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2012年09月13日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑥)

振替休日と代休の違いということが問題になります。振替休日には割増賃金がないが、代休には割増賃金が必要になる。休日出勤して、その代わりの休みを別の日にとれるようにするのだから同じじゃないのということですが、労働基準法では、別の扱いになっています。振替休日は、あらかじめ振り替える日を特定し、本人が予定できるようしておく。しかも、就業規則の中に振替休日のことが明記されていることが必要になります。こうしたことは、原則です。
「1か月単位の変形労働時間制」という制度があります。前にもこの制度について触れているので詳しい説明は省きますが、月前に特定された休日が振り替えられた場合です。その時、ある週が40時間を超えた場合は、割増賃金が必要ということですが、月を単位とすると、週平均が40時間以内になった場合、超過した週の法定割増賃金は、その週の超過した時間に1.25ではなく、0.25を乗じるということなのか、経験と知識不足で自信がない。1か月の週平均が40時間だったら、割増賃金はいらないというのは、謙虚過ぎる労働者でしょうか。仕事の都合ではなく、自分の都合で振替休日を取ったような場合に結果的に割増賃金が発生するというのもおかしな話です。
次に、振替休日を繰り上げることができるかということです。つまり休日の先取りによって、年末年始の休みを分散してとれるようにできないかということですが、可能のようですね。国家公務員の場合は、労働基準法は、適用されませんが、繰り上げる場合は、4週間、繰り下げの場合は、8週間という決まりがあることをある法律解説書で読んだことがあります。働らく人が納得し、良い仕事ができるように法律は遵守しながらやれないかと思いますが、なかなかすっきりしない部分があります。
  

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2012年09月13日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑯

菊を詠んだ句は数々あると思うが、吉川英治の次の句は、結婚式で使われるということは、昔から良く知られている。

菊作り 菊見る時は影の人

菊人形展で老職人に送った句とされているが、花嫁の両親に祝いのスピーチなどで引用されている。私も、職場の友人の結婚式で使わさせてもらったことがある。吉川英治には、

菊根分け 後は自分の土で咲け

という句もあるが、句としては佳句とは言えない。前句も説明的で、秀句とは言えないと思うが、見事に菊職人の真情に触れている。吉川英治は、苦労人であった。福祉に貢献した人に贈られる賞に「吉川英治賞」がある。私も、新郎新婦に贈ろうと思って、一句ひねってみたことがある。

天地人 黄菊白菊出会うとき

既に故人になられたが、コロンムビア・ライトさんにお褒めの言葉をいただいたことがあった。ライトさんは、高崎市の出身の漫才師であった。相棒は、参議院議員になったトップさん。二人とも名司会者でもあった。結婚式の司会も数多く、依頼されたことであろう。
  

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2012年09月12日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑮

今回も三好達治の詩である。高校1年生の国語で習った詩である。先生の説明と、朗読が良かった。高橋という名の先生だったことを憶えている。演劇にも関心を持っていた芸術家肌の国語教師だった。入学したばかり、しかも男子校だったこともあり、「桜の下を女子が語らいながら歩いている」と想像するだけでも、ほのぼのとした気持ちになった。
    甃(いし)のうへ

  あはれ花びらながれ
  をみなごに花びらながれ

  をみなごしめやかに語らひあゆみ
  うららかの跫音(あしおと)空にながれ
  をりふしに瞳(ひとみ)をあげて
  翳(かげ)りなきみ寺の春をすぎゆくなり
  み寺の甍(いらか)みどりにうるほひ
  廂々(ひさしびさし)に
  風鐸(ふうたく)のすがたしづかなれば

  ひとりなる
わが身の影をあゆまする甃(いし)のうへ

この作品は、三好達治が、東大の仏文科の学生の時に創作した詩である。
  

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2012年09月11日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑭

三好達治の詩に「郷愁」がある。「日本よ、海の中には母がいる。フランスよ母の中には海がある」と覚えた。フランス語では、母も海も「メール」である。

郷愁
蝶(てふ)のような私(わたし)の郷愁(きょうしゅう)!・・・・。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る・・・・。私は壁に海を聴(き)く・・・・。私は本を閉(と)じる。私は壁に凭(もた)れる。隣りの部屋で二時が打つ。
「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。―海よ、僕らの使う文字(もんじ)では、お前の中(なか)に母がゐる。そして母(はは)よ、仏蘭(フランス)西人(じん)の言葉では、あなたの中(なか)に海がある。」

海は人類にとっては故郷のような場所である。母の胎内も海の成分に似ている。海と陸地の境が渚である。海に発生したとされる生物が、海から陸に進出する時、多くの時間辛い進化の過程があった事を想像する。故郷を去ることにより、人々は自分を鍛えつつも、やがて母性に似た懐かしいその場所に戻ろうとする。
生後間もなく母と死別し、城を出て王子の身分を棄てた釈迦は、晩年北へ旅に出る。北は、母親の眠る故郷の地であった。涅槃に入った時、釈迦の頭は北に向き、西方見つめていた。良寛は、母の死後故郷に帰り、世俗とはかけ離れた中で仏の道を歩んだ。出雲崎の良寛堂にある、良寛像は、母の生地である佐渡島を見つめていた。直ぐ前は、浜辺である。
  

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2012年09月10日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑬

私の友人で、俳句の鑑賞に秀でた才能がある人物がいる。教育学から心理学を専攻し、現在桜美林大学の教授をしている。飲み友達であったこともあり、ある酒席で、佳い句があるからと言って次の二句を教えてくれた。

玫瑰や 今も沖には未来あり

海に出て 木枯らし帰るところなし

前句は、中村草田男。後句は、山口誓子である。同じ、海辺の風景に浮かぶ感慨を詠んでいるが季節は違うし、詩韻も対照的である。どちらも、優劣つけがたいと思った。浜辺に咲く浜茄子の花から、水平線の先に未来を想う。きっと希望のある未来だろう。一方、山や谷を越え、海に出た木枯らしには、最早帰るところがないという実感。木枯らしを自分に準えても良い。木枯らしを特攻隊員とする人もいる。昭和19年の作品である。
  

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2012年09月09日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑫

万葉集からの1首。志貴皇子の歌。この方は、天智天皇の第七皇子で、母親は、釆女というから身分の高い女性ではなかった。

石走る垂水の上のさわらびの萌え出ずる春になりにけるかも

昔からこの歌が好きだった。山菜とりは、若い時からの趣味で、随分奥山に分け入って蕨採りに興じたものだ。こんな風景にも出会っているかもしれない。「萌え出ずる春」という言葉の響きが良い。志貴皇子の陵は、高円山の麓の里にあるらしい。毎年のように、数学者岡潔先生の墓参のため、奈良を訪ねている。先生のお墓は、高円山の麓にあり、椿寺として名高い百豪寺がある。歌碑があって

高円の野辺の秋萩いたずらに咲きか散るらむ見る人なくに

志貴皇子を偲んだ歌と伝えられている。来春奈良高畑の地を訪ねた時、散策してみようかと思っている。
  

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2012年09月08日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑪

有名な宮沢賢治の詩。日本人が、何が好きな詩かと問われれば、この詩を揚げると想像する。ベストテンには必ず入ると思っている。この詩は、手帳に書きなぐるように書かれていた。繰り返し校正したした後はない。普段の想いが、勢いよく噴出した作品のようである。

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラツテイル
一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニワタシハナリタイ

介護支援専門員という職業がある。この精神でやれば、介護保険を利用される方から感謝されること必定である。
  

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2012年09月07日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑩

暦の上では秋になっているが、残暑が今だ厳しい。岡潔著『昭和への遺書』に坪内逍遥が訳したとされる、漢の武将、蘇武の詩がある。岡先生の肉声(テープ)でその歌を聴いたことがある。先生ご自身は、中学2年の時に習ったと書いている。尊敬する人の好きな歌も自分の好きな歌になる。
古代から、漢民族は、世界文化の中心であるという中華思想を持っていた。周囲の国家、民族は全て蛮族であった。この詩に出てくる匈奴は、夷狄である。狄の文字に獣の文字が入っている。良く見ると私の苗字の「荻」の一部である。

風颯々の秋更けて
日を重ねたる旅衣
重き君命頂きて
遠くは匈奴の国に入る
野辺の草木や蟲の声
聞く物の音も見る色も
いずれかえびすの物ならん
思えば遠く来つるかな
  

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2012年09月06日

野口雨情の「童心」

 野口雨情は、大正から昭和にかけて、たくさんの童謡詩を書き、本居長世や中山晋平らの曲に載せて童謡を世に広めた。誕生の年は、明治十五年であるが、岡倉天心が日本美術研究の拠点にした五浦からごく近い、磯原海岸に近い町に生れた。磯原地区は五浦と同様、現在では北茨城市にくみいれられている。岡倉天心を綴った「百年後の五浦」がA面とすれば「野口雨情の童心」はB面のつもりで書いている。
 野口雨情の生家は、殆ど当時の姿のまま残されていて、現在も直系の子孫が生活の場としている。屋敷内に資料館があり、館長は、孫にあたる野口不二子氏であるが、訪ねた日は不在であった。代わりに係員(?)の男性が親切に説明してくれた。説明が録音されたテープのようで、こちらからの質問には満足のいく返答がなかった。係員の人が三度繰り返した内容は
「野口家は廻船問屋でありこの土地の有力者でしたが、雨情が家督を継いだ時はだいぶ事業は傾いていた。その理由は、常磐線の開通です」
ということであったが、館内にある家系図を見て驚いたのは、遠い先祖は楠木正成の弟
にあたる人物である。楠木某氏の末裔は、室町時代、戦国の世を経て、徳川の時代になって水戸家に仕え、幕末には勤皇の志士も出している。黄門様で有名な水戸光圀も野口家に立ち寄り「観海亭」の名前を与えている。何時頃の築だかは、係員の方に聞かなかったが、古く格式のある家屋敷になっている。
 生家の近くには、野口雨情記念館が昭和五十五年に開館し、資料を多く集めている。筆を持って坐る雨情とシャボン玉を吹く子供の像が駐車場の中央に置かれている。郷土の偉人の代表が野口雨情ということで記念館の名前がついているが、二階は郷土資料館になっていて、福島県いわき市に常磐炭鉱が近年まであったことを思い出した。
 野口雨情の本名は英吉で、量平・てるの長男として生れた。資産家の長男として家を継ぐのは当然であり、二十二歳の時、父親の死により相続、同年結婚する。相手は、高塩家の三女ヒロで、彼女は宇都宮高等女学校卒業の才媛で、俳句や短歌を創る文学趣味があった。高塩家は、野口家を凌ぐ資産家で、傍から見れば申し分のない縁組であった。一男二女に恵まれるが、新聞記者などしながら転々とするサラリーマン生活を送る。家は妻が守るが、野口家の資産は減るばかりであった。この放浪に近い記者生活の間に石川啄木などと親交を結ぶが、詩人としての評価はされず、母親の死もあり、三十歳近くになって帰郷する。そして三十三歳の時に妻ひろと協議離婚することになる。後年離婚した妻と多くの手紙のやりとりが残っていて、性格の不一致などという理由で別れたわけではないらしい。そのあたりの真相に深入る事はしない。雨情の晩年には、長男雅夫の母親として野口家に復籍している。
 次女のみとりは早逝したが、二児を手元に置いて雨情は、人生最大の苦難の局面を迎えたと言えるが、雨情の詩が世に出る前の生みの苦しみの時代と言えるかもしれない。出世作が「船頭小唄」である。原題は「枯れすすき」である。
 
おれは河原の 枯れすすき
 同じお前も 枯れすすき
 どうせ二人は この世では
 花の咲かない 枯れすすき

随分と暗い詩である。作曲した中山晋平も歌のタイトルを「枯れすすき」にすることは反対した。「俺」は、野口雨情で「お前」は前妻ヒロであったともとれるが、この時、雨情は、二十歳若い中里つると生活を始めている。婚姻届を出したのは雨情五十三歳の時でずっと後年の事であったが、つるとの間には二男七女をもうけている。先妻から数えて四女の恒子はわずか二才の亡くなっている。シンガーソング・ライターの合田道人が『童謡の謎3』の中で、雨情の代表作の一つである「雨降りお月さん」の詩の背景を分析しているが、角隠しと白装束に身を纏った花嫁が、雨の降る中を馬に乗ってただ一人俯きながら雲がかかった月の下を進む挿絵があって、この花嫁が恒子だというのである。まるで、月へ嫁ぐようで、それは死出の道を行くようだとも書いている。原題は、「雨降りお月」で、中山晋平の曲で世に出た時に「雨降りお月さん」になったのだという。
 
雨降りお月さん 雲の陰
 お嫁に行くときゃ 誰とゆく
 ひとりで傘(からかさ)さしてゆく
 傘(からかさ)ないときゃ 誰とゆく
 シャラシャラ シャンシャン 鈴つけた
 お馬にゆられて ぬれてゆく
雨情の号も連想させる曲であるが、なんともさびしく悲哀を感じさせる童謡である。内容からすれば童謡の域を越えていると言っても良いかも知れない。
 資産家の長男に生れたが、文学熱が冷めず、若い時は妻を家に置いて放浪のような生活をし、破産には至らかったにしても資産を減らしたのは、時代の流れもあったが事実である。おそらく、経済的な理由があって離婚することになったのであろうが。先妻には悲しい思いもさせたのだろう。こうみると野口雨情という人間は、なんとも身勝手な人だったということになる。
 野口雨情が残した書があって、記念館で見ることができた。野口家は、代々が能筆で雨情も例外ではなかった。良寛の筆跡に習ったことも説明書きにある。「童心」という文字は楷書ではないが、雨情の人を伝えている。良寛さんも童心の人であった。
「童謡は、童心より流れて童心をうたう自然詩である」
「七つの子」も雨情の詩であるが、彼には十一人もの子があったことは今回初めて知った。そして、亡くなった子供を含め慈しんだこともわかる。また、各地に多くの民謡を残したことでもわかるように旅の人であった。二人の奥さんに亭主の感想を聞きたくもある。

     拙著『翁草』より
  

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2012年09月06日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑨

茨城県、北茨城市の出身の童謡詩人が野口雨情である。多くの童謡を残しているが、中でも「シャボン玉」が好きだ。昭和52年のNHKの連続テレビ小説「いちばん星」は、佐藤千夜子の半生を描いたドラマだったが、多くの野口雨情の詩を、彼女が歌う場面があった。役者の声でなく、声楽家が歌っていた。その声の主は、東京芸大を卒業した細谷千鶴さんという人で、私の卒業した中学の1年先輩であった。今は、フランスに定住されていると人伝えに聞いている。
シャボン玉の歌の背景には、雨情の子が幼くして亡くなっている事実がある。そのことを知ってしまうと、歌う気持ちが180度変わる。
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで
こわれて消えた

シャボン玉消えた
飛ばずに消えた
産まれてすぐに
こわれて消えた

風、風、吹くな
シャボン玉飛ばそ
携帯電話の着メロとして使わせていただいている。作曲者は、中山晋平である。私の遠い縁戚にあたる。とは言っても、亡くなった大叔父の妻の縁戚だから当然、血縁の関係ではない。
  

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2012年09月05日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑧

橘曙覧は、幕末の歌人。万葉、国学に見識が深く、越前藩の松平春嶽が仕官を要請したほどの人物だった。明治の俳人、歌人だった正岡子規が、彼の歌を絶賛したことで世に知られるようになったが、有名無名は、本人の預かり知らない世界。まるで、良寛さんを連想させる人物である。清貧という言葉が適切か、生活は貧しかったが、妻子には恵まれた。「独楽吟」というのがある。楽しみはで始まる歌で、3首だけとりあげてみたい。

たのしみは心にうかぶはかなごと 思いつづけて煙草すうとき

たのしみは三人(みたり)の兒(こ)どもすくすくと 大きくなれる姿みるとき

たのしみは鈴屋大人(すずやのおとど)の後に生まれ その御諭(みさとし)をうくる思う時
鈴屋大人とは、国学者本居宣長のことである。
  

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2012年09月04日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑦

長野県は、海に面していない。標高もあり、春の訪れはやや遅い。山は高く連なり、その間を日本海と太平洋に注ぐ大河が流れ、流域に広野がある。県歌「信濃の国」の一番に唄われているので紹介する。作詞は、浅井洌である。一世紀前の、一九〇〇年に曲がつけられたが、県歌に制定されたのは、昭和四十三年である。
信濃の国  浅井洌作詞/北村季晴作曲
一、 信濃の国は十州に
境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く
流るる川はいや遠し
松本 伊那 佐久 善光寺
四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに
万ず足らわぬ事ぞなき
 善光寺平(長野盆地)に県都の長野市があるが、県北にあり、松本市、諏訪市、伊那市のある地域からすれば、別の文化圏に見える。善光寺平を流れているのは千曲川で、その下流は信濃川である。諏訪湖から伊那市を流れているのは、天竜川で、静岡県の遠州灘に注いでいる。長野県は、二県であってもおかしくない。事実、明治の初めには、松本市を県庁にして、筑摩県があった。その後も、分県の気運が高まったこともあるが、それを回避させたのが「信濃」という言葉の響きで、県歌「信濃の国」が県民の郷土愛を高揚させ県民の心を繋いだ。近年、長野冬季オリンピックが開催され、長野県民の結束は増したと言われている。今日、「信濃の国」を知らない県民は、少ないという
  

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2012年09月03日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑥

海辺の恋
一. こぼれ松葉をかきあつめ
おとめのごとき君なりき
こぼれ松葉に火をはなち
わらべのごとききみなりき
二. わらべとおとめよりそひぬ
ただたまゆらの火をかこみ
うれしくふたり手をとりぬ
かひなきことをただ夢み
三. 入り日のなかに立つけぶり
ありやなしやとただほのか
海辺の恋のはかなさは
こぼれ松葉の火なりけむ
作詞は、佐藤春夫である。詩だけでも充分美しいと思うが、この詩に曲をつけた人物がいる。小椋桂である。見事に詩を生かして心に沁みる曲になった。1975年に放映された、NHKの「黄色い涙」の主題歌ということを憶えている人はどれほどいるだろうか。
  

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2012年09月02日

心に浮かぶ歌・句・そして詩⑤

あめつちにわれひとりゐてたつごとき このさびしさをきみはほほゑむ

歌人、会津八一が、法隆寺の夢殿に安置されている、救世観音を見て詠んだ歌である。新潟に生まれ、早稲田を卒業した八一は、歌人としてだけでなく、教育者であり、書道家でもあった。生涯独身だった。奈良を愛し、多くの歌を残したが、かなだけを使い、古い時代の奈良の風景を連想させ、格調が高いものが多い。歌集を片手に、時間をかけて古都巡りするのも良い。以前書いた、随想でこの歌にふれている。

天地に我一人立つ如き
 あめつちに われひとりゐてたつごとき このさびしさを きみはほほゑむ
孤高の歌人、会津八一のこの歌を口ずさむたびに、岡潔先生のことを思い出すのであるが、岡先生の随想のどこかに、この歌が引用されている。
 奈良、斑鳩にある夢殿の救世観音を見たときの印象を、歌にしたのであるが、孤独な八一を救世観音の微笑みがなぐさめているという歌意だとすれば、感動の深さはない。「ほほ笑み」を浮かべているのは、私には岡先生自身に他ならない。ただ、救世観音というよりは、不動明王のような厳しさがあって、先生に対面した人々の多くが「カミナリ」を落とされているらしい。それは「ほほ笑み」の形を変えた表現であって、慈悲の心なのである。先生の心に私心というものを感じないからである。
 この道や 行く人もなく 秋の風
この芭蕉の句にも岡先生のことを想わざるを得ない。多変数関数論の未開の分野における発見は、「天地に 我一人ゐて立つごとき」という中でのものであったに違いない。そして、老年期には、日本の行く末について、血を吐くような(実際、胃潰瘍になって吐血された)思いで警鐘乱打されたこともその感を深くさせられる。先生と三十数年前に、奈良のご自宅でお会いし、その場面については、真情会の二十年祭の記念誌に書かせていただいたので、重複は避けたいが、玄関でお別れしたときの先生のお姿は
あめつちに われひとりゐて立つごとき このさびしさを きみはほほゑむ
なのである。先生は、若者三人を見送るために、玄関でひざを組んで座られながら
「ここ(首)から下は、だめだけど頭は大丈夫、タクシー呼びましょうか」と言って、私にとっては最後のご挨拶をしてくださったのである。
「天上天下唯我独尊」は、孤高である。その孤高の心境でも微笑める。そう会津八一が、自分の寂しさにではなく、救世観音にその寂しさを感じれば、歌の意味は一段と格調高くなる。
 二〇〇一年は、岡先生の生誕一〇〇年の年であった。『情緒の教育』が出版された。東京都知事である石原慎太郎氏にもご遺族から『情緒の教育』が贈られ、丁重な御礼の手紙が寄せられている。岡先生と対談した時、氏は芥川賞を受賞し、すでに文学者として世に出ていたが、岡先生との出会いの素晴らしさを語り、そのときの岡先生の指摘や憂いが今日現実になっている驚きを書き記している。石原慎太郎対話集『酒盃と真剣』(参玄社、昭和四十八年)の中に岡先生との対談を載せている。対談の後に、「情緒と厳しさ/岡潔氏について」と題した一文を書いている。その中に、ほほえましい場面描写がある。ある日、石原氏が奈良の自宅に訪ねたとき、岡先生は、日の差す縁側で足の
水虫の皮をむいていた。見るに見かねて
 「水虫の良い薬をお送りしましょうか」
と言うと
 「こんな気持ちの良いものを直す必要がありますか」
と本気で答えたという記述があった。私は、こういう岡先生の一面に、世の常識を超えて、親しみを感じる。石原氏は、当時から岡先生を人生の師のように感じていたようである。私の岡先生と一度だけの、それも一方的な出会いの過去の情景が今でも鮮明に残っているように、岡先生との出会いの記憶は、石原氏にも鮮明に焼きついているようである。
 
岡先生の京都産業大学の講義録を何度も読み直してみるのだが、いかにしても難解である。言葉で理解し、他人に伝えるということは、一生かかってもできそうもない。三十年来、岡先生の教えとして少なからず意識してきた言葉は
 「他人を先にして自分を後にしなさい」
 「他人の悲しみをわかるような人になりなさい」
平凡な言葉に見えるが、これが実に難しい。どれほど、半生の中で行為できたか自信はないが、常に意識し続けてきたことは事実である。
迫害や、他人から目を向けられないことは、人が生きて行く上で辛いことである。暗闇の独房のような境遇にあったとしたらなお辛い。そんな時に、一口の水を差し伸べられ、かつ光が差し込んできたらどんなに嬉しいことか。水は命を繋ぐ、母の愛であり、光は、真理を求める父の愛だとそんなことを考える時がある。
岡先生の未完の著書『春雨の曲』の中で、男女二神について書かれているのだが、数学者として絶対真理を追究されている数学者である先生が、唯一の神などとおっしゃらないところは、日本に住む人間には救われるところであって、知より情の大切さを強調されていることも納得できる。だから
「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」
という岡先生の名言が、自分の心に深く刻まれることになった。
  

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2012年09月01日

心に浮かぶ歌・句・そして詩④

 万葉集は、秀歌の宝庫。岩波新書には、斉藤茂吉の『万葉秀歌』という著書もある。
多くの人が、第一人者としてあげるのが柿本人麻呂である。付和雷同ということではないが、人麻呂の歌は心に沁みてくる。

 東(ひんがし)の野にかげろいの立つ見えて かえりみすれば月かたぶきぬ

大自然の営みを見事に描写している。民家などは、視界にない奈良時代の風景を想像したい。蕪村の「菜の花や 月は東に日は西に」は、季語が示すとおり、季節は春の夕の風景を詠んでいるのとは違い、冬の早朝の風景を捉えている。きりっとしまった感じとリズムが心地よい。こうした感覚は、理屈ではない。
 人麻呂の句で好きな二句を加えたい。

淡海の海夕波千鳥汝が泣けば 心もしのに古想う

もののふの八十氏河の網代木にいざよう波の行方知らずも
  

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