☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年02月28日

旅の企画

 自慢話ほど他人にとって面白くないものはないと知りつつ自慢話をする。高校時代の模擬試験で極めて地理の成績が良かった。国語、英語、数学などの主科目と違い、社会科の選択科目の一つにすぎない科目だが、試験では毎回ベストテンに入った。最高は、三番ということがあった。それも、東日本模試で受験者はかなり多かったはずである。
 この地理好きは、大学の受験には役立ったが、仕事に結びつけられなかったが、遊びというか趣味には生かされた。旅行が、最近の余暇の過ごし方の一番の楽しみになっている。何が楽しみかと言えば、旅行そのものより旅程を考えることである。
 今週金曜日(3月1日)から日曜日(3月3日)まで、下関と福岡を訪ねることになった。予定は、1か月ほど前に立てることにした。先ずは宿泊と交通機関である。飛行機と宿泊がセットになったプランが安い。博多駅前のホテルに2泊し、羽田と福岡空港の往復で3万5000円というのがあって、インターネットで予約した。ところが後日確認するとキャンセルになっている。再度条件を変えて検索すると手頃な値段のものはない。
 そこで、宿泊と交通機関は別にして、往路は新幹線。帰路は飛行機にした。ところが、土曜日(3月2日)の福岡のホテルが予約できない。福岡市以外の周辺都市でも良いと思ったが、空室がない。不思議に思い調べてみると、土日にWBCが福岡で開催されるという。仕方なく、下関のホテルに連泊することになった。
 往路は、途中下車して、湯田温泉に行き、中原中也の記念館を見学。その日の夕刻は、赤間神宮で岡潔先生の35年祭。翌日は、参加者のみなさんと山口観光。翌日は、親友との再会。太宰府で曲水の宴を鑑賞し、隣接する九州国立博物館で「ボストン美術館展」を見る予定となった。しばらく、ブログは書けず、旅日記にまとめたい。
  

Posted by okina-ogi at 17:33Comments(0)日常・雑感

2013年02月27日

心に浮かぶ歌・句・そして詩93

 功山寺にほど近いところに乃木神社がある。日本では人を神にするが、近代になって乃木将軍ほど祀られる人を知らない。東京、京都桃山、四国松山、一時隠遁生活を送った栃木那須にもある。長府は生地である。生家を見たが小さな家であった。押入れに入れるはずの寝具が、天井に吊るされている。それほどに狭い。軍人としては無能であったと酷評する史家もいるが、忠君愛国はこの人のためにあるような言葉である。殉死は、江戸期より久しくなかったが、静子夫人とともに明治天皇の大葬の夜、自決したことは、明治の人には衝撃であった。夏目漱石に『こころ』を書かせている。

うつ志世を神さりましゝ大君の
みあと志たひて我はゆくなり
(希典)
 出てましてかへります日のなしときく 
けふの御幸に逢ふそかなしき
(静子)
乃木将軍六十四歳、静子夫人五十四歳であった。遺児はない。二人の男児があったが、ともに日露戦争で戦死した。乃木神社の近くに忌宮神社がある。神功皇后ゆかりの古い宮である。
 3月1日、下関にある赤間神宮で、岡潔先生の35年祭に参列する。先生が他界されてからこれほどの年月が経っている。前年の2月にお会いしたのが昨日のようである。直会では、長州の人と語ることになる。乃木将軍の話題も出るに違いない。
  

Posted by okina-ogi at 20:20Comments(0)日常・雑感

2013年02月26日

心に浮かぶ歌・句・そして詩92

敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花

江戸中期の国学者、本居宣長の歌は、新渡戸稲造が『武士道』の中で紹介している。極端な皇国史観、軍国主義的な要素はない。大和心を 「日本人の純粋無垢な心情」と表現し、日本人が好きな山桜と西洋人が好むバラと対比させている。 国の重要文化財になっている、宣長自筆の自画像の中に、自筆の歌として書かれている。六一歳の姿を描いたとされている。自画自賛ということであるが、今日では悪い意味のように使われているが、絵も見事、文字も見事である。
  

Posted by okina-ogi at 06:50Comments(0)日常・雑感

2013年02月25日

確定申告

 確定申告の季節になりました。前々から、電子申告の方法があることを知っていましたので準備はしていたのですが、その機会がありませんでした。たまたま、昨年国民年金の後納制度を知り、子供に未納分があることが解り、親馬鹿とは知りつつ納入しました。社会保険の控除ができるのですが、昨年10月以降の納入のため、年末調整ができませんでした。年金控除証明書の通知を待って、源泉徴収票により、電子申告をすることになりました。その手続きの方法も試行錯誤で苦労したのですが、入力に間違いがあることに気づき2回の申告になってしまいました。その結果1回目の申告の内容で通知されてきましたので、税務署に電話すると2回目の申告内容を確認してもらい、差額は後日指定の口座に振り込むということでした。どうやら、電子申告ができたようです。
 今回の、電子申告による確定申告ですが、便利と言えば便利なのでしょうが、税の知識がないと、複雑なものは正確に申告しているか一般の人にはわかりにくい点があるということです。特に、給与所得だけで生活してきた人にとって、確定申告は慣れていないので、退職後は、税の知識も学ぶようにする必要があると思いました。
  

Posted by okina-ogi at 10:44Comments(0)日常・雑感

2013年02月24日

「美しき天然」

心に浮かぶ歌・句・そして詩91
 
 佐世保に来たのは、海上自衛隊の資料館を見ることよりも、ある人物の足跡を訪ねてみたかったのである。田中穂積という人で、「美しき天然」の作曲者である。九十九島の見える展海峰という場所に、近年銅像が立てられということだが、市内からは車で四十分はかかるので、行程には組めなかった。海軍墓地に墓があるというのでお参りすることにした。海軍墓地は、東公園となっていて佐世保市が管理している。日清戦争以来の殉職者の御魂が眠っている。個人の墓も多いが、先の大戦ではあまりにも多くの海軍軍人が亡くなっているので、艦船ごとに供養されていたりする。戦艦榛名のものもあった。田中穂積の墓の隣には、軍歌「広瀬中佐」で知られる杉野兵曹長の墓もあった。管理人さんにいただいた線香をあげた。
 田中穂積(一八五五~一九〇四)は、佐世保海兵団軍楽隊の三代目の軍楽長であった。山口岩国の人である。「美しき天然」は、日本初めてのワルツの曲である。最初は、佐世保の女学校の唱歌として作ったのだが、楽譜がサーカスやちんどん屋に演奏され、全国に広まっていった。演奏が容易であったためである。作詞者の、武島羽衣は、滝廉太郎の「花」の作詞者としても有名である。田中穂積はこの武島羽衣に詞に曲をつけたのである。その詞は一番だけだが

空にさえずる鳥の声
峰より落つる滝の音
大波小波どうどうと
ひびき絶えせぬ海の音
聞けや人々おもしろき
この天然の音楽を
しらべ自在にひきたもう
神の御手(おんて)の尊しや

 詞の最後が、神の御手になっている。この神はキリスト教の神の響きがある。自然との対話、鳥のさえずり、アッシジの聖フランシスコを連想した。長崎は、やはりキリスト教と密接な土地になっている。
  

Posted by okina-ogi at 10:46Comments(0)日常・雑感

2013年02月23日

晩酌の思いつき

 仕事から帰り、さて一杯という人もあるでしょう。家族と一緒の食事ということにならず、一人で盃を飲み干すという時に、いろいろな想念が浮かび、明日まで覚えていたら書き留めておこうなどと思うことがありませんか。
お酒が入るとどこかの回路が解放されて、結構面白い発想が生まれるものです。変な常識が素面の時に邪魔していて、思いもつかない思考の展開になることがあるんです。
「人生書くことと見つけたり」という言葉が浮かんできました。誰か既にこう叫んだ人はいるでしょう。作家ならともかく、何か書いたところで何の意味があるのか。いやそうではない。本を読んだら、書評を書くようでなければならない。なぜか。人間は食べたら出さないと生きられない。成長もしない。そう言うことではないでしょうか。
日記の習慣は、とうの昔になくなりましたが、ブログという便利な手段のおかげで、何かしら日々の想いを書き続けられる喜びを発見しました。
この文章、少し酔いがまわって意味ある文章になっているでしょうか。明日の朝見て良しとすれば、公開ということにしましょう。
  

Posted by okina-ogi at 17:15Comments(0)日常・雑感

2013年02月22日

『下村博文の教育立国論』 河出書房新社  1000円

 
 
 文部科学大臣下村博文の著書である。著書にも書かれているが、小学生の時に父親を交通事故で亡くし、母子家庭で育ったことが書かれている。経済的に恵まれなかったが、母親の愛情を受けながら、大学を卒業し、塾を経営しながら、政治家を志し、念願の文部科学大臣になった。
 下村氏の卒業した高校は、群馬県立高崎高校で、二人の大物政治家を卒業生として送り出している。福田赳夫、中曽根康弘である。久しぶりに卒業生の中から大臣が生まれた。私も、下村氏より2年先にこの高校を卒業したが、母校の後輩が大臣に就任したことは、嬉しく思う。しかも、出身が旧倉渕村であり、旧榛名町に隣接した村だということに、親近感を感じている。
 「教育を受けることは権利である」ということは、同感である。下村氏は名前のとおり学ぶことが好きな少年だった。経済的理由で、学ぶ機会が奪われるようなことは、あってはならないと思う。バウチャー制度という言葉も初めて目にしたが、なかなか考えさせられる教育制度だと思った。幼い時の体験のもとに教育一筋の人生から生まれた教育論が展開されている。
  

Posted by okina-ogi at 20:37Comments(0)書評

2013年02月22日

「長崎の鐘」

心に浮かぶ歌・句・そして詩90
 宴会で「カラオケで一曲」と薦められると、「長崎の鐘」を唄いたくなる。作詞は、サトー・ハチロー、作曲は古関裕而である。藤山一郎が歌い大ヒットした曲である。長崎の爆心地を歩き、浦上天主堂にも行った。その時のことを紀行に綴っている。

永井隆博士と「長崎の鐘」
 長崎浦上の地には、建築当時東洋一と言われた壮麗なレンガ造りの天主堂が築かれた。街にはアンジュラスの鐘が鳴り響き、市民にとって安らぎを与えていた。まさしく、浦上天主堂は、キリスト教弾圧に耐えてきた人々の何世代に亘る信仰の継続がもたらした象徴的な建物であった。昭和二十年八月九日十一時二分、この天主堂から一キロメートルも満たない地点、地上約五百メートルの上空で、広島に続く第二の原子爆弾が炸裂し、一瞬にして長崎市は灰燼に帰した。天主堂も破壊され、鐘楼とともにアンジェラスの鐘も地上に落ちた。鐘楼の残骸は、当時の惨状を想起させるように、あえて放置され、天主堂の立つ小高い丘の斜面に苔むしていた。
 浦上の地で忘れられない人がいる。永井隆博士である。〝浦上の聖人〟と言われ、「如己堂」という二畳程の家に白血病の病に身を伏し、平和を祈り多くの書を世に出した。妻を原爆で失い、二人の幼き子供の成長に限られた生の中で愛を注いだ。〝如己愛人〟は、「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から博士が選らび、漢文体にしたものである。記念館に飾られた博士の書は見事である。絵も亦よい。緑夫人の昇天の絵などはマリヤ様を想像させる。
 永井隆は、明治四十一年に松江市に生まれた。父親は医師であった。松江中学から長崎医大に進み首席で卒業した。専攻は放射線医学であった。江戸時代、キリシタンの信徒頭をつとめる家系に生まれた森山緑と結婚する。大学時代に下宿していた家の一人娘であった。卒業から三年後のことであった。結婚の前に永井は洗礼を受けた。中学時代、唯物論に傾倒していた男が信者になったのは、実に森山緑の影響が強い。
 永井博士が慢性骨髄性白血病となったのは、原爆により放射能を浴びたためではない。戦争中に結核診断のためにレントゲンを撮り続けたことによる結果であった。一日百人のレントゲン撮影をこなし、フィルムが不足し多くは直視で行ったため信じられないほどの放射線を受けたのである。原爆投下の三カ月前に診断され「余命三年」と告げられた。妻に打ち明けると、気丈な態度で「神様の栄光のためネ」と言ったという。
 原爆投下の日、妻はいつものように笑みを浮かべて博士を送った。弁当を忘れたことに気づき引き返すと、妻は玄関先にうずくまって泣いていたのを見た。気丈な態度の内面には、いつも博士の身を按じる心の辛さがあったのである。これが妻との永別となった。原爆が落ちたとき、博士は長崎医大の建物の中にいたが、爆風で吹き飛ばされ、ガラスの破片などで大傷を受けた。簡単な治療を済まし、三日間被爆者の救護活動をして家には帰らなかった。家に帰ったとき、台所あたりに黒い塊があった。それは妻の腰椎と骨盤であった。〝腰椎と骨盤〟医師であったがための悲しい発見であった。傍に十字架のついたロザリオの鎖が残っていた。骨と化した妻同様、原型を留めてはいなかった。博士は、救護活動をしている間に、妻の死を感じとっていた。生きていれば、深傷を負っていても生命ある限りは、這ってでも自分の安否を訪ねて来る女性だったからである。家から長崎医大までは一キロメートルもない。
 サトー・ハチローが作詞し、古関裕而が作曲し、藤山一郎が唄った「長崎の鐘」の背景にあるものはずっしりと重いものがある。永井記念館から平和公園までは、わずかな距離であるが、歩きながら何度も目頭が熱くなり、立ち止まって五月の青空を見上げた。
「こよなく晴れた青空を悲しと思うせつなさよ・・・・・」
八月九日の長崎の空も青く澄んでいた。
 平和公園には、北村西望作の「平和の像」が立っていた。どっしりと座した男性の右手は空を指し、左手は真横に伸ばしている。戦争の終結を早めるために原爆を使用したということだが、落とせばどうなるかは分っていたはずである。非戦闘員である市民が暮らす場所に。
 「アメリカという国は、極端に善いものから悪いものまであります」
という国際基督教大学の学長や同志社大学の総長を務めた湯浅八郎氏の言葉を思い出した。力の強い者は何をしても良いというものではない。ただ戦争というものは嗜虐的なことどもを生み出す。
      拙著『春の雲』より抜粋
  

Posted by okina-ogi at 07:58Comments(0)日常・雑感

2013年02月20日

蘭亭序

 


 新聞や、テレビの映像に雛飾りが登場することが多くなった。三月三日の雛の節句が近づいている。今年は、この日が日曜日になる。大宰府天満宮で毎年行われる「曲水の宴」は、広く知られている。春の禊祓いとして平安時代の宮中行事を再現したものである。たまたま、この行事の日に太宰府天満宮を訪ねたことがあるが、人だかりに阻まれて鑑賞できなかった残念な思い出がある。
 この曲水の宴は、中国の故事に由来する。とりわけ、西暦三五三年の三月三日に、蘭亭で催された、書聖として知られる王義之が四一人の名士を招いた曲水の宴が有名である。流れ下る小川に杯を浮かべ、たどり着くまでに詩を作るという趣向である。できないときは杯に注がれた酒を飲まなければならない。この宴の序文を王義之が書いたのが「蘭亭序」である。
東京国立博物館で「王義之展」が開催されている。昨年の十一月には、「中国の至宝展」が開催され、中国の歴史を知る良い機会になった。今回のテーマは、漢字の歴史である。主役はもちろん王義之である。
王義之の書道に占める位置は、どれほどのものがあるのか門外漢には実感として湧かないが、この展示会を見るとなるほどと思うところがあった。とりわけ、「蘭亭序」の紹介コーナーに多くのスペースをさき、入場者をひきつけていた。恥ずかしながら、「蘭亭序」とは何かということすら知らなかったので、新鮮な驚きがあった。王義之とはどのような人物だったのか、概略を示したい。
王義之の生きた時代は、東晋の時代。彼は、三〇三年に生まれ五九歳で亡くなっている。東晋というのは、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」で知られる、仲達、即ち司馬氏が興した晋が、匈奴に滅ぼされ、その後に都を東に移し再興した国である。王義之は、貴族であったために、政治家としても活躍した。書にも優れ、今日の漢字の書体の基礎を作ったといえる。そのため書聖と崇め奉られている。
時が経ち、唐の時代になると、貞観の治として後世名君とされる唐の太宗は、大変な書のマニアであった。王義之が残した書の多くを収集し、それを模写させた。惜しむらくは、それらは太宗の死とともに墓に埋葬されてしまったという。苦労して手に入れた「蘭亭序」も同じ運命をたどった。そのため、王義之の真筆とされるものは、現代ほとんど残っていないとされる。しかし、王義之を後世に知らしめた功績は大きい。
「弘法は筆を選ばず」と能筆で知られる空海は、遣唐使として唐に留学した時に、王義之の書の影響を受けた。渡航する前から空海の書のレベルは高く、航海の途中で遣唐使を派遣する公文書を紛失し、空海が新たに公文書を書くことにより入国を許されるということがあった。つまり、中国の公文書の書体が決められていたのである。空海は、それができたということは、既に公文書の書体になっていた王義之の書法を学んでいたことになる。留学中に、磨きをかけたと言っても良い。当時、中国では、科挙の試験に合格するためには、書も学ばなければならなかったのである。
唐代に名高い、書家がいる。政治家であったことも王義之に似ている。顔真卿という。
今回の企画では、その書を見ることができなかったが、空海は、顔真卿の影響を受けているという。安禄山の乱に立ち向かった唐の忠臣であるが、あくまで正義を貫くこの人物の生涯は、栄進と左遷を繰り返し、最後は不運の死で終わる。
現在、小学生から書道は、教科に組み入れられているが、手紙もメールなどの手段を使うことが多くなり、綺麗とは言わなくも、諧書や行書で整った文字を書ける人が少なくなっている。我々の文化も漢字という文字によって成り立っていることを思うと、時には墨を磨って、和紙に漢字を書いてみることがあって良いと思った。
  

Posted by okina-ogi at 20:08Comments(0)日常・雑感

2013年02月19日

浦賀散歩(2013年2月)

 


 浦賀は、横須賀市の一地域である。深く入りくんだ入り江が良港となり、江戸時代は、問屋が立ち並び、繁栄した。とりわけ、干鰯(ほしか)は、商品の中心であった。江戸時代の後期になると、外国船が浦賀沖に出没するようになり、この地に奉行所が置かれるようになった。
 ペリーの黒船艦隊が、アメリカ大統領の親書を携え、日本に国を開くように求めたのもこの地である。長く鎖国政策を続けてきた幕府も、黒船の出現は、近代技術の差を見せつけられ、自国の防衛の非力を思い知らされた。もはや、外国船を打ち払う能力がないことを思い知らされる。「泰平の眠りを覚ます上喜撰たった四杯で夜も眠れず」この狂歌は誰が作ったのか知らないが、実に良く黒船の日本人に与えた脅威を表現している。上喜撰は、お茶の良質なものという意味である。四杯は、四隻の黒船を意味している。
 幕末に関心を持つ友人がいて、浦賀に行くことになった。横須賀には、何度か足を運んでいるが浦賀に来たことはない。吉田松陰が、海外渡航を企てたのは下田であって、浦賀ではない。個人的には黒船のことは、下田を訪ねたときに終わっている。
 友人は、長く音楽関係の仕事に携わり、近代西洋音楽が日本にどのようにもたらされたかということに関心を持ち続けている。同時に、海に憧れがあるのか造船にも興味を持っている。さらに、銃器のことにも。その結果が浦賀散策同行ということになった。異文化交流ということにより新しい文化が生まれる。私にとって、彼との旅はそのあたりに意味があると思っている。
 横浜から京急で浦賀駅まで行く。浦賀は、海の近くまで丘陵が迫り、丘の上や、斜面の下にも家が建てられ、内陸群馬からすると驚くほどである。大地震があって、津波が来たらどのように避難するのだろうか。そんな心配をするほどの町である。駅の下には造船所らしき建物がある。今はどうなっているのか解らないが、この場所で、日本で最初の洋式帆船が建造されたのである。鳳凰丸という。この建造に携わった人物で中島三郎助という人物がいた。
 最初に訪ねたのは、彼の墓のある東林寺である。函館戦争で亡くなっているので供養塔のようなものかも知れない。幕府の人間として最後まで戦ったことから、ラストサムライと評価する人がいる。息子二人も父親に殉じている。今回の浦賀行きは、この中島三郎助に想いを寄せた友人の動機にあると言ってよい。
 中島三郎助は、浦賀の与力の家に生まれている。与力とは古くは「寄騎」であり武将に加勢する人のことで、下級武士ということになるのだが、江戸時代では、奉行所に務めていることから、行政官、司法官、警察官のような役目と考えて良いかもしれない。基本的には世襲制ではないが、中島三郎助は見習いを経て父親と同様に浦賀奉行所の与力になっている。若い時から武術に優れ、砲術も学んでいる。俳句、和歌、漢詩の素養も身につけている。かなりの秀才であった。
 ぺリーが最初に浦賀に来た時に、交渉役となったのが中島三郎助である。通詞(通訳)を同伴した。ペリーは、国書を将軍に渡そうと考えていたので、幕府高官との交渉を求めた。浦賀奉行は、二回の交渉役として中島三郎助に命じている。外国事情に洞察力を持っている中島三郎助が適任者と考えたのは想像できるが、なぜ自分から出向くことをしなかったのか。今でいう外務省の出先機関は、長崎奉行所である。奉行所の宰が交渉にあたるわけにはいかなかったのであろう。建前の世界である。
老中阿部正広の決断で、久里浜で国書を受理することになる。中島三郎助は、船に招かれ慰労されることになるが、艦内を隈なく案内してもらい、その設備、構造を見聞し、記録したという。とうてい、身分の高い者の行動ではないと、ペリーの乗組員に見抜かれたが、既に交渉後のことである。副奉行と身分を偽って交渉にあたっていたのである。
その後、幕府に軍艦製造の意見書を提出し、建造の責任者となった。そして完成させたのが鳳凰丸である。後に、勝海舟に「やっかい丸」と酷評された船だが、国産ということは、活気的なことには違いない。その後の日本は、海軍力を増強し、戦艦大和を造るまでになる。そして、今も海運国日本の造船技術に引き継がれている。
勝海舟と中島三郎助は、長崎に幕府が創設した海軍伝習所に学んだ。士官としての能力や、技術者としての知識は、勝海舟より勝っているように思える。皮肉なことだが、咸臨丸の艦長には勝海舟が選ばれた。出航前の咸臨丸の修理を指揮したのは、中島三郎助であった。表舞台に出たのは勝海舟で、中島三郎助は裏方になったともいえる。明治の元勲の一人、木戸孝允は、造船技術を知るために中島三郎助のもとを訪ねたことがあり、函館の中島父子の死を悼んだという。明治政府で新国家のために生きてほしかったと考えていたからであろう。それほどの逸材だということを知る人間が、幕府の外にもいたのである。勝海舟、榎本武揚は明治政府の高官となり、華族までなっている。福澤諭吉は、二人の変節的な生き方を批判している。
  

Posted by okina-ogi at 20:27Comments(0)旅行記

2013年02月18日

「人を恋うる歌」

心に浮かぶ歌・句・そして詩89

 「人を恋うる歌」は、与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹の詩である。学生時代に、この詩に触れた。というよりは、クラブ「将棋研究会」の宴会で、先輩がほろ酔い気分で歌っていたのが始めでであった。新入生にとって、4年生はすごく大人に見えた。中には3年も浪人した人もいたから若い時の歳の差は大きい。
1.妻をめとらば 才たけて
  みめ美わしく 情けある
  友を選ばば 書を読みて
  六分(りくぶ)の侠気(きょうき) 四分(しぶ)の熱
2.恋の命を たずぬれば
  名を惜しむかな 男(おのこ)ゆえ
  友の情けを たずぬれば
  義のあるところ 火をも踏む
3.汲めや美酒(うまざけ) うたひめに
  乙女の知らぬ 意気地(いきじ)あり
  簿記の筆とる 若者に
  まことの男 君を見る
4.ああわれダンテの 奇才なく
  バイロン、ハイネの 熱なきも
  石を抱( いだ)きて 野にうたう
  芭蕉のさびを よろこばず
 明治人の教養と気概が表れた詩として好きになった。こんな態度で学生時代と人生が送れたらと考えたことを思い出す。三高の寮歌になっていたので、京都の学生時代に出会えたとも思う。作曲者不詳ということだが、学生が作ったのかもしれない。
  

Posted by okina-ogi at 12:12Comments(0)日常・雑感

2013年02月16日

「王義之展」

 1月22日から3月3日まで、上野の東京国立博物館で特別企画展として「王義之展」が開催されている。王義之は4世紀の中国の政治家。書家としても知られ、書聖といわれる。開催期間が残り少なくなったが、スケジュール的に鑑賞できそうもないのでインターネットの映像で良しとしよう。  

Posted by okina-ogi at 08:54Comments(0)日常・雑感

2013年02月15日

熊谷守一の書

熊谷守一は、画家であり書道家ではないが何とも味のある字を書いた。『無一物』 世界文化社 2800円+税 に収録されている。

  

Posted by okina-ogi at 13:31Comments(0)日常・雑感

2013年02月14日

白隠展

 

 渋谷駅に近い、東急本店で白隠展が開かれている。テレビの美術館紹介番組で白隠展が放映され、出掛けてみることにした。デパートで、これだけの企画ができるというのも東京ならではある。
 白隠禅師(一六八六~一七六九)は、江戸時代中期の禅僧で、臨済宗の中興の祖と言われる。静岡の商人の三男として生まれ、幼くして出家し、全国を行脚し悟りを開いた。禅宗では不立文字ということが真髄とされるが、多くの書物を書き、各地に説教してまわり、独学ではあったが多くの禅画や書を残している。五〇〇年に一人の英僧と言われるが、その画や書はきわめてユニークである。
 次の話は、岡潔の随筆で知ったのだが、白隠の境地の一面を良く伝えている。話の内容は概略すると次のようなものであった。
 白隠を日頃尊敬する男の娘が懐妊した。相手は誰かと執拗に娘に聞くが答えない。追及が鋭く、とうとう娘は、相手は白隠だと言った。父親が尊敬する白隠なら許されると思い嘘をついたのである。子供が生まれると、その子を白隠のもとに渡し、罵りながら僧の身でありながら非業を攻めた。白隠は、申し開きもせず
「あ、そうかい」
と一言いって、子供に乳を飲まそうと奔走した。弟子たちも呆れて白隠のもとを去って行った。そんな様子を見て、娘は父親に事の真相を話した。男は、白隠に心から詫びると同時に、子供をひきとったという話である。娘が涙して詫びたことももちろんである。
 この話の引用の中でエッセンシャル(本質的なこと)とトリビアル(末梢的なこと)の違いがわかることの大事さを説明していた。こうした行為は、凡人にはなかなかできるものではない。
 展示会場は、地下一階にあった。テレビで見ているとはいえ、本物は迫力がある。晩年になるほど、筆力があり、構図も大胆で訴えるものがある。「隻履達磨」は、七三歳の作品といわれているが、八〇歳代の作品とも考えられるという。白隠が亡くなったのは八四歳である。この図は、お墓から三年後蘇った達磨大師を描いている。右手に隻履を持っている。もう一つは、墓にあったという伝説に近い話を題材にしている。足は描かれておらず、まるで幽霊のようである。「半身達磨」は、最晩年の作品で朱色が使われ、背景は黒になっている。白隠の達磨図では、良く紹介され有名である。
 即興で書いたというようなものもあるが、禅の教えを表現していることには、変わらない。「布袋提燈釣鐘」や「すたすた坊主」、「お福お灸」などは、実にユーモラスに描かれている。白隠の画集もあるので、どんな絵かは実際にみていただきたい。
 白隠は、若い時から絵を描いているが、晩年のものと違い達磨の図も几帳面に書いている。しかし、高齢になっても丁寧に描かれている物もある。「関羽」は、六九歳の作品であるが、賛も細い楷書体で書かれている。抽象化せず、こうした写実的な絵も描けたのである。この絵は、普段は、白隠が長く住職をしていた静岡県にある松蔭寺に所蔵されている。関羽は三国志に出てくる英雄であるが、日本でも崇拝する人物として知られている。確か、横浜中華街にも祀られていたような気がする。
 白隠の書は、太い文字で描かれているものが多かった。書き初めをやった経験がある人は、字数を考えて均等な文字として書くように先生から指導されたと思うが、白隠は、お構いなしで、最後の文字は窮屈そうである。「南無阿弥陀仏」はわかるが「南無地獄大菩薩」という人はいない。地獄も天国も表裏一体だという心境まで白隠は辿りついたと解説書に書かれている。「百寿福禄寿」は、福禄寿を中央に描き、寿の文字を百の書体で書いている。もはや遊びの世界である。
 せっかくデパートに来たのだから、服の一着ぐらい買おうと、紳士服売り場に立ち寄る。さすがに、デパートの品は高い。天下の東急本店である。安売りコーナーを覗いたらカシミヤ一〇〇%のカーディガンが目に入った。良く見ると中国製である。食品ではないので買うことにした。食事は、店内のレストランで食べず、駅近くの店で食べて、池袋に向かう。
 この日には、もう一か所訪ねてみたい美術館があった。熊谷守一美術館で、現在は、豊島区立の美術館になっている。もともと、晩年熊谷守一が住んでいた家の敷地に、娘の熊谷榧さんが美術館を造ったのである。彼女も画家である。池袋から、地下鉄有楽町線で一駅目の要町駅で下車し、徒歩で八分の場所にある。住宅街の一角にあり、良く見ないと通り過ぎてしまう。一筋間違った道を進み、途中で人に訪ねても要領を得ない返事が返ってきた。
 鉄筋三階建てで、熊谷守一の作品は、一階と二階にあった。熊谷榧さんの作品もあり、喫茶コーナーがあり、なかなか雰囲気の良い美術館になっている。熊谷守一という人は、青木繁と同期の東京美術学校の卒業だが、若い時はそれほど絵を描いていない。初代岐阜市長の息子として生まれたが、父親が死んでからは貧しい生活をした。そのために、肉体労働したこともあり、結婚後も絵が売れず、というよりは描かなかったので子供の病気にも薬も買えず、幼くして死んでしまった子もあった。戦中戦後、その貧しさは変わらなかった。しかし、彼の画力を認める友人があって、ほそぼそと暮らしていた。
 東京音楽学校を卒業し、「海ゆかば」を作曲した信時潔と親しく、熊谷守一の息子が、
信時潔の長女と結婚している。音楽と絵画の違いはあったが、二人の間には深い芸術への共感があったのであろう。それほど上手くはなかったようだが、チェロも弾いていたという。そのチェロと弦も展示されていた。
 熊谷守一は、暮らしぶりから仙人のような印象を世間に与えていたが、愛用のパイプをくわえた風貌はまさに仙人のようである。九七歳と四カ月生きたというからすごい。また、若い時から歯がほとんどなかった。そのため、日露戦争の兵役を逃れることができたという。
 それよりも、驚くのは六〇歳頃からほとんど家を出ず屋敷に植えた木や花、鳥や小動物を観察し絵を描いた。小宇宙の中に人々の魂を癒す絵を描いたのである。子供が書いたようにも見えるが、そうではないのである。白隠と同じように死の寸前まで画境を高めることができた稀有な画家であった。文化勲章も辞退する程、世間欲もなかった。
  

Posted by okina-ogi at 01:58Comments(0)日常・雑感

2013年02月13日

「さとうきび畑」

心に浮かぶ歌・句・そして詩88

「さとうきび畑」
 森山良子が歌って広く知られる歌になった。反戦歌である。もう10年前くらいになるだろうか。明石家さんまが演じていたドラマは、気負いがなく戦争の非条理を痛感させた。
 この戦争後、沖縄には、米軍基地が置かれ、アジアの均衡を保つ役割を果たしている。そのことによって、沖縄の人々は経済の恩恵にもよくしているのだが、軍事基地という重荷を負わされている。
 新垣勉という盲目の歌手がいる。この人の「さとうきび畑」は、森山良子よりも心に響くものがあった。目が見えなくなったのは、不慮の事故であったが、日本人の母と米軍兵士の間に生を受けた。父は去り、母に育てられたのである。
 父親はいない、眼は見えない。どれほど辛い思いをしたであろう。しかし、彼には歌の才能があった。父親の遺伝子か声量は日本人離れしている。見事にマイナスをプラスにする人生を歩むことができた。

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が 通りぬけるだけ

昔 海の向こうから
いくさがやって来た
夏のひざしの中で

ざわわ ざわわ ざわわ
広いさとうきび畑は
ざわわ ざわわ ざわわ
風が 通りぬけるだけ

あの日 鉄の雨にうたれ
父は死んでいった
夏のひざしの中で

歌詞は一部だがお許し願う。
  

Posted by okina-ogi at 20:53Comments(0)日常・雑感

2013年02月12日

ファイナンシャルプランナーという資格

 新聞のチラシに資格取得の案内があって、「ファイナンシャルプランナー」という資格があることを知った。内容を見ると、資産の管理、運用をアドバイスする専門家という専門資格で、平成14年から国家検定制度ができた。
 銀行員の友人に聞いたら、銀行では、試験を受けるように促しているという。なるほど、内容を見ると、金融を扱う人には必要な内容ばかりだ。この資格があるからと言って、開業して生計を立てるというところまではいかないようだ。
 3級~1級まであるが、会社員であれば3級程度で充分な気がした。資産がない人には無関係な資格かと言えばそうでもない。年金のこと税金のことも試験内容に入っている。生きるための知恵と言えばそれまでだが、無料相談というかたちで、友人、職場の人のアドバイスができるのならば、チャレンジしてみようかと思った。
  

Posted by okina-ogi at 08:10Comments(0)日常・雑感

2013年02月11日

『群馬県謎解き散歩』 熊倉浩靖編著 新人物文庫 900円

 

 各県の謎解き散歩シリーズの群馬編。編集責任者は、群馬県立女子大学教授の熊倉君。正月の高校時代の学年同窓会で出版のお披露目があったが、この日に本を手渡しできず、一昨日郵送してくれた。東京に出掛ける用事があって、列車の往き帰り読了。
 長年群馬に住んでいても知らないことが書いてあって興味深く読めた。群馬の名産、伝統行事、地名のいわれ、歴史探訪など、その分野の専門家が分担して書いている。
 他県の人が見ても関心が向くように書かれているから、群馬の観光ガイドになる。文庫本で900円と手ごろな値段である。「峠の釜めし」を買うと思って読んでいただきたい。値段が同じである。本の方が長く楽しめる。
  

Posted by okina-ogi at 14:19Comments(0)書評

2013年02月10日

電子申告(2)

 なんとか苦労して、eタックスによる申告ができたと思ったのだが、還付金の金額が腑におちない気がして再度やり直してみた。修正の申告は、確定申告期間中であれば、最終のものが審査されるようなので、2度目の申告となった。
 入力忘れがあって、還付金の金額が変わった。送信する段になって、入力にまだ不備があるというような指摘があったが、どこが不備なのか素人にはわからない。そのまま送信すると受付になった。納得できないので、直接税務署に行って確認してみようと思う。これでは、なんのための電子申告かわからない。今回は、勉強のつもりである。
 ある程度の税の知識、電子申告の実務を覚えないとこの方法は意味がないような気がしてきた。
  

Posted by okina-ogi at 19:54Comments(0)日常・雑感

2013年02月09日

愛について

 還暦を過ぎて、こんなタイトルで書くこと自体が気恥ずかしい。宗教で言う慈愛とか、アガペーなどいう次元の高い精神について書こうということではない。どちらかというと好きだとか嫌いだという次元に近いかもしれない。
 愛の反対は、憎しみだと思っていた時期が長かったのだが、最近は、無関心とか無視ではないかと思えてならない。人は、嫌になったら無視するようになる。特に職場などではそうなることがある。必要な会話だけで済ますようになる。雑談などしない。こういう人間関係では、良い仕事はできない。上司から無視された部下は辛い。もっとひどいのは、チームの蚊帳の外に置くこと。
このような上司が、愛について熱っぽく語ったとする。一匹狼か子羊かは分からないが、その部下は、どのような気持ちで聴くのだろう。気心の知れたグループでは、上司の語る愛が通じ合うのだろうが、無視された部下は、光が閉ざされている。
 だから、愛ということはそれほど深く考えず、他者に関心を持つことであると言ってよい。何ができるか、思いやりがどの程度かという前に、無関心にならないことである。無駄のような内容でも会話を交わすことである。
  

Posted by okina-ogi at 08:05Comments(0)日常・雑感

2013年02月08日

童謡「赤い靴」

心に浮かぶ歌・句・そして詩87
 今宵、尾道白樺美術館で「智恵子抄」をきく夕べが催される。白樺美術館は、山梨県の清春美術館と姉妹館で、智恵子の絵画を所蔵している。白樺派、特に武者小路実篤が絵の収集に熱心で、ルオーの絵が展示されている。当日、智恵子の絵を掛けて歌曲「智恵子抄」を聴くという贅沢なコンサートであったが、手違いでその趣向は実現されなかった。
 歌は、二期会会員で津和野出身の声楽家、田中誠が歌った。音楽プロデュウサーの滝澤隆さんと羽田から広島空港までの機中横に座り言葉を交わす。大柄な人で、声量の必要な声楽家にふさわしい体躯をしていた。野口雨情の作詞「赤い靴」の詩が生まれた経緯を話すと興味深く耳を傾ける。童謡「赤い靴」のモデルになった少女が、実の両親やアメリカに帰った養父母の宣教師夫妻に看取られることもなく、東京の孤児院で結核で死んだのであるが、雨情は、そのことを知らなかった。それで「横浜の波止場から船に乗って異人さんにつれられて行っちゃた」となったこと、彼も知らなかったらしく
「そうですか・・・・」
と深く頷いた。

童謡「赤い靴」
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった

横浜の 埠頭から 船に乗って
異人さんに つれられて 行っちゃった

今では 青い目に なっちゃって
異人さんの お国に いるんだろう
 
赤い靴 見るたび 考える
異人さんに 逢うたびに 考える

拙著『春の雲』より
  

Posted by okina-ogi at 08:05Comments(0)日常・雑感