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2012年10月14日

河本緑石という詩人と俳人

心に浮かぶ歌・句・そして詩40
尾崎放哉の評伝を読んでいたら、どこかで見た名前の人の詩が載っていた。解説があり、良い詩である。赤ん坊の目を詩にしている。河本緑石、鳥取県の人で、宮沢賢治と交友があった。荻原井泉水の俳誌「層雲」に投稿していた。河本緑石の娘さんは、三朝温泉に古くからの旅館を経営している女将さんで、ある方の紹介で宿泊し、親しくお話をしたことがある。その紀行の抜粋と、その詩を紹介する。

世の中のうそに汚れた私の心
赤ん坊が喰いこんで来る
あの弱々しい視線をもって
私を見つめてゐるではないか
私の心は底から傷みだし
たへがたくをのゝく
私は赤ん坊をしっかり抱かう
あの静な視線に直面して

何も見てゐない赤ん坊の目
しかし、赤ん坊自身を見てゐる目
しかし、万象を見つめてゐる目
なにも見てゐない赤ん坊の目が
不思議にぱっちり開いて
青空のように澄み切って
永劫の自己を求めてゐる
生まれたばかりの赤ん坊の目が

以下は省略するが、詩のタイトルは書いていない。推測すれば「赤ん坊の目」であろうか。
紀行のタイトルは、「美作そして伯耆の国へ」である。

今宵の宿は、野口雨情も泊まったという明治初年から営業している「木屋旅館」である。宮沢賢治のイーハトーブ会員の上島さんと旅館の女将である御船道子さんが玄関先で待っていてくれた。御船さんの父親は、河本緑石といって宮沢賢治の盛岡農学校の同級生なのである。上島さんを通じ、御船さんのことを知り、岡山の友人をまき添いにして今回の旅になったのである。友人は、俳句もやるが、学生時代は童話も書き、今は小説も書く器用な男なのである。きっと喜んでくれるだろうと勝手に思い込んで、上島さんと同宿することになった。
上島さんは、現在76歳、戦後食糧難の時代に、岡山県蒜山高原の開拓村に入村して、直に大地を開拓した人なのである。宮沢賢治を長く尊敬して止まない方なのである。上島さんとは、昭和の社会教育家、後藤静香を尊敬する上島さんの父君とのご縁による。人とのご縁は不思議なつながりを持つものだ。
女将さんが是非案内したいところがあるというので、二時の待ち合わせになっていたのであるが、旅館に荷物を降ろし、そのまま友人の車でその場所に向う。当日は、台風十一号が、朝鮮半島に向っていたのであるが、その影響で鳥取の天候は不安定であった。ときおり激しい雨が降る中、三徳山を目指す。「投入堂」という不思議な名の付く建物を見せてくれるというのである。三朝町は世界遺産として登録したいらしい。その建物は恐ろしく高い山の洞窟の入口のようなところにあって、どうして人間が建てたのか首をひねりたくなる建物なのである。望遠鏡で見たが、建築家も結論が出せないらしい。「投入堂」の名の由来もこのあたりにある。驚くことに平安時代の建物だという。
夜は、貴賓室(?)での女将さんを交えての会食となった。御船さんはよく語って、かつ接待し、野口雨情の歌、岡野貞一の唱歌も歌った。強烈に記憶に焼きついたのは、父親の水死の話である。
「私が四歳の時、昭和八年の夏、父は三十八歳でした。海岸で学校の水泳訓練をしていた時に、配属将校であった友人が潮に流され溺れかかったのを父は助けようとして逆に溺れて亡くなったのです。その時、助けられた軍人さんは、自分は自力で泳ぎ、助けられたのではないと主張したらしいんです。軍人だったから体面が悪いと思ったのでしょうね。そのため父は、しばらくは殉職扱いにならなかったんです。でも、目撃者がいましたからね。結果的には殉職者となったんです」
人間性と言えばそれまでのことだが、配属将校と御船さんの父親では、天と地の差があると思った。宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の登場人物、カンパネルラも水死するのであるが、賢治が御船さんの父親の死より二カ月後に亡くなっていることから、そのモデルにしたという指摘もあるが、その真偽よりも、人を助けるために亡くなった父親の死は厳粛なものがある。
木屋旅館の前、道を挟んでカンパネルラ館がある。アザリア会という宮沢賢治、河本緑石ら四人の詩のグループの大きな写真が飾ってあり、賢治の関係書籍や河本緑石の関係の遺品が置かれている。女将さんの藍染の作品も置かれている。美味しいコーヒーも飲む事が出来る。
夜の宴は、なごやかに続いたが、木屋旅館のラドン湯は格別であった。そして、宗教学者で、宮沢賢治と同じ花巻出身の山折哲雄の常宿になっていることも教えてもらった。山折哲雄は、宮沢賢治の研究者でもある。御船さんの父親は、学校の教師であったばかりではなく、絵や詩も書き、自由律の俳句を作った荻原井泉水との交流のあった文人であり、島根の名士であったのであろう。会食の中の話題に登場する人物は、鳥取県の政治家などもいて、身近な知人のような関係に聞こえてくる。古井喜実などという戦前の内務官僚から、政治家に転身し、田中内閣の日中国交正常化に一役かった人物が鳥取県の出身とあらためて知ることになった。
御船さんはイーハトーブの会から表彰を受けることになり、明後日には鳥取空港から花巻に飛び立つという。絶妙なタイミングでお会いできたと思う。部屋に帰り、友人との将棋は一勝一敗のさしわけとなった。決勝の一局をもう一度木屋旅館で対局するという手もあると思った。その時に、岡野貞一の生れた鳥取市に行っても良い。近年童話館ができたらしい。鳥取砂丘、白兎海岸にも足を伸ばせるかもしれない。
                       拙著『浜茄子』より
  

Posted by okina-ogi at 19:54Comments(0)日常・雑感

2012年10月14日

『放哉評伝』

『放哉評伝』
      村上 譲  春陽堂 放哉文庫 840円+税
尾崎放哉は、自由律の俳人として名前を留めている。種田山頭火が著名であるが、この人々の句の世界は深いのか、それとも感性の発露のようなものか、今日まで理解が及ばない世界であるが、自然の中に生かされている人間の正直な気持ちを表現しているのだろうということは、想像できる。
尾崎放哉は、鳥取県の士族の出身で、一高から東京帝国大学の法科を卒業した秀才である。中学時代から、俳句や短歌に興味を持ち、一高時代には1年先輩に荻原井泉水がいた。彼は「層雲」という俳誌を主幹し、尾崎放哉も参加することになる。
彼の同窓には、小宮山隆、安部能成や華厳の滝に身を投げ「厳頭之感」を遺言とした藤村操がいた。夏目漱石の英語の授業も受けている。
 卒業後は、東洋生命という今日の朝日生命の前身となる会社に務めている。38歳で退職しているが中間管理職に昇進している。なぜ、辞めたかは酒のせいらしい。飲むと人格が変わるような飲み方だった。その後41歳で亡くなるまで、京都に一燈園を頼ったり、神戸の須磨や若狭の寺男となり、最後は、小豆島の庵で咽頭結核を病み死んだ。妻とは離縁したわけではないが、別居生活となった。一人の生活を望んだのである。その間に、多くの秀作が生まれた。冒頭に書いたように、今だにその句に共感できなくとも、このように生きざるを得なかった人間がいたということは理解できた。人は社会の中で一人では生きていけないが、最後は一人だという、そこにあえて身を置き句を詠んだ。自由律の句は、これからも作らないと思うが、句として否定もしない。一句だけ彼の句を揚げておく。

肉がやせて来る太い骨である
一人寂しく死んだ彼もまめに師匠や友人に手紙を書いた。その書簡残っていてこちらは実に面白い。赤裸々なのである。ユーモアもある。
  

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2012年10月14日

種田山頭火

心に浮かぶ歌・句・そして詩39
防府は、山頭火の生まれた場所であることは意外と知られていないかもしれない。芭蕉のように旅の俳人としてのイメージが強いからである。それもどちらかと言えば、放浪のような印象がある。
 歩かない日はさみしい
   飲まない日はさみしい
     つくらない日はさみしい
孤独と酒のなかに句を紡いだ人が山頭火であるが、店主の話と小冊子に書かれた彼の年譜を見て、納得できるものがあった。大地主から事業の失敗による破産。幼いときの母親の自殺。男の子をひとり残しての離婚。定職も長くもてない。人生の失敗者といわれても仕方がない。それでも俳句は書き続けた。俳句をつくらない日はさみしかったのである。俳句といってもいわゆる五七五の定形でなく自由律というもので、荻原井泉水や河東碧梧桐などが普及させようとした。
 大正十五年から亡くなる昭和十五年までは、庵を結んだこともあったが、歩いて旅をし、俳句を作り続け、その作は一万首を超える。有名なのは
 分け入っても分け入っても青い山
で、宮崎県の高千穂に近い場所で生まれている。ふるさとの句も多いが屈折した心境のものが多い
 
ふるさとは遠くして木の芽
 雨ふるふるさとははだしであるく
 うまれた家はあとかたもないほうたる

旅先で
 
日ざかりのお地蔵さまの顔がにこにこ
 てふてふひらひらいらかをこえた

あどけない感じだが、芭蕉の野ざらし紀行のように旅に死す決意を感じさせる
 
おちついて死ねそうな草萌ゆる

母の死は、かれの人生を大きく支配したであろう。
 
母ようどんそなえてわたしもいただきます

山頭火の句も他者に響くが、彼に他者の愛は響いていたのであろうか。
  

Posted by okina-ogi at 09:05Comments(0)日常・雑感

2012年10月13日

『厚生労働白書』(24年版)を読む(4)―P・164

雇用環境の変化
(完全失業率は、バブル崩壊以降上昇しており、特に若者の完全失業率は、全ての年齢層と比較して常に高い状態が続いている)
平成24年6月の完全失業率は、4.3パーセントです。前年の4.5パーセントよりは若干低下しているが、15~34歳の若者の完全失業者は112万人で、そのうち25~34歳が70万人である。この年齢は、仕事にも慣れ能力を発揮しだす年齢で、結婚適齢期で新しい家族のために頑張れる年代でもある。仕事の適性のミスマッチで、一度正社員から離職し、再度正職員として雇用される機会がないことが原因しているようだ。非正規雇用から、正規雇用の道は険しそうである。「石の上にも3年」ということわざがあるが、再チャレンジの方を選ぶ若者が多いようである。
  

Posted by okina-ogi at 08:01Comments(0)書評

2012年10月12日

花と話ができた人

心に浮かぶ歌・句・そして詩38
横須賀市に聖女ともお呼びして良い素敵な方がいた。お父様が設立した幼稚園の園長さんを長く務められたが、先年他界された。晩年は、病床に伏す日が長く、文通と電話だけのやりとりになった。石川郁枝さんという方で、園児の中には、小泉元総理の御子息がいた。根っからの詩人のような方で、沢山良い詩を教えていただいた。曲になっているものもあり、下手なギターでは失礼とは思ったが、テープに録音して送ったこともあった。石川さんを偲びつつその歌詞を紹介したい。以前書いた紀行文からの抜粋である。

連休の前に横須賀市に在住の今年七十五歳になる女性から、達筆なペン字の手紙をいただいた。和紙の便箋に流れるような文章で、人生忘れられない童謡の詞が書かれてあった。ご本人には、承諾を得ているわけではないが、童心を失わないその美しい情緒に共感する者として書かせていただくことにする。この手紙が、信州行きの刺激になったのは事実である。
 
一どこかで 春が生れてる
  どこかで 水が流れ出す
 二どこかで雲雀が 啼いている
  どこかで芽の出る 音がする 
  山の三月 東風吹いて
  どこかで春が うまれてる
題名は「どこかで春が」であるが、作詞は百田宗治である。続いて書かれてあったのが「風」である。作詞は西條八十であるが、イギリスの女流詩人クリスティナ・ロセッティの原詩を元にしている。
 
一誰が風を 見たでしょう
  僕もあなたも見やしない
  けれど木の葉を ふるわせて
  風は通りぬけてゆく
 
二誰が風を 見たでしょう
 あなたも僕も見やしない
 けれど樹立が 頭をさげて
風は通りぬけてゆく
二つも草川信の曲が、しかも続けて書かれていたのには驚いた。これらの歌は、母親から教えられたと書かれてあったので小学生になる前に覚え、今日まで愛唱されてきたのだろう。残念ながら「日本の歌百選」に選ばれなかった草川信の曲をもう一つ揚げておく。これは、私の好きな歌である。「春のうた」作詞は野口雨情である。
 一桜の花の咲くころは うららうららと日はうらら
  硝子の窓さえみなうらら 学校の庭さえみなうらら
 二河原でひばりのなくころは うららうららと日はうらら
  乳牛舎(ちちや)の牛さえみなうらら 鶏舎(とりや)の鶏さえみなうらら
 三畑の菜種の咲くころは うららうららと日はうらら
  なぎさの砂さえみなうらら どなたの顔さえみなうらら
春の気分そのものなのである。けれども、春はクラス変えがあったりして親しくなった友達と離れる憂鬱な気分もあって、子供心になんとも言えない季節でもあった。一番の歌詞を唄うとその記憶が蘇ってくる。
 七十五歳の素敵な女性の好きな歌は続く。小学校読本からのものだという。
  土筆誰の子スギナの子 土手の土そっとあげて
  土筆の坊やがのぞいたら 外はそよそよ春の風
誰の曲とも、詞とも書かれていないが、実に春の情景を土筆を主人公にして表現している。次ぎの歌は題名だけが書いてある。
「田舎の四季」
  道をはさんで畑一面に 春は穂が出る菜は花ざかり
  眠る蝶々飛び立つ雲雀 吹くや春風たもとに軽く
  あちらこちらに桑摘む女 日増し日増しに春蚕(はるご)も太る
数学者岡潔先生の講義録の中にある歌が書かれてあった。素敵な女性は、岡潔先生の御縁で知りあった方なのである。
 春来た時は川土手に すみれの花が咲いていた
 ゆらりゆらり春の水 白い帆影が浮かんでた
 
 冬来た時は枯草に 寒い北風吹いていた
 サヤサヤサヤと鳴る風に 水は底まで澄んでいた
冬の詞も加えたが、場所は同じであるから四季のうつろいの中に大自然の営みを感じ、春も冬もそれぞれに良いという気がしてくる。どのような曲がつけられているのだろう。
 
人の世に生きていると、様々な出来事や、境遇に遭遇し喜びも悲しみも経験するが、こうした詞と歌に触れると自然というものがいかに大いなるものかを痛感させられる。そして、世代を超えた情緒の共感を生み出す。日本的情緒というものは確かにある。懐かしさという情緒はその中核にあるような気がしてならない。人の心に喜びを生まないのは、刹那的な欲望を満たす生き方であると思う。そのようなところに優しさは生れない。人間が辛いと思うのは、一方的に心を支配される時や、その逆で関心を寄せられない時である。春の自然にはそれがない。そこに生れる童謡にもそれがない。だから心が癒される。人は本来そのような心を与えられているのにも拘わらず自ら汚しているのかも知れないのである。
  

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2012年10月11日

すかんぽの咲く頃

心に浮かぶ歌・句・そして詩37
すかんぽの咲く頃

 土手のすかんぽ ジャワさらさ
   昼はほたるが ねんねする
   
   ぼくら小学 尋常科 
   けさも通って またもどる

   すかんぽ すかんぽ川のふち
   夏が来た来た ドレミファソ

作詞したのは、北原白秋である。彼の実家は、九州の柳川で、造り酒屋であった。この詩に山田耕作が曲をつけた。宴が高まり、さて持ち歌をという時、必ずこの歌を唄う友人がいた。すっかり覚えてしまった。確か、この友人は、「尋常科」のところを「1年生」と唄っていたように思う。
  

Posted by okina-ogi at 21:59Comments(0)日常・雑感

2012年10月11日

柳生一族の墓、墓地を考えた


全国旅をしていると、歴史上の人物のお墓を訪ねることが多い。上野の美術館に良く足を運んでいるので、谷中墓地に行ったら有名人の墓の多いこと。案内図があっても捜すのにひと苦労する。徳川慶喜の墓地は広いがなかなか行き着かなかった。芭蕉の墓は、琵琶湖に近い義仲寺にあったが小さな墓石であった。その弟子の向井去来の墓は、京都の嵐山にあったが、芭蕉以下であり、ただの石のように見えた。
 昨年の春、奈良市からほど近い、柳生の里を友人たちと訪ねた。柳生一族の墓があり、石舟斎や十兵衛の墓があった。かなりの広さがある。
純粋にお墓だけに関心があって訪ねてみようと思ったのは、本居宣長の墓であるが、天候不順で実現しなかった。天皇陵は別として、日本人はお墓に対して質素な感じを持つ。ヨーロッパのように墓地から回収して、教会の地下に安置するようことはしない。日本人は大きなお墓に入らなくとも数が多く墓地は大きな面積を占めているだろう。生きている人の住む場所は、なくならないと思うが、日本人は死ねばお山に行くと考えている。廃線になったトンネルなどを活用して墓地にしたらどうかと、JRに提案したいような気がする。碓氷峠のトンネルなどは、うまく整備すれば墓地になるような気がするのだが。
  

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2012年10月10日

秋の調べ

心に浮かぶ歌・句・そして詩36

四季のいのちを歌う「かぜとかざぐるま」 歌 平本弘子 ピアノ 塚田佳男

平本弘子さんという人は、広島、福山市在住の声楽家である。もう鬼籍に入られたが、鹿児島に生活しておられた福島雄次郎という音楽の先生を友人と平本さんと訪ねたことがあった。私は、鹿児島をただ旅をしたかっただけである。もうあれから10年以上の月日が経った。平本さんとはその時だけの、ご縁だったが、こちらから紀行文や、年賀状を差し上げることもあって、数年前素晴らしいCDを頂いた。日本歌曲は、耳慣れないところがあって、何回かお聞きしそのままにしていた。鹿児島に同行した、友人と親戚の所有する別荘に行こうということになって、このCDを持参した。彼は、喜んで幾度となくこのCDを聴いた。不思議なもので、鹿児島でお会いした平本さんのことも思い出し、曲が頭の中に入ってきた。曲は、多く収録されているのだが、「この曲好きなんだよな」という友人のために一曲紹介する。「秋の空」という曲である。

「秋の空」    詩 八木重吉  曲 畑中良輔
秋が呼ぶような気がする
そのはげしさに耐えがたい日もある
空よ
そこのとこへ心をあづかつてくれないか
しばらくそのみどりのなかへ
やすませてくれないか

作詩者八木重吉は、キリスト教を信仰し、29歳で結核で亡くなっている。畑中良輔は、声楽家、音楽評論家、作曲家という音楽関係では多彩な才能を発揮した人で今年の5月に亡くなっている。

平本さんとの出会いを拙著『春の雲』から抜粋する。
旅は人のご縁の大切さを痛感させられる時でもある。音楽プロデューサーの滝沢隆さんの恩師を旅先で訪ねることになった。恩師とは、福島雄次郎という日本の民謡を題材として作曲活動をしている人である。滝沢さんのご縁で、鹿児島に住む福島先生に会うために訪ねてきた、広島県福山市の声楽家平本弘子さんとも知己を得ることができたし、ピアノ演奏で榛名に来た上橋さんには食事を一緒にしたり、市内を車で案内してもらった。福島先生の家は、見晴らしのよい高台にあり、短い時間であったが、質問はもっぱら平本さんがしたのだが、有意義な話を聞かせてもらった。二十三歳の時、結核療養後であったが、五木村で過ごした体験が後の作曲活動に影響を及ぼしたという話をされた。人気(ひとけ)の少ない山奥の中で、労働者の唄った五木の子守唄が若い福島先生の耳に残った。話の合間に、奥様が変わった葉で包んだ草餅や果物、紅茶などを出してくださる。
 「僕の曲は一生懸命さが出すぎて寛容さがない」
というと、平本さんは「そんなことはありません」と否定する。平本さんにとって福島先生の曲には強く引かれるものがあるのである。そうでなければ、ここまで会いには来ない。
 「技術的なことより、自分の人生でなければ生まれて来ない音を自然体で表現すればよい」
福島先生はそう言いたかったのだろうと思う。
〝島原の子守り唄〟を作詞した宮崎康平のことが頭をよぎった。同席した滝沢さんが、私のことを「彼は俳人です」と変な紹介をすると、先生は、
 「俳句を音楽にしたものもありますよ、朝顔の句でしたかね」
朝顔に釣瓶とられてもらい水
加賀千代女の句であるが、俳句が歌になっているというのは初耳であった。
先生は短い時間であったが、名残惜しそうに玄関先まで送ってくれた。一緒にスナップに収まった平本さんの目には光るものがあった。もう少し話したかったのだろうが帰りの飛行機の時間が迫っていた。
鹿児島に住む上橋さんに
「遊びにいらっしゃい。レッスンもしてあげますよ。僕も淋しくしてますから」
と話していたのが印象的だった。内臓の病気で午後は体調が悪いと言っていた。正直な優しい先生という感じがした。帰ったら原正男自叙伝『一筋の道』を送ろうと思う。
この日は大変暑い日であった。上橋さんが、
「シロクマを食べましょう」
というがなんのことか想像がつかない。カキ氷のことで、メロン、スイカ、オレンジと小豆が氷にのっていて、たっぷりコンデンスミルクがかかっている。なるほどダイナミックで白熊の命名がぴったりすると納得した。
  

Posted by okina-ogi at 21:21Comments(0)日常・雑感

2012年10月10日

『まちづくりスケッチ散歩』

『まちづくりスケッチ散歩』
           寺崎喜三  あさお社 1,800円+税
寺崎喜三氏は、昨年9月に他界されている。群馬県庁に勤務し、退職後富岡市の助役となり、その後は、趣味の絵や、エッセイなどを書いたりして悠々自適な生活を送られていたと聞いていた。一度お会いしてゆっくりお話したいと思っていたら、訃報に接し、心残りとなっていた。県庁時代、何回か交流があった。寺崎さんが高齢者福祉課にいた頃と地域振興課にいた頃だから、20年以上前の話である。趣味人というか、文化人で話が合った。
 この頃、音楽を通じて街づくりをしようと、榛名町で「生の音楽を聴く会」(代表滝沢隆)という有志のグループがあった。第4回が老人施設を会場にして「伊藤博志ギターリサイタル」(昭和62年5月30日)が開催された。100人以上の入場者があり、有料のコンサートであった。慰問ということでもなく「開かれた老人ホーム」が実現できたと感じた。この時、新聞にこの模様を紹介してくれたのが寺崎さんであった。
 今回、生前、あさお社の『上州路』に寄稿したエッセイが編集され本になった。昨日職場の友人が貸してくれたので、早速、読ませていただいた。スケッチが素晴らしいことと、多くの人々との交流と、地方に豊かな暮らしをもたらしたいとする、群馬県人らしい人情が随所に表れている。幅広い知識、歴史への関心の深さなど、寺崎さんの教養も知ることができる。当時、CAD計画研究所にいた、高校の同級生でその後もお付き合いがある、熊倉浩靖君(現群馬女子大学教授)との会話のやりとりなどは楽しく読ませてもらった。あらためて、寺崎さんのご冥福をお祈りしたい。
  

Posted by okina-ogi at 12:42Comments(0)書評

2012年10月10日

岡潔博士と中谷治宇二郎の友情

心に浮かぶ歌・句・そして詩35
物理学者であり、随筆家でもあった中谷宇吉郎の弟に、中谷治宇二郎という人がいた。考古学者であったが、昭和11年に亡くなっている。数学者岡潔と無二の親友だったことはあまり知られていないが、若い時は文学を志したこともあり、秀句が残っている。

漣の渡る湖明けきらぬ
戸を開くわづかに花のありかまで
子等遊べ主なき庭のはだん杏
繊細で、情愛の深い、優しい人だったことが句に滲み出ている。
由布院での療養の日々の句も写生句であるが、自然の営みに中谷治宇二郎の心が溶け込むような感じがする。
落葉して日毎に風の通いけり
雪雲の危うきかたや渡り鳥
幼子一人渡り鳥見る秋の原

次の句は、由布院で療養する中谷治宇二郎を岡潔が見舞いに訪れ、その別れを詠んだ句である。「岡」と「丘」をかけている。

サイレンの丘越えていく別れかな
  

Posted by okina-ogi at 07:55Comments(0)日常・雑感

2012年10月09日

岡潔博士と中谷宇吉郎の連句

心に浮かぶ歌・句・そして詩34
岡潔先生と生前何かしらのご縁があり、今もって人生の師と考えている人達の集い「春雨忌」では連句が行われるようになっている。焦門の連句は有名であるが、その意味が少しずつではあるが分りかけてきたような気がする。
五七五の発句があり、次の人が七七と続け、四季と場面を変えながら、前の人々の情緒に配慮しながら、三六回で終る。それを一巻とするのが連句であるが、途中に花や月の坐などがあって、約束事もある。風流と言うより、他者の心を慮るための訓練になる。
「自分を後にして他人を先にせよ」
と繰り返し語っておられた岡先生の教えの実践のようなものである。
「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」
ということも連句によって実感できるような気もする。
岡先生の友人であった物理学者の中谷宇吉郎との連句がある。一部であるが

秋晴れに並んで乾く鯵と烏賊   虚雷
 蓼も色づく溝のせせらぎ    海牛
夜毎引く間取りをかしく秋ふけて 海牛
 さて目覚むれば烟草値上がる  虚雷

虚雷が中谷先生。去来にかけているのか、物理学者らしい号である。海牛が岡先生の号であるがユーモラスな名前である。名づけたのは中谷先生だったらしい。
  

Posted by okina-ogi at 12:48Comments(0)日常・雑感

2012年10月08日

智恵子抄

心に浮かぶ歌・句・そして詩33

「智恵子抄」で好きな詩は、幸せだった頃を回想した「樹下の二人」と臨終の場を描写した「レモン哀歌」である。
樹下の二人
  ―みちのくの安達が原の二本松
    松の根かたに人立てる見ゆ―
あれが阿多多羅山、
あの光るのが阿武隈川。

かうやって言葉すくなに座ってゐると、
うっとりねむるやうな頭の中に、
ただ遠い世の松風ばかりが薄みどりに吹き渡
ります。
この大きな冬のはじめの山の中に、
あなたと二人静かに燃えて手を組んでゐるよろこびを、
下を見てゐるあの白い雲にかくすのは止しましせう。
以下詩は続くが省略する。
冬の小春日和、二人は、智恵子の実家の見える裏山の崖の上で、言葉少なに阿多々羅山や阿武隈川を見入っている。手を組んだ智恵子のぬくもりが、遠い過去の幸せだったその日を忘れさせないでいる。
 レモン哀歌
そんなにもあなたはレモンを待ってゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとった一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱっとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑う
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉に嵐はあるが
かういう命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓でしたような深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まった
写真の前に挿した桜の花かげに
レモンを今日も置かう

 レモンと死、それは智恵子の清純な心を連想させるとともに二人のこの世のわかれにふさわしい荘厳な高貴な香りを漂わせている。看取る光太郎のやさしさがかなしく伝わってくる。
  

Posted by okina-ogi at 18:10Comments(0)日常・雑感

2012年10月07日

『厚生労働白書』(24年版)を読む(3)―P・68

支給される保護費のイメージ
高齢期になって、少ない年金で暮らしている人は多いと思います。月額3万円で一人暮らしをするといったら、ほとんど食べるだけの生活になって、社会活動もできません。日本国憲法第25条が定める「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」は保証されません。最低生活費が示されています。地方高齢者単身世帯(68歳)だと62,640円とあります。年金が月額3万円であれば、32,640円が申請すれば支給されることになります。しかし、そんな簡単な話にはなりません。換金できる資産がある場合は、生活保護とはなりませんし、健康的に問題がなく働くこと可能であり、職業を選ばなければ就職が可能な場合は、支給されないでしょう。高齢になれば職探しは困難でしょうが、健康であれば働いて賃金を得ることは精神的にも健康を維持できます。
生活保護の支給を受けることは人生の敗北だ。世間体も悪い。そのように卑屈になることもありません。健康不安があり、何度もハローワークに足を運んでも就職できないという状況では、生活保護を受けながら、引き続き仕事を捜すということは、決して不正受給ということになりません。
  

Posted by okina-ogi at 08:23Comments(0)書評

2012年10月06日

『厚生労働白書』(24年版)を読む(2)

国民年金の未納が増えると年金制度が破たんする?―P・56
それは、大きな誤解だと書いてあります。その理由として、厚生年金加入者(3,441万人)、共済組合加入者(442万人)は、未納者はおらず、第1号保険者(1,938万人)のうち未納者は、321万人で全体の5パーセントに満たないからだというのです。この人達は将来年金が小額になるか受給できないから年金財政に支障はないというのです。そうでしょうか。321万人という数字は、現在の生活保護者の数を上回っています。生活保護費は一律ではないにしても、未納者が国民年金の満額以上だとすればおかしな話です。「働かざる者食うべからず」とは申しませんが、20歳から60歳までの加入期間の間に、申請免除を受けながらでもできる限り、納入しておくべきでしょう。所得が少ない人に生活ができない金額を要求しているわけではないのですから。この国民連帯の理念、社会保障の仕組み、考え方は、中学生あたりで教えても良いのではないでしょうか。
  

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2012年10月05日

『厚生労働白書』(24年版)を読む

社会保険と民間保険の違いは? -P・41
「あなたは、社会保険派ですか?それとも民間保険派?」
どちらが良くて、悪いという話ではありません。社会保険は強制加入ですが、民間保険は、任意加入が原則です。一部に例外がありますから。この背景には、法律が根拠になっている社会保険と契約が根拠になっている民間保険の違いがあります。社会保険は、社会的妥当性を原理にしていますので、公費補助(原資は税金)があります。日本という社会や、国民相互の信頼感があれば、社会保険はうまく機能するでしょうが、現代は、不信感が若者の間に多いようですね。年金は、賦課方式で長い年月(100年)に渡り運用されるので責任の所在、運営の展望が曖昧になりやすいからでしょうか。ただ、保険は、集団が大きいほどリスク回避ができるともいえますね。
  

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2012年10月04日

日野原重明先生101歳誕生日おめでとうございます!

平成24年10月4日は、日野原重明先生の101歳の誕生日です。ある方から「生き方上手」手帳をいただき、友人に電話しようと手帳を取り出し気付きました。医者で長寿。天寿ということもありましょうが、有言実行ということも言えます。2年前、群馬県桐生市で講演会を聴きました。

白寿のクレッシェンド
 生涯現役がまさに当てはまる人物が日野原重明である。明治四四年(一九一一年)の十月生まれというから、今年(二〇一一年)の十月で百歳になる。睡眠時間は、一日四・
五時間で、数年先まで仕事のスケジュールで埋まっているという超多忙な生活を送っている。健康に恵まれなければ、できない生き方であることはもちろん、知的能力や人間性においても衰えを知らない。著書も多数あり、『生き方上手』は、ベストセラーになった。九〇歳の時の著作だから驚かされる。更には、童話『葉っぱのフレディ』をミュージカルにして公演したりするマルチぶりである。ピアノは若い時、音楽家を志望したこともあり、音楽に造詣が深くピアノを趣味にしている。
 数多い役職を持ち、医師としても緩和ケア病棟で癌患者を診ている。中でも、情熱を注いでいるのが、「新老人の会」の活動である。その群馬支部のフォーラムが、一月一四日、桐生市の市民文化会館で開催された。車で会館には、開演一〇分前に着いたが、駐車場は、既に満車で、臨時駐車場に案内されたが、駐車できるスペースを探すのに苦労するほどの人気である。ホールの席は、ほとんど埋まっていて後方で立ったままの聴講となった。
 日野原重明は、長く聖路加病院に勤務した。院長や理事長になってから、聖路加病院の近代化に経営手腕を発揮したが、二つの大きな社会的事件に遭遇している。一つは、一九七〇年に起きた「よど号ハイジャック事件」である。その時、日野原は、福岡で開催される日本内科学会に出席するために同機に搭乗していた。無事解放されたが、生かされた命を強く意識し、その後の人生観を支配した。もう一つは、一九九五年に起きた「地下鉄サリン事件」である。近くにある、地下鉄築地駅から多くの被害者が移送され、病院に収容し、適切な医療処置により多くの命を救った。病院を新改築するにあたって、震災などの大災害を想定し、非常時のために、礼拝堂や廊下も医療に対応できるように建築してあったことが、こうした対応を可能にしたのである。日野原の先見性でもあるが、命の重さを人生の最大のテーマとしていた日野原だから決断できたことである。この事件では、日野原は陣頭指揮にあたっている。
 この事件から数年後の一九九八年に、私が勤務する法人の機関紙の巻頭言に原稿依頼をしたことがあった。「プライバシーと交わり」というタイトルで、自筆原稿をいただいた。内容は、老人施設の個室化に賛同する内容で、日野原自身も、日本財団の助成を受けて、全室個室の老人施設を実現している。日野原重明は、著名な医療界の重鎮ではあるが、各界の著名人との人脈もあり、聖路加病院の事業ばかりではなく、社会的に求められる事業の企画に募金を呼び掛け実現している。富士山の見える、ゴルフ場の一角に癌の末期患者のホスピスを開設したことは良く知られている。総額十五億円というから、大事業である。寄付集めの名人といったら失礼な言い方だが、この人が寄付を呼び掛けるなら協力しようという雰囲気が日野原にはある。この日の講演会は、寄付を目的にした講演会ではないが、講演料や自著の売り上げは、自ら「新老人の会」に寄付するのだろうと思った。聖路加病院の理事長は無報酬だったと聞く。人は、社会のために、そして自らが率先して範を示すのでなければ、簡単に寄付などには応じないものである。
 日野原の講演は、一時間以上に渡ったが、椅子に腰掛ける(椅子は用意されていない)こともなく立ったままのものであった。マイクはもちろん使用しているが、ハリのある声である。内容も、老年期の生き方、命といった深いテーマ語っているが、自然体で難しい表現もない。時たまユーモアも交えるので、会場から笑いが絶えない。日野原語録はたくさんあったが
「僕のこれからはクレッシェンドです」
という言葉が印象に残った。
楽譜の記号で、この先、音が大きくなるようにするという意味である。
 死というものは、必ず訪れる。その死を憂いて保守的になるのが、多くの人の老後の生き方なっているように思う。日野原の生き方は、常に新しい環境に身を置き、チャレンジしている。そのために、健康にも気を使っている。医者の不養生という言葉は、この人には当てはまらない。食事は、少食で、朝と昼は軽く、昼食は牛乳とビスケット二枚で空腹にならないという。夕食は多めに摂ると言ってもそれほどの量ではない。まるで仙人のようであるが、医学的裏付けがあってのことである。どうして、このような超人的な高齢者としての生き方ができるのであろうか。日野原が著書で述べていることから推測すると、若い時に結核などの大病を経験したことや、信仰によるのであろう。父親は、牧師であったこともあり、日野原は、日本キリスト教団に所属する信者である。人は生かされ、命は神が取り去り給うものだということが、確信になっているのだろう。文化勲章も受章しているが、日野原のような人生をなかなか誰もができるものではない。この人は、歴史に名を残す存在だと思った。本を一冊購入したのだが、講演後サインをしてくれた。握手の手は柔らかく温かかった。日野原の人柄そのもののように感じた。
  

Posted by okina-ogi at 20:59Comments(0)日常・雑感

2012年10月04日

法律門外漢のたわごと(厚生年金基金)

厚生年金基金が将来廃止の方向で考えるという方針が、厚生労働省から発表されました。この厚生年金基金というのは、大企業、あるいは同業者などが共同設立し運営し、厚生年金に加えて、企業年金として支給する制度です。最近、投資会社が不適切な運用で、多額の損失を出し、社会問題になりましたが、低成長時代が長く続き、運営がうまくいかない基金が増え、その数は600を下回りました。
廃止するという方向は、あってもかまわないのですが、厚生年金基金は厚生年金の一部を代行しており、この不足分は穴埋めして、満額の厚生年金が支給されるようしなければなりません。その穴埋めができないので、厚生年金の積立金や税金でまかなうようなことになったら問題です。企業年金の部分の支給も給付が保証されているとしても、減額して支給するしかないでしょう。JALや東電の支給状況の現況は知りませんが、税金で救済するということはないでしょう。
  

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2012年10月03日

法律門外漢のたわごと(国民年金②)

国民年金の納付率が、60パーセント台と今だに低水準にとどまっています。若者の就業率が低かったり、給与が低いなどいろいろな理由が考えられますが、遠い将来よりも今をどのように生きるかに関心がいくものです。携帯電話の使用料の方が、国民年金保険料の納付より優先することになるのでしょうが、国民年金は強制加入ですから、本来なら逆でなければなりません。10月1日から、3年間の時限立法で、国民年金の「後納制度」が施行され、10年前まで遡って未納の保険料を納入することができることになりました。借金がなかなか返せないように、納付する人が多いとは想像できませんが、お金があるなら、納付してほしいと思います。国民年金は、国民連帯の精神でやっているわけですから。親に頼ることもいたしかたないかもしれませんが、親も老後の生活がありますから、親子といえども立て替えたということです。所得のある人は、公的年金ですから税の控除の手続きしておきましょう。  

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2012年10月02日

心に浮かぶ歌・句・そして詩32

金色の小さき鳥のかたちして銀杏散るなり夕日の岡に

与謝野晶子の歌だが、素直に秋の情景を詠っていて好きな短歌である。有名な彼女の歌には、明治の人には、赤裸々過ぎる女の情念のようなものを詠ったものが多い。たとえば、

やわ肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君
鎌倉やみほとけなれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな
清水へ祇園をよぎる桜(はな)月夜今宵会う人みな美しき

与謝野晶子は、堺の商人の家に生まれた。歌人、与謝野鉄幹に嫁ぎ、多くの子も成した。人生そのものが情熱的である。次の詩は、天皇制であった時代に、大胆な内容になっている。反戦歌である。

あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ
  

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2012年10月01日

霧と話した

心に浮かぶ歌・句・そして詩31
詩と曲、どちらが先かという話があるが、どちらもあるようである。作曲家、中田喜直は、父親である「早春賦」を作曲した中田昌に劣らず、数々の名曲を残している。「夏の思い出」や「雪の降る町を」は広く知られているが、芸術歌曲といわれるジャンルでも、名曲がある。加藤周一が作詞した「さくら横ちょう」もその一つだが、別宮貞雄という人の曲もある。この場合は、詩が先にあったということになる。
鎌田忠良の作詞「霧と話した」も中田喜直が作曲しているが、詩も良いがメロディーが勝っているような気がしてならない。

「霧と話した」
わたしの頬は ぬれやすい
わたしの頬が さむいとき
あの日あなたが かいたのは
なんの文字だか しらないが
そこはいまでも いたむまま

そこはいまでも いたむまま
霧でぬれた ちいさい頬
そこはすこし つめたいが
ふたりはいつも 霧のなか
霧と一緒に 恋をした
  

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