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2012年11月30日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑦)

 「1か月単位の変形労働時間制」を採用している職場で、年末年始の休みを廃止して、所定休日を、法定休日の9日としたところ、営業日ではない日に年休を当てないと、出勤日になってしまう状況になりました。勤務表は12月16日から1月15日までですが、
 この職場は、土曜日と日曜日は、銀行や役所との関係もあり、原則休むようにしています。ただ、土曜日については、「1か月単位の変形労働時間制」を採用しており、出勤して仕事をしても良いし、年休をとってもかまわないことになっています。ところが、12月1日に採用された職員がいて、6か月後まで年休がありません。
 そこで、9日の所定休日を、12月16日から1か月間の勤務表に割り振ってみたのです。①16日(日)②23(日)③29(土)④30日(日)⑤31日(月)⑥1日(火)⑦2日(水)⑧6日(日)⑨13日(日)という休みとなりました。年末年始は、29日から3日までなのですが、所定休日になっていないので年休を当てなければ欠勤になってしまいます。
 29日から1月の2日まで年末年始に近い休みを取るように直前変更して勤務することになりましたが、16日からの1週間、6日からの1週間は週6日の勤務になってしまいました。新人職員の試練のような年末年始となりました。それに、12月24日は天皇誕生日、1月14日は、成人の日の振替休日です。先輩職員がほとんど休む中、3日間は1人の出勤です。「年末年始は、会社の休み(所定休日)にしてください」という声が聞こえてきそうです。
  

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2012年11月29日

法律門外漢のたわごと(雇用保険法⑥)

 60歳を超えて退職した場合のことです。退職した人が、厚生年金の受給権がある場合、雇用保険の基本手当の給付を受けるか、厚生年金の受給を開始するか選択するようなケースが考えられます。例えば、昭和26年生まれの女性が、20歳から独身で厚生年金の適用事業所に勤務し、能力を買われ、高い報酬を得て63歳で退職した場合、基本手当の給付を受けるより、年金を受給した方が有利な場合があります。
 昭和26年生まれの、女性は、63歳から、老齢厚生年金にあたる比例報酬部分と老齢基礎年金にあたる定額部分を受給できる場合があります。その金額が20万円だとしますと、基本手当が16万円だとすれば、課税、非課税という条件で計算しても年金を受給する方が良いということになります。失業給付にあたる基本手当と老齢厚生年金にあたる比例報酬部分と老齢基礎年金にあたる定額部分は併給されずこのようなケースが生じることになります。
 しかし、このようなケースは少ないと思うし、健康に問題がなく、勤務能力にも問題がなければ、65歳までは勤務した方が良いと第三者は考えますね。
  

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2012年11月28日

法律門外漢のたわごと(労働安全衛生法①)

 社会保険労務士の試験でこの法律ほど興味がわかない法律はないというと、あなたは試験に受かっても社会保険労務士の資格がないと言われてしまいそうです。建築現場や、危険な薬品を扱う会社では職場の安全衛生は事業の死活問題になるからです。しかし、何度読み直しても、頭に入ってこないのはどういうわけでしょうか。社会保険労務士の仕事は、実務が大半です。体で覚えるということに近いものがあるのでしょう。

 実際にやって知っていることと、ただ知識で知っていることの違いですかね。私も、講釈は言うが、実務ができない人間の部類に入るかもしれません。法律門外漢などと、斜に構えているうちは、法律で飯が食べられないかもしれませんね。試験で不合格の通知が来るたびに、社会保険労務士の仕事は、本来性に合ってない。それに良く考えてみれば、厚生労働省のお役人の下働きのような仕事じゃないのかという不遜な考えもわいてきますが、それは苦し紛れの言い訳というものです。
 
 しかし、この法律には親近感がわかない。それを克服した時に試験に合格する、そんな夢を見そうです。「ジクロルベンジシン、黄りんマッチ」いったいどんな物質でございましょう。
  

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2012年11月27日

一生懸命ということ

一生懸命ということ

「一生懸命に働く」というふうに使われる〝一生懸命〟の語源は、「一所懸命」であり、鎌倉時代と強い関わりのある言葉だと何かの本で読んだ記憶がある。農民が耕した土地、それを守る武士等に土地の所有権を保障してくれる政権が鎌倉幕府だというのである。だから人々は、一所で懸命に働くことができたというのである。
 
朝廷に刃を向けることになった時、北条政子が頼朝を支えてきた御家人に「頼朝公の恩」と言ったのも父祖伝来の領地の保障のことである。我が国は、稲作が開始されたとする弥生時代より米によって国を支えてきた。奈良時代から平安時代にかけて、土地は国から一部の特権階級の所有する荘園に移り、平安後期には、武士が土地管理に力を持つようになった。農民からすれば、支配者が変わっただけのように見えたが、安心して働けるような環境の中で労働意欲も生まれてきたかもしれない。依然として下層階級のままではあるけれども。
 
平安貴族より武士の方が農民の身近に住み、役割分担は異なっても、ともに一つの土地に生きるという意識で繋がったのだろう。支配者であるが、農民の労働条件を配慮した、武士もいただろうと思う。その結果お互いに豊かに過ごすことができたかも知れない。しかし、いかほどにその土地から富が生み出され、また開拓によって新しい土地が生まれたとしても、その所有権が確保されていなければ意味がない。
 
荘園領主が寺社や貴族であったりする時、農民にとっては見たことも聞いたこともない存在に感じていたことは容易に想像できる。領主からすれば、農民の労働の汗など想像もしないであろう。こういう人々を〝大宮人〟というのである。農民がいなければ食することができないという最も基本的なことを意識下にして、蹴鞠や歌の雅の世界に興じている。あるいは、政略により地位の保身を図っていたりする。領主が武士になった時、農民に心を配ったかは別にして空間を近くにしたことは大きい。これが、鎌倉時代の表面である。
  

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2012年11月26日

仕事について考える

仕事について考える
 生涯現役ということが理想だが、肉体と精神の衰えは必ず来る。どこで、現役を離れ、労働という場を去るかは、客観的な基準が必要だというのが、社会の常識になっている。定年退職年齢とか、年金開始受給年齢というのが目安になるが、実際はその人にとって、仕事ができる能力が心身ともにあるかということである。

政治家にも出処進退は自分で決めるということが良く言われる。もちろん選挙民から当選させてもらう審判があることが前提である。企業という組織で考えれば、自明なことがある。働くとは「傍を楽にすることである」という名言を教えてくれた人がいた。まさにそのとおりであって、いつまでも職場に固守することも、職場の士気を落とすことになる。鈴木大拙の言葉は、至言である。
 
「一人は米を食べる人、いま一人は米を作る人、食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも具体の事実に即して生きる。霊性は具体の事実にその糧を求めるのである。浄白衣では鍬はもてぬ、衣冠束帯では大地に寝起きするに適せぬ。鍬を持たず大地に寝起きせぬ人たちは、どうしても大地を知るものではない。大地を具体的に認得することができぬ。知っていると口でも言い、心でもそう思っているであろうが、それは抽象的で観念しかない。大地をそれが与えてくれる恵みの果実の上でのみ知っている人々は、まだ大地に親しまぬ人々である。大地に親しむとは大地の苦しみを嘗めることである。ただ鍬の上げ下げでは、大地はその秘密を打ち明けてくれぬ。大地は言挙げせぬが、それに働きかける人が、その誠を尽くし、私心を離れて、みずからも大地になることができると、大地はその人を己がふところに抱き上げてくれる。大地はごまかしを嫌う。農夫の敦厚純朴は実に大地の気を受けているからである。古典の解釈にのみに没頭している人は、大地の恵みと米の味わいとを観念的に知っているだけである。絶対愛の霊性的直覚はかくの如き観念性の下地からは芽生えはせぬ」

 文化を生みだす労働とは耕すことができる人である。それが、できなくなったら、逍遙として日々を生きればよい。出処進退は、自ら判断することである。肩書きでは、人は、本来食べられない。
  

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2012年11月26日

金子みすずの詩

心に浮かぶ歌・句・そして詩58
 

 旅のメインは、青海島めぐりであるが、仙崎の地は、若くして世を去った金子みすずの生地である。昭和の初期、無名の詩人の詩才を西條八十は認めた。西條八十は、大正、昭和にかけ童謡,歌謡詩界をリードした。みすずの「大漁」の詩は、岩波文庫の日本童謡集にも収録されている。「積つた雪」の感性に、みすずの人柄が良く顕われている。
  
「積つた雪」
上の雪
  さむかろな。
  つめたい月がさしてゐて、

  下の雪
  重かろな。
  何百人ものせてゐて。

  中の雪
  さみしかろな。
  空も地面(じべた)もみえないで。

 雪をわが身に置き換えている。
  いくたびか雪の深さを尋ねけり
               子規
 の気分もわかるが、自他の別がみすずの世界には希薄である。
  ぬかるんでいつしか雪の暖かさ
 
という句はどうであろうか。
 自然と人間の対立のない世界を日本人は古来から意識してきた。大木とうっそうとした森に囲まれた神社の静寂な空間に身を置く時、そんな気分になることがある。
 数学者で文化勲章を受章した岡潔は言う。
  自分は自分という名の自分 
  他人は他人という名の自分
  自然は自然という名の自分
  それが意識できる人を日本民族という。
 
 少し哲学的な表現であるが、みすずの詩の世界に通ずるものがあるような気がする。一方、「積つた雪」の詩に冬の厳しい風土を想像できない。北陸から東北、北海道へと日本海を北上すればこうした詩が生まれてこないかもしれないとも思う。山陰長門仙崎の街は、それほど厳しい冬ではないのだろう。そうした分析の前に、みすずの精神性が、雪にでも寄せる優しさを内包しているということなのであろうか。それは、逆にみすずの人として満たされない日々の寂しさと無関係ではないともいえる。
  

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2012年11月24日

「中国 王朝の至宝」(2012年11月)

古代を覗く
 
 上野の森にある東京国立博物館で、特別展として「中国 王朝の至宝」が開催されている。日中国交正常化四〇周年を記念して開催されたのであるが、尖閣列島の所有問題で、両国の間に暗雲が立ち込めたが中止にならなかった。中国は、四千年の歴史があるという。最初の王朝である「夏」から数えているのであろう。最近、発掘により、「夏」の存在が明らかになってきた。
 
 上野公園の木々は紅葉が丁度よい。銀杏の黄葉が見事である。東京美術館では、「ツタンカーメン展」があり、すっかり古代文明の展示会オンパレードとなっている。東京国立博物館の本館では、古事記一三〇〇年を記念して「出雲 聖地の至宝」の特別展が同時開催されている。国立博物館のパスポート会員は、両方とも無料で鑑賞できる特典が与えられているので、十一月二十三日の祭日を利用して、日本、中国の古代を覗いてみることにした。「出雲 聖地の至宝」の特別展は会期が迫っていて、順番待ちになっている。それに反し、「中国 王朝の至宝」の特別展は、一か月先まで会期があり、それほどの混雑はない。
 
 中国大陸には、二度行ったことがあり、国内でも中国展を数回見ているのでそれほど目新しさを感じないのであるが、漢字という文字を持ったことの大きさを、中国の歴史の何にも勝る「至宝」と思えた。殷の時代の甲骨文字、爵や鼎といった、はるか古代の容器、兵馬俑に埋められていた兵士の像、唐三彩の陶器、などは始めて見るものばかりだが、それほど驚きの目でみるという感じではなかった。北宋の「阿育王塔」は、釈迦の生涯を側面に描いていると解説にあったように思うのだが、金のメッキと宝石が埋め込まれ、一メートルの高さがあり、見応えがあった。本邦初公開ということで、なおさら来館者の目を釘付けにしていた。ツタンカーメン像を見たような気分になれた。
 
 現在、中国との関係はギクシャクしている。あのように大きな国が、人の住んでいない小さな島の所有権を主張して、日系企業の焼き打ちまでしている。現代の中国は、自己中心的で、徳もない小人の国家に見えてならないが、漢民族を中心とした他民族国家という背景は理解できなくはない。国家統一ということは、四〇〇〇年の歴史のテーマになっている。しかし、日本も多くの文化を中国に学び、漢字を使わせてもらっている。その親近感は沁みついている。この文字がなければ『古事記』も書かれなかった。出雲の特別展にはあえて触れないことにする。
  

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2012年11月24日

若山牧水の歌

心に浮かぶ歌・句・そして詩57

若山牧水は、酒を愛し、旅を愛した大正の歌人である。
 
幾山河 こえさりゆかば寂しさの
        はてなむ国ぞけふも旅ゆく

正直に「淋しい」と言っている。また
 
白鳥はかなしからずや空の青
        海のあおにも染まずただよう
「淋しい」とは言っていないが、「かなしい」と言っている。気分はそれほど変わっていない。
大正時代は、第一次世界大戦もあったが、日本の国が大きな戦争の当事者になったり、その渦中に呑みこまれたわけではない。大正デモクラシーという言葉があるが、政党政治も機能し、言論の統制もきつかったわけでもない。日露戦争から、昭和の十五年戦争の間にあって、ちょうど冬の中の小春日のような時代であった。
しかし、人々の心は淋しかった。なぜか、ということだが、若山牧水の〝白鳥の〟短歌が象徴的であって、自他が対立している。それは、個人(白鳥)を強調するからである。我が、我がを前面に出せば、思い通りになっているときは良いが、いつかは淋しくなる。おおいなるもの(大我)に抱かれ個人(小我)を抑えるのが、本来の日本民族の心の伝統では、ないかと思う。
  

Posted by okina-ogi at 08:14Comments(0)日常・雑感

2012年11月23日

高野辰之の「紅葉」

心に浮かぶ歌・句・そして詩56


 素晴らしい詞や、童謡の調べが生れたのは、長野の自然の豊かさもさることながら、田園や山河と暮らしてきた日本人の心を良く残していたからであろう。絵で言えば週刊新潮の表紙絵を書いた谷口六郎、きりえ作家の関口コオの雰囲気の中にも共通したものを感じる。近代化とともに、日本的な田舎の風景は失われつつあるが、山々の緑は今も昔も変わらない。群馬県と長野県県境にある碓氷峠には、高速道路が走っているが、淡い緑の中の山桜が実に美しかった。

あれを見よ 深山の奥に花ぞ咲く 真心つくせ人知らずとも

という古人の歌があるが、まさに日本的な心を伝えている。今は、春だが高野辰之の「紅葉」は碓氷峠あたりの秋の風情をスケッチしたものだと言われている

「紅葉」
 秋の夕日に 照る山紅葉(もみじ)
濃いも薄いも 数ある中に
松をいろどる 楓や蔦は
山のふもとの 裾模様

渓(たに)の流れに 散り浮く紅葉
波に揺られて 離れて寄って
赤や黄色の 色さまざまに
水の上にも 織る錦
  

Posted by okina-ogi at 18:17Comments(0)日常・雑感

2012年11月22日

『鈴木三重吉童話集』

『鈴木三重吉童話集』  勝尾金弥編  岩波文庫   定価570円

 



 日本の童話作家の草分けのような人物である。それ以前に、巌谷小波という作家がいた。ともに、小説家から童話作家に転身した。以前から、鈴木三重吉の童話は読んでみようと思っていたところ、古本市(バザーの出店)で発見した。値段は、50円である。表紙は、新品に近いが、ページを開くとだいぶ黄色みがかっている。1996年の発行になっている。

 鈴木三重吉の名が残っているのは、大正7年に『赤い鳥』という雑誌を発行し、子供達に、質の高い童話、童謡、童画を当時の一流の芸術家を巻き込み、提供したことによる。大いに受け入れられ、芸術運動ともなった。大正デモクラシーの象徴的な出来事のひとつである。この『赤い鳥』に参加した、芸術家の顔触れは、作家では、芥川龍之介、有島武郎、小川未明、童謡では、北原白秋、西条八十、作曲では成田為三、山田耕作、本居長世といった錚々たるメンバーである。今日では、西の宮沢賢治とまで、賞賛されている当時無名作家に近かった、新美南吉の童話も載せ、世に出している。

 『鈴木三重吉童話集』には、美しいお姫様が出てきたりして、子供に戻った気分になって楽しく読めるのだが、童話ではない作品が、最後に収められている。「大震火災記」という題名で、関東大震災のことが克明に書かれている。昨年、東日本大震災を経験したばかりなので、当時の状況と今日が良く比較できる。首都が壊滅状態になり、10万人以上の人が亡くなり、地震と火災で多くの家屋が倒壊、焼失した。当時の計算では国の財産の10分の1を失ったと書かれている。日露戦争の戦費の5倍ともいう。各国の支援があったことも書かれている。こんな大災害から20数年で、戦争を起こしまたしても、日本中の大都市を焦土にした歴史が信じられない。そして、今日のように復興したことも。50円にしては、充分なほどの知識が得られた。
  

Posted by okina-ogi at 05:58Comments(0)書評

2012年11月20日

新島八重の歌

心に浮かぶ歌・句・そして詩55


  新島襄の妻は、会津藩士の娘である。兄、山本覚馬も新島の良き支援者になった。女の見ながら、会津城にたてこもり、官軍と戦った武勇伝の持ち主である。名前を八重と言った。籠城の時、壁に書きしるしたという歌が残っている。
 明日よりは何処の人か眺むらん
       なれし大城に残る月影
また、小指を噛み切って、その血で書いた辞世の漢詩も八重の作ではないかと言われている。そのことを後に問われると、微笑するだけで答えなかったが、彼女の小指は短かったらしい。
 来年の、NHKの大河ドラマは、新島八重が主人公になるらしい。どのような女性に描かれるのか楽しみである。
  

Posted by okina-ogi at 19:49Comments(0)日常・雑感

2012年11月20日

新島襄海外渡航の碑

心に浮かぶ歌・句・そして詩54
新島襄の海外渡航の地には碑が建てられている。海上自衛隊の函館基地の近くにある。向かいには人工島らしき島がある。碑は、一九五四年に同志社大学が寄贈、函館市が建立したものである。漢文が刻まれている。
 男児決志馳千里
 自嘗苦辛豈思家
 却笑春風吹雨夜
 枕頭尚夢故園花
新島襄には志があった。新島襄ばかりでなく幕末の人々の中には志を持つ人が多かった。志士と言われる人々で、文字通り武士階級に生まれている。初めは、尊皇思想に惹かれた痕跡があるが、渡航後は、キリスト教の神になった。その根本には至誠という資質があるように思うのである。国を思い、家族を思い、国民を思う。どこに重点を置くかは別にして、自分を後にする精神では一致している。加えて命がけということがなければ、志という精神は生まれてこない。その志に人々が共感するのは、至誠の精神があるからである。死の直前に詠んだ漢詩にもその精神が読み取れる。
歳を送りて悲しむを休(や)めよ病羸(びょうるい)の身
鶏鳴早く已(すで)に佳辰を報ず
劣才縦(たと)え済民の策に乏しくとも
尚壮図を抱いて此の春を迎う

  

Posted by okina-ogi at 07:49Comments(0)日常・雑感

2012年11月19日

花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき

心に浮かぶ歌・句・そして詩53
 林芙美子は、その波乱に富んだ幼少、青年時代を門司と下関に住んだ。その後、尾道に出ることになる。
  
花の命は短くて 苦しき事のみ多かりき
 
あまりにも有名な芙美子の呟きである。
俳優、森光子が亡くなった。92歳の長寿と、俳優という職業を生涯現役として貫いた稀有な人である。残念ながら2017回に及ぶ「放浪記」は観劇できなかった。杉村春子さんの「女の一生」はみる機会があった。長い下ずみの生活と人々の脚光を浴びる人生と何の違いがあるのだろうか。森さんは、戦後しばらく高崎で働いていたことがあるらしい。
彼女の人生のひとコマである。要は、自然体で演じることができる役者さんだったのだろう。ご冥福を祈ります。

  

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2012年11月18日

清く、貧しく、美しく

心に浮かぶ歌・句・そして詩52
「清く、貧しく、美しく」という言葉がある。しかし、こうした生き方はなかなかできるものではない。古今東西、多くの宗教者がそれを目指し、人類の心の平安を願って実践してきたのであろうが、大衆の心に刻まれるまではいかない。そうした宗教者は、既存の宗教組織の中で、糧を得ながら生きているし、破天荒とも言えるような生き方をする必要もない。先人の教えを忠実に守り、現世のしがらみの中に生きていく。それは、それで立派な生き方である。カソリックの中での、聖人の基準は詳しく知らないが、フランチェスコという、イタリアの小さな町に生まれ、イエスキリストの教えに忠実に生きた人物には、聖人だからということ以外に惹かれるものがあった。
 
フランチェスコの青年時代までの生き方は、世の多くの人々と少しも変わっていない。むしろ、富裕な商人の息子として、仲間と遊び呆けていたとも言われている。ある時は、騎士階級になろうとして戦争にも参加している。そうしたフランチェスコが、どうして一八〇度変わった生き方ができたのであろうか。
 

アッシジにある聖フランシスコ大聖堂には、ジョットーの描いた壁画によって、フランチェスコの生涯を知ることができる。その中で、司教裁判所の前で、全ての衣を脱いで父親に返すフランチェスコが描かれている。父子の縁を切る場面である。相続権を放棄し、「天にましますわれらの父」を父とするのである。ペルージャとの戦いで捕虜となり、病気にもなった彼は、生死の問題を深く考えるようになるのだが、騎士になる願望は捨てきれないでいた。しかし、その夢も諦め、熱病に苦しめられることもあって、ハンセン病の患者を世話したりして信仰心が芽生えていく。フランチェスコの回心が決定的になったのは、ダミアノ教会のキリスト像を前に祈っていた時のことだと言われている。キリストの像は彼に語りかけた
「崩れ落ちる私の家を建て直してくれ」
家の財産の一部を教会に寄付したことが父親に知られることになり、このまま、フランチェスコに相続権があったのでは破産すると考えた父親は裁判所に訴えるのであるが、フランチェスコが自らその権利を放棄する決意をしたのである。
 

 財産(フランチェスコが築いたものではなかったが)、名誉(騎士になって美しい妻を娶り、多くの召使と城に住む)を捨てて、キリストの僕となり、清貧の道を歩むことになったのは、病と戦争を深く思索したからであったと思う。彼に深い神学の素養と蓄積があったわけではないが、キリストの生き方と言葉を素直に受け止められる感性があったからだとしかいえない。その極まりは、キリストが十字架に架けられて受けた傷が、自分の体に現れたというのである。聖痕である。このことも奇跡のひとつであるが、フランチェスコならではの伝承である。
 

 彼が創った「太陽の歌」という詩がある。その詩の中で、自然との対話ともいうべき表現の中に神を見ている。太陽、月、風、雲、水、火、大地。西洋文化の中では、キリスト教といえども、人が主で自然は従である。自然は、人が支配しても良いと多くの人が考えていた。小鳥に説教したフランチェスコのジョットーの壁画が聖堂の入り口近くにあったが、この人ならできただろうと思えた。メシアンという作曲家が、それを題材にして曲を作ったことを、ピアニストの藤井一興氏から教えられたことを思い出した。
 「太陽の歌」は、長いのであるが、詩の最後は死との対話である。

主よ、ほめたたえられよ、
姉妹なるからだの死のために。
生きとし生けるもの、なにびとも、
かの女からのがれ得ない。
災いなこと、大罪のうちに死ぬ人。
幸いなこと、あなたの聖なるみ旨を行う人、
そは、第二の死は、
かれをそこなうことなきゆえに。

主をほめたたえ、祝福せよ。
主に感謝をささげ、
深くへりくだって主に仕えよ。
 
 彼は詩人でもあったと言える。日本人のように俳句という手法を知っていたら句も作り得たかもしれない。しかし何より行動の人だった。クララだけでなく、時を越えて、マザーテレサも彼の道に従った人なのだろう。
  

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2012年11月17日

『サテライト』  富岡賢治(現高崎市長)著  

『サテライト』  富岡賢治(現高崎市長)著 高崎都市戦略研究会 1000円

発行日は、平成23年1月30日となっている。著者が、高崎市長になる直前の発行である。友人から頂戴したのである。高崎市長選は、激戦だった。結果は、富岡氏が市長に当選した。高崎市の市長が富岡市長になった。高崎市に隣接して富岡市がある。なにやらややこしいが、文部官僚から、群馬県立女子大学の学長を歴任した立派な経歴の市長である。
群馬県立女子大学の学長時代にラジオ高崎でトーク番組を担当していた。それを活字にしたのが本著である。教育関係は、御専門だから御高説を賜ることにして、どんな御人柄なのかという点に興味が行く。東大法学部、文部省の局長、頭脳優秀であることは疑う余地がない。何度か、集会で御尊顔を拝し、お話を聴いているが、温厚な感じを受ける。著書というものには、小説家は別だろうが、抑制しても人柄が出るものである。ましてトークの内容を文字にすればなおさらである。富岡市長は、競馬もパチンコもやり、煙草も嗜むようである。麻雀もするらしい。ただ、学生時代と書いているので現在は、わからない。お酒は、どうだったか。お好きなようなら親近感がわく。そうした卑近なことを詮索するよりも、富岡市長が文化、とりわけ高崎市の文化に関心を持っていることである。確か、お兄様は、井上房一郎翁の設立した哲学堂の理事をされていて、一度お会いしたことがある。お会いできる機会があれば、御人柄がはっきりする。その時は、この本にサインをもらいたいと思っている。
  

Posted by okina-ogi at 08:06Comments(0)書評

2012年11月16日

『ちょっと一言』  五十嵐哲夫著 

『ちょっと一言』  五十嵐哲夫著 (株)ラジオ高崎  非売品

休みの日、少し本棚を整理しようとしていたら、この本が市販の単行本に隠れるようにしてあった。しばらく、どこにしまい込んでいたかと見つからずにいたのである。この本は、市販されていない。五十嵐哲夫さんが群馬銀行の役員をされていた頃に、群馬銀行の広報誌に連載したものを、友人である(株)ラジオ高崎の社長さんが編集出版したものである。教養と人生観、何よりも人間性が素晴らしく、勤務する法人の理事をしていただいていた関係もあり、贈呈していただくことができた。今は、故人となられてお話することもできないが、この本を座右の書として今後は机の近くに置こうと思っている。発行年月日は、2001・8・23となっていて、自筆のサインも入っている。書評などということでなく、著者の文章をそのまま掲載する。付せんが貼ってある部分でもある。

「優しさ」
若い女性に理想の男性像を聞くと、たいてい「優しい人」の一項目が入ってくる。北風に向かって歯を食いしばっているような男性は概して好まれない▼本当の「優しさ」とは何であろうか。「優しい」という字を分解すると「人」と「憂い」である。つまり人の憂いのわかる人が「優しい」のである。人間それぞれ多かれ少なかれ重荷を背負って生きているものである。他人の重荷、即ち「他人の憂い」のわかる人、相手の立場に立って考えられる人こそ真の「優しい人」なのである▼兼好法師は「身強き人を友に持ってはいけない」と言っている。自分の考えは絶対と思っている絶対正義論者ではいけないのである。相手の立場のわかるということは、相対正義論者でなければならない▼多くの取引先の理解を得る銀行員とは、真の「優しさ」を持っているものである。ある社長は「懐かしい銀行員がいる」と言っていたが、それは「優しい人」を指している。

他のページにも付せんがはってあって、その内容はエピソード風に紹介する。タイトルは「十字架」である。五十嵐さんが、社会党議員であり、連合赤軍事件の弁護士をした角田儀平治氏の葬儀に参列した時、長男の社会党代議士の義一氏が、ある会合で「これからみなさんといっしょに十字架を背負っていきましょう」と話したことを、父親に話したところ、「十字架は一人で背負っていくものだ」と叱られたという葬儀での挨拶を取り上げて書いている。実に鋭い指摘である。角田儀平治氏はクリスチャンでもあった。
  

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2012年11月15日

君看よや双眼の色語らざれば憂いなきに似たり

心に浮かぶ歌・句・そして詩51

君看よや双眼の色語らざれば憂いなきに似たり

この言葉は誰が言ったものか今だに分からないのだが、真実を得て味わい深いものがある。夏目漱石や芥川龍之介が好きだったという話もどことなく聞いたような記憶があるし、高校の大先輩で群馬銀行の会長をされた五十嵐哲夫さん(故人)の「優しさ」というタイトルで、ある機関誌に寄稿された文章の中では、良寛の言葉として引用されていたことを憶えているが、その確信もない。
そんなことを詮索するよりは、この言葉は西洋型個人主義(こんな言葉はないと思うが)の人には何を言っているのかわからないと思う。目は口ほどにものを言うということを日本人は良く知っている。情という心の働きは深いものがある。
  

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2012年11月14日

正岡子規のカリスマ性

心に浮かぶ歌・句・そして詩50

 子規の辞世となった句が三句ある。いずれも糸瓜の句である。
 
糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
 
痰一斗糸瓜の水も間に合わず
 
をととひの糸瓜の水も取らざりき

 満三五歳の直前となる、明治三五年の九月一九日の午前一時頃永眠した。明治一年が一歳になるので、明治の年の歩みと子規の歳は一致している。子規庵には、同郷の高浜虚子や河東碧梧桐といった俳人や、伊藤左千夫や長塚節などが足繁く訪れている。子規は親分肌のところがあった。若い時は、政治家になろうとしたことがあったらしいが、その素質は十分にあった。病床から短歌、俳句の後継者に影響を及ぼす子規のカリスマ性は、驚嘆に値する。

  

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2012年11月13日

漱石の俳句

心に浮かぶ歌・句・そして詩49

菫ほどな 小さき人に生まれたし

誰あらん、文豪夏目漱石の俳句である。俳句と言えるのかなと疑問符がつくが、漱石の句だからこそ意味深い。文壇にデビューした頃の句というから40歳に近い。漱石は、神経過敏な性格だったのか、イギリス留学時代は、神経衰弱に苦しみ、最後は、胃潰瘍が原因で50歳の生涯を閉じた。留学生は、明治の時代、超エリートだったが、自分は好きなこと(作家)をやって、人から先生とあがめられるような生き方は望まないということを俳句に表現したかったのかもしれない。

漱石は、四国松山で正岡子規に出会い、彼から俳句の面白さを教えられた。漱石の句集も岩波文庫で出版されて良い句が多い。しかし、この句は、毛色の変わった感じがしている。漱石にあやかったわけではないが、私も漱石調で一句詠んだものがある。

去来ほどな 小さき墓に埋まりたし

これでは季語がないので、「去来ほどな 小さき墓に雪積もる」とした。去来は、芭蕉門下の俳人で、京都嵯峨野に落柿舎という庵に住み、近くに墓がある。遠い昔、その墓を訪ねたことがある。
  

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2012年11月12日

啄木の初恋

心に浮かぶ歌・句・そして詩48
今年は、石川啄木が亡くなってから100年にあたる。7月、啄木の足跡を訪ねて、函館から彼の生まれた渋民を旅行し、紀行「馬鈴薯の花」を書いた。26歳の短い人生であったが、貧困と病苦の中、名歌を多く生みだした。日本歌曲の名曲として多くの人々に愛され、共感を与えているのが「初恋」である。作曲したのは越谷達之助である。晩年のテノール歌手奥田良三のコンサートで聴いたことがある。

初恋

砂山の砂に
 砂に腹這い
 初恋のいたみを
 遠くおもひ出づる日
 初恋のいたみを
 遠く遠く
 ああ ああ
 おもひ出づる日
 砂山の砂に
 砂に腹這い
 初恋のいたみを

啄木の短歌は、「砂山の砂に砂に腹這い初恋のいたみを遠くおもい出づる日」である。
  

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