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2013年05月17日

『夏の海』(拙著)安曇野余話

安曇野余話
 臼井吉見の長編小説『安曇野』を読み終える。時には机に向かい、旅のバスの車内であったり、就寝前、起床のベッドの中で。それでも一カ月の時間を要した。相馬愛蔵、良(黒光)夫妻、荻原守衛、木下尚江といった安曇野ゆかりの人物を通して、明治中期から第二次世界大戦後の時代までの世相窺い知ることができた。
 この小説の中で登場する人物で、井口喜源冶という人物の存在は決して小さくはない。井口は、相馬愛蔵と同級で、松本中学校(現在の深志高校)から明治法律学校(現在の明治大学)に学び、長野に戻り小学校の教師となった人である。キリスト教との出会いもあり、愛蔵らと「穂高禁酒会」を結成し、芸姑置屋の設置に反対運動を起こし、公職追放となり、私塾「研成義塾」を創立し、穂高の農村の子女の教育に生涯を捧げた人である。
 
 JR大糸線の穂高駅の近くに記念館があるが、見過ごしてしまうほど小さな建物である。相馬良が嫁入り道具として持ってきたというオルガンが入口近くにある。塾で使用された教科書や井口の書籍、書簡とともに写真が展示されている。その中の一枚の写真に目が留まってしまった。明治一〇年代のキリスト教関係者の記念写真であったが、その中には、新島襄(四十歳)、内村鑑三(二十二歳)とが並んで写っている。画像は当時の写真としては極めて鮮明で、セピア色にもなっていない。前列には、湯浅治郎(安中出身の政治家、廃娼運動で知られている)や海老名弾正(熊本出身、同志社大学総長など務める)の顔もあった。
 とりわけ、井口喜源冶が尊敬していた人物が内村鑑三である。内村は、まだ鉄道もひかれていなかった穂高村まで上田から馬に乗って三度も講演のために来ている。その講演の中の言葉の断片として塾生が語り草にした言葉が小説の中に出てくる。生徒が野原から積んできた竜胆をさした瓶を教卓から両手で持ち上げ
「この静かな、深い花のいろを見たまえ、また、常念岳に沈む落日を見なさい、安曇野は、これほど神秘で、偉大な自然に恵まれている」
 これは秋の安曇野の自然を語っているのだが、田の一面にれんげが咲き誇り、遠方に雪が消えず残っている五月の常念岳の姿も安曇野の象徴的な風景であるが、今日では、れんげの咲く風景には出会いにくくなっている。
 作者臼井吉見の故郷安曇野の、きしくも内村鑑三が指摘した田園と常念岳などの山々をセットにした風景がこの物語の主な登場人物の原風景となっている。
 
 この小説では、解説を書いた久保田正文が言うように天皇の問題をテーマにしているのかも知れない。臼井の立場は少なくとも国家主義ではない。足尾鉱毒事件で天皇に直訴した田中正造については木下尚江を通じて多くを紹介している。木下自信も社会主義運動家であった。キリスト教社会主義者安部磯雄、無政府主義者として大逆事件で刑死した幸徳秋水や大杉栄などの記述も多い。
 武者小路実篤らの白樺派といわれた人々の運動が長野県の教育界の大きな影響を与えたことも初めて知った。当時の国家からすれば、抑圧される立場にあったというのは以外であった。理想的な人格教育を目指していた白樺派の運動が国家からすれば都合が悪かったようである。それは、日清戦争から十年おきに戦争が行なわれた、日本という国と当時の世界情勢とを考えなければわからない。
 新宿中村屋に亡命したかたちになった、インドの革命家ラス・ビハリ・ボースを通じて、戦前の日本とアジアの関係にも関心をもたされた。アジアは、一九世紀からイギリスを始めとする西洋諸国の帝国主義に翻弄され、その解放を悲願としていた。日露戦争でロシヤを破った日本に畏敬の念を持っていたアジアの人々も多くいたことも事実である。中国にあっては、孫文など晩年は日本に失望したが、日本に多くの友人を持ちよき理解者であった。それが、朝鮮併合、満州国建国、満州事変、太平洋戦争と泥沼の戦いの中で、アジアの人々の信頼を失っていった。朝鮮半島や中国大陸では、少なからず多大な犠牲を国民に強いたことは事実である。大東亜共栄圏、八紘一宇などという死語になりつつあるスローガンもあったが、所詮日本中心のものだったのであろうか。アジアの当時の諸国が、後進的国家、現代用語で言うと発展途上国ということもあったが、他の国に足を踏みこんで、共に西洋帝国主義に立ち向かうというのには無理があった。アジアの国々から見れば、日本が自分たちを盾に使っていると感じたし、西洋人がしたように植民地化の意図さえ感じたのだろう。
 東京裁判という戦勝国が日本の戦争犯罪を裁いたことにも触れている。結果的に天皇は裁かれなかったが、戦争そのものを戦勝国が裁く根拠があるのかという、指摘には関心を持ったし、最後までそのことを貫いたインドのパール判事という人には興味を持った。戦争をもって国際紛争の手段とするのは間違いである、その結果はあまりにも悲惨であるといった元戦争体験者の言葉を知っているが、きわめて重い言葉である。
日本の天皇の問題は、良くも悪くも古来からのこの国のかたちであって、戦争の象徴になるか、平和の象徴になるかは時の国民の姿勢にあるように思う。
 
 穂高町の隣に豊科町がある。国道一四七号線に面して飯沼飛行士記念館がある。今日飯沼正明飛行士の名を知る人は少ないと思う。東京とロンドン間を九十四時間一七分五十六秒という飛行時間で当時の世界記録作った人物である。使用した飛行機は、陸軍の開発した純国産機で「神風」号と名づけられた。
企画したのは朝日新聞社で、昭和十二年四月六日午前二時に立川飛行場を出発。途中各地で給油しながらの飛行であったが、ヴィヤンチャン、カラチ、アテネに宿泊しロンドンに到達するのであるが、各地で熱狂的な歓迎を受けた。
 
 二・二六事件などあって暗い世相を吹き払うかのような平和的快挙であった。一緒に登場した機関士が塚越賢璽といって群馬県倉渕村の出身である。イギリスは母の国であったので、ロンドンに着いた時は感慨無量であったろう。イギリスでは、当時大使であった吉田茂らに歓迎され、日本に帰ってからは、全国各地で英雄として迎えられた。航空機開発に熱心であった海軍の山本五十六らとの記念写真も記念館に展示されていた。
飯沼飛行士は、民間人であったが、昭和十六年に南方作戦に従軍にて死ぬ。華やかな日から三年しか経っていない。二十九歳の若さであった。塚越機関士もドイツの潜水艦で日本に帰る途中消息を絶った。いずれも戦争の犠牲者となり、英雄的人物の死はあまりにも残念なことであった。
記念館を守っているのは飯沼正昭飛行士の甥にあたる方で、少年時代飛行機に乗せてもらった思い出などを聞かせてもらった。生家は、農業を営んでいたらしいが、土間や広い畳の部屋などがあり、りっぱな建物である。敷地も広く国道の反対の裏手が観光バスも停まれる駐車場になっている。土蔵が主な展示室になっている。建物は道路拡張などにより、移動したとも話してくれた。飯沼飛行士記念館は、思わぬ安曇野紀行の嬉しい寄り道となった。
  

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2013年05月17日

『夏の海』(拙著)信州松本平から安曇野へ

信州松本平から安曇野へ
 仲秋の名月とは、陰暦八月十五日の月のことで、今年平成十四年は九月二十二日がその日にあたる。息子には車で松本へ行こうと話してあった。仕事を終えた土曜日の午後彼の運転で松本へ向う。我が家には、車社会群馬では当然のように家人各々が車を持っているが、長距離運転となるため私の愛用車(?)で出掛けることにした。一つ心配なことがあって、年齢限定の保険が掛けてあるので成人後まもない息子には適用されない。
「運転には自信があり、長野県の地理には詳しいから」
と言っていた彼の言葉を信じることにした。息子にはただ
「松本へ行こう」
と言っただけで、旅の内容は話していない。
「信州そばと名物馬刺でも食べてこよう」とだけ言った。成人してからの子供との二人旅は初めてである。これから先、こういう機会はさほどないと思っている。ホテルの予約もせず、天候と休日を利用することだけを考えていたので、車中から携帯電話で予約する。残念ながら松本の夜空に仲秋の名月は雲に遮られて見られなかった。
 
 ホテルから歩いて数分のところに「あがたの森公園」があるのを知った。旧制松本高等学校の跡地でもある。ヒマラヤ杉の大木が何本もあって、木造洋風建築の当時の建物が保存されている。その一画に「旧制高等学校記念館」がある。こちらは鉄筋コンクリート造りであるが、外観は洋風で古い建物とマッチしている。
 旧制高等学校が廃止されたのは、戦後であるが、館内を見てまわるうちに懐かしさの感情が湧いてきた。それには理由がある。
 旧制の中学校は、戦後、教育基本法により現在の高等学校になるのだが、地方によっては、旧制高等学校の校風を残すことになる。男女共学ではない進学校と言われる公立の高等学校で〝バンカラ〟という気風が加わる。〝バンカラ〟という言葉は〝蛮カラ〟であり、風采の粗野なことを言い、ハイカラをもじって対応させていると辞書にある。幣衣破帽、マントと高下駄姿。そしてヨレヨレになった肩掛けカバン。私の学んだ高崎高等学校にはその風があった。
 冬の寒い日ながら、隊列を組むようにして、烏川にかかる和田橋を下駄を履きながら自転車で登校する生徒の姿は周囲から見れば異様な姿に写ったのではないだろうか。もちろん靴下などは履かない。
 授業中は教室にダルマストーブはあっても足元は寒い。前の生徒の椅子の下に置いてある柔道着にたまらず足を入れたのを思い出す。
「水虫が移るからやめてくれ」
とは誰も言わない。足を忍ばせている柔道着は自分のものである。前へ前へと椅子の下に置くという協定が成立していたからである。可愛そうなのは最前列の生徒である。少しくらい足が冷たい方が授業が身になるという痩せ我慢組もいた。そんな高校時代の思い出も重なり、一時間ほど苦笑を浮かべながら展示室を見てまわった。
 旧制高等学校についてもう少し触れてみたい。明治十九年から廃止されるまでに全国に四十一校が創られた。とりわけ歴史の古い一高から八高には優秀な生徒が集まった。その所在地は、一高(東京)、二高(仙台)、三高(京都)、四高(金沢)、五高(熊本)、六高(岡山)、七高(鹿児島)、八高(名古屋)である。
 九高となる予定だったのが、松本高等学校である。卒業生は〝松高〟と呼ぶ。長野は教育立県という国柄で、昔から教育に熱心であったこととも関係がある。徽章も九を意味するように作られている。八高以後はその土地の名前が付けられるようになった。官立がほとんどであるが、公立二校、私立四校があり、学習院は皇族も入学することもあり別格である。さらに詳しく見ると、戦前日本が統治していた朝鮮のソウルに一校、中国大陸旅順に二校、台北に二校あった。旧制高校は帝国大学への予備コースのような存在であり、一高からは東京帝国大学に多く進学した。
 しかし、旧制高等学校はただのエリート教育だけの場所ではなく、独立、自由の校風をもって豊かな人格と個性を持つ人間を育てた。その基本となったのが寮生活である。自然と寮歌が作られ、卒業生は勿論、広く後世大衆からも親しまれたのはその校風と無縁ではない。とりわけ第三高等学校の寮歌は良い。
 紅萌ゆる岡の花
 さみどり匂う岸の色
 都の花に嘯けば
 月こそかかれ吉田山
まさに、古都の自然の中にあって思索する哲人の姿を彷彿させる。
 方や第一高等学校の寮歌は
 ああ玉杯に花うけて
 緑酒に月の影やどし
 治安の夢に耽りたる
 栄華の巷低く見て
向が岡にそそりたる
五寮の健児意気高し
個人的には、何かエリート意識過剰の気分が漂っているようであまり好きにはなれないが、寮生にとっては体に沁みて素晴らしい青春の詞に違いない。
 
 〝旧制高等学校記念館〟の最上階には松本高等学校のコーナーがあった。松本市は、明治初期、廃藩置県によって筑摩県に組み込まれた。筑摩書房というのは、小説『安曇野』を書いた臼井吉見の興した書店であるが、その名の由来はこの地名にある。臼井吉見は松本高等学校の出身である。
旅先のバックの中に筑摩文庫の『安曇野』をしのばせてきたが、いまだ一部の途中である。五部からなる大作である。松本平(海に面していない山あいの平地だからそう呼んでみたくなる)から安曇野(豊科町、穂高町一帯の総称)ゆかりの人物を描いている。その人々の香りに触れて見たいというのが今回の旅立ちの動機になっている。
 
 小説『安曇野』は明治中期から昭和の大戦後までを多様な人物を登場させて描いている。文人や思想家、社会運動家が登場するので多少は理屈っぽく硬派の傾向がある。長野の県民性でもあるが、元新聞記者の臼井の取材力は見事である。
 文人ばかりになるが、歌人齊藤茂吉の子、北杜夫や先年軽井沢で死んだ辻邦夫も松本高等学校に学んだ。北杜夫のコーナーには、学生時代に創った短歌があり
 父より大馬鹿者と来書あり
      さもあれ常のごとく布団にもぐる
 
 というユーモラスなものがあり、自ら躁鬱症と診断しているマンボウ先生の片鱗を垣間見ることができた。『西行花伝』などの作品を書いた辻邦夫については〝高貴な魂、美への希求者〟と紹介されている。辻が北より一期上であったことがわかる。二人が親交を深めていたことを同年代であり、学び舎が同じであったことからすれば容易にうかがうことができる。
 映画監督として「謀殺下山事件」、「千利休」、「深い河」など重厚な作品で知られる熊井啓も卒業生であった。
 寮生活や授業風景も貴重な写真と説明書きによって紹介されている。〝月夜の晩に雨が降る〟というのは解説を読まないと何の事かわからない。写真を見れば一目瞭然である。名月のかかる大宇宙に向って寮の二階から放尿する数人の学生の姿が写っている。同時に、あるいは交代して事に至っているのだろうから、階下の住人には雨が降っているという印象になる。不衛生極まりないが、男子だけの世界だから我が高校時代の体験からも想像がつく。
 バンカラ高校であった母校の夏の出来事である。校内にはプールがあり、午後の体育の時間、準備体操を終え、いざこれからプールに入ろうとした時、一人の猛者がサット水泳パンツを脱いでザブンと白昼露な姿となって飛び込んだのである。一瞬誰もが唖然としてシーンとなったが、その後拍手し笑い出す者もあった。同性同士とは言え、また全裸でプールサイドに上られてはたまらないと思ったのか、脱ぎ捨てられたパンツは気持良さそうに泳ぐ彼のところに投げられたのは自然の流れであった。
 共同浴場だと思えば良いとはとうてい思えなかった。この行為が英雄的であったか、風俗を乱す破廉恥なものであったか議論はあったが、退学ということにならなかたところをみるとイエローカード程度の教員の注意で納まったのであろう。男子だけの世界では時として、考えられない行動に出る者がいるのも事実なのである。
女人禁制の学校生活のクラス会では、華やかに芸者をはべらせ酒を飲むこともあったらしい。旧制高校では文武両道ばかりか硬軟両道もあったことになる。今の時代からすれば、未成年の飲酒、遊興を公然と認めることになるが、共学でない鬱屈した青春時代の余興程度であれば許されたのであろう。しかしながら、恋が芽生え芸者と心中する事件も起こったという記事もあった。
 
 旧制高等学校には名物先生が一人や二人はいるものである。〝松高〟の名物先生を一人だけあげる。蛭川幸茂先生である。彼は、東京帝国大学を卒業し、大正四年に松本高等学校に赴任した。以来、昭和二十五年に廃校になるまで在職した。平成十一年に九十五歳の天寿を全うした。『落伍教師』という自著があって、記念館で買って読むことにした。少し読み始めたら笑ってしまうほど面白い。けれど人情味に溢れているというだけではすまない深さもある。読みかけになっているが、時間をみて一気に読んでみたくなる本である。
 蛭川先生は、酒も煙草もやらないが、いわゆる形式主義の人ではなかった。数学を教えるかたわら陸上競技部を指導した。教壇に立つ時は、決まって紺ガスリの和服姿。暑い夏の校庭ではパンツ一枚になって陸上競技の指導にあたった。情熱家であり、生徒には親身になって文武両道にわたって身を挺して指導する先生であった。
 帝大を卒業したら真剣に〝船頭〟にでもなろうと思っていた蛭川先生は、どこか無欲のところがある。立身出世を志すタイプではなかった。しかも、学生時代神経衰弱に苦しんだこともあり、周囲からは奇行のある人と見られた。
 同期で松本高等学校に赴任した一人に東大名誉教授の手塚富雄がいるが、『落伍教師』の推薦の言葉を書いている。また、北杜夫も〝蛭さん〟と愛称を使って書いているが、二人に共通する蛭川先生の評価は、全人的教育の実践者であったということである。
 蛭川先生の家は貧しかったこともあり、弱い立場にある生徒にはことのほか同情心をもって優しく接したようである。また、一高から東京帝国大学を卒業し前途を嘱望されていた弟が、社会人となってまもなく自殺したことも、蛭川先生の人生に重くのしかかかっていたが、それを振り払うように生きた。〝俺は〟という一人称を使って、文章に飾り気がなく、しかもユーモアがあり、加えて行間に人間的温かみが感じられる。
 「あがたの森公園」で旧制高等学校の往時に想いを馳せながらすっかり時間を費やしてしまった。記念館の階下から漂ってくるコーヒーの香りに誘われ、松高の中庭を眺めながら喫茶コーナーで休憩し、松本城と開智学校に向けて車を走らす。そう言えば、息子も興味深そうに展示室を見て廻っていた。何か感じるところがあったかもしれない。
 
 松本城は、数少ない国宝の城である。明治になって内乱の拠点となるとして武士社会の象徴であった城の多くが解体され、第二次世界大戦による戦災により焼失したこともあり、築城当時の名残を伝えている城が少ないからである。他に国宝に指定されている城には、姫路城、彦根城、犬山城などがある。高知城、松江城、松山城は重要文化財で、大坂城、名古屋城、熊本城などの名城と言われた城は重要文化財ですらない。
 松本城は、一五九〇年代に築かれたとされる。初代石川氏から戸田氏まで六氏の藩主が城主となった。七~八万石というから大大名ということではないが、松平氏、堀田氏、水野氏など徳川幕府の中枢に加わった大名家が治めた城であった。城そのものが国宝であるが、城内には火縄銃が多く展示され、鉄砲による攻防戦を意識した城であったことがわかる。鉄砲狭間と呼ばれる穴が随所に見られる。外観は黒塗りで、天守は六階まであり、急な階段で六階まで登ることができる。
 
 開智学校は、松本城の内堀の北側にある松本神社からほど近いところにある。隣接して開智小学校があったが、建物はモダンで、校庭に子供たちが元気よく運動していた。開智学校の校舎は、明治九年に建てられ、九十年にわたり使用されてきた。元は、女鳥羽(めとば)川の近くにあったが、現在地に移設され保存されている。
 和風と洋風を合わせた文明開化を象徴する建物で、建築を指揮したのは立石清重という棟梁である。東京大学の前身である開成学校を参考にして設計されたというが、短時間で西洋建築を咀嚼する技量には感服させられる。二階の講堂へ繋がる階段は螺旋階段と洒落ている。外から眺めると中央部にテラスのある塔があり、その下に右から開智学校と書かれている。装飾も凝っていて、雲を想わせるもの、龍などの彫り物が建物正面玄関の上に飾られている。全体は、シンメトリーの建物であるが、なにやら中国風である。建物の基調の色は白である。
 建築費は、当時のお金で一万一千円というから、今日のお金で数十億円という費用をかけたことになる。そのうちの七割は松本町民の寄付が充てられた。いかにこの地の人々の教育への熱意があったかを証明している。明治以前、庶民の児童が学んだのは寺子屋と呼ばれる小さな塾であったが、松本には六〇〇余りの数があったといわれている。全国でも有数と言える。
 各教室の跡が展示室になっていて、教育制度の歴史や教材などが陳列されている。大正中期から昭和初期に出版された『赤い鳥』の本の実物を初めて見ることができた。童話や童謡を掲載していて、鈴木三重吉、北原白秋、芥川龍之介などの名前が目にとまる。
『赤い鳥』からは数々の名作が生まれ、館内をその童謡が流れていた。

 松本市街地を抜けて国道一四七号線を行くと、安曇野と呼ばれる平地が広がっている。
この旅のメインは碌山美術館である。JR大糸線の穂高駅から近い。敷地のすぐそばを線路が走り、踏み切りも近いが、木々が繁り静けさがある。受付から本館に向うところに「労働者」という名前の彫刻に出会う。頬杖をついて休息しているように見える。この像はロダンの「考える人」を連想させる。しかし、両足の膝から先がなく、しかも、左手は方から先がない。文展出品当時はあった手足の一部を切り落とした碌山の心境の変化はどのようなものであったであろうか。
 
 碌山の彫刻や絵画が展示されている本館は、古風な教会風に造られていて、蔦が絡まり趣をいや増している。碌山の最高傑作とされるのが「文覚(もんがく)」と「女」であることは世に知られている。手を後ろに組み、反るようにして顔は上に向けられている。目は閉じ、唇はゆるく開かれている。健気な女性の姿とも写るが、この「女」のモデルは相馬良(黒光)だと言う人がいる。
 
 碌山、本名荻原守衛は、安曇野の農家の五男として明治十二年に生まれた。隣家には相馬家があり、年に三回の養蚕を実現した養蚕研究家相馬愛蔵とは親交があった。愛蔵は、明治初期には珍しい女性教育を受け近代思想を身につけた星良と結婚し、新宿中村屋を成功させた人物であるが、「穂高禁酒会」に参加した社会教育家でもあった。守衛も「穂高禁酒会」に顔を出すようになり、相馬愛蔵、井口喜源治などに触れ、知的好奇心やキリスト教への関心も重なって、学問に目覚めていく。一農夫として田舎で生きていくことに満足できなかった。その守衛を決定的に目覚めさせたのが愛蔵の妻、良であった。
 東京から信州の山深い里に嫁入り道具として持ってきたオルガンと油絵は、あまりにもハイカラで地元の人の度肝を抜いたと小説『安曇野』にも書かれている。その油絵は、長尾杢太郎の「亀戸風景」であった。その絵を良から見せられたとき、絵描きになろうと決意して東京に出ることになるのである。
 東京に出た守衛は、自分に絵の才能があるか悩み、女性との恋にも煩悶しながら、海外に絵を学ぼうと志す。行き先はアメリカであった。滞在中どん底の生活と光の見えぬ画家修業の中、守衛は一人の少年に手紙を書く。松井秀雄という十三歳の少年で、そのとき重い病を得ていた。その病状をいたわり、夢中になって慰めと励ましの手紙を書いた。少年はこの手紙を見ることなく生涯を閉じたが、秀雄少年の母は、全文を「涙の日記」として留めたのである。自分が逆境の中にあっても他人を思いやる守衛の心はキリスト教の信仰から生まれたもので、手紙の随所に神という言葉が使われている。
  
 彫刻家としての荻原守衛の出発は、パリに渡ってから生まれた。郷土信州の先輩であった中村不折らの助力もあり、ロダンの「考える人」に出会うのである。そして、明治四十年に憧れの人ロダンと会うことができた。『不如帰』、『自然と人生』の著者徳富蘆花が晩年のトルストイを片田舎に訪ねて行ったのにも似ている。時も同じ頃かもしれない。そこで、守衛はロダンに
「君は私の本当の弟子だ」
と言われた。高村光太郎ともこの頃親しくなり、碌山美術館の別館展示室には、光太郎の「手」や「十和田湖の裸婦像」などが置かれている。ところで碌山という名前であるが、夏目漱石の『二百十日』の主人公の碌さんからヒントを得たらしい。
 帰国した碌山は、京都奈良の仏像彫刻を見て廻ったりして、日本文化の素晴らしさにあらためて感動するところがあった。新宿中村屋の近くにアトリエを構えた彼は、安曇野に多くを暮らす愛蔵と別居同然のようにして働く良に同情心を持ち、それがいつしか恋心に変わる。しかし、愛蔵への感謝と尊敬は消えることがなく碌山は悩む。
 

 その苦悶の中から生まれた作品が「文覚」である。文覚は西行と同様、遠藤盛遠という名の北面の武士であったが、仲間の妻だった女性を誤って切り殺し、そのために僧となった人物である。彼が、文覚という数奇な人生を送った人物に題材を求めたのは良く分かるような気がする。
 明治四十三年四月二十二日、新宿中村屋で吐血した後にわかに衰弱して死ぬ。三十歳の若さであった。死の間際にも碌山は
「僕の病気はうつるから専門の看護婦に世話させた方がいい」と良など中村屋の家人を気遣ったと伝えられている。
 LOVE IS ART.     STRUCGLE IS BEAUTEY.
 〝愛こそ芸術、相克は美〟と碌山美術館本館の壁に彼の言葉が刻まれている。彼のたどり着いた人生の結論である。
  

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2013年05月16日

『夏の海』(拙著)越後長岡

越後長岡
長岡市は城下町である。信濃川の大河が流れ、それに沿って穀倉地帯が延び、その中に市街地がある。低い山も迫っている。下流は、日本でも有数の平地新潟平野が広がる。関越自動車道の上越国境からは、約一〇〇キロメートルの距離にあり、北陸自動車道の分岐点でもある。

 城下町と言ったが、城の面影はなく、駅前近くにわずかに城址の痕跡が残されているだけである。
幕末、長岡藩は、牧野氏が治めていたが、薩長を中心とする政府軍と熾烈な北越戦争をくり広げることになる。軍事総督になって指揮したのが河井継之助である。司馬遼太郎が『峠』に描くまでは、ほとんど知られていない人物である。
 上州倉渕村に引き籠った幕府勘定奉行小栗上野介忠順に似ている。賊軍のレッテルが貼られ、人物の力量が過小評価され歪められて伝えられてきた感がある。
 河井継之助は、長岡藩の家老であり、藩の財政を立て直した人物であり、陽明学を深く学んだ。その師は、山田方谷といい今日の岡山県の人である。山深い地に住んでいた方谷を継之助は訪ねていく。江戸に遊学したこともあり、西洋事情にも触れ、その見識を評価して
「少なくとも明治の元勲のひとり木戸孝允より人物は三倍上」
と司馬遼太郎に言わしめている。その人物評価はともかく、彼は長岡藩を中立国のような立場に置こうとしたが、明治維新の大きな流れにのまれてしまった。
 河井継之助は長岡藩を代表して、小千谷の慈眼寺で談判に及ぶが決裂する。政府軍の代表として会ったのは、岩村精一郎であった。このとき二十四歳であった。長州藩出身の品川弥二郎は、後に男爵になった岩村を小僧呼ばわりして
 「岩村は、物事の筋道を好み、理屈と正義を愛し、それを守るため居丈高となり、寛容さに乏しい。何事にも高飛車で検察官の性格に近い」と言っている。談判のやりとりが目に浮かぶようである。
江戸城の無血開城を決めた西郷隆盛と勝海舟の会談に及ぶべきもない。力の強い側の人間が正義と理屈を述べれば、他方は退くしかない。人物の度量というのは、このようなときにあって試される。河井継之助という人物を推しはかることのできなかった人物が交渉の場にあったことが悲劇を生んだ。
 江戸城を政府軍に渡し、将軍慶喜がひたすら恭順を示す中で、長岡藩が戦う意義は少なかった。河井は、藩主に報告し、決断を求めたが
「継之助の思うようにせよ」
そして
「わがいのちをかばうようなことは考えなくとも良い。われは死んだものと覚悟している」とも付け加えた。
河井継之助の思想を形成させた、陽明学は行動的な学問であり、形而上的なものに価値を置いている。現世の利得よりも、武士の魂としての心情を選んだ。この結果、戊辰戦争でも最も激しい戦いがくり広げられた。河井は、南北戦争で使用されたガトリング砲という機関銃を一万両で二台購入しており、それを自らも操作した。その威力は驚くべきものであったが、最後は、銃弾を受け、その深傷により死ぬ。死期を自覚した河井は、下僕に棺を用意させ、火葬のための薪が燃えるのをみつつ息をひきとった。
 
 長岡の街は焦土となった。戦後、この町を復興した一人に小林虎三郎がいる。明治初年に病弱な身ながら大参事となった。明治三年、長岡藩の窮状を知った三根山藩から届いた米百俵を士族に配布せず、人材教育の資金にした人である。彼は、信州の学者、佐久間象山に学び、吉田松陰(寅次郎)と並ぶほどの秀才で象山門下の二虎といわれた。「米百俵」の話は、小泉首相が引用したことで、最近脚光を浴びるようになったが、戦時中山本有三が戯曲化したことでも知られている。
 長岡駅から数キロの距離に悠久山公園がある。郷土資料館があり河井継之助や小林虎三郎の遺品が展示されている。近代建築の城として、天守閣からは長岡市街地よく見える。昭和四十三年に開館し、長岡の生んだ人材も多く紹介されている。夏目漱石の娘婿松岡譲(ゆずる)、詩人で文化勲章を受けた堀口大学。二人は長岡中学の同級生であった。『武士の娘』を書いた長岡藩家老の娘杉本鉞(えつ)子。日本の草分け的憲法学者渡辺廉吉など多彩である。
 長岡藩は、二百五十年にわたって牧野氏が治め、質実剛健の気風を重んじた。その精神は「常在戦場」の四文字に表されている。長く続いたこの精神風土の中から生まれた傑作が山本五十六元帥だと言う人がいる。今回の長岡行を思い立たせたのは、山本元帥への追慕であるかもしれない。

 山本五十六は、明治十七年に生まれた。父は貞吉、母は峯である。山本五十六の名は、父貞吉五十六歳の時の子であることに由来する。父貞吉は養子として高野家を継いだので、山本五十六は、高野五十六として生まれた。
 貞吉は高野家の娘峯の姉である美保、美佐とも婚姻し、美佐との間にも子供をもうけている。そのため、美佐との間に生まれた長男は、五十六の甥でありながらも八歳も年長であった。この時代、家の相続が重要であり、こうした今からすれば不思議な姻戚関係が生まれたのである。
 山本五十六の生家は、長岡駅に近い。古びた生家は、保存されていて、敷地は公園になっている。軍服姿の胸像は黒く重厚な雰囲気があり、生家を見つめているようである。台座もりっぱで人の背丈を越える高さがある。背後には四本のヒマラヤスギが植えられている。山本五十六記念公園から歩いて数分の場所に、平成十一年に開館した山本五十六記念館がある。一見すると民家のように見える。
 
 会館に入ると中央に置かれた翼の残骸がまず眼に写る。ブーゲンビル島で撃墜された一式陸攻の翼である。日の丸は褪せているが、その朱は色を失っていない。搭乗していた山本長官の座席も展示されている。はるか南洋の島からこの地に運んできた山本記念館設立の委員の想いが伝わってくる。
近代戦争にあって、一国の海軍の最高司令官が戦場において死ぬということはまずもってない。イギリスのネルソン提督が、スペインの無敵艦隊との戦い中で死に、英雄となった時代とは違う。思えば、あれほど戦争に反対した山本五十六は、いざ開戦になったとき、一切は武人にもどり、生きて帰ることはないと覚悟していたふしがある。このあたりは、河井継之助の心境と同じである。
山本五十六の揮毫した掛軸があり、その書は見事である。
国雖大好戦必亡 天下雖安亡戦必危
中国の兵法書からとっている。大意は
「大国であっても力が強くそのいきおいにつられて、好んで戦争することは、国家の滅亡につながる。一方、平和の中に安住していても、国が危ういときは国を救おうとする気概がなければこれもまた国家の滅亡にいたる」
人類はいつも戦う宿命にあるということを言っているのではない。言葉を変えれば、人生順調にいっているときは過信せず謙虚になれ。また平穏な日々にも命がけで生きようとする気概をもっておけ。という意味にとった。〝常在戦場〟まさしく長岡藩の家風である。また隣には、明治天皇の御製を書にして
ときおそきたがいはあれど貫かぬ 
こと無きものは誠なりけり 
と書き記している。
「誠」という言葉ほど日本人をひきつける言葉はない。ただこれほど実行し難きものもない。明治天皇の御製で誠について詠んだものに
目に見えぬ神にむかいて恥ざるは 人の心の誠なりけり
武士の世では「忠」という言葉が「誠」を表していたと言っても良いが、封建時代でなければ成立しないかもしれない。四民平等、民主主義の時代になると、忠義を何に向って果たすかの対象がはっきりしない。むしろ主が自分になっているのが現代である。
 高野家は、古くから儒者の家系である。儒教の始祖孔子は、目上を敬い、父母に仕えその愛を尊ぶことを教えた。近年になって自我や、自己が確立すると「誠」をつくすべき対象は何かということになる。ともあれ、山本五十六という人は誠という言葉が好きで、それを生涯かけて実行した人に思える。
長男義正氏の『父山本五十六』を記念館で買って読む。通読して思う事はただ一つ
〝優しい〟人だなあということである。
〝黒い手帳〟という章がある。毎朝父五十六は一人ぼんやりと時を過ごすことがあった。黒い手帳をめくっていたのである。そこには亡き部下のことがしるされていて、郷里の住所まで書かれている。部下のことをこれほど想うリーダーはまれである。病床を見舞い、時には墓前や遺族の前で涙する山本五十六のことを息子義正氏は綴っている。軍の最高司令官のこの優しさはどこからくるのか。
 山本五十六は、日露戦争に従軍する。日本海海戦のとき軍艦日進の伝令役となった。二十二歳の少尉候補生で、日進は殿(しんがり)軍艦のため敵弾を集中的に浴びた。日進の艦橋で炸裂した砲弾の破片により、左手の人差し指と中指を失った。加えて右腿の肉を赤ん坊の頭ほどえぐりとられた。生死にかかわる重傷であった。もし左手の指をもう一本失っていれば軍にとどまることはできなかった。〝廃兵〟という屈辱的な身分となり現役を去らなければならなかったのである。療養中にも左手の傷口から入った黴菌のため腕を切断する危機もあった。
 この体験が、山本五十六の人格形成におおいに影響を与えたとみて良い。
「天は我に新しい生命を授け、軍人としてもう一度国のために尽力するように命じられた」という自覚を持った。「死」は天命であると。
 部下には妻が寡婦になることを考え結婚を勧めなかった山本五十六は、三十代半ばにして結婚する。妻になった人は三橋礼子といって会津藩士の娘であった。このとき、山本は、自分の体の事を包み隠さず身上書をもって親族や見合いの相手に伝えたという。礼子が後年息子に語ったことは
「あの人は自分の欠点ばかり書いて長所らしい点は何も書いていなかった」ということである。
肉体に負った傷の他に山本五十六には心の傷があった。山本五十六と長兄の間には三十二歳の年齢差があった。長兄譲の子、甥力(ちから)は五十六よりも十歳の年長であった。大変な秀才で未来を嘱望されていたが、二十四歳で夭折する。父貞吉は力に高野家の再興をかけていたのである。
貞吉の落胆は大きく十四歳であった五十六少年に向って
 
 「おまえは高野家にとってどうでもいい存在だ。力に替わっておまえが死んでくれたらよかった」
この言葉は生涯山本五十六の心に深く刺さってとれなかった。心と体に大きな傷を持ちそれを自分の十字架として負ったことが山本五十六の心の優しさと無縁ではなかったであろう。彼は三十になった頃、姓を高野から山本に改めた。長岡藩で家老職を務めていた山本家を継いだ。養父は山本帯刀である。北越戦争では河井継之助の率いる軍の大隊長となった人であるが、捕らえられ斬首された。二十四歳であった。その人物を知った政府軍には助命しようという声もあったが
「藩主は自分に降伏せよとは言わなかった」
としてそれを拒んだ。市内長興寺に山本五十六の墓と並んで眠っている。
山本家も高野家も儒者の家柄であった。「誠」「忠」は武人の目指す気高い心ではあるが、山本五十六には庶民的な気さくさと人間臭さがあった。情にもろいことは悪いことではない。また数学が得意で合理主義のところもあり、近代海戦に航空兵力の価値を見出し、実戦して見せた人である。
米英と戦うべからずと三国同盟に反対した山本五十六を右翼の人間がその弱腰を批判した時
「大和魂は不敗だというが、アメリカにはアメリカ魂がある。それにアメリカの煙突の数は日本と比べものにならない」
といって追い返したことがある。
教条主義、観念主義、全体主義、絶対価値論者、学者肌こうした言葉と無縁なのが山本五十六であると思う。そして良きリーダーの典型ではなかろうか。山本五十六連合艦隊司令長官の下で戦った人々は幸せだったかもしれない。
「やってみせ、させてみて、言って聞かせ、褒めてやらねば人は動かじ」
陣頭指揮、思いやり、豊富な知識。あまりにも有名な言葉である。最後は南洋の島ブーゲンビル島の上空で死んで見せたのである。こうしたリーダーのためなら死んでもよいというのが部下の心理である。ただ地位や権限で強制し、自分は常に後方で指揮をとるようなリーダーには心の底から部下は身を任せるようなことはない。
 
 長岡の街は、雄大な信濃川が流れ、良寛や貞心尼のゆかりの史跡があったり、与謝野鉄幹、晶子夫妻が愛した自然豊かな地であるが、今回の旅ではあまりにも山本五十六元帥への意識が大きかった。
長岡の夏の花火は有名である。一週間後の八月二日と三日がその日である。その日は自分の誕生日でもある。いつかその日に訪ねることがあるかもしれない。その時は、今回果たせなかった元帥の墓前に花束を手向けたいと思っている。
  

Posted by okina-ogi at 07:52Comments(0)旅行記

2013年05月15日

間違いやすい名前、「旺文社」と「昭文社」

 今朝(5月15日)、出勤前にテレビを見ていたら、出版社の老舗の2社が良く間違われるという報道がなされていた。旺文社(1931年創立)、昭文社(1960年創立)である。文字を見ると、似てはいる。しかし、もっとも間違う原因になっているのは、発音だという。昭文社の最初のシの発音は小さくなり、オウという発音が強くなるので、電話口などでは、区別がつかないのだという。
 両社の社員は、このことに慣れっこになっていて、困った様子もなく笑顔で取材に応じている。入社試験から間違っている職員もいる。旺文社(おうぶんしゃ)は、受験対策の図書が有名。昭文社(しょうぶんしゃ)は旅行地図が有名。
 昔は、旺文社にお世話になり、今は、旅行で昭文社にお世話になっている。自社の地図を優待でもらえるというので、最小株ではあるが、長期株主になっている。そのおかげで、両社を間違えることはない。
 ところで、当事者として名前の間違いで困っている。諦めてもいるが自分の名字「荻原」をハギワラと呼ぶ人が多い。数日前の日曜日に、高校の同窓会ゴルフに行ったら、やはり「荻原」をハギワラと呼ぶ人がいた。
 ハギワラは「萩原」なのです。でもちょっと見れば字が似ている。それよりも、世の中、「萩原」の方が多いのかもしれない。次からは親しさをこめて「オギサン」と呼んでほしいと頼んでおいた。来年のコンペでは間違わないと希望しているのだが。
  

Posted by okina-ogi at 12:06Comments(0)日常・雑感

2013年05月14日

『夏の海』(拙著)宮島、呉、日本三景

宮島、呉、日本三景と鎮守府への旅
 先年、江田島にある海軍兵学校跡地を訪ねたが、時間がなくて呉の街は通り過ぎたに近かった。
明治から太平洋戦争の終結まで、旧海軍の地方機関として鎮守府が置かれた。横須賀、佐世保、舞鶴、そして呉である。呉が軍港としてふさわしいことがわかり、その基礎は明治二十二年にできた。〝港が見える丘〟という小さな公園には、旧海軍工廠の記念塔が建っていて、眼下に石川島播磨重工のドッグが見下ろせる。この造船所で巨大戦艦大和が建造された。
 

 昭和十二年から十六年にかけ、膨大な経費をかけて造られたこの戦艦は、不沈艦といわれ、いわゆる海軍の大鑑巨砲主義の象徴であった。いちはやくこれからの海上戦は、航空機が主力となると考えていたのは、山本五十六元帥であった。それを証明したのが、真珠湾攻撃である。皮肉にも大和は開戦の年に産声を上げたのである。そして、連合艦隊の旗艦となり、最後は、終戦の年、片道燃料をつみ、航空機の護衛もなく、東シナ海奄美大島近海に撃沈され、三千余名の乗員とともに海底に沈んだのである。
戦法としては、特攻に近かった。司令官となった伊藤中将は、作戦の無謀さを指摘し、反対したが
「特攻の魁(さきがけ)になってほしい」
と言われ、苦汁の決断をしたのである。だから彼自身は大和と運命を共にしたのである。命令を下した海軍の参謀や上層部はその後どのような責任をとったか詳しく知らない。まるで神風特別攻撃隊の思想に近い。それだけ戦局は行き詰まっていたのである。
 そもそも大和建造に踏み切らせたのは、遡れば東郷平八郎元帥が指揮し、大勝利を収めた日本海海戦の余韻が残っていて、科学技術の進歩や時代の変化に冷静に対処できなかった保守的な思想にあった。もともと、アメリカとは戦争ができない軍備しかないと、開戦に反対していた海軍にあっても、古い時代の郷愁のような思考が海軍中枢を支配していたのである。〝勝って兜の緒を締めよ〟と訓示した東郷平八郎元帥に責任があるわけではないが、老提督となった元帥は、大鑑巨砲主義の神様のように祀りあげられていたかもしれない。
 いつの時代にもあるように、状況判断を誤り、確信を持ち、他人の意見を取り入れず、取り返しのつかないところまで事を進めてしまうリーダーがいる。そして、その流れをとめられない補佐役がいる。この頃の経済界などを見ていると、「そごう」や「ダイエー」などは、そんな感じがする。
太平洋戦争は、本当にさけられなかった戦争なのか。呉で生まれた戦艦大和に何かしら悲哀を感じるのはこうした悲劇性にある。
 悲劇と言えば、戦艦陸奥の謎の爆沈は、安芸灘屋代島付近であったことを知った。千五百人余の乗員のうち助けられたのは三百四十名程であった。呉の司令長官舎のあった入舟山記念館でその資料に触れた。
明治四十三年四月十一日、呉港から出た潜水艇が、四月十五日遭難し、佐久間勉艇長以下十四名が殉職した。佐久間艇長と乗員のとった行動は、人々に感動を与えた。それは、艇長が最後まで任務に忠実であったばかりでなく、死の直前まで部下を想い国家を考え、息絶えた事実である。艇長の手帳に書かれたメモが発見され今日我々はそれを見ることができる。
海底の水の明かりにしたためし
         永き別れのますら男の文
歌人、与謝野晶子はそう詠んで艇長を偲んだ。
乗員の最後も見事であった。持ち場を全員が離れず死んでいた。我先にハッチを開けて逃げ出そうとする人はいなかった。

 宮島は、日本三景の一つである。松島、天橋立、いずれも海岸の景勝地で島国日本らしい。厳島神社は、世界遺産に指定されている。神社の創建は、推古天皇の時代に遡る。今日の厳島神社の骨格を造ったのは平清盛である。彼の厳島神社に対する信仰は実に厚かった。束の間ではあったが、権力を握り、平家一門の栄華を花開かせた。安芸の守であった縁もあり、この神社の加護が平家一門にあったことを清盛は終生疑わなかった。
呉市の近くに音戸の瀬戸という海峡がある。幅七〇メートルほどであろうか。この海峡は、人工的に作られた。約一年間、大変な費用をかけて清盛が堀り開けたのである。都から厳島神社にいちはやくいける航路のためであった。
 平家納経は、国宝である。厳島神社の近くにある宝物館に、複製が展示されていた。金箔で装飾された上に書かれている。平家の人々が分担して心から感謝して奉納されたのだと解説文にあった。全部で三十三巻ある。信仰としての意はわかるが、あまりにも財力を背景にしてけばけばしくはないか。しかも、血縁者だけの繁栄に感謝しているあたりに、平家の末路の予兆がある。こうした態度は、長く人々の尊敬を集めることはできない。
「常者必衰の理をあらわす。奢れる者は久しからず」
 
 清盛と同時代に生きた人で対照的な人生を送ったのが西行である。西行は、本名を佐藤義清といい、北面の武士であった。近代風にいう近衛兵の将校というよりは、もっと天皇の近くに仕える若い武士であった。
遊行という言葉がある。西行は諸国をまわった。奥州にも行ったりしている。この時代の旅は、今日のように簡単にできるものではなかった。生命の危機さえともなった。西行は、どうして将来を約束された身分を捨てて、雲水のような生き方を選んだのであろうか。妻子さえ捨てている。この決意は尋常ではない。
辻邦夫に『西行花伝』の大作がある。藤原秋実(あきざね)という人物を語り部として、深遠な西行像を描いている。
 西行は、母親の死を深く受け止めた。死後、しばらくしても母親のことを想うと、素直に涙を流したという。母親の死から世の無常を若くして感じたのであろうか。
流鏑馬について書かれている場面がある。鶴岡八幡宮の流鏑馬が有名であるが、馬を走らせながら的を射る武士のたしなみのような競技である。西行は考える。
「矢が的に当るか当らないかは問題ではない。一心に矢を射ることに喜びがある。それが雅(みやび)である」
このあたりは辻邦夫の芸術観であろうが、西行は、心の世界に強く惹かれていく。それを表現する手段が歌であった。
西行の辞世は、桜が好きだった人らしく
願はくは花のもとにて春死なん
         そのきさらぎの望月の頃
 明治二十年代に同志社の神学校に学んだ人で、難波宣太郎という牧師がいた。彼は詩を書き、水墨画も書けた。木月道人と称し、昭和二十年に八十歳で没するまで、新潟や北海道などでキリスト教を伝道し、晩年は京都に住み、夫婦で遊行した。禅寺に招かれ見事な襖絵などを書いている。遊行者にはどことなく人生は旅だという意識があるのかも知れない。木月道人の辞世の句は
花にくれ 家路に向う ここちかな
 厳島神社には、岸から離れたところに大鳥居がある。木造である。一一〇〇年代以来建てられていて、現在のものは八代目だという。明治八年に取り替えられてから今日に至っている。驚くことに、鳥居はその重さだけで立っている。潮の満ち干きや台風にも微動だにしない。新たな発見であった。
 回廊を歩いてみると、床下の柱は石であった。社殿だけはそう簡単に変えられないから、その基礎や床柱に石が使われていることは不思議ではない。丁度引き潮の時刻で、海水はなかったが、緑の海藻が打ち上げられて潮の香りを運んでいた。寄進者の名前と金額が木札に書かれて掛けられている。捜しても群馬の人には会えなかった。海のない群馬にはその縁が少ないのであろう。老若あるが男女の組み合わせが目に付く。神社には男女で訪ねるのがふさわしい。
 奈良公園のように鹿が放し飼いになっている。観光客があちらこちらでエサを与えている光景に出会う。浜に近い松の下に一匹静かに坐っている鹿もいた。
春鹿の眼細めて海を見る
 宮島は、宮島合戦でも知られている。毛利元就と陶晴賢の戦いである。陶軍二万に対し、毛利軍は五千に満たなかったので、宮島に陶軍を誘い出し、平地の戦さを避けた。夜陰に紛れて奇襲したために、陶軍は大混乱に陥り敗走し、陶晴賢は自害して果てた。奇跡的に厳島神社は破壊から免れた。戦後元就は、神域を汚したことを恥じ、厳島に大いに寄進した。この宮島合戦を境にして、山陰地方の尼子氏を倒して中国地方の覇者となるのである。
 

 宮島から、本州の宮島口まではフェリーで二十分程。JRと広島電鉄の船が頻繁に往来している。切符は列車の切符となって広島駅まで買った。名物あなご飯を昼食にして午後は、広島市街を歩くことにした。原爆ドームに近い爆心地から半径二キロの範囲に広島駅があり宿(ホテル・ニューヒロデン)も近い。ここを基点に縮景園から広島城そして平和公園に順路をとる。
 半径二キロの範囲は、鉄筋以外の建物は全壊焼失して、木々も焼かれた。縮景園にあった大木も全て戦後植えられたものである。幹の太さや、見事な松の枝ぶりなどに見惚れていると、浅野長晟(ながあきら)の時代のものかと錯覚するようである。縮景園は藩主の別邸で、広い池に数多い島があり、見事なクロ松が植えられている。中国の洞庭湖を模したとされる。敷地に接して県立美術館があり、近代的なりっぱな建物である。
縮景園を西に向うと広島県庁の先に広島城の石垣と緑が見えてくる。内堀を渡る手前に大きな像がある。近づくと「内閣総理大臣池田隼人君」と刻まれている。揮毫したのは同じく内閣総理大臣であった吉田茂である。池田隼人は、東京オリンピックが開催された昭和三十年代後半、所得倍増を唱えた高度成長時代の自民党総裁でもある。出身は、広島県竹原市である。
 
 広島城は、平城であり、また鯉城などという別称があったように名城であった。原爆の投下のために全焼し、天守閣だけがいち早く復原された。城内にあった他の建物はなく、礎石だけが残されている。日清戦争のときに、大本営が置かれたこともあるが、その面影はない。帰り、二の丸近くにユーカリの木があった。唯一原爆の熱射に耐え生き延びたと説明書きがあった。
広島市民球場のあたりで雨脚が強くなる。対阪神戦で応援の熱狂が伝わってくる。祭日でもあり入場券は売り切れとなっている。市電の走る通りを渡ると原爆ドームが楠木に囲まれ太田川の近くに建っている。平和公園にある記念館は閉館時間に近く、平和の碑に手を合わせ、ただ通り抜ける。
 
 爆心地から五〇〇メートル程の距離に、原爆投下当時の傷跡が残されていた。袋町小学校の西校舎の一部である。鉄筋であったために、窓や内部は破壊されたが、建物は倒壊を免れたのである。強い熱を浴び出火し、その跡黒くなった壁に、肉親の安否を尋ねる言葉が残っている。伝言板に使われたのである。もちろん、疎開せずに学校にいた教職員や児童は即死に近かった。小学校のある通りは現在繁華街に近い。

 旅に出たとき、美術館を訪ねることにしている。絵葉書を職場の人へのお土産にしたりする。呉市立美術館に立ち寄った。鎮守府長官室のあった入舟山記念館に隣接している。この日は〝美の系譜〟というテーマで明治以降に活躍した日本美術院の画家の日本画が展示されていた。横山大観、川合玉堂、川端龍子、鏑木清方などの作品が並んでいる。
 
 横山大観は、「無我」、「屈原」などの絵で知られる大作家であり、鏑木清方の美人画は世に広く知られている。もちろん他の作家も日本画の大家であるが、川合玉堂の「帰漁」と題した掛け軸絵に魅せられてしまった。夕靄の中漁師が岸辺から家路につくさま様が描かれている。こうした淡い絵が好きだ。
 広島市立美術館に立ち寄った。シニヤックという新印象派画家の水彩画展が特設コーナーで開かれていたがそちらには目をやらなかった。印象派の作品は、光と影があざやかに描かれている。好きな絵が多い。とりわけ、クロード・モネの絵が良い。「散歩、日傘をさす女」は一八七五年の作品とされているが、光と温かさと風がその絵から流れ出すかのように感じられて実に気持の良い絵である。対照的に「印象日の出」は、大雑把に描かれているように見えて暗から明へ移る大気の色や、事物、風景をよく伝えている。
 明け方、黄昏時の絵は写真でもうまくとらえることはむずかしいが、魅力的な時間である。明け方の色で、東雲(しののめ)色というのがあるが、萩焼きの色がそうだったりするように好きな色の一つである。晩年のモネは睡蓮を画材として多く画き残している。


永井隆博士と原爆
〝浦上の聖人〟と言われた永井隆博士の如己堂を訪ねたのは丁度一年前の五月三日であった。博士の『いとし子よ』を往路の新幹線の車中で読んだ。その著作に触れながら原爆のことに触れたい。
 原爆投下が戦争によってもたらされたことは誰もが否定しない。戦後、日本は占領国の指示によって憲法を作り、戦争を国際紛争の解決の手段としないと定め、戦争放棄を決めた。この連休明けには国会が開かれ、有事立法が議論される。国民の生命財産を国家が守るのは自衛であって、それまでを否定することはできない。
国同士が戦うとき、必ず正義をかざすが、相争う戦争に正義などというものがあるだろうか。果たして原爆投下という手段が許されるであろうか。しかも、民間人を標的にして。答えは否である。
 旧約聖書の神は、教えから外れた人々殺す、裁く神である。選民思想という言葉があるが決して友好的な神ではない。ノアの箱舟の話では、選ばれたものだけ生き残り、多くは抹殺されたことになる。悪しき者という裁きのためである。ソドムとゴモラの話などは原爆投下を連想させると言ったら言いすぎであろうか。
 パレスチナでくり返されている争いは何であろうか。民族の争い、宗教の違いによる争いなどにより憎しみを増大させ終焉することがない。やったらやりかえす、まるでヤクザの世界に似ているが、国家規模の紛争だから始末が悪い。敗戦国ではあるが、原爆を落とされた日本は戦後ひたすら平和を願い、亡くなった多くの御霊を慰霊してきた。アメリカを憎み、やり返そうとすることはなかった。日本人は過去を水に流すという曖昧な国民性があると指摘する人がいる。水に流せるということがどれほど大変な行為であることを指摘する人は知っているのであろうか。傷つけられた身や心を自ら修復することがどれほど辛いことか。力の強い者、勝利した者はそれを知るべきである。
 人は真理を求めても良い。正義を主張すべきではない。まして行動を起こせば必ず争いになる。人の世は、さまざまな環境と歴史の中に個々別々の人格を持つ人々が暮らしているのだから、相対的であって調和の中に成り立っている。ただ個は全体の中の個であるから、手前勝手な個人主義は通らないことは自明である。
法律や倫理は、長い歴史の中で人類が作り出した叡智であり、神の摂理であるかも知れない。不当な行為はそれによって裁かれる。戦争という暴力によって裁くことにはならない。
永井博士のことに戻る。著書『いとし子よ』の中で言っている。最愛の妻を死に至らしめたのは原爆ではなく戦争だと我が子に話している。争うという心をやめ、憎む者も愛しなさいとも言っている。
 放射線医学を学び、原爆による被爆ではなくレントゲン撮影のために、戦後二畳程の如己堂に伏しながら平和を訴えた博士の言葉は、重い。そして、あまりにも原爆は博士の人生にとって運命的なテーマではないか。
長崎市浦上地区は、カソリックの信者が多い地区である。原爆投下により爆心地に近かった浦上は荒野になった。歴史上、浦上が荒野になったのは三度だという。一六二九年、キリシタン狩りで信徒の家は焼き払われた。二度目は明治になって、鎖国は解かれたが、キリシタン法度が残っていたために、公然と宗教活動を始めたために、浦上の全ての信者は国内各地に追放された。解放され、浦上に戻るまで四カ年あまりの月日が流れたのである。あまりにも長崎浦上地区は受難の地ではないか。
 一八八九年の明治憲法の発布により信仰の自由が得られた。信者は増え、昭和二十年には一万人になっていた。東洋一と称せられた浦上天主堂の完成は、信者の力以外の何者でもない。しかし、八月九日の原爆投下により八千人の信者が犠牲になった。三度目の荒野になったのである。
一九四八年十月十八日午後四時半過ぎ、何の前触れもなく、ある人物が如己堂を訪ねて来る。三重苦を克服したヘレンケラー女史であった。その場にいた博士の長男誠一は、
「あの盲目の小母さんがネ、体操のように足を高く高く上げて歩いたヨ」
と表現した。石ころに躓(つまづ)かないようにと歩いている姿が子供の目にはそう写ったのである。
ヘレンケラーは、ためらわず博士の所に近づいて来る。膨れ上がった腹と臍を隠すことも忘れ、寝台から滑り降り、畳の上へ這って出て敷居のところで彼女を迎えようとした。それを知ったヘレンケラーは、
「そのまま、そのまま!」
と手を振って止めようとした。
博士は、躓かないようにと心配し、
「足(フィート)、足(フィート)、石(ストーン)、石(ストーン)」と叫んだ。
博士は坐ろうとしたが、心臓が苦しくなり手だけを伸ばした。ケラーは、同卒者に支えられ空気の中を博士の手を捜し求めながら近づいてきた。とうとう手が届き、手を握り合った。
博士はその時の感じを
「温かい愛情が、電気回路を開いた時のように瞬間に私の五体へ流れ込んだ」
と表現している。
六九歳の老人が不自由な体をいとわず、はるかアメリカから私宅を訪れ、心底からの同情を寄せたのである。真実の愛というのは、こういうものであろう。今日、我々は、その一コマを写真で見ることができるが、感動的な場面であることは、博士の著述だけで充分である。
昭和天皇やギルロイ枢機卿も博士を見舞うのだが、それはそれで尊い行為には違いないが、地位ある人の慰めより、このヘレンケラーの訪問は、愛の行為として光輝いてい
る。博士は、青い鳥がやってきたとも書いている。
  

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2013年05月14日

『夏の海』(拙著)奈良、京都の寺々を訪ねて

奈良、京都の寺々を訪ねて
 

 法隆寺は大伽藍である。東院伽藍と西院伽藍からなる日本最古の木造建築で、聖徳太子が創建した。世界文化遺産にもなっている。雲が低く棚引いていて、今にも雨が落ちてきそうな天気模様であった。門をくぐると、五重塔と金堂が見えてくる。回廊に囲まれた敷地の中に立っている。回廊の柱が有名なエンタシスである。金堂には壁画が描かれていて、戦後火災もあって修復された。外からは暗くて良くは見えない。
 この寺でとりわけ有名なのは、百済観音と玉虫厨子である。いずれも国宝である。近年建てられた百済観音堂に展示されている。百済観音の特徴は、すらっとした背の高さである。玉虫厨子の名の由来は、側面に玉虫の羽根を張り付けてあること発しているが、わが身を獣に食べさせている聖人の姿が描かれている。
 東院伽藍には夢殿がある。今から千二百年以上も前に、これほどに均整のとれた建築物を完成させた文化には畏敬の念を持たざるを得ない。夢殿の中には、救世観音(くぜかんのん)が安置されている。春と秋の二回薄暗いこの御堂の中に尊顔を拝することができる。訪れたこの日は、春の開扉最後の日であった。
 

 秋艸道人。艸は草である。歌人會津八一の別名である。明治から大正、昭和にかけて活躍した。新潟県の出身である。古都奈良を愛し、幾度となく古寺や仏像を訪ねて歌を詠んだ。ひらがなだけで書かれていて、万葉の時代を意識させる独得の歌が多い。
おほてらのまろきはしらのつきかけを
つちにふみつつものをこそおもへ        
おほてら(大寺)は唐招提寺であり、まろきはしらは金堂の柱である。現在金堂は修復中で、エンタシスのまるい柱は見ることができない。境内にその歌碑がある。
世に知られているものでは
やまとにはかのいかるがのおほてらの
みほとけたちのまちていまさむ
こちらのおほてらは法隆寺である。みほとけたちには、夢殿の救世観音、西院伽藍にある百済観音像などが意識されていて、像そのものを詠ったものも有名である。みほとけがまるで待ち人のようではないか。
あめつちにわれひとりゐてたつごとき
            そのさびしさをきみはほほゑむ


と会津八一が詠んだ救世観音のほほえみまでは見えなかったが、これほどの近くで拝観できたのは初めてであった。夢殿ばかりを意識していて、聖徳太子の等身大像であり、秘仏とされたこの像のことが念頭になかったからである。会津八一の歌と救世観音像そして夢殿がひとつに繋がったとき言い知れない感慨を覚えた。救世観音のほほえみは、母親の子供への微笑みのようでもあり、孤高の寂しさの中にあっても、衆生に微笑みを浮かべる聖者の姿のようでもある。人はこんな態度で人生を送ることができるのであろうか。聖徳太子の一生は、まさにこのような態度で貫かれていたのであろう。
 厩戸皇子とも呼ばれた太子は、五七四年に生まれた。父は用明天皇、母は間人(はしひと)皇后である。蘇我氏の力が強かった時代で、太子は天皇となることはなかった。推古天皇の摂政として、一七条憲法を始めとする政策を進めていった。仏教に深く帰依し、夢殿に瞑想に耽ることもあったであろう。一方、遣隋使や新羅との国際交流により文化の発展にも意欲的にとりくんだ。しかしながら、蘇我馬子達豪族の力も無視できず、〝あめつちにわれひとりゐて〟ということも多かった。
 太子が没して二〇年後、馬子の子入鹿(いるか)は、太子の御子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)を東院伽藍に襲い、一族は自ら命を絶ち、寺は炎上焼失する。入鹿は、中大兄皇子と藤原鎌足の策略によりこの二年後に板蓋宮で暗殺される。橘寺や川原寺跡地のある近くにあったとされる。この政変が大化改新につながっていく。
 
 東院伽藍には、太子の母のために建てられた中宮寺がある。尼寺である。半跏思惟の弥勒菩薩像があるが、新本堂に安置されているのは、模造である。
 中宮寺を出ると、和辻哲郎の『古寺巡礼』や亀井勝一郎の『大和古寺物語』に描かれている風景を見ることができる。路は舗装されてはいるが、田や畑もあり、池もある。今日のように人工的構造物のあまりなかった両氏が訪ねた頃の戦前の風景ではないが、法輪寺や法起寺に至る道筋には情緒がある。低木の無花果が植えられているのが目についた。
 法輪寺には立ち寄らず、法起寺を見る。日本最古の三重塔がある。国宝である。平地のこじんまりとした敷地の中にあり、周囲は田園地帯で、小高い丘との間に車の往来の激しい道路がある。千手観音像に拝観することができる。
 
 近鉄郡山駅までタクシーを拾い、近鉄で西の京駅まで行く。二駅目である。薬師寺と唐招提寺がある。拝観のできる時間は、一時間しかない。足早に見る。今回の寺めぐりは少し欲張っている。俗称ポックリ寺といわれる吉田寺は、JR法隆寺駅から徒歩では遠く、法隆寺から法起寺までの太子ゆかりの寺々を訪ねるのが良かったかもしれない。

 京都の寺は、庭が美しい。五月中旬の木々の緑と苔の緑は格別である。雨あがりに陽射しが注ぎ、何ともいえない清涼感がある。洛北にある、曼殊院と詩仙堂は、山あいにあり、雑踏からも遠く、建物は山荘や茶室のように小さくも逆にゆったりとした時間を与えてくれる空間に思えた。
 詩仙堂を訪ねるのは約三十年ぶりである。学生の時、茶会に招待されたのが詩仙堂であった。そのときの記憶が蘇ってきた。茶を点ててもらった部屋はここだったかと感慨深いものがあった。失敗談があるのである。お菓子をいただくときになって、和紙の上に置かれたのを緊張のためか、不器用なためかは知らぬが、丸いお菓子は畳に落ち、ころがっていってしまった。出席者の笑いを押し殺している姿よりも、当の本人の心境は深刻であった。

 「気になさらないで」
ともうひとつのお菓子を手渡してくれた婦人の気品ある対応が、その後の京都での学生生活を勇気付けてくれたのは確かである。この茶会は、女子大学とコンパも兼ねていたからよい恥をかいたことになる。この席に同志社の住谷悦治総長も出席していた記憶がある。今から思えば大変な大失態であった。
 
 銀閣寺は足利義政の別邸として建てられた。室町幕府三代将軍であった足利義満の金閣寺と対比される。金箔が貼られた金閣寺が華やかな雰囲気であるのとは対照的に銀閣寺は質素な感じがある。戦後になって、金閣寺は僧の放火によって焼失し再建されたのに対し、銀閣寺は創建以来のものであることも渋さと落ち着きを感じさせている。東山を背にしているが、その麓まで庭が延びていて斜面にある苔が見事である。雨上がり、雲間からさしてくる陽に樹木の陰が苔に映り、陽の当たる部分とのコントラストが美しい。
 南禅寺は、広大な敷地を有する臨済宗の寺である。寺の基礎を創ったのは亀山天皇である。南禅寺は「五山之上」として五山文学の中心地として栄えてきた。しかし、応仁の乱で寺は焼け、現在の建物は桃山時代以降のものである。
 石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と唸った三門は、どっしりとして聳えている。上ってはみなかったが、京都の街を見下ろすことができる。大阪夏の陣の戦没者慰霊のために藤堂高虎が寄進建立したものである。
 方丈庭園を見る。禅院式枯山水の庭園で小堀遠州の作と伝えられている。小堀遠州は、近江出身の大名で、秀吉や徳川家三代に仕えた茶人でもあり、その流派は四〇〇年を経た今日も引き継がれている。夢窓国師の天竜寺の池と岩山を中心とした庭とは趣が違っている。縁と対面する塀に沿って岩と樹木が丹誠に配置され、苔も見事な緑を見せている。前面には庭の殆どをしめて白石が敷きつめられている。竜安寺の石庭のように、庭の中央に石が置かれ、その周囲に小石が敷きつめられていると、それを大海と見るか、雲海とみるかという想像もできるが、楓と松や躑躅が植えられているのでそうした想像はできない。
 
 方丈は大方丈と小方丈からなり、いずれも国宝である。小方丈にある「水呑の虎」は、狩野探幽の傑作とされているが、今回は見ることはできなかった。大方丈の襖絵は、狩野永徳、元信の作である。
 南禅寺といえば、湯豆腐を連想させる。南禅寺に隣接して「奥丹」という湯豆腐料理の老舗がある。朝粥も有名で観光ガイドに載っている。禅寺で食されていた精進料理の一種であるが、材料は豆腐なのだから、一人前三〇〇〇円というのは結構なお値段である。半分は京都という場所代と思えば良い。 京都は、東山に沿って寺を訪ねたが鎌倉から室町時代の風光の感があった。庭園や料理に代表される京都の文化に当てはまる特徴的な言葉は雅(みやび)である。遊びの要素も多分に入っている。
  

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2013年05月13日

『夏の海』(拙著)早春の京都

早春の京都
 京都駅は、すっかり近代的ターミナルに変身している。久しく京都駅に降り立つことはなかった。設計者は日本人ではないと聞いた。千年の都であった古都京都の景観に溶け込んでいるようには思えない。ただ国際都市としての玄関というふうに考えれば許容しても良いかも知れない。
 京都タワーは健在であった。「お東さんの蝋燭」と呼ぶ人もいる。お東さんとは東本願寺のことである。京都駅から北に延びる烏丸通に面し、駅からはきわめて近い。駅から見える建物でもう一つのシンボリックな建物は東寺の五重の塔である。
友人と待ち合わせ、東福寺に行く。東福寺は京都五山の一つで臨済宗の寺である。京都五山は他に、相国寺、天龍寺、建仁寺、万寿寺があるが、いずれも禅宗の寺である。室町時代、足利氏三代将軍義満の時代に相国寺が割り込んだ形になった。押し出されたのは南禅寺であるが、除外する口実として五山の上位別格とした。
 東福寺は、博多にある承天寺に、対宗対明貿易をさせて中国から文化の移入を果たし、それなりの冨を得ていた。伽藍は驚くほどに広いのはそのためであろう。紅葉が美しいので有名だが、早春で芽吹きの季節でもない。雨あがりで、梢に雫がかかっていた。それもまた風情がある。


春雨を 梢に宿し 東福寺
 東福寺は、南都奈良の東大寺の「東」と興福寺の「福」をとり、その規模を競ったという。洛南に位置し、鴨川の東にあり、孝明天皇陵が近くにある。幕末に登場する天皇で明治天皇の父君である。臥雲橋を渡り、方丈庭園などを見る。
大路は別として、京都市街の道は狭い。一方通行も多く、道を知らない旅人が車を運転して観光するには不便を感じた。名所の駐車場もそれほど広くはない。
 夕食には少し時間があったので、東山通を北上し、京都市内をドライブする。学生時代走っていた市電の姿はもはやない。
 新京極ですき焼きを食べることにした。明智光秀の謀反により自刃に追い込まれた織田信長の終焉の地になった本能寺はここから近い。今はその面影も残っていない。坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋も今はなく、河原町通の歩道脇に石碑で跡地が記されている。
 和泉式部の寺があるということは、この旅で初めて知った。和泉式部は紫式部と同時代の人で愛の遍歴を重ねたことで知られている。歌人であって
冥(くら)きより冥き途(みち)にぞ入りぬべき
       はるかに照らせ山の端の月
 という歌を残している。救い難い業の深い自分に憐れみを乞うているのである。当時、性空上人という聖(ひじり)がいて、彼女は彼を尊敬していた。上人を通じて仏の加護を願ったのである。
 現代の瀬戸内寂聴のようであるが、晩年も二十もの年上の老人と一緒になり別れている。浄土からの光明は彼女には届かなかった。よほど自我の強かった女性であったのであろう。自我というものの中から人生の真の喜びは生まれてこないと仏教は教えている。ただ仏にすがる気持があればよかった。
 

 今宵の宿泊地は、洛北にある京都国際会館に隣接した宝ヶ池プリンスホテルである。円形ホテルとして周囲の景観に溶け込んで美しい。高級ホテルでもある。サービスも実に良い。
 翌朝は本格的に雨になった。洛西に向う。大覚寺を見る。駐車場の隣りには健光園という老人施設があった。老人福祉界にあっては有名な施設である。小国英夫という園長がいて、良い実践をして全国に発信していた。昭和五十年代から六十年代のことで、故人となった新生会理事長原正男とも親交があった。
 

 大覚寺は、嵯峨天皇の離宮でもあった。大沢の池が接していて、まるで別天地のようである。中国の洞庭湖を模して造った池である。創建から久しく時を経た南北朝の時代は、南朝の拠点となり大覚寺党の名も残している。松の木が手入れされていて美しかった。仁和寺の山門で雨を凌ぎ、友人の娘さんと待ち合わせる。娘さんは京都の大学に通っている。仁和寺の門から延びる山道は奥行きがあって素晴らしい。雨も降っており、時間もないので立ち寄ることはしなかった。
 

 門前にあった店で昼食を済ませ、タクシーで同志社大学の西門に向う。同志社大学の本体は奈良に近い田辺市に移転したが、創設以来の地に卒業当時の建物はそのまま残されている。今出川通を挟んで京都御所の北側にあり、薩摩藩邸があった場所である。北には隣接して相国寺がある。
大学の西門から烏丸通を渡ったところに侘助という喫茶店がある。店内は当時とほとんど変わっていない。友人とはここで別れる。
 

 二泊目は、大学時代の恩師の家である。宮本武蔵の吉岡一門との決闘があった左京区一乗寺にある。また、近くには金福寺があり、与謝野蕪村の墓がある。右京区という場所もあるが、京都御所の紫震殿から南を眺め左右が決まる。東が左になる。また、北に行くことを上ルと言い、南に行くことを下ルと言う。京都を訪ねるたびに何度か泊めていただいている。ゼミの学生さんが訪ねてきて来て夕食を一緒にすることになった。先年、京都ホテルで還暦の祝いがあって、第一期生ということで乾杯の音頭をとらせてもらった。
ただ人は情けあれ 朝顔の花の上なる 露の世に
という閑吟集に編集されている歌をタイトルとして、社会福祉法人新生会の広報誌の巻頭言に原稿をいただいたことがある。温和なお人柄がよく表れている。恩師の名は、橋本宰先生。同志社大学文学部教授で専攻は心理学である。奥様も大学教授で、専攻も同じである。
 
 帰郷する日、雨は雪になった。積もるほどではない。春の雪を京都で見るのは初めてかもしれない。先生の車で京福電鉄の駅のある北野白梅町に送ってもらう。旅の最後に是非見たいと思っていた仏像があった。太秦(うずまさ)の広隆寺にある半伽思惟像と呼ばれる弥勒菩薩像である。一説では聖徳太子が秦河勝(はたのかわかつ)に送ったとされている、秦氏は渡来系漢人だと言われている。材質は松であることから、新羅で製作されたものらしい。フェノロサが国宝第一号としたことでも有名である。霊宝堂の薄暗がりの中に安置されているが、何ともいえぬ重厚な雰囲気が漂っている。
千年の微笑み見たり京の春
 漆などは塗られておらず無垢の肌を見せている。学生に指をもがれてしまったという事件があったというが、知らなければ気づかない。旅の最後に良いものを見た。再度この像を見たいとも思った。
  

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2013年05月12日

『夏の海』(拙著)元旦、奥州路を行く

元旦、奥州路を行く
 元旦というのは、何やら神聖の日という感じが身についてしまっている。〝淑気〟という言葉があるが、日常性から離れて、特別な時空間にいるという気分である。人々は、〝故郷〟をめざしゆったりとできる場所に戻ろうとする。それは、家庭であり、生家であり、考えてみれば動物の帰趨本能のようである。
 鳥に巣があるように、体を休められる空間は人間にも必要である。〝安息日〟は週に一度はあることになっているが、年に一度の安息日が元旦ということなのであろうか。そしてこの日を境に心の穢れは清められるとも考える。日本はそういう国である。
 そんな元旦を本州最北に位置する青森県に旅をすることにした。ただ日帰りなのだから旅とは言えないかもしれない。移動したというに近い。
 早朝日の出前に家を立ち、青森駅に昼前に着く。津軽海峡を望む浅虫温泉に浸かって帰って来る。ただそれだけの旅程である。傍からすれば徒労とも見えるに違いない。ただ人には旅立つ想いがある。行ってみたいというのは押さえ難い情緒である。
 ただ背景には、「当日に限り、JR東日本区間は乗り放題、一万円」という条件があったからであり、庶民の身で、「押さえ難い情緒」と格好をつけても通常料金では決行はしていないに違いない。
バックに積めたのは本五冊。『奥の細道』、『米内光政』阿川弘之、『長崎の鐘』永井隆、東北旅行ガイドブック、労働基準法のテキスト。旅に合わせたようであり、またそうでもない。車内に居る時間を考えて晦日の夜に、思いつくまま本棚から取り出しただけのことである。
 

 大宮からは東北新幹線で盛岡まで行く。下野(しもつけ)に入るとやがて左に日光連山、那須の山系が見えてくる。男体山は富士山のように美しい。山と言うのはなだらかなのが良いというのは、別に男性だけの感受性ではあるまい。田は凍土のように霜に覆われて、赤みをもった日の出間もない朝日が照らしている。
沿線の霜田を照らす朝日かな
 窓外の風景は、目に留まるものもあればあればそうでないものもある。惹かれるものものでなければ心に残らない。全てを見ようとしてもできない。目をつむれば勿論風景は見えてこない。いかに人は主観的であり、人生もまたそうなのだろう。
 「五〇代になったら、人も環境も選択したい」
という友人がいたが、そうでなくとも五十年間に養われてきた人生観が自然とそうさせるかもしれない。
途中仙台に停車しただけで、ひたすら東北の背骨を移動する。宮沢賢治ゆかりの花巻や柳田国男の遠野にも立ち寄りたいが時間はない。
 盛岡からは、特急はつかりに乗る。横なりの雪が降り続いている。列車から見るのでそう見えるが結構な降りっぷりである。野辺地を過ぎて津軽の海が視界に入る。〝津軽海峡冬景色〟である。津軽の冬の空は重い。晴れる日もあろうが、多くはこうした空の下で人々は長い冬を過している。
 

 終点青森駅で昼食をとることにした。駅前に小さな店だが寿司屋が営業していた。暖簾には「紀文寿司」と書いてある。
夫婦で店を開いていて、生粋の津軽人だという主人の言葉の響きに
「津軽に来たんだなあ」
という気がした。純朴で、飾りっ気のない人柄についついお酒もすすむ。田酒という銘柄の地酒を勧められた。大橋巨泉の好みの酒だという。新鮮な近くの海から捕れた魚介類を刺身で食べる。鮑(あわび)とホッキ貝がとりわけ美味しかった。
津軽出身の著名人の話題になる。版画家棟方志功は青森市内の出身で、記念館もできている。まだ売れない頃、泊まる家々で画を書いて物乞いをするように暮らした時期があったという。中には
「お前の版画などはいらねえ」
という人もいたが、惜しいことをした。まるで山下清のようである。
ブルースの女王淡谷のり子は、店主の目にはよく映っていなかった。
「あの人はえふりこぎだから」
えふりこぎというこの地の言葉を標準語に置き換えると「見栄っ張り」という意味になる。市内の呉服屋さんの娘さんだったからという解説が加わるのだが、戦時中、派手な衣装でブルースを歌う淡谷のり子が、当局に咎められると
「私の歌はモンペ姿では唄えない」とつっぱね、戦地の慰問を続けたという逸話を聞くと本当のえふりこぎだったかは断定できない。
太宰治の生地は、青森市から離れている。鉄道で行くより車で言ったほうが便利だというアドバイス以外は
「女の人と一緒に死んだ人だわね」
という寸評だけであった。
寺山修司については
「狂人か天才だか分からん人だわ」
ということになる。覗きをして、警察のご厄介になったこともあるらしい。地元では名門校の青森高校の出身だから頭は良かったには違いないと少しは援護して見せたがそれ以上に多くは語らない。
店主の人柄から津軽人の体質を想像すると、理屈には関心がないという風である。ただ、一人から全体を断定することはできない。ただ、内に潜める情熱のようなものを津軽の風土が人々に与えているのではないかとは思った。
「浜昼顔」という歌謡曲がある。作曲は古賀政男で五木ひろしの持ち歌である。作詞が寺山修司である。
家のない子のする恋は
たとえば瀬戸の赤とんぼ
ねぐらさがせば陽が沈む
泣きたくないか日ぐれ径日ぐれ径

詞そのものから何とも言えない淋しさ、せつなさが伝わってくる。ただその裏には、必死に生き抜こうとする力も感じる。昭和五十八年に四十七歳で亡くなっているが、俳人、歌人、小説家、脚本家などに才能を発揮したマルチタレントであった。死因は肝硬変だったというから酒に心を紛らわす日々も多かったかもしれない。
 

 青函連絡船の記念館を見たかったが休館日であった。目的の地浅虫温泉に向うことにした。青森から野辺地に行く途中にあり、全国に古くから知られる温泉地である。ゆったりとお湯に浸かり、一年の分の疲れをとるつもりである。「道の駅」という公共施設が公には珍しく営業していた。
湯殿から海を眺めることができる。午後二時だと言うのに雪空は暗く、島が一つぼんやりと見える。湯船には、青森の名産である林檎がおもいきり浮かんでいる。湯はぬるく長湯ができた。
浅虫温泉駅のホームは、五時を過ぎて灯りがともり最早夜である。高崎駅には今日中に着かなければならない。券が無効になる。シンデレラの物語に似ている。
  

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2013年05月11日

夏の海』(拙著)

 紀行集2作目のタイトルは、「夏の海」とした。四季を意識し、冬まで辿りつきたいという気持ちもある。2002年の発行で、一作目からちょうど1年後になる。今から考えると短期間に随分旅をしたという気がする。
この年から、元旦旅行を始めた。その後10年続けた。その理由は、JR東日本が、「元旦パス」なる割引切符を発売したからだ。日帰り切符なので遠くに行けないかと思ったが、新幹線が使えるので、青森まで行くことができた。この切符の存在を教えてくれたのは、旅行社に務めていた友人である。
 その後の旅のアドバイスもあり、随分と遠距離ながら安上がりの旅ができた。旅先で友人にも会う事が出来、芭蕉の心境も分かるような気がしてきた。連載する前に目次を揚げる。


元旦、奥州路を行く
早春の京都
奈良、京都の寺々を訪ねて
宮島、呉、日本三景と鎮守府の旅
越後長岡
信州松本平から安曇野へ
肥後熊本へ
旅路の涯
  

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2013年05月08日

湯浅治郎の生涯

 湯浅治郎は、幕末に生まれている。正確な生年は、嘉永三年である。西暦でいうと一八五〇年である。新島襄が、明治七年に帰国し、安中の父親と再会のため来訪した時は、妻帯し、成人していた。湯浅治郎の家は、地主から商家となり、婿養子として湯浅家に入った治郎吉に商才があり、家業を繁栄させた。五人の兄弟がいたが、彼と弟のみが成長した。弟吉郎は、旧約聖書を研究した学者で詩人でもあった湯浅半月である。
 一五歳で家督を継いで、父親以上に経営手腕を発揮し、一九歳で父親になっているところがすごい。長男は一郎と言い、後に家業を継がず、東京美術大学で黒田清輝に西洋画を学び一流の画家になった人物である。最初の妻との間には六人の子供が生まれ、妻は出産が原因で病死した。子供の命名がふるっている。生まれた順番に数字を与えている。最初の六人の子供の名前は以下のとおりである。一郎、仁以子、三郎、四郎、五郎、禄子。三郎が家督を継ぎ、今日では七代目が醤油製造会社有田屋の当主となっている。三郎の長男正次は、新島学園の創立者の一人で、長く安中市長を務めた。
 後妻になったのが徳富初子である。初子の間には、八人の子供もが生まれている。子供への命名の仕方は引き継がれ、先妻の長男から数えて八番目が、京都帝国大学の教授や、同志社大学の総長、国際基督教大学の総長を歴任した湯浅八郎である。最後の方になると、与三、与四郎となるが、湯浅八郎、与三とは晩年ではあったが、会う機会があった。このことについては、後に触れることにする。妻の初子は、徳富蘇峰、蘆花の姉にあたる。蘇峰が、後に首相になり五・一五事件で暗殺された犬養毅を紹介したところ、犬養が将来財と地位を得れば、女性の二人や三人囲うと知って、縁談をきっぱり断った女性でもある。
 初めに、湯浅治郎の家族について書いたのは、よくぞこれだけの子供を育て上げたということもあるが、それぞれに社会的に大成した人物として世に送り出したという事実である。この時代、子だくさんの家族は珍しくはないと思うが、湯浅家の例は稀というしかない。
 若い時といっても、三〇代から四〇代だと思うが、写真を見るとハンサムである。髭を蓄え、大久保利通に似ている。武士ではないが、学問に関心があり、商売で父親と横浜に足をのばし、文明開化の波を体感している。福澤諭吉の書籍を熟読するようになった。新しい文明を伝える書物を蔵書するようになり、明治五年には、屋敷の一画に私設の図書館を造って無料で開放した。便覧舎という。こうした試みは、日本で最初といっても良い。時を同じくして、京都でも山本覚馬の発案で公立図書館がスタートしている。二人は新島襄の同志社経営を影で支えた点で似ている。
 安中のキリスト教は、新島襄来訪から始まったと言って良い。新島は、約一カ月安中に滞在し、伝道した。洗礼を受けたわけではないが、聖書を研究する会ができ集会を持つようになった。ほとんどが武士階級出身の人々で、商人の出身は、湯浅治郎ただ一人だった。後に同志社から海老名弾正が若き牧師として赴任し、その後、柏木義円が長く牧師となって安中にキリスト教の信者を増やしていった。安中教会の設立は、明治十一年で、石造りの礼拝堂ができたのは、大正八年である。いずれも中心となって運動したのは、湯浅治郎である。
 政治家としての湯浅治郎の活動も見逃せない。明治十三年には、群馬県議会議員になっている。当時の群馬県知事は、楫取素彦である。長州藩士で後妻は、吉田松陰の妹である。久坂玄瑞に嫁いだが、禁門の変で戦死したために、松蔭の友人だった楫取と再婚したのである。楫取素彦は、官選知事だが、群馬県にとって恩人のように考えられている。見識があり、人格者であり、中央政府にも影響力を持っていた。明治天皇の信任が厚かった。
 湯浅治郎の政治家として、群馬県政に残る業績は、他県に先駆けて廃娼運動を起こしたことである。キリスト者としての思想から生まれた運動には違いないが、湯浅治郎の父親の遊郭通いは、子供心に傷として残っていたからだ。母親の心も苦しめていた。県議会議長の時、議会で議員の賛成多数で決議した。長い時間粘り強く運動を続けた成果でもあった。国会が解説されると、衆議院議員に当選する。そのまま議員を続ければ、大臣になっていたともいわれる。財政の分かる議員は、少なかったのである。
 明治二十三年に新島襄が大磯で客死し、そのことによって衆議院議員をやめる。同志社の経営を支えることに決意したからである。ここが湯浅治郎の凄いところである。しかも約二十年間無給で奉仕した。どうして二十年間も無給で生活ができたか不思議である。その時、四十歳そこそこで、子供も多く経済的な負担は大変だったであろう。その経済的基盤は推測の域を出ないが、当時としては、驚くべき発想によりそれを可能にしている。家業を子供に譲ったのではなく、買い取らせたのである。十五年の完済ということにした。次男三郎は、十三年でそれをやりとげた。自分も苦労するが息子にも苦労させる。湯浅家は、安泰である。なんという炯眼というべきか。加えて株式も所有し、土地の売買による利益もあったらしい。商才もあり、政治力もあり、金融にも聡く、しかも名誉を求めず、裏方で人生を生き抜こうとする意志は、只者ではない。どうしてこのような人物が今日忘れられかけているのかと思うと残念である。
 明治の初年に無料の図書館、便覧舎を開設したことを書いたが、その数は三千冊とも伝えられている。その後建物は、焼失したため、その地には、石碑だけが残っている。現在も有田屋の所有地である。湯浅治郎自身読書家であったことが想像されるが、多くの人々に学んでほしいという気持ちが強かったのではと思われる。明治初期のキリスト者が一堂に会した明治十六年の大親睦会の記念写真が残っている。そこに写っている人々に出版する機会を与えている。霊南坂教会の牧師小崎弘道、横浜バンド出身の植村正久、札幌農学校を新渡戸稲造らと卒業した内村鑑三らがそうである。妻初子の弟である、民友社を創設した徳富蘇峰の支援は、副社長として経理を手伝い、資本も提供している。
 湯浅治郎の生涯を書きつづるために参考にしたのは、『上州安中有田屋』という著書で、著者は、大田愛人である。彼が、あとがきで書いているように〝近代社会で黒子に徹し、縁の下の力持ちのような役割を担った「地の塩」のような人物〟とういうのが、湯浅治郎評である。適格だと思うが、信念の人だったとも言える。新島襄が最後まで反対した、一致教会と組合教会の合同には、湯浅は賛成の立場だった。後に、組合教会の朝鮮伝道問題では、吉野作造や柏木義円と反対の立場に立ち、義弟の徳富蘇峰や海老名弾正、小崎弘道の賛成はとは一線を隔した。反日感情の高揚によって、朝鮮統治に困難を感じた朝鮮総督府は、国費を使ってキリスト教の伝道を組合教会に要請してきたのである。湯浅治郎は、生涯国家主義の立場に立たなかった。県議会議員になった時も知事は、民選であるべきだと主張している。
 このことは、息子の一人、湯浅八郎にも受け継がれている。湯浅八郎は、戦前と戦後同志社総長となり「国賊湯浅」と呼ばれ、日本を追われアメリカに渡っている。それ以前に京都帝国大学の教授だったが滝川事件で意見表明をしたために職を辞している。晩年にお会いする機会があって、講演、講話を聴かせていただいた。小柄で細身の体から、どうして張りのある声と情熱と明晰な内容の言葉が生まれて来るのかと感心した記憶が残っている。幼稚園の時、帰りに人力車を使い、嘘をついたところ母親から縁側から蹴落とされ棒で殴られた経験を話し、以来「神の前に正直に生きる」ことを信念としたこと、ヒマラヤでの霊感体験で神の存在を再確認した話など記憶に残っている。
  子孫曾孫五十五人人となりにけり
嬉しくもありうるさくもあり
一休禅師を思わせる短歌だが、実り豊かな老後生活が思い浮かべられる。昭和七年に亡くなるが、臨終に立ち会った牧師が、死の直前にも笑みを浮かべていたと書き残している。
 辞世の歌は
  許されて帰るみくにを思うだに
          花野に遊ぶここちこそすれ
天国に凱旋したと言って良い生涯であった。
  

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2013年05月07日

心に浮かぶ歌・句・そして詩115

「川中島」頼山陽
鞭聲肅々夜過河  鞭聲肅々 夜河を過(わた)る
 曉見千兵擁大牙  曉に見る 千兵の大牙を擁するを
 遺恨十年磨一劍  遺恨なり 十年一剣を磨き
 流星光底逸長蛇  流星光底に 長蛇を逸す
詩吟でよく歌われる頼山陽の漢詩。正式な漢詩の題は、「題不識庵撃機山図」といい「不識庵(謙信)の機山(信玄)」を撃つの図に題す」と読む。
頼山陽は『日本外史』の著者で知られているが、書画にも才能を示し、多才な人であった。安政の大獄で刑死した頼三樹三郎は、三男。
  

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2013年05月06日

子供の日のNHK将棋」


 5月5日(日)連休でテレビを見ていたら、小学生の将棋名人戦が放映されていた。準決勝戦と、決勝戦を2局見たのだが、手に汗握る戦いがくりひろげられている。そして、実に感覚が良い。鋭い。思いもつかない指し手が新鮮でもあった。この小学生と戦って勝てる自信はないが、勝負という究極の目標は、大人と同じであるが打算がないという感じなのである。だから、逆転すると思った。準決勝の1局は詰みがあった。解説者の森内名人の指摘に敗者の少年は嗚咽した。うっすら気づいていたのだろう。その対局に勝った少年は、決勝戦を有利に進め、大差で勝つと思ったが、最後に詰みを読み切れず、相手に手を渡し、詰まされてしまった。森内名人がその詰みを解説するとわかっていた。決断できなかったのである。しかし、彼は淡々としていた。はたしてこの二人将来どちらが大成するだろうか。能力はそれほど違っていない。性格、人格というものが将棋とどう関係があるのか、それは誰もわからない。良い番組を見させてもらった。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景16

振り子の生活
 結核療養時代から、原先生の生活習慣は、実に規則正しい。午後は、小一時間は必ず昼寝をする。就寝時間は、早い。朝早く起きて、食事の前に、自分でお茶を入れて飲む。亡くなられた日の朝もそうだった。
 上高地を旅した時も、同室の人の睡眠に配慮し、カメラをかかえ、散歩に出かけられた。そんなこととは知らず、眠りをむさぼっていた同室の若者が目を醒ますと「お茶が入っています」と先生が窓辺に坐っていたのには恐縮した。原先生のお茶の入れ方上手だと、茶道の師匠である野島秀子さんが言っていたとおり、その朝のお茶はおいしかった。
 原先生の寝相が良いのは有名であった。事務所の菅原優さんが追悼集に書いていたのは圧巻である。隣りで寝ている原先生があまりにも静かなので、気になって何度か目を醒ましたところ
 「僕は生きているから寝なさい」
と言われたというのである。
 午後になると昼寝をしたくてたまらない原先生にこんなことがあった。二十年も前のことである。
 県内に特別養護老人ホームが今ほど多くなかった時代、〝特養懇談会〟というのがあって、原先生は世話人をしていた。秘書官が二人いて、今榛名春光園の園長をしている宮原信義さんと交替で務めていた。
その日は、会場が桐生市にある菱風園であった。座長として進行してしばらくすると、原先生がコックリ、コックリ始めた。宮原さんも気づいていたらしいが、まだわかかったし、先生に声をかけるのに躊躇していた。出席者の話が終る頃、目を開いて、キチッと次ぎの進行に移っていたのにはビックリした。
要点は居眠りをしていても押さえていた。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景15

旅行とカメラ
 原先生の旅行好きは有名。海外に何度も出かけ、軽費老人ホームB型バルナバ館の設立は、ウィーンの年金ホームをヒントにしたものだった。国内旅行には、個人的に何度かお伴をしたことがある。上高地や八幡平に運転手として旅したのは、懐かしい思い出になっている。
 これは余談になるが、原先生を乗せるとスピード違反をするというジンクスがある。もちろん、これは原先生の責任ではない。仙台市近くの東北自動車道で災難にあってしまった。不思議と旅に出たときにそうなる。少なくとも他にスピード違反をした職員を二人知っているが、車での遠出(旅行)の機会が多いからそうなるのだろう。
 旅行に必ず持参するのがカメラ。原先生のカメラ歴は古い。『新生会三十年史』を編集した時、ほとんど原先生のアルバムから採用した程である。榛名荘時代は、モデルを呼んで撮影会をしたくらいの熱の入れようだったと聞く。
 自宅には現像用の暗室があって、原慶子理事長が子供の頃の話だが、現像中にその暗室を開けたらひどく叱られ、殴られたということである。父親に叱られたのは後にも先にもこの時だけだという。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景14

人事は理事長より漏れる
 法人の人事を最終的に決定するのは理事長である。そうかといって、理事長一人が全てを考え決めるわけではない。施設長、所属長の意見もあり、常勤理事の役員会で決定するのがルールになっているが、どうしてか秘密事項が外に漏れてしまう。よく調べてみると、理事長自身が犯人らしいということになった。会食などの雑談で何気なく話してしまうというのが真相であるらしい。
 意図があってそうするのではないから実害は少ないが、人事担当者はあわててしまう。人事のことは、理事長に話さないわけにはいかないし、人事担当者は苦労する。
 もう時効だから紹介するのだが、十五年以上も前の話である。飲酒運転(?)で、冬の凍結した道路の状態もあり、道下の畑に転落したことがあった。もちろん自損事故でケガをしたわけでもなかった。
 「交通事故を起こした職員は、必ず理事長に報告するように」
という指示が出ていたので、翌日原先生に報告すると、早速、その日の朝礼で
「交通事故を起こして僕のところに報告しない人が多いが、O君は今朝正直に報告してくれた」
と発表されてしまった。昨夜の事故の状況を知っている人もいたし、バツの悪いこと。変な褒められ方をされてしまった。原先生にしゃべったら〝戸が閉まらない〟。隠し事のできない善意なる人の行為なのだが、他にも同じような経験をした職員は多いと思う。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景13


 榛名荘病院と新生会の敷地には、数多くの桜の木があって、すっかり榛名町の桜の名所になった感がある。樹齢六十年、原先生が結核保養所開設の頃に植えた苗木が育ったものである。日本人は桜が好きだが、生前直接お尋ねしたことはなかったが、原先生も桜が一番好きだったのではないかと思っている。
 これは私見だが、榛名荘の創設期に、次々と亡くした四人のお子様たちと桜が重なってしまう。きれいに咲いたかと思うと、束の間に散ってしまう桜の花に、亡き子を思う原先生の心情を想像することはそれほど見当外れの推測ではないと思うのだが。
 平成九年四月に、特別養護老人ホーム誠の園、有料マチュアホーム穏和の園が開設された。穏和の園のうち、平屋建て部分は、動物と一緒に暮らせるホームで〝桜の園〟と名付けられた。そして、合築となったそれらの建物を桜が丘三ホームと呼んでいる。
 敷地周辺には、数十本の桜の苗木が植えられた。数年で、ちらほらと花をつけたが、やがてはホームに居ながらにして、花見を楽しむことができるようになるだろう。
 〝梅切らぬ馬鹿、桜切る馬鹿〟という言葉がある。桜は切ると枯れてしまうと思っている人が多いが、天狗巣病というのがあって、それこそ切らないと木が枯れてしまう。
東京電力株式会社のボランティアで駆除できたが、榛名荘病院と新生会の職員も共同して作業に加わった。原先生によって生み出された、二つの法人の絆に桜が一役買っていると思うのである。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景12

地球市民祈りの家
 「万教帰一」、「歴史はさし示す世界一家への道」、「人類皆兄弟」。原先生の好きな言葉である。世界地図には国境があるが、宇宙から見ると万里の長城くらいしか境界線らしきものはない。モンゴルなどは遊牧だから水と草を求めて移動するだけである。
 けれども、人類は、民族、言語、宗教等々、自己同一化しやすい範囲で国家を作る。その仲間には愛情が及ぶが、それを越えては逆に敵対したりもする。
 五十年以上も前、「歴史はさし示す世界一家への道」という言葉に触れた原先生は、共感の念強く、佐藤雪花女史(元新生会職員)筆の掛け軸を理事長室掛け、来訪者に自らの思想として語った。
 生物の進化は〝情〟(愛)の広がりであると言った人がある。確かに非情門・有情門という生物の分類があるが、昆虫などは子供や異性を食べてしまう。地球号の船員を同じように愛するという世界国家観は、晩年の原先生の心を特に強く支配していたと思う。
 原先生は、思想家ではないが、あえて言えば〝平和主義者〟、〝博愛主義者〟である。ご自身〝愛の人〟だったから理屈より、体感的にそう考えておられたと思う。他界された日が、広島に原爆が投下された八月六日。この日は戦後わが国の平和を祈念する象徴的な日であること。また、誕生日が八月十五日。この日は、戦争が終結した日である。この不思議な縁を何と理解したら良いのであろうか。神様は、原先生〝平和の使徒〟として地上に派遣されたのだろうと思う。
 宗教のことである。ご自身、日本聖公会の信者であるが、教義が異なるからといって、他のキリスト教信者を敬遠することはない。新生会の老人施設でお年寄りが亡くなり、家族が
「告別式をして帰りたい」
と言えば、
「イエス・キリストは、天上の父なる神の一人子で、お釈迦様は、同じ神の一番弟子である」
というキリスト教宣教師(裏千家の茶道家)の話を原先生は良く引用していた。また、
     分け登るふもとの道は異なれど
             同じ高嶺の月を見るかな

という歌も万教帰一の宗教観を表現するのによく使った。
 「地球市民祈りの家」の構想は、原先生の榛名荘も含めた社会事業の実践の到着点にあるような気がする。ヨーロッパの教会のように、いつでも市民が心の平安を求め、また人生の意義を考えられる空間が新生会にあって良い。教会には説教者がいるし、教義という形式もいる。〝家〟というと建物が浮かぶが、場所なら公園のようなものでも良い。榛名荘と新生会の発祥地、現桜が丘公園はそれにふさわしい場所である。
 原先生は遺言書を残し、その中に〝地球市民祈りの家〟を是非実現、維持するように書きのこされた。そのための資金としての寄付を新生会にされた。具体的なものは、はっきりと示されたわけではないが、後を託された者は、その遺言の重みを感じなければならない。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景11

赤誠のこぶし
 この言葉も、原先生の師、後藤静香の『天よりの声』からの借用である。老人福祉事業もご多分に漏れず、役所の許認可によらなければ、実行に向けて歩み出せない。どんな良い構想も、役所を納得させなければならない。加えて資金も必要である。
 「役所の長居は無用である。要点だけ言って短時間に切り上げる。だが何度も足をはこばなければならない。僕はこれと思ったらあきらめない」。
 役所の人は新生会だけを相手にしているわけではない。処理しなければならない書類も多い。法律や中央省庁の行政通知に基づいた判断しかできない。だから短時間に提言して帰る原先生のやり方は、相手の立場をよく考えている。
 何度も役所に足を運び、同じ事を話してくるのだから顔も覚えるし、少しずつそんなに言うなら考えてみようかということになる。
 原先生の考えは、時代の先取りが多いが正論なので、無視できない。果実が熟成するように時がくると「許可しましょう」ということになる。
 後藤静香著 『天よりの声』
 
門のとびら
 いかなる鉄門も必ず開く
 いかなる難問も必ず通りぬけられる
開かないのは
たたきようが弱いからだ
一度たたいて開かずとも
二度たたけ
三度たたけ
五度たたけ
赤誠のこぶしでたたきにたたけ
門のとびらは必ず開く

人使いの名人
 「原先生は人使いが荒いよなあ」
と前の事務長の竹村通矩さんが笑いながらボヤイていたことがあった。
〝原先生は人の使い方が巧い〟という方が正しい。結構課題を与えられて、その結果を要求される。言葉は悪いが決して手子扱いでなく、本人のやり甲斐も与えてくれる。
 原先生は、良い意味でのせっかちな面があって、依頼したことをそのままにしておくのが嫌いである。もう頼んだことを忘れているだろうと考えていると
「あの事はどうなりました」
ということになる。〝天災は忘れた頃にやってくる〟のである。
 原先生は、自分の考えだけを押し付けるような事はしない。枠だけは示して見せるが、その人の力量に合わせて自由にやってみろという度量がある。
「やって見せ、言って聞かせ、させてみて、褒めてやらねば人は動かず」
と言ったのは、連合艦隊司令長官の山本五十六元帥であるが、原先生の人使いの流儀
もこれに近い。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景10

先生が怒ったのを見た事がない
 榛名荘病院時代の原先生は、職員に厳しかったという話はよく聞く。酒を飲んで始末書を書かされた人もいる。他の職員はどうかは知らないが就任以来先生の前で叱られた記憶はない。先生に対して仕事上の誤りをおかしたり、感情を害するようなことがあったということで、職員が叱責されている場面を目撃したこともない。
 勤務して間もない頃、職員の教育研修(出張研修)にもう少し補助が出ないかという話題が出て
 「自分から費用を出して勉強するような職員は皆無でしょう」
と言ったら、原先生に「それは失礼な発言だ。取り消しなさい」と注意されたことを覚えているが、怒られたというものではない。当時二十代、思慮がなかったと反省している。
「原先生はワンマンだった」
という人がいるが、地位や立場で怒ったり、威圧したり、力で人を動かすようなことはしない。
 青年時代、その思想に共鳴し、くり返し愛読した、後藤静香著『天よりの声』の一ッ節。
      寛容
  何の権威で誰を責めるか
  責める言葉を自己に当てはめよ
  自分に許されたい事があるならば
誰をも、心から許すがよい
人のあやまちを思うとき
その一切がわたしにある
どうして誰をせめられよう
「許す」という言葉さえ
人間としてごうまんすぎる
いかりを含んでせめるとき
その罪、死にあたいする
 最後の「いかりを含んでせめるとき、その罪死にあたいする」というところは誠に手厳しい。後藤静香の高弟である原先生の心に〝寛容〟は深く刻みこまれているのだと思う。
  

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2013年05月06日

原正男先生の近景9

ゴーストライター
榛名荘結核保養所設立以前に、「新生会」が結成された。桐生(当時原先生は、結核半回復後の新居をツヤ夫人とともに桐生に構えていた)を中心に、通信、訪問指導、巡回診療による結核者支援活動が始まった。
その機関紙が〝新生〟である。誌友は一千人を超え、原先生が主幹となった。その〝新生〟の復活版が、現在の社会福祉法人新生会(昭和三十二年設立)の広報誌〝新生〟である。題字は当時のまま、前原勝樹医学博士(原先生の新生会運動の支援者)の筆による。昭和五十八年第六巻を野島秀子さんが編集し、その後引き継いだ岩見太市さんの後、昭和六十年十月発行の第八巻秋号より編集を担当している。
以来、原先生には〝ひと言〟(二頁、天よりの声の欄)をお願いしている。原先生の文章は、要点がはっきりしていて、簡潔で装飾がない。
また、たとえがうまい。夢を語るから文章が若々しい。未来志向である。その原先生も時には、人に文章を書かせることがある。二、三度ゴーストライターをやったがなかなか先生のように書けない。
十五年前、大阪の財団法人老人生活研究所の雑誌に原先生の名前で論文?を書いたことがある。痴呆性老人施設の開設を県と協議していた頃で、県民生活部長が原先生に、
「ご高説拝読させていただきました」というのを傍らで聞いていて、居場所に困ったことを思い出す。原先生には
「筋は通っているが、表現がアオイね」
と言われていた。若い頃は、気負いがあるものである。県民生活部長は、理事長の文章と思ってくれたか。ただ、主旨は原先生の口述だから、ゴーストライターの独走ではない。
 元榛名荘病院事務長の山崎次郎さんは、若い頃、原先生のそばで話を聞いたので、すっかりその内容が頭に入り、節回しも似せてしゃべれるようになったという話をしてくれたことがある。〝門前の小僧習わぬ経を読む〟、ありがたいことである。
 原先生には、「神に守られ、師の教えに導かれ、同労の友に支えられて」という小自叙伝がある。これもどうやら、ゴーストライター氏がいるようである。若き日、安中教会で聴いた賀川豊彦氏の講演のくだりは、実に名文で臨場感があり、感動的である。少し長い抜粋だが、
 「夏の夜の上州である。上州はカミナリの名所、その夜も講演が佳境に入りかけたとき、電光閃き百電のとどろきと共に停電し、まっくら闇になってしまった。普通ならば騒然となるところだろうが、講師賀川の声はいささかも変らず、一層の情熱をかたむけて語り続ける。会堂の聴衆も粛然として静まり返り、一語も聞きもらさじと耳をかたむける。暗闇の中での講演は、時に稲妻の光に」照らされながら、感激の絶頂へと押上げられた。私は暗闇の中で、流れ落ちる涙をぬぐおうともせず、息をころして聞き入った。生れて初めての深い感動であった::」
 誰ひとりとして、筆者は本人原先生だと思って疑わないだろう。原先生に、〝賀川豊彦安中教会における暗闇の説教〟のことを尋ねたことがある。
 「あの時僕はね、涙なんか流さなかったよ。少しあの表現大袈裟だね」
と言った。原先生は正直である。
 影の筆者の名誉のためにいえば、これほど感情移入し、青年原正男になりきってはかけない。ウソも真剣に書けばウソでなくなる。この人のようなゴーストライターには決してなれないと思った。

 超勤手当てが違っているよ
 名誉理事長の部屋は、総合事務所の二階にある。
 「僕は、階段を上って理事長に行けなくなったら理事長はやめるよ」
と公言したとおり、平成十年四月名誉理事長となってからは、特設のエレベーターで公務をこなしている。昔からの習慣だと思うが、実によく書類に目を通している。理事長に届く書類は、一日に百を超えることもある。寄付物品などの多いときは、大変な数になる。
 伝票に印を押すこともはもちろん、人事関係、給与辞令、金額の多い物品購入などの稟議書もあったり、その決裁はただのめくら判というわけにはいかない。
 納得がいかなかったり、説明不足の書類は、必ず呼ばれて説明を求めたり、資料の提出を求められる。超過勤務の状況も理事長に届けられるが、
 「これ計算が違っているよ」
 というので、資料を持ち帰り計算してみると、原先生のいうとおりであった。
 これは、原先生の米寿が過ぎた理事長の話なので恐れ入る。名誉理事長の今日(八月十五日で満九十三歳)寄付者の礼状一つ一つに必ず署名している。
 平成元年の新生十一巻冬号の〝ひと言〟欄に〝ペンを持てる限り原正男(自筆)と書く〟というタイトルで一文を寄せている。
  

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