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2012年12月13日

「われは海の子」

心に浮かぶ歌・句・そして詩66

「われは海の子」
鹿児島は、芋焼酎の本場。「さつま白波」の銘柄は、この歌からとったらしい。「われは海の子」という曲名そのままの焼酎もある。
「われは海の子」は、文部省唱歌だが、作曲、作詞者も不詳となっているが、自分の父親に違いないと言いだす人も出てきたらしいが、日本人の心に残る曲になっている。2番に「とまや」という言葉出てくるが、今の子供に意味を尋ねても答えられないと思う。大人にわかるかと言っても、難しいだろう。「とまや」のような家を、海岸沿いに見かけることは、皆無に近い。
一、

我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。
二、
生まれてしほに浴して
浪を子守の歌と聞き
千里寄せくる海の氣を
吸ひてわらべとなりにけり。
三、
高く鼻つくいその香に
不斷の花のかをりあり。
なぎさの松に吹く風を
いみじき樂と我は聞く。
とまやは、苫屋のことで、屋根が草ぶきの貧相な家のことである。歌詞は、7番まであるが、大船に乗って世界の富をものにし、軍艦に乗って、国を守るなどという、富国強兵の思想が覗いている。発表されたのは、1910年というから、いたしかたないかと思う。
  

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2012年12月12日

「冬景色」

心に浮かぶ歌・句・そして詩65

「冬景色」
 文部省唱歌である。作曲者、作詞者はわからない。唱歌は、原則として作曲者、作詞者を出さないことになっていたらしい。曲も詞も格調が高い。幼い時、畑ではないが、田に植えた麦を踏んだこともあった。群馬は、米の収穫の後に、田に麦を植えた。二毛作が可能な土地柄であった。おかげで、夕飯は、美味くもない、「すいとん」と醤油味の濃いうどんを食べさせられた。
1. さ霧消ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し、朝の霜。
ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず、岸の家。
2. 烏(からす)啼(な)きて木に高く、
人は畑(はた)に麦を踏む。
げに小春日ののどけしや。
かへり咲(ざき)の花も見ゆ。
3. 嵐吹きて雲は落ち、
時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ。
若(も)し灯火(ともしび)の漏れ来(こ)ずば、
それと分かじ、野辺(のべ)の里。
  

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2012年12月10日

お伊勢参り

心に浮かぶ歌・句・そして詩64


 春めくや人さまざまの伊勢参り
『芭蕉七部集』の「春の日」に出てくる山本荷兮(かけい)の句であるが、連句になっていて、その後に、加藤重五という人物が櫻散る中馬長く連(つれ)と下の句を付けている。二人は、芭蕉門下のいずれも名古屋の人で、荷兮は医師、重五は豪商であった。お伊勢参りの雰囲気が良く出ている。
春めくや人さまざまの伊勢参り参宮と言えば盗みも許しけり
この下の句をつけたのは誰かわからないが江戸時代の伊勢参りの様子がよくわかる。
  

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2012年12月10日

薬師寺

心に浮かぶ歌・句・そして詩63


 薬師寺は、故高田好胤がその復興に力を尽くした法相宗の寺である。東塔が古く創建時の面影を残している。

行く秋や大和の国の薬師寺の
    塔の上なるひとひらの雲

佐々木信綱の歌碑がある。薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の安置されている本堂や西塔も完成し、往時の寺の骨格ができつつある。
 この東塔は、今解体修理が行われ、暫くは観光客の目に触れることができない。薬師寺の近くに唐招提寺があるが、こちらは金堂の大修理が済んだ。天平の甍は、宝物館に安置され、国宝として展示されている。
  

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2012年12月09日

「野菊」

心に浮かぶ歌・句・そして詩62

「野菊」
 野菊という種類の菊はないという。雑草という名の植物がないのと同じで、野辺に自然と自生するように咲いている菊を総称して、そう呼んでいるのだろう。伊藤左千夫には、「野菊の墓」という短編小説がある。一度は、読んだ小説だが話の筋は思いだせない。正夫と民子の淡い恋の物語。二人はいとこ同士であった。民子の墓に、正夫が植えたのも野菊である。
「野菊」という童謡がある。作曲したのは、下総皖一であり、東京音楽学校(現、東京芸術大学音楽科)を卒業し、師事した信時潔と同様多くの校歌を作曲している。童謡や、唱歌にも作品があり、「野菊」の他にも、「たなばたさま」、「ゆうやけこやけ」、「ほたる」などは、今でも広く歌われている。
 下総皖一の弟子には、團伊玖磨や芥川也寸志がいる。童謡「野菊」は、清楚な感じのする曲であり、幼い頃の秋の風景まで思い出させてくれる。
1、遠い山から 吹いて来る こ寒い風に ゆれながら
  けだかく清く におう花 きれいな野菊 うすむらさきよ

2、秋の日ざしを あびて飛ぶ とんぼをかろく 休ませて
  しずかに咲いた 野べの花 やさしい野菊 うすむらさきよ

3、霜がおりても まけないで 野原や山に 群れて咲き
  秋のなごりを おしむ花 あかるい野菊 うすむらさきよ
  

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2012年12月08日

「海行かば」

心に浮かぶ歌・句・そして詩61
 
 12月8日は、日米開戦の日。避けたい戦争であったが、山本五十六連合艦隊司令長官は、真珠湾奇襲作戦を企画した。日米交渉が妥結すれば、即時作戦を中止するつもりでいた。艦隊をまかされた、南雲中将は、「一度出した小便は、止まらない」という下品な言い方をして、作戦の中断は、不可だというと、山本長官は烈火の如く「100年兵を養うは、平和のためだ」といった。しかし、不幸にも戦争に突入してしまった。


「海行かば」

海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行かば 草生(くさむ)す屍
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ
かへりみはせじ

たった、これだけの文章が歌になった。不幸なことに、戦争を鼓舞し、出征兵士を送る歌になった。あるいは、海軍葬の時にも流されたかもしれない。作曲したのは、信時潔である。大阪の出身で、東京音楽学校を卒業し、全国の多くの校歌を作曲している。
 歌詞は、大伴家持が、陸奥の国に赴任するときの文章の中にある短歌である。赴任先は、塩竃神社に近い場所にある多賀城跡であるが、一度立ち寄ったことがある。日本三大古碑のひとつ、壺の石碑(つぼのいしぶみ)を訪ねたのである。
 歌曲としてみれば、実に格調の高い調べであり、名曲といって良い。
「大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死なめ」
は、まさに、辺境に赴任する家持の心境なのであるが、現代なら「国民の」とか「公の」のために献身するという内容であれば受け入れられようが、それでは詞としての格調が低くなる。
  

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2012年12月07日

福田康夫元総理大臣の座右の言葉

心に浮かぶ歌・句・そして詩60
『瘦我慢の説』の中で、福沢諭吉は、勝海舟の節操のなさを、痛烈に批判している。西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を果たし、江戸の町を戦火から救ったのは、勝の功績と多くの歴史家は見ているが、戦う前から負けを宣言することもなかろうと、批判している。
それにも増して、福沢が許せなかったのは、幕臣として軍艦奉行や、陸軍奉行までなった身分の者が、徳川家の恩を忘れ、明治政府の高官になって、枢密院の顧問になり、勲章と伯爵を受けたことである。勝にも言い分はあったが
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せず」
と、むきになって反論しなかった。行蔵は出処進退の意味であるが、批評家の福沢に何がわかるか、勝手に批判しろといったところだが、勝海舟の方に軍配を上げてもよいような気がする。福田康夫元総理大臣の座右の言葉だというが、政治家は、他人の批判を気にしていたら勤まらない職業なのであろう。
  

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2012年12月06日

福田赳夫元総理の米寿に揮毫した言葉

心に浮かぶ歌・句・そして詩59
春風接人                  
 春風接人 秋霜臨己
 
 春風を以って人に接し、秋霜を以って己に臨む
元内閣総理大臣福田赳夫の米寿に揮毫した言葉である。秋霜接人 春風臨己 というのは凡人の道であろう。
この漢文の出典を調べたら、江戸時代末の儒学者、佐藤一斉の『言志四録』である。「北風と太陽」の童話があるが、切り先鋭く相手に迫れば、身を固くして心を開かなくなるものだ。小人は、やたらと相手の欠点が見え、指摘、注意してみたくなる。逆に大人は、じっと見守り、相手が欠点を自覚できる寛容さを備えている。
「政治は、最高の道徳だ」と言ったのも福田赳夫だが、平成七年に亡くなっている。地元選出の国会議員ということもあり、陳情のため対面する機会があった。

 先生が、自民党の最高顧問として福田派の領袖であった頃、清和会の事務所にお訪ねしたことがある。国会開期中、議事堂から駆けつけてくださった。愛用のショートホープを一服する間もない程の時間だったが、誠心誠意耳を傾ける先生のお人柄に感激した。
 「時間だから」と言って席を立たれた先生の身のこなしと歩き方を見て、「先生、お若いですね」と声をかけると、「明治三十八歳!」とおっしゃり、記念写真に快く応じてくださった思い出が懐かしい。
  

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2012年12月05日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑩)

 「1年単位の変形労働時間制」を採用している職場があります。なかなか柔軟な労働時間を考えた制度とも言えますが、なかなか運用は難しそうです。お客さんの利用がシーズンによって変動する旅館業などは、この「1年単位の変形労働時間制」を採用しているケースが多いでしょう。しかし、勤務表を1か月前に作成したり、労働日の制約があったり、勤務を特定した後の変更による賃金管理が複雑そうです。

 1年を通じて週40時間にすれば良いということだけ考えていて、毎月毎月休日がとれず所定休日が繰り越され、年度末になっても解消できず、次年度まで繰り越されるようになってしまった。もうこのような結果を出した時点で「1年単位の変形労働時間制」というものが、適正に運用されていないことになります。仕事があって、職員が採用できず所属している職員が休日がとれなければ、1か月単位で時間外手当を支給し、勤務体制の正常化を管理者がはからなければならなかったのです。あまり、硬直した勤務体制も息苦しく仕事がやりにくいのですが、あまり柔軟過ぎてもしまりが悪い働きかたになってしまいます。やむを得ず長い時間休みをとれず働く場合もありますが、限度があります。しかし、賃金未払いということは駄目です。労働には対価があるからです。
  

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2012年12月04日

埼玉(さきたま)古墳群

 「のぼうの城」の忍城の近くに、埼玉(さきたま)古墳群がある。この古墳群の一画に、石田三成軍の本陣が置かれた。小高い丘のようになっていて、人工的な映像だと思うが、映画の中でも映し出されていた。行田市の地形は、ほぼ平なので、ひときわ目立つ場所である。数年前に訪問し、古代に思いをはせてみたことがある。


  埼玉(さきたま)古墳群
 古い地名で言うと、上野、下野、武蔵一帯に古墳群が点在している。古代、有力な豪族が存在していたことが、発掘調査で明らかになってきた。大化の改新(六四五年)以後の歴史は文献もあり、日本史で学ぶことができるが、古墳時代以前は謎めいている。考古学的発見により古代史のロマンも生まれる。邪馬台国がどこにあったかも議論が分かれている。
 
 埼玉県行田市に埼玉古墳群がある。その中で最も古い古墳である稲荷山古墳の埋蔵品から鉄剣が発見された。昭和四〇年代の初めのことである。そのことは、考古学的に見れば、特別視される出来事ではない。その後、鉄剣を調べていくと、一一五の文字が浮かび上がり、その再現により「世紀の大発見」となった。現在、金錯銘鉄剣として国宝となっている。そこに書かれていた文字から、埋葬されていた人物が雄略天皇の傍に仕えていたことが推察できたのである。西暦四七一年、稲荷山古墳の完成と年代がほぼ一致し、大和政権が、東国まで及んでいたことが明らかになった。 雄略天皇は、ワカタケル大王とも言った。その文字が鉄剣から読み取れたのである。天皇の呼称は、天武天皇からとされる。雄略天皇は、仁徳天皇の孫にあたり、二一代の天皇である。
 仁徳天皇の父君は、応神天皇とされる。母君である神功皇后とともに八幡神に祀られる天皇であるが、その存在すら疑う古代史家もいる。どことなく、応神天皇以前は、神話の世界という感じがしている。その代表的人物で英雄視される日本武尊は、応神天皇の祖父にあたっている。埼玉古墳群を訪れたのは、梅の花が終わり、桜の開花へと向かう、三月末の日曜日だったが、その一週間後に大阪、奈良、京都を訪ねる機会があった。仁徳天皇陵には行けなかったが、応神天皇、仁徳天皇を祀る神社に参拝できた。
 
 
 その神社は、京都の宇治市にあって、世界遺産に登録されている。宇治上神社という。日本最古の神社建造物として、その価値を認められたのである。本殿は国宝であるが、平安時代後期の桧が使用されていることがわかっている。宇治川を挟んで、平等院があるが、その建築は平安中期にあたる。権勢を誇った藤原道長の子の頼通によって創建された。平等院も世界遺産に登録されており、両者の関係は深く結びついている。平等院の仏像彫刻も同行した彫刻家の解説を聴きながら、そのすばらしさに感動したが、本題から逸れるので宇治上神社に戻る。
 

 宇治上神社を訪ねるのは、今回が初めてではない。今から十二年前に九州に住む友人と参拝したことがある。その後も彼と訪ねているので、三度目となる。彼は、宇治が好きで、何年間か住んだことがある。その宇治が好きな理由を聞いたことはないのだが、ある人物の存在があったことは確かである。宇治上神社には、応神天皇、仁徳天皇とともに莵道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)が祀られている。仁徳天皇の弟にあたり、日本書紀などでは、応神天皇は、莵道稚郎子命に皇位を譲ろうとしたが、それを受けず、兄の仁徳天皇が即位することになる。互いに譲り合ったので、皇位は三年間空位となったと伝えられている。
古代、政権は奪うもので、権力闘争で肉親同士が戦うことも珍しくなかった。莵道稚郎子命は、聡明な人物であったとされている。その政権移譲の方法は自殺であった。自分の苦しみから逃れる方法が多くの自殺であるが、莵道稚郎子命の場合は私情ではないと、書紀からは読みとれる。日本武尊のために海神を鎮めるために入水した弟橘媛(おとたちばなひめ)の場合と同じである。弟は兄を尊敬していたし、国のまつりごとを心から兄に託すのが良いと考えていた。莵道稚郎子命の自殺は、最高の自己犠牲とも言える。ただこうした行為は、誰でもできるわけではない。
「自分を後にして他人を先にせよ」の究極の行為である。九州の友人は、莵道稚郎子命が好きだったのだと思う。京阪鉄道の宇治駅の近くに、莵道稚郎子命の陵と伝えられる森があって、二回ともそこに案内してくれた。
  父君も兄君もいて夏木立
本殿の後ろには豊かな森がある。
 

 日本が国としての形を成し、政権らしきものが生まれたのは、三世紀後半とされる。畿内を始めとして各地に古墳が造られるようになった。埼玉古墳群には、円墳や前方後円墳が存在する。天皇家は、神武天皇を初代とするが、応神天皇あたりが、大和政権の初めにあたるような気がする。古代史を詳しく調べたわけではないので、このあたりは、義務教育で習う日本史の範囲を超えない。
 埼玉古墳の中にある資料館に展示されていた埴輪を見ていたら、その素朴さに改めて驚かされた。この時代、ヨーロッパでは、ローマ帝国の時代である。一年前に、イタリアに行き、ローマ時代の遺跡を見ることができた。その時代の像は、資料で見たのだが、同じ時代のものかと、埴輪と比べるとその写実性の表現の違いに唖然とする。中国大陸では、さらに遡ること五〇〇年以上前の、秦の始皇帝陵の近くから発見された、兵馬俑の武人達の姿も極めて写実的である。この違いは何なのだろうという疑問が浮かんだ。
宇治に同行してくれた彫刻家の先生に聞けば良かったと思ったが、内容が幼稚過ぎる気がして、質問をためらい、疑問はそのままになってしまった。
 

 宇治の桜を眺めている時期に、「阿修羅展」が、東京国立博物館で開催されている。阿修羅像は、奈良の興福寺で若い頃から幾度となく見てきた。三つの顔、六本の腕のある不思議な像だが、顔は少年に見える。埼玉古墳群の埴輪から、三〇〇年を経ない、西暦七三四年の作品というから驚く。しかし、多分に大陸文化の影響があって、今流に言えば純国産というわけにはいかないようである。この像は、顔や胸にその名残があるように朱に塗られていたと考えられている。平等院の仏像あたりで日本様式が確立したとは、彫刻家の先生に教えてもらったことである。
 埼玉古墳は、広々としていて、公園として埼玉県が整備している。桜もたくさん植えられ花見もできる。県民の憩いの場所である。古墳を見ても日本歴史は、まるで霧の中のようで、頭の中にはただ風が吹き抜けるばかりである。ただ、人々の生活があったことだけは、想像できる。稲作文化が、西から東、そして北へと進んでいった。宮澤賢治の心の原風景にある縄文時代からの日本古来の文化は、その北上によって消え去っていく運命にあったなどというとりとめもない想念が浮かんできた。
 

 今回の紀行は、文章が前後左右に揺れて、自分でも纏まりがないことがわかる。昔から、古墳に関心があったが、考古学に関心があったわけではない。今でも、考古学は地味で、わかりづらく、しかもとりつきにくい学問だと思っている。特に日本の場合、古代に文字を持たなかったために、その歴史の事実が遺跡と結びつきにくい。学者の間に論争が尽きず、定説も揺るぐのも、文章として残っていないことの影響が大きい。その点、ギリシャ、ローマ、中国などの遺跡は史実と結びつく。あたり前と言えばあたり前であるが。
 墳墓や古代遺跡を過去結構多く訪ねていることに気づいた。日本だけではない。中国では、秦の始皇帝陵、明の十三陵の一つである定陵もそのスケールの大きさに驚かされた。日本では、吉野ヶ里遺跡、西都原古墳はともに九州にあり紀行にも書いた。奈良、桜井市の近くにある箸墓古墳は、邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかと報道されたことがあり、奈良で毎年開かれる数学者岡潔先生を慕う人々の集い春雨忌の帰りに訪ねたことがある。今回の、奈良行きの往路の中で、堺市にある仁徳天皇陵と考えたが、こちらは、事前の情報収集が十分ではなく、交通手段を間違え実現しなかった。
 

 奈良から帰り、書店に古代史関連の書物を探していたら、興味あるタイトルの著書に出会った。『東アジアの巨大古墳』という書名で大和書房から出版されている。二八〇〇円という値段は、本のボリュームからしては少し高価だが、この分野の本は読者層が少ないためか、コーナーに並ぶ他の書籍も一〇〇〇円台のものは少ない。著者の一人の中に、上田正昭の名前があった。京都大学の名誉教授で考古学の権威である。数年前に、高崎哲学堂で上田正昭の講演を聴いたことがある。司馬遼太郎との対談も世に広く知られている。高崎哲学堂は、高崎市に最近移管されたが、上田正昭は、長く常務理事をしていた私の高校の同級生である熊倉浩靖君の恩師でもある。彼も最近、古代の関東地域の研究を大書に纏め出版した。上田正昭が文章を寄せている。
『東アジアの巨大古墳』は、アジア史学会の論文とシンポジウムを編集したもので、上田正昭は、「河内王朝と百舌鳥古墳群」の表題で書いている。仁徳天皇陵は大山古墳が正式名称で、百舌鳥古墳群の中で最大の前方後円墳である。伝応神天皇陵とされる誉田(こんだ)山古墳を凌ぎ、日本最大の規模でもある。大山古墳を古代人が造るにあたり、一五年八カ月の時間と延べにして六八〇万七〇〇〇人の労働者、そして総工費として七九六億円の費用がかかったであろうという建設会社の大林組の試算を紹介している。
 この本から、大づかみで古墳時代の日本史を紹介すると次のようになる。邪馬台国は、畿内にあって、その場所は三輪山の前に広がる平地で、そこにある箸墓古墳は、卑弥呼の後を継いだ女王台与のもので、邪馬台国は大和政権に繋がり、崇神天皇から、河内王朝の応神天皇と繋がるというものである。箸墓古墳は、我が国最古の前方後円墳で、規模も大きい。その完成は、三世紀中葉で、西暦に直せば二五〇年前後になる。大山古墳は、五世紀代のものとされるから、二〇〇年位の間に、大和政権が確立され、その影響下に関東の埼玉の地までに前方後円墳が造られるようになったと考えられる。
 
 本を読むと、考古学的基礎がないことに加え、規模や、知らない古墳の名前が出てきて飛ばし読みしたい衝動にも駆られたが、シンポジウムの模様の収録を読むと、不思議と古代史が浮かんでくるような気がした。熊倉君も、監訳者として名前が載っていて、改めて彼がアジア史学会の重要メンバーであることを知らされた。この本のおかげで古代史に近づき易くなったのも事実である。

       拙著『白萩』より
  

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2012年12月03日

映画鑑賞(のぼうの城)



埼玉県行田市に忍城がある。といっても、戦後復縁されたもので、元の位置に建てられたわけではない。幕末まで忍藩があり、城主は松平氏であった。映画「のぼうの城」は、この城を舞台にしているが、時は、はるか遡って戦国時代の物語である。豊臣秀吉は、天下統一を目指し、小田原の北条氏を攻めた。関東一円の北条氏に味方する城も同時に攻略しようとした。忍城攻めの総大将は、石田三成である。


忍城にたてこもったのは、武士が500人、農民が3000人。対して石田軍は、2万人。とうてい勝ち目のない戦が予想されたが、先に小田原城が落城し、忍城はもちこたえた。忍城は平城ながら攻めるのに難しく、守るには易い城であり、石田三成は、秀吉にならって水攻めを行う。利根川の水を引き込むために、28キロに及ぶ堤を築いた。その一部が、現代も「石田堤」として残っている。


少し、前置きが長くなったが、映画の内容に触れる。城主が、小田原に出陣したため、城代になったのが、成田長親(ながちか)である。この男は、農民に親しまれていたが、木偶の坊のように思われていた。城主の一族だから、木偶の坊とはよべず「のぼう様」と呼ばれていた。映画のタイトルとなった「のぼう」である。


小田原に移った、城主は、密かに秀吉に和議を申し入れていたが、三成には、知らせず、三成が交渉し、その結果降伏するように考えた。ところが、交渉に立った男が悪かった。傲慢さのある態度に、成田長親は、「戦う」と言いだす。これには、家臣も驚いた。勝ち目のある戦でない。しかも、開城することに決めてあったからである。力の強いものが、力の弱いものを見下すことに対しての「益荒男の意地」が、家臣と農民を奮起させた。


印象深い、シーンがあった。水攻めで農民が城内に閉じ込められた時、寝る場所もない中、「のぼう様」は館を提供する。農民が、水で泥足になり、上がるの遠慮すると、自ら庭に下りて、泥足にある。城主の娘にも泥足になるように言う。お互いに顔に泥を塗り、農民の笑いをさそう。まさに、人心掌握なのだが、人柄が自然とそのような行為になっている。


圧巻は、湖のようになった城の外に船を出し、船上で踊りを披露する。主役に抜擢された、狂言師野村萬斎の芸の見せどころである。ひょうきんな踊りに、敵の兵士も笑い興じて、一緒に踊りだし、歌うものも出てくる。敵の兵隊の人心をも掌握してしまう。大胆にも、船は堤に近づき、三成は、大谷吉継の制するのも聞かず、狙撃を命ずる。弾は、肩にあたり船から落ちるが、味方に救助され難を逃れる。「のぼう様」自らを犠牲にして、味方の奮起を期待した捨て身の作戦だったのである。


しかし、戦いが長期化すれば、最初から勝ち目はないのである。そうしている内に小田原城が落城したという知らせが入る。もはや、戦う必要はなくなった。開城には、石田三成が自ら望んだ。名将「のぼう」の顔が見たかったのである。また、傲慢な男が、無条件降伏ともとれる内容を持ちだすと、「のぼう」は、「開城しないで戦う」と言いだす。家臣は、真っ青になるが石田三成は、「のぼう」の条件を飲む。大した男なのである。「のぼう」は。どこかに、こうしたリーダーがいてもおかしくない。
  

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2012年12月03日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑨)

「1か月単位の変形労働時間制」を採用している職場で、週1日の休日だけを定め、法定休日を最低限取得する就業規則にしました。ところが、この会社には、いろいろな部署があり、事務系は土曜日や祭日、年末年始を官庁、銀行との兼ね合いもあり休日としてきました。そうすると、年末年始を含む勤務月(12月16日~1月15日)には、休みをとろうとすると、年休を当てざるを得ません。残務整理ということもあるので、出勤して仕事もできるでしょうが効率的ではありません。また、ある部署では、年末年始は営業日ではないと、サービス利用者に示してあるので全員休みが原則になっています。お客さんがいないのに一日掃除や残務整理をしているというのもまたおかしな話です。こうした場合、明らかに年休は計画的年休付与とした方が、理にかなっていると考えられるのですが、ある部署だけそのような計画的年休付与を行うというのは、おかしいという人もいるでしょうが、もともと年休は労働者に時季請求権があるので、計画的に年休を付与するのであれば、あらかじめ労働者と間で労使協定を結んでおく必要があります。管理者の配慮で、習慣的に年休をつけてあげて(これ自体が計画的年休付与)その結果、自分で使える年休がなくなってしまったというのは、労働基準法を逸脱していると考えられます。  

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2012年12月01日

霊峰富士

霊峰富士
 


小田原から沼津、戸田から修善寺、韮山への小旅行の余話のつもりで書いている。海上から、まじまじと見た富士の美しさが忘れられなかったからである。幾度となく、東海道を新幹線で行き来した時に見る富士は、ほんの一瞬であり、視界の関係ですっきりした富士を見ることもまれであり、読書していたり、眠っていたりする間に見過ごすことが多い。
 これまでの人生で、随分と山登りをしたつもりでいる。いまだに、職場の山岳同好会のようなグループに籍を置いて、毎年のようにハイキングを楽しんでいる。憧れだった、尾瀬は山登りとは言えないが、帰路は立派な山登りである。黒姫山では、遭難(?)しかけた経験もある。しかし、富士山は未踏頂のままである。還暦近くになって、体力的なことも考えれば、登ってみようという気も起らない。富士山は、遠くから眺めるだけで良いと思っている。古来、富士山は、霊峰富士として多くの日本人に親しまれ崇められてきた。葛飾北斎や、安藤広重の浮世絵などは見事だし、多くの画家の題材にもなっている。
 沼津港から戸田港まで、高速船に乗って振り返るように見た富士山が強く印象に残った。山の形が美しいのはもちろん、海面から四〇〇〇メートル近く聳える様は、圧巻である。海上から鳥海山は見たことはないが、その高さからすれば富士山には及ぶまい。
 冬波に 揉まれて富士の高嶺かな
あまりにも美しいものを目にした時には、こうした月並みの俳句しか浮かばないものである。沼津の海、千本松原、そして富士の眺めを愛した歌人が、若山牧水であるが、牧水の歌集を眺めていたら、富士山の歌があった。歌からも判るのだが、戸田港から沼津港へと向かう時に、詠まれたものである。
 伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
「ゆ」というのは~からという意味で、山部赤人の
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りけり
もその意味で、後に藤原定家が「ゆ」を「に」に、「真白にそ」を「白妙に」に変えて百人一首に載っているが、こうした行為は如何なものか。牧水の歌に戻るが、「はしなく」という表現が、彼の感性だが、戸田港というのは小さな円形の湾になっていて、岸壁からは富士山は見えない。湾を出た時に、富士山が見えてくるのは事実で、その場所に行かなければこうした歌にはならない。俳句同様、短歌も観念的に作るものではないかもしれない。しかし、こうしたことは、絶対にということではなく、議論があり、人によって主張するところがあって良い。
 野のはてにつねに見なれし遠富士をけふは真うえに海の上に見つ
「真うえに海の上に見つ」という富士山は、実際その環境で見たものとして同感する。
 見る見るにかたちを変ふる冬雲を抜き出でて高き富士の白妙
富士山の姿は、高山独得の気象の変化によって、雲が湧き、その姿を隠したりすることがある。今回、海上からみた富士は、すっきりと最後まで見えた。しかし波が高く、船は水飛沫をかぶり、船内で安全を祈る時間が多かった。
 若山牧水は、本名を若山繁といった。宮崎県臼杵の出身で、明治一八年に生まれている。父親は、医師であったが、祖父の代に築いた財産を、散財するような生き方をした人のように牧水の随筆『おもいでの記』に書かれている。好人物だったのであろう。一番上の姉とは、二〇歳もの歳の差があり、物心ついたときは、好々爺の印象があったという。そんな父親でも、早稲田大学に進学させてもらえたのだから、それなりの財力はあったのであろう。父親も牧水同様に酒に目がなかった。
 随筆で私事に触れるのは、流儀に反するのだが、私の父も酒が好きであった。しかも社交的な人で、どちらかというと酒を飲むときは、気前がよく奢る人だったと思う。我が家の恥を晒すようだが、地主だった田畑を父の代に随分手放している。子供を、大学まで出してくれたのだから、文句は言えないが、酒は父のように飲まないと思っていた。遺伝なのだと言い訳にしているが、いつのまにやら継承してしまっている。この年になると、他界して久しくなる父親批判もしにくくなっている。
 牧水の酒の歌を集めた文集が出ている。若山牧水記念館で買ったのだが、三六七もある。二つ減らせばカレンダーができるではないか。広く知られた彼の代表作は
 白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
だが、家族との晩食、宴会、法事の場といった一人酒ではない気分も亦よいと思うのだが、牧水は、淋しさ、悲しさを酒に求めるところがあった。というよりは、読者を意識したところもなきにしもあらずという印象がある。歌を業とする人でもあったからである。良寛の酒の歌がある。
 あすよりは後のよすがはいさしらず今日の一日は酔いにけらしも
屈託がない。
 人は、どのような時に酒を飲むのだろうか。おおよそ非日常の祭りなどは、酒に普段縁のない人も口にすることがあるし、旅先での宴会などは、つきものである。寂しさをまぎらす一人酒は、度を過ぎて命を縮めることにもなる。適度な晩酌は、良き睡眠に誘う百薬の長である。牧水の飲み方は、日常にあってどうであったかというと、朝二合、昼二合、晩六号、一日一升というからこれでは肝臓が悲鳴を上げる。事実、肝硬変が死因になっている。彼の飲み方は、小さな盃で、棺に入れたが前よりも増して盃の絵模様の色合いが良くなり、記念館に展示されているという。「我は蘇りなり」である。
 青柳に諞蝠あそぶ絵模様の藍深きかもこの盃に
 伊豆の旅から、年が明け二月になって、二人称というべき人の死に出会った。一人は医師で、酒をこよなく愛し、歴史に詳しく趣味人であった。
「一将功なりて万骨枯る」
ゴルフの後に誘われてご馳走になったのだが、酒の中での会話の内容などは、記憶に残らないものだが、十年以上も前のことでも良く覚えている。
「一升こうなりてばんこつかる」
てっきり、酒の「一升」だと思っていたら、「将」だという。一人のリーダーが功をなり遂げる過程に、多くの人々の見えない働きがあることを忘れないでほしいというのである。日露戦争の激戦だった二〇三高地の戦いのことを連想し
「乃木大将の漢詩にある言葉ですか」
と問うと、唐の詩人の言葉だという。享年七一歳であった。
もう一人は、高名な老年学の権威である。昭和一六年、彼が一七歳の時、富士山に近い身延山の階段に物乞いするハンセン病の人々の姿を見た。その強烈な印象は、脳裏から消えず、自身結核にも罹り、大学を三〇歳近くで卒業し、岡山の長島という島にハンセン病の人々が社会から隔離された施設に志願するように就職した。その後、老人福祉に転じ、厚生省に老人福祉専門官として奉職し、大学教授を経て、退官後は持論通り、有料老人ホームの年金生活者となり、執筆活動を続けた人である。学問的に老人問題を考えてきたが、老人にならなければ書けないことがあると、晩年『老いと死を考える』という本を書いた。有言実行の人で、長く指導していただいた。内村鑑三の流れをくむ無教会派のクリスチャンであった。酒とは縁のない方である。享年八八歳であった。酒もほどほどにということであるが、テーマを持った人生を過ごしたい。
  

Posted by okina-ogi at 20:48Comments(0)旅行記

2012年12月01日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑧)

 「1か月単位の変形労働時間制」を採用している職場で、年末年始の休みを含め、勤務月(12月15日~1月16日まで)の中で所定休日がとれないという部署がでてきました。この勤務月には、平成24年度でみると、所定休日が12日あります。週1回の休日(日)、祭日、年末年始(12月29日~1月3日)を合計すると12日になります。
 「1か月単位の変形労働時間制」で31日の勤務月の法定休日は、9日です。それよりも3日多いので、24時間、365日のサービス事業である福祉や医療施設の現場は、人員確保が大変です。そこで、年末年始は、平常のサービスを緩和し、人員配置を少なくしましたが、どうしても勤務月に所定休日がとれない人が出てきました。
 時間外労働ということで手当をだしたのですが、休日としてとれるようにしたいと管理者は考えました。そこで、休日の繰り上げ(4週)、繰り下げ(8週)という公務員並みの規程を就業規則で定め、年末年始の前取り、翌勤務月(1月16日~2月15日)までに繰越するようにしました。働く人に不利益になるわけではなく、法定休日もクリアーしていると思うのですが、労働基準法からすると遵法といえるのか、「法律門外漢」には確信が持てません。教えていただきたいと思います。
  

Posted by okina-ogi at 08:36Comments(0)日常・雑感