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2012年08月10日

「戦争と平和」を考える-1

 戦争体験者の話を聞いた。荻原さんは、私の父の叔父にあたり数年前に他界されている。98歳であった。

戦争は国際紛争の解決手段にあらず
 荻原行雄さん(平成十三年・秋)
アフガニスタンに米英が空爆を開始した日、安中高校の近くにある荻原行雄さんを訪ねた。荻原行雄さんは、私の父(故人)の叔父にあたり、明治四十四年の生まれで、今年で九十一歳になった。日中戦争から太平洋戦争と続く約十年間を軍人として過ごした人である。
私が、小学生であった頃、実家である私の家に来て、戦争体験を語ってくれたのを憶えている。平成七年に、前年最愛の伴侶に先立たれたこともあり『戦後五十年の回顧』という小冊子を纏めた。
その序文を読んだとき、一度は詳しく聞いておこうという気持ちになった。時にアメリカで起きた、同時多発テロ事件により世界で戦争が現実問題になってきている。
 序文の冒頭には「先の大戦は無謀な戦いであった。孫子の兵法に『敵を知り、己を知れば、百戦危うからず』という諺がある。この逆で、敵情を無視した戦争であった」と書かれていた。また続けて「この大戦から色々の教訓を得た。精神力だけでは戦いに勝てず、一発打てば、十発打ち返す物量戦で、その工業力に負けたのである」。そして「何れにしても、戦争は総てを壊滅し悲惨である。::(中略)戦争は如何なることがあっても、国際間の紛争解決の手段とすべきでないことを痛感した」という結論で締めくくられている。戦争体験者として重みのある言葉であり、平和を希求する日本人として大事な見解であると思ったが、意外でもあった。幼少年の頃から荻原さんの印象は、厳格な軍人上がりの人という感じがしていたからである。
 荻原さんは、昭和十二年に高崎十五連隊の少尉として出征した。機関銃隊の小隊長であった。戦場は中国大陸。現在では、支那(シナ)という言葉は死語に近いが、いわゆる支那事変で、北支(ホクシ)を転戦した。昭和十四年の暮れには、一度帰国を許されている。この戦いで、部隊からは七四六名の戦死者を出している。
「軍隊は運隊(うんたい)とよく言った。十年近い最前線の戦いにあって、無傷で生きて帰れたのは運が良かったというしかない」と言い、「自分の後方で戦況を見つめ指揮をとっていた中隊長が、蒋介石軍の弾を眉間に受け即死したのは、今でも記憶から離れない」と言う。
 一度は、戦闘から開放されたが、仙台の師団に編入され、南方の戦線で戦うことになった。
 「これが出征するとき、兄二人が仙台まで訪ねてくれた時の写真だ」とセピア色の写真を見せてくれた。長兄が私の祖父である。昭和十八年と書かれているので祖父は五十歳位である。生まれる前に他界しているので父からの話による虚像しかない。写真を見るのは始めてである。荻原さんは、カンボジアでは、若きシアヌーク元首を救出したことにより金鵄勲章をもらった。これが幼い時に聞いた荻原さんの手柄話である。終戦後の昭和三十一年、シアヌーク元首が日本を訪問した時、東京の芝公園の光輪閣に招かれ、再会することになる。血生臭い戦闘の中の救出劇は、荻原さんの軍隊生活の中で、ひときわ清涼感のある印象として残っているのだろう。終戦は、ベトナムのサイゴン市で迎えた。このとき、独立歩兵大隊長の任にあたり、陸軍少佐であった。
 「士官学校も出ず、昭和五年の現役兵(二等兵)から、よく少佐までなれたと自分ながら思う」。これは決して自画自賛の言葉ではなく、上官に恵まれ、勉強もし、何よりも戦いの中で幸運であった荻原さんの実力と運の結果であった。
 最後に「命令一下の軍隊。軍隊では馬鹿にならないと務まらない」という言葉が耳に残った。命令という意志に個人は物のように組み込まれていく。「我々の命は、一銭五厘の価値しかない」というのもあながち誇張した比喩ではないと思った。召集令状の郵便の当時の値段である。
  

Posted by okina-ogi at 08:33Comments(0)日常・雑感

2012年08月09日

長崎原爆投下の日

 広島に続いて、この日長崎にも原爆が投下されました。当初は、小倉が予定されていたのが変更になったということです。満州にも、ソ連が侵入してきました。国力の限界から、終戦が迫ってきました。矛を納めるのにもあまりにも甚大な犠牲となりました。昨日、民主党、自民党、公明党の党首会談で、首相への問責決議が提出されないことになりましたが、この日を考えるとなにか意味深くもあります。選挙も戦いではありますが、ぎりぎり話し合うことが大切です。今日から終戦の15日まで、「戦争と平和」を考えながら、以前書いた記事を載せていきたいと思います。

長崎への旅
 夜明けとともに門司港に着く。門司は雨だった。少し早い朝食だが船内ですます。門司駅から特急で長崎をめざす。約三時間半、船中泊では熟睡できなかった分を車内で眠る。博多、鳥栖、佐賀::。長崎県の土を踏むのはこれが始めてである。
 長崎は、江戸幕府が鎖国政策をとりながらも、わずかな扉を西洋に向かって開いていた。出島にあってオランダだけには貿易を許していた。出島は、扇の一部を切り取った形をしていて、縦百メートル、横二五〇メートル程の人工の島で、橋で陸と繋がっていた。現在、ミニュチュア版の出島が当時の場所に作られているがそれほど広くはない。出島の跡地には資料館が建てられていて、周囲は埋められて市街地となり、今は海には面していない。
 豊臣秀吉の政権から徳川幕府へと移る中、ザビエルやフロイスが布教したキリスト教は弾圧され、二六聖人の殉教や島原の乱が起こり、以降キリスト教徒の受難の時代が長く続くのである。出島にオランダだけの交易を許していた時期、すでにポルトガル人は国外追放となっていた。出島は、日本に居留していたポルトガル人を収容するために造られた島であった。ポルトガルとの国交断絶は、キリスト教の布教と無関係ではない。鎖国の時代から、固く信仰を守り続けてきた人を隠れキリシタンと呼んだ。
 長崎浦上の地には、建築当時東洋一と言われた壮麗なレンガ造りの天主堂が築かれた。街にはアンジュラスの鐘が鳴り響き、市民にとって安らぎを与えていた。まさしく、浦上天主堂は、キリスト教弾圧に耐えてきた人々の何世代に亘る信仰の継続がもたらした象徴的な建物であった。昭和二十年八月九日十一時二分、この天主堂から一キロメートルも満たない地点、地上約五百メートルの上空で、広島に続く第二の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして長崎市は灰燼に帰した。天主堂も破壊され、鐘楼とともにアンジェラスの鐘も地上に落ちた。鐘楼の残骸は、当時の惨状を想起させるように、あえて放置され、天主堂の立つ小高い丘の斜面に苔むしていた。
 浦上の地で忘れられない人がいる。永井隆博士である。〝浦上の聖人〟と言われ、「如己堂」という二畳程の家に白血病の病に身を伏し、平和を祈り多くの書を世に出した。妻を原爆で失い、二人の幼き子供の成長に限られた生の中で愛を注いだ。〝如己愛人〟は、「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から博士が選らび、漢文体にしたものである。記念館に飾られた博士の書は見事である。絵も亦よい。緑夫人の昇天の絵などはマリヤ様を想像させる。
 永井隆は、明治四十一年に松江市に生まれた。父親は医師であった。松江中学から長崎医大に進み首席で卒業した。専攻は放射線医学であった。江戸時代、キリシタンの信徒頭をつとめる家系に生まれた森山緑と結婚する。大学時代に下宿していた家の一人娘であった。卒業から三年後のことであった。結婚の前に永井は洗礼を受けた。中学時代、唯物論に傾倒していた男が信者になったのは、実に森山緑の影響が強い。
 永井博士が慢性骨髄性白血病となったのは、原爆により放射能を浴びたためではない。戦争中に結核診断のためにレントゲンを撮り続けたことによる結果であった。一日百人のレントゲン撮影をこなし、フィルムが不足し多くは直視で行ったため信じられないほどの放射線を受けたのである。原爆投下の三カ月前に診断され「余命三年」と告げられた。妻に打ち明けると、気丈な態度で「神様の栄光のためネ」と言ったという。
 原爆投下の日、妻はいつものように笑みを浮かべて博士を送った。弁当を忘れたことに気づき引き返すと、妻は玄関先にうずくまって泣いていたのを見た。気丈な態度の内面には、いつも博士の身を按じる心の辛さがあったのである。これが妻との永別となった。原爆が落ちたとき、博士は長崎医大の建物の中にいたが、爆風で吹き飛ばされ、ガラスの破片などで大傷を受けた。簡単な治療を済まし、三日間被爆者の救護活動をして家には帰らなかった。家に帰ったとき、台所あたりに黒い塊があった。それは妻の腰椎と骨盤であった。〝腰椎と骨盤〟医師であったがための悲しい発見であった。傍に十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。骨と化した妻同様、原型を留めてはいなかった。博士は、救護活動をしている間に、妻の死を感じとっていた。生きていれば、深傷を負っていても生命ある限りは、這ってでも自分の安否を訪ねて来る女性だったからである。家から長崎医大までは一キロメートルもない。
 サトウハチロウが作詞し、古関裕而が作曲し、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」の背景にあるものはずっしりと重いものがある。永井記念館から平和公園までは、わずかな距離であるが、歩きながら何度も目頭が熱くなり、立ち止まって五月の青空を見上げた。
「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ・・・・」
八月九日の長崎の空も青く澄んでいた。
 平和公園には、北村西望作の「平和の像」が立っていた。どっしりと座した男性の右手は空を指し、左手は真横に伸ばしている。戦争の終結を早めるために原爆を使用したということだが、落とせばどうなるかは分っていたはずである。非戦闘員である市民が暮らす場所に。
 「アメリカという国は、極端に善いものから悪いものまであります」
という国際基督教大学の学長や同志社大学の総長を務めた湯浅八郎氏の言葉を思い出した。力の強い者は何をしても良いというものではない。ただ戦争というものは嗜虐的なことどもを生み出す。
 平和公園の丘を下ると爆心地に至る。さまざまなモニュメントがあった。浦上天主堂の建物の一部も移されていた。浦上駅前の市電乗り場から長崎駅方面に向かう。市電はどこで降りても百円。子供は半額である。かつての京都市がそうであったが、市電が廃止されてからもう久しい。
 二六聖人記念館は、長崎駅に近い小高い丘にある。キリストが処刑されたゴルゴダの丘に似ているという人もいる。坂下はNHKの長崎支局がある。二六聖人の中にパウロ三木がいる。織田信長の家臣、三木半太夫の子で三十三歳で殉教を遂げた。大坂で捕らえられ、長崎までの道すがら説教を続け、刑死する直前までやめなかった。「汝の敵を愛せよ」のキリストの言葉が語られ、「私は太閤様を憎んではいない。この国がイエズスの教えに従うことを祈っているのだ」と信仰の喜びの中に息絶えた。フロイスはそう記録の中に記している。
 沢田政広作のパウロ三木の木彫の像は凛々しく、十字架上の横木にしっかり足をつけ、顔には穏かな笑みすら浮かべ、柔和な彼の心が伝わってくるようである。
 「良い知らせを伝える者の足はなんと美しいことか」
と聖書の中にある。仏教の菩薩像の足は片方が少し前に出ている。それは、衆生を導くために歩みだそうとしている姿だ、とある彫刻家から聞いたことがある。記念館の前には、海に向かって手を祈るように広げた二六聖人の彫刻が、壁面にレリフのようにして刻まれている。作者は舟越保武である。
 殉教について考えてみる。迫害にあっても信仰を捨てず、ひたすら教えに従い、その結果死に至る。どうしてそのようなことが起こるのであろうか。人は死を恐れる。保身をはかり、他人を犠牲にしても生き延びたいと思うものである。仏教では人間の心の中には無明が働いていて無意識的に死を避けるようにできている、だから無明を抑えるように生きよと教えている。無明とは生きる盲目的意志のことである。無明の主人公は、自我である。自我に対して大我、真我というのがあって、これは人を生かしてくれるもの、そう考えることが信仰の窓口であり、その実感と確信の深さが殉教とは無縁ではない。
 殉教、この言葉自体がキリスト教に付随しているように響くのは、キリスト教徒の殉教が多いからであろう。鍵は「愛」、「真心」という言葉であろう。愛の本質は、自己犠牲であると思う。他人を守るために身を挺し、その結果の死は、無条件に愛の行為である。線路に落ちた人を救おうとして列車に跳ねられて死んだ人の話があったが、殉教の心と同じである。「真心」とは、「かくすればかくなるものとは知りながら やむにやまれぬ」という心のことである。人が悲しんでいるの見たら何の疑いもなく悲しいと思う人の心のことである。
 「諸君は功業を成すつもり、僕は忠義を成すつもり」
と松下村塾の弟子たちに告げて刑死した吉田松陰も殉教者と言える。
「死を見ること帰するが如し」
大我、愛、真心の人は喜んで帰って行ける心の故郷をもっているような気がする。
 パウロ三木という戦国時代に生きた青年には、キリストが十字架の道へ至る気分がある。自分の行為や言葉が死であるという自覚をもっているからである。キリストから「あなたは、鶏が鳴くとき、二度とも私を知らないと言うだろう」という人とは違っている。保身を図ることを咎めることはできないが、裏切りや、人を落とし入れる行為は死に値する。

 坂本竜馬が興した日本最初のカンパニー(会社)、亀山社中は伊良林地区の傾斜地に建っていた。個人の所有地になっているが、当時の建物として今も保存されている。竜馬が背をもたれたという柱も健在であった。屋根の一部は、原爆による爆風で吹き飛ばされ修復され今日に至っている。この、ちっぽけな亀山社中を拠点に、倒幕の基礎となった薩長連合に竜馬は一役買ったのである。長州藩の米は薩摩に、そして薩摩藩の名義で武器が長州にわたった。理念だけでなく、実利を心得ていたのが坂本竜馬である。有名な「船中八策」の写しも見た。
 亀山社中から坂道を登ると風頭公園に辿りつく。竜馬の像が建っていて、長崎市街と湾が見渡せる。細く長くのびていて良港であることがわかる。幕末当時、外国船が停泊している風景を想像して見た。竜馬は遠く海外を見ていたのかも知れない。竜馬像の目もはるか彼方を見つめているように見えた。近年、像の近くに、司馬遼太郎の『竜馬が行く』の一節を記した石碑ができた。
 伊良林地区の坂道を下り、中島川を渡ると鳴滝地区にシーボルト記念館がある。外観がレンガ風に作られたりっぱな洋館で、長崎市の市営となっている。亀山社中とは対象的である。シーボルトは、ドイツ生まれであったが、オランダ医として長崎に来た。一八二三年、シーボルト二七歳の時であった。
 シーボルトは、医学だけでなく生物学や他の分野の学問も学び、日本文化に対する関心が強かった。短い日本での滞在中に、多岐にわたるサンプルを収集した。一方西洋医学のすぐれた技術と知識を与え、多くの蘭学医を育てた。その塾の跡が、現在のシーボルト記念館になっている。オランダの領事を将軍が謁見するのが江戸参府で、シーボルトもその一員に加わった。江戸滞在中に収集した樺太の絵図が引き金になってスパイ容疑がかかり、取調べの後国外追放になる。世にいうシーボルト事件である。
 シーボルトは、たきという日本女性の間に一子をもうけた。日本最初の産科医、楠本イネである。妻子を置いて故国に帰ることになった。日本が開国する三〇年の間に、日本で収集した資料を整理し、西洋に日本文化を正しく伝えたのはシーボルトの業績である。シーボルトが日本の土を再び踏んだのは六三歳のときであった。しかし、三〇年の月日はあまりにも長かった。またも妻子と別れオランダに帰る。オランダには、四九歳の時再婚したヘレーネという貴族出身の女性との間に三男二女があった。シーボルトは最後まで日本を愛した。七〇歳で世を去る直前に、
 「私は美しく平和な国に行く」と呟いたと言う。美しく平和の国とは日本であった。
 オランダ坂から孔子廟、グラバー公園と歩く。長崎は坂の多い街である。木々の緑が綺麗で、メタアセコイヤの緑は柔らかく目に映った。異文化との交流地点で歴史的なドラマがあり、海と山が迫って美しく旅情は独得なものがある。新婚旅行や恋人と歩くのに相応しい街であると思った。大浦天主堂は、木造建築の古い教会だが、五月三日の祭日であったので国旗がたなびいていた。日の丸と教会、いかにも長崎らしいとカメラに収めた。この地の名物にカステラがある。幼い時からの大好物で、世の中にこれほどうまい物があるのかと思う。カステラを食べるたびにドラマチックな長崎行が思い出されるかも知れない。
       
     拙著『春の雲』より
  

Posted by okina-ogi at 06:08Comments(0)旅行記

2012年08月08日

『たった一人の30年戦争』(小野田寛郎・東京新聞出版局)

 8月7日、市内の歯医者さんの待合室に、週刊文春が置いてあって、目を通したら、小野田さんの取材記事が載っていた。今年で90歳になられるが、お元気そうである。数年前に、水上で講演があり、控室で直接お会いする機会があった。奥様同伴で、しばしお話ができた。「戦争と平和」、「生と死」をこの人でなければ語れないものがある。講演の時購入した、サイン入りのこの本を、終戦の日が近づくこともあり読み直してみようと思う。取材風な、エッセイも書いているので、掲載する。

小野田少尉の戦後
 小野田寛郎(ひろお)さん。今はマスコミでもほとんど取り上げなくなった人物であるが、時の人であった。フィリピンの首都マニラ市に近い、ルパング島に終戦後も三〇年近く上官の命令が伝達されないために、軍人との任務を解かれず、山中で過ごしたのである。二〇〇九年九月四日(金)、水上温泉で小野田夫妻の講演があった。友人に誘われたのであるが、彼の親戚に小野田夫人と親しい人がいて、講演後、別室で直接対話する機会を設けていただけることになった。おそらく、そういうことがなければ、講演を聞くことも、著書を手にすることもなかったに違いない。
 小野田さんは、一九二二年(大正十一年)の生まれというから、八十七歳になる。演壇に登る小野田さんは、小柄に見えたが、背筋が伸び、スリムで機敏な動きは老人とは思えない。声に張りがあり、どちらかと言えば早口である。二十歳そこそこの学生時代に、報道された小野田さんの記憶はあっても、三十年近いジャングル生活の実態は知らない。その後、小野田さんは日本を離れ、ブラジルに渡ったことは知っているが、その後三十五年の人生の内容も知らない。
 職場の同僚から、小野田さんに是非とも次のことを聞いてきてほしいと依頼された。
「ジャングルの中で、一番おいしい食べ物はなんですか」
この疑問は、講演が始まり、五分もしないうちに氷解した。答えは「牛」であった。小野田さんが、ルパング島に渡り、その任務とするところは「残置謀者」であった。島に残り、最後まで情報を得ながら、戦い続けることであり、部隊の組織の一員というわけではなかった。このような任務を帯びた特殊性は、小野田さんが陸軍中野学校の出身だったからである。陸軍中野学校は、スパイ養成機関ともいわれる。静岡県の二俣にも分校があって、小野田さんはそこで短期間で会ったが教育を受けた。
 長期にわたって、島で一人で情報を収集し、残存兵がいれば指揮官として戦い続ける(実際、小野田さんと終戦後も戦い続けた兵隊がいる。彼らのことは著書に詳しく書かれているが、一人は投降し、残りの二人は銃撃戦で死亡した。最後の一人は、小野田さんが生還する数年前まで生死を共にした戦友であった。階級は、将校である小野田さんの方が上だが、心の中に上下はなかった)ためには何が必要か。
 小野田さんが選んだのは、銃弾二六〇〇発である。軍人だから当然銃は持っている。食料は、熱帯地域にあっては保存がむつかしい。衣類は絶対必需品だが、同じく朽ちてしまう。銃があれば狩猟もできるし、身を守ることはもちろん、衣類も威嚇して得ることができる。小野田さんは、「調達」と言っていた。牛も射殺して食糧にしたのである。
 小野田さんの前に、終戦後三十年近くジャングル暮らしをした兵隊がいた。グアム島で発見された、横井庄一さんである。横井さんは、出征する前は、洋服を仕立てる職人だったらしい。そのため竹などの繊維から衣服を作ることができた。小野田さんの場合は、生地を糸で縫い合わせ衣服をつくった。材料はあくまで調達したものである。小野田さんと横井さんのジャングル暮らしの決定的違いの一つが、横井さんは洞穴に定住し、しかも一人だったことである。小野田さんの場合は、戦友がいた。そして、点々とねぐらを変えて、島を移動した点である。職場の同僚の
「ジャングルの中で、一番おいしい食べ物はなんですか」
という好奇な質問の背景には、横井さんのジャングル生活が背景にあったし、自分の中にも共通した意識があったことは否定できない。
 演題は、「人は一人では生きられない」であった。それは、戦友と戦い続けたことだけを言っているのではなかった。人は、暑いジャングルの中でも衣服なしでは、生きられない。イバラで傷つけば、その傷が化膿して死にいたる危険がある。熱い毛で覆われた動物とは違う。その衣服を全て自分で作ることはできなかった。横井さんの場合は例外であるが。この点に限っても、「人は一人では生きられない」と小野田さんは説明した。戦友がいれば、交替で眠ることもできるし、病気をすれば助けられ、助けることもできる。実際、そうしたこともあった。帰還したとき
「三〇年間で苦しかったことは何ですか」
と問われ
「戦友を失ったことです」
と答えている。さらに
「楽しかったことはなんですか」
という質問には
「何ひとつありません」
それは、聴講した我々からすれば、強靭な小野田さんの精神力と生きる知恵を考えればあまりにも素朴な感想であるが、人間がたった一人で生き抜く辛さ、怖さを強烈に教えてくれる。久しぶりの講演を聞く機会であったが、聴衆が息を呑むようにして聞き入っている会場の雰囲気は、かつて経験のないものであった。
 小野田さんは、現在、小野田自然塾の理事長でもある。金属バットで親を殺した事件を知って、子供たちに命の大切さを教えたいと考えたからである。このことは、小野田さんの数奇な体験から当然の帰着ともいえる。命の尊さを、小野田さんが語りかけることは、講演の前から容易に想像できた。しかし、演題にあったように「人は一人では生きていけない」ということの中に、講演の主題はあったのである。人間にとって、社会や隣人から無視され、隔絶された時は辛いのである。ジャングルの中でなければ、生きていくことはできるであろうが、社会的死ということもある。愛の反対は、憎しみであるが、無関心ということは、憎しみ以上に人を傷つける態度とも言える。「村八分」、「仲間はずし」というのは、罪深い行為だと思った。嫌いな人間もいるが、どこかに対話する窓を持っておかなければならないことを教えられた。
 小野田さんの講演が終わり、奥さんの小講演があった。ブラジル農場の二人三脚の体験談などが語られたが、講演のタイトルは「私は戦友になれたかしら」であった。夫婦共通の講演の趣旨は、目的、目標を持った人生であった。小野田夫妻の結婚生活は、ジャングル生活を越えた。結婚は、小野田さん五四歳、町枝婦人三八歳の時であった。友人から、小野田さんに会ったら、誰もが尋ねそうな質問はしないようにということであった。傍らにあって、誰もが同じような質問をし、嫌な顔もせず答える夫のことを知っていた夫人の配慮からの唯一つの約束事である。
 講演後、ホテルの控え室で小野田さんと対面した。記念写真にも気軽に応じてくれた。当然、今夜は温泉宿で体を休めて帰られるのだろうと思いこんでいたら、新幹線で帰京するという。奥さんは、ホテルの支配人と手際よく、販売した本のやりとりなどをしている。聞いてみたいことがあった。
「小野田さん。末次一郎という人を知っていますか」
末次一郎は、故人である。日本青年奉仕協会の会長であったが、初代の会長は東大の総長であった茅誠司であった。社団法人として組織を立ち上げた人物が、末次一郎である。末次一郎も中野学校の出身者であった。
「彼とは同期です」
もちろん、日本青年奉仕協会のことも知っていた。末次一郎は、沖縄返還や北方領土の返還に戦後情熱を傾け、歴代首相の影の指南役でもあった。そのことは、彼の死後、文芸春秋の記事で知ったのであるが、最後の国士と呼ばれた人物である。青山霊園で行われた葬儀に参列したが、政財界の歴々が弔問していたのには驚かされた。末次さんは、ボランティアの選考会に顔を出すと、どこにもいる老人のように親しく話しかけられ、ボランティアの受け入れと面倒を見てほしいと言われたことを思い出す。何度もお会いしたが、こちらの知識不足には違いないが、これほどの人物とは思いも及ばなかった。町枝夫人の著書を読んでいたら、末次一郎は二人の縁結びの役割を果たし、復員後の二人の支援者になっている。政治家のように、表舞台には立たないが、国を思う気持ちは私情を超えている。その働きは、影である。その末次一郎は、戦後阿蘇の山中を彷徨したことがあった。生きる意味が見いだせなかったからである。戦後、末次のように国のためにという生き方は、戦争加担者の烙印を押されたかもしれない。
 小野田さんとは、その後も談笑させていただいたが、どこかお答えがスムーズではないとも感じた。小野田さんはジャングル生活の中で。アリに鼓膜を齧られて方耳が聞こえなくなっていることを知った。小野田さんにとっては、奥さんが戦友として欠かすことができない存在になっている。恥ずかしながらと思いつつ、自書『浜茄子』に、小野田少尉殿、戦友町枝様と書いて贈呈したが、気持ちだけは通じたと思った。長寿を願うばかりである。
                                      拙著 『侘助』より
  

Posted by okina-ogi at 04:49Comments(0)書評

2012年08月06日

広島原爆投下の日

 昭和20年8月6日の早朝、広島市の中心部に原子爆弾が投下され、多くの人命が失われた。一度だけ広島の平和記念館を訪れたことがあった。紀行文に残している。

 宮島、呉、日本三景と鎮守府への旅
先年、江田島にある海軍兵学校跡地を訪ねたが、時間がなくて呉の街は通り過ぎたに近かった。
明治から太平洋戦争の終結まで、旧海軍の地方機関として鎮守府が置かれた。横須賀、佐世保、舞鶴、そして呉である。呉が軍港としてふさわしいことがわかり、その基礎は明治二十二年にできた。〝港が見える丘〟という小さな公園には、旧海軍工廠の記念塔が建っていて、眼下に石川島播磨重工のドッグが見下ろせる。この造船所で巨大戦艦大和が建造された。
昭和十二年から十六年にかけ、膨大な経費をかけて造られたこの戦艦は、不沈艦といわれ、いわゆる海軍の大鑑巨砲主義の象徴であった。いちはやくこれからの海上戦は、航空機が主力となると考えていたのは、山本五十六元帥であった。それを証明したのが、真珠湾攻撃である。皮肉にも大和は開戦の年に産声を上げたのである。そして、連合艦隊の旗艦となり、最後は、終戦の年、片道燃料をつみ、航空機の護衛もなく、東シナ海奄美大島近海に撃沈され、三千余名の乗員とともに海底に沈んだのである。
戦法としては、特攻に近かった。司令官となった伊藤中将は、作戦の無謀さを指摘し、反対したが
「特攻の魁(さきがけ)になってほしい」
と言われ、苦汁の決断をしたのである。だから彼自身は大和と運命を共にしたのである。命令を下した海軍の参謀や上層部はその後どのような責任をとったか詳しく知らない。まるで神風特別攻撃隊の思想に近い。それだけ戦局は行き詰まっていたのである。
そもそも大和建造に踏み切らせたのは、遡れば東郷平八郎元帥が指揮し、大勝利を収めた日本海海戦の余韻が残っていて、科学技術の進歩や時代の変化に冷静に対処できなかった保守的な思想にあった。もともと、アメリカとは戦争ができない軍備しかないと、開戦に反対していた海軍にあっても、古い時代の郷愁のような思考が海軍中枢を支配していたのである。〝勝って兜の緒を締めよ〟と訓示した東郷平八郎元帥に責任があるわけではないが、老提督となった元帥は、大鑑巨砲主義の神様のように祀りあげられていたかもしれない。
いつの時代にもあるように、状況判断を誤り、確信を持ち、他人の意見を取り入れず、取り返しのつかないところまで事を進めてしまうリーダーがいる。そして、その流れをとめられない補佐役がいる。この頃の経済界などを見ていると、「そごう」や「ダイエー」などは、そんな感じがする。
太平洋戦争は、本当にさけられなかった戦争なのか。呉で生まれた戦艦大和に何かしら悲哀を感じるのはこうした悲劇性にある。
悲劇と言えば、戦艦陸奥の謎の爆沈は、安芸灘屋代島付近であったことを知った。千五百人余の乗員のうち助けられたのは三百四十名程であった。呉の司令長官舎のあった入舟山記念館でその資料に触れた。
明治四十三年四月十一日、呉港から出た潜水艇が、四月十五日遭難し、佐久間勉艇長以下十四名が殉職した。佐久間艇長と乗員のとった行動は、人々に感動を与えた。それは、艇長が最後まで任務に忠実であったばかりでなく、死の直前まで部下を想い国家を考え、息絶えた事実である。艇長の手帳に書かれたメモが発見され今日我々はそれを見ることができる。
海底の水の明かりにしたためし
         永き別れのますら男の文
歌人、与謝野晶子はそう詠んで艇長を偲んだ。
乗員の最後も見事であった。持ち場を全員が離れず死んでいた。我先にハッチを開けて逃げ出そうとする人はいなかった。

宮島は、日本三景の一つである。松島、天橋立、いずれも海岸の景勝地で島国日本らしい。厳島神社は、世界遺産に指定されている。神社の創建は、推古天皇の時代に遡る。今日の厳島神社の骨格を造ったのは平清盛である。彼の厳島神社に対する信仰は実に厚かった。束の間ではあったが、権力を握り、平家一門の栄華を花開かせた。安芸の守であった縁もあり、この神社の加護が平家一門にあったことを清盛は終生疑わなかった。
呉市の近くに音戸の瀬戸という海峡がある。幅七〇メートルほどであろうか。この海峡は、人工的に作られた。約一年間、大変な費用をかけて清盛が堀り開けたのである。都から厳島神社にいちはやくいける航路のためであった。
平家納経は、国宝である。厳島神社の近くにある宝物館に、複製が展示されていた。金箔で装飾された上に書かれている。平家の人々が分担して心から感謝して奉納されたのだと解説文にあった。全部で三十三巻ある。信仰としての意はわかるが、あまりにも財力を背景にしてけばけばしくはないか。しかも、血縁者だけの繁栄に感謝しているあたりに、平家の末路の予兆がある。こうした態度は、長く人々の尊敬を集めることはできない。
「常者必衰の理をあらわす。奢れる者は久しからず」
清盛と同時代に生きた人で対照的な人生を送ったのが西行である。西行は、本名を佐藤義清といい、北面の武士であった。近代風にいう近衛兵の将校というよりは、もっと天皇の近くに仕える若い武士であった。
遊行という言葉がある。西行は諸国をまわった。奥州にも行ったりしている。この時代の旅は、今日のように簡単にできるものではなかった。生命の危機さえともなった。西行は、どうして将来を約束された身分を捨てて、雲水のような生き方を選んだのであろうか。妻子さえ捨てている。この決意は尋常ではない。
辻邦夫に『西行花伝』の大作がある。藤原秋実(あきざね)という人物を語り部として、深遠な西行像を描いている。
西行は、母親の死を深く受け止めた。死後、しばらくしても母親のことを想うと、素直に涙を流したという。母親の死から世の無常を若くして感じたのであろうか。
流鏑馬について書かれている場面がある。鶴岡八幡宮の流鏑馬が有名であるが、馬を走らせながら的を射る武士のたしなみのような競技である。西行は考える。
「矢が的に当るか当らないかは問題ではない。一心に矢を射ることに喜びがある。それが雅(みやび)である」
このあたりは辻邦夫の芸術観であろうが、西行は、心の世界に強く惹かれていく。それを表現する手段が歌であった。
西行の辞世は、桜が好きだった人らしく
願はくは花のもとにて春死なん
         そのきさらぎの望月の頃
明治二十年代に同志社の神学校に学んだ人で、難波宣太郎という牧師がいた。彼は詩を書き、水墨画も書けた。木月道人と称し、昭和二十年に八十歳で没するまで、新潟や北海道などでキリスト教を伝道し、晩年は京都に住み、夫婦で遊行した。禅寺に招かれ見事な襖絵などを書いている。遊行者にはどことなく人生は旅だという意識があるのかも知れない。木月道人の辞世の句は
花にくれ 家路に向う ここちかな
厳島神社には、岸から離れたところに大鳥居がある。木造である。一一〇〇年代以来建てられていて、現在のものは八代目だという。明治八年に取り替えられてから今日に至っている。驚くことに、鳥居はその重さだけで立っている。潮の満ち干きや台風にも微動だにしない。新たな発見であった。
回廊を歩いてみると、床下の柱は石であった。社殿だけはそう簡単に変えられないから、その基礎や床柱に石が使われていることは不思議ではない。丁度引き潮の時刻で、海水はなかったが、緑の海藻が打ち上げられて潮の香りを運んでいた。寄進者の名前と金額が木札に書かれて掛けられている。捜しても群馬の人には会えなかった。海のない群馬にはその縁が少ないのであろう。老若あるが男女の組み合わせが目に付く。神社には男女で訪ねるのがふさわしい。
奈良公園のように鹿が放し飼いになっている。観光客があちらこちらでエサを与えている光景に出会う。浜に近い松の下に一匹静かに坐っている鹿もいた。
春鹿の眼細めて海を見る
宮島は、宮島合戦でも知られている。毛利元就と陶晴賢の戦いである。陶軍二万に対し、毛利軍は五千に満たなかったので、宮島に陶軍を誘い出し、平地の戦さを避けた。夜陰に紛れて奇襲したために、陶軍は大混乱に陥り敗走し、陶晴賢は自害して果てた。奇跡的に厳島神社は破壊から免れた。戦後元就は、神域を汚したことを恥じ、厳島に大いに寄進した。この宮島合戦を境にして、山陰地方の尼子氏を倒して中国地方の覇者となるのである。
宮島から、本州の宮島口まではフェリーで二十分程。JRと広島電鉄の船が頻繁に往来している。切符は列車の切符となって広島駅まで買った。名物あなご飯を昼食にして午後は、広島市街を歩くことにした。原爆ドームに近い爆心地から半径二キロの範囲に広島駅があり宿(ホテル・ニューヒロデン)も近い。ここを基点に縮景園から広島城そして平和公園に順路をとる。
半径二キロの範囲は、鉄筋以外の建物は全壊焼失して、木々も焼かれた。縮景園にあった大木も全て戦後植えられたものである。幹の太さや、見事な松の枝ぶりなどに見惚れていると、浅野長晟(ながあきら)の時代のものかと錯覚するようである。縮景園は藩主の別邸で、広い池に数多い島があり、見事なクロ松が植えられている。中国の洞庭湖を模したとされる。敷地に接して県立美術館があり、近代的なりっぱな建物である。
縮景園を西に向うと広島県庁の先に広島城の石垣と緑が見えてくる。内堀を渡る手前に大きな像がある。近づくと「内閣総理大臣池田隼人君」と刻まれている。揮毫したのは同じく内閣総理大臣であった吉田茂である。池田隼人は、東京オリンピックが開催された昭和三十年代後半、所得倍増を唱えた高度成長時代の自民党総裁でもある。出身は、広島県竹原市である。
広島城は、平城であり、また鯉城などという別称があったように名城であった。原爆の投下のために全焼し、天守閣だけがいち早く復原された。城内にあった他の建物はなく、礎石だけが残されている。日清戦争のときに、大本営が置かれたこともあるが、その面影はない。帰り、二の丸近くにユーカリの木があった。唯一原爆の熱射に耐え生き延びたと説明書きがあった。
広島市民球場のあたりで雨脚が強くなる。対阪神戦で応援の熱狂が伝わってくる。祭日でもあり入場券は売り切れとなっている。市電の走る通りを渡ると原爆ドームが楠木に囲まれ太田川の近くに建っている。平和公園にある記念館は閉館時間に近く、平和の碑に手を合わせ、ただ通り抜ける。
爆心地から五〇〇メートル程の距離に、原爆投下当時の傷跡が残されていた。袋町小学校の西校舎の一部である。鉄筋であったために、窓や内部は破壊されたが、建物は倒壊を免れたのである。強い熱を浴び出火し、その跡黒くなった壁に、肉親の安否を尋ねる言葉が残っている。伝言板に使われたのである。もちろん、疎開せずに学校にいた教職員や児童は即死に近かった。小学校のある通りは現在繁華街に近い。

 旅に出たとき、美術館を訪ねることにしている。絵葉書を職場の人へのお土産にしたりする。呉市立美術館に立ち寄った。鎮守府長官室のあった入舟山記念館に隣接している。この日は〝美の系譜〟というテーマで明治以降に活躍した日本美術院の画家の日本画が展示されていた。横山大観、川合玉堂、川端龍子、鏑木清方などの作品が並んでいる。
 横山大観は、「無我」、「屈原」などの絵で知られる大作家であり、鏑木清方の美人画は世に広く知られている。もちろん他の作家も日本画の大家であるが、川合玉堂の「帰漁」と題した掛け軸絵に魅せられてしまった。夕靄の中漁師が岸辺から家路につくさま様が描かれている。こうした淡い絵が好きだ。
 広島市立美術館に立ち寄った。シニヤックという新印象派画家の水彩画展が特設コーナーで開かれていたがそちらには目をやらなかった。印象派の作品は、光と影があざやかに描かれている。好きな絵が多い。とりわけ、クロード・モネの絵が良い。「散歩、日傘をさす女」は一八七五年の作品とされているが、光と温かさと風がその絵から流れ出すかのように感じられて実に気持の良い絵である。対照的に「印象日の出」は、大雑把に描かれているように見えて暗から明へ移る大気の色や、事物、風景をよく伝えている。
 明け方、黄昏時の絵は写真でもうまくとらえることはむずかしいが、魅力的な時間である。明け方の色で、東雲(しののめ)色というのがあるが、萩焼きの色がそうだったりするように好きな色の一つである。晩年のモネは睡蓮を画材として多く画き残している。
永井隆博士と原爆
〝浦上の聖人〟と言われた永井隆博士の如己堂を訪ねたのは丁度一年前の五月三日であった。博士の『いとし子よ』を往路の新幹線の車中で読んだ。その著作に触れながら原爆のことに触れたい。
原爆投下が戦争によってもたらされたことは誰もが否定しない。戦後、日本は占領国の指示によって憲法を作り、戦争を国際紛争の解決の手段としないと定め、戦争放棄を決めた。この連休明けには国会が開かれ、有事立法が議論される。国民の生命財産を国家が守るのは自衛であって、それまでを否定することはできない。
国同士が戦うとき、必ず正義をかざすが、相争う戦争に正義などというものがあるだろうか。果たして原爆投下という手段が許されるであろうか。しかも、民間人を標的にして。答えは否である。
旧約聖書の神は、教えから外れた人々殺す、裁く神である。選民思想という言葉があるが決して友好的な神ではない。ノアの箱舟の話では、選ばれたものだけ生き残り、多くは抹殺されたことになる。悪しき者という裁きのためである。ソドムとゴモラの話などは原爆投下を連想させると言ったら言いすぎであろうか。
パレスチナでくり返されている争いは何であろうか。民族の争い、宗教の違いによる争いなどにより憎しみを増大させ終焉することがない。やったらやりかえす、まるでヤクザの世界に似ているが、国家規模の紛争だから始末が悪い。敗戦国ではあるが、原爆を落とされた日本は戦後ひたすら平和を願い、亡くなった多くの御霊を慰霊してきた。アメリカを憎み、やり返そうとすることはなかった。日本人は過去を水に流すという曖昧な国民性があると指摘する人がいる。水に流せるということがどれほど大変な行為であることを指摘する人は知っているのであろうか。傷つけられた身や心を自ら修復することがどれほど辛いことか。力の強い者、勝利した者はそれを知るべきである。
人は真理を求めても良い。正義を主張すべきではない。まして行動を起こせば必ず争いになる。人の世は、さまざまな環境と歴史の中に個々別々の人格を持つ人々が暮らしているのだから、相対的であって調和の中に成り立っている。ただ個は全体の中の個であるから、手前勝手な個人主義は通らないことは自明である。
法律や倫理は、長い歴史の中で人類が作り出した叡智であり、神の摂理であるかも知れない。不当な行為はそれによって裁かれる。戦争という暴力によって裁くことにはならない。
永井博士のことに戻る。著書『いとし子よ』の中で言っている。最愛の妻を死に至らしめたのは原爆ではなく戦争だと我が子に話している。争うという心をやめ、憎む者も愛しなさいとも言っている。
放射線医学を学び、原爆による被爆ではなくレントゲン撮影のために、戦後二畳程の如己堂に伏しながら平和を訴えた博士の言葉は、重い。そして、あまりにも原爆は博士の人生にとって運命的なテーマではないか。
長崎市浦上地区は、カソリックの信者が多い地区である。原爆投下により爆心地に近かった浦上は荒野になった。歴史上、浦上が荒野になったのは三度だという。一六二九年、キリシタン狩りで信徒の家は焼き払われた。二度目は明治になって、鎖国は解かれたが、キリシタン法度が残っていたために、公然と宗教活動を始めたために、浦上の全ての信者は国内各地に追放された。解放され、浦上に戻るまで四カ年あまりの月日が流れたのである。あまりにも長崎浦上地区は受難の地ではないか。
一八八九年の明治憲法の発布により信仰の自由が得られた。信者は増え、昭和二十年には一万人になっていた。東洋一と称せられた浦上天主堂の完成は、信者の力以外の何者でもない。しかし、八月九日の原爆投下により八千人の信者が犠牲になった。三度目の荒野になったのである。
一九四八年十月十八日午後四時半過ぎ、何の前触れもなく、ある人物が如己堂を訪ねて来る。三重苦を克服したヘレンケラー女史であった。その場にいた博士の長男誠一は、
「あの盲目の小母さんがネ、体操のように足を高く高く上げて歩いたヨ」
と表現した。石ころに躓(つまづ)かないようにと歩いている姿が子供の目にはそう写ったのである。
ヘレンケラーは、ためらわず博士の所に近づいて来る。膨れ上がった腹と臍を隠すことも忘れ、寝台から滑り降り、畳の上へ這って出て敷居のところで彼女を迎えようとした。それを知ったヘレンケラーは、
「そのまま、そのまま!」
と手を振って止めようとした。
博士は、躓かないようにと心配し、
「足(フィート)、足(フィート)、石(ストーン)、石(ストーン)」と叫んだ。
博士は坐ろうとしたが、心臓が苦しくなり手だけを伸ばした。ケラーは、同卒者に支えられ空気の中を博士の手を捜し求めながら近づいてきた。とうとう手が届き、手を握り合った。
博士はその時の感じを
「温かい愛情が、電気回路を開いた時のように瞬間に私の五体へ流れ込んだ」
と表現している。
六九歳の老人が不自由な体をいとわず、はるかアメリカから私宅を訪れ、心底からの同情を寄せたのである。真実の愛というのは、こういうものであろう。今日、我々は、その一コマを写真で見ることができるが、感動的な場面であることは、博士の著述だけで充分である。
昭和天皇やギルロイ枢機卿も博士を見舞うのだが、それはそれで尊い行為には違いないが、地位ある人の慰めより、このヘレンケラーの訪問は、愛の行為として光輝いてい
る。博士は、青い鳥がやってきたとも書いている。
                         拙著 『夏の海』より
  

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2012年08月04日

腰越状(2012年4月)

腰越状
 漸くにして群馬では、桜が満開に近くなった。四月も半ばを過ぎている。梅の花も七分散りで、どこからともなく、いまだに甘い香りを漂わせている。七分散りの梅などという表現は、一般にはしないものである。梅農家は、梅の花の散り具合を見て、消毒をする。この最初の消毒が肝心なのである。殺虫剤と殺菌剤を混ぜて散布することによって、梅の実を守り、若葉をアブラムシなどから守ってあげるのである。収穫まで、三~四回の消毒が必要になるが、兼業農家なので、休みを利用してすることになる。風がなく、温度が低い朝方が農薬散布がし易い。
 「荻原君。江の島に、シラスを食べに行かないか」
友人で、高校の先輩から声をかけられ、断るわけにはいかない。梅の消毒は、数日後、出勤前にすることに予定を変更した。一回目の消毒は〝八分散り〟が良いとされている。
歴史好きの当方の興味をそそるように
 「近くに満福寺があるからね。店から歩いて行ける距離だから」
満福寺は、義経ゆかりの寺で、ここで兄頼朝に自分の真意を伝え、面会を請う書状を書いたと伝えられている。「腰越状」といわれるもので、原文(?)が残っている。
 満福寺は、真言宗の寺で、開基は、七四四年というからかなり古い。寺を開いたのは、奈良時代の僧、行基と伝えられている。行基は、諸国を行脚した僧として知られている。聖武天皇の時代、仏教を全国に広めようという気運が高かった。官営の国分寺を拠点に民間の寺も建つようになる。
壇ノ浦の戦いに平氏を破り、鎌倉に行き、源氏の頭領である頼朝に戦勝報告をと思っていたが、兄との間にしこりが生まれていた。義経が、京都に立ち寄った時、後白河法皇から官位を受けたことや、数々の平氏との戦いに対する、鎌倉武士の不満があり、自己本位過ぎる義経像が、頼朝の疑念を増幅させたとされる。
讒言、告げ口と言えば卑怯な行為に違いないが、この場合義経に非がなかったとは言えない。軍事の天才を誰しもが義経に認めても、政治に関しての稚拙さは、頼朝と比較すると感じざるを得ない。頼朝という人物は、非情な政治家と見ることができるが、伊豆の蛭ケ島という川の中州に長く幽閉の身となり、北条氏やその他の有力地方豪族の政治力のバランスの中で生きてきた人物である。つまり、鎌倉武士を束ねていかなければならない立場にあった。
満福寺で購入した小冊子の腰越状の要旨を見てみよう。
「わたくしは鎌倉殿(頼朝)の代官のひとりに選ばれ、天皇の使いとなって戦い、平家に倒された父(義朝)の恥をそそぎました。鎌倉殿からは、褒美がいただけるに違いないと思っておりましたのに、逆に、あらぬ告げ口によってお叱りをうけ、血がにじむほどの、くやし涙をこの腰越の地で流しています。
頼朝公の慈しみ深いお顔を拝することも長くかなわず、もはや兄弟とはいえないのも同じです。どうして、こんな不幸なことになったのでしょう。
わたくしは平家を滅ぼすこと、父に安らかに眠っていただくこと以外、何の野望もありませんでした。朝廷から武将としては最も高い位の五位ノ慰に任命されたのは、源氏の名誉でもあるはずです。なのに、こんなにお怒りになるとは。神仏に誓って偽りは申し上げませんとお手紙を差し上げても許してはいただけませんでした。
あなたのお情けで、なんとかこの気持ちを頼朝公に伝えてはいただけないでしょうか。許された暁には、ご恩は生涯、忘れはしません」
腰越状の宛先は、大江広元である。頼朝の側近で、朝廷に仕えていたこともあり、鎌倉政権の樹立に官僚として貢献している。毛利氏の祖先とも言われている。しかし、気持ちは、頼朝には届かず、義経は腰越の地を去った。書状の中にある「あらぬ告げ口」の張本人は、梶原景時で後の世に、讒言の景時の悪名を受けることになる。彼の末路は、御家人から糾弾されて、一族は滅びることになる。自業自得とも言える。
腰越から無念の思いで引き返した義経は、鎌倉が放った刺客集団を撃退したが、吉野、安宅の関と奥州平泉へと落ちのびていく。庇護者の藤原秀衡の死後、弁慶達と悲業の死を遂げる。その首は、酒に浸けられ、再び満福寺に戻ったという。腰越での決断だが、義経が生きる道を考えるなら、出家して世を捨てることも考えられるが、華々しい戦の勝利者には、とうてい思いつく選択ではなかった。
もう一つの選択は、シーザーのように「ルビコン川」を渡ることだが、精鋭といえどもいかにも小数のため討ち死にの憂き目にあっていたかもしれない。そして義経政権の基礎はなく、いずれは北条氏を代表とする、関東武士集団の天下になっていたであろう。何よりも、この二つの選択では、悲劇の英雄、日本人の愛する義経は生まれなかった。
満福寺の前を江ノ島電鉄が走っている。踏切を渡るとすぐ寺に続く階段がある。この日は、月曜日であったこともあり、寺を訪れる人は少なかった。春の暖かい、空気が流れていて長閑である。
 春うらら眠り猫居て満福寺


 気持ちよさそうに、受付の窓辺で猫が寝ている。太平の世を満喫しているようでもある。今、江の島付近は、シラス漁が始まっている。江の島までわざわざ出向いたのは、シラス料理を食べることである。腰掛港にごく近い国道一三四号線に面して「池田丸」という漁師の店がある。船宿でもあり、釣り船も所有し、新鮮な地魚料理が食べられる店として人気があるらしい。日曜日でなくあえて月曜日にしたのも友人の知恵と情報分析の結果である。しかも、寺詣りを先にしたのは、昼時間をずらす意味もあった。予想どおり、店の前に行列は出来ておらず、江の島が見える二階で、シラスづくしの定食と地魚の刺身定食を頼み、仲良く分け合うようにして食べた。少し長居をして、ビールなど飲みながら、春の海をぼんやりと眺めていたかったのだが、二時も近く、ラストオーダと言われれば、退散せざるを得ない。「あかもく」という冷凍した海藻をお土産にして帰路につく。
春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村
「海の中には母がいる。母の中に海がある」三好達治の詩の一節が自然と浮かんできた。海を見る小旅行も内陸に住む人間には癒しになる。
  

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2012年08月03日

『激流に生きて』(柳沢本次著・あさを社)

 『激流に生きて』(柳沢本次著・あさを社)
政治家が出版した本は、我田引水の感があって面白みがないという印象があり、よほど興味がなければ読まないことにしている。福田赳夫の『回顧90年』(岩波書店)や中曽根康弘の『自省録』は、郷土の政治家で、共に高崎高校(両氏が在学中は中学)の大先輩ということもあり、同じ選挙区の有権者であることもあり、拝読させていただいてはいるが、取材記者の書いたもの方に軍配を上げたい気がする。政治家は、発言し行動し、政策を実現することを職務とし、その実績は、有権者が評価することになる。つまり、自伝などは書かず、他者から書いてもらった方が良いのである。聖書だってキリストが書いたわけではなく、孔子や釈迦もしかりである。後世に書き残す記者が必ずいるのである。偉人と言われる人は、本人が俺は偉いと言わなくても他人が認めてくれる。
群馬県の政界で長く活躍し、県会議員を引退後も現在も政治に関わり、影響力を持つ人物が、柳沢本次氏である。大正14年生まれで今年で87歳になる。『激流に生きて』という本を昨年出版した。群馬郡であった箕郷町出身の県議でもあり、社会福祉にも理解のある政治家で、仕事の上でもお世話になっている。人徳を感じさせる人柄で、言動が一致している。故人になった父からも学校(県立勢多農林)が同じで、学年は父の方が2つ上だが、よく聞かされた人物で親近感を持っている。
寝苦しい夏の夜、一昨日アマゾンで注文した本書を読みだしたら、朝方近くまで一気に読んでしまった。戦後の政治史が著者の目を通して描かれている。まるで政治記者の文章のようである。ご本人のことは、後回しになっているように書かれているが、渦中の人である。政治家でない新聞記者には書けない記述がある。
柳沢氏は、一貫して今現在も、自民党に政治的立場を置いているが、県政、国政に重要な働きをしてきたことがわかる。38歳の若さで、箕郷町の町長となり、昭和50年から平成15年まで県会議員を務め、県会議長にもなっている。実業家でもあり、ブロック生産では、日本有数の会社の会長でもある。実に、エネルギッシュに人生を生きてきた感がある。まさに、『激流に生きて』という著書のタイトルが、ふさわしい。「はるな郷」という社会福祉法人の理事長でもあり、障害者の雇用にも熱心であり、上州の政治家らしく人情に厚い政治家である。文章は沈着冷静な知的印象が強く、政治を研究している人にとっても好著だと思う。
  

Posted by okina-ogi at 17:32Comments(0)書評