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2019年02月26日

俳句自選(榛名湖夢二の碑)

 

  夢二の碑は、全国各地にあるようだが,榛名湖畔にもあって夢二ファンが訪れる。竹久夢二は、岡山県の人だが晩年は榛名湖畔に居を構えようとするほど、この地を愛していた。近年アトリエが建てられた。
  小生の俳句の師は、秋池百峰という人で俳句誌「さいかち」に所属していた。創刊したのは、前橋にある寺の僧侶でもあった松野自得という人で夢二と親交があった。俳人でもあり画家だったところに夢二との縁ができたのかもしれない。次の句は、珍しく師にお褒めの言葉を頂いた。
      夢二の碑に氷湖がきしむ音寄せて
  なお、夢二の碑には「さだめなく鳥やゆくらむ青山の青のさびしさかぎりなければ」という歌が刻まれている。
  

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2019年02月25日

俳句自選(子供)

我が子を詠んだ俳句で知られているのは、中村草田男の
        万緑の中や吾子の歯生え初むる
が思い浮かぶ、季語は、万緑だが、この作品が世に出るまで季語として認められていなかった。
        芋の露妻は子供を産みに行く
長男、長女とも秋に授かった。今は、成長に悪いということから見かけることがなくなったが、歩き始めに歩行器使った。長男の句だが
        啓蟄や居を歩行器に構えたり
長女は
        恥じらいをカメラに向けて七五三 
俳句はアルバムに似ている。長男の写真は第一子いうこともあり多いが、長女の写真は少ない。せめて、俳句を多く作って上げればと後悔している。
  

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2019年02月24日

俳句自選(結婚)

 結婚の祝いとして贈られる句ということなら、ごく自然である。作家吉川英治は、結婚祝いにと、次の句を披露した。
      菊作り菊見るときは影の人
新郎新婦のご両親を讃え、結婚式という花舞台では、影の人になっている。教訓的ではなく、その句だけで、新郎新婦は両親に対する感謝を感じる。佳い句だと思う。
  個人的には、結婚式に参列してくれた人達に感謝を込めて俳句を記念品代わりにした。お寿司の飯台に塗装をし、金色の文字で自作の句を書いて贈った。
     隣人愛二身に享け初日の出
  結婚式は、1月だったので、めでたい元日の日の出を季語に使わせてもらった。結婚に至るまでのプロセスとしては、古事記のイザナギノミコト、とイザナミノミコトのように、男性が先に意思表示するのが良いと考え
     男有り女有りけり神の春
という句を作ったが結婚式場の標語のようになってしまっている。
  

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2019年02月21日

俳句自選(頬の色)

 句帳をめくっていたら頬の色を詠んだ句が二句があった。前の句は、鶴岡八幡宮の蓮池の端に中学生くらいの剣道部の少年がいた。池の蓮の色と少年の頬の色が重なった。
      蓮の花少年剣士の頬の色
 後の句は、福井県の永平寺のスケッチである。修行僧の頬の色がひげを綺麗にしてあるだけでなく、精進料理を食べているからなのかと想像する程、俗人のそれと違っていた。山桜も印象的だった。
      僧の頬透きとおるかに山桜
  

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2019年02月19日

俳句自選(外国で創った俳句)

俳句は、五七五の文字を基本にして、季節感表す季語をいれて、日本の自然の豊かさ、日本人が長い間に築いた文化を詠むものだと思っている。そうであるから、俳句に親しんだ同士に作者の意図、心が通じるのだと思う。友人が作る俳句など尚更わかりやすい。心の働きの中で情は大切で、喜怒哀楽を抑制すればするほど伝わりやすい。
 海外に出ても俳句は作れるもので
     韓寺に悲話あり秋の雨しとど
 韓国の仏国寺を訪問した時の句。豊臣秀吉の朝鮮出兵は、今も語り続けられている。ガイドさんに悲話を聞いたのだが、涙雨のように秋雨を感じたのである。次の句は、中国の西安を訪ねた時の句である。季節はこちらも秋だった。
     始皇陵平原けむり秋の風
小高い始皇陵の頂上まで登り平原を見たのである。はるか昔のことのように視界は悪いが、秋風が吹いていた。
  

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2019年02月16日

俳句自選(可憐な花)

芭蕉の句で菫を詠んだ句がある。
   山路来てなにやらゆかし菫草
「なにやらゆかし」というところが芭蕉の感性だ。
   寝転んでそっと寄り添う花菫
堤防だったか、野原だったか忘れたが、寝転んだら顔の横に可憐な菫が咲いていた。
草津白根に行った時に、菫ではないが小さな可憐な花が咲いていた。同行者に花の名前を聞いたら「イワカガミ」だという。
   岩鏡この歳にして出会う花
この歳が何歳かは想像にまかせたい
。  

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2019年02月15日

夏目漱石の俳句

 夏目漱石は、『吾輩は猫である』の小説で知られる文豪であるが、俳句も数多く作っている。友人の正岡子規の影響だと言われている。小説を本業とする前に多くの句を作り、子規が生存中には指導を求めた。漱石は、五高の教師となり、熊本に住んだことがある。街中を歩いていたら
     すずしさや裏は鉦うつ光淋寺  漱石
と書かれた碑を目にした。俳人飯田龍太によると(『俳句の魅力』角川書店)、漱石の句に佳句はあっても秀句はないと手厳しい。俳句は、あくまで余技だった言っている。しかし、漱石らしい句は微笑ましいものもある。
     某は案山子にて候雀殿
     肩に来て人なつかしや赤蜻蛉
猫の句もある
     行年や猫うずくまる膝の上
個人的に好き句は
     菫程なちいさき人に生まれたし
  

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2019年02月14日

日野草城晩年の句

  日野草城は、京都帝大法学部を卒業したエリートであり、保険会社に勤め要職に就いたが、結核により退職し床に伏す日々が多かった。妻帯しており、妻が献身的に看病している。
  俳句に関心を持ち、アララギに投稿するようになり、高浜虚子に認められることになった。しかし、アララギのレールを外れ、無季の俳句をり作ったり、想像で創った「ミヤコホテル」は官能的な連作で、虚子の逆鱗に触れ破門された。
晩年は、正岡子規と同じような境遇になって俳句を詠んでいる。
  年暮るる仰向いて句を選みつつ
  われ咳す故に我あり夜半の月
右眼を失明し
 右眼にて見えざる妻を左眼にて
また
 風立ちぬ深き睡りの息づかい
という無季の句も作ったが、虚子からの破門は解消される。
さらに代表作とも言われる句は
 妻籠みに白雪降りて積もりけり
古事記にある素戔嗚尊の歌を想起させる。
  

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2019年02月13日

俳句自解(花)

季語で花は、桜ということになっていて、連句でも花の座がある。桜を詠んだ句がある。
   お地蔵の散る花の全て見てござる
原句は少し違っていたが、俳句の先生が添削して上記の句になった。俳句に軽みの句というものがあって、芭蕉の「古池や蛙飛びこむ水の音」がそれだという。この場合、桜の木の近くにあった地蔵に「見てござる」としたところが工夫である。次の句は、桜を仰ぎ見た時に詠んだ句である。
    澄み渡る空に生まれて花の散る
桜の花びらが風に吹き上げられて、まるで空に生まれるような気がしたのである
。  

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2019年02月12日

俳句自解(月)

  月は、むしろ太陽より俳句に詠まれてきたし、短歌もまたしかりである。百人一首には、
      月見ればちぢに物こそかなしけれ我が身一つの秋にあらねど
また、万葉集には、柿本人麿の
     ひんがしののにかげろいのたつみえてかえりみすれば月かたぶきぬ
がある。俳句にも例はあげないが、芭蕉、蕪村、一茶などに有名な句が見られる。今は、流行していないが、連句には花(桜)の座とともに月の座がある。日本人とって月を愛でる気持ちの現われであろう。月は秋の季語であるが、一年中見られるわけで朧月といえば春になる。冬の月を詠んだ句がある。季語は冬の月である。
     薄雲を溶かして渡る冬の月
 夜空を見上げると、晴れてはいるが、ちぎれ雲があって、その雲が動くたびに、月が隠れ現れる。しかし、雲に隠れていても月の光は消えない。まるで月が雲を溶かしているようである。寒い冬の夜だから、溶かすという表現になったのかもしれない。
    
  

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2019年02月11日

堺屋太一さん逝去

今日の毎日新聞の一面に、堺屋太一さんの死去が載っていた。通産官僚から、作家、評論家、さらには請われて経済企画著長官になったマルチな人物であっった、テレビの出演も多く、ソフトな語りの中に、的を得て批評は、惹きつけられるものがあった。最近は、テレビで見かけることがなくなったが、橋本大阪知事の都構想の知恵袋になっていたという記事も目にしたことがあった。
 作家としての堺屋太一さんの書は愛読書になっていた。『耶律楚材』、『豊臣秀長』などは、人物評がよく描かれていたし、経済的感覚も無視していない。成吉思汗や豊臣秀吉の英雄の影に隠れ、支えた二人は堺屋太一さんに重なってくる。博識で、アイデアマン、企画力持った貴重な人物であった。83歳の死は、少し早かった。最後まで、頭脳明晰だったのではないか。ご冥福を祈りたい。
  

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2019年02月06日

「俳句の心」山口誓子著 毎日新聞社

 俳人山口誓子は、長命であった。94歳まで生きた。明治34年(1901年)の生まれであるから、さすがに正岡子規に俳句を直接学ぶことはできなかったが、高浜虚子の主宰した「アララギ」で俳句を鍛えた。三高から東京帝大に進んだエリートであるが、企業に就職している。著書を読んでみると、「アララギ」が主張した写生を基本としている。構図とスケッチ、そこに色付けするところに絵画に似ている。何を書くのかは作者の心であって、その心は感動である。それは、本居宣長の言った「あわれ」に通じるという。「あわれ」を分解すると「ああ」と「はれ」だという。造化の心に触れることでもある。芭蕉も無視していない。
  アララギの家人斎藤茂吉の考え方、「実相観入」にも共感している。
  むかうより瀬のしらなみの激ちくる天竜川におりたちにけり
を挙げて評価している。三高から京都帝大に進んだ数学者の岡潔は、歴史、文学の批評にも深い見識をもっており、俳句は芭蕉が第一であるとしたが、斎藤茂吉のこの歌は、評価した。数々の数学の難問を説いた自分の気持に通じるものを感じたのであろう。
 山口誓子の句は、多く知らないが
 海に出て木枯らし帰るところなし
は、良い句だと思っている。確か昭和19年の句だった記憶がある。深読みすれば特攻隊のことを連想する。
  

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2019年02月03日

故小渕恵三元首相のこと

橋本五郎著「宿命に生き宿命に挑む」は、故小渕恵三首相の政治家としての信条とした「宿命に生き宿命に挑み使命に燃える」からとっている。病に倒れたが、沖縄でサミット開催を周囲の反対を押し切った、自分意見を通すことの少ない、調整型の政治家には珍しい決断だった。しかし、本人は出席することなく他界したが、サミットは実現した。小渕首相は、群馬選挙区では、福田赳夫、中曽根康弘の後塵を拝していた。本人も「ビルの谷間のラーメン屋」と自嘲した言葉が思い出される。小渕恵三首相から直接電話をもらったことがある。「小渕ですが・・・・」という声で、首相であることがわかった。まめに電話する人だと聞いていたが、流石に驚いた。時の経つのは早い。故人との電話のことが思い出された。
  

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2019年01月30日



 冬になって上州は雪が降らない。夜間に少し降ったが、山から飛んできた風花程度で、朝日にすぐ溶けてしまった。最近、俳句に関心を寄せるようになって、季語を調べ、先人の俳句を鑑賞している。講談社から出版された「日本大歳時記」で発刊日は昭和56年になっている。雪を季語にした句に目をとおしてみようと索引を見て驚いた。雪の季語の多いことに。十ほど書いてみる。雪明、雪遊び、雪起こし、雪下し、雪雲、雪女、雪国、雪晴れ、雪しぐれ、雪見・・・・・・・・。日本人の繊細な観察と語彙の多さは着目して良い。歳時記は日本語の宝庫である。有名な雪の句で好きな句を上げてみる。
    いくたびか雪の深さを尋ねけり     正岡子規
    これがまあ終の住処か雪五尺     小林一茶 
山口誓子の「俳句鑑賞」を読んでいたら、雪の句があった。
    うつくしき日和になりぬ雪のうへ    炭 太祇
気持ちのいい瞬間だ。
    ぬかるんでいつしか雪の暖かさ
拙句だが、太祇の句に通じるものがあるような気がした。
俳句ではないが、切り絵に関心があって。群馬の切り絵作家関口コオさんに惹かれるようになった。年賀状のやり取りもあり、作品も数点所持している。久しぶりに関口コオを検索してみると昨年他界されたことがわかった。ご冥福を祈りたい。添付した作品はコオさんの作品である。
  

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2019年01月29日

ミレーの絵

 

 ミレーの絵は、敬虔な感じがするとともに慕情がある。ミレー展に巡り会えないので、原画を見たのは山梨県立美術館だけである。「落ち穂拾い」という絵は有名である。幼い時の記憶になったが、落ち穂拾いをした経験がある。小麦ではなく、稲穂である。稲刈りが終わると、刈った稲を並べて乾燥させ、それを丸めて脱穀をするのである。子供は親に言われるままに、拾い忘れた稲穂をあつめるのである。だんだん日が暮れて作業も終わる。蕪村の句に
      落ち穂拾い日の当たる方に歩みゆく
というのがあるが言い得て妙だと思う。
東北新幹線に乗って北に移動した時に、稲藁が棒に駆けられて乾燥している風景を目にした。次の句などは、そのさまを良く捉えている。
      藁塚に一つの強き棒挿され  平畑静塔
今は機械で刈って籾にするので落ち穂拾いという習慣は少なくなった
。  

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2019年01月28日

俳句かるた

  長男が幼稚園に入った頃、俳句歌留多を買った。幼児教育だという訳ではないが、生き物に対する関心や思いやりを持ってもらいたいと思う親心からである。今その歌留多は我が家にはない。あまり、子供には興味がなかったと見え、遊んだ記憶も薄い。動物の出てくる俳句を集めたもので、小林一茶の句が多かった。
   雀の子そこのけそこのけ御馬が通る
   痩蛙まけるな一茶ここに有
   我と来てあそべや親のない雀
他にも採用された句があったような気がする。
   青蛙おまえもペンキぬりたてか  芥川龍之介
   しんしんと雪降る空に鳶の声   川端茅舎
   ひっぱれる絲まつすぐや甲蟲  高野素十
など思い出せるが古今の名句が載っていた。長男に子供が生まれ、俳句歌留多はどうかと思った。お嫁さんを味方にしないと長男のにのまえになりそうだ。
  

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2019年01月27日

年賀状

  年賀状も、電子化の普及によって年始の挨拶の手段として減少傾向にあるが送られてくるものに、味わい深いものがある。私の今年の年賀状は、俳句一句と、短い言葉を書くようにした。なかなか新年を季語にした句はできないのだが、俳句帳に昔詠んだ句があったので、それを使わせてもらうことにした。一枚一枚筆で書いた。普段会えない友人、知己にコメントを忘れずに。、有名俳人の句を使いたい気持ちにもなるが、稚拙でも自作のものが良い。
     御下も亦良き朝の道すがら
  季語は、御下で、おさがりと読む。正月三が日に降る雪や雨である。この場合は雪である。しかも雪国の深雪ではなく、上州の雪である。心新たになる気分にもなる。御下の年は豊作になるという、縁起の良さがある。大家の句2句紹介したい。
     去年今年貫く棒の如きもの
     年は唯黙々として行くものぞ
高浜虚子のくである。
  

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2019年01月26日

動物の季語

 俳句を創るようになってなって久いが、動物の句は少ない。いつでもいるようで季節感を感じないのである。退職をしてから時間ができたこともあり、動物にも関心を持つようになった。久しぶりに高崎に買い物に出たら、目の前に見慣れた鳥が歩道を歩いている。鳥は枝に止まるか、空を飛んでいるものだと言うくらいの感覚だが、この鳥は地面が好きそうである。鶺鴒(セキレイ)である。今は冬である。 鶺鴒は秋の季語だから冬鶺鴒として季語にし、
    猫の如歩道横切る冬鶺鴒
まさか、猫には季語はあるまい。小林一茶は小動物に心を寄せたが、人間の以外の動物にも関心を寄せたいと思う。
  

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2019年01月25日

孫子の兵法

 古代中国の思想家孫子の「彼を知り、己を知れば百戦危うからず」というのがある。兵法書として書かれたものだが、日常のなかでも、見逃せない考え方が書かれている。岩波文庫にあるが、興味のある方は読んでいただきたい。退職して時間もできたので、孫子の兵法を学ぶことにした。先週、高崎駅にある本屋に行ったら「四季報、がならんでいた。老後のお金の運用も考え、株式投資をするようになった。勤めている時は、配当と優待が中心で、儲けようという野心も不思議となかった。だから、「四季報」のような分厚い情報誌は読んだことがない。ここにきて、「四季報」が孫子の兵法からすると必読書に思えてきた。会社(彼)を知らなければ株という味方(敵ではない)のことがわからない。方や己については、今までどおりで良いと思っている。余剰資金の中での楽しみという身の丈の運用である。  

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2019年01月24日

冬草

雑草のは蔓延った空き地、田畑をよく見ると、緑を残した草があるのを目にする。枯れ草の影にひっそりと生きているので目立たない。人も厳しい環境の中にあって、辛い時、目立たぬように生きて、捲土重来を図る。
     地に低くいのち潜めて冬の草
  

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