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2013年05月31日

『福祉を廻る識者の声』16(清水英夫)

寮母の資格制度について            清水英夫
 施設ケアから在宅ケアへの転換及び地域社会におけるケア体制の確立という老人養護体系変革の時代を迎えて、ホームヘルパーや寮母などの資格制度が要望されている。
 老人養護に従事する者のうち、医師・看護婦・保健婦および栄養士などは専門職になっているのであるが、社会福祉職は専門職化されていない。なかでも、老人養護の直接処遇者であるホームヘルパーや寮母には何の資格条件も定められていないため、その資格制度制定の要望が最近とみに活発になってきたようである。老施協の最近の調査によると、施設長の回答では、必要とする者八九.九%、必要としない者八.二%、不明一.九%のようであるが、老人生活研究所行う研修会参加寮母の回答(三八二名)では、必要とする者六六.二%、不要とする者十五.〇%、不明十八.八%となっていて、施設長の要望では約九〇パーセントであるにも拘らず、寮母本人の意識では僅か六六.二%の者しか必要としていない。
 これは、寮母の学歴状況(老施協)が小中学校卒三四.八%、高校卒四一.四%、短大卒以上二三.〇%という幅広い分野にわたっているためであろうと思われる。
 かつって、老人養護は家族の手によって行われていたけれども、現代社会では家族の用語も力が極めて弱体化すると共に、老人養護ニーズも多様化してきたので、今後は社会的養護体制を確立して職業人としてのプロの手に委託されなければならないという高齢化社会のなかで、医療施設における看護はもちろん、老人福祉施設における介護においても、現状の如く老人養護についての基本教育が殆どなされていないので、単に常識的な対応で間に合わせていることはもう許されない。早く資格制度を作り、その養成を図るべきであろう。
 
清水英夫(しみずひでお)。老人ホーム施設長(二十五年前)。短期大学講師(十二年前)。現在財団法人老人生活研究所理事長兼所長。高等看護学院講師。  

動物的有機体              (昭和六十二年・冬号)
 マリヤ館Ⅱ号館・Ⅲ号館が完成した。この年の瀬、新居への引越しが連日のように続いている。梅香ハイツ職員は、まさに師走の月にふさわしい奮闘ぶり。新マリヤ館の入居が終了すると梅香ハイツの人口は約一五〇人になる。六十年に完成した榛名春光園を合わせると二〇〇名を越える。
榛名湖方面への県道を境に左に健康老人の住宅群が整った。左の翼を拡張すれば、右の翼もバランスとして整えなければならない。恵泉園の移転改築工事は、入札が終われば、新年早々にも着工される。県道より右は、榛名憩の園を含む要介護者施設群となる。
かつて、船舶振興会会長の笹川良一氏は、新生会を動物的有機体と評した。これは、コンビネーションシステムへの最大級の賛辞である。六十二年は、両翼を整えた新生会鳥の羽ばたく年にしよう。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 21:57Comments(0)日常・雑感

2013年05月31日

『福祉を廻る識者の声』15(原公朗)

らしさ                     原公朗
 「いかにもあの人らしいですね」といった言葉が会話の中に出てくることがあります。学者らしい、学生らしい、これも日常使われていると思います。簡単な「らしい」という表現の中に、良くその特徴を捉えているのに驚かされます。この反面、性格の曖昧な人、また個性の乏しい人は、理解しずらいのではないでしょうか。また「男らしくない」、「女らしくない」など「らしさ」の反対もあります。性格が明瞭で表現が適切な場合が
「らしさ」となって現れてくるのでしょう。
 建築創造の難しさの一つにこの「らしさ」があります。「性格の表現」を如何にするかの難問です。大学のキャンパスならそれにふさわしい雰囲気を持ち、更に〇〇大学「らしい」、そこまで出来ていれば百点満点でしょう。また看板を見なければ倉庫なのかデパートなのか判らないようでは落第です。
 〇〇会社の社屋「らしい」、〇〇さんの住まい「らしい」、つまり「らしさの建築」を創りたいと頭を悩ませるわけです。
 建築空間にその「らしさ」を特質として表現する源泉は、企業や集団が揚げている社是やポリシーにあります。更にこの精神を具象化する建築家の手腕によるものと思われます。多くの試みの中から一つのテーマを創りだし、大きなコンポジションからディテールに到るまで一貫して表現して行く。
 歴史の流れの中にも同様のことが見受けられます。新しい文化が生まれ〇〇時代と呼ばれるエポックを画すると他の時代とは異なった特色がはっきりと現れてきます。発掘された一片の陶器からでも専門家は、その時代を見定めることでしょう。つまり時代の様式によって判断が可能であるからです。時代の精神を具象化、昇華させたものが、その時代の「らしさ」であり様式なのです。
 個人や社会の歴史も同様であり、様式を確立することが、文化であり芸術ではないでしょうか。
 
 原公朗(はらきみあき)。原建築設計事務所代表。一九五七年早稲田大学理工学部卒。現在、恵泉園・ケアホーム新生の園設計中。          

ツヤ夫人昇天                  (昭和六十一年・秋号)
 八月九日の盆踊り大会の日、この季節には珍しい涼風が吹いて、実にあざやかに澄み切った夏空に、天の川がくっきり浮かんだ。
 はてしなく 澄む追悼の 天の川
 七月十八日、〝奥様〟が亡くなった。初代恵泉園園長、原理事長夫人、原ツヤ氏である。老人にとって、心の底から信頼できる人が〝奥様〟であった。その精神が、今日の新生会の伝統を支えている。八月二十三日の本葬は、合同葬であった。榛名荘病院、教会、新生会の人々が、〝奥様〟を追悼することの一点に結集して式を行った。
 榛名荘病院と新生会の根は一つ。キリスト教精神に基づく医療と福祉の実践。この〝奥様〟の辿ってきた道をもう一度両者は自覚し、手をとりあっていきたい。今、各施設には、奥様自筆の榛名荘新生会創業の精神が記された額が掛けられている。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 09:03Comments(0)日常・雑感

2013年05月30日

『福祉を廻る識者の声』14(平井俊策)

温故知新                   平井俊策
わが国の平均寿命は年々目覚しく伸び、遂に男女共世界一に達しました。北欧長寿国のレベルに今世紀末には追いつきたいというのが目標でしたから、まさに驚異的な伸びといえましょう。養生訓で有名な江戸時代の儒者貝原益軒は、「五十にいたらずして死するを夭という。是また不幸短命というべし」といっております。今日から見れば当然ですが、人生五十年といわれ実際に平均寿命がそれ以下だった当時の事を考えると、「人の寿命は養生次第でもっと伸びる筈だ」という彼の信念と啓蒙的な考えがその裏にあったものと思われます。
さて寿命が伸びた事は喜ぶべき事ですが、活動的で生きがいのある老年期ででなければ余り意味がありません。このためには、まず、いくつになっても何らかの目的を持ち、自らふけこまないようにすることが第一です。富嶽三十六景などを画いた江戸末期の浮世絵師葛飾北斎は、「己六歳より物の形状を写する癖ありて半百の頃よりしばしば画図をあらわすといえども七十年画くところ実に足るものなし、::八十歳にしてますます進み、九十歳にしてなおその奥義を極め、一百歳にして::」と記していますが、まさにその意気込みを見習いたいものです。益軒は八十四歳、北斎は八十九歳で世をさりました。
このように気を若く持つことと共に平生から健康に気をつけておく事が活動的な長寿の道です。これまた江戸時代の俳人である横井也有は、健康の秘訣として、「少肉多菜」、少塩多酢、少糖多果、少食多齟、少衣多浴、少車多歩、少煩多眠、少忿多笑、少言多行、少欲多施」をあげています。現代医学からみて実に素晴らしい十訓です。今日の寿命の伸びが医学の進歩に負うものであるであることはもちろんであり、必要に応じその助けを借りる事は大切ですが、その前にこれら先人達の教えに耳を傾けてみることも必要なのではなかろうかと思う次第です。

平井俊策(ひらいしゅんさく)。群馬大学医学部。一九六六年東京大学医学部卒。同大学院、第三内科、老人科を経て一九六九年四月より現職。専攻・神経内科。 


老人の声                (昭和六十一年・夏号)
〝論壇〟に原稿を寄せていただいた古瀬徹氏は、厚生省の第一線を自ら辞して、老人福祉の研究者の道を選んだ人。その決断は実に潔く爽やかである。氏は、地味にかつ几帳面に、福祉の現場の声に耳を傾けておられる。老人ホームの職員の質を高める上で、計り知れぬ役割を果たしている『老人生活研究』は、氏の貴重な研究資料と聞く。また、全国老人施設大会の研究討議に高い評価を与えられている。
〝理論と実践〟の統合。氏の研究は老人の仕合わせに確とつながっている。七月六日は衆参同日選挙。各立候補者の選挙カーが連日街頭を走って票獲得に凌ぎを削っている。新生会の入居者は四百人に近い。新生会は、小さな町の大票田である。各人の貴き一票を明日の仕合せ、福祉の前進のために大切に投じたい。これを受ける政治家には、誠実さを望む。老人の声は、天よりの声である。(翁)
  

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2013年05月29日

『福祉を廻る識者の声』13(曽野綾子)

フラワーポットの秋              曽野綾子
 今、姑がお世話になっている「憩の園」のヴェランダに小さなフラワー・ポットがあって、私は最初から気になっていた。実は数年前から、私は花作りが好きになっていて、ワープロやコンピューターの入った書斎の窓辺で、欄やベゴニヤをかなりうまく育てている。だから、私は榛名の気候に合わせた花を植えて、植物の面倒見にいい姑に任せて帰ろうと思っていたのであった。
 しかし、姑はこのフラワー・ポットに関して大変優しかった。彼女は私のように、フラワー・ポットを堀っくり返して自分の好きな花を植えようなどとは企まず、前その部屋に住んでいらした方が残された花を育てることに決めたらしかった。
 私は東京から、乾燥した牛糞に科学肥料を少量混ぜたものを持って行って、時々ポットの土に混ぜるために置いて行った。しかし姑のやり方はもっと原始的だった。昔からそうだったが、食事で残したものを、こまめにちょこちょこと土に埋めて置くのである。堆肥というものは、ほんとうは醗酵させてから埋めなければならないのだろうが、姑のは生ゴミに近いのだから、大丈夫だろうか、と心配したこともあったが、それが流儀なのだから、その通りにやるのがいいと思う。
 植物を育てることは、人間にとって自然な営みなのだと思う。私は土いじりとは無縁の生活をしてきたが、数年前、眼の病気をして読み書きができなくなった時から畑に出るようになった。戦争を知っている世代だから、初めは野菜を作って満足していたが、だんだんと果樹や花まで植えて、畑仕事のいろはを覚えたのである。
幼い子を見ることと、植物を育てることは、老年には特に必要だと思う。姑の丹誠の甲斐あってかどうか、前の方がお植えになった黄菊が、秋ひとしきり私たちの眼を楽しませてくれた。
曽野綾子(そのあやこ)。一九三一年東京生まれ。聖心女子大卒。作家。臨時教育審議会理事。日本ペンクラブ理事。「神の汚れた手」・「湖氷誕生」他著書多数。       (昭和六十一年・春号)

眼は心の窓                   (昭和六十一年・春号)
 巻頭言は、作家の曽野綾子さんにお願いした。氏は、近年白内障の手術を受けられた。失明の窮地から一転、近視までも回復され、今はとても爽やかに物を見る眼をお持ちでいらっしゃる。眼は、作家にとって命ほどに大切なもの。氏は、この回復された眼を〝贈られた眼〟と感謝し、創作への意欲を燃やされている。三浦家では、 ワープロが人気とみえて、原稿は夫君朱門氏と同様に愛用のそれの文字(?)で頂戴した。
理事長は、十年先を見て事業をするとよくいう。これは先見性という眼であろう。新マリヤ館の工事が始まり、恵泉園移築のための設計も終わり、工事開始を待つばかりとなった。これらの事業も、先を見る眼で構想されている。
 また、〝眼は心の窓〟である。それゆえ、心は気高く、また慈しみ深くありたい。潤いをもたらす仕事はここから生れる。(翁)
  

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2013年05月28日

『福祉を廻る識者の声』12(新藤二郎)

鷲の如く                   新藤二郎
 榛名荘に初めて伺ったのは昭和三十年頃であった。新島学園の同僚が入院していて、私自身も結核療養所にお世話になった経験から何度かお見舞にあがったのである。室田のバス停から歩く途中の梅の香りが、病院をもつつむようであった。
 しばらくして、中学時代ともにサッカー部で苦楽を担い合った先輩である須貝新氏が院長として着任した。単身赴任の彼は、時折訪れる小生を院長宅につれてゆき、なつかしかった中学時代や仲間達の動静など、時のたつのも忘れて語り合った。父が聖公会の大先生であった須貝先輩は、明るく世話好きの名医であったが、帰京後しばらくして逝去され、残念ながら思い出の人となってしまった。
 十年程前になるが、新島学園高校のインターアクトクラブが地域社会への奉仕を考えたとき、生徒が継続的にお手伝いさせてもらえる場として榛名荘の姉妹施設、新生会の老人ホームが浮かんだ。クラブ顧問だった私は、故人となられた松島一男先生のお力添えを得て、日曜ごとに数名の生徒が、特別養護老人ホーム榛名憩の園にお邪魔することを許されて、生徒とともども何度か伺うことになった。
 ご承知の通り、核家族化が進んだ現在、子供達が老人に接する機会は極めて少なくなっている。まして、身体が不自由になられた方のお世話を少しでもすることは、大変貴重な経験で、老人問題、家族問題についていろいろ勉強させられるようである。
 人生の経験をつまれたお年寄りとの会話のやりとりからも、紙上の学問でなく、生きた経験の力強いこと、自分の将来はどうであろうか、もっと老人問題に関心をもたなくてはなど、さまざまの感想を訴える。
 年若い者も弱りかつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲の如く翼をはってのぼることができる。
 イザヤの言葉をともに学びたい。
 
新藤二郎(しんどうじろう)。現在新島学園中学校・高等学校校長。府立五中、松本高校、東京大学卒業。一九五三年より新島学園に勤務。一九一九年生まれ。      (昭和六十一年・冬号)
 

   温石                       (昭和六十一年・冬号)
 外出には懐炉が必需品というご老人もいる。上州の冬は寒い。
他郷にて 懐炉しだいに あたたかし
                桂 信子
 懐炉の温もりは、体のみならず心をも温めてくれる。冬晴れの日、梅香ハイツと新築なった榛名春光園の白い建物が重なって里見街道からくっきりと見えた。入居者の多くは、他郷から訪れた人々である。昔は、石を火で暖め、布で包んで暖をとった。石の温もりもまたよい。
 新生会は、日本生命財団より助成を受け、地域の痴呆性老人のためのサービス事業を始めた。その広報誌の名前に〝温石〟を選んだ。福祉の仕事には時間がかかる。特に、在宅福祉は、行政とのからみ、住民意識の問題もあって尚更の感がある。しかし、一度温まったものは冷めにくい。〝温石〟と名付けたのもこのためである。(翁)
  

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2013年05月27日

『福祉を廻る識者の声』11(八代崇)

 同情ということ                 八代崇
 人間を他の動物から別けへだてる要素のひとつは、孟子の言う「惻隠の情」であるといってよいだろう。日航機墜落事故以来、日本中の人々がテレビの前に釘づけされた。わたしもそのひとりである。不幸な目にあった人を見ると、だれしもかわいそうだと思う。新約聖書でも、イエスが病の人を癒す場合も、その人を「あわれんだ」からだと記されている(例、マルコ・一・四一)。
 ただ、わたしたちが「あわれん」だり、「同情を寄せたり」する場合、とかく健康人が病人を、金持ちが貧乏人を、成功した者が失敗した者を、といった具合に、安全な場所、一段高いところから下の者を見下ろすような態度に終始する場合が多いように思う。テレビのブラウン管のこちら側にいて、遭難者に対してちょっぴり同情するといった風にである。
 「あわれむ」という言葉を聖書の原語に即して直訳すれば、「内臓が痛む」ということである。テレビのこちら側にいて、苦しんでいる人を傍観者的に眺めているのでは、内臓は痛まない。内臓が痛むためには、苦しんでいる人のところまでおりていって、その苦しみを共に味わう必要があろう。
 「あわれむ」とか「同情する」ということが、「内臓が痛む」ということであれば、わたしたちが健康であればあるほど、能力があればあるほど、金があればあるほど、困難なことだと言わざるをえない。通り一ぺんの義理や人情ではやりえないのが、「内臓が痛む」という意味での同情するということである。先月、フィリピンのスラム街を視察して、この飽食暖衣の日本から来て、同情することの難しさを痛感させられたものである。
八代崇(やしろたかし)。日本聖公会北関東教区主教、立教大学教授(教会史)。米国オハイオ州ケニヨン大学・米国ヴァージニア神学校卒業。一九三一年生まれ。       (昭和六十年・秋号)

新生誌編集後記
 昭和六十年十月二十日発行の社会福祉法人新生会広報誌「新生」の編集担当者となってより、平成十三年四月二十日発行の第二十四巻春号まで約十六年間編集後記を書いてきた。一六字×二十三行、字数にすると三六八字、四〇〇字詰め原稿用紙一枚に満たない長さの文章である。タイトルはつけていなかったが、「編集後記」を編集するにあたりつけることにした。新生誌は季刊であり、年間四回発行するから全部で六三回掲載した。年齢で見ると三十三歳から四十九歳ということになる。その時代、その年齢の記録として日記のような季節記の意味でまとめることにした。還暦を過ぎると人は過去を振り返りその足跡を整理して見たくなるものなのだろうか。「翁」のペンネームで書いてきた。日記帳の整理のつもりである。

日航機墜落                    (昭和六十年・秋号)
この夏、日本列島は、三〇度を越える暑さの中に連日包まれた。上野村に日航ジャンボ機が墜落したのは、八月十二日の夕。五百二十名の死者を出す大惨事となった。
酷暑と地形的悪条件、加えて遺体が散乱する惨状の中で救助隊はよく頑張った。上野村の人々の対応も見事だった。連日、消防団員は山に登ったし、村人は行事も返上して救助に協力した。マスコミは、〝山深い村に残された人情〟と美談扱いをした。
村の人達は、人命救助、遺族の悲痛な心境を想い唯必死でやったのだろう。福祉は単なる慈善事業ではないし、人から偉いといわれるほどの特別な仕事でもない。今、上野村では墜落現場への道作りが話題になっている。遺族への温かい心遣いを感じる。(翁)
  

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2013年05月26日

『福祉を廻る識者の声』10(桜井美国)

尽す                     桜井美国
 私の友人がこんなことを言いました。
 多分私が、何か問題を抱えていて、愚痴の一つもこぼした時だったのでしょう。〝今、自分が置かれている境遇に不満があるとしても、それは自らが望んでそうなったものと思うべきだ。問題にぶつかっているとしたら、それは天の試練を受けていると考えるべきだ。
 世の中がいまほど幸せと考えるか、それとも身の不運を嘆き悲しむか、それはその人の心の持ちようとでもいうのでしょうか。
 私事ながら、今から三十数年前、胸を患って榛名荘病院にお世話になりました。
 今で言えばガンになったようなもので、十八歳の年でもう自分には人生はないものと毎日毎日が、それはもう真っ暗でした。それを自ら望んだ運命と考えろと、そのとき言われたとして、受け入れることが出来たでしょうか。幸い、今自分が健康で、幸せだから、友のそんな言葉をなるほどと思えるだけじゃないでしょうか。
 私は宗教に暗いほうなので良く分かりませんが、きっとキリストの教えの中にも、仏教の教典の中にも、同じような教えがあるのではないでしょうか。私が当時救われたのは、私より重い患者の人が、私を勇気づけて下さったことでした。今から思えば、私はそのときの境遇に嘆き悲しむばかりで、自分よりもっと辛い立場にいられる人のことを考えることができなかったのです。
 こう考えると友人の言葉は、理解することが出来ます。世の中の決して幸せといえない人々のことに、思いをよせよう。もしも自分が不幸だと思うなら、それは自分で望んだこと、望まずに不幸になった人の力にこそなるべきだ。
 私の伯父が、今年米寿を迎えます。その伯父が、これからも人のために尽したいと言っています。原先生の御一生もまさに人のために、捧げていられると、常々敬服しています。
 桜井美国(さくらいよしくに)。桜井機械販売株式会社社長、社会福祉法人新生会理事、同後援会副会長、父君故桜井隆三氏の代よりの理解者、後援者。           (昭和六十年・夏号)
  

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2013年05月26日

『福祉を廻る識者の声』9(三浦朱門)

老人の世界                  三浦朱門
 老人はできうる限り、若い世代と一緒に暮らすべきだと思う。
 戦後の過ちの一つは、核家族とかいって、老人を含まない家庭を作り、それを何か近代的で望ましい形のようにはやしたてたことにある。そこでは老いは醜悪な、未来に待つ死の使いのように感じられる。しかし家庭に子と親、また、その上の世代とそろっていることの意味を発見しつつ、協力する心を養える点にある。
 しかし老いがある程度にまで進むと、家族との一緒の生活が難しくなる。それは老人の体力、知力の衰頽というよりも、情緒的に家族の連帯感、つまり家族意識といったものから脱落してしまうからであろう。
 最近、我が家の秘書さんの父君が重い病気になった。秘書さん結婚してはいるが孝行な娘だから、私たちやお手伝いさんと一緒に食事をしながらも、彼女は父親の病状を話して涙を流してしまう。
 それを聞いている者は、もらい泣きはしないまでも、彼女の悲しみを軽くするにはどうしたらよいか考えずにはいられないし、その前に病人がなんとかならないものか、心を痛めることになる。
 しかしその総てに無関心に黙々と食事をするのは、八十六歳の私の父である。耳が遠くて話が聞こえないにしても、隣にいる秘書の涙は見えそうなものである。つまりその時、父は家族と共に食卓を囲んでいながら、たった一人、別の世界にとじこもっているのだ。
 耳や目の能力の減退があるように、感情の鈍麻があって、老人は家族の共同の喜怒哀楽から遊離してしまう。老いというのは体力や知力の面からばかりでなく、情緒面でも家族の連帯感を失う。そこにも老人が自らを孤独にしてしまう要因がある。

 
三浦朱門(みうらしゅもん)。一九二六年東京都生まれ。東京大学卒。一九六七年「箱庭」によって新潮社文学賞を受賞して文壇にデビュー。今年四月より文化長官に任命される。(昭和六十年・春号)
  

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2013年05月26日

『福祉を廻る識者の声』8(丹羽正治)

無理                     丹羽正治
 近頃の新聞紙などを見ていると、サラ金でああだこうだということがよく書かれている。特に去年の後半ぐらいから、サラ金の貸手の方が倒産したり潰れかけたりしているという記事が見受けられるようになった。
 御承知のように金を借りる人があるなら金を貸す人もある。
サラ金という名で貸したり借りたりする場合には、世間のヒトもピンと来るように借手にとっては切羽詰った金の借用であり、貸手にとっては大変高い利子をとろうという融資なのである。
 借りる人は、普通の銀行や郵便局へ行って預金を引き出すことも出来ねば、そこから借入をすることも出来ぬ人たちで、勿論友達や親類などにも頼みにゆけぬ人であろう。
 又事業資金のように計画的なものではなく、全く返済のあてもつかぬような極めて無計画借金である。
これで期日通りにチャンチャンと返済してゆくのは不思議なこと位は始めからわかり切っている。貸手の方もそんな事は承知の上でサラ金業者になっている。
 普通の利息をとって、又然るべき担保をとって金を貸す普通の銀行がチャンとあることも知りながら、こういう貸金業者をする。貸した金が返らなくても一寸も不思議はない。
こうしてみてくると貸手にも無理がつきまとっている。だから最初は借手の哀れな状況が伝えられたが最近になって貸手の方も参ってしまう事になった。
 これは一例だが、人のやる事というのは、すべて、無理を伴うような事で成功することは出来ないのだという事がよくわかる。
 健康上の諸問題でも、色んな物事の運営でも、人間同志の交際でも、すべて考えの基礎に若し無理があると考えた時は、信頼出来る人に判断を仰いで矢張り正しい道を歩むというのが最上の道。
 原正男先生は私の尊敬する方。この方の人生に無理はなかった。
 丹羽正治(にわまさはる)。松下電工株式会社会長。           (昭和六十年・冬号)
  

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2013年05月26日

『福祉を廻る識者の声』7(前原勝樹)

頭の若さが寿命の根源             前原勝樹
 この上欄の題字「新生」は、約五十年前私が書いたものである。私は既に八十歳を超えているが、理事長原正男君にはじめて巡り合った時は私が三十歳、原君は二十代の青年であった。
 私が結核専門医として開業し、自然療法即ち大気安静栄養で肺病は治る、と旗をあげた時、仲間の医者や県の役人から反撃を受けた。その時勇敢にも援軍として現れたのが、実に青年原正男君であった。君曰く「僕は自然療法で肺病を治した体験者である。先生一緒に戦いましょう」と申し出たのである。
 私は勇気百倍して自然療法の普及やその実験場である療養所の開設に挺身した。そしてその機関紙として生まれたのが、実にこの「新生」である。
 そこで原君の案内で北関東一帯へ実地指導にのり出し、先ず私が桐生ヶ丘療養所をつくり、ついで原君が榛名荘を創立したのである。私は兵隊にとられるまで毎月一、二回榛名荘に往診し、帰りはいつも終列車になった。
 終戦後榛名荘も私の桐生ヶ丘療養所も大いに繁昌したが、ストマイの発見等で患者は激減し、お互いに危機に瀕した。私は精神病院に転向を企てて失敗したが、原君は老人ホームに着眼して今日の大榛名荘の基を作り、民間福祉施設として天下に名を派するに至った。
 思うに原君は、信念と努力の人であり、当時不治の病とされた結核を医者と決別し、独自で治したその信念、これが同君に不屈不動の根性を与えたのである。
 私はその後ロータリーやユネスコという民間国際団体に専念し、いずれも最高の役職まで昇ったが、既に八十歳を超えたので、残念ながら下り坂になっている。しかし、原君と一緒に当時の医学界に反逆して自然療法を唱えた、その反骨はまだ残っている。
 寿命は肉体には関係なく精神にありと信じている。それに他人(ヒト)に遭うことが、その精神の若返り方の最たるものと信じ、日本中、世界中をわたり歩いている。
 
前原勝樹(まえはらかつき)。前原医院院長。              (昭和五十九年・秋号)
  

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2013年05月26日

『福祉を廻る福祉の声』6(原慶子)

プライバシーと親和性                  原慶子
 昭和四十九年の四月の四月に榛名憩の園の指導員として老人ホームの仕事に関わって早十年余りの月日が流れました。
 当時カッカと「一人を凝視(みつ)める」ことで私の心は燃えていました。
 そして今、私の関心は「私が一人を凝視める」ことから「真の意味での個の尊重」に移ってきています。
 先日二十日間ほどヨーロッパの老人国(いずれも六十五歳以上の人口が十パーセントを越えている)を見学してきましたが、ただ街を歩いているだけで沢山の老人に会うことができるのです。
 何も老人ホームを訪ねなくても、レストランにも公園にも商店にも優雅にくつろいでいる老人達の姿が在るのです。街の随所で出会う老人達はどの人もにこやかにゆとりをもって周囲の人々や風景を楽しんでいるように見えました。彼らはきっと誇りと自身をもって年をとり、自分の生活をエンジョイする感覚に恵まれているのでしょう。
 もう少し硬い表現をすれば、「自分を生きている」とも言えましょう。また「自と他の個を尊重した社会」だからこそあのエレガントなエイジングが存在するともいえましょう。個の尊重が充分なされる文化と、そのことを経験的に知っている人々の手で、優雅な老化は創造されるのでしょう。私は個の尊重の基本に決して欠くことのできない条件はプライバシーだと思います。プライバシーとは空間的には個人の占有空間であり、精神的にはその人の独立した固有な心理的時間のことです。個の自立、つまり人間らしく在るための時間と空間がかなえられたときに人はゆとりをもって、他者に親しみを感じ、さりげなく温かく語り合いたい気持も起ってくることでしょう。それが親和性です。
 一つの住環境にぜひとも必要なのは、プライバシーを快適に保証することと、みんなで使える多彩なコモンスペースです。いつでも誰でも気楽に利用できるコモンスペースの貧しさが、日本の老人ホームの建築的貧困ともいえるのです。これからの老人ホームは、この点を充分考慮したものであることを願ってやみません。
 原慶子(はらけいこ)。特別養護老人ホーム榛名憩の園園長。      (昭和五十九年・秋号)
  

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2013年05月24日

『福祉を廻る識者の声』5(古瀬徹)

技術の進歩を老人介護にも           古瀬 徹
 先日お邪魔した九州のある老人ホームでは、栄養士さんがよくやめるというお話でした。そこでは、オフイス・コンピューターを導入されていてメニュー選択、カロリー計算が瞬時にできるプログラムが組み込まれていますから、ふつう栄養士さんがされる仕事は機械がやってくれるのです。そして、その栄養士さんには、寮母さんと同じようにお年寄りの世話をしてもらっているということでした。
 今の職員数で、十分なお世話をするのはとても無理だから、園長さん以下率先して、直接処遇にむけているということでした。
 お年寄りのケース記録には、コンピューターを使わないというご方針を採っておられるのには感心しました。文明の利器を使いこなして、それで浮いた力をお年寄りのお世話に注ぐけれども、プライバシーの点から、やってはいけない分野があるというお考えは、筋道がとおっていると思いました。
 これからは、老人ホームに勤務する人達の労働条件を一層改善していかねばなりませんが、他方、若い人達が少なくなりますから、機械によって合理化できる部分は工夫を重ねていくことも重要な課題になってくると思います。
 こういう観点で、私はおむつの問題に関心を寄せています。
 ここ数年、現場から問題提起されていますように、離床を図り、リハビリをするなどおむつを使わないですますように老人ホームでの処遇全体のやり方見直すことがまず重要です。
 しかし、中には、どうしてもおむつを使わざるを得ない場合がでてきます。最近、品質の向上してきた紙おむつなども、まだコスト的には高いようですが、女性の生理用品の改革があったように、いずれ欧米なみに、使い捨ておむつの時代がくるのではないでしょうか。品質の基準や廃棄システムなどを含めておむつ問題と取り組んでみようと思います。
 第一線で日夜ご努力されている皆様方からのご提言をお待ちしています。
 古瀬徹(ふるせとおる)。厚生省社会局老人福祉課長。 (昭和五十九年・春号) 
  

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2013年05月24日

『福祉を廻る識者の声』4(柚木崎次郎)

あたりまえのこと              柚木崎次郎
 昨年の敬老の日の直後、行政管理庁から「老人対策に関する行政監察」結果が発表されました。その時、大変気になったのは、特別養護老人ホームで、深夜おむつを替えていない施設が五二.八%、午後五時以前に夕食時間を決めていたのが、四〇%という数字です。
 「夜中に、おむつが濡れて気持ちが悪い」「普通の夕食時間に食べたい」このごく当然なことが、老人福祉法が施行されて二十年も経つというのに、特別養護老人ホームの約半分が行っていないという現実です。
 ごくあたりまえのことが約半数の施設で、何故できないのでしょうか。「入居者の立場」に立つと、あたりまえのことが、「職員の立場」に立つと、あたりまえでなくなるのです。
 「大変だから」「帰りが遅くなるから」という理由で見過ごしてきたのではないでしょうか。これでは、タテマエでは「老人中心主義」と言っているけれど、ホンネは「職員中心主義」と言われても、仕方がないでしょうか。
 「夜中におむつが濡れて安眠できるでしょうか」「夕食を、いつも早めに食べることに、人間としての憩いはあるのでしょうか」。
 「福祉」とは、何も特別なことをやることではありません。普通の人間として、ごくあたりまえのことをするだけなのです。
 「福祉」は、「他人の痛み」を「自分の痛み」として、受けとめることから出発するのです。
 聖書の中の一句に「神は細部に宿りたもう」という言葉があります。
 私流に解釈すれば、老人のお世話には、「老人の心の襞(ひだ)にふれるキメのこまかさこそ大切」と、示唆しているのではないでしょうか。
 


柚木崎次郎(ゆきさきじろう)。茨城県、特別養護老人ホーム西山苑施設長。(昭和五十八年・冬号)
  

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2013年05月24日

『福祉を廻る識者の声』3(高井清)

心ある福祉を求めて               高井清
 何事も外部より見ているのと、自分で実行するのでは全く違うといいますが、わたしも最近老人福祉施設の創設に関係して、その感を深くしています。
 特に、現代我が国の福祉は、政府、いわゆる行政機関が全てこれを行っているつもりでいるようです。これは、わたしたちの側からみると「お仕着せ福祉」と見えるのかも知れません。
 世間では「金を出せば口も出す」というのは当然で、福祉行政もまさにこの構図の典型といえます。
 例えば、わたしは定款の目的に「キリストの愛の精神にもとづき::」と入れたのに、行政担当者はこれを削除するように強く指導して曰く「今や福祉をやるのに精神などなくてもやれます」と自信をもって断言し、結局「博愛の精神にもとづき」とすることで認可を受けました。
 しかしこの行政担当者のいう福祉に於ける「精神不要論」は、その後自分が実際に福祉の現場に深く関係すればする程、このことばは現代福祉を象徴するものとして誠に名言であると思うようになりました。
 聖書のことばに「あなたの宝のある所に、心もある」(マタイ六・二一)というのがあります。わたしたちは自分の心を明確にとらえるのは難しいですが、自分にとって何が宝であるかを探すのはそれほど困難なことではないと思います。そうはいっても、わたしには宝がたくさんあるように思えて迷っていますが、ただ福祉についてはキリストの教えた「自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい」という精神を宝であると思っています。
 福祉は、この愛の精神から始まったのではないでしょうか。行政のカントクの下に心なき福祉を行うより、野に出て「キリストの愛の精神」を旗印に自由に歩みたいと思っているのが福祉新入生の今日この頃です。
 高井清(たかいきよし)。社会福祉法人福音会常務理事、施設長。日本基督教団上高井戸教会牧師。                    (昭和五十八年・秋号)
  

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2013年05月24日

『福祉を廻る識者の声』2(清水三郎)

四半世紀にわたる実績を生かして         清水三郎
 わが日本もいよいよ世界一の長寿国になった。高齢者社会は着実に始まりつつある。かつて我々は「ゆりかごから墓場まで」と、高福祉社会の到来を夢見た時代があったことを思い出す。理想と現実の隔たりの何と厳しいことか。今や、我が国は目前の老人福祉対策に大変な時代となっている。老人福祉の事業は地方自治体の貧しい財政力では手に負えない。
 国の施政の最も大きな課題のひとつである。勿論、国の財政や立法だけで解決できる問題ではないことは明らかである。末端市町村が、施行の面で力をつくさねばならないことであり、更には、国民一人一人が自らの問題として自覚認識して取り組まねばならない課題である。
 人間誰しも老いてゆく。程度の差こそあれ心身ともに衰えることは必定である。自分の将来のために今、何をなすべきか考えなければならない。
 私は地方自治体の施策を、それぞれの団体と協議して、地域住民の老人対策に最良最適の方策をとらねばならない責任を痛感している。具体的にはこのような事業の場合、多くの人々の奉仕協力、施設、資金がそれぞれに充分あることが理想である。施設をつくり、運営資金がどうにか都合できても、人々のこれを支えてくれる奉仕の心と手がなければ運営は困難であり、その成果をあげることはできない。幸いに原先生の率いる新生会が、四半世紀にわたる多くの実績を生かし、新しい時代に対応する施設作りを計画されておられるので、できる範囲の資金協力と、奉仕の心と手を動員することが責務であると考える。
今後とも多くの方々のご賛同とご協力を念願して止まない。


清水三郎(しみずさぶろう)。榛名町町長。新生会理事。        (昭和五十八年・夏号)
  

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2013年05月24日

福祉を廻る識者の声』(井上勝也)

福祉を廻る識者の声』
 上記のタイトルの本が出版されているわけではない。高崎市中室田町に社会福祉法人新生会という老人福祉施設を経営する公益法人があって、広報誌「新生」を発行している。創立は、昭和32年である。遡ること昭和13年に、同じ地に結核保養所「榛名荘」が創設され、創立の中心となったのが、原正男氏である。現在、財団法人榛名荘として病院と、高齢者の介護事業を行っている。原正男氏は、長く両法人の理事長であった。若い時、結核に罹り、結核撲滅を使命に感じ、施設創設の前に、結核療養の啓蒙運動を開始した。その機関紙が「新生」であった。
 昭和58年春に法人の広報誌として再刊され、今日まで続いている。昭和60年の秋に編集を任され、約16年間編集後記も書いた。巻頭言には、多くの識者の声を寄せていただいた。一度広報には載せているが、再掲するのも意味があるかと思い進言したが、実現してない。非売品と思えば、ブログを利用して連載するのも良いかと思いたった。寄稿者の肩書は当時のものであり、現在鬼籍に入られた方もいる。老人福祉の歴史とも無関係ではない内容になっている。
 
 ジェロントピアをめざして           井上勝也
 いま現在、この世のどこにもジェロントピア(老人天国)がないことは確かである。なるほど物質的に恵まれたり、家庭的幸福に身を置いたり、元気に働いたりしている人々は結構いるものだ。しかしその人々の心の中に、「年をとって本当に良かった!」という老いの積極肯定のできる人がどれほどいるであろうか。
 老いを否定し、寝たきり状態を否定することは、自分を否定し、自分の状態を否定したことである。ここには、ジェロントピアがあろうはずがない。たとえ物質的に恵まれ、家庭に恵まれ、元気に働いていたとしても、である。
 自己を積極的に肯定すること、自己の老いも自己の寝たきり状態も、自分の何もかも含めて自己を積極的に肯定すること―それこそジェロントピアではあるまいか。強く自己を肯定すること、それが真のジェロントピアというものなのである。ただし、そのジェロントピアを実現することは、難しいといえば、これほど難しいことはないし、易しいといえば、これほど易しいことはないかもしれない。要するにその人の心のあり方ひとつなのである。
 万巻の書に埋もれて、一行の真実を知らない人がいる。大いなる幸福にいて、幸福を知らざる人がいる。その反対に、一冊の本を読まなくても大いなる真理を知る人もいれば、赤貧を洗うが如くであっても、心豊かな幸福な人もいる。要は、その人の心のあり方ひとつであろう。
 幸福の青い鳥は、散々捜しあぐねた結果、わが家の鳥かごにいた。ジェロントピアも、わが心のうちにあるにちがいないのである。それに気づかなければ、ユートピアが「どこにもない国」であるように、ジェロントピアも「どこの老いにもない」ことになってしまうだろう。
 
井上勝也(いのうえかつや)。東京都老人総合研究所心理・精神医学部心理研究室長。著書『老人心理のアプローチ』、『ハンドブック老年学』、『老年心理学』。二十一世紀の老人を考える会初代会長。
                                  (昭和五十八年・春号)
  

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2013年05月22日

心に浮かぶ歌・句・そして詩117

夏は来ぬ」
作詞 佐々木信綱 作曲 小山作之助
卯(う)の花の、匂う垣根に
時鳥(ほととぎす)、早も来鳴きて
忍音(しのびね)もらす、夏は来ぬ

さみだれの、そそぐ山田に
早乙女(さおとめ)が、裳裾(もすそ)ぬらして
玉苗(たまなえ)植うる、夏は来ぬ

橘(たちばな)の、薫るのきばの
窓近く、蛍飛びかい
おこたり諌(いさ)むる、夏は来ぬ

楝(おうち)ちる、川べの宿の
門(かど)遠く、水鶏(くいな)声して
夕月すずしき、夏は来ぬ

五月(さつき)やみ、蛍飛びかい
水鶏(くいな)鳴き、卯の花咲きて
早苗(さなえ)植えわたす、夏は来ぬ

緑がいよいよ濃くなって、梅雨に向かう頃の田園風景が見事に描写されている。佐々木信綱は、歌人でもあり、近代では珍しく、親子孫4代にわたって歌詠みになっている、子供、孫3代が国語学者である金田一京助を思い出させる人だ。
  

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2013年05月21日

心に浮かぶ歌・句・そして詩116「こいのぼり」

心に浮かぶ歌・句・そして詩116

「こいのぼり」
端午の節句は過ぎたが、5月になると思い出すのが童謡の「こいのぼり」である。長男が誕生して、妻の父親が太い杉の木を切り出してきて、借家だったが大家さんの許可をとって「鯉のぼり」を立てた。数年は、勇ましく鯉が泳いでいた。
童謡の「こいのぼり」で歌われるのは、「屋根より高いこいのぼり・・・・」だが、文部省唱歌で弘田龍太郎が作曲した「こいのぼり」が格調高い。全てを暗証していて歌える人は少ないと思うので歌詞を掲載する。
1. 甍(いらか)の波と雲の波、
重なる波の中空(なかぞら)を、
橘(たちばな)かおる朝風に、
高く泳ぐや、鯉のぼり。
2. 開ける広き其の口に、
舟をも呑(の)まん様見えて、
ゆたかに振(ふる)う尾鰭(おひれ)には、
物に動ぜぬ姿あり。
3. 百瀬(ももせ)の滝を登りなば、
忽(たちま)ち竜になりぬべき、
わが身に似よや男子(おのこご)と、
「こいのぼり」の曲を調べていたら、滝廉太郎が作曲し、東くめが作詞した「こいのぼり」の存在を知った。しかし曲も詞も分からない。どなたか、知っている方がいたら教えていただきたい。
  

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2013年05月20日

『夏の海』(拙著)旅路の涯(後記に変えて)

旅路の涯(後記に変えて)
紀行としての文ではない。過日見た夢を書き留めたいと思って綴っている。しばらくの間心に留まっていて、なんとも不思議な夢であった。
旅に病んで夢は枯野を駆け巡る
芭蕉の辞世の句である。芭蕉の終焉の地は、今日の大阪市の御堂筋のあたりである。齢五十ほどの生涯であった。旅を人生としてきた芭蕉にふさわしい句である。
 奥の細道紀行の同伴者は弟子の曾良であった。奥の細道は紀行文として傑出している。行く先々で名句が綴られ、その凝縮された精神性の高さは、今日にあっても追従を許さない。現代に伝えられている奥の細道は「曾良本」などの写本で、芭蕉自筆のものは残っていないとされてきた。ところが、近年になって、自筆と思われるものが発見され、岩波書店から出版された。
 和紙が貼り付けられ校正されていることがわかる。句にしても芭蕉は、推敲を重ねている。草書体の文字は、几帳面に書かれている。書は人を表わすというが、芭蕉の人物の一面が伝わってくるようである。
 旅の終わりに近い金沢の地で、芭蕉は曾良と別れる。那谷寺に立ち寄り
  石山の石より白し秋の風
の句を残した後、温泉につかり、曾良が腹痛を起こしたため、伊勢の長島をめざして芭蕉との同行を断念することになる。
 このときの曾良の句は、師に劣るものではない。
  ゆきゆきてたふれ伏共萩の原
旅に死すとも後悔はない。萩の花に迎えられて人生の終わりを迎えることは嬉しい。曾良は、師と同行した旅を、おそらく我が人生最大の至福の時間であったことを表現したのであろう。
 「行き行きてまた行き行く」そんな漢詩があった。芭蕉も漢詩に素養があった。曾良にもその影響があったのであろうか。
 
 夢の描写前に、心理学について触れる。
 夢を心理学の研究の題材とした人物がいる。フロイトである。オーストリアの人でユダヤ人である。精神分析学派に属し、ユングやアドラーという人々も彼に影響を受けている。彼らは無意識の世界に関心を寄せた。夢は無意識の世界と深いつながりをもっていると考えた。
 臨床という言葉がある。これは別に心理学の用語ではないが、臨床心理学という分野がある。心を患っている人と向き合ったところに研究の場がある。フロイトも多くのクライエントに接してきた。そうした経験の中で、彼らが意識していない感情(無意識)の中に心的病根があることを確信するようになったのである。心理学史では、二人称の心理学と呼んでいる。
 心理学史に最初に登場するのは、古代ギリシャの哲学者アリストテレスである。彼の著書に『デマニア』がある。私が私の心を考えるということで、一人称の心理学と呼んでいる。
 三人称の心理学は、自然科学に影響を受けたドイツの心理学者であるブントが始めた実験心理学の流れである。ロシアのパブロフや、アメリカのワトソンらの行動心理学もこの流れの中にある。心も科学できるものであれば誰にでも説明できるものでなければならない。ある刺激にはある反応が生じる。そのように説明しようとしたが、人間の場合それほど単純なものではない。長い人生の中で人は、その人独自の記憶を無意識の中に押しやっていることがある。夢というものはそういうことと無関係でないというのである。
 
夢の話に戻る。
峠に向けて、一人の老人が杖をつきつつ歩いて行く。道の傍らには薄があって、夕陽を受けて秋風に揺れている。
日は暮れてゆき、あたりはすっかり暗くなった。それでも老人は一歩一歩峠をめざし登っていく。切りとおしの山道で、両側には崖が迫っている。この先に、宿屋があるかは定かではない。少し山道の傾斜が緩やかになったとき、谷を抜け視野が広がる。
そこには、さきほどの暗闇の世界から一転して眩いばかりの光景が開けていた。遠山がある。それは驚くほどに高峰であり、山肌には白く雪をたたえていて陽に照らされている。しかし、遠方にありながら、地球上にはありえないほどの高山であり、眼前に迫って圧倒される。
不思議なことに、昼の風景のようであるが、やはり夜である。というよりは、大気の無い月世界に立った人が見るような風景に似ている。
高山の背後の空は暗く、星が澄んで輝いている。そして、その輝く星の中を月のような天体が横に移動していく。そのとき、夢見る人は畏れに近い気分のうちに目覚めた。

果たしてこの夢は何を意味しているのだろうか。数週間も残像現象のように消え去らないでいる。いくつか思い当たることがある。
映画「モーセの十戒」で見たシナイ山のこと。薬師寺にある平山郁夫画伯の描いたパミール高原(画題は須弥山であった)のこと。長野県で見た穂高の山並みのことなど。山岳信仰というのがあるが、人々の高山に対する畏敬の念がわかるような気がした。
かつて建造物であったが、ウイーン市街で見たステファン大寺院の天に届けというばかりの姿も思い浮かべている。凍てつくような寒い朝、どんより曇った日に見たゴシック建築の教会にも畏れというものを感じたことがある。
ただ、過日見たこの夢の老人はまさしく芭蕉翁ではなかったかと思うのである。横に動く月を見たとき
月ぞ導べこなたにいらせ旅の宿
この道や行く人もなく秋の風
の句がすぐに浮かんだ。
そして、老人(芭蕉)の行く先には、囲炉裏のある宿が灯りをともして存在していたであろうことを、夢の先のこととして疑わない。
人はやはりおおいなるものの中に抱かれて生きているとしか思えないのである。この夢はそのことを暗示していたのではなかろうか。

   『夏の海』  2002年12月発行(非売品)
  

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2013年05月18日

『夏の海』(拙著)肥後熊本への旅

肥後熊本への旅
 快晴、快晴また快晴。滞在した三日間、肥後熊本の空はくっきり晴れて澄んでいた。師走に近くあっても、大気は肌に暖かく、南国に来たとの感を一段と強くした。
熊本空港から、熊本市街地までは、リムジンバスで約四十五分。羽田発八時三十五分の全日空便に乗り、熊本駅には、正午前に着く。JR鹿児島本線に乗って田原坂に向う。西南戦争中最大の激戦が繰り広げられた場所である。田原坂駅は無人駅であった。各駅停車のワンマン列車で、改札は車内で済ましたが、他に降りる者はいなかった。
 
 明治十年二月、西郷隆盛以下熊本県士族約一万二千人が、政府に異議ありとして鹿児島を発つ。南国には珍しく小雪が降っていた。北上し、熊本城あるいはその周辺で政府軍と衝突する。いわゆる西南戦争である。これ以前、萩の乱や佐賀の乱といった不平士族の反乱がおこるが、規模が小さく、次々と鎮圧され、前原一誠や江藤新平は死ぬ。共に明治政府の要人だった人物である。征韓論によって下野していた西郷隆盛は動かなかった。
鹿児島にあっても、中央政府に対する不満が燻っていた。中央政府といったのは、鹿児島県だけが、政府に税を納めることなく、地方政府のようになっていたからである。現在の知事にあたる県令は、大山綱良であり、島津久光という特別な存在があった。中央政府は、この特殊な環境をなんとしても変えたかった。封建制からの脱皮が、明治国家にとって急務であった。密偵を鹿児島に潜入させたりして、挑発したりした。西郷はそれを良く抑えていた。
 愛犬を連れて、山に狩りに出かけたりして、政治的なことからは遠ざかるようにして暮らしていたらしい。上野公園にある西郷像は、その頃のイメージが高村光雲にあったのではないだろうか。
征韓論という明治六年に一大政争のテーマになった内容は、文字が示すほど単純なものではない。シベリヤから中国東北部を南下するロシアの脅威が背景にあった。国防を考えると、朝鮮半島を無視できなかった。後年、日露戦争が起こるが、明治時代、朝鮮半島は国家防衛のための生命線のような意識が為政者にはあった。李王朝に一刻も早く、鎖国を解き、開国することを求めたかった。西郷は自分が使者となることを提案したのである。
 熊本城を築いた、加藤清正は、豊臣秀吉の派兵により、朝鮮半島に渡った。虎退治の故事があるが、ロシアという虎の成獣に、日本という一日も早く成長して成獣になろうとする小虎の対峙する構図をみるような気がする。
 
 国を守ることにおいて、征韓論に勝利した大久保利通も西郷隆盛も同じであったが、西洋諸国の実情を見てきた大久保の世界観の違いは大きかった。それが政府軍と、薩摩軍の西南戦争における戦い方に現れている。政府軍は、近代装備された徴兵制によって組織された軍隊であり、薩摩軍は、士族の軍隊であり、軍備は旧式で軍装は、幕末の幕府軍のようであった。ただ、徴兵された政府軍の兵士は、百姓軍といわれるほど戦闘には未熟ではあった。
 田原坂駅から標識に従って田原坂を目指す。少し坂を登り丘の上に出るが、そこに至る道は田原坂ではない。二~三キロ程歩いたであろうか、田原坂公園に着く。ここには、慰霊碑や、資料館があって当時の戦場を偲ぶことができる。資料館の一部は、外壁に弾丸が生々しく残っている土蔵となっている。そして、空中で弾丸同士が当たって重なり合った「行きあい弾」を資料館で見た。いかに戦いが激しかったかを物語っている。
雨は降る降るじんばは濡れる
越すに越されぬ田原坂
じんばは人馬ではない。陣場である。
 右手に血刀左手に手綱
 馬上ゆたかな美少年

 薩摩軍の中には、十五歳そこそこの少年達も参加した。この民謡に詠われた美少年は、そうした少年達の総称で特定の個人はさしていないという説明書きがあった。戦いの当時も繁っていた大きな楠木に馬に跨った美少年像があった。
 慰霊塔があって、政府軍、薩摩軍の戦死者の名前が県別に刻まれている。政府軍の福島県のところに目が止まる。戦没者百二十二名の中に、佐川官兵衛の名前を見つけた。戊辰戦争鳥羽伏見の戦いで、会津藩の家老として指揮をとった人物である。北越戦争にも参戦するが、野戦の名将といわれたが、会津藩は破れ、藩士の多くは戦後青森の下北半島の偏狭に移住させられることになる。西南戦争の悲劇の一つは、苦汁をなめていた会津士族に、警察隊として参戦させたことである。その中心人物が佐川官兵衛である。他の士族も維新以来、薩摩憎しの感情を持っていた。政府はそれを利用したともいえる。今日、百年以上の時が経っても、福島県人と鹿児島県人の間には感情的なしこりが残っていると聞く。
 田原坂の戦いは、三月四日から二十日の十七日間にわたったが、雨の日が多かったという。政府軍が用いたのはスナイドル銃でその発射は雨の中でも容易であった。しかも軍服は雨にも強く、履物は靴であった。一方、薩摩軍は元込め銃であり、服は木綿で雨は沁みこみ動きを鈍くし、草鞋履きであった。しかも弾薬も充分ではなかった。勝るのは、武士としての戦闘への気力と刀に対する強い自意識であった。精神力が物力を凌ぐという思想は第二次世界大戦の陸軍の思想に似ている。こうした点は、日本人の体質かもしれない。近代戦争の勝敗は、物量と組織統制と戦略によって決するというのは、今日の常識になっている。
 

 田原坂公園から下る坂が田原坂で、三の坂、二の坂、一の坂というふうになだらかな道を歩く。加藤清正が造った軍用道路だともいう。一部が深く掘られていて、道上から攻撃しやすくなっている。今は雑木や、竹が繁っている。途中に谷村計介の戦死の地の碑があった。この人は、熊本城を守る熊本鎮台の軍曹であり、谷千城長官の密命を受け、百姓姿に見を変えて熊本城から政府軍野戦基地まで、伝令としての役を果たす。途中薩摩軍に捕らえられたりもしたが、政府軍に加わり、田原坂で戦死するのである。その勇気と軍への忠誠心とで後世に名を残すことになった。熊本城の天守閣の入口にも彼の大きな像があった。
 今では何の変哲もないこの坂道を基点として日本最後の内戦があったというのは想像もつかない。昭和になって二・二六事件もあったが、日本人同士が組織して戦うことはこの戦い以後にはない。
 西南戦争には熊本士族の参戦者もあった。池辺吉十郎や佐々友房といった、学校党と呼ばれる肥後藩では守旧派に属する人々である。異色なのは、宮崎八郎である。彼は郷士である。富農な庄屋といった方が正しい。ルソーの民約論を学び、自由民権思想家であった。彼は、熊本協同隊の参謀となりこの戦いで死ぬのだが、弟には宮崎淊天がおり、彼は孫文の中国革命の協力者として有名である。
 西南戦争の頃、熊本の農村では、高利貸しや、大地主を襲う一揆が起こっていた。徳川政権では、税は米であった。それが明治政府になってからは、貨幣になった。金納のできない自作農で没落する者もいた。明治政府への不満は士族だけではなかったが、直接薩摩軍とは連携することはなかった。西南戦争は、封建時代の特権階級が中核になっている。まさに、武士社会の終焉をこの戦いがもたらしたことになる。
 西南戦争の首領になった西郷隆盛であるが、戦を決意するにあたって
 「俺(オイ)の命はくれもっそう」
と言って、最後に城山の近くにあって
 「もう晋ドンここいらでよか」
と言って首を切らせる間、作戦の指揮はほとんどとらなかったという。
 ぬれぎぬを干そうともせず子供らの
        なすがまにまに果てし君かな
という勝海舟の歌からも、多くの犠牲者を出した責任を個人に帰せることはできない。

 ホテルサンルート熊本に二泊の宿をとる。ホテルは四階にフロントがあり階下には紀伊国屋書店があった。この場所が、第五高等学校に赴任した夏目漱石の最初の住まい後であり、結婚式を挙げた所であると建物の正面に刻まれている。式は極めて質素であり、新妻は一九歳であった。
 涼しさや裏は鉦うつ光琳寺
目の前は、銀座通りで繁華街になっている。
 小泉八雲の旧宅を見て、水道町から市電に乗る。終着駅は健軍町駅である。目指すは横井小楠記念館である。地図で見るとまだ一キロ余の距離がありそうだが、タクシーをひろうほどの距離でもない。
 
 横井小楠は、幕末に活躍する肥後藩士である。名は平四郎といったが、楠木正成、正行父子を尊敬していた。名前の由来もここにある。藩校時習館きっての秀才で若い時には、江戸に遊学し、水戸の藤田東湖などとも交友する。初めは攘夷論者であったが、世界を意識し現実的思考を持っていた。
 藩校の党派は三つあって、学校党と実学党と勤皇党であったが、学校党は石高の高い上級武士が多く、保守的な佐幕派であった。小楠は、実学党に属していた。幕末は、列強諸国が開国を求め、きわめて緊張した国難の時代であった。小楠がその見識を認められ活躍するのは、北陸越前藩であった。藩侯は、英明君主とされた松平春嶽(慶永)であった。ブレインとして「国是三論」や「国是七条」などの富国への施策を示す。この頃、越前藩士橋本左内は、安政の大獄で刑死している。このとき、小楠は五十歳を越えていた。
 肥後藩は、倒幕には加わらなかった。勤皇党の宮部鼎蔵は維新に向けて奔走するが、池田屋事件に斃れる。生家は内坪井地区にあって、碑が建てられている。小楠の生地もごく近い。明治二十九年に熊本に赴任した夏目漱石の住んだ最後の家が隣り合わせのような場所に記念館として残っている。
 小楠は、幕末の動乱の中、国の行く末を見つめながら思索を深めてゆく。明治政府は、この英才を九州の地に埋れさすことはなかった。出仕を求められ参与となる。維新の元勲とされる、木戸孝允、大久保利通、西郷隆盛らも横井小楠には一目おいていたという。明治二年、太政官から退朝する途中暗殺される。身を守ろうとして刃こぼれした短刀が記念館に展示されている。時代を先駆ける人は危険視される。六十一歳は当時としては高齢ではあったが、頭脳は極めて若かった。
 
 「横井小楠記念館」は市営であるが、一角には四時軒という塾の建物が復原されて残っている。四時とは四季、春夏秋冬の意味である。この日、開館まもない時間であったためか、入館者はなく、館員の方が専属のようにして説明してくれた。どちらから来られましたかというので、
 「群馬県です」
というと、あるコーナーに案内してくれた。
徳富初子、後に群馬県安中市の湯浅治郎に嫁いだ婦人である。廃娼運動に力を尽したと書いてある。なぜこの記念館に彼女の名前があるのかは、四時軒に学んだ肥後の人々と、同志社のことに触れなければならない。
 四時軒の小楠に学んだ人々の中に、徳富一敬がいる。徳富猪一郎(蘇峰)、健次郎(蘆花)の父である。水俣の豪農、正確には惣庄屋である。初子は彼らの姉である。徳富兄弟が、熊本バンドとして大挙して同志社に入り、新島襄との出会いがあり、その縁で、初子は、湯浅治郎に嫁ぐことになるのだが後妻だった。後妻であったが、多くの子をなした。その中には、同志社総長や国際基督教大学の総長となった湯浅八郎がいる。
 館員の方がおもしろい話を聞かせてくれた。初子が犬養毅との縁談があった時
 「あなたは偉くなっても私を大事にしてくれますか」
と迫り、明確な返答がなかったので断ったという話である。
 四時軒に学んだ、徳富一敬と同じ、惣庄屋の一人に矢島直方がおり、その妹の久子は徳富一敬の妻となり、つせ子は小楠の妻となる。その子時雄は、同志社の総長になる。時雄の妹みや子は海老名弾正の妻になる。海老名も安中教会の牧師となり、同志社の総長になっている。小楠は、勝海舟とも親交が深かった。『氷川清話』に新島襄の名前が良く出てくる理由がわかったような気がする。今回、肥後を訪ねた動機の多くを占めたのは、同志社ゆかりの人々のことである。横井小楠は、その独得の位置にあるとも思える。
加えて、こうした思想的な交わりと血の交わりの中に新島襄という存在があった不思議に惹かれて熊本を訪ねたくなったのである。
 「文豪は名家の末に生まれる」
と言ったのは田山花袋であったろうか。民主主義の時代、目に見えるほどの階級はないが、明治初期に国をリードする人物は、武士や、地主、豪商など特権階級から多く生まれたことを否定することはできない。ただその特権に甘んじて平々凡々と暮らす人と民衆の幸福に命をかけるかの精神の気高さの違いが、後世に名を残すかの分かれ目である。その基礎は学問である。
孔子曰く
 「思いて学ばざればすなわち危うし、学びて思わざればすなわちくらし」
である。
 
 小楠記念館から一端ホテルに戻り、附属のレストランで九州の同志社時代の友人と昼食を済ませ、徳富記念園に向う。繁華街からそれほど遠くはないが、タクシーを利用する。蘇峰の開いた大江義塾跡があり、県指定史跡になっている。徳富旧邸は市の指定文化財である。三階建ての資料館があり、徳富兄弟の数多くの書籍などが展示されていた。
蘇峰が二十歳で塾を開いたというのは、早熟と言えば早熟だが、志しの高さと向学心の高さは驚異的である。
 新島襄は生来の教育者であったが、蘇峰は
 「先生はあまり頭が良くなかった」
という意味のことを語っているが、師の人格には生涯頭があがらず、敬愛し続けた。このあたりに人間精神の不思議さがある。
 
 新島襄の残した言葉に〝倜儻不羈〟(てきとうふき)という言葉がある。「信念と独立心に富み、才気があって常軌では律しがたい」といった意味だが蘇峰は新島襄から見ればこの類に属していたかも知れない。同志社の教育は、できるだけ学生の個性を伸ばし、天下に有為な人物を養成することにあった。蘇峰は、九十五歳の長寿を全うし、昭和三十二年まで生きた。どちらかというと、日本主義、国家主義の論客と見られる人で、国の影にありながら、キリスト教主義に根ざし、〝地の塩〟のように生きた人ではなかったが、同志社の一つの巨星のような人物である。
 
 弟蘆花は文人である。『不如帰』という小説がある。この旅で、機中や車中、ホテルで読んだが、文体は会話を除いて文語調であるが、美文である。三島由紀夫の文章も語彙が豊富であるだけでなく美しいと評価する人が多い。それは、古典の素養と幅広い知識の結果である。蘆花にはキリスト教への信仰がある。『不如帰』は空前のベストセラーとして読まれた。日清戦争後、明治三十年頃の大衆を虜にした。夏目漱石もまだ文壇に登場していない。今も岩波文庫で版を重ねている程である。
 この小説のテーマは、不義と悲哀だと思うが、〝家〟という重しのある時代を知らないと理解できかも知れない。小説を読み終えて、ふと白樺派の武者小路実篤の小説を想い浮かべた。『友情』、『愛と死』、『真理先生』など中学時代夢中になって読んだが、あの頃を思い出したのである。「米百俵」の戯曲や『路傍の石』、『波』などの作者山本有三まで蘆花の小説の余韻が流れ込んでいるような気がする。
 人道主義という言葉がある。あまりにも思想としては広義過ぎて曖昧な言葉である。蘆花も実篤も有三もこの範疇に入れたい。蘆花は、死の直前まで兄蘇峰を許さず、絶縁状態であった。これは想像であるが、文人はとかく俗世を軽視、嘲笑するものである。逆にそれは人間関係が不得手であるとも言える。兄蘇峰の生き方があまりにも俗物に見えたかもしれない。二人は、伊香保で蘆花の臨終の日に和解するが、漱石の『明暗』という未完成の小説の題のように、明と暗は表裏である。明を主張することだけが正しいのではなく、暗もしかり。絵画の冥利は、明暗の調和だと思っている。兄弟は、奇しくも晩年のトルストイを訪ねている。
 徳富資料館を出たのは、かなり夕日が傾いた頃であった。庭にカタルバという聞き慣れない木があった。新島襄がアメリカから持ち帰った種から生長した木で二代目とも三代目とも言われる。秋で花はもちろんないが、五月には白い花が咲き誇るという。その木の前で写真を撮ってもらったが、記念館にもこの木の前で写真を撮った兄弟のものがあった。
 「肥後もっこす」というのは、熊本県人の気性というが、地方文化の独自性が失われつつある今日、旅の途中でそういう人には出会えないと思っていた。ホテルの近くの酒屋さんに寄ったら「肥後もっこす」に会った。塩分の強いおでんには閉口したが、解説付きの日本酒は美味かった。試飲させるわけではなく、有料ではあるがついつい話に酔わされて三種を飲んだ。熊本と言えば、焼酎、日本酒の地酒などあるとは思わなかった。赤酒という甘い酒の存在まで知った。酒に拘る亭主の柔和な顔と熊本弁の心地よさに、理屈っぽい「もっこす」の頑固さへの偏見を払拭させてくれた。漱石先生も良い土地に来たものである。
 
  

Posted by okina-ogi at 12:49Comments(0)旅行記