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2012年11月11日

藤原京を行く(2012年11月)

 最近、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の研究』が出版され、読む機会があった。戦前の皇国史観からすると不敬罪に当たると告訴される原因を作った著書のひとつである。前書きを、東大総長だった南原繫が書いている。専門家でなければ分からない記述があり、極めて難解な著書である。博士の言わんとすることは、『古事記』や『日本書紀』が全て歴史の事実を語っていないということである。ただし、書かれている内容が、現代人からすれば不合理に見えても、当時の人々は、芯からそのように考えたということを想像しなければならないとも言っている。皇室の歴史的存在を否定しているわけではない。天皇制を批判したわけでもない。戦後は、早稲田大学の総長の依頼に対し固辞し、学究の道を続けている。文化勲章を受賞し、天皇制は、民主主義社会に適応できると、左翼的な人からは、変節したのではないかと批判を受けた。博士の考えは、戦前も戦後も一貫し、世に媚びることはなかったと言える。
 


『古事記』は、712年、『日本書紀』は、720年に編纂されている。今年は、『古事記』成立から一三〇〇年になる。近年、太安万侶の墓が特定された。哲学者の梅原猛は、『古事記』の編纂者は、藤原不比等だという新説を出しているが、都が藤原京にあった時代である。藤原京は、かなり広大で、大和三山を包み込むような広さがあるように想定されている。天武天皇は、壬申の乱後、飛鳥浄御原宮で即位したが、藤原京に遷都したのは皇后の持統天皇であった。この都も、710年に遷都され、わずか十六年間しか使用されなかった。政権が成熟安定するための遷都かと思うがめまぐるしい。『古事記』の完成には天武天皇の発案からだとすると、四半世紀以上の長きに渡って編纂されたことになる。大事業である。
 


 ローマ帝国の時代の史跡は、古い文献が残され、多くは歴史的建造物として説明できるし、紀元前の物も保存されている。石造建築ということがそれを可能にしているのだが、文字を持っていたことが大きい。中国の歴史も同じである。日本は、古墳が多く残されているが、その時代の書物はない。というよりは、記述するすべがなかった。正確な歴史書ではないにしても、『古事記』や『日本書紀』が、古代史の覗き窓になっているのである。



「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」
天智天皇、天武天皇の父君である舒明天皇の有名な国見の歌が、頭の片隅にあり、国見をしたと伝えられている天香具山に登ってみようと思い立ったのが、今回の奈良行きの動機になっている。還暦を過ぎ、これまで全国各地を旅してきたが、行き着くところは、日本の故郷ともいうべき奈良を年に一度は訪ねてみようと思うことである。その手引書は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』ということになるのだろうが、多くの先人が、登ろうとしても登れない山である。学問的に深入ることはできない。自分にできることは、ただ大和路を歩くだけである。
 


 十一月四日(日)の奈良公園は、多くの人々で賑わっている。正倉院展が奈良国立博物館で開催されている。第六十四回となり、昨年に続き鑑賞することにした。今年展示される宝物のメインは、瑠璃の坏(つき)と螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ)である。他にも、至宝の品々があるが、この二つの宝物の前に人が群がっていた。まじかで見ようとすれば、順番待ちになる。この後、天香具山に登り、日の暮れないうちに法隆寺に近い友人を訪ね旧交を温める予定になっている。あまりゆっくりと見ているわけにはいかない。興福寺の金堂の解体工事を横目に見ながら、近鉄奈良駅に急ぐ。橿原神宮までは、四十分程かかる。途中田原本という駅があったが、この地は太安万侶のゆかりの地だという。墓は、奈良市郊外の茶畑のある田原地区にある。近くには、志貴皇子の稜がある。機会を見て訪ねたいと思っている。
 橿原神宮に着いたのは、二時に近かった。駅から少し距離があり、境内も広く、参拝すれば、藤原京から天香具山まで徒歩での往復で日が暮れてしまう。友人を待たせるわけにもいかない。かといって、明日は早く奈良を立ち、上野で「出雲―聖地の至宝展」を見たいとも考えていた。思案し、畝傍山を背景にした神殿に拝礼していたら、博物館は月曜日で閉館だということに気づいた。明日、ゆっくり見ればよいという結論になった。
 友人宅は、聖徳太子とゆかりのある信貴山も近いのだが、長屋王とその妃である吉備内親王の墓がある。徒歩では遠く、訪ねることはできなかった。長屋王は、天武天皇の孫にあたり、壬申の乱で功績のあった高市皇子の長男であった。天皇の位につく資格もあったが、左大臣となって国政を担った人物である。しかし、藤原不比等の息子達の策略により、妻や子供達と死に追いやられた悲劇の人物である。後世、無実の罪だったとされる。近年、平城京に隣接する土地にスーパーが建つことになり、発掘調査が行われ、数々の出土品から長屋王の屋敷跡だということが判明した。結果的には、スーパーが建設され、史跡として保存されることにはならなかった。これもまた悲劇と言って良い。
 


 友人宅から、橿原神宮駅までは、近鉄を乗り継ぐことになる。藤原京あたりには、それほど史跡はない。夜遅くなっても今日中に帰宅すれば良いので、橿原考古学研究所の付属博物館で情報を仕入れて、ゆっくり天香具山まで歩けば良いと思ったら、月曜日で閉館だった。昨日、来館しておけば良かったと思ったが、後の祭りである。「日本国の誕生に迫る」という特別展が開催されていた。行き当たりばったりの計画だったと言わざるを得ない。
 橿原神宮駅の一つ手前の畝傍御陵前駅から歩きだす。コインロッカーが見つからず、キャリーバックを引きづりながらとなった。お土産を友人に渡しているので軽くはある。しかし、散策するには褒められた格好ではない。最初の史跡は、本薬師寺跡である。天武天皇の発願で建立されたが、今は礎石が残されるのみである。平城京遷都とともに、西の京に移された。周囲には、ホテイアオイが水田に植えられ、紫の花がまばらに咲いている。最盛期は過ぎているが、粋な計らいである。満開に咲く時期の景観は、さぞ壮観であろう。
 


 藤原京の内裏跡に行くには、少し遠回りになる。なるべく天香具山までは、直線的に歩きたい。飛鳥川を渡りしばらく行くと、朱雀大路跡の史跡が目に入る。北に目をやると、田園地帯が広がり、はるか先に、朱色の杭のようなものが見える。そのあたりが、内裏跡である。その先に耳成山が見える。藤原京を横目に見ながら、車がしきりと通る広い道の歩道を行くと、正面に目指す天香具山が見えてきた。もう一キロの距離はない。山の近くまで民家が迫り、登山口がわからない。農家らしい家の脇道が坂になっているので、そのまま登っていくと、登山口の標識があった。道も整備され一〇分ほどで頂上にたどりつくことができた。あたりは、木々が生い茂り、一方向しか見ることができない。その方向に、畝傍山が見えるようになっている。椅子に座り、往時を想い、しばらく眺め入った。誰も頂上にはいない。帰り際、地元の子供らしい数人が、母親らしき人と登ってきたが、すぐ下って行っていなくなった。登り口は数か所あるらしい。国見の歌にあるような、池は見られなかったが、「国見」の達成感が残った。
 秋更けて
天香具山我一人
        優海
  

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2012年11月10日

千曲川旅情の歌

心に浮かぶ歌・句・そして詩47
 長野県、小諸にある懐古園に行くたび、思い浮かべるのが島崎藤村の「千曲川旅情の歌」である。弘田龍太郎が曲にしている。草笛の名手がいれば最高である。藤村は、小説家としても大成したが、詩人、としても著名である。今は、岐阜県に所属しているかもしれないが、馬籠宿の庄屋の息子で、明治学院でキリスト教の影響も受けている。

千曲川旅情の歌

小諸なる古城のほとり
雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なす 蘩蔞(はこべ)は萌(も)えず
若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺
日に溶けて淡雪流る

あたゝかき光はあれど
野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて
麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか
畠中の道を急ぎぬ

暮れ行けば浅間も見えず
歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の
岸近き宿にのぼりつ
濁り酒濁れる飲みて
草枕しばし慰む
  

Posted by okina-ogi at 08:08Comments(0)日常・雑感

2012年11月09日

新美南吉生誕100年

読売新聞の群馬版に「先人を訪ねて」というコーナーがある。旅好きの人間にとって良いヒントを与えてくれる。童話作家で知られる新美南吉の紹介記事があった。今年が、生誕100年の年に当たる。30歳の若さで亡くなったが、後世に残る童話を残した。数年前、新美南吉記念館を、友人の案内で訪ねたことがある。紀行文を書いている。

ごん狐の故郷
 愛知県知多半島に半田市という地方都市がある。古くから醸造業が盛んで、ミツカン酢の本社と工場がある。木造の黒塗りの建物が運河一帯に立ち並び、電線や看板もなく、江戸時代にタイムスリップしたような感じがする。どこからとなく、酢の香りがしてくる。JRの半田の駅から近く、徒歩で五分程の距離にある。酢の博物館があって、無料で見学できるが、予約しないと入館できない。職場の友人の実家が、半田市にあって、父親の七回忌の法事のために帰郷することを聞いていたので、法事の前日に半田市を訪問することになった。午後二時に、駅で待ち合わせし、少し早く着いたのでミツカン酢の建物を見たのである。
 創業は、一八〇四年というから二〇〇年も続いている老舗のような存在であるが、今日、日本の酢の大きなシェアーを占めている大手企業である。初代の中野又佐衛門という人が、酒粕から酢を造ることを開発し、江戸の人々に大いに好まれたという。中埜酒造という兄弟会社のような酒造会社もあるが、別会社になっている。半田市に来たのは、ミツカン酢の工場見学のためではない。半田市の出身の童話作家の記念館と、田園風景を見たいと思ったからである。
 


 童話作家とは、昭和一八年に二九歳で亡くなった新美南吉で『ごん狐』の作者として知られている。ごん狐の話は、多くの人が知っている。長く小学校の教科書に載っているからである。昨年だったか、NHKの教育テレビの「こころの時代」で新美南吉のことが放映されたことがあった。映し出された新美南吉の生誕の地の風景の中で、彼岸花が一面に咲いた風景が印象的だった。ごんぎつねが、息子の兵十が母親のためにせっかく捕った鰻をいたずらして逃がしてしまった矢勝川の堤防である。そして、新美南吉の故郷は、職場の友人の故郷でもあったのである。そのことを彼に話したら、新美南吉の資料をたくさん貸してくれた。不覚にもこの歳まで新美南吉の名前さえも知らなかったのである。「北の賢治、南の南吉」と対比するほどの童話作家としての評価が高い人物にもかかわらず。
 五年前、宮沢賢治の生地である花巻を訪ねたことがある。童話を読んだからという訳ではなく、彼の生き方そのものに関心があったからである。賢治には、自然界への想いの深さと洞察力があり、何よりも
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
という言葉には感動した。「雨にも負けず」の詩の意味もわかったし、事実そのように生きようとしたことも。人生は決して長さではないとも感じた。
 

 新美南吉とは、どのような人物であったのだろうか。宮沢賢治ほど、人物の詳細は世に伝えられていないし、研究者も多いわけではない。新美南吉全集が刊行されているが、それを調べてみるエネルギーと時間は持ち合わせていない。友人からお借りした童話集と数冊の小冊子だけが情報源である。後は、彼の生まれ育った場所を訪ねてみるだけである。
 新美南吉の生れたのは、大正二年である。西暦に直せば一九一三年だから、生きていれば今年で九五歳になる。本名は、渡辺正八といった。兄が夭折し、その名前を受け継いだ。母親は病弱で、新美南吉が四歳の時に死んだ。奇しくも亡くなった時の年齢は、新美南吉と同じである。新美姓になったのは、祖母の住む母親の実家に養子に入ったからである。一人さびしい少年時代であったことは容易に想像できる。また、彼の童話にもそれを感じさせるものがある。新美南吉の父親は再婚し、継母の間に弟が生まれている。その継母は、一度は離婚し、また入籍するという複雑な事情もあった。小学校、中学校と成績が優秀であった少年には、微妙な心境を与えたことであろう。
 「でんでんむしのかなしみ」という彼の作品がある。きわめて短い童話であるが、あるとき、でんでんむしは、自分の背に負った殻の中にかなしみがつまっていることに気づく。そして、他のでんでんむしに尋ねてみると、誰もがおなじように悲しみを殻に背負っていることを教えてくれる。そして、でんでんむしは、かなしみを受けとめることができるという話である。かなしみを通じた他者との共感と表現するのは、大人の世界であり、こういう話を絵本で見た子供の実感は、言葉以上のものを心に宿すことになるだろう。新美南吉記念館に「でんでんむしのかなしみ」の絵本があったので、購入したら皇后陛下がお心にとめた童話だということが、帯に書かれてあった。皇后陛下は、童話に強い関心を持たれておられることは、有名である。何がお好きかということを、外に出されないのが皇室の伝統だが、こうした童話が多くの人々の読むきっかけになるのであれば、良いことに違いない。
 


 以前、出雲大社に参拝した折に、皇后陛下の講演を小冊子にしたものが、無料で配布されていたことを思い出した。そこには、日本武尊と弟橘媛の話が書かれていた。夫が無事に荒海を渡れるように自ら海神を鎮めるために海に身を投じる話である。少女時代に読んだ思い出を語られているのである。新美南吉の作品ではないが『泣いた赤鬼』という短編の童話があるが、自己犠牲の愛をこの童話も伝えている。人の悲しみがわかるということは、素晴らしいことであるが、人間というのはつくづく自己中心的にできている。このような童話に感心しても、なかなか大人の知恵が働いて、自己弁護したり保身を図り、行動に移すようなことはしないものである。子供たちは、いつも先生や大人を見ている。特に先生方は、教師の言葉もあることだから「言うは易し、行うは難し」という言葉を肝に命じておかなければならない。新美南吉は、教師をしながら童話を書いていた時期があった。生徒思いの先生だったという証言があるから、童話に書かれているような心性を持った人だったのであろう。
 


 喉頭結核が直接の死因になるが、亡くなる年に『狐』という童話を書いている。この話も母親の自己犠牲を子供が辛く、悲しみと受け止めるのだが、『ごん狐』よりも晩年に創られただけあって、童話作家としての境地として深さを感じる。話の最後に、母親と子供の会話が出てくる。夜に、新しい下駄を履くときつねになるという話を聞かされた子供が真剣に悩むのである。そうすると、母親は、父親も母親もきつねになって一緒に山に住むと言って慰める。子供は、想像をたくましくして、猟師がきたら困ると心配する。そのときは、父親と母親で手を引っ張ってあげるというのだが、子供は納得しない。猟犬は足が速いからすぐ捕まってしまうという。母親は、そこで自分がびっこになって、犬に捕まるようにするという。子供は、それは絶対嫌だと泣き出す。そして、しばらくすると泣き疲れたのか寝てしまう。母親はそっと枕をあてがってやる。家族愛ととりわけ母親のぬくもりが感じられて、新美南吉が追い求めてきた世界があるような気がした。
 


 新美南吉の童話に流れている特質を、北原白秋の弟子ともいえる詩人与田準一は、「生存所属を異にするものの魂の流通共鳴」と少し哲学臭い評価をしているのだが、とりわけ動物に対する「魂の流通共鳴」が強い。柳田国男が全国から日本の昔話を収集しているが、動物を擬人化した話は多い。特に狐は、人をだます悪賢い役になるが、新美南吉の描く狐には、彼の同情も寄せられているのか、優しく可愛い印象さえある。『手ぶくろを買いに』の子狐などにその感じがある。ごん狐は、兵十の鉄砲で撃たれて死ぬのだが、傷が浅く兵十に看病され生き返り、仲良く暮らすという展開にしてあげたいとも思うのだが、ハッピーエンドではないから良いのかも知れない。
 新美南吉記念館は、駅からそう遠くにはないが、職場の友人の息子さんが、父親を乗せて駅まで迎えに来てくれて案内してくれた。写真では拝見していたが、初対面である。実に明るく、爽やかな青年である。大学時代は、ラグビーの選手でイギリスまで遠征したことがあるというたくましい肉体の持ち主であった。福祉大学を卒業して、児童の福祉施設に勤務している。記念館には、友人の母親と奥さんが待っていてくれた。職場結婚だった彼の奥さんとは、二十年ぶり以上の再会ということになるらしい。
 


 新美南吉記念館は、少し変わった建物である。鉄筋コンクリートの建物なのだが、屋根が湾曲していて芝生が植わっている。遠くから見ると公園のように見える。建物の横を走る道路の先には、矢勝川が流れ、その先には里山の権現山が見えた。彼岸花の咲く時期には少し早かったが、早咲きのものが少しあった。新美南吉の故郷、ごん狐の故郷を訪ねる願いは充分成就したと感じた。
 市の共同墓地に、友人の父親は眠っている。友人ご家族と一緒に墓参させていただく。彼の父親とは、結婚式の時にお会いしただけである。驚いたことに、新美南吉のお墓がこの墓地の一画にあった。石碑のような大きな石塔に新美南吉の墓と書いてある。なにかしらご縁のようなものを感じながら合掌した。
この日、友人とそのご家族には大変お世話になってしまった。息子さんは、駅に迎えにきてくれてからずっと車で案内役になってくれた。友人のお母さんには、明日は大事な法事があるにもあるのにかかわらず、夜、家に料理を用意してくれて歓待していただいた。こちらからごちそうしなければと思っていたのが反対になってしまった。季節に知多半島近海で獲れる新鮮な海の幸である、ワタリガニ、シャコ。手作りの塩辛、タコ。地元名物「どて焼き」、最後は、味噌煮込みうどんまでいただいた。七十歳を過ぎておられるが、息子がいつもはあまり口にしない日本酒で、酒好きの来訪者に付きあってくれたために、予約していたホテルまで車で送ってくれた。なんとも言えない心遣いに本当に新美南吉の故郷に来て良かったと思った。
 


 翌日、熱田神宮に参拝し、静岡で途中下車し、旧友二人にも久しぶりに会うことができたが、そこでも、粋なセッテイングに配慮というものがあり、もてなされる幸せをつくづくと感じた。前日、墓参の後に野間大坊にある源義朝の墓に案内してくれた友人は、歴史好きの私のことを考えてくれたのであるが、奥さんとの初めてのデートの場所である美浜の野間埼灯台にも立ち寄り、そこが車を運転してくれた息子さんの大学時代の懐かしい場所と重なり、親子にとっても有意義な時間になったこともあり、私の旅好きの我儘も少しはお役に立ったかもしれない。群馬に帰り、この文章を彼岸花が咲き始めた時に書いている。インターネットには、矢勝川の彼岸花が満開に咲いていた。

  拙著『白萩』より
  

Posted by okina-ogi at 08:13Comments(0)旅行記

2012年11月08日

天つ真清水(讃美歌)

心に浮かぶ歌・句・そして詩46
<讃美歌217番 (天つ真清水)>
あまつましみず 流れきて
あまねく世をぞ うるおせる
長くかわきし わがたましいも
汲みていのちに 帰りけり

あまつましみず 飲むままに
かわきを知らぬ 身となりぬ
つきぬ恵みは こころのうちに
泉となりて 湧きあふる

あまつましみず 受けずして
罪に枯れたる 一草(ひとくさ)の
さかえの花は いかで咲くべき
そそげ、いのちのましみずを

讃美歌には、良い曲が多い。古典的な名曲がベースになっているものもあり、親しみを持って歌える場合が多い。この讃美歌は、歌詞が良い。作詞は、漢文の素養のある信心深い明治以降の日本人であろう。名前が知りたくて、讃美歌集を見たら左上に小さな文字で永井よう子とある。予想ははずれてはいなかったが、女性で毎日新聞の記者だったことは、驚きである。
  

Posted by okina-ogi at 08:17Comments(0)日常・雑感

2012年11月07日

草原情歌


心に浮かぶ歌・句・そして詩45
草原情歌」という曲をギターで弾いた時の余韻が今も残っていて、この曲を聴くと中国の内モンゴル自治区の思い出がよみがえってくる。研修生の看護師さんを受け入れたこともあり、2回訪ねている。古い時代、漢民族から嫁いできた王昭君という女性がいた。お墓だという場所にも行ったことがある。詩はないと思っていたら、あるらしい。しかし、曲だけで充分満足できる。

はるかにはなれたそのむこう
だれでも好かれるきれいな娘がいる

明るい笑顔お日様のように
くりくりかがやく眼はお月さまのよう

3番以下は省略する。民族の歴史を伝えるような曲は、他民族でも感動させる何かがある。
  

Posted by okina-ogi at 07:43Comments(0)日常・雑感

2012年11月05日

『厚生労働白書』(24年版)を読む(11)―P・486

パートタイム労働者の均等・均等待遇の確保と正社員転換の推進
近年、派遣労働者、期間雇用、短時間労働といった収入の不安定な労働者の問題が、クローズアップされている。とりわけ、パートタイム労働者は2011年の統計では、1,385万人と、雇用者総数の約27.1%に達している。本人の都合で、短時間の就労している場合もあるだろうが、正社員を望み、何年も働いてもなれない場合がある。仕事ぶり、職務能力も正職員と変わらないような場合は、正職員の道が開かれていても良い。国は、そうした流れを支援するために、「均等待遇・正職員化推進奨励金」の制度を設けている。既に、事業主として実践しているのであれば、この制度を活用してみたい。渡りに船ということである。金額も、事業主にとって経営を維持するためにバカにならない金額である。
  

Posted by okina-ogi at 21:36Comments(0)書評

2012年11月03日

『厚生労働白書』(24年版)を読む(10)―P・362

短時間労働者に対する被用者保険の適用拡大
 健康保険の被保険者になるためには、週30時間以上の所定労働時間が必要である。この適用範囲を拡大する法案が国会で成立し、2016年の10月から施行されることになる。①1週間の所定労働時間が20時間以上、②月額賃金8.8万円、③勤続期間1年以上、④従業員501人以上の事業主に使用される者、⑤学生以外の者に適用されることになる。被保険者になっても賃金も低く、負担しなければならないので、事業主や労働者からも反対の声があったと聞く。負担を緩和する特例措置を考えているようである。共働きの場合、配偶者の被扶養者として加入せず働く人も出てくることも考えられる。保険者の収入を増やす政策のようにも見えるのだが。
  

Posted by okina-ogi at 07:10Comments(0)書評

2012年11月02日

幻住庵記

 
『野ざらし紀行』は、『甲子吟行』が正式な文集の名前である。この旅の中に生まれた芭蕉の句に好きな句が多い。
春なれや 名もなき山の薄霞
このような春の景色にたびたび出会っているが、既に芭蕉にこの句ありなのである。「春なれや」に加え「名もなき」という表現の響きが心地よい。春には、数学者岡潔先生の墓参に、毎年と言って良いくらい参加しているが、先生のお墓は牡丹の寺で知られる百豪寺の近くにあって、高円山の原生林に霞がかかっている風景によく出合うことがある。
 春なれや 石の上にも春の風  石風
石風は、岡先生の号である。墓石にはこの句が刻まれている。
 山路来て 何やらゆかしすみれ草
万葉集以来、作歌の心得として、菫は山にあって詠むものではないという決まりのようなものがあった。万葉集を深く読み込んでいた芭蕉は承知の上でのことだと思う。野の菫よりも山の菫の方がなんとなく淡いような気がする。もちろん種類の違いもあるであろうが。「何やらゆかし」という感じ方が芭蕉なのである。
 この二句は、春の風景の描写であるが、芭蕉という人の優しさが感じられて好きな句になっている。
 
 伊賀上野から、岡先生の墓参のために奈良へ向かう。山間を列車は走る。車両の数は少ない。京都府の木津で分岐して奈良駅に着く。奈良は小雨が降っていた。
 菊の香や 奈良には古き仏達
しかし、今は秋ではない。約束の午前十時半には間に合わないので、宿から
「少し遅刻しますが、先に始めてください」
と岡先生のお孫さんの松原始さんに電話を入れておいた。岡先生の京都産業大学での講義の一部を拝聴するという予定があったのである。途中からではあったが、今から三十年前の録音テープから流れてくる声はただ懐かしい。
 岡先生の好きな音楽に、ベートーベンの「スプリング・ソナタ」があることは知っていた。その理由を「秋冬を経た後の春に向かう心臓の鼓動」という意味の表現で講義の中で語られていた。講義の後に、「スプリング・ソナタ」を実際に参加者で聴いてみたのだが、いつもとは違って聞こえてきたのは不思議である。
 岡先生は、四季それぞれよいと言っていたが、春が好きで、とりわけ芭蕉の
春雨や 蓬をのばす草の道
を高く評価していた。岡先生の墓参会が春雨忌となったのも、芭蕉のこの句に由来する。毎年、春雨忌の幹事役を引き受けている大阪枚方市在住の松尾さんは、大変親切な方で、宴席やご供養の世話だけでなく、遠方から訪ねてきた人たち(春雨村塾の塾生)に車で名所旧跡を案内してくださっている。法隆寺、四条畷、宇治、天理等々。それぞれ皆懐かしい思い出の場所になっている。
 今回、春雨忌の集まりで、芭蕉の生誕地を訪ねた話をしたら
「帰りの日は、私の車で〝ゲンジュウアン〟を案内しましょう」
と松尾さん。本当に相手の気持ちや、心情に心を傾けてくださるのでいつもその御好意に恐縮している。ただ、恥ずかしながら「ゲンジュウアン」と言われて何のことかわからなかった。
幻住庵は、琵琶湖に近く、紫式部が『源氏物語』を執筆したことで知られている石山寺の近くにあり、『奥の細道』後、四か月程過ごした庵である。芭蕉が自炊のために使用したと伝えられている「とくとくの清水」も健在であった。平成三年に復元された幻住庵は、藁葺の建物で、ひっそりとして、〝神さびた〟感じがある環境に建てられている。四七歳の芭蕉は、この庵で『幻住庵記』を書いた。
芭蕉は、自分の墓を義仲寺に定めたばかりでなく、近江の地が気に入っていった。
行く春を近江の人と惜しみける
は、あまりにも有名である。四か月のこの庵で過ごした時間は、来し方を振り返るのに充分な時間であったであろう。
「倩(うつろい)年月の移(うつり)こし拙き身の科(とが)をおもふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一たびは仏籬祖室の扉に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労して、暫く生涯のはかり事とさへなれば、終に無能無才にして此一筋につながる。楽天は五臓の神をやぶり、老杜(ろうと)は痩たり。賢愚文質のひとしからざるも、いづれか幻の隅か栖(すみか)ならずやと、おもい捨てふしぬ。
 先(まづ)たのむ 椎の木も有(あり)夏木立」
良きか悪しきか、自分の人生はこれ以上でもこれ以下でもないという心境がある。「不易流行」もこの頃の芭蕉の境地であった。
        拙著『侘助』より
  

Posted by okina-ogi at 08:10Comments(0)旅行記

2012年11月01日

芭蕉生誕の地伊賀上野へ

 俳聖といわれる松尾芭蕉は、徳川家康の江戸開府から四十年後の正保元年(一六四四年)に藤堂高虎を藩祖とする藤堂藩の城下町に生まれた。生誕の地は、現在、伊賀市上野赤坂町という場所にあり、伊賀上野城のある上野公園からそれほど遠くはない。約三百五十年後の今日に伝えられている建物の外観は、現在の建物と比較しても遜色がない。家は一方を大通りに面し、細長く部屋数も多く、宅地面積は、八十六坪余とあった。釣月庵という数畳ほどの別棟があって、ここで、処女句集『貝おほひ』は執筆された。帰郷の折の住まいでもあった。
 歩道に、観光名所としての標識があって、『笈の小文』の抜粋が記されてある。
 「代々の賢き人々も故郷はわすれがたきものにおもへ侍るよし、我今ははじめの老も四とせ過ぎて、何事につけても昔のなつかしきままに(下略)
 古里や臍の緒に泣く年の暮れ」
 「はじめの老」とは、初老つまり四十歳のことで、当時にあっては、四十歳は早や老人の齢であった。「老いの名もありとも知らで四十雀」という「年寄りの冷や水」の意味に近い句も芭蕉の作である。
 芭蕉にとって故郷は、懐かしく、心安らげる場所であった。江戸に出て、一流の俳諧の宗匠となって、漂泊の旅に時を過ごした芭蕉であったが帰郷することも多くあった。
 現在の伊賀市は、平成の市町村合併によってできた市名である。元々は上野市で、全国的に所在をはっきりさせるため伊賀上野という名で知られていた。観光マップにも伊賀上野という文字は残っている。
 東海道から名古屋を基点にして行くには、以外と時間がかかる。私鉄の近鉄を利用しても二時間近くはかかるし、JRとなれば二時間は超える。しかも本数が少なく、乗り継ぎも意外と不便である。しかも、上野駅は市街地から離れていて、バスか近鉄線を乗り継ぐことになる。ホテルにチェックインする前に地酒を買いに酒屋さんに寄ったら、親切に御婦人が
「バスを利用されたら良かったのに。名古屋からでしたら一時間ちょっとしかかかりませんわ。そこのバスターミナルに着きますのに」
関西特有のやわらかな言葉の言い回しで教えてくれた。高速道路を走るバスが意外と便利でしかも費用も安くてすむ場合がある。関西特有と言ったが、伊賀市は、三重県で、東海地方に入り、近畿圏に所属していない。ただ、街中を歩き、道を尋ねたりすると、気持ちよく丁寧に教えてくれる。ホテルも元々は古い旅館の経営で、もてなしの心が感じられた。観光地のサービス精神か、気質かは分からない。
 伊賀市の観光の中心は、伊賀上野城のある上野公園で、芭蕉翁記念館や俳聖殿、伊賀流忍者博物館などがある。観光客は、芭蕉派と伊賀忍者派に別れるほどの観光のシンボルになっている。ちなみに甲賀忍者の地は、滋賀県にあり、焼き物で有名な信楽(しがらき)に近い。
 伊賀上野城は、国宝ではないが、木造建築である。藤堂高虎が築城中に台風により建築を断念したが、石積みだけはしっかり残されていた。昭和になって、川崎克という政治家が、私費も多く投じ、有志の人々にも資金提供を呼びかけながら、昭和十年に天守閣を再建した。外観も美しいが、最上階の天井が見物である。落成当時の各界の大家の大色紙に書や絵が書かれている。その数四十六点にのぼる。主だった人を上げると政治家では、憲政の神様と言われた尾崎行雄。揮毫の内容は「至正」である。この上もなく正しいという意味である。川崎克が師事した政治家で、長老的存在になりつつあった。当時、現職の総理大臣であった岡田啓介海軍大将の書もあった。岡田は、翌年、首相官邸を青年将校に襲われ、運良く救出されることになる。近衛文麿の書は、五摂家の筆頭という名門の貴公子らしい筆のやわらかさが感じられる文字で「名績重新」と書かれている。
 画家では、横山大観が満月を描いている。川合玉堂の「棕櫚」。小室翠雲の旭日鶴は旭日を背に優美な姿で舞う丹頂鶴を描いたもので祝いの印としてふさわしい内容である。小室が群馬県の出身の画家であることを始めて知り、郷土の人という親近感も沸いて印象に残った。堂本印象は鷹を描いている。伊賀上野城は別名「白鳳城」ともいう。堂本美術館は、京都市北区にある。
 伊賀上野城の天井絵巻は一見する価値がある。芭蕉を訪ねる旅にあって、これ以上の脱線はできないが、俳句の高浜虚子、ジャーナリストの徳富蘇峰などの名前も見られる。主役の川崎克は松の枝に止まった鷹の絵を描いている。趣味の域を超えた水墨画に見えた。俳句にも理解があり、芭蕉翁への尊敬の念が強く俳聖殿も彼の主導による建築である。こうした篤志家としての行いが財産となったのか、孫も大臣を務めた自民党の有力政治家である。
 伊賀上野城の堀のある側の石垣は高い。加藤清正の築いた名城熊本城に匹敵する高さがある。長い月日に十分な修復が加えられなかったためか、石垣の間に雑木が生えたりしている。川端康成の書で、横光利一を記念する石碑があった。
 「若き横光利一君ここに憩ひここに歌ひき」
と印されている。伊賀上野は作家横光利一の少年時代の五年ほど過ごした故郷でもある。上野高校は、古風な建物で城の近くにあったが、前身は旧制の三重県立第三中学校で、彼の母校である。

 伊賀上野の観光案内はほどほどにして、芭蕉に戻る。生地の近くに松尾家の菩提寺がある。真言宗の寺だが愛染院の名で知られている。ここに、芭蕉の遺髪を納めたとされる故郷塚がある。芭蕉の遺体が埋葬されたのは、近江の膳所にある義仲寺である。芭蕉の遺言でそうなったのだが、芭蕉の兄や、郷里の門人達は、せめて遺髪だけでも菩提寺に納めたかったのである。火葬であれば、分骨することもできたのであろうが。寺を訪ねた時は、夕刻で、曇った日でもあり塚のあたりは薄暗くなっていた。
 故郷塚 小ぶりの梅の 花の色
塚の周囲の花木は、良く手入れされ、塚の前に植えられている梅の木も、庭師の鋏が入っている。丹精に剪定された小枝に梅の花が慎ましく、薄桃色の花をつけていた。
 芭蕉は、故郷を捨てたわけでもない。
 古里や 臍の緒に泣く 年の暮れ
 と父母の慈愛に感謝し、帰郷のたびに墓参もしていたであろう。父母の近くに埋葬されていてもおかしくはない。
 芭蕉の最初の紀行文集は『野ざらし紀行』である。野ざらしとは、無縁仏になるということである。そこまで覚悟して、旅に俳句の道を求めた芭蕉からすれば、生まれ故郷に骨を埋めることは、それほど重要な問題ではなかったのであろう。
 野ざらしを 心に風のしむ身かな
江戸の深川の草庵から東海道に沿って、一年前になくなった母親の墓参を兼ねた旅だったが、名句が旅の途上に生まれている。この時、芭蕉は四十二歳で、現代では六十歳を超えた初老の人の心境であったかもしれない。ただ、「野ざらし」という題名は、すこし仰々しく悲壮感が漂い過ぎているとも言える。
 『奥の細道』では、門人の曾良が同行しているし、『野ざらし紀行』では、門人の千里を伴っているのである。そして、旅の途中では、門人やゆかりのある人に会っているのである。いわゆる、種田山頭火のような放浪的な旅ではない。孤独な旅というのは、芭蕉が俳句の道を開拓する意味で孤高ということはあっても、心を通わすことのできる人々が旅の途上にいたことになる。芭蕉は、独身であったが、旅に付き添う門人は妻のような役割をしているとも言える。『奥の細道』などは、旅の計画と準備は、実に入念である。
 この道や 行く人もなく秋の暮れ
この句も、真理を求めてやまない求道者の心境として捉えたい。
ふらっと、気分にまかせて旅立つような旅行ではなく、なにかテーマを持って出かける旅をするようにしよう。旅の目的に賛同する同行者がいればそれも良い。一人であっても複数であってもかまわない。ただ、一人旅であれば旅先に、ゆかりの人や、ご無沙汰している人に会うことができることが望ましい。人生を旅に見立てて実践した芭蕉翁に教えられたことである。この先どんな旅を思い立つか知らないが、まだ見ぬ縁ある人との出会いも楽しみである。
        拙著『翁草』より
  

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2012年11月01日

山寺へ(2)

東北新幹線から山形新幹線となり、板谷峠に向う山間の風景は雪景色である。雪も降っている。昨年の元旦とは違う雪国山形となった。上杉鷹山の米沢、温泉地と歌人斎藤茂吉で知られる上山のあたりも一面の銀世界であった。山形駅の改札の出口には、同志社大学時代の友人が出迎えてくれていた。年賀状のやりとりは続けていたが、会うのは三十年ぶりである。出かける前に電話したのだが、奥さんが出て
「何しろ三十年ぶりなので顔がわかるでしょうか。ところで、髪の毛なんか薄くなったりしていて」
と失礼なことを聞いてしまった。五〇代になった友人の髪は健在であった。そのことを彼に話すと
「それは、あなたのことでしょうよ」
と逆襲されてしまった。
ただ会って、話をしてみるといっぺんに記憶が蘇って来るから不思議である。駅構内の店でコーヒーを飲みながら話すと、立て板に水のように話が途切れない。同行の友人に申し訳ないようである。仕事のこと、家族のこと。驚いたのは、会社では英語を日常話して仕事をしているのだという。会社が外資系で、社長もアメリカ人。従業員も外国人が多いからだという。
「文法などは、あまり気にしないでサ。ブロークンイングリッシュというやつかな。初めは、ヒアリングができなくて困ったけれど、離すのか持っているかのどちらかを指示されたとき、間違えば大変なことになる場面があったが、そういうときは、不思議と理解できるものだヨ」
 標準語でしゃべっているが、山形弁の訛りである。でもこうした言い方も失礼ではある。大学時代の印象は、どこかナイーブな印象があった。今の彼の言動はエネルギッシュそのものである。ただ、親切な人ということでは、昔も今も変わっていない。
 駅に近い山形市内で電気店を経営していたが、先年お父さんが他界し、十数年前からサラリーマン生活である。会社は米沢市にあるという。
「今、もう一度心理学の勉強をしたいと本当に思っている。少し時代が早すぎたのかな」
と、現在の仕事に大学時代に専攻した学問を生かせていないことが残念そうである。
 山寺には、彼の自家用車で行くことになった。市内見学のガイドもしてくれた。有名な芋煮会の大鍋のある場所にも案内してくれた。蔵王から発する馬見ヶ崎川の河岸を通る国道の脇に置かれている。

 山寺の正式な名称は、宝珠山立石寺といい、貞観二年(西暦八六〇年)に慈覚大師(円仁)によって開山された、比叡山延暦寺の別院である。根本中堂もある。山全体に堂や坊があって、奥の院まで行くには千余段の石段を登らなければならない。
慈覚大師は、伝教大師、最澄の弟子で、天台宗第三代座主である。俗名を円仁といった。遣唐使として中国大陸に渡り天台宗を学んだ。『入唐求法巡礼行記』は、自作の旅行記として評価が高い。下野(現在の栃木県)の生まれで、東北地方の寺院の建立に力を尽くした。平泉の中尊寺や毛越寺も慈覚大師ゆかりの寺である。大師という称号は、朝廷からのもので僧侶の中で歴史上何人もいない。
山寺芭蕉記念館は元旦で閉館になっていたが、「風雅の国」で軽い食事ができた。仙山線の山寺駅側にあって、高台であるため、山寺の全体を見ることができる。水墨画のような風景はこの場所から見ることができたのである。まさに山寺であった。
 松尾芭蕉がこの地を訪れたのは、元禄二年の七月十三日の午後三時頃であった。尾花沢に泊まり、その地の人々に勧められて朝早く出かけることになったのである。予定のコースにはなかったのである。この勧めを断っていたら名句
 閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
は生れなかったわけである。
 芭蕉は推敲の人と言って良いくらい、何度も何度も句を練り直している、蝉の句も例外ではない。最初は
 山寺や 石にしみつく 蝉の声
それが
 さびしさや 岩にしみ込 蝉のこゑ
となり、『奥の細道』の中に配置されたときには
閑さや 岩にしみ入る 蝉の声
となったのである。デッサンから完成した画に至るまでの画家の作業にも似ている。芭蕉は、自分の心にピタッとはまるまでは推敲を止めなかったのである。練りに練るということは辛い作業に違いない。しかし、完成した時の喜びは大きい。
 寺の前の店に駐車して、参拝することにしたのは良いが、石段は雪で覆われ、しかも踏み固められている。気を許せば滑って転倒する。芭蕉がこの石段を登ったのは夏である。四〇代半ばの杖が手放せない当時では初老の芭蕉と比べても条件が遥かに悪い。同行してくれた友人は曽良ではないが、山登りの愛好家ということもあり
 「せっかく山寺に来たのだから登りましょうよ」
と先頭をきって登り始めた。案内人の山形の友人は、電気店を営んでいた頃、電気器具を背負ってこの石段を何度も登ったことがあるらしい。それでも当時は若かったに違いないから苦にはならなかったであろう。蝉塚のある所までということで、ゆっくり登ったのだが、手摺につかまったらかえって滑りやすいことに気づいた。見かねた山形の友人は
「カメラを持ってあげるよ。それにしてもこれでは、岩にしみいるは、凍みいると変えなければならないね」
と上手いことを言う。
 閑けさや 岩に凍み入 靴の音
酔狂で句は作って見たが川柳にもなっていない。
結局、蝉塚を通りすぎて、仁王門まで登ったが、帰りは手摺にしがみ付きながら、上りの倍近くの時間がかかってしまった。
車を駐車していた店で、そばを食べることにしたが、石段のぼりのおかげで実に美味かった。名物の「力こんにゃく」も醤油味がしみて格別な味がした。『翁への道』の起点になった山寺行きは、前途の険しさを思い知らされるものがある。ただ、友人との再会は心に残るものが多かった。息子さんの受験が済んだら、家族連れで群馬に来てもらい、ゆっくり温泉にでも浸かってもらいたいと心底思った。
山寺の紹介は芭蕉に任せたい。
「山形領に立石寺と云山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊清閑の地也。一見すべきよし、人々のすゝむるに依て、尾花沢よりとつて返し、其間七里ばかり也。日いまだ暮ず。梺の坊に宿かり置て、山上の堂にのぼる。岩に巌を重て山とし、松柏年旧、土石老て苔滑に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岸をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。
閑さや岩にしみ入蝉の声」
尾花沢から山寺まで二十八キロを歩き、その足で石段を登った芭蕉の健脚には脱帽する。「山上の堂」とは、どのあたりまでだったのであろうか。蝉の種類は、何であったかという後世の論争より、余程興味を抱いた。
      拙著『翁草』より
  

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