☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

グンブロ広告

ビジネスライセンス料  3,000円/月

飲食関連事業用 ライセンス 毎日1セット広告  1,600円/月

お問い合わせは、 info@gunmawen.net

本広告は、30日以上記事の更新がされませんと自動的に掲載されます。 記事が更新された時点で、自動的に破棄されます。  

Posted by 株式会社 群馬webコミュニケーション at

2013年03月10日

心に浮かぶ歌・句・そして詩95

 上野の東京国立博物館で「王義之展」を鑑賞して触発されたわけではないが、漢詩に心が向くようになった。高校の漢文の授業ほど退屈な時間はなかったが、ふりかえると味な内容だったという気がしてきた。担当の先生には感謝しなければならない。次の漢詩などは、春になると自然に口ずさむことがある。
春眠不覺暁
處處聞啼鳥
夜来風雨聲
花落知多少

春眠暁を覚えず
処処(しょしょ)啼鳥(ていちょう)を聞く
夜来(やらい)風雨の声
花おつることを知る多少(いくばく)
 孟浩然(もうこうねん)の作。春暁という題がついている。孟浩然は、唐の時代の人である。
  

Posted by okina-ogi at 06:42Comments(0)日常・雑感

2013年03月09日

心に浮かぶ歌・句・そして詩94

 唐の玄宗皇帝は、前半は良かったが晩節を汚した感がある。その原因は、楊貴妃という絶世の美女に夢中になり、政治に関心を向けなくなったというのが、大方の後世の史家の評価になっている。
「長恨歌」は、長編の漢詩であり白居易の作である。
宛轉蛾眉馬前死 楊貴妃は兵士の不満を宥めるために玄宗の前で殺された。
花鈿委地無人收 螺鈿の花かんざしが地面に落ちても誰も拾うことは無く、
翠翹金雀玉掻頭 その他の豪華な装飾品もまた同様であった。
君王掩面救不得 玄宗はなす術も無く顔を覆い、
回看血涙相和流 流れる涙には血が交ざっていると思えるほどだった。
 高校の漢文の教科書にあったかは、思い出せないが僧侶の資格を持った漢文の先生は、涙こそ流さなかったが、朗々と講釈してこの漢詩を読み聞かせてくれた。
授業の途中で抜け出す生徒もいたことも思い出す。先生は、そのことを知りつつ許していた。「今逃亡したものがおるな」と言いながら。
  

Posted by okina-ogi at 08:01Comments(0)日常・雑感

2013年03月08日

株式市場

 ここ3カ月の間に、円安が進み、株式市場が賑わいを見せている。アベノミクスとやら、不思議な造語が巷に流布している。実体経済が上向きになっているかは庶民には解らないが、なにやら投資意欲が出てきている。資本主義社会で株式投資を否定していたら経済が成り立たないが、一攫千金の思想で株式などすべきではないと考えるのが普通である。余剰があれば、株式に資金をまわしてもよい。貯金しても預金しても利子は少なく、引きだす度に手数料で目減りすることを考えると株式による資金運用を否定もできない。ただし、元本割れすることは承知しておかないといけない。それと、上がり下がりに一喜一憂しても意味がない。働くのがやはり一番ということでしょう。お金は増えるばかりです。株式市場の賑わいは、働く場ができることにつながれば結構なことであって、投資家の懐を豊かにするということだけで終わってほしくないと思う。株式というのは無常という言葉がピッタリ。映像のようなものだと思う。  

Posted by okina-ogi at 08:08Comments(0)日常・雑感

2013年03月07日

太宰府天満宮

 3月3日は、日曜日となった。この日の福岡は、人人という感じがある。福岡ヤフードームではWBC(ワールド・ベイスボール・クラシック)の試合があり、そのためか、市内に宿がとれなかった。朝、下関を立ち、博多駅に着くと、行列ができている。野球の当日券を求めて並んでいるのかと思ったら、宝くじの売り出しのようだ。
 西鉄の天神駅で友人と待ち合わせして、太宰府に向かう。天神駅といい、昨日は、防府天満宮を訪ね、これから、太宰府天満宮を訪ねるとなれば、まるで菅原道真のおっかけである。11時から「曲水の宴」の受付に間に合うようにと思っていたが、隣接する九州国立博物館で「ボストン美術展」が開催されており、そちらを優先することにした。「曲水の宴」は、王義之の蘭亭の宴の余韻もあり、今回は見てみたいと思っていたのだが、東京開催を見逃してしまった「ボストン美術展」をじっくり見ようということになった。友人の希望も一致している。
 幕末から明治と移る中、廃仏毀釈という不幸な歴史があって、多くの仏像、仏画、日本画、絵巻などが海外に流失した。フェノロサ、岡倉天心が価値ある物を、ボストン美術館に所蔵させたことは、日本人にとって感謝すべきことと考えて良い。一部の蒐集家により、所有されれば、今回のように里がえりして、平成の日本人に鑑賞する機会ができなかった。
 この企画展の中でメインとなっている作品は、どれも一級品であり人それぞれ違っていて良いのだが、曽我蕭白の作品群としたい。江戸時代の画家であるが、個性的で日本でしばらく見られないと思えば、多くの鑑賞の時間を彼の絵に割かざるを得なかった。

  

Posted by okina-ogi at 08:07Comments(0)日常・雑感

2013年03月06日

防府天満宮と防府毛利邸

 3月2日(土)、下関のホテルに宿泊した遠来の客を、下関の友人達が2台の車で防府市に案内してくれた。防府駅で合流した方も含め、総勢10名。最初に訪問したのが、防府天満宮である。主祭神は、もちろん菅原道真である。日本三大天満宮の一つである。他の二つは、京都の北野天満宮、福岡の大宰府天満宮であるが、意外なことに創建が一番古いと伝えられている。
 防府天満宮に案内してくれたのは、昨夜の岡潔の三五年祭を主宰した青田禰宜で、赤間神宮に奉職したことのある一木さんが出迎え約二時間近く案内してくださった。防府天満宮には、一度訪ねたことがあったが、拝殿をお参りしただけだった。
 春風楼という建物があって、防府市街を一望できる。この場所に五重の塔を建てる計画があったが、資金が集まらず竣工には至らなかった。基礎は、五重の塔の物になっている。拝殿の後ろには天神山があり、その麓には多くの梅が植えられ、白梅、紅梅、さまざまな色の花をつけていた。天満宮には梅がふさわしい。
「東風吹かば匂いをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」
 最後は、広々とした和室でお茶をいただき、防府天満宮の祭事のアルバムを見せていただき説明を受けた。とりわけ、11月に開催される裸坊祭は勇壮で、重い御綱代(あおじろ)をかつぎ、階段を上り降りするので、怪我人が絶えないという。
 防府毛利邸は、大正に完成し、天皇も宿泊した立派な木造建築で、庭園も広く、今は、博物館になっているが、国宝の雪舟の山水図は展示されていなかった。
  

Posted by okina-ogi at 08:02Comments(0)旅行記

2013年03月05日

安倍総理の印象

 3月1日(土)に下関市にある赤間神宮で数学者岡潔(1901~1978)の記念祭が開催され参列。岡潔の命日にあたるこの日は、故人が好きだった春雨が降っていた。赤間神宮は、安徳天皇を祭っている由緒ある神社である。この神社に長く奉職されている方が、若い時から岡潔に惹かれ、今日まで慰霊を行ってきた。関西から、春雨忌に集う人(春雨村塾生)4人と岡潔の次女である松原さおり氏も参列。ほぼ、5年おきに参列し、すっかり赤間神宮と下関が好きになった。そして、長州の人も。
 直会(なおらい)があって、下関に住む方々との語らいの場があった。遠方からの参列者ということで自己紹介をさせていただくことになった。今回、本当に初めて知ったのだが、安倍総理の住まいは下関にあり、選挙区であることを。市内を移動した時、「あの高台に安部総理の家がある」と指さされた。
 「今回総理になった安倍さんの発言にはさわやかさを感じる。政治状況とか他党に配慮することはあっても、媚びへつらうような発言がない。それは、後ろめたさのようなものがないからだと思う。体を悪くしたこともあり、体調に不安があっても、捨て身な感じがある。あせらずやっていただき、日本を活力ある方向に持っていていただきたい」
社交辞令で言ったつもりではないが、そんな主旨のことを話すと、同席の方々も同感だと頷かれた。

  

Posted by okina-ogi at 07:37Comments(0)日常・雑感

2013年03月04日

中原中也と内海誓一郎

 旅の途中、湯田温泉にある「中原中也記念館」に立ち寄った。中原中也のことは、詩に触れたこともなく、どのような詩人であるかも知らないのであるが、他界した父が、「月夜の晩に、ボタンがひとつ波打ち際に落ちていた」という彼の詩の一節を、幾度となく呟いていた記憶が残っているだけである。しかし、そこから、なんとも言えない情感が漂ってきて、気になる詩人ではあった。
記念館は、生家に建てられていて、湯田温泉街にある。そこで、「内海誓一郎」の名を目にした。既に故人になられているが、この方を20年まえに取材し、記事を書いたことがある。温厚な紳士で当時89歳であった


 音楽はなぐさめ   内海(うつみ)誓一郎さん(平成三年・春号)
 一九八九年『群像』(講談社発行)二月号に「中原中也と音楽」というタイトルで内海さんの論文が載っている。音楽と作曲に若い時から惹かれていた内海さんは、諸井三郎の主宰する作曲運動の同人団「スルヤ」を通じて中原中也を知ることになった。昭和三年の頃で、中原中也は無名の新人であったが、あるときぶっきらぼうに、 「お前も俺の詩に作曲しろよ」と言って下宿に連れて行かれ、手渡された多くの詩稿の中から『帰郷』という詩に曲をつけることになった。内海さんは作曲するにあたって、その詩の一部の表現を変えた。自分の主張を通す中也は、スンナリ内海さんの考えを認めて曲は完成した。八十六歳の時、こうしたいきさつを『群像』に発表したのである。中原中也を深く調べていた作家の大岡昇平は、内海さんのこの歴史的証言に添え書きを寄せて、自身の研究の正しさが確認されたと述べている。
 内海さんは、第一高等学校から東京帝国大学に進み、理学部で化学を専攻した。化学と音楽という組み合わせがあまりにも対照的なので、お尋ねすると、
 「父が早く他界し、女手一つで育ててくれた母親を心配させないためにも、就職しやすい道を選びました」という答えが返ってきた。当時音楽で生計を立てるなどという発想は、あまりにも冒険的で、肉親の反対は目に見えていた。しかも、戦争へと向う時代背景もあった。
 「私は信仰をもっておりませんが、人を深く感動させる音楽は、神に通ずるものと確信しています。私にとって、音楽は〝なぐさめ〟で多くの人が思うような〝なぐさみ〟ではありません」
内海さんは、バッハの曲にそれを感じるという。とりわけ、『マタイ受難曲』は、神に祈るようにして作られ、それはまた、神から贈られた作品だと、バッハは、作曲に際し涙して筆を進めたことを容易に想像できるという。
  

Posted by okina-ogi at 20:08Comments(0)日常・雑感