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2012年07月31日

近石綏子さんのこと

 脚本家の近石綏子さんの訃報を、先日ご主人の近石真介さんの手紙で知った。7月の中旬に、近石綏子さんの御子息が手がけられている、コーヒーのセットが今年も贈られてきた。そのお礼の葉書を書いた直後のことだったので大変驚いている。紀行文をお送りし、よくその感想もいただいた。古くからのお付き合いであったが、ここ数年は、難病を患いベット生活に近かったようだが、電話などいただくこともあった。以前、職場の機関紙にご寄稿いただいたこともあり、編集後記に近石綏子さんのことを書いたことがあった。亡き近石綏子さんを偲び、その記事を掲載し、御冥福を祈りたいと思う。

楽園終着駅               (昭和六十二年・秋号)
東京の俳優座で「楽園終着駅」という演劇を見た。老人ホームで生きる老人達を描いている。作者は、今回の〝新生〟の巻頭言をかいてくださった近石綏子さん。ご主人は、俳優の近石真介さんで、この劇を上演している劇団東演を主宰しておられる。近石綏子さんは、数年前に新生会を取材された。その印象が登場人物にも反映されている。
ダイナミックな人間模様が展開され、登場する老人達が個性的に描かれていることに好感を持った。〝ひかり輝く老戦士達の愛の調べ〟という近石さんの主題は、〝老人ホームとは、その人らしく生きられる場所〟ということを指摘しているように思えた。
老人ホームが、老年期における特殊環境であるという根強い社会通念の再考を促す作品として一度観賞することを勧めたい。施設関係者には、老人ホームを客観視できる良い機会になるはずである。

胡弓                    (平成九年・秋号)
胡弓は、中国の代表的な民族楽器である。中国では、京劇で使われたり、庶民が弾くことも珍しくない。〝胡〟は、中国の人たちにとって西方の人の意味を持つ。今から約一五〇〇年前に、シルクロードを渡ってきたペルシャ人が伝えたというのが定説である。夜は恐ろしい程に静寂で、荒涼とした砂漠の中を、故郷を遠く離れて孤独な旅を続けなければならない人々にとって胡弓の音は、心をいやしてくれたに違いない。
東京紀伊国屋ホールで演じられた、劇団東演の「そして、あなたに逢えた」を観劇した後の余韻としてふと胡弓が浮かんできた。痴呆症のお年寄りの世界を見つめてきた近石綏子さんの優しさと、深い個人史を持ったお年寄りの心の世界は、長い時を経て深遠な音色を生む胡弓を連想させる。近石さんの〝痴呆の心〟を求めた旅は長いだけに、深い感動を観客に与えている。
  

Posted by okina-ogi at 12:16Comments(0)日常・雑感

2012年07月30日

大和心(2012年4月)

大和心
 


 敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花
江戸中期の国学者、本居宣長の歌は、新渡戸稲造が『武士道』の中で紹介している。極端な皇国史観、軍国主義的な要素はない。大和心を
 「日本人の純粋無垢な心情」
と表現し、日本人が好きな山桜と西洋人が好むバラと対比させている。
 国の重要文化財になっている、宣長自筆の自画像の中に、自筆の歌として書かれている。六一歳の姿を描いたとされている。自画自賛ということであるが、今日では悪い意味のように使われているが、絵も見事、文字も見事である。
 四月一日(日)に、岡潔(数学者、文化勲章受章者、奈良女子大教授、京都帝国大学卒、一九〇一~一九七八)先生の春雨忌に出席の予定があり、名古屋から松阪で途中下車して奈良を目指すことにした。松阪市は、本居宣長の生地である。蒲生氏郷が築いた松阪城址の一画に本居宣長記念館がある。隣接して、生家であり、『古事記伝』や『玉勝間』を書いた家が移築されている。鈴屋と呼ばれる家である。
 この日、日本列島は、大荒れに荒れた。強風で各地に被害が出た。台風ではないが、爆弾低気圧という春の嵐に、三重も例外ではなかった。松阪への道すがら、桑名に立ち寄り、芭蕉の足跡やら、東海道桑名宿の面影を訪ねてみようと思ったのである。
その希望は、駅前に出た瞬間に挫かれた。駅構内の店で購入した、ビニール製の簡易な傘を広げた途端、軸が曲がり壊れてしまった。風は強いが、雨が小降りだったので、駅から近い、本統寺には辿り着けたが、七里の渡しに行くのは断念した。本統寺は、桑名別院本統寺で、地元の人は「ご坊さん」と呼んでいる。
 この寺を、芭蕉は訪ねており、境内の門の近くに句碑が立っている。すぐ近くには、親鸞聖人の銅像が高い台座の上から見下ろしている。芭蕉の句は
 冬牡丹 千鳥よ雪のほととぎす
季語のオンパレードのような句は芭蕉には珍しい。「野ざらし紀行」に収められている句だが、もう一句
 明けぼのや しら魚白きこと一寸
桑名と言えば、しら魚に増して有名なのが、蛤である。将棋指しの常套句で
「その手は、桑名の焼き蛤」
というのがあるが、桑名と喰わないの意味を重ねている。せっかく御当地に来たのだから、昼に焼き蛤を食べることにした。駅前近くを走る国道一号線(東海道)近くに、「丁子屋」という江戸時代から抜け出てきたような店がある。事実、創業が、天保一四年というから、一七〇年の歴史がある。「丁子屋」と言えば、静岡市の郊外にある、とろろ汁で有名な丸子宿の「丁子屋」も有名だが、店の人に尋ねると、名前も同じだが、関係はないとのこと。「昼はま膳」は税別二五〇〇円だったが、蛤しぐれ茶漬けがとりわけ美味しかった。
 桑名駅からは、近鉄を利用する。途中、風は強いが日がさしてくることもあり、時間も充分あるので、本居宣長のお墓にも行けるかと思ったが、松阪駅前にある観光センターに立ち寄ると、係員さんの迷いない
「おやめなさい」
という、的確なアドバイスに、納得できた。天候は回復せず、本居宣長のお墓までは、距離も遠く、しかもぬかるんだ山道を登らなければならないという。お墓に拘ったわけではないが、お墓に拘った本居宣長に関心があったのである。
「市内にもお墓がありますから、そこへ行かれたらどうです。樹敬寺という寺です」
 評論家小林秀雄の大作『本居宣長』の単行本を一五年以上前にある人からいただき、読破できず、そのまま本棚に置き去りにしていたのを思い出した。本居宣長の文章の引用が多く、内容も難解のために、再挑戦をしたものの、すっきりと頭の中に入ってこないことは、以前と同様である。しかし、断片的に、契沖、懸居大人(賀茂真淵)との深いつながりを憶えていて、彼の思索に影響を与えたことを再認識した。
 賀茂真淵は、本居宣長とはかなり年齢差があり、真淵が伊勢神宮を参拝した帰りに、
松阪に立ち寄り、宣長に面会の機会が与えられた。「松阪の一夜」という、その出会いを紹介した対談の模様は、戦前の小学校の教本に載った。その内容を記憶している人は、かなりの高齢者になる。真淵は、宣長の若いながらも学識の深さと、学問に向かう真摯さを認め、しかも目指す日本人の心の原点である「古事記」への関心で一致していた。真淵は、万葉集の研究にその頃打ちこんでいたが、それを土台にして「古事記」に進もうと考えていたが、年齢的に時間がなかった。宣長には、後継者への期待があった。
 「古事記伝」は、三二年をかけ、六十九歳の時に完結した。古事記自体が、難解であり、成立から長い年月を経ていることもあり、研究者の文献も少なかったことを考えれば、一筋に研究に人生を費やしたことは、脅威に値する。鈴屋の二階に書斎があり、「懸居大人(あたがいのうし)之霊位」の掛け軸を掛け、思索に疲れれば、鈴の音に心を癒し、時には門人と研究の成果を共有し、医業(小児科)にも関わった。鈴のコレクションは多く、今も記念館に展示されている。彼の家を鈴屋(すずのや)と呼ぶ由縁である。
 本居宣長の研究の終着点である「大和心」を言葉で表すとどうなるのか。「もののあわれ」、「まごころ」、「かみ」などへの解説を読んでも、難解であるが、「情」という心の働きを重視していることがわかる。
 敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花
という彼の歌で説明するしかないのかもしれない。「大和心」は、論理的に言語では説明し、相手に納得させることができないのかもしれないとも思う。
 かくすればかくなるものとは知りながらやむにやまれぬ大和魂
これは、吉田松陰の歌だが、見事このような心情で人生を全うした人である。
我々のような、凡人が「大和心」に触れたいと思うならば、万葉集を読み、後世の秀歌に多く接し、その感動を自分の人生の中で、歌として再現してみることだと思う。花が多くの人に感動と癒しを与えてくれるように、創作した歌が人々の心を動かすならば、「大和心」のある証になるということはできないだろうか。もちろん、俳句という表現形式でも良いのである。
 『本居宣長』の著者小林秀雄は、『人間の建設』という新潮社から出版された書に、数学者との対談を載せている。その数学者とは、岡潔である。古本でもなかなか手に入れられなかった本を、これまた知人から十年以上前にいただき、あらためて分野が違うが、日本の知性というか碩学に敬服するところがあった。数学、文学はもちろん、幅広い分野で、二人の間には、深い共感がもたらされたことは、言うまでもない。共感の一つに
「難しいことが面白くなるのでなければ、学問をしたとは言えない。難しい事は、やり続けていれば面白くなるものである」
と言った発言が、どちらからともなく語られていた記憶が残っている。
 岡先生が、晩年、数学の大功績を残した後、日本の将来を憂い、心そのものを解き明かし、説明しようとした世界は、果てしなく難解な世界で、未完成になった『春雨の曲』は、我々の理解を超えているし、小林秀雄の評論もまた難しいところが多い。本居宣長の『古事記伝』もまたしかりである。宣長の末裔(養子の弟子大平の子孫)に本居長世という作曲家がいるが、難しい世界に触れた後は、宣長が鈴の音を聞いたように、彼の作曲した童謡を聞きたいと思う。「七つの子」や「赤い靴」は彼の作曲である。
  

Posted by okina-ogi at 09:10Comments(0)旅行記

2012年07月27日

西郷南州(2012年3月)

西郷南州
 ふと鹿児島に行ってみたくなった。東日本大震災の直後に開通した九州新幹線にも乗ってみたい気持ちもあった。いつも九州旅行ではお世話になっている同級生の近況も気になっている。早いもので、ともに還暦である。高年期を与えられて、これからどう過ごすかは、重要な課題になっている。
 鹿児島を訪ねるのは、今回が三回目になる。最初は、大学四年生、母校の言い方からすれば四回生の昭和五〇年のことである。六〇から二二を引くと三八年前のことになる。当時の写真が残っていて、体型の変化には蝦蟇の心境になる。桜島の噴煙を背景にした写真には、先年亡くなった友人も映っている。彼の親戚が鹿児島にあって、一泊させてもらった記憶が残っている。その記憶も薄れているが
「こちらでは、女性は男性より先に風呂に入ることはない」
という彼のおじさんの言葉をはっきり憶えている。
 鹿児島には、知人がいる。こちらが一方的に知人と思っているだけで、迷惑に思っていらっしゃるかもしれない。紀行文集を友人、知人に勝手に送りつけている図々しさに誠実に応えてくださる御人柄に、一度はゆっくり会って話してみたいと思っていたのである。この方の近況は、時々インターネットで拝見している。年賀状をいただいたこともあり、連絡をとりご都合がつけば、今回お会いしたいと思っていた。しかし、鹿児島の住所に手紙を出しても届かず、住所は変わっているらしい。半分諦めかけていたが、年賀状には電話番号があり、失礼とは思いつつも電話することにした。嬉しいことに、憶えていてくださり、鹿児島行きのことを話すと会ってくださるという。目的も話すと、その日は時間が取れるので、案内もできると望外の返事が返ってきた
 「先生には、今生でもう一度お会いしてみたかったのです」
よほど緊張していたのか、たいそう大袈裟な言い方をしてしまった。
 電話で確認した住所に、旅の予定、待ち合わせ場所を手紙に書き、住所がわからず送れなかった『白萩』、『侘助』の二冊を同封すると、またしても丁重な手紙と、観光パンフレットが二回に分け送られてきた。それだけではない。自身のホームページ上に拙著を写真入りで、しかも目次まで紹介し、本の要点まで書き入れている。さらに、鹿児島中央駅から、待ち合わせの場所にした、「維新ふるさと館」までをご本人が歩き、写真と解説を載せている。なんとも言えない配慮である。
 二十五年ほど前に、ある研修会で講師をされた時お会いしたのが最初で最後になっていた。だから、こちらの顔もわからないと思い、昨年秋、唐招提寺で写した写真を再度手紙とともに送り、それに似た服装で旅に出ることにした。定刻に少し遅れたが、既にお待ちいただいており、ブログでお顔を拝見していたので、こちらから声かけし、再会ともいえない出会いが成就した。
 「維新ふるさと館」は、鹿児島中央駅からそれほど遠くない。町名が加治屋町である。この鹿児島城下の一地域から、多くの明治政府の要人を輩出した。その代表的人物が、西郷隆盛であり、大久保利通であるが、彼らは下級武士であった。今回は、一途に西郷さんを偲んでみたかったのである。西郷隆盛は、鹿児島の偉人で、今もその人気は失われてはいない。鹿児島の人は、今日でもそうだが、言葉よりも行いを重んじる傾向があるという。
 郷中(ごじゅう)教育という薩摩独得の制度があり、年長者が年少者の教育をした。目上に対しては、絶対服従を求められるが、年上の者は、年下の者の見本になるような行動が求められた。一番年長のもののリーダーは二才(にせ)頭と言い、西郷は二四歳まで務めたという。余程信望があったのであろう。彼の家は兄弟も多く、貧しかった。一七歳から一〇年間近く、郡奉行の下で年貢米の会計係のような仕事をしていた。その間農民の苦しい生活の実態を知った。明治政府になってからも、西郷は国の経済の基本は、農業であると考えていた。この時の体験が、あったからかもしれない。
 西郷が、その才覚を発揮するきっかけを作ったのは、島津斉彬である。幕末の英明で開明的な藩主として、幕府にも影響力を持つ人物であった。西洋の近代文化に理解を示し、実際、兵備を整え、殖産にも力を入れた。西郷が島津斉彬の目にとまったのは、西郷が提出した建白書である。その内容は、誠実さと熱情に溢れていた。殿さまは、この人物をそばに置き、政治に関わらせたいと考えた。身分は低いが、お庭方という職を与えたのである。時の名士と出会い、政治的視野と識見を深めていた。その代表的な人物が、水戸の藤田東湖であり、越前の橋本左内である。とりわけ、橋本左内を終生尊敬し、彼の手紙を最後まで所持していたという。
 島津斉彬は、幕政改革に熱心であり、篤姫を将軍家定に継がせ、発言力を高め、病身の将軍を補佐し、次期将軍に一橋慶喜を着かせようとした。これに、立ちはだかったのが、大老の井伊直弼であり、島津斉彬が急死すると、所謂「安政の大獄」によって、反対派、攘夷派を一掃しようとした。大きな後ろ盾を失い、西郷も追われる身となる。
 西郷さんのプロローグとしての記述はこれくらいにして、彼の波乱万丈の人生とその人柄に触れたい。
「死して美田を残さず」
「命もいらず名もいらず、地位も金もいらぬ」
「敬天愛人」
西郷の残した有名な言葉であるが、人生の中で見事実践して見せている。人徳というものは何とも不思議なものかと思うが、西郷には色濃くそれがある。他人を愛し、自己犠牲のできる人は私心と言うものがないというが、そこに徳がある。それは、他人が心動かせられるもので、その人の行為の中にあるとしか言えない。『南州翁遺訓』は、庄内藩の武士が、西郷隆盛の言動を綴った記録である。聖書や論語もキリストや孔子が書いたものではない。『南州翁遺訓』も感動を受けた者が記録として残したのである。そうした言葉の内容が、西郷の人生と符合するから、その精神が後世に引き継がれていくのである。京セラの創業者であり、KDDIの創設に関わり、日本航空の再建を成し遂げようとしている、稲盛和夫の座右の書でもある。彼は鹿児島の出身で、財団を作り社会に奉仕し、自らは得度し仏門に身を置いている。稀有な経済人である。
 庄内藩は、明治政府軍に降伏するが、西郷は寛容に対応し、武士としての面目が立つようにした。江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしたのは庄内藩であったが、仕返しをするようなことはしなかった。会津藩のような結果にはしなかったのである。いまだもって、会津人と長州人との心のしこりはとれていない。負の連鎖はどこかで断ち切らなければならない。許すということはなかなかできることではないが、西郷にはできたのである。
 西郷隆盛は、心ならずも西南戦争で城山に散ったが、死を決して錦江湾に入水したことがあった。同志であった勤皇僧、月照は生き返らず、西郷は蘇生した。主君である島津斉彬が死去した時も殉死しようとしたが、思い留まらせたのは月照であった。この日、桜島に渡るフェリーに乗ったが、磯庭園に近い場所という記憶があったので、入水地点に向かって合掌した。
 曇りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる
月照の辞世の歌である。
 藩に幕府の弾圧が及ぶとして、実質的な藩主であった島津久光は、西郷を藩内に保護することをせず、奄美大島に送る。この時は、罪人扱いではなかったが、後に徳之島、さらに沖永良部へ配流された。久光は西郷が好きではなかった。斉彬と違い、保守的で、自分本位に国家を考えていた点を西郷も嫌っていた。しかし、主君である限り仕えなければならない。西郷に珍しく、大した人物ではないということを公言したこともあったが、我慢し続けた形跡がある。
 沖永良部島での待遇は悪かった。体力も衰え、この時も死を覚悟することもあったが、天が彼の出番を用意した。島の暮らしは、奄美大島、徳之島、沖永良部島を通算すると、五年近い歳月である。この間、無為に過ごしたわけではなく、読書をした。その中で、佐藤一斉の『言志四録』は、大きな影響を与えたらしい。江戸後期の大儒学者で、佐久間象山、山田方谷、横井小楠などが学んでいる。政治家がよく揮毫する
「春風接人 秋霜臨己」
も『言志四録』からの出典だと最近知った。西郷と言う人物にこの言葉が重なる。
 入水事件、島流しから辿りついた心境は、自分の命は天に託そうというものだったのであろう。そうでなければ、維新の事業の英雄的な仕事は不可能であったろう。西郷のためなら命もいらないという郷土の武士の信頼を一身に集めることができた。最後は、不平士族の不満と自分の命を引き換えにした。
 子供らがなすがままにて果てし君かな
勝海舟のこの句は、南州墓地に刻まれているが、子供らが不平士族であり、君が西郷のことである。
 坂本竜馬の西郷の人物評が面白い
「西郷と言う人は、釣鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口であろう。ただその鐘をつく撞木が小さすぎた」
鐘が西郷、撞木が竜馬である。それを聞いた海舟は
「評される人も評される人。評する人も評する人」
と言ったという。今回時間がなく南州墓地はお参りできなかったが、終焉の地には鹿児島の知人に案内していただいた
「生まれた場所と亡くなった場所を見られたのだから良しとしましょう」
今回をご縁にして、知人が友人に昇格してくれると嬉しいと思った。鹿児島中央駅でお別れしたのだが、後ろを振り返らず去って行かれた。風の男、白洲次郎のようなカントリージェントルマンの雰囲気を感じた。実に爽やかである。
  

Posted by okina-ogi at 18:32Comments(0)旅行記

2012年07月26日

江戸の元日(2012年1月)

江戸の元日
 ここ一〇年来、元旦は旅立つものと決めて実行してきた。家でのんびりと炬燵に入って寛ぐのも良いが、元来無精な人間で、年の初めから弛緩したよう気持ちなったら、一年が怠惰なものになってしまうという強迫観念にとりつかれているのかも知れない。そのかわり、旅先では、しっかり温泉に入って、来し方行く末を思索するようにしている。
 二〇一二年の干支は辰である。還暦の年男ということである。振り返る過去が長くなったが、未来を見据えて生きるのが良い。昨年の暮れに購入した「青春一八きっぷ」が残っており、二枚分は、一月一五日の有効期限までに一人では使い道がないので、友人を誘い東京に出ることにした。天然温泉は、大都会東京にもあるのである。かつて松竹の撮影所があり、映画「蒲田行進曲」で知られる、大田区西蒲田に温泉があるのを友人が調べてくれた。JR蒲田駅から近いのだが、街中にあって市街地に溶け込むような普通のビルのため、捜すのが大変だった。風呂場に入って驚いたのは、湯が墨のように黒いことである。このあたりは、昔は海であったために、海藻が変色して黒い温泉になったと考えられている。
 都会に出て、田園風景のことを思い浮かべるのも変なことかもしれないが、明治時代、世田谷あたりは、農地や林が多かった。一週間前の年の暮れに、妹と目黒駅の近くの寺の墓地に埋葬されている、叔父と従妹の墓参の後、蘆花公園(蘆花恒春園)を訪ねた。京王線蘆花公園駅からは、かなり歩くが、都会の真ん中にかなり広い緑地が残っている。明治の文豪、徳富蘆花がここに住み、農耕と文筆活動に晩年を過ごした。ロシアの大作家であるトルストイにならい、「美的百姓」を実践したのである。『みみずのたわこと』岩波文庫(上・下)に当時の様子が描かれている。
 蘆花の死後、愛子夫人から東京市に寄付され、現在では東京都が管理している。公園内には、蘆花の旧宅が保存され、記念館もある。蘆花は、伊香保で亡くなっているが、墓地は母屋の近くの林の中にあり、妻と一緒に眠っている。秋水書院は、寝室を兼ねた書斎で、秋水は、幸徳秋水からとっている。兄の徳富蘇峰が国家主義の思想を色濃くするのとは対照的に蘆花は、平民思想に心を傾けるようになる。大逆事件で死刑になった、幸徳秋水を擁護した「謀反論」という一高での講演は、彼の気骨と思想が迸っている。
「諸君、謀反を恐れてはならぬ。常に新しいものは常に謀反である。『身を殺して、魂を殺す能(あた)わざる者を恐るるなかれ』。恐るべきは、霊魂の死である。::」
蘆花に講演を依頼したのは、弁論部に席を置いていた河上丈太郎で、後に社会党の委員長になっている。校長は新渡戸稲造であった。
 『みみずのたわこと』の当時の武蔵野風景には、電車や発電所などといった記述もあり、東京が周辺に向かい都市化していく様子が感じられるが、水道はなく、川に水を汲みに行き、井戸を掘ったりしなければならず、家屋は藁ぶきで、畑の肥料は、糞尿が使われている。有機農業といえばそれまでだが、田舎の営みは文明開化の蚊帳の外にあった。『自然と人生』も書いた蘆花は、長い欧州旅行もして、西洋の文明の便利さを知り尽くしていたが、農という労働の原点に身を置き、思索を続けたのである。
 『みみずのたわこと』の上巻に「農」という一章がある。最初のページの短い文章に、蘆花の農への見解が要約されている。

   農
     我父は農夫なり  ヨハネ伝第一五章一節
     一
 土の上に生まれ、土の生むものを食うて生き、而して死んで土になる。我らは畢竟土の化物である。土の化物に一番適した仕事は、土に働くことであらねばならぬ。あらゆる生活の方法の中、尤もよきものを択(えら)み得た者は農である。
      二
 農は神の直参である。自然の懐(ふところ)に、自然の支配下に、自然を賛(たす)けて働く彼等は、人間化した自然である。神を地主とすれば、彼等は神の小作人である。主宰を神とすれば、彼等は神の直轄の下に住む天領の民である。綱島梁川君の所謂「神と共に働き、神と共に楽む」事を文義通り実行する職業あるならば、其れは農であらねばならぬ。

 サラリーマン生活、宮仕えの生活が終われば、農地に仕えるのも良いとここ数年考えてきた。しかし、年金機構から送られてきた年金の通知を見たら躊躇するところがある。蘆花のように、印税と講演料が充分ある人のようにはいかない。元気なうちは高齢になっても働くことが、生活にゆとりを持たせ、社会性も失わず、何よりも健康で過ごせることになると思う。もう少し、「土に帰る」のは先にして、自営できるような資格も必要かもしれない。とはいえ、知力、記憶力は毎年下がる一方である。
 そんなとりとめもないことを思い浮かべ、考えていたらすっかり温泉で体が温まって、湯上りのお酒が飲みたくなった。何せ今日は元旦である。突然、建物が揺れだした。温泉施設のフロアーのテレビに地震速報が出て、東京は震度四となっている。昨年の大震災の記憶がよみがえってきた。
 早々に、建物を出て駅に向かう。交通機関は、正常に運行している。人々も何事もなかったように行動している。湯上りの酒は、〝アメ横〟の格安の飲み屋さんで飲むことにした。飲食のこと、旅行の仕方、実に同行の友人にはお世話になっている。勤労、勤勉も良いが、人生遊びも大切だということを彼は教えてくれる。自分にないものを持っている友人というのは大事である。誤解のないように捕捉するのだが、彼はりっぱな教養人で、音楽企画の専門家であり、歴史好きという共通点もある。
 今年は、どんな旅ができるか楽しみだが、大江戸も魅力ある場所と思った。歴史を探訪する時、過去ばかりでなく、現在の流行に触れることも必要だ。震災から一年近くなるが、どうも経済が停滞気味である。しかも政治が、リーダーシップを発揮できていない。就労、消費どちらも大事だが、うまく回転していかない。しかし、〝アメ横〟は、庶民で溢れ正月から賑わっている。
  

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2012年07月25日

農が本なる時代(2011年12月)

農が本なる時代
 久しぶりに伊豆を訪ねることになった。計画をしたのは友人で、彼は最近、江戸時代後期の歴史に関心を寄せている。とりわけ、鎖国政策を国是とした江戸幕府の海防に興味があるらしい。沼津に宿をとり、翌日高速船で戸田(へだ)港に行き、修善寺から韮山に行き、三島から帰るというのが旅程である。友人は、関西に用事があったらしく、沼津のホテルで夕方合流することになっていた。ホテルに着くまでは、こちらの自由時間である。鉄道を使った旅も、選択によっては、快適で費用も安くなることを教えてくれたのも彼である。高崎から小田原までは、在来線で途中乗り換えしなくても行けるようになっている。「新宿、湘南ライン」を利用すると所要時間も三時間もかからない。グリーン車を利用すれば、体も疲れない。
 小田原で途中下車する。小田急線に乗り換え、各駅停車で四つ目の駅が栢山(かやま)である。この駅からほど近い場所に、二宮尊徳(一七八七~一八五六)の生家と記念館がある。二宮尊徳は、通称を金次郎といった。薪を背負いながら本を読む金次郎の像は、全国の小学校にまだ数多く残っている。勤勉で、向学心のある金次郎少年は、戦前から模範的な人物として取り上げられた。皇民思想の色濃かった戦前の教育に利用されたとも言えなくもないが、二宮金次郎の像が、戦後も撤去されなかったのも不思議である。私の卒業した小学校にもこの像があったが、石造だった。位置を変えて今も、校庭の一角に残っている。当時は、職員室の前の、玄関横にあって生徒の目に良く触れる位置にあったが、今は校庭の隅にあって、すっかり影が薄くなっている。銅像だった金次郎像は、金属欠乏による戦時中の供出によって姿を消したケースが多いらしい。我が母校の金次郎像は、石造りであったがために残ったともいえる。戦後の民主主義教育に都合が悪いということから、進駐軍であったマッカサー司令部も撤去する指令は出されなかった。教師もあえて二宮金次郎の生涯を語った記憶もない。内村鑑三が、明治の二〇年代に英文で書いたという『代表的日本人』(岩波文庫)を読むまでは、長く意識の外にあったこの人物に関心を寄せることもなく、時が流れてしまった。
 二宮尊徳の思想の規範になっているのは儒教、神道、仏教であるが、彼が生い立ちから農業に従事した中で築いた思想は、独自なものがある。〝報徳思想〟というのだが言葉では説明しにくい。至誠、勤労、分度、推譲ということが大事だと言われてもわかりにくい。至誠とは、儒教で言う徳や仁の状況に心を置くこと。勤労とはその心を行動に表すこと。分度とは、その結果得られた物質的な物を応分に消費する活動。推譲とは分度の余剰を他者に譲ることだという。平たく言うと、真面目に働き、身分相応の生活をし、余剰があれば、そのお金は他人のために使われるようにする。譲るという表現はしているが贈与ということではないらしい。
 童門冬二が『小説二宮金次郎』を書いている。かなりの長編である。人物像は、作者の構想や想像力、感性の中で描かれているので距離を置くことにするが、内村鑑三が代表的な日本人五人の内の一人にあげる理由がわかるような気がする。偉人であり、徳のある人物には違いない。社会の豊かさ、他者の幸福を考え、自立した生き方をした人である。かなり頑固で、理屈っぽく、癇癪持ちのような性格に描かれているが、早く両親を亡くし、貧困から立ちあがった経緯を考えれば仕方がないかもしれない。
 彼の生まれた家は、二町以上の土地を所有する当時で言えば本百姓であり庄屋ではなかったが、決して貧しい農家ではなかった。二宮家は、小田原藩の領内にあった。家に近い場所に酒匂川が流れていて、金次郎が五歳の時に大洪水があった。その復興の中、両親を失い、土地も家も人手に渡り、伯父の家に預けられ兄弟も別れ離れの生活を余儀なくされたのである。
 昼は人一倍働き、夜は菜種油のわずかな灯りのもとで書物を読んだ。伯父に学問は農民には必要はないと夜の読書は禁じられたが、労働の合間に本を読んだことが、薪を背負ったまま本を読む二宮金次郎のイメージ生んだ。しかし、成人した時には、身長が一八〇センチを超し、体重も九〇キロを超えていたというから、大柄な少年だったのであろう。二〇歳になるまでには、二宮家を再興している。
 若くして家を再興したという経営手腕は評判になり、小田原藩の家老の家に奉公することになり、その働きぶりと能力が評価され、借金財政に苦しんでいた家老家の財政再建も依頼されることになった。二〇代そこそこでの事なので驚かされる。見事に成果を上げ、藩主の知るところとなった。小田原藩主は、大久保忠真で名君とされ、老中になっている。藩主から直接、荒廃した村の再興を依頼されるのだが、士農工商の身分制が確立した時代に、武士の役割を一農民が担うことには、藩士の抵抗があり、小田原藩では実現できなかった。
 下野の国、今日の栃木県の桜町領の村の再生が彼の仕事になった時、小田原藩士、つまり武士の身分を得たことになる。これは封建時代にあって異例なことである。さらに後年、老中水野忠邦によって幕吏になる。民間人が、地方公務員から国家公務員になるという表現では済まない特殊さがある。なぜ、そこまで二宮尊徳は、為政者から重用されたかは説明がいる。
 江戸時代は、貨幣経済の本になっていたのは、米であった。武士のサラリーは米が基準になっていた。いわゆる俸禄である。その米は、農民の年貢によって成り立っていたが、藩の石高も実際には多く見積もられ、藩士の俸禄も家柄相応の出費があり、商人に借金をする武士も多かった。二宮尊徳が最初に行ったことは、領内の米の生産力がどれくらいなのか過去にさかのぼりデーターをとり、現地の土地も調査し、可能な生産量も見積もることだった。それは、労働に従事する農民の勤労精神があることが前提であり、藩主には、生産量にあった石高で生活することを求めた。今日では、税収の中で政治をすることを求めたことになるが、国を先頭に地方自治体もこの原則を守っていない。今も昔も同じと言えばそれまでだが、なかなか財政再建というのは、意識改革や、制度改革があって簡単ではない。
 二宮尊徳の行った、農村再建の手法を「報徳仕法」と呼んでいる。農民教育から始まり、政治家に経費の抑制を求め、しかも農民出身の下級武士がリーダーとなってやることは、不動の心がなければできなかったであろう。実際、成田山新勝寺に籠って、不動明王の力を頼ろうとしたこともあった。しかし、彼の「報徳仕法」が世に認められ、江戸末期ではあったが、関東一円や東北まで拡がっていったのは、十数年に渡り地味に農民と共に「報徳仕法」を実践したからである。資産を全て処分し、現地に妻と一緒に赴任し、農民と苦楽を共にした。あくまで土に生きたのである。
 「五常講」というのがある。金融機関であって、信用組合のようなものと考えて良い。自分の資金を投じたことはもちろんだが、小田原藩のいわば公金だけに頼らなかった。経済と道徳を融合させた明治、大正、昭和の実業家渋沢栄一を想起させるが、二宮金次郎が先達である。彼の精神がいかほどに崇高あったとしても、村の再生はできなかったであろうし、その企画が素晴らしくても、その責任者の任を与えられることはなかったかもしれない。人物の背後にある力に財力というのも無視できない。しかし、彼が人生の目標にしたのは自己の金銭とか名誉ではなかったことは、その行為と思想を見ればわかる。さらに、体制批判や幕府の政策に対しては公言していない。農民の幸せだけは考えていた。年貢だけを納めるだけの機械に似た生き方を脱し、余剰から生まれる自己の自由な生活も持てるように願っていた。土に生きることが好きであったし、農民であることを天分と思っていたからであろう。
 私の家も江戸時代からの百姓である。墓地に行くと天明時代のご先祖の墓石がある。今では雀の涙ほどの土地しかないが、農作業をして小銭位の収入を得ることができる。植物に使われて、生活の糧を得られる農業は、生きるとは何かまで考えさせてくれる崇高な職業とまで思うことすらある。ヨーロッパに産業革命が起こらなければ、天地と共にゆるやかな質素な人生を人類が享受していたとも考えられるが、もはやそれは、観念的にも現実的にも不可能であろう。
二宮尊徳が目指した徳を掘り起こす勤労という行為は、天に逆らう行為だと言っている。全ての生物が天によって生かされていることはわかっていても、人間にとって必要な生物を意図的に生かすようにするのが労働だからである。生存のための業というのは罪深いものがある。宗教の存在する由縁でもある。
 すっかり小田原の寄り道に囚われてしまって、友人の旅の企画に報いることができなくなってしまった。しかし、沼津の若山牧水が晩年居住地とし、愛した千本松原の景観は素晴らしかったし、戸田港に向かう船から見た富士の美しさは忘れがたいものがあった。戸田地区にあるロシア船ディアナ号を紹介する記念館も新鮮な歴史の再認識となっただけでなく、韮山の反射炉に深く関与した代官江川太郎左衛門(一八〇一~一八五五)の存在も知った。彼も、二宮尊徳と対面したことがある。時代が重なっている。
 最後に、江川太郎左衛門については、少し触れてみたい。江川家は、家系を遡ると清和天皇までに至る名門であり、源氏ということになる。保元の乱に敗れ、伊豆に落ちのび、豪族となり、戦国の乱世も生き延び、徳川家康に認められ、世襲の代官職として徳川時代を過ごしてきた。その統括する地域も伊豆だけでなく、駿河、相模、甲州、武州まで広がっていた。江川太郎左衛門という名前は、代々の当主が名のり、特に頭角を現し、歴史に名を残したのが、三六代目の江川英龍である。日本画も書き、今日に伝わる自画像も残している。号を持ち坦庵(たんなん)と称した。蘭学から西洋文化にも目を向け、高野長英や渡辺崋山らとも交友を持った。高島秋帆に砲術を学び、幕府に海防のため台場を作り、大砲を設置して異国船の侵入を防ぐことを幕府に進言し、東京湾に今は緑地公園のようにして残っている。反射炉も大砲製造の目的に建てられている。戸田の安政の大地震で沈没したモリソン号の代替船の建造を指揮したのも彼である。最後は、勘定奉行の候補になるが、五〇代半ばで亡くなる。今も江川邸は残されているが、国の重要文化財になっている。乾パンを日本で最初に焼き、パン祖にもなっている。江川邸の近くには源頼朝の流刑の地、蛭ケ島がある。当時、川の中州にあったという。
  

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2012年07月23日

晩秋の京都、奈良(2011年10月)

晩秋の京都、奈良
 十月二十九日(土)から、奈良国立博物館で正倉院展が開催されている。年に一度の開催だが、期間が短く、遠方であり実物を鑑賞するのは今回が初めてである。第六十三回となっていて、お目当ては、黄熱香(おうじゅくこう)、別名蘭奢侍(らんじゃたい)という香木である。織田信長が、切り取ったという話は有名である。展示されたものを見ると、切り取られた部分がわかるように名入りの付せんが貼ってある。信長は、少し多めで、すぐ近い場所に足利義政の切り取りか所がある。驚いたのは、明治天皇が切り取られたか所も付せんが貼ってある。蘭奢侍という三文字の中には、東大寺の文字が隠されているという解説があった。なるほど、よく見るとそうである。お寺では、香は欠かせない。ちなみに香は嗅ぐのではなく聴くのだという。香道というものがある所以である。
 正倉院には、聖武天皇、光明皇后のゆかりの品が多く収蔵されている。天平時代の一級品ということだけでなく、長く良く保存されているところにかけがえのない価値がある。文化というものは、形を伝えることにも意味がある。染物も展示されていたが、少し色褪せてはいるが、当時は、美しい色だったことが容易に想像される。
 奈良公園は、人出で溢れている。鹿の存在も忘れてしまいそうである。博物館を出る時、二時半を過ぎていた。三時に近鉄西大寺駅で待ち合わせをしている人がいる。久しく年賀状のやりとりだけしかしていなかったが、いつも貴重な文献などを送ってもらい、感謝の気持ちを会って表したいと思っていた。博物館から近鉄奈良駅までは以外に距離がある。途中、興福寺も修復中であったが、友人と西大寺で待ち合わせたのは、平成の修復が終わった唐招提寺を一緒に見ようと決めたからである。
 唐招提寺は、唐から日本に渡ってきた鑑真の創設した寺である。鑑真と寺のことは、以前触れたので詳細は述べない。律宗の寺である。阪神大震災の後、修復中の建物を見て以来、ほぼ十年ぶりに寺を訪ねた。修復中、金堂にあった仏像は、東京国立博物館で展示され、じっくり見ることができた。鑑真の像も東京美術館で見ることができた。今回見たかったのは、山門を入ったところから正面に見える金堂の姿である。長い年月創建当時の趣を残す寺の風格は何ともいえず荘厳である。支える柱の丸身も以前のままだ。
 おおてらのまろきはしらのつきかけに
つちにふみつつものをこそおもえ    会津八一
 屋根瓦が、どことなく新しくなった感じがある。目を凝らして見ると、甍も以前とは変わっているように見えた。しかし、全体の金堂の姿は、以前見た記憶と違和感がない。唐招提寺の境内には、宝物館があって奈良時代に寺にかけられた額が置かれている。考謙天皇(749~758)の筆と伝えられている。国宝である。その他にも、重要文化財となっている仏像があって、間近かに見ることができる。多くの彫刻家や、唐招提寺に鑑真和上の渡来を襖絵に描いた東山魁夷を魅了した如来形立像(トルソー)も展示されている。この像は、首から上がないが、体のしなやかさになんともいえない美しさがある。今回、初めて目にすることができたのが金堂の屋根に取り付けられていた鴟尾(しび)である。正門から見た金堂の左側にあったのが、天平時代のもので、右側が鎌倉時代のものであったが、二つとも取り外され、宝物館に今回収蔵されることになった。国宝である。
 鑑真和上の像が安置されている御影堂よりさらに右奥に行くと、開山御廟がある。鑑真和上のお墓である。今は、咲いてはいないが、故郷揚州のケイ花が植えられている。以前この花を見たことがある。白い花だった記憶がある。池があって白鷺が一羽いた。鑑真和上には白のイメージがある。入滅から一二〇〇年の月日が立っている。合掌。
 友人とは、久しぶりの再会となった。話は尽きなかったが、いつも思うのは、真摯な生き方には脱帽している。西大寺で夕食を共にして別れることになったが、奈良に在住しているので、ゆっくり家に泊まってもらい、奈良をご案内しますというご配慮もいただいた。今夜は、京都の恩師の家に泊めていただくことになっている。師の家は、京都市左京区一乗寺にあり、国際会館から最終バスに乗ることになり、先生には大変ご迷惑をかけることになった。奈良の友人とは、時間ができれば、万葉の時代を思い浮かべながら、大和三山あたりをゆっくり一緒にまわってみたいとも思う。最近、万葉集は、日本人の心のふるさとという気が強くしている。
 大和は国のまほろば、たたなづく青垣山こもれる、やまとしうるわし 
日本武尊
 大和には群山あれど とりよろふ天の香具山登り立ち 国見をすれば
 国原は煙立ち立つ 海原は鷗立ち立つ うまし国ぞ蜻蛉島 大和の国は
                              舒明天皇
友人との再会を願い、次の歌がふと脳裏を過った。
 別け登る麓の道は多けれど 同じ高嶺の月を見るかな     一休宗純
 一夜明けると、階下から美味しそうなコーヒーの香りがしてきた。今日は、大学時代の恩師の家に同窓生が集合することになっている。遠方だという事で、先生の家に前泊となった。一人は、九州の福岡からの来訪であるが、大阪の友人宅に泊まり、二人で十一時頃到着する予定になっている。もう一人は、大阪の池田市から来る。朝食は、奥様と先生が共同作業でもてなしてくださった。いつものとおり、コーヒーは先生の役目で、何度も泊めていただいているので、すっかり慣れてしまった。前回は、奥様が不在だったのでお会いできなかったが、久しぶりに快活な声を聴くことができた。奥様も、心理学の大学の先生であった。
 「オギワラさんはタイジンやなあ」
昨夜、夜遅く先生にお会いした時
 「あんたフトッタなあ。わしも煙草やめて十キロも肥えたワ」
どちらかというと先生は、痩せておられたので今が丁度よいという感じである。奥様のタイジンを漢字にすると大人という意味にとりたいが、体つきの変化に影響したことは否定できない。食後、同級生の集合時間に二時間ほど時間があるので周囲を散策することにした。散歩の理由が充分納得していただけるのである。
 恩師の家から歩いて一分のところに、宮本武蔵と吉岡一門との決闘で知られる一乗寺下がり松のゆかりの松がある。当時の松は、八大神社に祀られている。この神社には宮本武蔵の像もある。隣が詩仙堂である。時間があるので、曼朱院を目指す。距離はかなりあるが、歩いて行けない距離ではない。九時を過ぎていたので開門している。紅葉には早かったが、庭園は美しい。三千院同様、皇室ゆかりの寺で、比叡山延暦寺との関係も深い。さらにその先が修学院離宮であるが、ここは予約して抽選に当たらなければ見られない。途中、雲母坂の標識が目に入る。ここを登れば比叡山延暦寺にたどり着くことができるがその時間はない。街に下り丁度一周するようにして先生宅に戻る。良い運動ができた。友人たちも訪ねてきて、近くの湯豆腐の店に奥様も同席して食事会となった。「恩師を囲む会」は話に花が開いた感じである。先生ご夫妻は、我々が還暦になることに驚いている。月日の経つのは早いものである。この企画をしたのは、大阪の友人だが、時間もとれるようになるので、数年に一度は関西で「先生を囲む会」ができれば良いと言って別れた。後日、先生からは、楽しい時間が持てたと感謝のお手紙をいただいた。最初のゼミの生徒として、特別に気を留めてくださっていることが嬉しい。次は、有馬温泉に一泊して歓談するのも良いと思った。
  

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2012年07月20日

関ヶ原へ(天橋立続編・2011年9月)

関ヶ原へ
時間は、前後したが、天橋立に戻る。観光を済ませ、高速バスで大阪に泊まる。船では充分に寝られないと思い、大阪の宿は、豪華さは求めないが安眠できそうなホテルを希望していたら、都会の真ん中で天然温泉に入れると聞いてびっくりした。しかも二人で八千円もしない。部屋も広い。シングルでも通常は、一万五千円以上する。キャンペーン中なのか、ホテルの事情に詳しい友人ならばの選択である。
 翌日のコースは、友人の希望の延長線上にあるが、こちらも興味のない場所ではない。長浜と関ヶ原に下りて戦国時代に想いを馳せてみるような設定になっている。長浜は、豊臣秀吉のゆかりの地であるが、時も時、NHKの大河ドラマに合わせ、浅井三姉妹の観光コースをバスが巡回している。淀君、初、江の父浅井長政の居城小谷城が長浜の近くにある。我々はというより友人が行きたいと思った場所は、国友鉄砲の里資料館である。国友鉄砲鍛冶のことは、司馬遼太郎の近江紀行に記述がある。種子島に伝わった鉄砲が、翌年には、この地で国産化され、信長を始めとした大名に大量に使用されるような経緯がある。資料館は、バスの運行に合わせ、一時間も見学できなかったが、古い街並みを歩くことができた。友人はもっと長く滞在したかったらしい。資料館の人は、本物の火縄銃を出して解説してくれた。
 火縄銃を作るにあたって最大の難問は、銃身の元の留め金に合った螺子の溝を刻むことであった。日本では当時、螺子の原理がわからなかった。見よう見まね、試行錯誤の上完成した時は、国友村の鍛冶に歓声が上がったとしても不思議ではない。戦国の世から、江戸の太平の時代にになって、火縄銃の需要は減少し、国友の鍛冶職人は激減した。その過程で、国友一貫斎のような偉人が出る。天体望遠鏡を作り、惑星の観測や太陽の黒点の動きを観察している。国友村が天保の大飢饉の時、その天体望遠鏡を売り、救済資金に充てたという美談が残っている。大変な発明家でもあったらしい。今も資料館の近くに屋敷が残っている。
 長浜市街地に戻り、鉄筋建築の長浜城の天守に昇り、琵琶湖と琵琶湖沿岸、小谷山、伊吹山を眺める。快晴の日、よく眺望はきいた。伊吹山の山なりは人工的な感じがする。それもそのはず、戦後、コンクリート会社が許可を得て山肌を削ったのである。愚かしいことである。展望台には、場所は確定できなくとも、賤ヶ岳古戦場、姉川古戦場の方向がわかるようになっている。天下分け目の合戦といえば関ヶ原である。関西方面には何度も足を運んでいるが、関ヶ原はいつも通過点である。
 関ヶ原には、家康の東軍と三成の西軍の合戦の地だけでなく、古代の関である不破の関があった場所としても知られている。芭蕉が訪ねている。野ざらし紀行に句があって
 義朝の心に似たり秋の風
 秋風や藪も畑も不破の関
関ヶ原の合戦を飛び越えた時代に芭蕉は想いを寄せているところが興味深い。不破の関は、壬申の乱、大和朝廷にゆかりがある。古代の三関の一つであったが、平安時代に廃止されていたので、芭蕉の時代のはるか昔の史跡である。政権争いの生々しい合戦よりも、不破の関のものわびしさに心が引かれたとしても不思議はない。
 関ヶ原の合戦の両陣営の場所を訪ねる時間はない。関ヶ原町の庁舎の近くに、歴史資料館があって、合戦の模様を解説している。八分間の解説付きでパノラマで見られる。団体客と一緒に一回。見知らぬご夫婦と一回。最後は自分でボタンを押して見た。
小冊子「関ヶ原合戦」を購入し、周囲を散策。石田三成の陣地のあった笹尾山には、旗が立っていてそれほど遠くない距離に見える。三時近くなので西日があたってよく見える。この時間には、勝敗が決していて、西軍は敗走している。西軍が敗れたのは、小早川秀秋の裏切りだとされている。その陣のあった松尾山も見ることができる。この戦に反対した西軍の武将に大谷吉継がいる。もはや、家康の力は強く、抗すべきではないと石田三成を説得したが受け入れないのを知って、友人だった三成の義に殉じたとされている。彼は、皮膚病、一説にはハンセン氏病を患い、顔を布で覆い、目も悪く、足腰も不自由で、部下に担がれた輿に乗って指揮したと伝えられている。大谷吉継が石田三成と親しくなったのは、ある茶会で、吉継が飲んだ茶碗が回し飲みされた時、吉継の病気がうつることを恐れ、飲むふりをする者の中で、三成だけが茶を飲み干したことに感激したからだという。敦賀五万石の城主になり、豊臣政権では三成と同様官僚としての技量を発揮したが、武将としての資質に非凡なものがあった。率いた兵は少なかったが、西軍で必死に戦ったのは、吉継が筆頭であろう。
吉継は秀秋の二心を疑っていたので、自軍を二手に分け松尾山の秀秋に備えていた。しかし、一万三千の兵には、二千の兵では、いかに奮戦すれども勝ち目はない。総崩れとなり、吉継は自刃し、西軍の敗北は明らかになった。島津義弘の隊は、家康の本陣を目指し、敵陣を突破するという離れ業をやってのける。追撃されたが、殿(しんがり)役が次々に追手と戦い島津義弘を逃げ帰らせたのである。明治維新で幕府を倒した薩摩藩ではこの過去の出来事は、深く藩士の心に刻まれることになった。
 西軍の総大将格であった、毛利秀元や長曽我部盛親は、戦闘に加わらず、勝敗が決するのを見届けて退却した。政権がどちらに移っても、家が存続する道を皆考えていたのである。日和見と言われても、政治家は権力の動向を無視できない。
友人は、歩き疲れたのか、駅周辺で時間を潰し、関ヶ原散策には同行しなかった。心臓に無理をかけられない持病がある。身障手帳一級を所持し、旅先の旅費は介助者として半額なった。新潟から敦賀、天橋立から大阪を経由し、高崎から名古屋駅までの交通費は約一万円である。こんな旅は、何度もできるものではない。名古屋で食事をして、お礼を述べて駅で別れ、新幹線で先に帰ることになった。
  

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2012年07月19日

天橋立(2011年9月)

天橋立
 
日本三景の一つ、天橋立にはいつかは訪ねてみたいと思っていた。雪舟が描いた水墨画は見ているが、現地に行き、直にその全貌を眺めてみなければ、その自然の美観を味わうことはできない。天橋立は地形的には砂嘴で、三保の松原や野付半島が著名である。長い年月をかけた、自然の営みが築いた傑作とも言える。天橋立のある宮津湾は、比較的高い山に囲まれていて、その頂から眺めると違った景観の天橋立が見られる。
 雪舟の「天橋立図」は東側、宮津湾から内海の阿蘇海への視野に浮かぶ天橋立で、「雪舟観」と呼ばれている。天橋立の先端が切れていて、外海と内海が繋がっていることがわかる。今日では旋回する橋があって、相当大きな船が通行できるようになっている。北側の傘松公園から見る天橋立は、「斜め一文字」と言われ、多くの人々に親しまれている景観である。南側にある文殊山から見る天橋立は「飛龍観」といって、その形が龍に見えなくもない。『丹後国風土記』には、伊邪那岐尊が天に上るために掛けた梯子が寝ている間に倒れてできたという記述があるらしい。荒唐無稽な話にも思えるが、古代から奇跡的な景観に対し、恐れ多いものを人々が感じていた証である。
 天橋立駅に着いたのは、昼十二時を過ぎていた。西舞鶴から、北近畿タンゴ宮津線を利用した。ローカル線で海辺を走り、車窓からの風景は良い。途中由良駅を過ぎたが、安寿と厨子王のゆかりの地という標識が見えた。森鴎外の『山椒大夫』は、悲しい話である。
 安寿恋しや、ほうやれほ。
 厨子王恋しや、ほうやれほ。
 鳥も生あるものなれば、
 疾(と)う疾う逃げよ、遂(お)わずとも。
盲(めしい)の母親と厨子王の再会の場面、子の安否を思い続ける母親の言葉が、この作品の圧巻である。
 名物「あさり丼」をお預けにして、文殊山にリフトで登る。頂上からの眺めは見事である。「股のぞき」に挑戦したが、前に出た腹が邪魔して、窮屈で少し目眩がした。なるほど天に架かる橋のように見える。すっかり、観光スポットの一つになっている。帰路は、モノレールを利用した。「飛龍」が少しずつ近づいてくるような感じがする。旋回橋を渡り、松林の中にある店で「あさり丼」にありつけた。ビールを注文し、「黒ちくわ」を一品加える。焼きたてのちくわは格別である。「黒ちくわ」もこの地の名物である。
店の前には、自転車が置いてある。四十分三百円で貸し出してくれる。天橋立の根元まで行ってみたくなった。距離にして三キロくらいあるだろうか。往復には、自転車を使えば、四〇分は充分な時間である。この日は、風が強く、内海は波立っている。しかし宮津湾は静かである。松林があるためだろうか、左(内海)と右(宮津湾)の海面の様子が対照的である。途中、歌人や俳人の碑があるが、横目に見ながら通り過ぎる。あまりゆっくりもできない。与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑があった。天橋立の近くには、与謝野町がある。鉄幹の父親がこの地の出身で、夫妻で晩年近く、この地に逗留し、その時創った短歌だという説明書きがあった。
小雨はれ みどりあけのの虹ながる 与謝の細江の朝のさざ波   寛
人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく天の橋立       昌子
夫妻の次男は、外交官であり、その息子が国会議員で、財務大臣にもなった与謝野馨だということは良く知られている。妻昌子は、堺の商家の出身で、いずれは深入りしたい歌人と思っている。与謝野蕪村や松尾芭蕉の句碑には目をやらず、制限時間内にお店に自転車をお返しすることができた。
 以上が、天橋立紀行の全てであるが、この旅を企画してくれた友人がいる。彼も同行した。こんな旅程も考えられるのかという驚きのコースと経費には、脱帽かつ感謝であった。
 「新潟港から敦賀港への船中泊で行こう」
というのが往路の骨格になっている。我々の旅の起点となる高崎駅から、関越自動車道を高速バスが運行している。新潟からの敦賀へ行くフェリーは週一回、それも日曜日の夕方しか出ていない。船中泊というのは、旅費と宿泊費がセットになっているようなもので、きわめて経済的である。翌朝には敦賀に着く。港からバスで敦賀駅に行き、JRで東舞鶴駅まで行く。戦後、引き揚げ港になった舞鶴も一度訪ねてみたい場所であった。天橋立観光までのコースは、私の我儘を聞いてもらったようなものである。
 舞鶴では、父親がシベリア抑留で数年間の抑留生活の後、本土に帰ってきた港が舞鶴港だったこともあり、「引き揚げ記念館」があるというのでコースに加えてもらったのである。
駅からは、距離もあり、バスの運行本数も少なくタクシーを利用した。当時の桟橋を再現した平桟橋にも立ち寄り、引き揚げ者や父親のことも想像して見たが、強烈な感慨も湧いてこない。記念館で、引き揚げ者の著作や資料を買って読んでみたが、体験者にしかわからない世界だが、引き込まれる文章にはなっていない。やはり、作家という職業は、成り立つのであって、山崎豊子の『不毛地帯』は幅広く読まれた内容を備えているのであろう。この機会に読んでおこうと思った。群馬県議会議長を務めた中村紀雄氏は、文才があって『望郷の叫び』上毛新聞出版局 は良く取材して書かれている。
 故人となった父親が、思い出したくもないと言いつつ、酒に酔った時、息子に話したロシア語で記憶に残っているのは、「ハラショー・ラボータ」(良い労働者)という言葉である。ノルマというのもロシア語だと思うが、しっかり働く者が良い労働者で、早く帰国できると強制労働に駆り立てられたのだという。父親は、自分が「ハラショー・ラボータ」だったから日本に帰れたのだと息子に言い聞かせるように話した。酒量が進むとまたこの自慢話が始まるかと思ったものである。失敗談は、何度聞いても他人には、面白く感じるが、自慢話ほど辟易するものはない。また、「働かざる者食うべからず」は、レーニンの言葉だとも言った。父親を共産主義者だとは一度も思ったことはないが、赤化教育に洗脳されたこともあったのだろう。しかし、息子が
「シベリアに一緒に行ってみようか」
というと、必ず拒否された。自分が「ハラショー・ラボータ」と認められ、比較的温暖なカスピ海に近い場所で働けたので無事日本に帰れた。そのお陰で、お前が生まれた。
そして、ロシア娘に惚れて現地で暮らそうと考えなかったからだと余計なことまで言った。辛い思い出を装飾するような話だが、何割かは真実だと思って聞いたものである。
「これで、荻原君の戦後は終わったかな」
と友人は、引き揚げ記念館には入館せず、待たせていたタクシーで一言。もはや「岸壁の母」もいない。しかし、ソビエト、とりわけスターリンという時の為政者は、ひどいことをしたと思わざるを得ない。ソビエトが労働者階級の国とは思えない。敗戦国の人々とは言え、住環境も劣悪で、満足な食物も与えず、六十万人以上の人々を、戦後長い間強制労働させたことは、国際法上許されることではない。労働基準法で最も罰則が重いのが強制労働であることからしてもしかりである。
 友人は、舞鶴に鎮守府があったことに想いを寄せている。しかし、赤レンガの倉庫群は残っていても、日本海軍の資料館がないことを残念がっていた。現地に来てわかったのだが、自衛隊基地の中に「海軍記念館」があることを知った。予約制で、月曜日は見られないというので、今回の見学は不可能であった。
  

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2012年07月17日

謀反人の子にして朝敵の子(2011年7月)

 謀反人の子にして朝敵の子
 東北地方に大津波が襲ってから四カ月が経った七月一五日、岩手県奥州市を訪ねる。平成の市町村合併の前は、水沢市であった。奥州市庁舎の近くには、城の名残がある。さらに遡る、幕末では、この地に仙台藩の支藩があった。城主は留守氏である。この東北の小藩に下級武士の子として生まれたのが、後藤新平である。
 後藤新平については、以前、日露戦争にあって救国の立役者と称しても良い、児玉源太郎に触れた紀行の中で紹介したことがあった。台湾統治にあって、児玉源太郎総督の下にあって、民政局長として手腕を発揮したのが、後藤新平であった。後藤新平は、後に東京市長になるが、大正一二年に起きた関東大震災の後、震災復興院の責任者となった人物でもあり、東日本大震災の復興を目指す現在、人々の関心が後藤新平向けられている。
 『小説後藤新平―行革と都市政策の先駆者―』著者 郷仙太郎という文庫本を友人からもらい、彼と一緒にこの地を訪ねた。新幹線を使い、日帰りということにした。在来線も乗り継ぐ細かい旅程は、友人任せである。高崎から大宮経由で東北新幹線を利用し、北上駅で下車、奥州市行きの在来線の普通上り列車で折り返す。北上駅より東京よりの水沢江刺駅や一ノ関駅で降りなかったのは、友人の知恵である。JR東日本管内、一日フリーパスを購入していたからである。東北日帰り旅行の中に、最近ユネスコの世界遺産に登録された、中尊寺観光も組み入れていたので、北上駅から南下するコースが好都合だったのである。
 奥州駅に着いたのは、十一時前で昼食時間には早い。駅から歩いて十分ほどの距離に水沢公園があり、その一画に高野長英記念館がある。高野長英は、江戸末期の蘭学者で、幕府から危険思想の人物と見なされ、投獄され、逃亡生活の末最後は悲業の死を遂げた。高野長英は、後藤新平の大叔父にあたる。高野長英の死は、後藤新平の生まれる前なので、直接薫陶を受けることはなかった。母親や、親戚の人達から聞かされる話が後藤新平の高野長英像を心に残した。「謀反人の子」の謀反人は高野長英のことである。近所の子供たちと喧嘩した理由が、大半は「謀反人の子」という蔑みの言葉が、火種になっていた。
 高野長英記念館には、重要文化財になっている高野長英像の掛け軸があった。係員が、教えてくれたのだが、肖像画は、後藤新平が所蔵していたものらしい。杉田玄白に学んだ高野玄斎の養子になったが長英の元の姓は、後藤であり武士であった。江戸に出て学問をしたが、物足りず、長崎まで行き、シーボルトの鳴滝塾でオランダ語を習得し、医学以外の西洋の学問を身につけていった。塾頭になったというから秀才だったに違いない。才能を鼻にかけるところがあって、仲間からは嫌われたらしい。モリソン号というアメリカ船籍の商船が、幕府から砲撃されるという事件が起きた時、『夢物語』を書いて鎖国政策や異国船打払令を批判した。そのため、渡辺崋山らとともに投獄されることになった。世に言う「蛮社の獄」である。その後、高野長英は、獄中生活を続けるが、獄舎の火災があって脱獄する。逃亡生活は長く、弟子たちにも匿われ、上州の山奥にも隠れ住んだこともあった。薬品で顔を焼き人相を変えることまでしたが、江戸に戻った時に捕捉され自害して果てた。記念館では、その逃走の経路を日本地図上に展示してあった。気骨もあり、開明的な人物だったのであろう。このあたりの気質は、後藤新平に受け継がれているような気がする。
 後藤新平記念館は、奥州市役所と道路を挟んで建っている。平日だったこともあるが、来館者は我々だけである。後藤新平の生家は、記念館から離れているが、しっかり保存されている。その生家の近くに斉藤実記念館がある。海軍大将となり、総理大臣も務め、昭和天皇の信任が厚く、内大臣になったが、二・二六事件で射殺された。後藤新平より一歳若く、喧嘩好きな新平に頭を小突かれたこともあったらしい。しかし、幼い時から漢書を読破するほどの秀才であった。今では、郷土の偉人の一人になっている。後藤新平と同時代の人物で、明治になって功を成り遂げた東北出身者では、南部藩の原敬、会津藩の柴五郎の名が浮かぶが、皆「朝敵」の汚名を被せられた。それを、反骨のエネルギーに変え、立身出世した点で共通している。
 後藤新平を人材として見出したのは、熊本の横井小楠の時習館に学んだ安場保和である。明治政府の高官として、東北に出仕し後藤に出会うことになる。後に、岩倉使節団に加わり、西洋文化に触れた人である。福島県令であった時、医学校を開設し、後藤に医師になることを薦め、援助した。後には、娘を嫁に与え後藤の岳父となる。肉親以外の生涯最大の恩人ともいうべき人物である。医師として、歴史の表舞台に出るのは、自由民権運動の先鋒であった板垣退助が暴漢に刺された事件にあって、治療に立ち会う結果となったことである。
「板垣死すとも自由は死せず」
歴史に名高いこの言葉は、後世の創作だったらしい。
 その後、内務省に勤務することになり、ドイツにも留学することができた。後藤の医学者としての知識も深まり、政治への関心も広がっていく。後藤の評価を一段と高めたのは、日清戦争の引き上げ兵士の検疫である。異国の地で戦った兵士が国内に入る前に検疫を行うことにより、伝染病が広がらないようにした。多額の予算と、時間がかかったが、見事に実行し、世界からも賞賛されることになる。このことは、後藤新平の提案があったとしても、彼だけではできることではない。児玉源太郎の後ろ盾があって可能になったのである。
 児玉源太郎は、後藤新平の人物と能力を高く評価し、台湾総督になった時、彼を民政局長に抜擢する。統治の実際は、彼に任せた。そして後藤は、新渡戸稲造や、夏目漱石の親友であり、大蔵官僚であった後の満州鉄道の総裁を後藤から引き継ぐ中村是公といった逸材を登用する。武力でなく、民政による統治である。土匪と呼ばれた土着の反乱集団もやがて沈静化され、不衛生な環境も改善されていく。彼は、日本人の流儀をおしつけなかった。台湾の風習は理解するようにした。その典型が、アヘン患者の撲滅の方法である。アヘンを前面的に禁止しなかった。既に喫煙者であった物には、登録して許したが、アヘンを高額にした。新たなアヘンの常用者は許さなかった。
 後藤新平は、その後満鉄総裁になり、逓信大臣、外務大臣までになり、近い将来の総理大臣も視野にはいるほどに政治家としての実力を持つようになるが、原敬のように総理大臣になることはなかった。政党政治の人でなかったからだという人がいるが、大衆からの人気はあった。請われて東京市長になった。東京市の予算が一億五千万円であった時に、八億円をかけて東京を大改造する計画を立てた。総理大臣であった、原敬は理解を示したが、東京駅で暗殺される。結果的には、国からも市からも承認されず実現されず後藤は「大風呂敷」という綽名を頂戴することになる。市長辞任後、関東大震災により東京は壊滅状態になり、後藤に復興院総裁の役職がまわってきたが、彼が描いた構想は、ほとんど実現しなかった。予算が足りなかったこともあるが、多くの人々に絵空事のように思われたからである。現代、新幹線の線路の幅は広軌である。大地の広い満州では実現したが、国内では実現できなかった。
 後藤新平という人物評は、多くの人によって語られている。本人も著作を残している。しかし、もっとも後藤新平を詳しく後世に伝えたのは、娘婿である鶴見祐輔である。しかし、後藤新平は、人間にとって大事なのは、金や仕事を残すのではなく
「人を残して死ぬ者が上」という遺言を残している。人材活用ができる人物であった。
 民族の素質
東西の文化の粋をつかみ
新たなるものを表現しうる民族
世界の最高標準を追い
列国の選手ときそいうる民族
卑下するをやめよ
なんじの真価を見直し
足らざるをおぎない
あやまれるを正し
民族の本来の素質を生かせ

 この詩は、大正、昭和に、教育家、社会運動家として活躍した後藤静香の『権威』の中の詩の一節である。後藤静香は、大分の人で、後藤新平とは無縁の人である。この詩にもあるように、後藤新平は、日本人の素質を認め、かつ平和の民であることを信念としていた。大震災の直後の今、民族の素質を考える機会とするのも良い。
  

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2012年07月14日

震災後の水戸(2011年5月)

震災後の水戸
 平成二三年三月一一日午後二時四六分、巨大地震の発生により東北、関東地方の沿岸部を津波が襲い、未曾有の災害をもたらした。東日本大震災として歴史に刻まれることになった。戦災ではなく、自然災害だから復興には時間がかかっても、必ず国民が結束して立ち直ろうと、心を合わせることができるに違いない。
 しかし、この震災により、原子力の平和利用で国策となっている原子力発電所が津波をかぶり、一時コントロールを失い、放射能を飛散させ、地域住民の強制避難を余儀なくさせ、広範囲にわたって農産物にも被害を与え、出荷ができなくなった。海洋の汚染も危惧され、漁業にも影響が出た。この文章を書いている、五月に入っても原発問題は収束しておらず、長期化の様相を呈している。
 国民に自粛ムードが広がり、経済も衰退気味である。早く震災のショックから抜け出して平常の状況以上に、元気印にならなければならない。この自粛ムードの煽りで、倒産した企業も出てきている。旅好きの習性を持った人間として、被災地に近い場所に、五月の連休を利用して、青葉を愛でながら出掛けることにした。行き先は水戸である。
 震災直後に、北関東自動車道が開通し、高崎から水戸まで高速道路で行けることになった。しかも、日曜、祭日は、片道一〇〇〇円である。一人だけで車で行くのではもったいない感じがしたので友人を誘う。友人は、幕末の歴史に興味を持っている。
水戸と言えば、徳川御三家には珍しく尊王攘夷の藩である。その伝統を創ったのは、黄門様で知られる第二代藩主水戸光圀である。大日本史の編纂は、尊王思想を水戸藩士に根付かせた。一八四一年に第九代藩主であった徳川斉昭は、弘道館を設立した。徳川斉昭は、烈公とも呼ばれ、尊王思想が強かった。時の大老、井伊直弼が開国を主張したのとは反対に、攘夷を主張した。政争に敗れ、安政の大獄では永蟄居となり、そのまま政治生命を断たれ死去する。しかし、政敵であった井伊直弼は、水戸藩士らにより桜田門外の変で暗殺された。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜は斉昭の実子である。
訪ねた日、五月三日は、祭日ながら弘道館は閉館になっていた。地震により、建物が損傷したために入館できなくなっている。周囲は、塀に囲まれているが、瓦が落ち、ビニールシートがかけられている。周囲を散策し、内部は案内書で想像するだけになった。当時の藩校の学問の中心は、儒教であり弘道館も孔子廟が置かれている。ただ、鹿島神社が置かれているのが、特徴といってよい。
 昼の時間が近くなっている。友人を誘った手前、幕末の歴史に触れられるもう一つの場所に案内することにした。偕楽園近くを車で移動中、納豆の会社の車が目に入った。良く見ると、笹沼五郎商店と書いてある。納豆の老舗で「天狗納豆」が有名である。お土産にしたいと思ったので追跡することにした。そのまま、会社まで案内してくれると思ったからである。予想は的中した。買い物をして、店の人に目的地を尋ねると
「回天館ですか。知りませんねえ」
店の商品〝天狗納豆〟と関係があるかもしれない、水戸天狗党の資料館だと説明すると
「その建物なら、保和苑の近くにあります」
町名を教えてもらったので、カーナビに設定するとそれほど遠くはない。食事する場所もあるらしい。
 目的地に着いてみると、驚いたことに墓地である。さらに驚いたのは石塔が倒れ、無残な状況になっている。回天館は、弘道館同様閉館になっている。明治三年に建てられたという三七四基の天狗党烈士の墓石は倒れたままで、中には真っ二つに割れてしまっているものもあった。一基だけ倒れていない墓石があり、名前を見ると海野平彦と刻まれている。
 天狗党の乱は、歴史の片隅に追いやられてしまった感がある。自身、その詳細は知らない。攘夷の決行を求めるために、筑波山に結集した水戸藩士が、上州や信州で戦闘をしながら、福井で降伏し、多くが処刑されたという事件で、幕末の悲劇だったという程度の知識でしかない。その顛末を書いた書物も読んでいない。島崎藤村の『夜明け前』に記述があるらしいが、記憶の断片としても残っていない。せっかく水戸を訪ねるからには、資料館で知識を得るのも良いと考えたのである。資料館が閉館になっていたのでそれも叶わなかった。
 資料館になっている建物は、天狗党に参加した水戸藩士が収容された鰊倉を敦賀から移築したものらしい。ここで、藩士は残酷非道な処遇を受けた後斬首された。その数、三七四人にのぼる。指導者になったのは、武田耕雲斎や藤田小四郎で、学識もあり、有能な人物だったとされる。藤田小四郎は幕末の志士から尊敬を集め、徳川斉昭の片腕ともなった藤田東湖の息子であり、武田耕雲斎は藤田東湖の朋友ともいうべき存在であった。この天狗党の行動を鎮圧しようとしたのが一橋慶喜、後の徳川慶喜だったことが、この事件を悲劇的なものにしている。慶喜にとっては、過激な行動と映ったのであろう。しかし、断罪を下したのは、田沼意尊(おきたか)という若年寄で、かの田沼意次の子孫である。水戸藩は、尊王攘夷派と諸生党というべき保守派に分かれ、尊王攘夷派でも過激派だった天狗党は、この事件により徹底的に粛清された。武田耕雲斎の水戸に残された妻や子、そして孫まで切り殺されている。こうした血なまぐさい行為は復讐を生む。諸生党は、幕府存続のため戊辰戦争で、薩長連合軍と戦うが敗れ、尊王派であった人々に報復される。そのため多くの有為な人材が失われ、水戸藩からは明治政府の高官になった人が出なかったと言われている。大日本史の編纂、そこから生まれた水戸学、教育の場であった弘道館の存在はどのように評価されて良いのか戸惑ってしまう。
 崩れた墓地を奥まで進むと藤田東湖の墓の前にたどり着いた。墓石は倒れてはいないが、周囲が相当痛んでいる。藤田東湖は安政の大地震により江戸で圧死している。母親を助けるために落ちてきた梁の下敷きになったとされている。平成の大地震で、安らかに眠れるはずの墓に災いがもたらされるとは、なんという因果かと思ってしまう。
 帰路、津波の被害のあった那珂湊の魚市場に立ち寄る。人出が多く、すっかり活気が戻っている。新鮮な鯖を下ろしてもらい、持ち帰って、その夜友人が家でしめ鯖にしてくれたが、二人は満足しても家族のものは箸をつけることがなかった。放射能のことを気にしたらしい。震災後の水戸日帰り旅行は、消化不良だったかもしれない。
  

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2012年07月13日

お伊勢参り(2011年4月)

お伊勢参り
 春めくや人さまざまの伊勢参り
『芭蕉七部集』の「春の日」に出てくる山本荷兮(かけい)の句であるが、連句になっていて、その後に、加藤重五という人物が
櫻散る中馬長く連(つれ)
と下の句を付けている。二人は、芭蕉門下のいずれも名古屋の人で、荷兮は医師、重五は豪商であった。お伊勢参りの雰囲気が良く出ている。
 桜が咲きはじめた四月四日(月)、奈良に集った春雨忌の有志五人で伊勢参りをした。企画したのは、春雨忌の幹事の松尾さんで、正式な参拝コースを設定していただいた。
春雨忌については、何度も紀行の中で説明してきたが、亡き数学者岡潔先生の墓参会のことである。今年で、三三回となった。参加者も年々少なくなり、退職年齢を超える人が多くなった。伊勢参りは、墓参会の翌日で、岡先生の次女の松原さおりさん宅に宿泊した者のうち四人が参加し、さおりさんも加わり近鉄で伊勢を目指すことになった。この日は、快晴で、伊勢の駅に降り立った時、雲ひとつなき青空であった。
 最初に参拝したのが、月夜見宮である。外宮(げくう)の別宮になる。祭神は月讀尊で天照大御神の弟神である。それほど大きくない森の中にはあるが、楠の大木があった。社も神さびている感じがある。次に参拝するのが数一〇〇メートル離れた豊受大神宮(外宮)である。神域は、広い。外宮に至る道を神路(かみじ)通りと言い、神様の道とされている。人は遠慮して路の端を歩くのが慣例なのだという。
 伊勢参りは、今回で三回目になる。いずれも外宮には参拝していない。内宮に劣らず、社殿も立派なのだが、参拝の人は少ない。かつての自分がそうであったように、伊勢参りと言えば、五十鈴川に架かる宇治橋を渡り、皇大神宮(内宮)を参拝するものだと思っている人が多い。そして二見が浦の注連縄が張られている夫婦岩に、朝日を拝んで帰路につくというのが定番のコースである。芭蕉は、生涯に六度伊勢を訪れているが、どのような参拝コースをたどったのだろうか。
何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる
と詠んだ西行法師の心境を重ねていたかもしれない。
 外宮から次に向かった宮は月讀宮(つきよみのみや)である。徒歩では遠いので、タクシーを利用する。この宮は内宮の別宮になっていて、月讀尊が祭神なのだが、月讀尊の荒御魂(あらみたま)も祀られ、加えて月讀尊の親神である伊邪那岐、伊邪那美の二神の宮が並んで建っている。神殿までの薄暗い路には、椿が朱色の花をつけていた。この宮も遷宮が行われるのか、敷地が用意されている。
 この宮から、内宮までは歩いて行ける距離である。国道二三号線の歩道をしばらく歩くと猿田彦神社の前に出た。この神社には寄らない。ニニギノミコトの天孫降臨に先導役となった国津神だとされる。それにしても、伊勢には神社が多い。解説書を見ると一二五社あると書かれている。そろそろ昼の時間が近い。「おかげ横丁」に入ると急に人が多くなった。日曜日ではないが、桜の時期と言うこともあり、さすがお伊勢さんだと思った。昼食は、内宮を参拝した後に「伊勢うどん」を食べることにして、「赤福」本店でお茶にすることにした。一時、不祥事で生産停止したこともあったが、順番待ちの盛況である。
 「おはらい町通り」を進み、宇治橋の鳥居の前に着いた時
「ああ、伊勢神宮にきたんだな」という感慨が湧いてきた。橋の上は風が強かったが、下流に目をやるとカラスが二羽、河原にいる。ツガイだと思った。そう思ったのには、理由があって、奈良の松原さんのお宅で、長男始さんの「隣のカラス」の講演を、DVDで見せてもらい、予備知識があったからである。カラスの種類は、ハシボソカラスである。カラスの存在を、さおりさんに告げると
「ほんまや」
と早速息子に電話を入れている。その結果は、こちらの観察が正しかったということである。カラスという鳥は、近年、害鳥扱いである。都会では、ゴミをあさるというので、嫌われている。人の文化の結果という見方もできる。始さんのカラスの生態の研究成果を聴いて、カラスに愛着も湧いてきた。神武天皇の東征に登場するのもカラスである。八咫烏は三本足に描かれている。カラスは、賢い鳥かもしれない。好奇心が強い鳥でもあるらしい。
 宇治橋を渡り、参道を行くと五十鈴川のほとりに出る。清流である。こんなきれいな川が残っているのかという感じ。神道は、清浄さを求める。滝や川がその源だが、ご利益とばかり硬貨が投げられているのは感心できない。禁止の札があるのにもかかわらず。
さらに参道を進むと、天照大御神を祭神とする社殿に至る階段の前に至る。天照大御神は、太陽神であり皇室の氏神であるが、広く国民から崇拝されている。床の間に天照大御神の掛け軸をかける家もある。
 参拝者が多く、階段を一段一段ゆっくり上る。
目に見えぬ神に向かいて恥じざるは 人の心のまことなりけり
                      明治天皇御製
誰も見ていないと思っても、お天道様は見ていらっしゃる。それでは、お日様の届かない陰では悪いことができるのか。自分の中に良心という太陽がある。そう考えるのが、日本民族の心である。そのよりどころが、内宮にはある。現世にあって、天皇陛下の御言葉、御行為は「目に見えぬ神」の御意志を体現されている。今回の東日本大震災の被災者を見舞うお姿を見ても、その感が強い。「かたじけなさに涙こぼるる」場面もある。
一国の首相である、管総理に罵声が飛ぶのとは対照的である。
 参拝を終え、再び宇治橋を渡ると、下流にはカラスの姿はない。午後の一時は過ぎている。名物伊勢うどんを生卵入りでいただく。土産にしようと思ったが、手荷物にするのには重い。三人前のコンパクトなものを家族用に買った。そこにタイミング良く娘から携帯に電話が入った。
「父さん。赤福はいらないからね。野菜買ってきて」
こんな注文は、旅に出て初めてである。
 三月十一日に起きた震災から一カ月近く経ったが、東京電力の福島第一原子力発電所の放射能漏れにより、関東近辺の野菜が、出荷制限になったりしている。風評で、店頭に並んでいても買わない傾向がある。
「食べても大丈夫。それより食べない方が健康に悪い」
と説明しても、納得していない。しかたがないので、帰路名古屋駅の高島屋の地下売り場で葉物野菜を中心に仕入れることになった。四国産あり、京野菜ありで、新鮮そのもの。紙袋をもらって新幹線に乗ったが、まわりの目を気にする自分がおかしいと思った。帰宅し、家族には大変喜ばれた。
 この紀行を書いている四月末になっても、原子力発電所の放射能問題は収束していない。既に電力は、生活、経済にもなくてはならないものになっている。エネルギーを大量に消費する社会をどう考えていくのかが問われている。物質的な豊かさと心の豊かさはイコールではない。東電が悪い、国が悪い、賠償をどうするかという視点で報道がなされているが、国民も電力の供給による利便を求めたのである。ともかく、放射能問題を解決し、津波で被害を受けた地域の復興を国民が結束して目指さなければならない。
神に向かいて恥じざるように。
  

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2012年07月13日

東日本大震災を振り返る

 あの痛ましい東日本大震災から1年4カ月が過ぎました。傷跡生々しい被災地には行けませんでしたが、これから、どう日本は立ち直っていけば良いか思索しつつ旅をしました。震災直後、紀行文集『侘助』を書き上げ、あとがきに心境を記しています。その文章を記載し、いくつかの旅日記を連載してみたいと思います。

後記
 春が近くまでやって来ているというのに、数日前から毎年恒例の花粉症にかかって憂鬱な気分である。若い時は、春は山菜とりに行き、杉林などは気にもかけなかった。体質が変わったということなのであろうが、長く蓄積したものが表面化したとも言える。
 「春の雲」から紀行風エッセイは八作目になった。その時々の、心のキャンパスにスケッチをしてきたつもりだが、読み返してみても、自分の思い出にはなっているが、本を差し上げた友人知己の方々には、大雑把なスケッチに水彩の色を落とした程度の絵のようなものだろうと想像している。平山郁夫画伯のように、そのスケッチに本格的に色をつけてみたいとも思うが、それは、紀行を書こうと思い立った時の動機と違うことになる。
 諸行無常。その時の心の流れ、惹かれるもの、偶然出会うものなどを表現できればよい。人間は生きているのでなく、生かされているのだという先人の教えをどこまで実感できたか、恰好をつければそういう表現になる。心の流れが切れないように、自分の「聖書」=『春雨の曲』(岡潔著)を読み返すことだけは忘れないようにした。しかし、いかにしても難解である。頭でわかろうとするからであろうか。
 そんなとりとめもないことを、編集後記に書きながら、自宅で、国会中継を見ていたら、地震速報があり、その数秒後に大きな揺れが起きた。この日は、風が強く、玄関先に飛び出したら、駐車してある車が揺れている。かなり長い時間揺れは収まらない。被害は甚大で、刻々と悲惨な状況が映像で流される。押し寄せる津波から避難できなかった人が数多く犠牲になっている。宮城県、岩手県の海岸地帯では、住宅も流され、一つの町が壊滅同然になったところもある。
上空からの映像は衝撃的だった。農地や家屋が、アメーバ―のように侵入する津波
に飲み込まれていく。人間が築き上げてきたものが一瞬にして失われていく、映像に
言葉を失った。移動する車もある。行く先を塞がれ流されていく。映像の中にいる人、
それを見ている人、なんともその置かれた立場の違うことか。
 〝東日本大震災〟、この戦後最大の震災は、日が経つうちに被害規模が明らかになってきたが、死者の数は不明である。二万人以上になるかもしれない。揺れで崩壊し、津波で流された家屋も十四万戸に近い数になった。避難所が二千か所近く設けられ、二十五万ほどの人が不自由な避難生活を余儀なくされている。道路や鉄道も被害を受け、復旧の目途が立っていない。まさに国難といってよい。
 加えて、この震災により原子力発電所が被害を受け、放射能漏れの問題が、周辺住民だけでなく、東北、関東甲信越の広域の人々を悩ませている。東京電力、自衛隊、消防、警察が被害の拡大を食い止めるために、必死の活動をしている。とりわけ、東京消防庁の消火活動の働きには、敬意を表したい。隊員の次の言葉は、最前線で活動した者でしか語りえない。
 「普段の消火活動では、救助する人は前にいる。今回は、事情が違っている。周囲、目の前には放射能という見えない敵がおり、守らなければならない人は、背後にいる。国 民という多くの人々である」
 隊員には、妻子がいる。普段から、非常時のために訓練しているとはいえ、恐怖の中での決死の働きであった。素直に頭を垂れたい。今、日本国民は試練に立たされている。結束、この難局を乗り越えたいと思う。

侘助(非売品)
 平成二十三年(二〇一一)三月
    著者     荻原悦雄
  

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2012年07月12日

石川啄木が好きだった花(2012年7月)

 蕗ばかり 席にもたれて北の旅
よほど昔、北海道をバスで移動した時、これでもかというばかりに蕗が道脇に生い茂っていました。今回、函館から、岩手の盛岡まで列車とバスで移動し、目に付いたのが馬鈴薯畑で、薄紫の花が咲いていたのが記憶に残っています。今年は、啄木が明治45年に亡くなってから100年になります。啄木の好きな花のひとつに馬鈴薯の花があることを知りました。男爵という種類のジャガイモです。啄木紀行のタイトルにしました。


馬鈴薯の花
 今年は、歌人石川啄木没百年の年にあたる。全国各地の啄木ゆかりの地で企画展が開催されている。啄木の出生地は、岩手県盛岡市の郊外にある。当時の地名は、渋民村であるが、現在は、盛岡市に編入されている。JR東日本の経営から移ったが、第三セクターにより鉄道が残され、渋民という名前の駅が残っている。
 先年亡くなられた、かなりの年上だが、永年親しくさせていただいた方の奥様から、『石川啄木』笠間書院という御子息の著書が送られてきた。啄木の心の変容を、代表的な歌から解説し、短歌には疎い自分でも良く理解できる内容になっている。表紙に書かれてあった歌が
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
であった。確か、二十五年以上前のことだが、この歌を盛岡城址で見た思い出が残っている。句帳に
  秋霖を 梢に凌ぎ 啄木碑
という句が残っている。季節は、初秋だったのだろう。出張研修のついでに立ち寄ったのかもしれない。
 歌にある「不来方(こずかた)」は、盛岡の別名である。「来し方」という言葉に似ていたためか、この歌を誤って理解していたかもしれない。しかし、「空に吸われし」という啄木の感性はこの歌の核心であろう。碑文の文字は、金田一京助である。啄木の第一の理解者であり、支援者と言える。
 著者は、河野有時と言い、東北大学で文学を専攻された方で、「コレクション日本歌人選」の中で六十人の一人として石川啄木を執筆されている。この本に刺激され、啄木の足跡を訪ねてみようという気になったのである。是非私も同行したいという友人がいて、一か月以上前から綿密に旅程を考えてくれた。啄木については、共通の旅のテーマになっているが、彼には別の目的もあり、それには、こちらも違和感はなく、昔からの悲願のような目的地ということを知っていたので、企画をお願いした。
 啄木は、常光寺という寺の住職であった石川一禎、母カツの長男として明治十九年二月二十日に生まれた。名は一(はじめ)である。両親にも歌の素養があったようである。そうした家庭に生まれたこともあり、幼いころから作文が優れ、冬にはカルタ(百人一首)に夢中になったという。村では神童と呼ばれ、尋常小学校では、全ての科目が「善」であった。「オール五」という評価が、今日、あるかは知らないが、頭脳優秀であったことは事実である。行状という態度、振る舞いの評価も「善」であることから、優等生であった。
名門、盛岡中学の入学時の順位は百二十八名中十番であった。このままの成績が続けば、旧制高校、帝大コースと進むことになったであろうが、文学に傾倒し、学業を疎かにし、授業の欠席、家の経済事情も加わり、中学は中退となった。ただ、文学仲間には野村長一(胡堂)、金田一京助がおり、その後の短い人生であったが、良き人脈となった。早熟と言えば早熟だが、雑誌『明星』に学生の頃から投稿し、退学と同時に十六歳という若さで、文学者になるという野心を抱きながら上京する。『明星』を主宰していた与謝野鉄幹を頼ったのであるが、あえなく失敗したが、与謝野家の人脈は残った。再起を期して、故郷に帰り、尋常小学校の代用教員として子供たちと過ごすことになるのである。
『雲は天才である』などの小説も執筆している。

十九歳という若さで結婚している。この若さでの結婚は、当時としては珍しいことではないが、結婚式には出席していない。その奇怪な行動に、友人たちは妻となるべき女性に結婚を考え直すように説得したが、彼女は啄木への愛を貫き彼の帰るのを待った。堀合節子という人で、盛岡女学校に学んだ才女である。盛岡市内に「啄木新婚の家」として残されている。
啄木の性格なのか、一つの職場に長く留まることがない。寺の住職の再任が不可能となり、父親が家出し、啄木も代用教員を免職となり、母親と妻子を置いて、函館に単身職を求めて津軽海峡を渡ることになる。明治四十年五月、啄木二十一歳の時である。代用教員から新聞社に勤め、母と妻子を呼び寄せることができた。啄木は、函館の街が好きだったらしい。四か月に過ぎない函館の生活に、深くかかわった人物がいる。宮崎郁雨は、妻節子の妹の夫であった。彼も歌人で、啄木の詩才に惹かれ、金田一京助同様、経済的な面で支援した人だということが、この旅で啄木の足跡を訪ねた唯一の場所である函館の文学館の展示で良く理解できた。啄木の晩年に、啄木の誤解だと思うが、絶縁状を出されたのにも関わらず、啄木の墓地を函館の海の見える場所に作ったのは彼である。啄木は、後世に名を残したかもしれないが、人格的な面ではこの人の方が上かも知れない。
函館を去り、小樽に移り、野口雨情とともにわずかな期間働くが、釧路に移り、東京で職を求めることになる。職を転々とすることは、別に悪いことではない。妻子があり、当時とすれば親の扶養を義務付けられていたような時代に、経済的に不安定な家庭生活の道を選んだのは、啄木の文人としてのエゴともいえないが、運命といった方が適切かもしれない。
今回の、啄木紀行の取材旅行は、函館から始まった。ゆかりの場所は、函館には何か所もあるが、末広町にある函館文学館だけにした。古い銀行の建物を改装し展示している。二階に啄木のコーナーがあるが、没一〇〇年にあたるので特別企画としての力の入れようが分かる。しかし、見学者は少ない。文学館の職員が慣れない英語で若い男女の見学者に説明していたが、二人はバンコクから来たとのこと。宮沢賢治ほどではないと思うが、啄木も国際的な存在になっているのだろうか。一階には、函館ゆかりの文人が紹介されている。亀井勝一郎、今東光、今日出海、井上光晴などのコーナーがあった。
多くの啄木自筆の資料が展示されていたが、とりわけ目に着いたのは、手紙である。森鴎外への手紙と、葉書があった。鴎外は、啄木の歌を高く評価していたらしい。漱石への手紙は目に留らなかったが、親交があった。入院中の漱石の見舞いをしたことがあるらしい。明治の二人の文豪に、二〇歳そこそこの無名に近い文学青年が出会うことができたのは、与謝野鉄幹の存在が大きい。鉄幹に誘われ、森鴎外邸での歌会に出席し、一位になったことがあった。若山牧水、北原白秋といった歌人との交流もあった。特に、若山牧水は、啄木の臨終にも立ち会い、随筆に啄木のことを多く書いている。啄木は、彼の残した、日記や評論などを見ると社交的(?)で、著名人に会うことに積極的で、何より自信家で野心家のように感じられる。
「近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ。学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持っている。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いている。しかし天才ではない。革命の健児ではない。・・・・・」
啄木の日記からの引用だが、小説の大家のような評である。正岡子規のようでもある。啄木は、皮肉にも小説家としては、世に認められなかった。
 翌朝早く、函館駅から青森行きの特急に乗る。津軽海峡を初めて列車で渡ることになった。青函連絡船で津軽海峡を渡った経験はある。列車だとまことに早く津軽半島に渡ることができる。途中蟹田という駅で降りて、フェリーで対岸の下北半島に渡る。下北行きは、友人の希望である。むつ市の大湊に「北洋館」という海上自衛隊の資料館があり、バスで行くことになったが、本数がなく二時間フェリーの着岸した脇野沢で時間をつぶすことになった。食堂に入ると客は我々二人だけである。「北洋館」に着いたのは、二時近くで、四〇分程資料館を見学し、タクシーを呼んで恐山に行く。友人は別行動で、下北駅で落ち合うことにした。恐山のことは、啄木のことと関係がないので書かないが、イタコさんがいたら、啄木の霊を呼び出してもらおうかと思ったが、その日は不在で、酔狂な思いつきは実現しなかった。もう亡くなって一〇〇年も経っていれば、イタコさんと雖も呼び出すことはできなかったに違いない。
 その日は、八戸で泊まり、青い森鉄道といわて銀河鉄道を利用して渋民駅を目指す。函館から蟹田までもそうであったが、沿線の風景を眺めていたらジャガイモの花が咲いている。啄木の歌にもジャガイモを歌ったものがある。
 馬鈴薯のうす紫の花に降る雨を思へり都の雨に
 馬鈴薯の花の咲く頃となりにけり君もこの花を好きたまうらむ
八戸駅から渋民駅までは二時間を要した。
 啄木記念館は、生家となっている常光寺の近くにある。代用教員として教鞭をとった渋民尋常小学校の二階建の校舎も移築されてあった。
 ふるさとの
 山に向かいて言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
歌を三行にして書くのは啄木の流儀である。このふるさとの山は、里近くの山も当然に啄木の脳裏に刻まれているのだろうが、ひときわ高い岩手山が西方に雄然としてある。しかし、東方には姫神山があることを知った。名前の通り、岩手山とは対照的に女性的な山である。
 啄木の生涯には、暮らしの貧しさが常にのし掛かっていたが、死の直前まで、朝日新聞の職員として月に三十円の給料はあった。金田一先生の給料よりも高かった。しかし、彼には扶養する家族が多かった。「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」の原因は、家族構成にもあったが、結核という病気が啄木家を苦しい生活に追い込んだ。母も、啄木も、妻も、子も結核で死んだ。啄木は、臨終の間際に、薬を買えない家計の事情を若山牧水に嘆いている。 
  

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2012年07月11日

若山牧水の旅模様

 幾山河 越えさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞ今日も旅ゆく
の若山牧水から、旅は孤独なイメージがあったが、彼の紀行集『みなかみ紀行』を読むと異なる感想を述べたくなる。信州や上州の山深い温泉宿を歩いて訪ね、酒を飲むのを楽しみにしていたことがわかるが、友人、知人と一緒に酒を汲み交わしている。計画的でしかも友人との再会の口実が牧水の旅でもあった。そして、紀行文として出版し、生活の糧にもなっていた。何よりも旅先で詠む短歌が多くの大正人を魅了した。
 牧水は、晩年海に近い静岡沼津の海岸近くに居を構えている。千本松原という長い年月人々に守られてきた松林が伐採される計画が浮上したことがあった。真先に反対運動を起こしたのが牧水だったのである。地球温暖化が世界の共通認識になりつつある現代よりも遥か以前の時代に環境保護を訴えたわけである。牧水が自然保護の運動家とは思えないが、緑深い山河を愛していたことは、『みなかみ紀行』を読めばよくわかる。「みなかみ」は、温泉地の「水上」ではなく、水源地の「みなかみ」である。そこには、きれいな水と木々があり、春は緑が芽吹き、夏は深緑が涼しい影を落とし、秋には紅葉して美しい。冬木立もまた良い。四季さまざまな鳥の声も聞こえる。牧水が多くの鳥を知っていることに驚かされた。
 啄木鳥の声のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける声のさびしさ
 紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の声のさびしさ
草津からさらに源流に近い花敷温泉に行く途中の短歌だが、さびしい、さびしいと言っている。同行者もあり、牧水が啄木鳥の鳴き声をさびしいというのは、読者を意識しているように思えてならない。いわば常套句に近い。この時代の大衆は、さびしさに対する共感があったように思えてならない。
 牧水には、「枯野の旅」という詩がある。その中に
上野(かみつけ)の草津の湯より
沢渡(さわたり)の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂(くれさか)峠
という一節があるが、ここにもさびしさが詠われている。牧水のおかげで暮坂峠は有名になった。それこそ、牧水が詩にしなければ、何もないさびしい峠である。
  (紀行文集拙著『白萩』、羇旅より抜粋)
  

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2012年07月09日

石川啄木と若山牧水

 若山牧水は、群馬とは、ゆかりのある歌人です。暮坂峠に牧水の像が建っています。『みなかみ紀行』に群馬の温泉地を訪ね、酒を飲み、歌を詠んだことが書かれています。若山牧水は、宮崎県の出身ですが、晩年は、富士の見える沼津を愛し、居を構えそこで死にました。今は、彼が愛した千本松原に記念館があります。昨年訪問し、紀行文を書きました。若山牧水は、短歌を読むだけでなく、随筆も書いています。記念館で購入した『若山牧水随筆集』で知ったのですが、彼は、石川啄木と親しく、啄木の臨終に立ち会い、その様子を書いています。今年は、啄木没100年の年にあたります。啄木紀行は、近日紹介することにして、今回は、若山牧水の紀行を掲載します。


 霊峰富士
 小田原から沼津、戸田から修善寺、韮山への小旅行の余話のつもりで書いている。海上から、まじまじと見た富士の美しさが忘れられなかったからである。幾度となく、東海道を新幹線で行き来した時に見る富士は、ほんの一瞬であり、視界の関係ですっきりした富士を見ることもまれであり、読書していたり、眠っていたりする間に見過ごすことが多い。
 これまでの人生で、随分と山登りをしたつもりでいる。いまだに、職場の山岳同好会のようなグループに籍を置いて、毎年のようにハイキングを楽しんでいる。憧れだった、尾瀬は山登りとは言えないが、帰路は立派な山登りである。黒姫山では、遭難(?)しかけた経験もある。しかし、富士山は未踏頂のままである。還暦近くになって、体力的なことも考えれば、登ってみようという気も起らない。富士山は、遠くから眺めるだけで良いと思っている。古来、富士山は、霊峰富士として多くの日本人に親しまれ崇められてきた。葛飾北斎や、安藤広重の浮世絵などは見事だし、多くの画家の題材にもなっている。
 沼津港から戸田港まで、高速船に乗って振り返るように見た富士山が強く印象に残った。山の形が美しいのはもちろん、海面から四〇〇〇メートル近く聳える様は、圧巻である。海上から鳥海山は見たことはないが、その高さからすれば富士山には及ぶまい。
 冬波に 揉まれて富士の高嶺かな
あまりにも美しいものを目にした時には、こうした月並みの俳句しか浮かばないものである。沼津の海、千本松原、そして富士の眺めを愛した歌人が、若山牧水であるが、牧水の歌集を眺めていたら、富士山の歌があった。歌からも判るのだが、戸田港から沼津港へと向かう時に、詠まれたものである。
 伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
「ゆ」というのは~からという意味で、山部赤人の
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りけり
もその意味で、後に藤原定家が「ゆ」を「に」に、「真白にそ」を「白妙に」に変えて百人一首に載っているが、こうした行為は如何なものか。牧水の歌に戻るが、「はしなく」という表現が、彼の感性だが、戸田港というのは小さな円形の湾になっていて、岸壁からは富士山は見えない。湾を出た時に、富士山が見えてくるのは事実で、その場所に行かなければこうした歌にはならない。俳句同様、短歌も観念的に作るものではないかもしれない。しかし、こうしたことは、絶対にということではなく、議論があり、人によって主張するところがあって良い。
 野のはてにつねに見なれし遠富士をけふは真うえに海の上に見つ
「真うえに海の上に見つ」という富士山は、実際その環境で見たものとして同感する。
 見る見るにかたちを変ふる冬雲を抜き出でて高き富士の白妙
富士山の姿は、高山独得の気象の変化によって、雲が湧き、その姿を隠したりすることがある。今回、海上からみた富士は、すっきりと最後まで見えた。しかし波が高く、船は水飛沫をかぶり、船内で安全を祈る時間が多かった。
 若山牧水は、本名を若山繁といった。宮崎県臼杵の出身で、明治一八年に生まれている。父親は、医師であったが、祖父の代に築いた財産を、散財するような生き方をした人のように牧水の随筆『おもいでの記』に書かれている。好人物だったのであろう。一番上の姉とは、二〇歳もの歳の差があり、物心ついたときは、好々爺の印象があったという。そんな父親でも、早稲田大学に進学させてもらえたのだから、それなりの財力はあったのであろう。父親も牧水同様に酒に目がなかった。
 随筆で私事に触れるのは、流儀に反するのだが、私の父も酒が好きであった。しかも社交的な人で、どちらかというと酒を飲むときは、気前がよく奢る人だったと思う。我が家の恥を晒すようだが、地主だった田畑を父の代に随分手放している。子供を、大学まで出してくれたのだから、文句は言えないが、酒は父のように飲まないと思っていた。遺伝なのだと言い訳にしているが、いつのまにやら継承してしまっている。この年になると、他界して久しくなる父親批判もしにくくなっている。
 牧水の酒の歌を集めた文集が出ている。若山牧水記念館で買ったのだが、三六七もある。二つ減らせばカレンダーができるではないか。広く知られた彼の代表作は
 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
だが、家族との晩食、宴会、法事の場といった一人酒ではない気分も亦よいと思うのだが、牧水は、淋しさ、悲しさを酒に求めるところがあった。というよりは、読者を意識したところもなきにしもあらずという印象がある。歌を業とする人でもあったからである。良寛の酒の歌がある。
 あすよりは後のよすがはいさしらず今日の一日は酔いにけらしも
屈託がない。
 人は、どのような時に酒を飲むのだろうか。おおよそ非日常の祭りなどは、酒に普段縁のない人も口にすることがあるし、旅先での宴会などは、つきものである。寂しさをまぎらす一人酒は、度を過ぎて命を縮めることにもなる。適度な晩酌は、良き睡眠に誘う百薬の長である。牧水の飲み方は、日常にあってどうであったかというと、朝二合、昼二合、晩六号、一日一升というからこれでは肝臓が悲鳴を上げる。事実、肝硬変が死因になっている。彼の飲み方は、小さな盃で、棺に入れたが前よりも増して盃の絵模様の色合いが良くなり、記念館に展示されているという。「我は蘇りなり」である。
 青柳に諞蝠あそぶ絵模様の藍深きかもこの盃に
 伊豆の旅から、年が明け二月になって、二人称というべき人の死に出会った。一人は医師で、酒をこよなく愛し、歴史に詳しく趣味人であった。
「一将功なりて万骨枯る」
ゴルフの後に誘われてご馳走になったのだが、酒の中での会話の内容などは、記憶に残らないものだが、十年以上も前のことでも良く覚えている。
「一升こうなりてばんこつかる」
てっきり、酒の「一升」だと思っていたら、「将」だという。一人のリーダーが功をなり遂げる過程に、多くの人々の見えない働きがあることを忘れないでほしいというのである。日露戦争の激戦だった二〇三高地の戦いのことを連想し
「乃木大将の漢詩にある言葉ですか」
と問うと、唐の詩人の言葉だという。享年七一歳であった。
もう一人は、高名な老年学の権威である。昭和一六年、彼が一七歳の時、富士山に近い身延山の階段に物乞いするハンセン病の人々の姿を見た。その強烈な印象は、脳裏から消えず、自身結核にも罹り、大学を三〇歳近くで卒業し、岡山の長島という島にハンセン病の人々が社会から隔離された施設に志願するように就職した。その後、老人福祉に転じ、厚生省に老人福祉専門官として奉職し、大学教授を経て、退官後は持論通り、有料老人ホームの年金生活者となり、執筆活動を続けた人である。学問的に老人問題を考えてきたが、老人にならなければ書けないことがあると、晩年『老いと死を考える』という本を書いた。有言実行の人で、長く指導していただいた。内村鑑三の流れをくむ無教会派のクリスチャンであった。酒とは縁のない方である。享年八八歳であった。酒もほどほどにということであるが、テーマを持った人生を過ごしたい。
  

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2012年07月07日

北杜夫の追悼企画展

 7月14日(土)から9月17日(月)まで、高崎市群馬町にある「群馬県立土屋文明記念文学館」で北杜夫の追悼企画展が開催されます。「昆虫と躁うつと文学と」という副題がついています。北杜夫の父親は、斉藤茂吉で、土屋文明とは「アララギ」の同志ともいうべき関係にありました。時間をみて、出掛けてみようと思っています。以前書いたエッセイに土屋文明記念文学館のことに触れたものがありますので掲載します。

 県立土屋文明記念文学館
群馬町は、群馬県群馬郡群馬町である。県名、郡名、町名が同じというのは、日本の中でも珍しいのではないだろうか。平成の合併で高崎市と一緒になる可能性があり、その名は消えようとしているが、この町に平成七年になって、県立の立派な記念館が開館した。土屋文明記念文学館である。総工費は三十億円に近く、個人を記念して建てられた群馬県の文学館という趣旨としても破格の費用である。
 記念館がある群馬町保渡田地区は、古墳群があることでも知られている。古代、この地に有力な豪族が住みついていた証拠である。しかも、同じ群馬町に国分という地区があり、国分寺があったことも知られている。奈良朝の頃は、このあたりが群馬、当時の呼び名では上毛(かみつけ)の中心地であったと考えられるのである。万葉集の秀でた研究者であり、斎藤茂吉と並ぶアララギ派の歌人土屋文明の生誕地が、その万葉の時代に栄えた地にあるということは興味深いことではある。
 土屋文明は、長命で、平成二年に百歳を越えて亡くなっている。群馬の文学者として著名なのは、小説家では『田舎教師』などの作品で知られる田山花袋、詩人では萩原朔太郎であるが、土屋文明は、二人に近い時代の人ながら長命であったために、まだ歴史上の人物という感じがしない。今日まで、文明の歌集も読んだこともないし、文明の万葉の評論も目にしたことがないので、人物の詳細もほとんど知らなかった。むしろ、同じ群馬町に生れた、詩人、童話作家の山村暮鳥の存在が大きかった。土屋文明記念文学館に足を向けたのも山村暮鳥の展示の企画があったからである。
 山村暮鳥の展示も時間をかけて見て廻ったが、初対面というべき土屋文明の人生とその作品に、思いを馳せられてしまった。館内で販売されていた『土屋文明私観』原一雄著(砂子屋書房)を読み、その思いはいっそう強くなり、読後感のようなものとして書き留めたいという気になった。その内容は、原一雄氏の本からの引用のようになるが、著者の土屋文明への敬愛と、人物理解、鋭い歌の鑑賞は誠に見事であって、いずれは文明の歌集を手にしたいという気持にもなった。
 原一雄氏は、大正元年の生まれと書いてあるので、九十歳を越えている。現在、音楽センターや群馬の県立美術館建築に貢献し、群馬の文化活動の進展に寄与し、大きな足跡を残した井上房一郎の遺志を継ぎ、財団法人高崎哲学堂の理事長として活躍されている。高崎高校の同窓会長も歴任した名士でもある。

土屋文明は、明治二十三年(一八九〇年)に群馬郡上郊(かみさと)村に生れた。家は農家であったが、決して豊かではなかった。兄弟も多く、文明は親戚に預けられて育っている。嫁いでいたが子供のなかった伯母の家である。大事にされたが、感受性が強く、頭の良い文明少年は、何となくこの村での暮らしが息苦しかった。それは、文明の祖父が、犯罪者で北海道の監獄で刑死したことからくる村人の視線のためだった。
 文明は、下を向きながら歩く少年であった。その視線の先には、名の知れない野草があり、異常なほどに植物への関心を持ち続ける素地になったと原氏は著書に書いている。小学校の時に「アララギ」を購読し始め、百歳の死の直前まで短歌を追い求め、万葉の歌の探究に生涯をかけた文明にとって、植物は自分の分身のようでもあった。
 「泣き文ちゃん」というほどに、小さい時から人の悲しみへの感受性が強かったことも文明の性格のひとつであった。それは文明の優しさであったが、貧しさや村人の冷ややかな態度の重圧から這い上がってきた反骨精神も持ち合わせていた。
 文明は、親からは経済的に無理と反対されたが、周囲の勧めもあり、高崎中学に入学する。当時中学に進学できる者は一握りであり、成績が優秀であったとしても財力のない家の子供が多かった。文明の状況も同じであった。
 「僕は運が良かったのだ、本当に運が良かったのだ」
と、文明が周囲の人々に語ったように、人との出会いに恵まれ、経済的支援も受けて、最終学歴が小学校で終るはずが、第一高等学校から東京帝国大学まで進んでしまうのである。このことは、ただ運が良いという以上に優れた頭脳の持ち主であったことを証明している。東京帝国大学では、哲学科で心理学を専攻している。
 土屋文明の人生最大の師は、伊藤左千夫であった。『野菊の墓』の作者である。伊藤左千夫は歌人でもあり、写生を歌の根本に置くことを提唱した正岡子規の「アララギ」派に属していた。同門には、島木赤彦や斎藤茂吉、中村憲吉らがいる。伊藤左千夫は、人格者であった。酪農をしながら文学の道を歩み、高崎中学を卒業した文明を、中学の恩師であった村上成之という人の紹介で引き取り、働きの場を提供したばかりか、第一高等学校の受験を支援したのである。
 伊藤左千夫の助力で、第一高等学校に入学し、同期に芥川龍之介、山本有三、菊池寛、久米正雄、倉田百三といった文学史上に名を残した人物と知己を得ることが出来たのである。「僕は運が良かった」というのは、こうした出会いも含まれているに違いない。
伊藤左千夫は、文明が一高を卒業した、大正二年に五十歳で脳出血のために急死するのだが、文明は棺にすがり、一目もはばからず泣きじゃくったという。「泣き文ちゃん」にとって人生最大の悲しみの瞬間であった。
 唯真(ただまこと)つひのよりどとなる教(おしえ)
               いのちの限り吾はまねばむ
伊藤左千夫が人格者と言ったのは、優れた文学者というだけでなく、人格に深く響いて人の生き方に影響を与える教育者の資質を感じるからである。近代人には胡散臭くなっている「真心」を文明青年に身を持って示した人であった。『野菊の墓』の主人公の心のあり方は左千夫そのものだったということを文明が伝えている。
 大正七年に二十八歳で結婚した文明は、島木赤彦の推薦によって教職に就く。いきなり、諏訪高等女学校の教頭として赴任する。その二年後には、校長になる。日本全国で一番若い校長であった。信州で七年間の教員生活を過ごし、その間教え子の中には、作家の平林たい子や、左翼運動で獄中死した伊藤千代子がいた。短歌の創作から離れ、女学校の教育に専念したが、文明にとっては不可解な突然の転任の人事に、教職を捨てる。そこから歌人としての人生が始まったといって良い。このあたりは、上州人、土屋文明の反骨精神である。芥川龍之介は、文明の第一歌集『ふゆくさ』を評して
 「文明には、和御魂(にぎみたま)と荒御魂(あらみたま)が同居している」
という意味の言葉を寄せている。
 信濃にて此の国の磯菜食ひたりき世に従わず背かぬ我等にて
という、六十七歳の時の歌に文明の処世観が表現されている。「世に従わず背かぬ」という言葉はなかなか普通の人の口からは出てこない。忍耐と反骨と正義が含まれている。
 土屋文明の歌集は多いが、戦災で東京の青山の家を焼かれ、群馬県の吾妻町に疎開し、戦後六年間あまり農耕生活を送り、万葉集の研究に没頭する時期があった。土や、植物に触れられる環境は、万葉の歌を調べるのには実にふさわしいものであった。
ただ、故郷である群馬町を訪れることはほとんどなかった。吾妻町は、榛名山の北側にあり、南側に位置する群馬町からはそれほど遠く離れてはいない。
青き上に榛名をとはのまぼろしに出でて帰らぬ我のみにあらじ
この歌碑が、生地の保渡田の「やくし公園」に建てられているが、土屋文明にとって故郷は、懐かしい場所ではあったが、ゆかりの人々はあったとしても、足の向く地ではなかった。
「故郷は遠きにありて思うもの::」
と室生犀星が言った言葉と、どこか重なるものがあるのだろうか。
農家の後継ぎでなかった私の叔父は、人情もろく磊落な父と違い、繊細で、几帳面な性格の人であった。今日の国立感染症研究所の前身である国立伝染病研究所に勤務し、東京に定住し、冠婚葬祭以外は実家をほとんど訪ねて来ることはなかった。草津に別荘を持ちながら、途中寄るようなこともしなかった。父が入院するようになった晩年には、何度も見舞ったが、自分が癌と診断された後は、甥の結婚式に参列したのを最後に、親戚の見舞いを望まなかった。故郷に対する文明の心境から昨年亡くなった叔父のことがふと思い出された。田舎の風景は美しく、幼いときに見た風景でもあり、どことなく甘美で懐かしいものがあっても、そのとき体験する人間模様は人さまざまである。
文明は、歌碑を建てることを拒み続けたらしい。生地の歌碑だけは許したが、文明が亡くなる年の完成である。果たしてそのような文明にとって、この立派過ぎるほどの文学記念館を天国から彼はどのような心持で眺めているのだろうか。
  

Posted by okina-ogi at 09:23Comments(0)日常・雑感

2012年07月05日

海なし県だからこそできた歌

童謡「うみ」を創った男

 作家で東京都副知事の猪瀬直樹の作品に『唱歌誕生―ふるさとを創った男』がある。猪瀬と同郷の信州出身で童謡「ふるさと」を作詞した高野辰之を描いた作品である。タイトルにした『童謡「うみ」を創った男』とは、上州沼田の出身の林柳波のことである。現在は、沼田市の名誉市民になっているが、音楽関係者、教育関係者すらもその名を知る人は少ないのが現状であろう。しかし、彼が作詞した「うみ」は、現代まで歌い継がれている。
 食堂で、何気なく広げた『上毛新聞』に、沼田市の中央公民館で「林柳波展」が開催されていることを知り、記事を読むと明日(日曜日)までとある。日曜は、前からの用事があって都合がつかない。携帯電話で、急な話だがと友人を誘う。林柳波のことは、彼から詳しく聞き、群馬にも著名な童謡詩人がいたことを教えられていたからである。
 林柳波は、明治二十五年に群馬県の沼田市の農家に生まれた。本名は林照壽(てるとし)といった。若い時から童謡詩に関心を寄せていたが、薬学を学び薬剤師になった。兄に軍人がいて、将官までになっている。貧しい農家の出身ではあったが、父親は士族であった。二五歳の時に結婚するが、死別した。その翌年に出会い、二七歳の時に再婚した女性が日向きむ子である。絶世の美人ともいわれ、大正三美人に名を連ねた人である。日向きむ子は、この時三六歳であった。しかも先夫の間に六人の子供があった。夫は、群馬県藤岡市出身の実業家であり、衆議院議員の日向輝武で、疑獄事件に巻き込まれ狂死していた。二人の結婚は、スキャンダルとして世間に知られることになった。島村抱月の後を追うようにして自殺した松井須磨子と比較され、節操のない女性という声が多かった。
「林柳波展」にもきむ子の写真が展示されており、書籍コーナーには、きむ子に関する本が販売されていた。夫の林柳波より夫人の人物像に関心が移りそうになった。『大正美人伝 林きむ子の生涯』森まゆみ 文春文庫を購入することにした。系図をみると女義太夫竹中素行を母親に持ち、弟は、俳優の藤間林太郎で、その子供が俳優の藤田まこととなっている。母親の生家は群馬県の松井田(現在の安中市)ということなので、林柳波をとりまく人々が群馬県にゆかりが深いことがわかる。
林柳波ときむ子の出会いの場所も群馬県であったとされる。赤城山の大沼湖畔にある青木旅館がその場所である。スキーの名選手、猪谷千春が生まれた猪谷旅館の近くにあり、二人のうちきむ子は、雪の中、水に落ち赤城で凍死しそうになったことがあった。猪谷家の人々にも助けられたが、柳波の必死の救護がきむ子の心を打ち、最後の結婚への決め手となった。青木旅館で哲学や宗教、薬学を熱く語る後の童謡詩人に惹かれてもいたきむ子は、世間の目や六人の子供の母親という境遇を乗り越え、小崎弘道牧師の司式により霊南坂教会で結婚式を挙げた。
沼田での「林柳波展」から間もなくして、群馬県立土屋文明文学記念館で「童謡が生まれたよ『柳波』と『きむ子』の世界」の企画展が開催された。こちらは、県の学芸員が中心となって準備されており、解説もわかりやすく、資料も豊富で参考になった。
この記念館は、時たま図書館代わりに使わせてもらっている。青葉の時期には気分転換のつもりで利用することもある。四月から五月にかけ高崎に長く住んだ俳人村上鬼城の企画展もあった。

 林柳波の代表的な童謡「うみ」の作品が教科書に載ったのは昭和一六年である。太平洋戦争の始まった年である。会場に、当時の国民学校一年生用の教本が展示されていた。当時には珍しいカラー印刷の教科書である。カタカナと一部が漢字である。波立つ海と水平線の近くに太陽が描かれている。左のページには楽譜があって、作曲者は井上武士である。彼も群馬県出身で東京音楽学校出身の作曲家であり「チューリップ」など広く世に知られる童謡を作曲している。「ウミ」の歌詞は

     ウミ

一 ウミハ ヒロイナ、

   大キイナ、

  ツキガ ノボルシ、

   日ガ シズム。

二 ウミハ 大ナミ、

   アライ ナミ、

  ユレテ ドコマデ

   ツヅクヤラ。

三 ウミニ オフネヲ

   ウカバシテ、

  イッテミタイナ、

   ヨソノ クニ。

この童謡が戦争協力、戦意を鼓舞する意図をもって作詞された見る人がいる。特に三番の詩は、南方の石油資源を確保するための政策を支持したものとも採れるというのであるが、深読みし過ぎてはいないか。群馬県は海に接していない県のひとつである。当然海には憧れがある。その向こうにある国は、内陸の子供にとっては夢の国であろう。
 林柳波の代表的な作品に「おうま」があるが、次の歌詞から軍馬を想像する人はあ
るまい。

     おうま

 おんまのおやこは仲よしこよし

 いつでもいっしょに ぽっくりぽっくり歩く

親子の情愛を唄っている。林柳波ときむ子の間には二人子供がいる。二人とも女の子である。きむ子が先夫の間に産んだ子も皆女の子であった。林柳波は女性に囲まれて家庭生活を送ったことになる。お馬の親子は母親と娘の関係とも考えたくなる。二人は離婚したわけではないが、最後まで寄り添って生きられなかった。林柳波が脱線(?)して外に子供を作ったからである。そのことは、深く追求しない。二人とも八二歳の長寿を全うしている。
  

Posted by okina-ogi at 22:34Comments(0)日常・雑感