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2013年01月10日

「愛の挨拶」 エルガー 作曲

心に浮かぶ歌・句・そして詩76
 クラシック音楽というのは、ほとんど題名など意識せずに聴いている。絵画、演劇、音楽など芸術鑑賞などは好きな方で、音楽も、下手だが、ギターを弾いたりして愛好してきた。
 正月、テレビを見ていたら、この曲が流れてきた。何度も音楽会で聴いた記憶がある。この曲の作者の紹介をしている。
エルガー(1857~1934)年は、イギリスの作曲者である。父親は、楽器商で、教会の演奏者だった関係で、幼い時から音楽に親しみ機会が与えられた。経済的に恵まれなかったので、独学に近かった。
 妻となったアリスは、彼よりも10歳近い年上の女性だったが、障害を乗り越え結ばれることになる、障害とは、宗教と身分の違いである。妻の父親は、海軍少将であった。
 この曲は、なかなか売れず、生活に困ったエルガーはその著作権を安い値段で売ってしまう。ある日、エルガーが街を歩いていると、たどたどしいバイオリンの演奏で街頭芸人が、この曲を弾いていた。その芸人に作曲者の名を聞いて確かめた後、曲の権利を売り渡した値段以上の謝礼を渡す場面が、エピソードとして紹介されていた。
 改めて、作曲者やその曲が生まれる背景を知るとなおさら、心情が伝わってくる。彼には「威風堂々」という著名な曲がある。こちらは、題名と曲が一致する。>  

Posted by okina-ogi at 21:17Comments(0)日常・雑感

2013年01月09日

働くということ

働くということ

 前にも、「仕事ということ」という一文を書きました。芥川賞作家のお坊さんが好いことを言っていました。1月9日放映のBS日本テレビの「日本100巡礼」という番組でしたが、伊勢神宮についてです。外宮は、食べ物の神様。内宮は、太陽の神様。食物は、労働しなければ得られない。でもお日様がなければ育たない。そういうことなんですね。ギリシャなどでは、労働は苦難そのもののように言ってますね。シジフォスの話でしたか。岩を崩しては積み、それを未来永劫に渡り続ける。まさに徒労です。
 契約の関係で、働くことの秩序を作った西欧の皆様にも、お伊勢様の良さを想像していただきたいと思いました。労働は、内から湧き出でる喜び。それは、傍に神様がいらっしゃると実感できることだと思います。鳥瞰して上から見ている神様も素晴らしいのですが、砂漠のような国土にいて星の清澄な輝きに心癒される国と日本はどこか違う。今年は、式年遷宮の年に当たります。
 富は薄いが、農業に目を向けましょう。
  

Posted by okina-ogi at 21:17Comments(0)日常・雑感

2013年01月09日

「だいこくさま」

心に浮かぶ歌・句・そして詩75

「だいこくさま」
七福神の一人。古事記に出て来る大国主命のこと。本来は、インドの神様らしい。もう一人、恵比寿(えびす)さまは、事代主神で大国主命の息子。お二人とも、にこやかな笑顔とふくよかな体形が共通している。
大国主命は、国譲りで知られているが、受難の人である。数回死んで蘇生している。この点では、キリスト以上である。しかも、白ウサギの話でもわかるように、優しい心の持ち主である。大人になってからは、浮気者の一面があるが、女性に持てたのであろう。
この曲が発表されたのは、明治38年。作詞者は、石原和三郎で群馬の人。「うさぎとかめ」も彼の作詞。教員として、子供達に音楽を通じ、昔話や、偉人の生き方を通じ情操教育ができると考えたのであろう。作曲したのは、田村虎蔵で鳥取県の出身で東京音楽学校を卒業し、教師となった。

おおきな ふくろを、かた に かけ、
だいこくさま が、きかかる と、
ここに いなばの、しろうさぎ、
かわを むかれて、あか はだか。

だいこくさま は、あわれ がり、
「きれいな みずに、み を あらい、
がま の ほわた に、くるまれ」と、
よく よく おしえて、やりました。

だいこくさま の、いう とおり、
きれいな みずに、み を あらい、
がま の ほわた に、くるまれば、
うさぎ は もと の、しろうさぎ。

だいこくさま は、だれ だろう、
おおくにぬし の、みこと とて、
くに を ひらきて、よのひと を、
たすけ なされた、かみさま よ。
  

Posted by okina-ogi at 06:51Comments(0)日常・雑感

2013年01月07日

「日の丸」


心に浮かぶ歌・詩・句74

作詞 高野辰之 作曲 岡野貞一

白地に赤く
日の丸染めて、
ああ美しや、
日本の旗は。


朝日に昇る
勢ひ見せて、
ああ勇ましや、
日本の旗は。

戦後は、軍国調の響きを払拭しようと

白地に赤く
日の丸染めて、
ああ美しい
日本の旗は。


青空高く
日の丸揚げて
ああ美しい
日本の旗は

と歌詞が変わっている。
  

Posted by okina-ogi at 21:04Comments(0)日常・雑感

2013年01月07日

「富士山」

心に浮かぶ歌・句・そして詩73

 正月から連想する歌として、「富士山」がある。富士山は、日本を代表する山で、しかも高峰である。外国人観光客も一様に「ビューティフル」と感動する。国旗と青空に雪化粧した富士山との組み合わせは、近年なかなか見られなくなった。巨人、大鵬、卵焼きという標語が流行った時代があった。正月、日の丸、富士山の組み合わせが、平和な日本の標語になるような時代が来ればと思う。
 「富士山」は明治44年に発表された文部省唱歌である。作曲者は、不詳だが、作詞は、巌谷小波である。明治、大正の著名な児童文学者である。

「富士山」
1 あたまを雲(くも)の 上に出し
四方(しほう)の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く
富士(ふじ)は 日本一の山
 
2 青空(あおぞら)高く そびえたち
からだに雪の 着物(きもの)着て
かすみのすそを 遠くひく
富士は 日本一の山 
  

Posted by okina-ogi at 08:36Comments(0)日常・雑感

2013年01月06日

会津紀行(2003年)

  今日から「八重の桜」がスタートする。10年前、会津を旅した

 会津は盆地である。会津の名の由来は古く、大和朝廷の東征軍の将軍達が会った場所からこの名があるという。古代は沼地のような場所であったのであろうか。しかし、内陸にあって実に広い平地に感じられる。二十三万石が会津藩の石数であるが、もっと多く見積もっても良いのではないかと思えた。
 磐越自動車道で、会津盆地に入る最後のトンネルを抜けてから、会津若松市に着くまでにはかなりの距離を走る。左手には会津磐梯山が聳えているが、梅雨の時期で半分以上は雲の中である。午後四時も近く、白虎隊の少年兵士の眠る飯盛山を目指すことにした。会津戦争の悲劇の一つは、十六歳から十七歳、今日でいう高校生の年代の若者が戦争に参加し、自刃したことである。
 飯盛山で死んだ少年達は、中士、上士の子息で、日新館という藩校で学んだ。会津藩士の子弟は十一歳になると日新館で学ぶことになっていた。儒教を基にし、武士としての心得を身につけることを目的とした。その教育方針の要とは何かと言えば、礼儀と徳目である。その上に武道が加えられた。文武両道の教育ではあるが、精神的教育に重きを置いている。幼い子供たちにも、武士とはこうあらねばならないという教えがあった。「遊びの什」というもので
一. 年長者のいうことをきかねばなりませぬ。
二. 年長者におじぎをしなければなりませぬ。
三. うそをついてはなりませぬ。
四. 卑怯なふるまいをしてはなりませぬ。
五. 弱いものをいじめてはなりませぬ。
六. 戸外でものを食べてはなりませぬ。
七. 戸外で婦子と言葉を交えてはなりませぬ。
八. ならぬことはなりませぬ。 
戦後の民主主義の児童教育に、この会津の教育はどう映るのであろうか。一と二などに対しては、年長者にも尊敬できない人がいるではないかと言われてしまいそうである。三から五は、今日でも倫理的に許容できる。六と七は受け入れられそうも無い。八が会津人の精神の真骨頂と言える。
 なにがならぬのか、会津人しか分らないからである。会津武士としては親から子へ、そして士魂として共有された観念として言葉を交わさなくても分りあえたのであろう。早乙女貢という作家のライフワークとしての『会津士魂』は、「ならぬことはなりませぬ」ということを書き綴ったとしか思えない。
 飯盛山の階段は老人にはきつい。片道二百五十円のエスカレーターも利用することができるようになっている。途中に白虎隊記念館がある。資料は抱負である。雑然と置かれているが記念館を運営される人達の想いが伝わってくる。そんな記念館である。
 墓碑並ぶ会津は緑深き中
白虎隊士の墓標が夏木立の下に整然と並んでいる。墓碑のある場所からは鶴ヶ城は見えない。自刃した場所と思われる斜面からは確かに平成の会津若松城が見える。城の周辺に緑が多く、それと分るが天守閣と思われる建物は小さい。
 少年達が見た城は落城はしていなかったが、彼らにそう思わせたのは、城をとりまく家々が炎上していたからである。飢えと疲労、そして敗北の絶望感。少年たちは会津の武士の教えのとおり死を選んだ。
 死の作法を教えられていたかもしれないが、死に至るまでの苦痛はどうであったろうか。修学旅行生が
「お腹を切れば血も出るし痛かっただろう」
と、飯盛山の下でドライブインを経営していた鎌田さんに話し掛けたことがあった。太平洋戦争に従軍し、戦争の非を自覚しながら、白虎隊の少年たちの純情を後世に伝えようとしていた彼は、「一三歳の少年に教えられた六十五歳おじいさん」という一文を『白虎隊』という小冊子に綴っている。鎌田さんは、故人となった薬師寺の住職であった高田好胤と戦友であったこともあり、巻頭好胤和尚の文章が寄せられている。死にきれず飯盛山の疎水に水を求めそこで息絶えた隊士もいたらしい。悲惨である。
 白虎とはこの世におらず夏木立
会津藩は、教養のあった藩らしく、年齢に応じて、中国に習い白虎、朱雀、青龍、玄武に隊を編成したのである。精鋭は、佐川官兵衛らの率いた朱雀隊であった。四方を防衛するという意識があったのであろう。
飯盛山には赤松があり、夏の夕日に照らされてその肌が美しかった。白虎隊士の中で一人だけ生き延びた人がいた。死にきれず助けられて蘇生したという言い方が正しい。飯沼貞吉。その後立派な人生を全うした。一九人の白虎隊殉死者と墓は別の場所にある。故人の心情を思って分骨されたのである。
 会津戦争の悲劇の二つ目は、武士家族婦女子の自刃である。その典型が会津武家屋敷で見ることができた。西郷頼母という家老がいた。会津藩祖保科正之にも繋がる名門の会津藩家老である。聾城を決めたが、西郷家の婦女子は、戦の足手まといにならないように、そして敵軍の辱めにあわないように一族郎党二一人が屋敷で自害したのである。
 西郷邸に入った土佐藩士中島信行の見た光景はあまりにも無残なものであった。畳に血が流れ、辞世の句を書き残し、息絶えた西郷家の人々の中にはまだ息のある女子もいた。二十歳に満たない少女は
「あなたは見方ですか、敵ですか」
と問う。中島は敵とは言えなかった。ならば介錯してほしいと言ったというのである。
その場面を観光名所にした武家屋敷の蝋人形が伝えている。幼児を抱きかかえた婦人もあり痛ましかった。屏風が逆さまになっている。あの世とこの世は逆であるという仏教思想からきているのかもしれない。
 西郷家に養子になった人に西郷四郎がいる。嘉納治五郎の講堂館で有名を馳せた人である。姿三四郎のモデルにもなった。悲劇と栄光、ともに惹かれるものがある。
 
 朝敵、賊軍という言葉がある。今日まで会津の人達に重くのしかかっている。これほど心外な言葉はない。
 前述したように、会津藩主松平容保は京都守護職を幕末動乱の中務めた。弟の桑名藩主であった松平定敬(さだあき)は京都所司代で、今日で言えば警察の役割であるが、守護職は治安部隊、すなわち軍隊である。
 尊皇攘夷派は、過激派で要人の暗殺をくりかえしていた。その取締も任務にあったが、祇園祭の夜に起こった池田屋事件などは、浪人集団だった新撰組が直接関わり、会津藩は治安出動しただけであった。
 松平容保という藩主は、写真が残っているように美男士であったが、病弱ではあった。しかし、養子として藩主になったが、会津藩士に劣らぬ、至誠の人で、策略家ではなかった。時の天皇、孝明天皇は異人嫌いで、開国を求める徳川慶喜など幕府要人は手を焼くのだが、容保の人となりを愛した。孝明天皇から御震翰(ごしんかん)を賜ったが、終生肌身から離さなかった。
 御製二首が添えられていた
 たやすからざる世に武士(もののふ)の忠誠の心を喜びてよめる
和(やわ)らくも武き心も相生(あいおい)の松の落葉のあらす栄えん
  武士と心あはしていはほをも貫きてまし世々の思い出
この時点にあって、会津藩は朝敵ですらなく、勤皇そのものであった。
 江戸時代は中央主権国家ではない。徳川幕府を中心とする諸藩のバランスの中で政治が行われていた。外様大名は、ほとんど蚊帳の外に置かれていたが、幕末になると発言力を持つようになる。薩摩の島津斉彬や土佐の山内要堂などがそうである。幕末とりわけ発言権を持ったのが、薩摩藩と長州藩そして会津藩であった。その背景は軍事力、経済力であるが、会津の軍事力は、藩士の武士としての教養と勇敢さに負うところが多く、経済と軍隊の近代化は進んでいなかった。
 この三藩の同盟の組み合わせにより明治維新に向うのであり、会津藩が後に朝敵となり、過酷な仕打ちともいえる扱いを明治新政府から受けるのはここに起因している。
「八月十八の政変」あるいは三条実美ら「七卿の都落ち」という事件は、薩摩藩と会津藩の同盟によってなされた。この周旋にあたった人物が秋月悌次郎という藩士で、明治まで生き、熊本第五高等学校の教授になるほどの識者であった。当時、五高にいた小泉八雲は、秋月先生は神の如き人だと、高邁な人格に驚嘆した記述が残っている。漢詩をよく読み、「有故潜行北越帰途所得」は、今も会津の人々に吟じられ、詩碑として建立されている。
 やがて、倒幕により日本の近代国家をめざす流れとなり、坂本竜馬の仲介があって成立された薩長同盟により、会津は悲劇へと向うのである。
 朝敵になるべきだったのは、徳川慶喜の幕府そのものであったが、徳川光圀以来、勤皇藩としていた水戸藩出身の慶喜は恭順を貫き、ついに戦いの先頭に立たされることはなかった。逃げたという言い方もできるかもしれない。慶喜という人物は、策略家で、頭脳明晰で、徳川家康の再来とも言われたが、丹力がなく、君主豹変する人物であったと評価する史家も多い。松平容保の恭順は許されず、幕府の身代わりとなるように悲惨な会津戦争を戦うことになるのである。京都守護職といい、その結果の会津戦争といい政治的には松平容保はお人よしということにもなるが、激動期の時代悲運な立場に置かれたことは歴史が物語っている。
 会津の人達にはつくづく同情を禁じ得ない。鶴ヶ城を開城し、降伏したが戦に死んだ人々を野ざらしにし、長い間埋葬を認めなかった話は、あまりも非人間的で怨念を残す事になった。白虎隊士を寺に埋葬した町民に、元に戻させたという話もあり、情がない。
そして、二十三万石から三万石にして、青森下北半島や十和田近辺の不毛の地に移住させるという過酷な扱いをしている。
 明治以降、会津の人はどのような生き方をしてきたのであろうか。南部藩がそうであったように学問に励んだと思われる。秋月悌二郎と交友があり、その学識を認め合っていた長州藩士の奥平謙輔に二人の少年の面倒を頼む。その一人山川健次郎は、後の東京帝国大学の総長なっている。兄の山川浩は陸軍少将になった。西南の役のとき熊本城に一番乗りしたことでも知られている。妹に岩倉使節団に津田梅子と一緒に加わり、帰国後大山巌の妻となり鹿鳴館や女子教育に活躍した捨松がいる。山川家は家老職にもなれる家柄であったが、兄弟姉妹は逞しく明治を生きた。
 山本覚馬、八重子兄弟も新島襄に協力し、同志社大学の礎を作った。鶴ヶ城に女子ながら立て篭もって戦った八重子の歌がある。落城と決ったとき城内の白壁に書いたもので
 明日よりは何処の人か眺むらん
       なれし大城に残る月影
また、小指を噛み切って、その血で書いた辞世の漢詩も八重子の作ではないかと言われている。そのことを後に問われると、微笑するだけで答えなかったが、彼女の小指は短かったらしい。
 井深八重という人は、同志社の女学校に学び、一時ハンセン氏病と誤診されたこともあったが、らい病のために一生を捧げたクリスチャンであった。会津藩士の末裔である。
「汝の敵を愛せよ」という生き方をした人もあったのである。
 秋篠宮妃殿下、紀子様の川上家の御先祖も会津藩士であることが、日新館に書かれてあったし、秩父宮妃殿下は、松平容保の孫にあたられることも良く知られている。朝敵にしたのは、皇室と言うわけではない。会津の人は「長敵」と言っている。長州藩の長だと思うが、今の山口県民にも罪は無いないのだから、過去にあまりとらわれすぎないことも必要ではないだろうか。山口県ナンバーの車で会津旅行ができないというのも不幸な話である。もしやそういうこともないと思うのだが。
 会津武家屋敷にあった『会津藩最後の首席家老』長谷川つとむ著の一読を勧めたい。梶原平馬という人物だが、こういう生き方もあっても良いと思った。役目が終れば、さっさと自分らしい人生を送るのも良いということである。この人物は会津人らしからぬ人物に見えた。
       拙著『秋の風」より
  

Posted by okina-ogi at 09:41Comments(0)旅行記

2013年01月05日

「我が良き友よ」

心に浮かぶ歌・句・そして詩72

 そろそろ過去が懐かしくなる歳になった。あまり過去を懐かしく思うのも、老化現象といえるかもしれないが、知人で心理学者の大学教授の持論で、「高齢者の心の支えになるのは、良い思い出と信仰だ」という話を納得して聴いたことがある。精神分析の大家、フロイトの退行という、幼児帰りとは違う。
 最近、ふと学生時代の記憶が蘇ることがある。その時に流れていた曲と学生時代の記憶が重なることがある。「我が良き友よ」というかまやつひろしの歌が、大学4年生だった、昭和50年にヒットした。作詞、作曲は吉田拓郎である。その後、吉幾三も唄っている。なかなか味のある唄い方だ。詞の内容も、学生時代を懐古した内容になっている。

「我が良き友よ」
下駄をならして奴がくる 腰に手ぬぐいぶらさげて
学生服にしみこんだ 男の臭いがやってくる
アー夢よ よき友よ おまえ今頃どの空の下で
俺とおんなじあの星みつめて何想う

可愛いあの娘に声かけられて 頬をそめてたうぶな奴
語り明かせば下宿屋の おばさん酒持ってやってくる
アー恋よ よき友よ 俺は今でもこの町に住んで
女房、子供に手を焼きながらも生きている

男らしさと人が言う おまえの顔が目に浮かぶ
力ずくだと言いながら 女郎屋通いを自慢する
アー夢よ よき友よ 時の流れをうらむじゃないぞ
男らしいはやさしいことだと言ってくれ

歌詞は、6番まであるが、「男らしいはやさしいことだと言ってくれ」という歌詞がよろしい。詞も曲も作れる人はうらやましい。吉田拓郎は、何歳になったのかな。
  

Posted by okina-ogi at 08:06Comments(0)日常・雑感

2013年01月04日

「桃夭」

心に浮かぶ歌・句・そして詩71

『詩経』は、中国の最古の詩篇を集めたものである。かつて、漢詩を筆写しながら読んだことがあった。漢字の練習と、漢詩鑑賞のつもりであった。和紙でできた、無地の帳面に最初に書いたのが「桃夭」という「詩経国風」にあった詩である。内容は、嫁ぐ娘への花向けの言葉になっている。娘を桃に例えていることが新鮮な感覚である。

「桃夭」
桃之夭夭  桃の夭夭たる
  灼灼其華  灼灼たり其の華
  之子于歸  この子ここに歸(とつ)がば
  宜其室家  其の室家に宜しからん

  桃之夭夭  桃の夭夭たる
  有粉其實  粉(ふん)たり其の實
  之子于歸  この子ここに歸がば
  宜其家室  其の家室に宜しからん

  桃之夭夭  桃の夭夭たる
  其葉蓁蓁  其の葉蓁蓁たり
  之子于歸  この子ここに歸がば
  宜其家人  其の家人に宜しからん
  

Posted by okina-ogi at 07:55Comments(0)日常・雑感

2013年01月03日

元日の松島


 昨年まで、10年連続で元旦日帰り旅行を続けてきた。今年は、元日は家にいて、そのかわり、2日一般参賀に皇居に行った。初めての経験で、2重橋を初めて渡った。新聞報道によれば、10万人近くの人が訪れたという。外国人の姿もあった。陛下のお言葉は短かったが、東日本大震災のお心遣いのことが最初にあった。2006年の元旦に、松島を訪れている。


元日の松島
 日本三景の一つ松島は、元旦に訪れるにはふさわしい場所である。自然が長い年月に創りあげた景観は、絶景というしかない。この地を訪れた松尾芭蕉は、感嘆のあまりか、句を作っていない。
松島やああ松島や松島や
というのは、季語もなく川柳のようである。芭蕉の句ではもちろんない。同行者の曽良の句が、芭蕉の気分を伝えている。
松島や鶴に身を借れほととぎす
季節は、五月、立夏を過ぎていた。ほととぎすは夏の季語である。
JR東日本の正月パスを利用しての北への元日も五年目となった。一人旅は、二回目。成人後の娘を誘ったが、簡単に断られてしまった。
「元日から人の殺されたような場所や、ミイラがあるようなところは行く気にはならないよ」
殺された人というのは、義経のことで、中尊寺行きが当初の予定だった。東北新幹線「はやて」の指定席は、大宮から一関まで買ってあった。この娘の一言で、仙台を起点にして松島近辺に変更することにした。正月パスは、JR東日本営業範囲内では、元日に限り指定席も含め、乗り放題一万二千円なのである。NHK大河ドラマ「義経」の余韻のあるところで、義経に思いを馳せてみようとも思ったのだが、季節を変えてまた訪ねることにしよう。今年の年賀状に記した句は
この年を 御旨のままと 麦を踏む
というのであるが、「御旨」とか「麦」などと書けば、クリスチャンかと思われるかもしれないが、信仰がもてるほどの謙虚な人間ではないから、キリストでも釈迦でも尊敬する人誰でも良いのであって「御旨」は、特定の人の心のことではない。浮気性ということではないが、人の言葉に耳を傾けて、踏まれる麦にもなってみましょうというほどの心境でこの年を過ごしてみたいということなのである。最初の「御旨のまま」は娘の気持ということになってしまった。
 二〇〇六年の年賀状の候補にした句に
冬の田や 車窓に手文字 書いてみる
車窓から見える北国の冬の田は、雪に埋れていたりもするが、それを和紙に見立てて、書初めをする。新幹線の窓に書いた手文字が窓に残るわけではないのだが、旅先での新年の儀式のようになった。昨年は、「無常」と書いてみた。山形の上山を過ぎたあたりだった。行く先が立石寺、俗称は山寺で、芭蕉の『奥の細道』に出てくる寺である。昨年から、少し旅先を芭蕉ゆかりの地にしたいという意識が働いている。「無常」というのは仏教の言葉であるが、万物は変化して留まるところがないということを、芭蕉は実感として持っていたと思うのである。ただ、そうした人生の中で、「消えざるものは、ただ誠」ということ知っていた。この誠は、言葉で表現するのがむずかしい。歴史上の人物、とりわけ西行法師は芭蕉の旅心をかきたてた人である。そこには懐かしさの心情もある。不死なものもあるのだろう。芭蕉から教えられるものは多い。
キリストの十字架に至る生き様は、時代が変わっても人の心に復活して消えない。歴史に名を残さなくとも、その行いが身近な人の心に忘れ去らないであることを実感する。昨年は、職場の優秀な同僚の死に出会った。約三年身近で働き、実に正義感の強い、しかも倫理観もあり、何よりもユーモアのある保健師であった。父親の喪中ハガキは、平成十二年の暮れに出したが
人の世は無常と言うがその日々を真心尽す人に幸あれ
彼女へささげたい歌でもあるが、この短歌にある真心が「消えざるもの」である。
人生の師である、数学者岡潔先生は消えざるものを「真情」と言った。それを身に沁みてわかるということは、大変なことである。齢を重ねるに従い、肉体的な喪失感や社会的立場の喪失感に執着し、心のにごりや孤独にさいなまれ、「無常」が「無情」としか思えなくなることもある。人生は心の向上が目的だと岡先生は、教えてくださっているのだが、暮れに起こった、酒田市近郊の脱線事故のようにレールから外れそうこともある。今年は、儀式化して「車窓に手文字」したのではなく頭の中に書いてみた。また、説明しなければいけないので、その文字は伏せておきたい。
今回の元日の日帰り旅行は、遠距離初詣と松島巡りの観光という結果になってしまった。ひとり旅には、ふさわしくない内容だと思っている。塩竈神社が陸奥の国の一宮であっても、近くの神社でも別段かまわない。神様は、いたって寛容である。
子供たちへの罪滅ぼしということもあって、お土産は忘れなかったが、いろいろお世話になった人へのお年賀も買うことにした。郵送代はかかっても当地の名物を、正月に味わってもらうことができる。仙台の名物といえば、牛タンである。BSE問題で、アメリカからの輸入が出来なかったこともあり、いつもの年よりも高価になっているが、それは問題ではない。感謝の気持ちを形にすることも大事である。来年の元日旅行ができたら、旅先からの年賀は続けたいと思った。
初詣、観光ついでに温泉につかる計画も立てた。松島海岸駅から車で五分の距離に古くからの湯治場がある。湯の原温泉、霊泉亭である。自炊素泊まりもできる。松島船巡りの間飲んだ日本酒のほろ酔い加減もあったが、すっかり体を温め、正月気分になれた。そして、松島は、島に松が生えているので松島なんだなあ、とあたりまえのようなことを湯船につかりながら思ったりもした。
温泉の帰りは、さいたま市から、正月パスで来たという中年夫妻とタクシーを相乗りすることになり、料金は半額になった。松島海岸駅前で別れ、ご夫婦は、あの店でと指差しながら牡蠣を食べて八時過ぎ過ぎの新幹線で帰るのだという。きっとお酒も付けて。そう、風呂に入ってからお酒を飲むのが正しい。年をとれば尚更である。
芭蕉の足跡を訪ねるのならば塩釜に近い多賀城市に行く必要がるし、そのとき中尊寺もセットにしても良い。充分、一泊はしなければならない。土、日キップというのがあってこちらは一万八千円也である。五十代の人なら会員になれば、半額になるらしい。民営化の効果なのだろう。

           拙著『翁草』より
  

Posted by okina-ogi at 12:51Comments(0)旅行記

2013年01月02日

愛国の花

心に浮かぶ歌・句・そして詩70

 戦前の曲だが「愛国の花」という歌がある。古関裕司が昭和12年に作曲した。時は、中国大陸で、戦争状態にあり、やがて太平洋戦争に向かう時代であった。どうして、こんな古い時代の歌を覚えているかというと、父が、尺八で吹いていたからである。酒好きだった父の唯一の道楽が尺八だった。素面では、吹けなかったのである。この歌は、銃後を守る婦人の想いを歌詞にしているが、防人を思う妻の想いに似ている。いつだったか、東南アジアの老人が日本語でこの歌を唄っていた。日本兵が歌ったのを覚えていたのであろう。哀調があって、綺麗な歌である。軍歌というジャンルに入れなくても良い。

愛国の花
真白き富士の けだかさを
こころの強い 楯として
御国(みくに)につくす 女等は
輝やく御代の 山ざくら
地に咲き匂う 国の花

勇士のあとを 雄々しくも
家をば子をば 守りゆく
優しい母や また妻は
まごころ燃ゆる 紅椿
うれしく匂う 国の花

御稜威のしるし 菊の花
ゆたかに香る 日の本の
女といえど 生命がけ
こぞりて咲いて 美しく
光りて匂う 国の花
  

Posted by okina-ogi at 23:04Comments(0)日常・雑感

2013年01月01日

信心

心に浮かぶ歌・句・そして詩69

何事のおわしますかは知らねども かたじけなさに涙こぼるる

西行法師のこの歌も伊勢を訪れた時に詠んだものである。日本の神々への信心を見事に詠っているとしか表現できない。
  

Posted by okina-ogi at 11:36Comments(0)日常・雑感