。今は、天台宗の寺になっているが、慈覚大師も道忠の流れを汲んでいる。下野出身の僧だったことも無関係ではないようである。道忠のような高僧が、東国の山深い里で仏教を広めたことは不思議である。
朝早く、高崎を出たので、お目当ての「長瀞ライン下り」の営業も始まっていない。売店が少しずつ開き始め土産物を見て回る。しゃくし菜漬けが人気があり、試食品を食べてみると、なるほど美味い。店の奥に用意されている健康茶を勧められ、しゃくし菜漬けを買ってしまった。商売上手ということだが、値段も手ごろで善意な店という感じがした。
「長瀞ライン下り」AコースとBコースがあって、Bコースを選んだ。岩畳という場所から下流に下って行く。所要時間は、二十五分程で、船頭さんの解説では、今日は流れが緩く、いつもよりも時間をかけて下ることができるのでお得だという。乗船料は、一六〇〇円である。瀞というのは、流れが緩く深い場所のことで、途中そうした所があった。この川は、荒川の上流で、流れに身を任せれば、二・三日で東京湾に出るという。船頭さん、二人いて前の人は竹竿一本で船を操っている。後ろで櫓を操っている人が、舟下りの解説者である。「村の渡しの船頭さん」ではないが、年恰好は還暦を過ぎている。さすが、熟練していて、安心して川下りができた。人工の船着場は、この渓谷が天然記念物なのでない。船は、トラックの荷台に吊り上げられ、上流に運ばれる。昔はどうしていたのだろう。


幹事の一人が、天然氷を食べさせてくれる店があるというので、長瀞駅近くの売店から、川沿いの木陰の道を歩くことにした。店は、上長瀞駅の近くにあり、阿左美冷蔵という老舗の氷製造業者である。テレビや、ネットで紹介されたことも人気に拍車がかかり、行列ができるほどだという。上長瀞駅の踏み切りを渡り、程近いところにあったが、看板があるわけではない。中庭に入ると大勢の人がいる。聞けば一時間半待ちということで、カキ氷を食べる前に熱中症にかかるリスクを考えれば、諦めて駅前の蕎麦屋さんで昼食にした方が正解だろうということで合意した。店には、阿左美冷蔵の旗があった。聞けば、天然氷ではないという。幹事の一人は、天然カキ氷に拘っている。長瀞駅の近くに支店があるという。昼食後、店に行くと行列はできているが、それほど待たなくとも食べられるという。さすが、美味い。値段もよろしい。一〇〇〇円のものもある。不思議と頭に痛みがこないとは聞いていたがそのとおりである。夏のような暑さの、五月最後の日に思いで深い体験ができた。幹事に二重に感謝である。




そのお礼というわけではないが、帰路、最近世界遺産になった群馬の絹遺産群の一つである高山社に案内することにした。富国強兵のもと、絹産業は国策のようになった。その養蚕技術を高め、指導したのが高山長五郎である。明治初期の建物が残っている。二階が蚕室になっている。我が家も養蚕農家であった時代があり、小学生の頃手伝いをしたことがあるので、懐かしくもあった。観光客のことも考え、急ピッチで駐車場や歩道が整備されているが、建設途中である。入館料のようなものはない。資料も無料。案内人もボランティア。案内人によれば高山長五郎の精神なのだという。この家で、無料で養蚕の技術を教えたのだという。てっきり、高山長五郎は、庄屋の息子だと思ったら武家だという。高山彦九郎を連想したが、詳しく調べたわけではないが無関係ではないようだ。遠い祖先で繋がっているという。写真嫌いというより、目立つのが嫌いな人物だったようだ。一枚だけ写真が残っている。なかなかの美男子である。
「生まれた年は、吉田松陰と同じです」
文政一三年(一八三〇)に生まれ、明治一九年(一八八六)に亡くなった。「花燃ゆ」が放映されている。この時代と重なっているのである。最後に立ち寄ったのは、藤岡インターの近くにある道の駅、数日分の買い物ができたと喜ばれた。
  

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2015年05月09日

山本宣治の碑



 別所温泉の案内図を見ていたら山本宣治の碑があることを知った。何でここにあるのかというのが第一印象である。山本宣治の名前は、ほとんど忘れかけているに近い。遠い過去の記憶がある。その映画の名前さえ覚えていないが、学生時代に観たのだが、山本宣治が登場していた。それよりも小林多喜二の死が痛々しかった。昭和の初期の思想弾圧を描いた作品だったのだろう。
 安楽寺の国宝の塔を見た帰りに、案内の標識を頼りに捜すとこの碑の前に出た。碑は一つだけではない。その説明も書かれている。山本宣治が東京で右翼団体の一員に刺殺される前に、上田に来て多くの農民の前で演説をしている。昭和四年三月一日のことである。山本宣治は、第一回の普通選挙で当選した。労農党からの出馬であった。しかし、この頃共産党との繋がりを持つようになっており、彼を上田に招いたのは、高倉輝であった。彼の碑も並んで建っている。彼は、共産党員であった。


 山本宣治は、京都の宇治の料理旅館の息子で、両親は熱心なクリスチャンであった。同志社にも入学している。その後、東京帝国大学、京都帝国大学で学び、生物学者になった。当初は、キリスト教社会主義者に近く、安倍磯雄との交流もあった。彼も同志社ゆかりの人物である。山本宣治が、演説の中で残した言葉がある。
「山宣ひとり孤塁を守る。だが私は淋しくない。背後には大衆が支持しているから」
戦前の悪法と言われる治安維持法に真っ向から反対したが、彼が暗殺された日に成立し、その後多くの共産党員が検挙された。この法律で思い出すのは、佐久総合病院の院長だった若月俊一である。労働災害の調査活動がこの法律に抵触したという理由で拘留されたことがあった。戦後、佐久病院に赴任し、予防医学に力を入れ、農村医療を確立し、全国から注目された。都落ちではあったが、今日の長野県の医療は、若月俊一の功績に恩恵を受けている。
 戦後は、言論の自由や思想、宗教の自由は憲法で保障されているが、少数意見は、無視されがちなのは変わりはない。山本宣治の政治行動は過激でもなくみえるが、当時の国家権力には大衆を扇動する危険人物と写っていたのかもしれないが、自分の中に生まれた良心を無視することができなかったというふうに感じるのである。同志社設立者である新島襄の教えも少なからず山本宣治(山宣)に影響しているのだろう。
 

 別所温泉の安楽寺近くにあった山本宣治の碑にはラテン語で書かれ、その意味は
「生命は短い、科学は長し」
である。山本宣治の死後、有志が建立したが、官憲から粉砕撤去するよう命令される。碑の文字を揮豪した高倉輝は、検挙され、その借地にしていた場所にあったので、地主であった斎藤房雄という人が、機転を利かし、現在でも別所温泉で旅館業を営んでいる柏屋別荘の敷地に埋めて、当局には処分したと報告したのだという。それから三八年後の一九七一年にこの地に再び建立されだという数奇な歴史がある。山本宣治の碑については、別所温泉訪問の余話のようなものである。
  

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2015年05月08日

東京、信州日帰り旅行(2015年5月)

 五月連休の最後の日、都会と田舎を日帰りで旅行しようと思い立った。北陸新幹線を利用するとそれが可能である。毎年のように、信州の春を所を変えて味わっている。大分行く場所も限られてきたような気がするが、上田市に近い別所温泉には行っていない。一泊するならば友人を誘いたいと思ったが、先方の都合がつかない。上田までは、新幹線を使えば、安中榛名駅から三〇分で行ける。別所温泉駅の近くに、「あいぞめの湯」という日帰り温泉があるが、長時間のんびりして過ごす気分にもならない。意外にせっかちな性格なのかも知れない。
 東京、上野の東京国立博物館で特別展が開催されている。京都、高山寺の至宝が展示されている。高山寺には、時代祭に合わせ訪ねたことがあるが、国宝級の本物に触れることはできず、今回の企画は是非とも足を運びたい企画である。とりわけ、鳥獣戯画は、国内にない物もあり、特別展の目玉にもなっている。上り新幹線あさま号で安中榛名駅から八時五分発で上野に向かう。九時半の開館前に間にあったが、来館者が多い様子なので、隣接する黒田記念館に立ち寄ることにした。
 黒田記念館は、日本の西洋絵画の草分けとも言われる、黒田清輝を記念して建てられた。東京芸大にも近い。黒田清輝の死後の建築で昭和三年の竣工となっている。設計者は、岡田信一郎で、初代東京都美術館を設計した建築家でもある。開館には少し早いと思ったが、受付もなく自動ドアが空いたので入館すると、係員に呼び止められ、五分程待ってくださいと廊下にあった椅子に座るように指示された。その間、入口近くに表示されている記念館の説明書きを読むことができた。黒田清輝の遺言と遺産をもとに建てられたのだが、その遺志を託された人物がいる。樺山愛輔、牧野伸顕である。樺山資紀、大久保利通をそれぞれ父に持つ薩摩閥である。樺山愛輔の娘は、作家の白洲正子である。明恵上人の著作もある。黒田清輝も薩摩藩士の息子で、黒田清輝は、芸術家でもあり、貴族院議員となって政治力もあったことの背景が見えたような気がした。係員によると、東日本大震災後、耐震工事が為され、最近完了して入館できるようになったのだという。入館料は、無料である。二階が展示室になっている。展示室の入り口の前には、黒田清輝の胸像があった。作者は、高村光太郎である。ゆっくり鑑賞している時間もないので足早に見て回り、東京国立博物館に向かう。
 


こちらも入館料は無料。年間パスポートを持参しているので有効期限まで年六回まで無料になる。ところが、入場待ちの長蛇の列になっている。最後尾から入館まで八〇分となっている。入館しても三〇分しか時間が取れない。しかも、上田行きの新幹線に乗るための移動時間も考えておかないといけない。さらに、たたみかけるように
「入館後、鳥獣戯画を見るために一時間待ちになっております」
という係員の非情なアナウンスが。黒田記念館で道草を食っている場合ではなかったのである。熱中症にならないように日傘の貸し出しや、水の用意が為されてあったが、気持ち的には、目眩が生じていた。予定より、三〇分ほど早く入館できたが、案の定、鳥獣戯画をじっくり見ることは叶わなかった。普段は買わない図録で済ませることになった。多くの人が鳥獣戯画に惹きつけられているお陰で、もう一つの高山寺の秘宝をゆっくり見ることができた。
 「仏眼仏母」は、国宝である。明恵上人が若い時、この仏画の前で耳を切ったその画である。決して衝動的な行為ではないとしても驚きである。明恵上人は、幼くして母親と死別した。武士であった父親も母親の死後すぐに戦死している。この行為は、そのことと無関係ではないと言われている。その後の明恵上人像には、横顔を描いたものがあるが、切り落とされた右耳を配慮してか、同じく国宝である「樹上坐禅像」は、左向きになっている。しかし、大阪の久米田寺にある明恵上人像は右向きに描かれ、耳の上部がないのがわかる。


「樹上坐禅像」に戻るが、明恵上人の姿は大きくない。樹木の中に溶け込むようである。小鳥や、栗鼠もどこにいるかは分からないくらいだが、明恵の心の中にあるようである。小鳥と会話ができたと伝えられる、アッシジの聖人のようでもある。こちらは、国宝ではないが、木の彫刻の子犬も愛くるしいほどの出来栄えである。高山寺の国宝石水院で出会った子犬に再会したが、レプリカとは違う雰囲気がある。明恵上人は傍らに置いて愛玩していたらしい。日本人に明恵上人が好きな人は多い。この企画で明恵上人フアンが増えるのではないだろうか。
鳥獣戯画と関連して白描図像の存在を知った。密教図像のことである。ムハンマドの偶像を描くことで、テロ事件が起こっているが、仏教画の一つだが、墨と紙だけで描かれていて極めて素朴だが味わいがある。白描図像を素地にして自然界の動物たちを擬人化し、それに躍動感を加えたのが鳥獣戯画の誕生になっているのではないだろうかという推測である。その発想を明恵上人の思想が促したというのも納得のいく解説である。
 時間の余裕を持って、上野駅の新幹線ホームに向かったが、地下深くにあることもあり、案内標識も分かりづらくて発車時刻五分前にたどり着く。駅弁とお茶をホームの売店で購入して乗り込む。連休中だが、上野に向かう新幹線同様空席が多い。〝行きは良い良い帰りは怖い〟と思っていたら、上田から安中榛名の下りは、通路に立ちっぱなしになった。想定内ということだが、長時間でなかったので救われた。連休中の新幹線の乗車模様を観察できたのも一つの新鮮な体験となった。
 

上田駅には、午後一時頃到着。帰りの新幹線は、午後五時四六分。この間が、毎年恒例の信州の旅となる。新幹線上田駅に隣接して上田電鉄駅がある。別所温泉駅までは、各駅停車で三〇分余り。家のすぐ横を走り、田園地帯の中を走る。春の長閑さがある。田植えの時期には少し早い。上田の盆地も広い。佐久平ほどの広さはないのだろうが、内陸の盆地としてはかなりの広さである。塩田平という地名を目にした。
 上田駅から別府温泉駅の途中に大学前という駅がある。近くに長野大学がある。社会福祉関係に進む学生を多く輩出する私学で、戦後の創立だが五〇年の歴史がある。この大学に教授として就任した森幹郎先生のことを思い出した。数年前に、故人となられたが、多くの教えを受け、尊敬する人物の一人である。先生は、名古屋大学の経済学部を卒業したが、自身が結核療養をしたことや、身延山の久遠寺の階段で見たハンセン氏病の患者の姿に衝撃を受け、国立のハンセン氏病療養所に勤務したのを皮切りに、生涯社会福祉の道を歩んだ人である。福祉の現場から、厚生省の老人福祉専門官になり、老人福祉法の制定に尽力した。退官後最初に赴任したのが長野大学だった。専門は老年学だった。福祉政策にも詳通し、昭和三〇年代以後の日本の老人福祉に貢献している。森先生を尊敬するのは、持論を老年期に実践し、そのお姿を身近で拝見し、間接的ながら御教示いただいた時の御人柄に触れたことである。決して経営のことには口を挟むことなく、一人の入居者として、老人施設で亡くなった。社会的介護の持論どおり、子供の世話にならず自己完結の老後だった。
 

別所温泉は、信州の鎌倉とも呼ばれている。古くから温泉地で、日本武尊の東征にまつわる伝説もある。清少納言の枕草子に名前は違うが紹介されているという。帰りの電車に乗るまで二時間もあるので、安楽寺に向かう。この寺は、禅宗の寺だが、国宝の塔がある。この日帰り旅行は、敢えて共通点を上げようとすれば国宝を見る旅ということになる。安楽寺の裏山にこの塔は建っている。明恵上人没後の鎌倉末期の建立だという。屋根が八角になっている。周囲は墓地である。文人も訪ねたらしく、島木赤彦や窪田空穂の歌碑があった。この寺で多くの禅僧が修行し、鎌倉幕府の庇護もあったというから、別所温泉が信州の鎌倉と呼ばれていることの一因である。シャガの花が、森かげに咲いて美しい。土産の一つも買わねばならないと歩いていると「山海煮」という佃煮の店に目が行く。創業は明治三二年と書いてある。海と山の食材を使っている。試食させてもらったら結構美味い。


せっかくの別所温泉。お湯に入らない手はない。湯船からは山の緑が近く、眺望も良い。ゆっくり浸かり連休を締めくくることができた。上田駅に着いたら、時間があるので上田城に立ち寄ることにした。駅からは近そうで遠い。戦国時代、真田氏が二度にわたり、徳川の大軍を退けた名城として知られている。なるほど、堀は深く二重になっている。町のあちこちにポスタ―が貼られ、平成一六年の大河ドラマは、真田氏がとり揚げられるようだ。しかし、列車を利用したが、良く歩いた旅になった。家に帰り、携帯電話に記録された歩数は一五〇〇〇歩を超えている。何回か履き慣らしたつもりだったが、下ろしたての靴のため足に豆ができてしまった。
  

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2015年04月08日

おもてなし(2015年4月)

 春雨忌という集いがある。聞けば、今年で三六回になるという。故岡潔の供養の集まりである。岡潔は、昭和五三年の三月一日に他界している。世界的数学者として文化勲章も受章している。晩年は、数学の研究から離れ、心の世界を追求し、人がどのように生きれば人類が幸福になれるかを、命を削るようにして著述や講演で訴え続けた。訪ねて来る人には拒まず対面して話した。
 死後も、その深い思想に惹かれるようにして、有志が集まりを持つようになった。岡潔には、住み込みで日常を共にする書生ともいうべき人がいた。話を聞くところによれば、当初は、この人達が事務局になって春雨忌の案内を出し、集いの裏方を務めていた。ただ、会場を提供したのは次女夫婦であった。遠方の訪問者を泊め、手造りの食事まで用意して、父親の想いを身を持って伝えた。
「花燃ゆ」では、松下村塾が登場しているが、まさに塾のようである。長年、この会に参加して思うことは、共に学ぶという姿勢である。師は、亡き岡潔である。幸運なことに多くの著作が残っており、京都産業大学の講義のテープも残っている。集う人の自覚が深まるように互いに語り合い、自分の心の向上計るよう再会を約して別れた。一口に三六回と言っても大変な時間が流れている。加えて会を支えた次女夫婦、そしてご子息のご苦労は大変なものである。最近使われる「おもてなし」と言う言葉でも表現しきれない。見返りを求めることが、一切ないからである。「自分を後にして他人を先にせよ」というのは岡潔の教えであり、大変さを岡潔の遺族は微塵も見せない。頭が下がる。そのことに報いるためには、師の言葉を借りれば自分の識を高めることである。それだけには留まらず、菩薩のように狭くても自分の周りの人々やご縁のある人に情を寄せることである。世のためなどということでなくても、一隅を照らせば良いのであって、仏教の言葉を借りれば「衆善奉行」と考えるようになった。
 今年の正月、春雨忌で親しくなった友人が亡くなった。伝え聞くところによると、元旦子供達と団欒の後、忽然として世を去ったのである。人の世の無常を感じる。会津八一の歌が好きな人でいつも『鹿鳴集』を持参していた。彼を偲び、この本を持参し、春雨が柔らかく降り注ぐ、春日大社あたりを朝早く起きて一人散策した。
 春霞 禰宜の中道 ひとり行く
新薬師寺の狭い脇道を抜け、春日大社の参道に抜ける道がある。全くの山道で、原始林のような森になっている。木の標識があって、「禰宜の中道」と書かれてあった。途中人に出会うこともなく、雀らしき鳥の鳴き声だけである。春日大社の社殿に近い場所に出る。今年は二〇年に一度となる式年造替の年にあたっている。伊勢神宮のように新たな場所に社殿を立て替えるわけではない。社殿の大修理が行われるのである。来春、社殿を参拝することにして、奈良公園に向かう。
 参道の脇にしばし腰掛け『鹿鳴集』を開く。会津八一も季節季節にこのあたりを歩き、万葉を彷彿させる歌を詠んでいる。春の歌を二首揚げる。
 たびびと の め に いたき まで みどり なる
 ついぢ の ひま の なばたけ の いろ
高畑にてと前書きがあるが、このあたりには築き地塀が多い。崩れた塀の間から見える菜の花に目がとまった。
 ならざか の いし の ほとけ のおとがひ に
 こさめ ながるる はる は き に けり
奈良盆地の北に、奈良坂がある。ここからは、大仏殿が良く見える。その坂道の登り口に「夕日地蔵」という石像がある。
 バス通りに出る手前に広々とした草原のような場所があり、飛火野と言って多くの鹿がいる。高円山や春日山が背後に見えるが、春霞で見えない。若いカップルが鹿の間をぬって鹿苑の方向に歩いて行く後ろ姿が霧に隠れて行くように見えた。鹿は、見向きもせず草を食べている。
 春鹿や ゆくりゆくりと 草を食む


一時間程の散策だったが、宿泊させていただいた次女宅に戻ると朝餉の用意ができている。ありがたい限りである。食後、京都産業大学での岡先生の講義を録音テープで前日の宿泊者と、昼の食事会、午後の墓参に参加する人達と拝聴した。内容は難解だが、ただただ肉声が懐かしい。
 
 三日目の朝、有志で古市古墳群を見にゆく。こちらは事務局の計らいである。会費を集め、添乗員のように電車の切符の手配、食事場所の世話までしてくれる。事前に下見もしている。これまた無償の「おもてなし」である。
 近鉄奈良駅から西大寺で乗り換え、橿原神宮駅で再度乗り換えて古市で下車。この近くに古墳群が集中している。代表的な古墳が応神天皇陵である。大きさは仁徳天皇陵に次ぐ。周囲は、住宅になっている。全体像は見られない。誉田八幡宮を参拝して、応神天皇陵の拝所まで歩いて行く。誉田八幡宮の境内にある桜は古木だが満開である。拝所から見る陵の森は、小山のようになって別世界である。こうした形で、町の中に自然が残されていることも意味がある。応神天皇は、実在した天皇とされる。一五代の天皇で神功皇后の皇子である。中国の書物から年代が推測できると言う。四世紀の後半のことで、大陸の文化が日本にもたらされた時代であった。
 次の古墳に向かう。距離があるのでタクシーになった。搭載されているナビを見ると大小の古墳が点在していることがわかる。白鳥陵は日本武尊の陵とされている。東征を終えて大和に帰る途中病を得て三重の地で亡くなるが、魂は白鳥となってこの地にたどり着いたとされる。そして最後は天上に昇って行った。そのことから、羽曳野という地名が生まれたのだという。


 応神天皇陵のある古市古墳群と仁徳天皇陵のある百舌鳥古墳群は、世界文化遺産への登録を目指している。既に登録されていると思っていたので意外な感じがした。

  

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2015年03月16日

春よ来い(2015年3月)

 北陸新幹線が長野から金沢の区間が開通し、北陸への旅が便利になった。開業から二日目の三月一五日(日)新潟県の糸魚川市を訪ねることにした。家から近い安中榛名駅に車を停めて、日帰り一人旅である。開業翌日だったので切符が手に入るか心配していたが思いのほか空席があった。八時三二分発の長野行き「あさま」に乗り長野駅で「はくたか」に乗り換える。糸魚川に着いたのが一〇時少し前だから、およそ一時間半程の時間しかかからない。
 安中榛名駅は高崎駅と軽井沢駅の間の山の中腹にあるが、一日に新幹線が停車する本数は少ない。今回の開業でかえって本数が減ったらしい。もののけ駅などと揶揄されたことがあったが、ホームに早めに行くと誰もいない。発車時刻に近くなると、数人が現れたが、十人もいない。名前は申し上げないが、有力政治家による政治駅という噂もあった。日当たりの良い南面に土地の分譲でハイカラな家が立ち並ぶようになったが、駅前には商店街などはできていない。ただ、妙義山が眺望でき、景観は素晴らしい。長い年月をかけて街らしくなっていくのかもしれない。
 

軽井沢駅に着くと残雪があり、スキー場も営業している。リゾート地とあって下車する人も多い。長野方面の新幹線に乗る機会は少なかった。善光寺の御開帳に合わせて乗車した記憶しかない。今年が御開帳の年だから七年前のことである。車窓からの信州の眺めも新鮮である。長野駅で乗り換え、飯山、上越妙高に停車し糸魚川に着く。妙高山と言い上越の山々も雪をかぶり幻想的である。高山を見ると怖れを感じる。青葉の季節である五月頃も山々の峰には雪が残り、平地で田植えをしている風景も良いものである。旅情を掻き立てる風景である。
 糸魚川駅では歓迎ムードで人出も多い。地元の商店街の人達であろう。親切に観光案内もしてくれる。駅前にはステージができてイベントが行われている。北国の雪解けを待つような新幹線の開業だったのであろう。糸魚川駅の自慢は、日本海が近くに見える唯つの駅だということである。しかしそれだけではない。海に迫って一〇〇〇メートルを超える山々を見ることができる。黒姫山、雨飾山、火打山等である。皆タクシーの運転手さんに教えてもらったのであるが、野尻湖の近くにある黒姫山と同名の山があることは初めて知った。この山の中には日本百名山に入るものもあるという。三時間ほどの滞在なので海や山に感動しているわけにはいかない。
 

糸魚川訪問の目的は、明治、大正、昭和にかけて活躍した文人が生まれた土地だったからである。駅前に碑ができている程だから、地元の人は当然その名前を知っている。明治一六年に生まれ昭和二五年に亡くなった人物で、没後六〇年が経過している。相馬御風。童謡「春よ来い」の作詞者で知られている。昔からこの童謡が好きだったが、作詞者である相馬御風を意識したことはなかった。ちなみに作曲者は弘田龍太郎である。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒(はなお)の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている
春よ来い 早く来い
おうちの前の 桃の木の
蕾(つぼみ)もみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている

 春待つ心というか、雪国の人ならではの詩である。子供心を良くとらえている。相馬御風の名を知らしめたのは、早稲田大学の校歌の作詞者であることである。若干二四歳の時の作品だというから驚きである。師である坪内逍遙、島村抱月の要請だったという。二人とも相馬御風の詩才を高く買っていたのだろう。糸魚川市の歴史民俗資料館は、相馬御風記念館にもなっていて、彼の文字で早稲田の校歌が木に刻まれ掛けられていた。島村抱月で思い出されるのは、「カチューシャの唄」である。松井須磨子とのコンビで上演されたこの劇中歌は大いにヒットした。一番を島村抱月が作詞し、二番以降は相馬御風が書いた。作曲した中山晋平とも親しくなり二人が残した作品も多い。
 相馬御風の生い立ちに少し触れる。相馬御風記念館でもらった資料を元にしている。相馬家は旧家で一族は代々社寺建築を生業とし、江戸時代には名字帯刀を許されていた。父親の代には家業を廃業し、父相馬徳治郎は糸魚川町長になっていた。一人っ子として育ち、母親は病弱で、御風の少年時代に亡くなっている。母子の関係は詩人の背景に大いに影響を与えている。このあたりは、研究者に譲りたい。御風は、学校の成績も良かったが、三高の受験に失敗する。その後、京都に滞在している時同志社入学も考えたが、キリスト教に違和感があってやめたという。その後、東京に出て早稲田に入学する。


 相馬御風という人は多才で、記念館で見た書などは立派である。早稲田入学後は、歌人として才能を発揮し、与謝野鉄幹の「明星」の同人となり、石川啄木とも接点をもつことになる。歌にとどまらず、詩や小説にも関心を向け、とりわけ当時勢いを持っていた自然主義文学の理論家で、評論も多く書いている。このあたりは、島村抱月や、坪内逍遙の影響があるのであろう。交友関係も広い。田山花袋、島崎藤村、正宗白鳥といった人物である。文学者として前途洋洋と思われたが、三〇代で故郷糸魚川に帰ってしまう。自己に煩悶し、文学者として再出発するのである。母校早稲田の教職の道も保証されていたかも知れないのに。
 その後、糸魚川に定住し、力を注いだのが良寛の研究である。今日の良寛像を作ったのは、相馬御風だとも言われている。この点が、今回糸魚川に行く気にさせたと言っても良い。資産家であったことも想像されるが、新潟を始め、全国各地の校歌の作詞を手掛け、収入の道もあったと思うが、良寛にならって生活は質素だったと想像した。郷土の発展にも尽力したようである。翡翠の産地であることを世に問うたのも相馬御風の功績だとされる。
大糸線に姫川という無人の駅があって、近くに「ひすいの湯」という日帰り温泉がある。交通の便が悪く、タクシーを利用して言ったのだが、入館時間は三〇分しかとれず、まるでカラスの行水のようになってしまったが、相馬御風の生涯に思いを寄せるのには十分な時間であった。インターネットで調べて知った温泉だが、なるほど独得な匂いがする。石油臭いと書いている人もいたが、鉄分が多く含まれているのではないかとも思った。成分表見たわけではないから間違っているかもしれない。お湯で流さず着替えたら、長くその匂いが皮膚を離れなかった。相馬御風の香りということにしたい。
  

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2015年01月02日

元旦の湯河原(2015年1月)

 一〇年来、元旦は日帰り旅行と決めている。多くの人は、家で家族と団欒しながら茶の間でテレビなど見て過ごしているのだろうが、いろいろな正月の過ごし方があっても良い。以前は、元旦パスなどという格安切符があって、東北の日帰り旅行も可能だった。近年は、青春18切符を利用しているが、行く先は関東近県になる。昨年は、大磯だったが、今年は少し先にある湯河原温泉にした。温泉地熱海の一歩手前になるが、多くの文人達が愛した保養地でもある。静岡県だと思っていたら神奈川県である。下足柄郡にあって、湯河原町である。市ではない。町営の日帰り温泉「こごみの湯」で、体を休めることにした。友人を伴って、朝六時の出発の予定だったが、大晦日の家族団欒が過ぎたのか、家の前を通過している七時前の新幹線の音に目が覚め、高崎駅九時の出発となった。
 天気予報で、積雪の可能性もある。正月三日の雪は、「御降り」という。
御降りも亦良き朝の道すがら
という句もだいぶ昔のものだから久しぶりの体験になる。しかも温暖の地である。在来線の湘南ラインを利用し、小田原まで乗り換えなしである。都心で乗り換えずに済むのが良い。グリーン券を購入して指定席を確保。せめてもの贅沢である。出発が遅れたために、小田原で昼食。温泉地でゆったり過ごせるはずだったが、友人には悪いことをした。寝坊するといけないので徹夜したというからなおさらである。晴れ間はあったが、暗雲が迫り、小田原城も落城の感ありで、細かな雪の粒が落ちてきた。小田原から湯河原駅までは近い。

 
 湯河原というと、昭和一二年の二月二六日に起こった、青年将校のクーデターで、牧野伸顕が遭難しかけた場所だと言う記憶があった。湯河原駅からバスを利用し、万葉公園入り口で降り、橋を渡り坂道を登り、目的地の「こごみの湯」へ歩いて行くと、途中に、その遭難の地の史跡と、説明書きがあった。友人も調べて、この日帰り温泉を決めたわけではないのでビックリしている。
牧野伸顕については、説明がいる。明治維新の元勲である大久保利通の次男で、吉田茂首相の岳父である。麻生太郎元首相の曾祖父にもあたる。昭和天皇の信任が厚く、軍部からは、「君側の奸」と見られ、命を狙われ、とうとうそれが現実になったのがこの場所である。当時の建物は、襲撃によって焼かれ残っていないが、遺品などが展示されているという。この日はもちろん閉館になってそれらを見ることはできない。光風荘といって、老舗旅館伊東屋の別館であった。伊東屋は、今も坂下にあって和風建築の立派な宿になっている。牧野は、襲撃の情報を得ていたらしく、事件当日に避難していたとされるが、察知され襲われた。首謀者となったのは河野壽大尉という人で、八名で急襲した。護衛の巡査(殉職)に撃たれ重傷を負ったが、刑に服さず数日後自決した。家は焼かれ、地元の消防団も駆け付けたが、その団員の中にも傷ついた人がいた。牧野の孫である麻生財閥の妻になった和子もいて、彼女の勇気と機転によって、牧野は助かったとされる。その場面は、家が炎に包まれ、崖をよじ登って逃れようとした時、炎に照らし出され、襲撃者の目に牧野が浮かび上がった時、和子は前に立って和服を広げ祖父を隠したという。その健気な勇気に銃の引き金を引けなかったとされる。

 
この経緯は、母親から聴かされているかはともかく、息子である麻生太郎元首相は知っているに違いない。もしここで母親が銃弾に倒れていれば、彼は生まれていないのだから。青年将校の憂国の熱情は認めても、武力によるしかも暗殺という手段は受け入れられない。「君側の奸」と見られ殺害された、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎という人々は、見識の深い人々であり、私利私欲から程遠い人物であった。牧野伸顕は、戦後柏市に住み、最後まで皇室の行く末を心にかけながら、昭和24年に亡くなった。ほとんど、資産を残していなかったという。借財を残した、父、大久保利通に似ている。
 「こごめの湯」は、元旦というのに大勢の人が訪れていた。湯船も洗い場も満員状態。美肌の湯と言うだけあって泉質は良い。温度も適温でゆっくりと浸かって体を休めることができた。長居はできなかったが充分名湯を満喫することができた。帰路、雪が本格的に降り出した。東海道沿線の家々の屋根も夕刻で薄暗くなっているが、白くなり始めているのが解る。この分だと、群馬も雪が積もり、家までたどり着くのに難儀になるだろうと思ったが、娘に迎えを頼むと雪の話は出ない。無事帰還となったが、光風荘を見たからというわけでもあるまい。
  

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2014年11月15日

新潟平野を行く(2014年11月)

 新潟県の北、山形県境に近い村上市に瀬波温泉がある。海岸線にあって、日本海に沈む夕日が眺められる温泉地として人気がある。新潟県は、南北に長く、穀倉地帯が広がっている。日本の米の一大生産地である。特に、山間部に近い魚沼あたりは、とりわけ品質の良い米が取れる。魚沼産コシヒカリはブランド米になっている。加えて、日本酒が美味しいことでも有名で、人気のある銘柄を醸造する酒蔵がある。久保田、八海山、越の寒梅、吉乃川、景虎などなど。
 職員旅行に加わった。総勢一六名のバスツアーである。新潟へは、関越自動車道を利用する。朝九時に職場を出発し、一二時には新潟市に着いた。水上温泉までは、快晴であったが、全長一一キロもあるトンネルを抜けると天候は一変して曇りから雨になった。新潟と群馬の県境に連なる三国山脈を境に日本海側と太平洋側の気候は極端に変わる、冬の一日を体験した。気温が低ければ、当然に雪になっている。
 

越後湯沢は、リゾートマンションやホテルが立ち並んで、都会のような景観になっている。バブルがあって、マンションを所有する人も減って、ホテルとして経営している所も多くなったと聞く。スキー場もあるからリゾートとしての魅力は残っている。別荘と言う物は、利用したことはあるが、所有するには経費がかかる。ホテルに泊まった方が安上がりに決まっている。しかし、都会の雑踏の中に暮らす人には、静養できる場所になることは、事実である。ただし、家事が苦労に思わない人、特に男性はと言うことになる。私的なことになるが、現在の家が農地の中に建っていて、隣接する場所に、別棟を建てる余地がある。庵のつもりで終の住み家を考えるようになった。最近は、家と庭に関心が向くようになっている。高速道路を走っていると、雪国の家は、どこか違う。特に新築の家に特徴があることに気づいた。三階建てのように見えるが、良く見れば、一階が車庫や、倉庫になっている、そして、屋根の斜度がきつい。冬の雪対策だということがわかる。
 戦国時代、越後を支配した上杉謙信も北条氏の支配する上野の国に兵を冬進めることが困難だったことが容易に想像できる。信濃へは、千曲川に沿って進軍できたであろうが、いずれにしても冬の行軍は、上杉軍には負担が大きかったことには変わりない。新潟県は、上越、中越、下越に分かれている。糸魚川のあたりは、地図の下にあるが上越になる。日本海に面する北陸の昔の国名が、冨山県が越中、福井県が越前というように「後」や「前」は、都のあった京都からの距離である。「上」と「下」の関係も同じである。このあたりのことは、バスのガイドさんが説明してくれる。越の国の一つ、越後は、都までの距離が長く、上杉は有力大名であったにも関わらず、天下を取ることができなかったと言われている。甲斐の武田も同じである。尾張の織田は、その点では地の利があった。
 

新潟平野を流れる大河と言えば、信濃川であるが、その源流は、新潟県と長野県と群馬県である。信濃川に流れる川としては千曲川が最も大きい。千曲川と信濃川合わせた距離は、日本で最も長い。谷川岳あたりを源流とする魚野川と信濃川が合流するあたりから、越後平野が広々としてくる。冬場、雪に閉ざされてもこれだけの田園地帯を有する新潟は、豊かな国とも言えるが、冬労働する環境が少ないことは、やはりハンデになっているかもしれない。古来より、河川の氾濫による洪水にも悩まされている。大正時代になって、新潟市の洪水対策として寺泊の北に分水路が完成した。大河津分水という。
 高速道路から紅葉した山や、田園、大河の流れも見られるのだが、あいにくの天気で視界も悪い。しかし、時折陽がさして、山や里に虹が見られる。そうした虹の歓迎は、一度や二度ではなかった。畜産加工で知られる、阿賀野川に近い安田あたりでは遊園地のある山に虹がかかった。洋風の建物もあってメルヘンチックな眺めになった。俳句でもと思うが、なかなか句にならない。なにせ、虹がどの季節の季語であるか自信がない。条件さえ整えば、いつの季節でも虹は見られそうである。だから、虹を季語にしないで
 虹かかる粧おう山に観覧車
福島県から新潟県に流れ日本海に注ぐ大河である阿賀野川は、周回する河船が運行している。最上川のような川下りではない。元の船着き場に戻る屋形船である。エンジン付きなので船頭さんというわけではないが、ガイドさんが民謡などを歌ってくれる。年齢は八五歳だという。しかし、そんな歳には見えない。「船頭」という童謡がある。歌詞の出だしが面白い。
村の渡しの船頭さんは、今年六〇のお爺さん
昭和一六年の作詞だという。当時は、六〇歳はお爺さんだったのである。でも、体力はあったらしく、「年をとってもお船を漕ぐときは元気いっぱい櫓がしなる」と言っている。
 新潟の旅と言えば、美味しい魚がいただけることである。日本酒も美味しいから呑み助にはたまらない。喉黒という魚は高級魚である。昼食は、新潟市内のお寿司屋さんで喉黒丼ということになった。酢飯の上に、軽くあぶった切り身が沢山乗っている。魚自体は美味しいのだが、願わくば塩を少なめにしてほしかった。値段を見たら一七五〇円と書いてあったのでそれほど高くはない。
 今日の宿は、汐美荘というホテルで、眼の前は海岸である。既に日没に近く、あたりは暗くなっているが、お目当ての日本海に沈む夕日だけは見られなかった。村上市内にある酒蔵に寄ったのだが、案内してくれた人が、生粋の新潟の人らしく、汐美荘のことを「塩味噌」と言っているようで可笑しかった。ちょっとした発音でそのように聞こえたのだろうが、酒蔵での見学だったからそのように連想したのだろう。
 日本海は荒れていて、夜は海に面した窓ガラスに霙のようなものが当たって何度も眠りを妨げた。朝起きて見ると小雨は降っているが、雪交じりではない。沖にも暗雲がかかっていて、風も強い。
 荒海に木枯らし吹いて拉致の国
新潟からも北朝鮮に拉致された人がいる。
 

帰路の観光地は、越後の一宮である弥彦神社である。到着すると青空ものぞくが雨は降りやんではいない。弥彦山には霧が立ち上っている。社殿の背後の山も同じである。神秘的ですらある。お参りの仕方は、二礼四拍手一礼だという。その流儀に従う。
 霧立ちて弥彦の杜の神さびて
参道には菊が飾られている。世界遺産になった富士山を菊で飾ったものは見事であった。以前作った俳句がある。
天地人黄菊白菊出会うとき
結婚式の新郎新婦への花向けに作った句である。
弥彦神社は、これで四回目の参拝になる。好きな神社の一つである。
現在の弥彦神社は、焼失により大正時代に再建されたもので、設計したのは伊藤忠太という建築家である。狛犬も彼の作品である。
 

最後に立ち寄ったのは、魚沼市にある西福寺という曹洞宗の寺院である。開山堂という建物の中に、石川雲蝶という幕末の彫師の作品がある。実に見事なものだということはわかる。石川雲蝶は、日本のミケランジェロと言う人もいるようだし、日光開山堂という建物の別称もあるようだ。日光東照宮の陽明門を連想させるからであろう。弥彦神社を見た後の鑑賞だったからではないが、それほどの感慨が湧いてこない。旅行の車中で読めるように一冊の文庫本を持参していた。建築家であるブルー・ノタウト著『ニッポン』である。タウトは、日本の文化を愛したが、陽明門は評価しなかった。桂離宮や伊勢神宮に日本の美を感じ取った人である。西洋文化を肌身で知っている人だから、教会や宮殿のきらびやかな装飾に類似する彫刻には新鮮さを感じなかったからだろう。加えて、道元が開祖になっている曹洞宗の寺ということだが、道元は哲学的で、彫刻のような偶像的なものとは無縁の人だったと思っている。「是心是仏」という道元の言葉が、寺の廊下に書かれていて、「今を大事に生きる」と解説してあったが、その教えを守るようにすることなのだろう。住職さんは、宮沢賢治の詩もお好きなようで「雨ニモマケズ」の詩を寺に掲げていた。
 

新潟から群馬の県境を抜けると晴れている。山々の紅葉が夕日に映えている。赤城山の雄姿も全容がすっきりと見えた。新潟と群馬の気候の違いを痛感できた二日間の旅行であった。蛇足だが、西福寺は、赤城山(せきじょうざん)西福寺である。
  

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2014年10月23日

温泉対局(2014年10月)


 

四万温泉は、群馬県中之条市の奥まった山峡にある温泉地で古くから知られている。温泉街の前を四万川の清流が流れ、上毛カルタには、「世のちり洗う四万温泉」と詠われている。昨年、静岡に住む友人が、将棋の宿があるから泊まりに行かないかと誘われた。〝灯台もと暗し〟である。群馬にいながら四万温泉に泊まったことはなかった。旅館の名前は、唐澤旅館と言って、プロ棋士の色紙があるところを見ると、将棋愛好家だけでなくプロ棋士が泊まっていることがわかる。碁盤も置かれていて、囲碁・将棋の宿という言い方が正しい。宿の主人は、囲碁の高段者で昨年は、三子で御指導いただいた。
 昨年、二泊三日だったので、棋友とはゆっくり将棋が指せた。宿は古いが、家庭的な感じがあり、宿泊客が我々だけだったこともあり、相部屋にならなかった。風呂も家庭風呂のようで、好きな時間に入ることができた。食堂を兼ねた広間に、プロ棋士の創作した詰将棋の色紙が飾ってあって、詰み手を発見しようと、挑戦してみたがどうしても解けずにいた。自宅に帰り考えていたらどうやら解けた。しかし、正解かどうかは、確信がなかったので、今回主人に確認しようと思っていた。
 詰む場所が、色紙の盤面にはなく驚いたことに9一という場所で詰むのである。なんと29手詰めである。正解手順の控えがあるというので、早速確認したところ見事正解である。二人目の正解者ということだが、最初の宿泊の時解けたわけではないから、数にいれなくても良いと言うと、答えを教えたわけではないから二人目ということで承認してもらった。
 詰み手順を解説付きで書くことにする。初手は●3一銀(1)である。後手は、1三に玉が逃げると、2二に銀を打たれて早詰みになってしまうので、玉は1二に逃げることになる。3手目は、●2二金(3)である。同銀とは取れない。これも早詰みとなる。○1三玉(4)と逃げて●2三金(5)と歩を取る。○同玉(6)の一手となり、2四から銀を打つ。3二に玉が逃げると3三銀と取って、これまた早詰み。○2四同銀(8)と取る。次の手は、最後の銀を3二銀(9)と打つ。同玉と取ると、早詰みとなるので、○1三玉(10)と逃げる。●1二銀(11)と王手に捨て、○同玉(12)と取らせる。●2一飛成(13)と王手とし、○3三玉、(14)●2三龍(15)、○4二玉(16)となる。この時点で持ち駒は、桂と歩である。●4四桂が好手で、ここから王様一人の逃避行になる。ここまでの手数は、十七手。以下は棋譜だけ書く。色紙の図面から消えて行くのである。○5二玉●4三龍○6一玉●6三龍○7一玉●6二桂成○8一玉●7二成桂○9二玉●9三歩○9一玉●7一龍までの二九手詰めである。
 詰将棋の図面がないので駒の配置を記すと。後手方、1一香・1四歩・2一桂・2二玉・2三歩・3三銀・3四歩・4四歩。先手方2五歩・4一飛。持ち駒は、金、銀、銀、銀である。将棋盤に並べてから考えてみてほしい。
 岡山の友人は、飛行機と列車を乗り継いで、安中榛名駅に下車。自家用車で迎えに行き、八場ダム工事地を案内し、四万温泉までのドライブになった。記念館や娯楽施設には興味のない人で、紅葉の始まった群馬の自然を見てもらうだけにした。昼飯は、東京駅で食べたらしく、ついでにビールも飲んでいる。宿に早く着いてゆっくりしたいのだろうと思ったが、一か所だけ倉渕町の落合にある道祖神に立ち寄った。江戸時代の物で、短い時間だがまんざらつまらない物を見せられたという印象はなかった。
 紅葉して和合日和や道祖神
 旅館に着いたのは四時過ぎで夕食までには時間があるので、温泉に入ることにした。夕食後は、将棋対局になった。軍師官兵衛が見たいと言うので、対局は、二局。ドラマの前の一局はこちらの勝利。ドラマの後は接戦になったが、持ち込んだお酒も飲んで、最後のあたりは指しかけにして就寝。朝再開したが、一手でこちらが投了。どうやら昨夜の局面で勝ちはなかったようだ。数手前に敗着があったことに気づいたが後の祭り。飲んでの将棋は駄目と思うが、相手も飲んでいるのだから条件は同じである。実力は彼の方が上なので、指し分けで良しとしたい。
 四万温泉からは、中之条の市街を経由し、沼田市から次の宿泊地の水上温泉に向かう。旅館は、三時からチェクインなので時間は充分ある。土産物と思うが適当なものがない。
「群馬で土産にするものは何もない」
これは、友人の弁である。言い過ぎだと思うが、こんにゃく、うどん、饅頭などには興味なさそうである。街道沿いにリンゴがたわわに実っていたのを思い出したのか、四万温泉の旅館の主人の親戚のリンゴ農園に予約して、宅急便で箱詰めのリンゴを送ることにした。農園の名前が小渕農園。朝刊をみたら、小渕優子大臣が辞任したという記事が一面に出ていた。彼女の選挙区であり、中之条市が地元になる。政治とカネの問題での辞任というが、不祥事はなかなか絶えない。
赤く熟れニュートンを待つ林檎かな
ただこの句は、農園の人にとってはいただけない句である。地にリンゴが落下してしまえば価値がなくなる。落下する前に収穫しなければならない。それに、どことなく川柳っぽい。林檎を購入したのが、小渕農園であったこともあり、小渕大臣の辞職のことと絡めた句ということにして
赤く熟れニュートンを待つ優子りん
と言う句は、あまりにも揶揄し過ぎている。
当日の新聞の広告に載った某週刊誌には、群馬県と茨城県が知名度の低さで全国最下位を争うなどという記事が載っているが、岡山県も四〇番台だと、お互いの県を貶し合うようなことは止めようと旅行中の申し合わせにした。


 岡山県の山と群馬の山の印象は極端に違うという。群馬の山は急峻で、しかも独立峰になっているものが多く、山では群馬に負けると認めている。それならばと、谷川岳が近くに見える場所へと案内しようと思い、ロープウエイで天神平の展望台に登った。小雨が降り、嶺は霞がかかることもあったがはっきりと稜線が見えた。途中の紅葉も美しかった。
水上の温泉宿は、昨日とは変わって大きな旅館である。今晩は、将棋の対局はしない。この宿は、水上でも古く、芸術作品が多く置かれていることも特徴があるが、大浴場や露天風呂も凝っている。建物の下には利根川が流れている。対岸の欅も紅葉して美しい。朝、水上の町を眺めると周囲の山に霧が立ち登り、谷川岳は見えなかったが、友人にも満足してもらえる宿泊地になったと思う。来年は、日光に行きたいという。「日光に行かずして、結構と言うなかれ」である。後日、友人から手紙ともに俳句が五句送られてきた。二句は文中で紹介したが、他の三句は
かりがねの通いし空のうすみどり
佳句だと思う。
みどり児の夢の扉たたけ雁渡し
新蕎麦や酒と老婆と雨催ひ
昼食に、天ざる蕎麦を註文したが、手打ちであったこともあり満足してもらえたようだ。
  

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2014年10月08日

嵐の中の都会の休日(2014年10月)

 


台風一八号が九州地方に接近する十月四日(土)、二泊の予定で福岡を起点に、由布院日帰り旅行を決行した。台風の進路によっては、飛行機も欠航し、鉄道も運休する可能性もあった。「決行」という言葉には、そんな気分も含まれている。由布院は一度友人達と、ゆかりの宿に宿泊したことがある。亀の井別荘という旅館で、高級宿である。十一月の紅葉の始まる季節だった。この宿は、物理学者として知られる中谷宇吉郎の甥が経営者になっている。由布院の街おこしは有名で、亀の井別荘の主人である中谷健太郎さんもその立役者の一人である。宿泊した時、御挨拶させていただいたことがある。
 今回は、福岡市からの日帰り旅行にして、由布院の町をゆっくり散策し、由布岳を眺め、自然の残る高原の清楚な町を楽しみ、金鱗湖にも行き、歩き疲れた体を日帰り温泉で休め、往復を「ゆふいん号」というレトロな列車を利用して、旅情に慕ってみようというものだった。この計画は、台風のため断念せざるを得なくなった。日曜日、台風は宮崎県沖にある。列車は運休にはなっていないが、天気予報では、大分地方は風雨ともに激しく、とても旅行を楽しめる状態ではない。
 ホテルは、博多駅の筑紫口に近いホテルにしたのだが、午前十時以降、午後三時までは、部屋を出なければならない、五時間を福岡の町で過ごさなければならない。幸運なことに風はあっても雨は降っていない。時折晴れ間ものぞいている。明日の飛行機のことが心配になってきた。空港に行き、往復とも全日空のマイレージのポイントを利用して無料で購入できた搭乗券なので、変更が可能か確かめる必要があった。欠航であれば、変更ができることを確認できた。博多駅から地下鉄で福岡空港までは二駅という便利さである。明日の帰宅がなんとかなるという安心感で、普段は通り過ぎるだけの空港の設備をじっくり見て見ようと思った。
 


二階が出発ロビーと土産物店になっている。全日空のマイレージポイントがたまるクレジットカードは、全日空の販売店では一割引になる特典がある。土産物を買うならばこの店に限る。明太子の品物を見ると、老舗店で有名な「福さ屋」のものは、どこの販売店でも値段が変わっていない。年会費のあるクレジットだが、今回は大変恩恵を受けたことになる。最近退職した友人に送別ができなかったので土産を買うことにした。家人、親戚の土産は出発当日で良い。昼食は、三階がレストランになっていて、和洋中華まで選択肢が多い。場所も場所だから値段は安くはないが、昼は軽めにうどんにした。
 食事が終わったら、博多駅まで戻り、天然温泉のあるホテル行くことにした。由布院の日帰り温泉の変わりである。この情報は、空港にあったパソコンの有料のインターネットで検索して調べたのである。博多口から徒歩五分と書いてある。駅からこんな近くに天然温泉があるとは嬉しい。ビルの合間のそれほど風情のある湯殿ではなかったが、ゆったりと湯に浸かることができた。風呂上がりのビールも美味かった。
 ホテルに戻り、夕食までひと眠り。メールが入り、今晩の夕食は、風邪のため御一緒できないという内容。一人ではつまらないだろうから、カウンターで会話ができるような海鮮料理の店が駅ビルの十階にあるから行ってみてはどうかと調べてくれた。メールの主は、福岡の友人である。昨夜は店を予約してフルコースで歓談できたが、後半からそういえば声の調子が悪かった。無理はしない方が良い。学生時代からの友人で、福岡の在住のため当地では大変世話になっている。これまた福岡に四十年近く住んでいるが、群馬県の出身の友人も同席し、二人は初対面ながら打ち解けて楽しい時間を過ごすことができた。
博多駅の駅ビルは、最近改装されたようでりっぱなエレベーターがある。友人お薦めの店で、地魚の海鮮料理と焼酎をいただき、エレベーターに。ほろ酔い加減の人が載っていたが、各階ごとに停まる。降りる人や乗る人がいない。へんだなあと思っていたら、小さな子供が停止ボタン押している。罰悪そうに、妹に向かって「押したと」と博多弁で妹に責任を押し付けている。顔は笑っている。乗っている人からも笑いが起こる。途中降りて行ったが、皆が手を振っての別れとなった。実に微笑まし場面になった。
往復の飛行機が只となったとはいえ、九州まできて観光せずに休日を過ごすことは、なにかもったいない気がしてはいたが、都会というものは、つくづくと生活には便利にできていると思った。移動手段も多く、外食にも困らない。一人で静かに読書できる場所もある。空港に行った時、滑走路を離着陸する飛行機を眺められる場所があって、そこで数時間、持参した本と、福岡博物館で購入した本を読むことができた。戦国のキリシタン大名である黒田官兵衛と高山右近である。秀吉がキリスト教を容認しなくなってからの二人の生き方は違っているが、友情があった。今回、由布院を訪ねる動機は、数学者岡潔と若くして亡くなった考古学者中谷治宇二郎の友情の地だったからである。土曜の夜、私の友人二人と会食した席の主なテーマも友情についてだった。友人との再会、都会の休日、無駄な旅になっていない。加えて、黒田官兵衛は棄教していなかった事実。帰郷してブログを訂正しなければならない。
  

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2014年08月14日

山本五十六記念館訪問記

山本五十六は、明治十七年に生まれた。父は貞吉、母は峯である。山本五十六の名は、父貞吉五十六歳の時の子であることに由来する。父貞吉は養子として高野家を継いだので、山本五十六は、高野五十六として生まれた。
貞吉は高野家の娘峯の姉である美保、美佐とも婚姻し、美佐との間にも子供をもうけている。そのため、美佐との間に生まれた長男は、五十六の甥でありながらも八歳も年長であった。この時代、家の相続が重要であり、こうした今からすれば不思議な姻戚関係が生まれたのである。
山本五十六の生家は、長岡駅に近い。古びた生家は、保存されていて、敷地は公園になっている。軍服姿の胸像は黒く重厚な雰囲気があり、生家を見つめているようである。台座もりっぱで人の背丈を越える高さがある。背後には四本のヒマラヤスギが植えられている。山本五十六記念公園から歩いて数分の場所に、平成十一年に開館した山本五十六記念館がある。一見すると民家のように見える。
会館に入ると中央に置かれた翼の残骸がまず眼に写る。ブーゲンビル島で撃墜された一式陸攻の翼である。日の丸は褪せているが、その朱は色を失っていない。搭乗していた山本長官の座席も展示されている。はるか南洋の島からこの地に運んできた山本記念館設立の委員の想いが伝わってくる。
近代戦争にあって、一国の海軍の最高司令官が戦場において死ぬということはまずもってない。イギリスのネルソン提督が、スペインの無敵艦隊との戦い中で死に、英雄となった時代とは違う。思えば、あれほど戦争に反対した山本五十六は、いざ開戦になったとき、一切は武人にもどり、生きて帰ることはないと覚悟していたふしがある。このあたりは、河井継之助の心境と同じである。
山本五十六の揮毫した掛軸があり、その書は見事である。
国雖大好戦必亡 天下雖安亡戦必危
中国の兵法書からとっている。大意は
「大国であっても力が強くそのいきおいにつられて、好んで戦争することは、国家の滅亡につながる。一方、平和の中に安住していても、国が危ういときは国を救おうとする気概がなければこれもまた国家の滅亡にいたる」
人類はいつも戦う宿命にあるということを言っているのではない。言葉を変えれば、人生順調にいっているときは過信せず謙虚になれ。また平穏な日々にも命がけで生きようとする気概をもっておけ。という意味にとった。〝常在戦場〟まさしく長岡藩の家風である。また隣には、明治天皇の御製を書にして
ときおそきたがいはあれど貫かぬ 
こと無きものは誠なりけり 
と書き記している。
「誠」という言葉ほど日本人をひきつける言葉はない。ただこれほど実行し難きものもない。明治天皇の御製で誠について詠んだものに
目に見えぬ神にむかいて恥ざるは 人の心の誠なりけり
武士の世では「忠」という言葉が「誠」を表していたと言っても良いが、封建時代でなければ成立しないかもしれない。四民平等、民主主義の時代になると、忠義を何に向って果たすかの対象がはっきりしない。むしろ主が自分になっているのが現代である。
高野家は、古くから儒者の家系である。儒教の始祖孔子は、目上を敬い、父母に仕えその愛を尊ぶことを教えた。近年になって自我や、自己が確立すると「誠」をつくすべき対象は何かということになる。ともあれ、山本五十六という人は誠という言葉が好きで、それを生涯かけて実行した人に思える。
長男義正氏の『父山本五十六』を記念館で買って読む。通読して思う事はただ一つ
〝優しい〟人だなあということである。
〝黒い手帳〟という章がある。毎朝父五十六は一人ぼんやりと時を過ごすことがあった。黒い手帳をめくっていたのである。そこには亡き部下のことがしるされていて、郷里の住所まで書かれている。部下のことをこれほど想うリーダーはまれである。病床を見舞い、時には墓前や遺族の前で涙する山本五十六のことを息子義正氏は綴っている。軍の最高司令官のこの優しさはどこからくるのか。
山本五十六は、日露戦争に従軍する。日本海海戦のとき軍艦日進の伝令役となった。二十二歳の少尉候補生で、日進は殿(しんがり)軍艦のため敵弾を集中的に浴びた。日進の艦橋で炸裂した砲弾の破片により、左手の人差し指と中指を失った。加えて右腿の肉を赤ん坊の頭ほどえぐりとられた。生死にかかわる重傷であった。もし左手の指をもう一本失っていれば軍にとどまることはできなかった。〝廃兵〟という屈辱的な身分となり現役を去らなければならなかったのである。療養中にも左手の傷口から入った黴菌のため腕を切断する危機もあった。
この体験が、山本五十六の人格形成におおいに影響を与えたとみて良い。
「天は我に新しい生命を授け、軍人としてもう一度国のために尽力するように命じられた」という自覚を持った。「死」は天命であると。
部下には妻が寡婦になることを考え結婚を勧めなかった山本五十六は、三十代半ばにして結婚する。妻になった人は三橋礼子といって会津藩士の娘であった。このとき、山本は、自分の体の事を包み隠さず身上書をもって親族や見合いの相手に伝えたという。礼子が後年息子に語ったことは
「あの人は自分の欠点ばかり書いて長所らしい点は何も書いていなかった」ということである。
肉体に負った傷の他に山本五十六には心の傷があった。山本五十六と長兄の間には三十二歳の年齢差があった。長兄譲の子、甥力(ちから)は五十六よりも十歳の年長であった。大変な秀才で未来を嘱望されていたが、二十四歳で夭折する。父貞吉は力に高野家の再興をかけていたのである。
貞吉の落胆は大きく十四歳であった五十六少年に向って
「おまえは高野家にとってどうでもいい存在だ。力に替わっておまえが死んでくれたらよかった」
この言葉は生涯山本五十六の心に深く刺さってとれなかった。心と体に大きな傷を持ちそれを自分の十字架として負ったことが山本五十六の心の優しさと無縁ではなかったであろう。彼は三十になった頃、姓を高野から山本に改めた。長岡藩で家老職を務めていた山本家を継いだ。養父は山本帯刀である。北越戦争では河井継之助の率いる軍の大隊長となった人であるが、捕らえられ斬首された。二十四歳であった。その人物を知った政府軍には助命しようという声もあったが
「藩主は自分に降伏せよとは言わなかった」
としてそれを拒んだ。市内長興寺に山本五十六の墓と並んで眠っている。
山本家も高野家も儒者の家柄であった。「誠」「忠」は武人の目指す気高い心ではあるが、山本五十六には庶民的な気さくさと人間臭さがあった。情にもろいことは悪いことではない。また数学が得意で合理主義のところもあり、近代海戦に航空兵力の価値を見出し、実戦して見せた人である。
米英と戦うべからずと三国同盟に反対した山本五十六を右翼の人間がその弱腰を批判した時
「大和魂は不敗だというが、アメリカにはアメリカ魂がある。それにアメリカの煙突の数は日本と比べものにならない」
といって追い返したことがある。
教条主義、観念主義、全体主義、絶対価値論者、学者肌こうした言葉と無縁なのが山本五十六であると思う。そして良きリーダーの典型ではなかろうか。山本五十六連合艦隊司令長官の下で戦った人々は幸せだったかもしれない。
「やってみせ、させてみて、言って聞かせ、褒めてやらねば人は動かじ」
陣頭指揮、思いやり、豊富な知識。あまりにも有名な言葉である。最後は南洋の島ブーゲンビル島の上空で死んで見せたのである。こうしたリーダーのためなら死んでもよいというのが部下の心理である。ただ地位や権限で強制し、自分は常に後方で指揮をとるようなリーダーには心の底から部下は身を任せるようなことはない。
長岡の街は、雄大な信濃川が流れ、良寛や貞心尼のゆかりの史跡があったり、与謝野鉄幹、晶子夫妻が愛した自然豊かな地であるが、今回の旅ではあまりにも山本五十六元帥への意識が大きかった。
長岡の夏の花火は有名である。一週間後の八月二日と三日がその日である。その日は自分の誕生日でもある。いつかその日に訪ねることがあるかもしれない。その時は、今回果たせなかった元帥の墓前に花束を手向けたいと思っている。
  

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2014年07月28日

中山道歴史散策(2014年7月)

江戸時代、参勤交代によって街道が整備され、宿場町が形成された。大名が泊まった本陣や昼休憩した茶屋本陣が今も残っている。安中市は、平成の合併で松井田町と一緒になった。中山道が通っていて、現代では国道が整備されている。高崎市に至るまでに、板鼻宿、安中宿、松井田宿、坂本宿があった。坂本宿からは、碓氷峠を越え信州に至る。
安中から国道一八号線で、横川駅に向かう。横川駅から先は長野新幹線の開通とともに廃止され、国鉄バスが運行している。高崎駅から横川駅までは、信越線の名前だけは残っている。横川駅の近くに鉄道村が整備され、観光施設として、鉄道の歴史を伝えている。職場のハイキング同好会の人達と訪ねることにした。


この日は大変朝から暑く、九時前だと言うのに三〇度近い熱気を感じた。最初立ち寄ったのが、安中市街地にある新島襄旧宅である。中山道から少し外れているが、藁葺の古い家で明治の初めの建物である。この家に住んでいたのは、新島襄の両親で、しかも現在の場所に移築され保存された建物である。明治維新により、江戸の安中藩邸に居た武士は、安中に戻り新島襄の父民治も同様であった。
新島襄は、明治維新の前に国禁を破り、アメリカに渡っていた。明治七年に帰国し、父親に面会したのがこの家である。前日の夜には、安中に到着していたが、老親のことを考え翌朝訪問したのである。開館は、九時となっていたが、既に受付の人がいて、縁側から座敷に通してくれた。個人的には、数十年ぶりの訪問になる。「八重の桜」のドラマもあり、以前より展示室が充実している。

鉄道村がメインだが、その途中、原市にある碓氷社の建物を見る。明治三八年の建物だが、良く保存されている。富岡製糸工場を中心とする絹遺産群には入っていないが、群馬県の重要文化財になっている。農民の組合組織で生糸を加工し輸出した。その本社事務所として建てられ、木造ながら大きな建物で、二階には大会議室がある。残念ながら内部は見学できない。桑畑の中にあれば雰囲気もあるだろうが、近くに大きなスーパーがあり、その駐車場の一画に建っている。足早に立ち去り、次に向かったのが、旧松井田町にある五料茶屋本陣である。国道一八号線で上信越高速道路の橋梁を過ぎて、すぐに右折すると広い駐車場があるが、信越線を渡った所にも駐車場がある。この日は、日曜日だが訪ねる人もなく、近い駐車場に車を停めることができた。名前だけは聞いていたが、訪ねるのは初めてである。
高崎市豊岡にも茶屋本陣が残っている。それほど大きな家ではなかったが、松井田宿の茶屋本陣は大きい。立派な門もあり、しかも二棟ある。「お西」と「お東」と言い分けている。両方とも二階建てで坪数が一八〇坪もある。農家の佇まいではあるが、賓客用の部屋がある。書院づくりの立派な部屋である。夏でも、通気性が高く涼しい。縁側に座り庭先を見ると石庭になっている。遠くに妙義山が見え、借景庭園にもなっている。信越線が家のごく近くを走り景観を損なっているが、許せる範囲である。家の裏は、山になっているが、自動車の音がしきりにすると思ったら、上信越高速道路が走っている。これも、街道にある宿場の宿命とも入れる。粋な池があって注意して見ると瓢箪の形をしている。遊び心も感じられて良い。


受付の女性が気のきく人で、「お西」と「お東」の間にある東屋に冷たい麦茶を用意してくれた。実においしく有り難かったのだが、蚊に刺された。事務所に戻ってキンカンをもってきてくれた。虫さされに懐かしい薬品である。東屋は、茶屋本陣の建物の横にあり白壁が良く見える。屋根の高い部分に鬼瓦の代りに、菱形の木組みがあった。「雀躍り」というのだと教えてくれた。建物は、一度火事で焼けたが、すぐに建て替えられて今日に至っている。一八〇六年というから、二〇〇年以上建っている。代々の名主役であり、両家とも中島姓である。


横川駅の近くには碓氷関所跡があるが、江戸時代の中山道の峠の道は狭かった。幕末皇女和の宮がこの峠を越えて来たかと驚きを感じえない。大名行列のように、人数も多くに荷物も多かっただろうから、和宮の心境はまるで都落ちのようではなかったかと想像した。この難所にトンネルを掘り、軽井沢との間に鉄道が開通した。明治二六年のことである。当時に建設された煉瓦の橋は、「めがね橋」として今も残されている。アプト式という方法で急勾配の線路を列車が移動することができたが、蒸気機関車では、機関士や乗客の健康にもよくないので、大正時代には電化される。その発電所と変電所が今も残されている。煉瓦造りの立派な建物である。トロッコ列車で立ち寄ることができる。


いつもは、通り過ぎる碓氷峠だったが、鉄道村でこの難所を人々が超える歴史を体感できた。峠の湯は火災のため休館になっていたが、帰りには磯部温泉に立ち寄り鮎料理を味わい、温泉に浸かり思い出に残る街道歴史散策ができた。
  

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2014年04月23日

ただ人は情けあれ(2014年4月)

 京都で、同窓会があって、一人を除いて、三九年ぶりの再会ということになった。もう一生会う事もないと思っていた同窓生も多かったようだ。小学校、中学校、高校といった同窓会は地域性もあって開催されやすいし、集まりやすくもあるが、大学の同窓会は、なかなか企画されないものだ。
 


 会場になったのは、聖護院御殿荘という旅館である。会場の玄関は、お寺のようでもある。物故者もあって、開会の前に黙祷となった。同じゼミの友人も夫婦して亡くなっている。乾杯のご指名があって音頭をとることになった。理由は、遠方から来たということと、恰幅がいいという理由らしい。女性はそれほどではないが、男性は受付の時にも顔と名前が一致しない。
 近況報告ということになって、一七人の参加があり、一時間は超えた。三九年を五分で語るという事になれば、話は尽きないということになる。企業に勤めた者もあり、教師、公務員、自営業とさまざまであるが、地道に職業を全うし還暦を過ぎたという印象が強かった。それよりも、同志社人らしく新島精神が一人一人に流れているという感じを嬉しく思った。ゼミは違っていても、担当された先生の人格と思想によるのだろう。乾杯の時、ふと口に出て来た言葉が「ただ人は情けあれ」であった。
 昨年、恩師は喜寿を迎え、代々のゼミ生が集い、奥様とともに御祝いをさせていただいた。その時も、乾杯の役が回って来て、同じことを申し上げ酒杯を上げた思い出が残っている。室町時代に詠まれた歌で『閑吟集』の中にある。
 ただ人は情けあれ朝顔の花の上なる露の世に
恩師の好きな歌だが、情というものを人生の中で何よりも大事にしたいという事である。
「京都という土地は別に懐かしくないが、皆さま御一人御一人が懐かしい。はるか過去になったが、その時の心のふれあいが懐かしく感じさせる。その心の働きが情です」と言ってこの歌を引用した。そして最後に
「これからの皆さまの心の健康とご縁が益々深まることを願い乾杯致しましょう」
と言って、再会を祝した。
還暦を過ぎれば、病気にもなりやすく、体調を崩しやすくもなる。「ご健康を祈念して」などとは言いにくいのである。そうなったら、そうなったで、つきあっていくしかない。日々を前向きに生きる心の健康の方を願いたいと素直に思うのである。近く、また会う機会が訪れることを願いたい。ご縁が深まることを願うということである。
 幹事から提案があって、次回はいつにしましょうかというので挙手を求めたところ二年後ということになった。オリンピックのように四年に一度というのは、歳柄長過ぎるということだろう。遠方の者からすると、温泉旅館で一泊できるような企画が良いと言おうと思ったが、企画してくださる関西の次回幹事にお任せすることにした。ただ、新島襄ゆかりの地である群馬に住む卒業生としては、有志だけで、同窓会という事でなくても良いから、温泉地に宿泊して安中や伊香保を案内しても良いと思った。今日の宿泊は、ホテルではなく恩師の家である。二次会はない。久しぶりに会ったにしてはものたりなさも残ったが、体力的にも昔若かった時のような無理もできないのも事実である。
 「ただ人は情けあれ」についてである。情の大事さを繰り返し語った人物がいる。数学者の岡潔である。和歌山県橋本市役所前に昨年顕彰碑が建ち、そこに刻まれた碑に、
「日本民族は情の民族である。人と人との間によく心が通い合うし、人と自然との間にもよく心が通い合う。この心を情というのである。日本民族は情によってつながっているのである」とある。日本民族を同窓生に置き換えてみてもよい。心について学んだ心理学科の同窓生は同感してくれただろうか。
  

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2014年04月10日

桃源郷(2014年4月)

 四月五日に京都に途中下車し、その日の夕刻から奈良に二泊した。東海道新幹線沿線から京都、奈良は桜が満開である。こんな春の旅は初めてである。昭和五三年の三月に、数学者の岡潔先生が他界され、御遺族を中心に有志によって亡き師を偲ぶ会が始まって、今年が三七回目になる。春雨忌という集まりになって、遺族の方の家を宿として提供くださっている。最初出席したのは、三〇代の始めだったと思うが、確実に半分以上は出席している。今年も、一〇数名の人が出席したが、高齢化が進んでいるのも事実である。
 四月七日、岡先生の次女の松原さおりさんと有志六名で、和歌山県橋本市を訪ねることになった。現在、岡潔は、橋本市の名誉市民になっている。昨年の十一月に、顕彰碑が建立され、除幕式があった。その碑は、橋本市役所の駐車場の入口のバス停の近くに建てられた。熱心に岡潔を顕彰し、後世に広くその功績を伝えようと活動されている方のご案内で、岡先生ゆかりの地を訪ねることになったのである。
 

 橋本市には、JRで乗り換えなしで行ける列車がある。JRの奈良駅は、改装されて広く新しくなった。古い駅舎も残され、古都にふさわしい駅になっている。奈良駅を起点にし、奈良盆地を南下するのは初めてかもしれない。各駅停車なので、駅の名前が新鮮である。最初の駅の名は、京終。表札の送り仮名を見ないと何と読むのかわからない。「きょうばて」と読むのである。次の駅が帯解。こちらは「おびとけ」、近くに安産祈願の寺があることで知られている。
 天理駅を過ぎて暫くすると巻向駅になる。「まきむく」これも奈良らしい響きのある地名である。このあたりは、万葉集の香りがする場所で二十年近く前にゆっくり一人歩いた思い出がある。古墳も多い。次の駅が三輪駅である。山そのものが御神体になっている三輪山が見えてくる。麓には大神神社がある。大国主命とゆかりのある神社である。このあたりは、三輪ソーメンが作られていることでも知られている。
 

 桜井駅から列車は、西に方向を変える。耳成山、香久山、畝傍山が見えてくる。「大和は国のまほろば」と言われる場所はこのあたりである。一昨年、藤原京跡を見て香久山に登った。それほど高い山ではない。持統天皇の
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほしたり天の香久山
の歌で知られる大和三山の一つに数えられる山である。隆起した山ではなく火山だったというが、今ではそうしたことも想像しにくい小高い丘のような山である。標高は、一五二メートルしかない。
 高田駅からは、車両は反対方向に走り、南下しながら吉野山に向かう。御所駅の右手には、葛城山が見えてくる。千メートル近くの山で頂上付近には残雪らしいものがある。山の向こうは大阪になる。県境を越えて五條市に入り、最初の駅が北宇智である。斉藤茂吉の『万葉秀歌』に出て来る天智天皇が詠んだ
 たまきわる宇智の大野に馬並めて馬踏ますらむその草深ね
はこのあたりの場所らしい。右手には金剛山があり、山を越えれば、楠正成が北条軍の攻撃を死守した千早城の跡がある。五條駅を過ぎて橋本駅についたのは、十一時十九分。奈良駅からの所要時間は、一時間四十分ほどだったが、春の風景を満喫し、歴史ある場所を見ながらのゆっくりとした列車の旅ができた。
 橋本駅には、昨日の春雨忌に参加された、Sさんが自家用車で迎えに来てくださった。遠来の客として車に乗せてもらい、他の四人はタクシーを利用し橋本市役所に直行。粋な計らいで紀ノ川を渡り、遠回りして市役所に着いた。幼い頃過ごした松原さんへの配慮でもあった。紀ノ川は広く流れも緩やかである。この地の出身の水泳の前畑秀子や古川勝も、プールのなかった時代この川で泳いだのかもしれない。
 


 岡潔の顕彰碑は真新しかった。右の碑には略歴。左の碑には似顔絵と、岡潔の遺した言葉が刻まれている。その全文を紹介する。
「日本民族は情の民族である。人と人との間によく心が通い合うし、人と自然との間にもよく心が通い合う。この心を情というのである。日本民族は情によってつながっているのである 岡潔」
著書『一葉舟』からの抜粋である。 
岡潔は、数学者でありながら、知よりも情の働きを大切にした。そして難解な数学の研究も情緒の中でやり遂げた天才的な数学者であった。記憶力も抜群で土井晩翠の「天地有情」の詩を諳んじていたらしい。かなりの長文である。その字句も現代人からすれば難しい漢字が使われている。しかも詩の気分も込めて晩年の京都産業大学の講義で朗読した。今もそのテープが残っていて、昨日の春雨忌の勉強会でそれを聴いた。
 来年には、和歌山県で国体が開催される。そのために一部を残して高速道路が整備された。今の期間は無料だという。紀ノ川を高い場所から眺めることができるというので、その道路を利用して粉河市に向かう。途中見た眺めと、桃の花が咲いているのを見ていたらまさに桃源郷のように見えて来た。粉河市には、岡潔が通った粉河中学がある。旧制中学で当時の木造の校舎はなく、校門だけが残り、校舎は鉄筋の建物になっている。廊下は五〇メートルもあり、階段式の教室があったらしい。岡潔は、この中学から三高、京都帝国大学と進学したのである。
 

 岡潔の足跡を最後に見て、橋本市から南海電鉄で大阪に向かい散会となったが、途中に御幸辻という駅がありこの近くに平成三〇年に岡潔記念館が着工される。岡潔の生地は、この駅の先の紀見峠という大阪との県境にあり、代々庄屋を務める家柄だった。祖父の文一郎は、郡長にもなり当時村であった紀見村の発展に貢献し、立派な顕彰碑が建てられている。
 昼食をした旅館の近くには、粉河寺があり、副住職が短い時間に寺を案内してくれたが、御三家のひとつである紀州藩の財力を見た気がした。建物や山門も立派だが、枯山水の石庭は、独得なものであった。岡潔の故郷は、桃源郷のように見えたのは、文化もあり経済的にも豊かな土地柄だったという背景も加わっているからそう思えたのだろう。 樹齢千年のクスノキも見事だった。
  

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2014年03月25日

世紀の日本画展(2014年3月)

 

 東京の上野公園にある東京都美術館で特別企画展「世紀の日本画」が開催されている。岡倉天心が中心になって結成された日本美術院の流れを汲む日本画が展示されている。前期と後期で作品が入れ替わるが、後期を鑑賞した。横山大観の「無我」と「屈原」を見たかったからである。「無我」は、一度島根県にある足立美術館で見たことがあるが、解説では東京国立博物館蔵となっているから、たまたま足立美術館に貸し出されていたのを見ることができたのであろう。切手にもなっていて、童子のあどけなさが「無我」というテーマにぴったりな感じがする絵で大観二九歳の作品である。
 屈原の原画を見るのは初めてだと思う。厳島神社蔵となっているから、横山大観展でも企画されなければなかなか目にすることはできない。かなり大きな作品で、激しい風の中に毅然と立ち、髪が乱れている屈原の姿に悲壮感を感じる。どこか、師である岡倉天心の姿を彷彿させる。事実、根拠のない理由により岡倉天心は東京美術学校の校長を免職された。そのこととこの絵は、無関係ではないと音声解説のテープにも流れていた。右手に持つ植物のことも解説がなければ気づかない。蘭の花は、高潔さを表している。
 屈原は、楚の政治家であったが、讒言によって左遷され、国の行く末を憂い、汨羅江に身を投じて死んだ人物である。漢詩「楚辞」を遺している。日本画に西洋の絵画の手法を取り入れた最初の絵とされる狩野芳崖の「慈母観音」も見ることができた。もっと色鮮やかな絵と思っていたが、意外に渋い感じがした。この絵を狩野芳崖は、完成させることなく朋友の橋本雅邦が引き継いだとされるが、狩野芳崖作といって問題ないようだ。岡倉天心は、多くの芸術家を育てたが、弟子達は、彼の思想の高さに共感したのである。その一つに、歴史に題材を求めることがあったようだ。その一人に、安田靫彦がいる
 「額田王」は、彼の代表作である。教科書に良く載る絵である。切手にもなっている。天武天皇の妻とされている女性だが、万葉集に載っている歌は不思議な歌である。
 茜指す紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
紫野という地名は懐かしい響きがある。京都の大徳寺近辺が紫野である。この歌が詠まれた場所かどうかは確認していないが、学生時代下宿したところである。今回は展示されていなかったが、安田靫彦には良寛さんを描いたものがある。出雲崎の良寛記念館で見たが、本物であったかわからないが、安田靫彦は良寛研究家としても知られている。鼻筋の通った良寛さんが印象的である。良寛さんの肖像が残っているわけではないのだから彼のイメージである。晩年の良寛さんを描いているが、いつしかこの絵の良寛さんが頭に沁みついてしまった。
 前田青邨、菱田春草、下村観山の巨匠の絵も展示されていたが皆個性的である。菱田春草は、比較的短命の画家であるが、岡倉天心や横山大観らと茨城県の五浦の海岸に居を構え、画業に専念した時期があった。海岸近くに建てられた六角堂は、東日本大震災の津波で流されてしまったが、つい最近復元されたというニュースを聞いた。
 絵画ではないが彫刻家では平櫛田中の作品があった。菱田春草とは対照的に、一〇七歳の長寿であった。五浦には、釣りをする岡倉天心の立像があったし、天心の座像などの作品がある。広島の福山市の出身で、婿に入った人でどちらが旧姓か忘れたが、田中を(でんちゅう)と読ませている。
 久しぶりの東京都美術館訪問となったが、改修され、エレベータを使って各会場を移動することができるようになっている。地下ロビーの片隅に置かれた佐藤慶太郎像も一階ロビーに移され、説明板が整備されていた。朝倉文夫の創作したものだが、最初の美術館の建設に多額の寄付をした九州の実業家である。
  

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2014年03月18日

雪国対局(2014年3月)

雪国対局
 「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」
という文章で始まる川端康成の小説「雪国」は、戦前に発表された小説だが、当時の清水トンネルでは国境を越えて雪国にはいけない。雪国から「空っ風の国」へ行くことはできる。戦後、新清水トンネルが開通して下り専用の列車が走るようになった。康成が、雪国の温泉地に滞在した頃は、清水トンネルが完成したばかりで、電化されていた。蒸気機関車が黒煙をはいて長いトンネルを走ることは不可能であったからである。小説の冒頭に書いた文章は、川端康成のいつわざる新鮮な実感としての表現とも言える。
 現在では、上越新幹線が開通し、群馬県の上毛高原駅から越後湯沢間は、一五分程度に短縮された。湯沢町は、温泉地ではあるが、冬場のスキーを楽しめる一大リゾート地となっている。リゾートマンションが林立し、鄙びた温泉町に都市が出現した感じである。湯沢温泉には、これまで宿泊したことがなかったが、静岡の友人が春休みを利用して十日近く、湯沢町に宿泊することになり、会う事になった。
 彼は不動産にも関心があり、生業にはしていないが宅地建物取引主任の資格を持っている。越後湯沢近辺のリゾートマンションは、需要が少なく非常に安くなっているという。不動産屋のパンフレットを見ると二十万円台の物もある。こんな値段なら買っておいて、温泉やスキーを楽しもうと思う人もいるだろう。一戸建ての別荘ではないが、余暇の有効利用もできると思うが、なかなか売れない。管理費が馬鹿にならないのである。最低月額二万円程度の費用がかかる。それなら、ホテルに泊まった方が良いと考える。月に二回以上を泊まらないと得にならない。しかもホテルならば食事付きである。
 
 日曜日、朝食を済ませ、高崎駅を十時四十分位の列車で越後湯沢駅に向かう。所要時間は三十分である。なんとも便利である。二泊して朝職場に出勤することも可能である。昼前に着いた越後湯沢の周辺の山々も、三月半ばというものの雪を湛え、市街地の道路は除雪されているが、屋根に除雪しない雪が積もっている家も多い。駅構内に「雪国」の駒子の人形があった。近年、駅の売店も広く整備され、新潟の土産物を売っている。日本酒、米は、新潟県が誇る物産である。
 友人が長く滞在しているホテルは、上越線中里駅に近い。越後湯沢駅とホテルの間を一時間おき位にシャトルバスを運行させている。ホテルの食事に飽きたら、駅や駅前の食堂を利用することもできる。周辺のスキー場にも駅を拠点にすれば出掛けていくことができるが、ホテルの前が直接経営するスキー場になっている。温泉の大浴場と温水プールまである。このホテルは、マンションとホテルが同居している。マンションとして売れない部屋をホテルとして利用している。どの部屋に所有者がいるのかはわからない。中に自分の家具を持ちこんでいる違いはあるが、宿泊室と構造は同じである。浴室、トイレ、キッチンがあり寝室を兼ねたリビングは広い。
 三時にチェックインを済ませ入浴を済ませ、夕食の前に将棋の対局になった。大学時代、将棋のクラブで勝負を競った仲である。社会人になって二人とも将棋から遠ざかっていたが、還暦を前後して再び将棋を指すようになった。棋力は大分当時と比べれば落ちてきているが、お互いいい勝負になる。勝敗を気にしないと言えば嘘になるが、一手一手の応酬が無言の会話になっている。手談という言葉が碁にはあるというが、将棋も同じである。親友との対局はそれが楽しい。
 将棋をさし始めると、雨が降り出し、次第に霙にかわり夕方近くになって雪になった。
まさに雪国対局になった。将棋には、序盤と中盤と終盤があるが、数局とも中盤まではこちらが優勢になる。友人は、詰将棋を良く解いていた記憶がある。その学習が終盤に発揮されるのかと思った。駒を沢山持っていても詰まされれば負けるのが将棋である。碁のように序盤のリードが勝利に結びつきやすいゲームとは少し違っている。表現はきついが王様の首をとった方が勝ちなのである。
 最初の一局は、終盤まで大分有利な展開になっていたが、最後で詰み筋が見えず詰まされて負けになった。友人も自分が勝ったことにビックリしていた。勝負は最後の最後までわからないということを身に沁みて体験した。その夜は、どうしたら詰むかを考えていたら寝付けなくなった。一種の不眠症になった。悪い言葉で言えば執着である。彼の方は、大リーグ中継を楽しみながら安眠できたに違いない。翌日雪辱を果たしたが、雪国対局は皆熱戦になった。
 家に帰り、その一戦一戦を並べ直している。相手にもミスがあり、こちらにもミスがある。そして好手もあることに気づくが、一手一手の判断の結果である。将棋に待ったはない。その時の読みと大局観が指し手を決めている。
 一局目が自分にとってあまりにも衝撃的な将棋だったので、局面を序盤、中盤、終盤に分けて写真をとり、自戦記を書いてフェースブックに載せることにした。もちろん友人には許可をとり、匿名にすることが条件である。
  

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2014年02月09日

福島復興(2014年2月)

福島復興
 東日本大震災から三年近くなった二月五日、一泊二日で福島県を旅行した。場所は、いわき市にある「スパーリゾートハワイアンズ」である。一行様一二名のバス旅行である。メンバーは職場の従業員。社員旅行は、最近では珍しくなった。そのため、観光地の旅館やホテルは苦戦を強いられている。企画は、従業員会で職員の希望に合わせ、時季を分散して、内容も多彩である。銀座の歌舞伎座が新築され、歌舞伎の観劇ツアーに申し込んでいたが、日が変更になり不参加となり、この旅行に乗り換えた。職員との親睦は、大事だと思っている。
 

 「スパーリゾートハワイアンズ」。耳慣れない名称だが、我々世代だと「常盤ハワイアンセンター」と言えば分かりやすい。常盤炭鉱が閉鎖され、従業員の再雇用を考え、一大リゾートセンターとして昭和四十一年にスタートし、フラガールのハワイアンダンスを売り物にブームを起こし、事業を成功させた。しかし、全国各地の団体旅行客の減少はこの施設も例外ではなかった。それに追い打ちをかけたのが、先の東日本大震災であった。建物は大被害を受け、福島第一原発の事故も加わり閉館に追い込まれた。
 
 それから三年後、施設は見事に復興している。平日とはいえ、宿泊客は多かった。老若男女に偏りはない。それぞれに魅力あるサービスを用意しているということなのだろう。体験してみるとそのことがわかる。
 
 「スパーリゾートハワイアンズ」に到着したのは、十二時近くでチェックインには早いが、一時になればできるという。普通のホテルや旅館なら、三時と言うのがお決まりであるが、二時間も早い。その分、館内の施設を利用できる。フラダンスも鑑賞できたが、温水プールで充分泳ぎ、各種の温泉にも浸かることができた。その後の宴会だから、出されたものも美味しくいただくことができた。お酒も従業員会の負担で飲み放題という嬉しいおまけ付きである。昼間の体力消耗で、宴会後は部屋に帰り就寝。同部屋の若者は、二次会に繰り出し午前様もいたらしいが、こちらは夢の中である。
 
 翌日は、小名浜漁港を目指す。「スパーリゾートハワイアンズ」からそれほどの距離ではない。港町の津波被害の復興状態も気になっていた。単調な海岸線が長い福島県では、貴重な漁港である。放射能による風評被害の影響はどうなっているのだろうか。お土産の大半は、旅行の前から海産物と決めていた。「鮟鱇」は、特産というのを聞いていたので、冬の時季なので尚更である。市場に行ってみると地元近海の物がない。代わりに「青森産」の鮟鱇が切り身になっていた。価格も安い。東北復興のためにはなる。「目光」という小魚は、近海物だという。焼いても揚げても美味しいという添乗員の言葉を鵜呑みにして土産にした。その他に秋刀魚、鯵、金目の開き干しが安い。クジラのベーコンの塊りも安い。申し訳ないようである。
 


 港には、何事もなかったように漁船が停留してあって、震災の傷跡を残していない。壊れた家も海岸近くに取り残されていない。ガレキも見当たらない。しかし、経済的に復興ができているかは、通り過ぎの旅行では実感できない。最後に立ち寄った、「アクアマリンふくしま」では施設周辺の庭園整備工事が進み、来館者の数も増えているようだ。震災当日、この施設の一階まで、海水が浸入し、入館者を避難させ、職員の停車していた車は津波で流されても、魚達を守るために停電の中泊まり込みをしたという話を聞いた。そうした職員が管理している水族館だから、見事に海洋生物の命を伝えている。
 小名浜の近くには、勿来の関がある。以前立ち寄ったことがある。白河の関もあるが、福島は陸奥の始まりになっている。今は一つの国になっていて、そうした関も特別な意味を持っていないが、東北三県の復興は日本全体の課題になっている。地図を見たら、草野心平の生家が近い。またこの地を訪ねて見ても良いと思った。
  

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2014年01月08日

『侘助』(拙著)伊東忠太という人

伊東忠太という人
 明治になって、西洋文化が日本に浸透していったが、建築もしかりである。初めは、外国人居留地になった、港の周辺に瀟洒な西洋館が建ち、今も函館や横浜、神戸などの地に歴史的建造物として、数は多くないが残っている。日本人が、専門的に西洋建築を学び、建築した建物は関東大震災や東京空襲に遭遇したが、今も東京の近代ビル群の中にひっそり残ったりしている。そうした建物をじっくり見てみるのも面白いと思った。
 明治から昭和にかけての建築家に、伊東忠太という人物がいる。慶応三年(一八六七)に山形県米沢に生まれ、東京帝国大学の工学部を卒業し、日本で建築家としては最初の文化勲章を受けている。夏目漱石と同年の生まれである。その名は、薄っすらと意識したことはあったが立ち入って知ろうとする機会はなかった。数年前、大阪の御堂筋界隈を散策した時、北御堂に立ち寄り、大谷探検隊で知られる大谷光瑞が神戸に建てた二楽荘のことを知った。設計者が伊東忠太である。この建物は、現存していないが華麗な建物であったらしい。
 

 築地市場に近い場所に、築地本願寺がある。設計したのは伊東忠太である。昭和九年に竣工している。戦災に遭わなかったのは、近くに聖路加病院があったからであろう。米軍は、聖路加病院を空襲の対象から外していた。進駐後の医療の拠点にしようと考えたのかも知れない。地下鉄の築地駅からごく近く、建物はインド風の外観をしている。石段を登り、建物に入ると結婚式が行われている。香が炊いてあって、仏式の結婚式の体験がないので、違和感はあるが厳粛な感じはある。一階に下りる階段には、動物が置かれている。建築の装飾に動物を配置するのは、伊東忠太の特徴であるらしい。象、牛、鳩、馬、どれも微笑ましい姿をしている。神社建築も多く、平安神宮、明治神宮、郷土米沢の上杉神社も彼の作品だが、新潟の弥彦神社は、建築はもちろん狛犬も伊東忠太のデザインである。
 
 この日は、東京国立博物館で開催されている平山郁夫展を鑑賞するのが目的だったが、築地本願寺と大倉集古館という伊東忠太の建築も見てみようと、いつもの職場の美術愛好メンバーに許可をとってコースに加えたのである。最初の案では、美術見学を最初にして、築地は最後にするつもりだった。新鮮な魚介類の買い物ができると思ったからである。逆になったため、築地場外市場の店で、上等な寿司を昼食にすることができた。平山郁夫展も閉館に近かったためか来館客も比較的少なく、同行者には満足してもらえた。
 築地という地名の由来だが、埋立地からきているという。江戸時代から沿岸を埋めて陸地を拡張していたのである。築地は地を突き固めた土地という意味なのである。重機のなかった時代だから、人海戦術で大変な労力を要したであろう。築地はまた、日本海軍と深く関わっている土地でもある。明治の初めに、海軍の兵学寮ができ、海軍士官、将官を養成し、日清日露の大戦を戦ったのである。後に、兵学寮は、海軍兵学校と名称を変え、広島の江田島に移った。絵画鑑賞の人達には、無関係なことで、余談として記したまでである。
 

 昼食後、場外市場にあるテリー伊藤の兄が経営する卵焼きの店などを見て、地下鉄で大倉集古館に向かう。神谷町で降りて、ホテルオークラをめざす。このあたりは丘陵地になっていて坂が多い。霊南坂はホテルオークラからアメリカ大使館脇に向かって下る代表的な坂である。大倉集古館は、ホテルの玄関前の一角に建っている。こちらは中国風建築様式である。二階に上がる階段に動物の姿があった。蛙である。大倉集古館は、美術館になっていて、横山大観や下村観山、川合玉堂などの日本画の大家の作品が展示されている。西郷隆盛と勝海舟の書が並んで掛けられていた。古美術品もあって、展示されているのは一部である。
これらを蒐集したのは大倉喜八郎である。彼は、明治、大正の実業家として巨額の財を成した。いわゆる政商で、武器商人という一面もあるが、公共事業や教育事業に私財を投じて社会貢献もしている。新潟新発田の名主の子として生まれたが、江戸に出て、鰹節店の奉公人から財閥を築いた才覚は、驚きである。


 伊藤忠太の設計した大倉集古館であるが、建物の外観はシンプルに見えたが、内部の意匠は、建築の門外漢にも趣向を凝らしていることが感じ取れた。二階にはテラスもある。今では、近代ビル群の谷間にあるように建っているが、建築当時は威容を誇っていたであろう。伊東忠太という人は、八七歳という長命であったが、精力的に仕事や研究に実績を残した。今も論争になっているようだが、法隆寺の柱とギリシャのエンタシスとの関係に言及したことは有名である。それを実証するための調査旅行もしている。建築の中に登場する動物だが、幼いころから妖怪の存在を信じていたらしく、数多いスケッチを残している。「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるも彼の存在を知っているのだろか。妖怪博士という称号を贈っても良いかもしれない。平山郁夫画伯の絵画展のことがすっかり希薄になってしまった。
  

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2014年01月07日

『侘助』(拙著)鹿島立ち(下)

 伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神は、国生みをしたり、とうてい生物界の存在のようにしては描かれていない。伊邪那美が火の神を生み、その火傷がもとで死に、黄泉の国に行くことになるのだが、この生みの苦しみ中で嘔吐したり、小便をしたり、大便をした時に神様が生まれたという表現は、何を意味しているのかと不思議でならなかったが、「母なる大地の変動だと解釈すればよい」という故人となられているが、元鹿島神宮の宮司東実(とうみのる)氏の見解には納得いくものがある。ちなみに、建御雷神の出生のありさまは、火の神を伊邪那岐が刀で怒りのために切り殺し、その血が流れて生まれたと書かれている。これは、火山噴火による溶岩流を想像させる。浅間山も富士山も活火山である。そういえば、関東には浅間神社という名の神社が多い。ただし浅間(せんげん)神社と呼ぶ場合が多いような気がする。我が家から数百メートル離れた場所にある神社がそうである。
JR鹿島線の途中佐倉駅を通過する。一昨年、伊能忠敬の記念館を訪ねた。佐倉市は、小江戸と呼ばれ、古い街並みが残っている。柳並木のある小野川を渡った。佐倉の先に潮来がある。このあたりは水郷地帯である。利根川を渡り、もうひとつの利根川(北利根川)を過ぎると北浦に出る。東海道の浜名湖を渡っているような気分になった。一キロ程水の上をはしることになる。晴れてはいるが、日は低く冬の独得の日差しになっている。駅から鹿島神宮は近い。徒歩五分くらいで行ける。日本三大楼門といわれるだけあって朱塗りの門は立派である。人出でごったがえしている。本殿は、楼門から近く、しかも参道の脇にある。本殿の位置関係を調べて参拝したわけではないので少し物足りなさがあったが、先には奥宮があるというので広い神宮の森を行く。木立が高く、道は薄暗くなっていて照明がついた場所もある。参道の左脇に開けた空間があり、そこには鹿が飼われている。奈良の春日大社の鹿と違って放し飼いではない。餌をやるのも御法度らしい。ハット気づいたのだが、春日大社と鹿島神宮の関係も深い。春日大社は、藤原氏の起こした神社である。建御雷神も祭られている。藤原氏の始祖は、藤原鎌足であり、中大兄皇子と大化の改新を実現した功労者である。平安時代は藤原氏の時代といってよい。鎌足は、中臣氏であり、一説には鹿島神宮の神官の子だとされる。氏の社に建御雷神を祭ることは不思議ではない。そして、後に鹿島神宮の大宮司が建御雷神の御分霊を鹿に乗せて奈良に旅立ったとされる。
「鹿島立ち」という言葉がある。旅立つことの意味だが、鹿島神宮に祈願して無事を祈ることから、防人に結びつく言葉の印象が強い。実際、東国の人々の多くが防人になった。大和朝廷は、東人の勇猛さを認めていたのである。多くは、東国からはるか離れた九州の地の防衛に徴集されたのである。建御雷神と経津主大神の「鹿島立ち」と重なってくる。防人の歌は万葉集にも多く残されている。
筑波嶺の早百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを
 別離の辛さも隠さず詠んでいるところは、先の大戦に召集された兵士の残した歌とは対照的である。幕末、尊皇攘夷が民族的な思想として燃え上がったことがあった。この思想の震源地は、水戸藩だとされる。水戸藩には、水戸光圀以来、皇国思想が流れていた。その思想の源泉として鹿島神宮の存在があることを知った。その幕末に、強烈な尊皇攘夷の思想を持った鹿島神宮の神官がいた。佐久良東雄(あずまお)という人物である。桜田門の変に加わった武士を匿った罪で投獄され
「われは天長朝の直民、何ぞ幕粟を食まんや」
として、断食して餓死したという。
 鹿島神宮に至る途中、塚原卜伝の像があったのに気づき、帰りに立ち寄った。生誕五〇〇年を記念して建てられた。塚原卜伝は剣聖と言われている。一四八九年に鹿島神宮の神職の家に生まれ、塚原城主の家に養子に入った人である。生涯に三回にわたり修行の旅に出て剣を磨き、晩年は将軍や名だたる武将に剣術を教えたとされる。上州出身の剣豪上泉信綱とも接点があったらしい。武家政治になってから鹿島神宮は剣術の総本山のような存在だったのである。塚原卜伝は若い時の剣術修行の旅では、真剣勝負や戦に出て多くの人を殺めたことを深く悩み、鹿島神宮の森で瞑想に耽り、ようやく悟るところがあった。剣は殺傷のためにあるのではなく、いわば心を磨く手段となるようにあることの意味に気づき、それはまさしく建御雷神以来の和の精神だと気づくのである。剣の奥義など説明できるものではないし、塚原卜伝の晩年の旅で伝えたものは、彼の精神、心の在り方だったのであろう。
 

 銚子は素泊まりとなり、犬吠崎で朝日を見ることもなかった。せっかく常陸(日立)の国近くに来たのだから、お日様を拝むくらいの行為はすべきだった。銚子まで来て「ちょうしっぱずれ」になったかもしれないが、考えを変えれば、今年は「ちょうしがよい」ということでもあるかもしれない。夜の鯖料理には大満足した。二日には朝早く出発し、香取神宮を参拝して、帰宅後その日の当直勤務でこの文章を書いている。
  

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