☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2013年06月30日

『福祉を廻る識者の声』49(中村千賀子)

孤室                    中村千賀子
「もう一日、もう一日って思っていたの」久しぶりのクラス会です。女ばかりの会は姦しいのですが、彼女のまわりだけはゆったりとした雰囲気が漂っていました。その暖かさにほっとしたのは私だけではなかったと思っています。
長男と結婚して三十年近く、彼女が心身共に弱った舅の介護に疲れ果てた時「もういいよ、充分尽したよ、施設に預けよう」と夫君。その言葉にほっとする反面、ボケが進みながらも古い嫁の自分だけを認知してくれる舅を施設に預けるのは忍びないと、一日、もう一日と躊躇していたとのこと。家族はそれぞれ仕事で介護役は彼女一人、頑張っても結局はダウン。ついに彼女自身の精神科への受診をきっかけに舅を施設にお願いしたいという話でした。

今では高齢者のための施設も多くは鉄筋コンクリートで、マンションといってよいほど、個室を中心とする立派な建物です。でもその中に一歩足を踏みいれれば金属の扉で仕切られた隔離部屋。書斎であればさぞかし仕事がはかどるであろう静けさ、見方によっては狐室、孤独な入れ物であることも少なくありません。そんな施設に舅を預けがたいというのが彼女の悩みでした。施設とは、乗馬をこよなく愛していた舅をそれまでの豊かな生活から切り離し、身一つで隔離するようなものだったのでしょう。

新生会に出会っていたなら彼女は苦しまなくてすんだかもしれません。確かに神は人間に無駄なものをお与えになりません。与えの貧困な施設への思いに端を発する彼女の苦しみをきっかけに神様が彼女に贈られた暖かさ、穏かさに感謝したいとも思います。
でも、でも::現在の思いについては聞きそびれているのです。

中村千賀子(なかむらちかこ)一九四五年生まれ。お茶の水女子大卒。東京医科歯科大学歯学部助手を経て、現在同教養部人間科学教育担当。                  (平成七年・夏号)


明治三十八歳                (平成七年・夏号)
 元内閣総理大臣福田赳夫先生が、死去された。先生は、新生会の社会福祉事業に深い理解を示され、長く後援会の会長をつとめてくださった。
 先生が、自民党の最高顧問として福田派の領袖であった頃、清和会の事務所にお訪ねしたことがある。国会開期中、議事堂から駆けつけてくださった。愛用のショートホープを一服する間もない程の時間だったが、誠心誠意耳を傾ける先生のお人柄に感激した。
 「時間だから」と言って席を立たれた先生の身のこなしと歩き方を見て、「先生、お若いですね」と声をかけると、「明治三十八歳!」とおっしゃり、記念写真に快く応じてくださった思い出が懐かしい。
 政治家を批判する人は多いが、〝政治は最高の道徳〟といった先生は、王道を行く人の風格があった。ご冥福をお祈り申し上げます。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 08:19Comments(0)日常・雑感

2013年06月29日

『福祉を廻る識者の声』48(風岡裕子)

〝生きる〟〝生甲斐〟とは           風岡裕子
 何時の頃からか私は「そう簡単に年をとってはいられない」と思う様になって来た。毎年夏に草津で催される国際音楽アカデミーでピアノのピヒト先生は八十歳近くなった今でも朝から夜までレッスンを丁寧にされるうえ、演奏もされる。又テノールのヘフリガー先生も、少しお若いが同じであり、更に驚くことはこの一流の方々の演奏内容が年とともに深くなってゆくのを感じつつ感動で涙を流しながら聴くのである。
 話は少々飛躍するが、私の妹がローマに居るので時々出かける。目的は無知な歴史を知らんが為である。
 紀元前八世紀頃は聡明なエトルリア人の時代であった。その傑出したエトルリア文明をローマ人は憎み、大ローマ人は憎み、大ローマ帝国時代に入って徹底的に滅亡させてしまった。ローマ時代からルネッサンスに到るまで、またベネチア時代の絢爛豪華さの歴史は仮令(たとえ)人は滅びてもその芸術に依って示唆され、その栄光の中で後世に残る作品が作製されてきたのを目にすると、人間の力のすばらしさに感動するが、ふと「自分」は何と小さな存在なのだろうか?と気がつく。一人の人間は百年も活動が出来ない。話はまた飛躍するが、盛岡市内を流れる北上川で遠く太平洋から上って来たと思われる鮭の痩せた姿が見られた。何もこんな所まで来なくてもと思いつつ天命かと胸の熱い思いだった。蝉だって死ぬまでうたい続けるではないか。男性の知人で九十三歳の人が「骨折を直してテニスが出来る様になった。歩けるうちにロスアンゼルスに行く」と手紙を貰ったし、料理上手だった九十五歳の人は、今は張絵の団扇やお年玉を作って人に喜ばれている。年と共に喜びを分ち合える人は幸せである。
 以上の様な様々な思いを持って私は三月に演奏活動五十年のリサイタルを催した。沢山の勉強が出来たし多くの方々からお励ましの手紙をいただいた。今後の希望が持てて有難かった。世の人々が平和と希望に溢れる人生が過ごせる様にと祈っている。
 
風岡裕子(かざおかひろこ)。一九二四年生まれ。ピアニスト。自由学園卒。元高崎芸術短大教授。映画「ここに泉あり」に出演した岸恵子のモデル。             (平成七年・春号)


心が形をうむ                (平成七年・春号)
映画「ここに泉あり」が上映されたのは、今から三十年も前のことである。監督は、今井正。出演者は、小林桂樹、岡田英次、加藤大介、岸恵子と錚々たるメンバーである。山田耕作もゲスト出演している。二時間を越える大作で、群馬県各地でロケが行われた。
岸恵子さん演じるピアニストのモデルが、巻頭言を執筆してくださった風岡裕子さんである。ヴァイオリニストの岡田英次は、ご主人。岸さんの背に負われた子は、群響のコンサートマスターの風岡優さんである。
戦後の荒廃した県内各地を演奏して歩き、県民に夢と希望を与えた風岡さん達の活動は、苦難を極めたが、高崎市の音楽センターの建設に繋がった。しかし、忘れてはならないのは、音楽を愛した人々の心である。心が形を生む。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 09:29Comments(0)日常・雑感

2013年06月28日

上州歴史散策(2013年6月)

上州歴史散策
 
 空梅雨の上州を一日かけて歴史散策しようと思い立った。自家梅園の梅の収穫も終わって休暇が取れた三連休の初日の土曜日、自家用車で友人を誘って家を九時前に立つ。夕食を外食にして帰宅する日帰りの計画。夕食前には、温泉県群馬の名湯に浸かって、「農休み」を兼ねている。この時期は、農繁期で昔は小麦の収穫の後、田植えがあり、それが終わると農民は湯治場に行き、体を休めた。「農休み」という言葉には、一時代前の言葉の響きがある。専業農家は激減して、働き手は高齢化した。勤めをしながらの兼業農家が細々と農地を維持している。私自身も例外ではない。親から少しばかりの農地を相続して、梅の栽培に従事して久しい。米は、他人にお願いして作ってもらっている。水田の管理まではできない。それでも梅の収穫には、休日も利用して一週間もかかった。
 高崎市群馬町には、群馬県立土屋文明記念文学館がある。古代、国分寺が置かれた地で、古墳も多い。「襄と八重の上州」の企画展が開かれ、六月十五日(土)の今日が最終日である。NHK大河ドラマ「八重の桜」の関係で、新島襄と新島八重夫妻の企画展や講演会の開催が県内で企画されている。開館は、九時十五分。一時間ほど展示品を見て回る。
 「真理似寒梅敢侵風雪開」新島先生之言葉 同志社総長 住谷悦治書
の掛け軸が目にとまる。この有名な寒梅の詩は、新島襄が、群馬県高崎の出身で、日銀総裁になった深井英五に贈った漢詩だと言われている。同志社大学の構内にもこの詩が碑に刻まれている。住谷悦治は、私が同志社に入学した時の総長だった。群馬県人会の席だったか記憶は薄れたが、新入生を歓迎してくださったことがあった。総長が直々に歓迎するところが同志社たるところで、新島襄の教育理念が継承されている。当時、新島襄は、生徒をさんづけで呼んでいた。
 新島襄と新島八重の企画展で関心を持ったのは、新島八重の兄である山本覚馬と、安中の湯浅治郎のことである。誰も同志社が、新島襄の志から生まれたことは否定しないが、それを支えた人物の存在がある。時に経営ということは地味だが、事業は高邁な理想だけでできるものではない。企画展の入り口に書籍コーナーがあって、『湯浅治郎と妻初』という本が置かれていた。受付の人に尋ねると、展示してあるこの一冊しかないという。最終日にこの書籍に出会えたのは幸運であった。著者は、安中の人で半田喜一氏。著者の略歴は書いていないが、郷土史家か安中教会員かと想像した。
 高崎市倉賀野町の出身で、松本勘十郎を紹介していた。新島襄と親交があり、経済人であったことからも、同志社に資金援助もしていたようだ。教育にも熱心で共愛学園の創立にも関わっている。松本勘十郎の養子の松本亦太郎は、同志社に学び、東大で哲学を専攻し、ドイツに留学して日本に実験心理学を導入した人である。夏目漱石と同期であり首席で卒業した秀才である。漱石の小説のモデルにもなっている。元良勇次郎とともに、同志社の心理学史に登場する人物である。
 いつもながら記念館の周囲は良く手入れされて気持ちが良い。文明の常設展示コーナーは別にしても文学関係の資料も多く、家からも近いので、特別企画がなくとも利用させてもらっている。今回は、招待券を利用したので入場料は無料となった。次の訪問先は、太田市である。前橋インターチェンジから高速道路を利用することにした。時代は、新島襄の活躍から百年前の江戸中期に遡ることになる。
 
 寛政の三奇人の一人高山彦九郎は、新田郡細谷村に一七四七年に生まれている。現在は、太田市の細谷町となっており、近くには富士重工の工場があり、東武東上線の細谷駅もあって、住宅地になっているが高山彦九郎の家は大地主であった。先祖は、新田義貞に仕える武士であったが帰農したらしい。祖父、父親も学問に励むところがあった。しかも尊王の思想を代々受け継いできた。兄がいて土地を相続したが、時の権力者の幕府には従順だった。そのため、高山彦九郎や父親、祖父、親せき筋とも仲が悪く、高山家では異質な存在であった。というよりは、幕藩体制にあって郷士ながら高山家が異質な存在というべきかもしれない。
 最初に高山彦九郎に出会ったのは大学時代の京都である。といっても銅像である。三条大橋の近くに土下座するようにして前方を見つめていたのが高山彦九郎であった。御所に向かって拝礼しようとする様を彫刻としている一風変わった銅像に振り向く人は多かった。明治維新のように大政奉還目指す政治行動までには至らなかったが、政権を朝廷が持つことを理想だと考えていた人である。最後は、朝廷の権威を高めようと、雄藩であった薩摩藩に働きかけようと画策したが実現できず、幕府にも疑われ、失意のうちに自刃した。しかし、捕縛されたわけではなかった。四六歳であった。
 作家の吉村昭が『彦九郎山河』という小説を書いている。記念館にも自筆原稿と本が寄贈されていた。小説を読むと高山彦九郎は、全国各地を歩き、友人や師を訪ね、学問を深めていることがわかる。その時代の一流の学者であり、彦九郎自身も高名な学者として世間に知られていた。中でも細井平州は、上杉鷹山が藩の改革に登用した儒学者であるが、高山彦九郎の師でもあった。彦九郎の父親は、旅先で暗殺されている。その親の仇打ちのことを平州に相談すると
「親不幸になることはやめよ。天下国家のことを考えろ」
と反対される。後年祖母の死に、三年もの間喪に服した孝行者には納得できなかったが、師の教えの深さを理解し、学問を深め国事に奔走するようになる。
 旅先で語り合い、江戸や京都で交流した中には、前野良沢、藤田幽谷、林子平や公家、大名まで及ぶ。そして、多くの紀行と日記を残している。和歌も詠んだ。林子平は、『海国兵談』を著した人で、彦九郎も影響を受け蝦夷地に渡ろうとするが果たせなかった、しかし、『北方日記』を残し、飢饉で苦しんだ東北地方の惨状を記録に残している。蛾死者が村の三分の一にも及んだところもあり、為政者の無策に怒りを示している。
 高山彦九郎が、農事に関わらず学問をし、旅ができたのは、祖父の残した財産であった。千両というから相当なお金である。妻子は国に残し、最後は異郷の地で死んだ。これに対して兄は冷淡であり、故郷に埋葬されることはなかったが、後に維新の勤王の志士に多大な影響を与えることになる。吉田松陰、高杉晋作、久坂玄瑞、真木和泉、西郷隆盛といった人物である。
 記念館の近くに、蓮沼家の墓所があり、遺髪塚があり、記念館の人が案内してくれた。徳富蘇峰が書いた「高山彦九郎像の碑」もあった。昭和二〇年に建立されたものである。戦前は、修身の教科書にも載った人物は、戦後ほぼ忘れ去られているが、太田市が平成八年に記念館を生地の近くに建設した。庭も京風で良く整備されていた。記念館の門の近くには、彼の歌が刻まれている。
 赤城山真白に積もる雪なれば
      わが故郷ぞ寒からめやも
駐車場の横には、立ち葵が咲いている。徳川家の家紋は葵である。この花の葉ではないが、葵家紋を連想させる花が咲いているのも何か皮肉な巡り合わせと思った。
その後、太田市内で昼食を済ませ、桐生方面に向かう。昼食は、吉野家の牛丼で、株式優待券を使用。二人で九〇〇円。優待券三枚を使い、気分の良い合法的な無銭飲食となった。高山彦九郎は、旅先で歓待を受けた。いつもお酒付。運転があるので我々は酒を飲むわけにはいかない。
 
 次の訪ね人は、群馬が生んだ明治唱歌の父といわれる石原和三郎である。今は合併してみどり市になっているが、勢多郡東村の花輪という地区である。渡良瀬渓谷鉄道が走っているが閑村である。近年、童謡ふるさと館が建てられ、石原和三郎の功績を紹介している。障害により、口先で絵を描き詩を書いて有名になった星野富弘もこの村の出身で、草木湖ダムに近い。展示されているものは多くはないが、大槻三好著『石原和三郎読本』を購入し、人なりを知ることにした。同行した友人は、長く音楽関係の仕事をしていた人で、彼のために配慮した訪問地でもあった。
石原和三郎は、一八六五年(慶応元年)にこの地に生まれた。成績優秀で尋常小学校を卒業すると一三歳で助手教員になっている。明治の初めとはいえ、一三歳の少年が小学生を教えるというのは驚きである。その後、群馬県尋常師範学校に入学し、教師の資格を得ている。当時の師範学校は公費で賄われ、手当も出たという。卒業と同時に花輪尋常高等小学校の教師となり、しかも校長を兼ねたというから彼が優秀であったことは認めつつも近代教育制度の中の教師不足の時代を物語っている。
五年勤務した後に、招かれて上京し、東京高等師範学校付属小学校の教諭になった。正式には訓導である。日清戦争が終わった明治二九年のことである。明治三三年には、教師を辞めて、冨山房という出版社に入社する。ここから、明治唱歌の父と言われる和三郎の詞才が花開くのである。教師をしながら、童謡唱歌を作ったと思っていたのは間違いであった。
今日、多くの人が知っている代表役な作品を上げると、「金太郎」、「花咲爺」、「舌切雀」、「大黒様」、これらの詞に曲をつけたのは、鳥取県出身の田村虎蔵である。「故郷」を作詞した長野県出身の高野辰之と岡野貞一のコンビを連想させる。岡野は、鳥取県の出身である。『石原和三郎読本』の著者の大槻氏は群馬県大間々出身の教師で、石原和三郎を長く研究し、「白地に赤く日の丸染めて」の「日の丸の歌」は、高野辰之の作詞とされているが、石原和三郎の詞ではないかという疑問を持ち続けた。しかし、その確証は見いだせなかったと書いている。大和田建樹作詞の「鉄道唱歌」は大いに歌われたが、石原和三郎の「上野唱歌」は、群馬県の風土を良く詞に盛り込んでいる。その一番は
「晴れたる空に舞う鶴の 姿に似たる上野は 下野 武蔵 岩代や 越後 信濃に境して」とある。岩代という県があったのである。
彼は、五八歳で亡くなっているが、原因は、友人の祝賀会を開き、宴たけなわという時に階段から落ち頭を強打したからだったという。不運な終焉であったが、子供達三人は、一高に進み、亡くなった一人を除き、東京帝大に進んだ秀才揃いだった。妻は賢夫人であった。
帰路に着く前に、渡良瀬渓谷鉄道の水沼駅は、駅に併設して天然温泉浴場があることを調べてあった。友人もそのつもりであったが、足利の親戚の弔問をすることになり、この駅で別れる。時間があればお湯に浸かりたかったであろうが、優先すべきことがあるのでいたしかたない。こちらは、予定通り、渡良瀬川を眼下にし、緑が濃くなった山並みを見ながら、ゆったりと温泉を楽しんだ。そう言えば、友人で高瀬正仁という九州大学で数学を研究している人がいて、東村の出身であることを思い出した。父親は、この村の教育長をした人で、高瀬さんは、東大数学科を卒業した秀才である。数学者岡潔に魅せられて、その足跡を調べ、没後三〇年の頃に評伝を出版した。三部作からなる大作である。いずれ再会した時に東村訪問のことを話してみようと思う。
今日は、移動距離はそれほど長くなかったが、充実した県内日帰り旅行ができた。最後は、温泉に入ることができ「農休み」とも「脳休み」となった。
  

Posted by okina-ogi at 13:07Comments(0)旅行記

2013年06月28日

『福祉を廻る識者の声』47(木村直樹)

阪神大震災とNGO              木村直樹
 一月十七日に発生した阪神大震災は、莫大な被害を阪神地区にもたらした。家族を失い、住む家を失った人々。難民という言葉は、遠い世界、外国の話という感じであったが、神戸の知人で家を失った話や、マスコミを通して流される情報に接して、この言葉は、急に身近なものとなった。助けを必要としている人々が、すぐ身近にいるのである。
 その後、さまざまな情報が入るようになって、わたしの知っているいくつかの団体が、救援活動をしていることを知った。それらの団体は、地震の翌日か翌々日には、被災地に入って援助活動を始めたという。それも在日外国人、障害者、お年寄など、援助の手が遅れそうなところに、いち早く注目して、活動を開始したというのである。
 これらの団体が、なぜ迅速に援助活動を始めることができたかといえば、彼らは日常的に、社会から疎んじられている人々や、アジア、アフリカなどの発展途上国に対する活動を行っていた。平和で豊かな日本の中で、豊かさからはみ出てしまった人々、差別を受けている人々、さらにはアジア、アフリカの難民に関心を寄せて来たからこそである。
さらに彼らの活動は、上からの指示を仰いでするのではなく、現場が何を必要としているかを把握して、それに基づいて自主的に行われて来ている。今回の震災では、行政の対応の遅れが指摘されているが、それはおそらく、行政組織が、上からの指示によって動いてきたからであろう。非常に際しては、動きようがなくなって当たり前である。
 これらの団体はNGO(非政府組織)と呼ばれ、行政から疎んじられているようであるが、彼らの活動から学ぶものは大きい。援助を必要とする人々へ関心を向け、その人々の必要を充分に聴き取り、自らの意志でその活動を行うというのが、これらの団体の精神である。この精神が、今、助けを必要としているひとりひとりを生かし、支えている。

 
木村直樹(きむらなおき)。一九五一年生まれ。法政大学卒。聖公会司祭。現在、榛名聖公教会牧師。(平成七年・冬号)


年賀状                   (平成七年・冬号)
年賀状には、その人それぞれの工夫があって楽しいものである。最近は、ワープロソフトが進歩してプロ顔負けの作品も珍しくない。新年の挨拶は、俳句一句と決めていたが、昨年句友(苦々しき友)の苦言に曰く「近況もなく俳句一句とは何事ぞ」 犬歯抜く 歳ともなりて クリスマス
犬歯とは糸切り歯のこと。すなわち食肉獣では牙である。今でも辞書には、初老は四十となっているが、長寿となった現代五十路ともなれば、犬歯を抜く人もある。犬歯が抜ければ食肉獣ではなくとも人は寂しいものである。クリスマスの日となって「主よ、私もやっと鋭い歯を失いました」と告白、主は応えて
「争いの元なければ平和なり」
今年願うことは、心穏かにして誠実に生きたいということ。なぜなら、「穏和の園」・「誠の園」の建築の年であるから。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 09:31Comments(0)日常・雑感

2013年06月27日

『福祉を廻る識者の声』46(藤本敏夫)

刑務所体験は幸か不幸か            藤本敏夫
 二十五年前、学生運動は過激であった。運動の前線に位置していた僕は三年八カ月の実刑判決で、栃木県の黒羽刑務所に収容された。
 世間的な常識に沿えば、刑務所に収容されたということは恥ずべきことであり、本人にとっても一日も早く忘れ去るべき忌わしい出来事なのだろうが、僕にとってこの収容生活はとても大切な価値ある体験であった。まず何より健康になった。
 起床は毎朝六時半で夜七時には就寝可という素晴らしさだ。生活はあくまでも規則正しく、三度の食事も定刻に配食される。食事の内容も完全な健康食で、麦飯と野菜を中心とした簡素な副食。勿論、酒、煙草は駄目でショートケーキや大福が鱈腹食べられる訳がない。更に与えられた仕事は「構内清掃衛生夫土工」という役名の肉体労働であったから、これで健康にならない方がおかしい。
 お蔭様で出所時は五十四キロの軽量ながら、五体の隅々まで気力溢れるしなやかな体に仕上がった。そして、体力だけではなく、「固定観念」をはずし、物事を決めつけて見ない柔らかな思考性、前頭葉の柔軟さの素晴らしさを教わった。刑務所で「つっぱってる」と疲れるし、第一無駄だ。
 今までにない別の角度から見れば、懲役者達の立場や過去が、そして今の心が理解できる気がするし、その気持との関係で自分がほのかに見えてきたりもする。確かに刑務所生活は辛くはあったが自己能力の啓発を導く原点回帰の経験であった。
 プラスとマイナスは表裏一体であり、見る立場でそれはどちらにでも表現される。本来、プラスとマイナスとはそういう関係のものだと思う。マイナスはマイナスのみで終わることはない。マイナスをプラスにするものは、万物の生々化育の中で自らも変化しているという「流れ」の自覚であろうと思われる。生命とは流れであって固定ではない。「流れ」の立場より見れば、今の不幸は必ずや幸福に転化する。刑務所に入ったらそのことがよく分かる。

 藤本敏夫(ふじもととしお)。一九四四年生まれ。同志社大中退。一九六八年全学連委員長。七一年下獄。出所後、大地を守る会会長を経て「自然王国」代表。          (平成六年・秋号)


刑務所体験                 (平成六年・秋号)
一九六〇年代は、学生運動が盛んで、若者が政治に深く関心を寄せた時代であった。日本経済の高度成長時代と重なり、物質的繁栄とは逆に、「人間疎外」ということばがよく使われた。藤本敏夫さんは、そんな時代の学生運動のリーダーである。
歌手の加藤登紀子さんとの獄中結婚は有名で、政治犯として四年近くの刑務所生活を経験した。昨年、榛名湖畔で藤本さんの講演を聴き、その夜〝ゆうすげ元湯〟の一室でお会いしたとき、お酒が入った勢いも手伝って、「ひとり寝の子守唄は獄中の藤本さんのことを想って加藤さんは作られたんでしょうね」と尋ねられたら「それは女房に聞いてくれ」と苦笑混じりの答えが返ってきた。
 結核体験を見事に生かして、榛名荘と新生会の事業を発展させた原理事長のように、藤本さんは刑務所体験をマイナス体験にしなかった。
 「全てのことあい働きて益となる」(翁)
  

Posted by okina-ogi at 07:18Comments(0)日常・雑感

2013年06月26日

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑫)時間単位の年休制度

法律門外漢のたわごと(労働基準法⑫)時間単位の年休制度
時間単位の年休制度によってますます年休取得が複雑になっているという感じがします。計画的年休付与の制度などもあって、現場では混乱がみられ、事務担当者の事務処理も個人的見解による判断がみられます。年休の法的原点に戻って適正に対応したいものです。
どうして、年休制度に新しい制度が導入されるのでしょうか。それは、年休取得率の低さがあるからでしょう。それと、個人差があって年休を多く取得する人は、取れるのです。取らない人は取らないのですが、どこかに不平等感のような感情が生まれ、職場の中にも気まずい雰囲気が流れます。管理者も、年休を多く取得する人には、良い感情を持たない人もいるでしょう。知らないうちに評価が低くなり処遇にも反映していることもあるでしょう。しかし、年休を多く取ったからといって不利益になるようなことはできないことになっています。ただ、仕事ができないことは別です。出勤した日は、精力的仕事をやっていれば、年休取得によって生き生き仕事をしていると評価されても良いと思います。
第一に年休は、働く人が健康的に仕事をするためのリフレッシュできる休みだからです。請求権は、労働者にあり何に使用するかは制約されません。ただし、年休を取得することによって、職場の業務に支障がある時には、日を変更することがあります。時季変更権は、使用者にあります。これも、当然で常識的に考えればわかることです。
時間単位の年休制度について、細かい点に立ち入ることにします。そもそも、時間単位の年休制度は、年間取得が5日間という限定的なものです。一日単位の年休とは、別に管理しなければなりません。勤務時間中に病院に行くとか、家事のために使うなどの使用目的が考えられます。年休が取りやすいように便宜を図っているのですが、あまりこうした取り方をすると業務に支障がでることも考えられるので5日にしてあるのだと考えられます。また、年休の原則は、日単位だということです。本来、半日の付与ということは、例外なのです。
次のような場合は、どうするのでしょうか。職場にハイキングの企画があって参加したが、朝早く、昼過ぎには解散となるので、期限までにやらなければならない仕事を2時間した場合、6時間の時間年休を取得になります。あるいは、受診のため勤務の途中少し遠方の病院に行くことになり前後2時間ずつ4時間働いたとすると、4時間の休みは、半日とはならず、時間単位の年休となるというのが基準法の主旨となるようです。時間単位の年休を活用するために、前者の場合は2時間を時間年休、4時間を半日年休。後者は半日年休にしても良いと使用者が認める場合は、それでも良いということですが、仕事に支障が出ないということを前提にすべきでしょう。
次に計画的年休の付与ですが、これも年休の請求権は、労働者にあるわけですから、積極的に使用者が年休を消化し、しかも仕事に支障が出ないようにするという主旨です。この労使協定を結ばず、暗黙に営業日ではない日に年休を取得させるようなことは、好ましくありません。あくまで、勤務表で使用者が労働者の休みを限定できるのは、所定休日だということです。
  

Posted by okina-ogi at 11:56Comments(0)日常・雑感

2013年06月26日

『福祉を廻る識者の声』45(楊 致)

国境を越え人材の育成に            楊 致
 一九八三年ごろ、北海道開拓の経験者であられる田所正幸氏(八十四歳)が「日本では人手不足、中国では人力資源豊富。中国の若い人が、日本の技術を学ぶ助けになれば」とのご助言により、内蒙古自治区が始めて日本へ研修生を送り出したのが、人材育成事業の第一歩でした。
 翌年、私が教鞭をとった日本語教室をベースにして、大学時代の同窓が三人集まって、今の民間運営の日本語学校が創立されました。お蔭様で日本におられる旧友、同窓、恩師五、六人が皆古希の高齢にも拘わらず、ご熱心に応援してくださいました。種々の難関を突破して、ついに研修生の受入先が北海道から群馬、新潟、富山、石川県まで広がり、東京、大阪、静岡、岡山県等の大学へも留学生を推薦派遣する窓口にもなりました。この十年間に、工・農・医学各分野にわたって日本へ送り出した技術研修生は七百名余り。留学生は百余命となり、そのうち既に帰国した者は五百余名に達しております。殆どの若者が「国家体制の相違言語習慣の違いを初め、幾多の困難に遭遇しながらも、この事業推進に努力された両国の老齢者の方々のご苦労と日本人民の親善友好な姿勢に対しては筆舌に尽くしがたく、本当に感銘した」と異口同音に話しています。
 困難を克服し、十年にわたる人材育成の努力は帰国青年が実践した地域改革を含め、新技術の普及、生産性の向上の姿となって表れています。また、産業発展と近代化推進に貢献し、その実績は内蒙古自治区政府も高く評価する所であります。そしてこの事業に奉仕された老人たちの働きは、後世に伝えられる偉業とも賞讃されています。
 なお、人材育成と共に国際交流事業も促進されました。人的交流が橋渡しをして、外国との合弁企業促進、新技術の導入も一層盛んになっています。
 人材育成に愛情をかたむける老人と、幸せな暮らしを追求する若者との間に国際交流を行い、世界平和を守るという人類共通の願いをこめているこの事業が、末永く発展して行くことを切に願っております。
 
楊 致(ヤンチ)。中国内モンゴル自治区日本語学院学院長。一九二六年生まれ。(平成六年・夏号)


黒土                    (平成六年・夏号)
社会福祉法人新生会の入り口は、財団法人榛名荘の入り口でもある。右手に折れれば新生会、真直ぐ進めば榛名荘病院。入り口近く、新生会の総合事務所と病院駐車場の間には旧外来棟、榛名荘准看護婦学校の建物があり、約四〇年近い風雪を耐えてきた。
芽吹きの頃から工事が始まり、植木の移植、建物の解体と進み、梅雨入り前にすっかり舗装と造園が終り、広々とした空間に生れ変わった。工事の途中、黒々とした肥えた土が出てきたので不思議に思ったら、「結核患者のために山林を切り拓き畑にした場所だよ」と原理事長。
敷地内にバス停が完成。ロータリーもできて路線バスが構内に入れるようになった。その日が平成六年六月六日。来年は、県道に横断橋を架ける予定である。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 06:35Comments(0)日常・雑感

2013年06月25日

『福祉を廻る識者の声』44(村松敏夫)

「老い」と「老化」           村松敏夫
 私はこれまで三十年あまり〝老化〟という現象を科学的に説明しようとする医学者や生物学者たちの基礎になる仕事をしている。しかし、この領域を見渡しても結局のところ、ご承知のようにまだ〝老化現象〟、〝寿命〟について自然科学者は明解な説明はできないし、医者も薬学者も自信をもって老化を防ぐ方法も薬も提示できないでいる。勿論、私もその一人であるが、それでもこれまでの事実と問題点を学生に伝える義務を持っている。
ところで、この春私が新生会をお訪ねしましたが、その訳は、私どもが預かっている学生に自然科学の知識だけでなく将来、広い視野と深い人間性をもった医師や歯科医師になってもらわなくてはと思い、その見学の機会の恵与とご指導のお願いに参上した次第です。その訪問の折、理事長と園長さんの〝人〟は誰でも必ず〝老い〟るのです!という一言は〝老化〟を追う自然科学者の一人とってこの上のない衝撃であった。そしてその波紋は私の心の中で今も果てしなく広がっている。さらに犬と共に暮らせる老人ホームをつくりたいという園長さんの一言には追い撃ちをかけられた思いである。問答ではないが〝老化の解明をしようとする者もその前提に〝人〟であることの認識を忘れてはなるまいと、そして〝人間性〟とは?ともあれお二人からの重い〝問い〟を持ち帰った。また壮大な施設の計画のお話には私の〝器〟の大きさを問われた思いでもある。〝一日の長さは人種、貧富の差もなく平等で、得られる総熱量などの物理的なものも等しいものである〟が、英知ある者はこれをうまく利用して富あるものにならう。その富を己のためのみにするか、他人のためにもするのかが〝人間性〟とか〝器〟とかに関わるのかとも今もひそかに自問している。ともあれ、問われている〝老い〟と〝老化〟つまり、人文科学と自然科学との間を私自身うめなければなるまい。

 
村松敏夫(むらまつとしお)。東京医科歯科大学・教養部長教授、薬学博士。一九三二年、埼玉県本庄市に生まれる。                             (平成六年・春号)


赤松宗典和尚                    (平成六年・春号)
黒潮の漂う紀州は、みかんと梅の産地である。気候温暖、人々の気質にも温かいものがある。南紀白浜に近い南部川村本誓禅寺の住職、赤松宗典師に寄稿いただいた。赤松さんは、僧侶のかたわら梅を栽培し、〝薬師梅〟を作っている。人を愛し、自然を愛し、仏教を超えて、他の宗教に垣根を作ることをしない。教会の礼拝堂で、ひざまづきアーメンと十字を切り、頭をたれる赤松さんの姿は神々しい。      
父母に合掌すれば孝順となり/子供に合掌すれば慈悲となり
目上に合掌すれば敬愛となり/お互いに合奏すれば平和となり
自己に合掌すれば徳行となり/事物に合掌すれば感謝となり
神仏に合掌すれば信心となる     赤松宗典  合掌
最愛の子を「天に帰る約束の日」と表現した赤松さん。召されし真理子さんにも合掌。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 08:55Comments(0)日常・雑感

2013年06月24日

『福祉を廻る識者の声』43(井殿 園)

尚抱壮図迎此春                井殿 園
 一月二十三日は新島襄召天記念日です。彼は同志社大学設立を企てて、募金活動のため上州を訪れましたが、体調を崩して、大磯で再起をはかりました。その病床で新春を迎えた時の漢詩が彼の心中をよく伝えています。
 歳を送りて悲しむを休(や)めよ病贏(びょうるい)の身、鶏鳴早く巳(すで)に佳辰を報ず。劣才縦(たと)え済民の策に乏しくとも、尚お壮図を抱いて此の春を迎う。
新島はこの詩を作って三週間後に、四十七歳の若さで、なお壮図を抱きながら世を去りました。新しい年を迎え、自分の壮図は何かと問いかけられます。
 黒人の公民権獲得運動に命をかけたM・キング牧師は「私は夢を持っている」と説きました。その夢は黒人も白人もそれぞれの違い越えて平等に共に生きることでした。しかし三十九歳で壮烈な最期を遂げました。
 「歳を重ねただけでは人は老いない。理想を失い、情熱の炎が失せた時に初めて老いが訪れる」、「天より、地より、神より、人より、美しき喜び、勇気と大いなる力との霊感を受ける限り人は若さを失わない」。これは「青春」と題するJ・W・レヴイスの言葉の一部です。人を若くするのは理想と情熱、上よりの霊感であることは明らかです。
 先日の新生会クリスマスの席で、原理事長から「誠の園」、「榛名憩の園」建設の壮大な将来構想をお聞きしました。その若々しさと熱情に圧倒され、これこそ新生会の夢であると強く感じました、祈りこそ達成の力であるとの一言が心に残りました。
 旧約の預言者ヨエルは「老人たちは夢を見、若者たちは幻を見る」と語りました。はかない夢や、現実離れした一時的な幻ではなく、実現へと至る夢、着実な計画を伴う幻こそが大事と心得ます。
 大きな計画でなくても、壮大なもくろみでなくてもよい。自分なりの実現可能な目標を立て、歩んで生きたい。「主は人の一歩一歩を定め、御旨にかなう道を備えてくださる」(詩編三七・二三)からです。
 
井殿 園(いでんその)。日本基督教団安中教会牧師。同志社女子大学大学院神学研究家卒。一九三一年、城崎に生まれ岡山で育つ。新島学園高校講師。             (平成六年・冬号)


春風接人                  (平成六年・冬号)
 春風接人 秋霜臨己
春風を以って人に接し、秋霜を以って己に臨む
元内閣総理大臣福田赳夫先生(新生会後援会長)の米寿に揮毫した言葉である。秋霜接人 春風臨己 というのは凡人の道であろう。
 戦後経済の復興に参画した福田先生は、〝経済の福田〟とも言われた。また、「政治は最高の道徳」を政治哲学とした。〝福田政治〟は王道を目指し、個人は愛の人であった。加えて、影で支えた実弟福田宏一氏は至誠の人であった。人の徳に選挙民が惹かれることにおいて兄弟共通するものがあった。年の瀬、田中角栄元首相が世を去った。〝今太閤〟と言われた庶民派宰相も病に勝てなかった。氏の政治的功罪は諸評あろうが、人間的魅力を語る人は多い。春風接人 秋霜臨己
 愛はスケールが大きい。全てのものを包み込む。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 10:21Comments(0)日常・雑感

2013年06月23日

『福祉を廻る識者の声』42(原公朗)

木組人組心組                  原公朗
 古い民家は、現在の日常生活に不便なため、急速に消滅しています。その様な中で奇跡的に思える程、ほぼ原形を残した民家が榛名町に現存しています。〝原本家〟と呼ばれていますが正確な建設年代は不明です。二百年とも三百年前とも言われています。石積の生垣に囲まれた敷地には、広い前庭を前に倉と母屋が南面して並び、背後に杉林が続いています。茅葺の大きな屋根はその形が兜に似ているところから兜造りと愛称されて、かつては関東以北の養蚕地方の特色でした。大戸をくぐって土間に入ると東側に厩があり、西側に民家の特徴である田の字型の居室が続いています。上階は屋根裏を利用した二重構造の養蚕室です。むき出しの柱や梁に残る手斧(ちょうな)や広刃(ひろは)の跡から当時の棟梁や木挽達(こびき)の息使いが聞こえてくるようです。更に彼等の組み上げた柱や梁の合理的で美しい木組を見ることが出来ます。囲炉裏火で燻されたこの木組の木肌は漆塗のように黒々と輝き、現代美とは異なったぬくもりのある感動を与えてくれます。
 〝木組は、木のくせ組、木のくせ組は、人組、人組は、人の心組〟と宮大工の口伝にあります。当時の木材の使用方法は、樹木がそれぞれの環境で育った自然の姿を可能な限り生かす工夫をしています。反りや曲がりのくせ木の持つ形をその木の特徴としてとらえ、互いのくせを適材適所に振り分け、組合わせて、強固で統一のとれた空間創りに腐心しています。木組に結集した先人達の英知が、今日までこの民家を支えて来た力となっています。くせ木を嫌い、規格統一化し経済性と能率化とを優先させ、一世代凌ぎの住宅を作り続けているのは、そのまま現代社会の思想の貧困と思われます。優れた建築や環境を創造することは現代に生きる我々にとって当然の義務と言えますが、長く継承されて来たこの民家を保存し次ぎの世代に伝えることも一層大切なことに違いありません。〝木組〟〝人組〟〝心組〟の先達の智慧を振り返り、後世に残すことの出来る建築を創りたいと念願しています。
 
原公朗(はらきみあき)。原建築設計事務所代表取締役。一九三三年、北海道旭川市生まれ。榛名春光園、ジョージが丘ホームの設計者。                    (平成五年・秋号)


公的助成                       (平成五年・秋号)
 二年ぶりに中国大陸に渡ったが、経済成長は加速し、インフレの心配もある。北京には高層ビルが建築中で、道路整備も急ピッチである。そのかわり物価も上がり、犯罪も増え、土地も高くなっている。市場経済の原理が働くのだから少しは反動もある。
日本に帰ってみれば、選挙制度の改革や政治資金の公的助成が華やかに議論されている。細川内閣の政治使命が、政治改革なのだから当然ではある。驚いたのは、公費から六百億円の助成を受けるという案が与党から出されていることだ。これは必要だからと思っても、公的助成に依存している社会福祉施設は、行政指導でなかなか目的をはたせないことが多い。くれぐれも官僚主導にならないように。公金だから、私的に使ったり、不正な支出は許されないが、少しは弾力的に使わせていただきたいのが政治家の本音。〝白河の清き流れに耐えかねてもとの田沼の濁り恋しき〟という歌もある。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 10:23Comments(0)日常・雑感

2013年06月23日

『福祉を廻る識者の声』41(原 衞)

犬と猫                     原 衞
 我が家には犬が二匹、猫が七匹居る。猫が多くなり、インコなどは姿を消した。それでも最近カラスが寄宿していた。羽を切られていたのをつれて来たのだが。
 カラスはかなり知能が発達しているとの事で、食餌等の世話をしていた妻はさほどでもないが、長男はいつも『馬鹿にされる』とぼやいてた。私はそれでも家長と認められたのか、朝近づくと、変な声であいさつされた。しかし羽が伸びたので巣から出したら飛び去り帰ってこなくなった。人との対話は出来なかったようだ。
 犬は人との対話を望んでおり、私が無視して通りすぎるとよび止めようとする。こちらの態度によく反応する。
 よく、犬に吠えられる事が有るが、我が家の犬から学んだ事から吠えられぬように努めてみた。かなり上手になったが、榛名憩の園の犬に吠えられた。考えてみればその時、私は彼の頭の上の方に立っていて手を伸ばしたのだ。吠えられてあたりまえか。
 猫にも学ぶことは多い。猫はかなり自己主張をする。こちらの事情など考えようとしないのである。だが、こちらの感情に敏感に反応する。犬以上であり、また微妙である。猫を捉えるのは大変だ。「追えば逃げる」の言葉通りである。見知らぬ猫は、近づくと逃げる。これを逃げないようにするには大変な努力を要する。最近、榛名憩の園の〝タマ〟とか、鈴木恵泉園園長宅の〝ヒメ〟は逃げなくなった。
 犬や猫から学んだ、これらの動物との〝おつきあい〟に必要な事は、
一、物理的にも対等であること。
一、驚かせない、急がない、恐れない。
一、敵意を見せず、愛情を込めて接する。
一、相手の立場を考えてやる。
 これらはどうも対人関係にも必要な事のようだ。いずれも私の不得意な事であり、今後も勉強せねばならぬ事である。犬猫に教えて貰わねばならない。
 
原衞(はらまもる)。一九四〇年生まれ。群馬大学医学部卒。専門は内科。新生会理事。新生会診療所所長。                                 (平成五年・夏号)


変動の時代                 (平成五年・夏号)
ジューンブライド。六月九日に、皇太子殿下と小和田雅子さんのご成婚の式が行われた。登山がお好きな殿下らしく、一歩一歩進んで頂上にたどりつかれたという印象である。
政局は、選挙制度に与野党が揺れて、結果は、衆議院の解散となった。推進派と目された自民党のグループの一部は、離党して新党を結成。その中に、〝新生会〟というのがあるが、我が法人の名ではないか。命名した精神は異なるにしても、名を汚すようなことは、してほしくない。〟五五年体制の終焉〟とか〝冷戦構造の崩壊〟というふうに、現在は変動の時代である。
革命のような劇的な変化ではないが、何かが変わろうとしている。診療所の建物が完成した。六月から診療を開始した。建物が独立していなかったときと違い外来者も増えてより診療所らしくなった。診療所も変身しつつある。(翁)
 
  

Posted by okina-ogi at 10:18Comments(0)日常・雑感

2013年06月22日

『福祉を廻る識者の声』40(清水茂)

コップ一杯の水                清水茂
 「見知らぬ人がやってきたときに、コップ一杯の水を差し出すように、基礎を築き、創設し、意味を与えることが、砂漠のなかで以上に自然で、単純なことはなかった」と、現代フランスのすぐれた詩人イヴ・ボヌフォワはある文章で述べている。この言葉は私にさまざまなことを考えさせる。かつては人がこの世界に生きていることの意味を問い、また、そのよろこびや悲哀を表現することを自らの根拠としていたはずの文学や芸術の領域においてさえ、意味を問い、自然を讃めることのすくなくなってしまったこの時代にあって、ときとして、私には自分の置かれているこの世界が、知の過剰、技術の驕りという瓦礫の下にひろがる広大な砂漠のように感じられることがあるためかもしれない。私たちが生きている世界そのものが、「自然で、単純な」ものを見失ってしまったのだ。そして、そこではときに物質的欲望だけが肥大化し、個人の行動の中でも、集団の営みのなかでも、それだけがあらゆるものの決定の尺度になってしまっているかのようであさえある。なぜ、いつから人間はそんなふうになってしまったのであろうか。
 おそらく実際の砂漠はそんなふうではなくて、無一物のような外観を帯び、いわゆる文明からはこの上なく隔絶した条件下でも、豊かな意味に充ちていて、そこで生きてゆかなければならない人びとに、たえず生や死について熟慮させるもっとも真実に近いひろがりなのだろう。だから、そこでは「見知らぬ来訪者にコップ一杯の水を差し出す」ことの真実が、そのままに顕われでもあるのだ。
 そう考えてみると、現代の文明社会という私たちの砂漠はリビヤの砂漠以上に不毛で、生命の危機に瀕しているのかもしれない。ここでこそ、必要なのは瓦礫の下に埋もれてしまった大地の真実にいま一度じかに触れ、それによって基礎を築き、創設し、意味を与えることなのではあるまいか。

 
清水茂(しみずしげる)。一九三二年生まれ。早稲田大学文学部教授。フランス文学専攻。著書『地下の聖堂』『ロマン・ロラン』他。                     (平成五年・春号)


信頼                    (平成五年・春号)
「走れメロス」のビデオアニメが子供達の間で評判になっている。太宰治のこの短編小説を少年時代に読んだ大人達も多いはずだ。映像と文字との違いはあるが、心動かされるものがある。テーマは「信頼」ということ。
この四月から、措置権が市町村に移った。〝措置〟という言葉は、人に対して使うには適当ではないと思うが、要は、市町村が施設入所を決めることになった。また、長期の高齢者対策を平成五年度中に作成する。老人福祉は、名実ともに地域福祉の時代に入った。テーマは「信頼」。施設がメロスなら、地域はセリヌンティウス。
初代榛名町町長、榛名荘・新生会の地域の良き理解者であった中島憲治氏が一月六日他界された。長きにわたり、心あたたかいご支援をいただいたことに感謝し、冥福を祈ります。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 08:13Comments(0)日常・雑感

2013年06月21日

百年河青を俟つ

 自分を変えることと、他人が自分の思い通りの人になってもらうということを考えた時、後者の方がよほど難しいということが、齢を重ねると実感することがある。人間関係でも、自己主張を続けていたら、関係は遠ざかるばかりである。最後は、無視することになれば、永遠に情をかわすこともできなくなる。
 自分を曲げてまでも相手に合わせる必要もないが、少しでも相手の世界を想像し、どこかに共感するところがないかと考えるゆとりを持ちたい。その時は、自分を変える方が良いかもしれない。嫌のこともやってみること。苦手な分野も学んでみること。その方が自分の幅が広がり成長する。
 中国のことわざだと思うが「百年河青を俟つ」という言葉がある。黄河の水はいつまでたっても清流にはならない。或る程度見切りをつけて、相手の変えられないところは、認めておくのも人間関係で大切なことかも知れない。
  

Posted by okina-ogi at 17:24Comments(0)日常・雑感

2013年06月21日

『福祉を廻る識者の声』39(川渕直樹)

作品という織物                川渕直樹
昨秋からジョージが丘ホールに拙作の深鉢花器が置かれている。この度本誌から原稿の依頼があったのもこのご縁からかと思う。となると、作家自身が自作について何がしか語るのが義務というものだ。しかし、これが存外むつかしい。
自分というものを当の本人が一番よく知っているかというと、案外そうでもない。作家が自作を最も理解していると考えるのも大変な錯誤だ。私のように土をいじりながら形が私に訪れるのを待ち受けるような態度で仕事をしている者にとってはなおさらである。現われた作品を目前にして、はじめてこれが欲している形なのだと気付く。何処からその形がやって来たのか、何故それを欲したのか、理由はどうにでもつけられるが、本当の根拠など何処を尋ねても見当たらない。その形が私を訪れ、それを私が欲していると直観しただけのことだ。
作品に作家の考えや表現されているとするのも幻想にすぎぬ。あったにせよ、作品の存在とは無関係だ。何百年の時間尺度で考えれば当然のことだ。昔祈りながら刻まれた仏像が、今では美術品である。貴人の便器が水差しとなって茶席に登る。場所が変わるだけで同様な事態が起こる。タイヤの溝のデッサンがアラビア文字でアラーと読める。アラーの民が怒り出す。誰かがそれに意味を見出すのでない限り、形は単なるささやかな事実にすぎない。
私は私でしかありえないが、私が私だと思っている自己は私以外でありうる。私もまた形同様、いまそこにそのようにある事実にすぎない。形という事実が何処からか訪れるのを待ち受けるとは、すなわちそれを忘れることであり、訪れ来た形を是としている私という事実が、他ならぬ私なのである。私は形と同時に私を、あるいは私と同時に形を見出す。訪れ来た形という事実、それを是とする私という事実、その事実の織りなす織物が作家にとっての作品に他ならない。

川渕直樹(かわぶちなおき)。一九四六年奈良県生まれ。和光大学芸術学科卒。作陶家。京都府在住。南蛮風焼締陶を焼く。                           (平成五年・冬号)


経済至上主義                (平成五年・冬号)
 少し日本経済の雲行きがおかしい。ほとんどの企業が不景気だといっている。実際大半の企業が赤字や減益となっている。その結果、求人が減り、就職戦線は〝買い手市場〟へと移った。福祉系の大学でも一般企業へ就職する学生が多かったが、希望がかなわず、福祉に進む人も出てくるだろうという大学就職課の話。
 日本の農業も〝米の自由化〟の黒船に開国を迫られたり、後継者が育たず苦難な時代が続いている。昼休み、新生会の周辺を散歩していたら、梅を剪定する老人がいた。見事な技術と感心して、聞けば梅の木の所有者ではない。
 昔、北アフリカの地中海の沿岸にカルタゴという通商国家があった。経済至上主義がために滅亡したともいえるが、福祉(心)や農業(自然)を忘れる国の基盤は弱い。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 07:53Comments(0)日常・雑感

2013年06月20日

『福祉を廻る識者の声』38(鬼頭 梓)

夢をみる                   鬼頭 梓
 佐伯洋一郎先生がケニヤに行かれて、デイスター大学で神学の講義を受け持たれてから一年余り経つ。先生はいつまでもそしてどこにあっても、ただ天をのみ仰ぎ、ただ前をのみ望んで常に前進してゆかれる方で、そんな先生らしく、ケニヤでの先生は早速また新しい夢をみられることになった。日本人の手で、大学の新しいキャンパス計画の一つである図書館の建築を大学に寄付しようというのである。先生は今その募金の計画に情熱を傾けておられるのだが、私もまたこの感動的な夢に直ちにまきこまれて、その設計を引き受けることとなった。
 建築というものは、その建つ土地とそこの人々とに深く結びついている。私はまだケニヤに行ったことはなく、もちろんどんな人々が大学で学んでおられるのか会ったこともない。見知らぬ土地の見知らぬ人々のために、そして日本とは全く異なる技術的な状況の中でつくられる建築の設計する、などという無謀なことに直ちに応じてしまったのにはそれなりの訳がある。一つは言うまでもなく先生の見ておられる夢を私も一緒に見たいという、真に単純明快な理由によるものだが、今ひとつは、建築の原点にもどって考えることの出来る貴重なチャンスだと考えたからである。ケニヤのナイロビというところは先生に伺うと日本の軽井沢のような所で、冷房はもちろん暖房もいらないのだという。そして建築の工法も壁を石で積んで屋根を架けるだけに近い素朴なものだと伺って、私の心は大きく動かされた。
 今日本では文明のおかげで快適ではあるけれど、まことに人工的な環境の中で生活していて、一方で建築は次第にその原点を見失ってきている。建築の原点、雨や強い日差しを防ぎ、通風を考え、人々の健康な生を肉体においても精神においても抱きかかえ支えてゆく、そんな素朴で純粋な建築をつくることが出来たら、と私は私なりに、佐伯先生とは又別の楽しい夢を見ているのである。

 鬼頭梓(きとうあずさ)。建築家。図書館建築の第一人者。キリスト品川教会グロリアチャペル、東京都吉祥寺老人ホーム等を設計。                      (平成四年・秋号)


寄附金                   (平成四年・秋号)
先日、郵便局に行くと、カウンターに〝国際ボランティア貯金〟と書かれた栞があった。貯金の利子の二十%を民間海外援助団体を通じて発展途上国に役立たせるしくみになっている。約十億円近いお金が平成二年度に寄附金として使われたとも書かれあった。元金十万円で、年間五百円の寄付に過ぎないが、多数参加すれば大金となる。
自民党の偉い人がもらったと認めた五億円は、一企業の献金。同じ寄附金でも目的が違うようだ。こちらは、利害がからみどこかにみかえりを求めるところがある。なんとも大味で私的な匂いが強い。このようなお金は〝献金〟とか〝寄附金〟と言わない方が良い。
論壇に寄稿された佐伯先生は、ケニアに図書館を建てるために募金を呼びかけている。鳥取大学の遠山教授は、内蒙古の砂漠に木を植えている。十月は、赤い羽根の季節でもある。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 09:34Comments(0)日常・雑感

2013年06月19日

『福祉を廻る識者の声』37(岡田芳保)

桂林の光                   岡田芳保
 二年前から時々会って企画を考えていた。中国桂林出身の画家楊永琚(ようえいきょ)さんの個展を五月中旬に十日間開催した。真摯な楊永琚さんに惹かれたからだ。期待どおり盛会であった。日中国交正常化二十周年記念にふさわしい企画として群馬の多くの人々に見ていただき、高い評価もしていただいた。
 画家楊永琚さんは今年四十六歳で中国美術家協会会員でもある。六十数点出品作品のほとんどが水墨画である。その絵は桂林の雄大な風景の中にゆったりと大気が流れている。気が画面から漂い川風が首筋にひんやりとしてくるようだ。私の羨望を煽る。楊永琚さんの作品の中には宋代の絵画の精神が脈々と流れている。五メートルもある大作「桂林朝霧」の前に立つと作品の中に自分が入ってしまっている。大河は滔滔と流れ屹立する山々に時々驟雨が激しく降り舟を漕ぐ蟻のような人間の営みが哀切の歌のように聞こえてくる。楊さんは長野市の善光寺大本願の連作襖絵「桂林の雨」「寒林宿崖」「鶴の湖」等の大作も制作した。二年間、日本に滞在しているので日本語の会話もかなりのものだ。普通の日常会話は何とか通じる。一週間近くつき合って言葉の感覚の鋭さ、理解の早さに驚く。さぞ優秀な頭脳の持ち主なのだと思う。言葉が完全に通じていないのに、こちらの言うことを完全に近い状態で理解する。中国の血肉となっている伝統絵画の重荷と、そこから抜け出して近代的な洋画風表現の世界との融合をみせようとして貧婪なまでに悩み踠(もが)いている。好んで描く桂林の中にも、風雨に打たれる芍薬の花の中にも、日本の風景にした作品の中にも、そうした感覚が生々しく躍動している。楊さんは絵画は技術ではなく心だ!人間だ!人間の深さだと強調する。風景を描いても人間を表現出来なければ人を感動させないとも言う。また楊さんの書もよい。確かな人格がある。日本の雪舟、一休から多くを学ぶという。十年もするとすばらしい本物な画家になるだろう。十年後の再会が楽しみだ。この個展を記念して十六日、楊永琚展覧会場で中国琵琶の名手で美人の王偉華さんが友情特別演奏をしてくれた。圧倒された。日本の琵琶演奏と違い弾急のうねるような空間に投げ込まれた。中国の画家と音楽家を知り、
測り知れない歴史の深さと大きさを知らされた。それはまさに桂林の光であった。
 
 岡田芳保(おかだよしやす)。群馬県群馬町生まれ。煥乎堂取締役本店店長。  (平成四年・夏号)


青い山脈                       (平成四年・夏号)
戦後間もなく「青い山脈」が国民に広く歌われ大ヒットした。暗い世相を打ち払うような明るさと明日への希望が込められた詩が人々の心を強く動かした。「青い山脈」の舞台となったのは、どこと限定できないが、群馬の山々だと聞いたことがある。作曲の服部良一さんは、群馬県が好きで、榛名湖を歌った「湖畔の宿」の作は有名。「青い山脈」は、空の青さのイメージに加えて緑濃き山々の姿の印象がある。
万緑という季語があるが、そのような季節に、質素ながら清潔な白の夏服を着た青年の姿が浮かぶ。昭和十三年の榛名荘結核保養所創設から、新生会創立の三十年代始めの頃までの時代は、苦難に満ちた時代であったと聞くが、明るく希望に燃えて生きる人々の姿が目に浮かんでくる。そのリーダーが原正男理事長だった。このたびの叙勲は、この時代に贈られた勲章と思えてならない。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 16:32Comments(0)日常・雑感

2013年06月18日

『福祉を廻る識者の声』36(若月俊一)

生きる苦労                  若月俊一
 最近施設のお年寄りと、こんな一問一答がありました。お伝えいたしましょう。「なんでわし達は生きていかなきゃならんのでしょう。こんなに面倒かけて」
 「今まで、世の中のために尽してきたお年寄りに、今度は世の中が尽してあげるのは当然です。長寿国になって〝お年寄りの世の中〟になりましたから、とくに肉体的にも、精神的にも不自由になったお年寄りのために、ホームを作ったり、在宅ケアのための保健婦さんやホームヘルパーさんたちを増やすことに、今や国も役場も、一生懸命になってるようです。しかし、まだまだ足りはしません。率直に言って、お年寄りの面倒は、世の中の〝みんな〟が看るべきでしょうね」
 「なんで、こんな苦労してまで生きていかなきゃならんのでしょう」
 「そうですねえ。だけど、人間はみんな苦労して生きているんじゃないですか。愛も、喜びも、また憎しみも悲しみも、すべて人間の中から出てくるんじゃないでしょうか。つまり、生きてる証拠なんです。死ねば、その苦労がなくなる代りに、永遠の安らかさが来るのです」
 「面倒を、みんなが看ろと言うけど、今の若い人は自分中心じゃないでしょうか」
 「そういう傾向は確かにありますね。しかしこれは直してもらわなければならないと思います。なぜなら、みんなが年寄りになるんですからね。若い人も他人事(ひとごと)じゃない筈です。みんなが生きることの大切さをしっかり自覚することです。しかし、年寄りも甘えちゃいられませんよ。できるだけ、みんなに迷惑をかけないような配慮は、生きていくのに一番大切なことです。繰り返しますが、生きるとは、みんなと一緒に生きること。それで話し合ったり、書いたり。これで呆けを防ぐことができるのです。人間は社会的動物ですからね。世間からいい人と言われたいもんですね」

 若月俊一(わかつきとしかず)。一九一〇年、東京生まれ。東大卒。長野県厚生連佐久総合病院院長。日本農村医学会理事長。                          (平成四年・春号)


美しさ                   (平成四年・春号)
ほろほろと山吹散るか瀧の音
この芭蕉の句は、春の句であるが、どことなく生命の盛りのなかにあるかげりを感じる。
今や桜の花が満開である。桜の花も数日を経ずして地に落ちる。花見は、日本の風物の一つであるが、その散りゆく姿が、なんとも美しいと人々から愛されている。物の〝あわれ〟とは、長く民族の共通の無意識の中に養われてきた感情であるが、つまりは優しさの根源とは無縁ではないように感じられる。
ピエタの像は、慈悲の極みとしての美であるという、原公朗氏の講演の指摘である。美しさの定義を〝悠久なる物の影〟といったのは芥川龍之介であるが、美もまた深遠なるものに違いない。福祉が文化であるならば、その道のりは奥行きのある果てのない旅路の如きものであろうか。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 20:23Comments(0)日常・雑感

2013年06月18日

『福祉を廻る識者の声』35(宮部 甫)

社会と生活                  宮部 甫
 明けましておめでとう存じます。昨一九九一年は、自然、社会、共に多難な年でありました。自然では、フィリピンや日本での火山噴火、バングラデッシュや中国での大洪水等、人間社会では湾岸戦争に始まりソビエト連邦の崩壊に終わる大変動が起きました。
 ある新聞の一言欄に、「民衆の苦しみの上に国家の連邦が現れては消える。天地と人間以外はすべて虚構なのだ」と有りました。全くその通りで私達は人間が造った社会の中で自ら苦しんでいるとすれば、それは全く自分達の責任であることを自覚すべきで、自分等自らこれを好くする以外はありません。社会の虚構に幻惑されることなく与えられた各自の本分から逸脱せず行動すれば、調和のとれた社会を期待出来るでしょう。今年は頑張って少し好い社会にしたいものです。
 私は昨年末に満八十四歳を迎えました。平均寿命を少しばかり越しているだけで、特に歳を取ったと言う自覚はありません。
 それでも、よく他人から長寿の秘訣は!とか、健康の手段とかを聞かれます。寿命は天命ですから自分でどうすることも出来ません。また健康とも関係ありません。したがって秘訣がある訳がありませんし、私も何年生きよう等と考えた事もありません。
 健康は長寿の為にあるのではなく活動するために必要なものです。その手段に至っては、体質、体格、年齢、環境等に応じ、千差万別ですから他人の方法を真似しても意味ありません。
 健康で問題になるのは、食事でしょうが、最近ダイエット食品とか言って栄養価の少ない食品を売り物にしていますが、もってのほかの事で栄養あってこその食品です。しかし、やたらに食品中の栄養分を取りあげて云々したり、カロリー計算から献立をつくる等は食品生活の邪道だと思います。「美味しいものを適量食べる」というのが食生活の基本です。また食事を健康に役立たすためには運動が必要であり、これらの調節を取るためには常に前向きの意識を持つことが大切です。
 
宮部甫(みやべはじめ)。一九〇七年、神戸生まれ。東大卒。千葉工業大学教授を経て、現在健康福祉邑と東京世田谷区在住。                         (平成四年・冬号)


分裂と統合                 (平成四年・冬号)
社会主義国家の盟主ともいうべきソ連の国内情勢が一変し、ソビエト連邦という国名の実体が消滅してしまった。隣のヨーロッパでは、EC(欧州共同体)の統合が強まり、政治、経済の統一のために加盟国の調整が進んでいる。分裂と統合、歴史は繰り返すというが、四千年の歴史をもつ、お隣の中国の歴史も例外ではない。
自然界にあって樹木も同じで、活動が弱まれば葉を落とし、実を結ばない。「山眠る」とは、冬の季語であるが、冬山の景観と、自然の摂理を言い得て妙である。マリヤの森の木々もすっかり葉を落して冬木立に変身した。
新生会では、クリスマス週間の中各施設でクリスマス会が開かれた。キリストの生誕を祝い、合わせて人々の平安と、世界の平和の祈りが捧げられた。一九九二年は、良い年でありますように。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 06:15Comments(0)日常・雑感

2013年06月17日

『福祉を廻る識者の声』34(片山直行)

人間教育の場として              片山直行
 夏休みと冬休みに、玉川聖学院の有志の生徒たちを連れて、新生会にお世話になるようになって今年で十二年目目になる。その間、一回の平均が三十人としても(実際はもっと多いが)、夏休みだけでも延べ三六〇人余、クリスマスも入れれば延べ七〇〇人余の生徒たちが御世話になったことになる。これは大変な人数であると同時に、その御世話になった質において大変なもので、その時々の生徒たちの顔を思い浮かべる毎に、理事長先生を始め各園の園長先生ほか全職員の方々、そしてすべての在園者の方々のお一人お一人に、いろいろご迷惑をお掛けしたり、御世話になった感謝を申し上げたい思いで一杯である。
 これは単なる外交辞令ではない。榛名新生会でのワークキャンプの体験を通して、自己を見いだし、自己変革を遂げ、立派に成長して行く生徒が多いのである。彼らは総じて自己に素直になり、他人にも素直になり、現実を有りのままに見つめ、人生そのものを考えるようになる。また、自発的で生き生きしている。
 こんなことは、学校の教室で教師が何万言を費やしたとしても簡単に表現できることではない。ところが新生会では、生徒たちが恐る恐るぎこちない手付きでした小さな事に対する、在園者の『ありがとう』の一言が、大きな喜びと感動を生み出し、生徒一人一人を積極的にし、自立させ、更に何かにお役に立ちたいと、前向きに動き出すというよい循環を作り出し、そこに思いがけない成長が実現するらしいのである。そうして個々の進路決定にも、極めて重大な良い影響を与えられている::。
 つまり新生会は、私どもにとって奉仕活動の場というよりも最良の人間教育の場なのである。私はこの十二年間、このワークキャンプに生徒たちの人間的成長を期待して、一度も裏切られたことがない。私どもの身勝手な願いを、快く受け入れて下さる新生会の皆様方に感謝申しあげます。

 片山直行(かたやまなおゆき)。玉川聖学院中・高等部教頭。一九八〇年より宿泊体験ボランティアを新生会で行っている。                          (平成三年・秋号)


ボランティア                (平成三年・秋号)
 夏は、ボランティアのシーズン。今年も大勢の若いボランティアが新生会を訪れた。宿泊場所になるボランティアの活動期間中には間に合わなかったが、念願の入浴設備も地元業者の方の善意で設置できた。
 ボランティア寮のある桜が丘公園の一隔には、二基のバーベキューのできる炉が完成した。職員の手作りのものであるが、使う人からは好評である。夏のボランティア〝VAC〟の人たちもさっそく利用してくれた。使い初めに、近隣の方に案内したところ、区長さんも参加し、その後、子供会の父兄の方の利用もあった。
 ボランティア寮のある桜が丘が、多くの人の憩の場所として使われつつあることを感じる。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 08:39Comments(0)日常・雑感

2013年06月16日

『福祉を廻る識者の声』33(藤倉敏夫)

脳死臓器移植と尊厳死              藤倉敏夫
 脳の機能が失われても(これを脳死といいます)人工呼吸装置をつけると心臓はある期間、拍動を続ける場合があります。この点について脳死臨調では「脳死を人の死」とみとめる中間意見を出しました。議論が脳死と臓器移植に集中したので、結果として脳死状態で臓器を摘出しないと移植ができないような印象を一般の人々に与えているようです。
 心臓と肝臓の移植は脳死の臓器を使わなければできませんが、臓器によっては心臓停止のあとで摘出しても移植に異常なく使える場合もあります。角膜移植のための眼球摘出や腎臓移植がよい例です。
 ところが、脳死でなく心臓死の場合でさえ臓器を移植に提供される方がすくないのが現状です。また提供されても、その方の承諾の意志が明確に表示されていなければなりません。ですから今必要なのは、このようなことの承諾をふくめて、「生と死に関する希望」を具体的に署名入りで書き残しておくリビング・ウィル(生前発効の遺言書)です。ライシャワー博士は単なる延命のための措置をさけ、従容と死途についたことが報じられていますが、これが尊厳死とよばれるものであり、それが可能であったのは彼のリビング・ウィルを尊重したからです。
 日本でも死にゆく人の立場を考慮した尊厳死の事が脳死の論点になるべきでした。なぜかといいますと、脳死を人の死と認めれば臓器移植以前の尊厳死、つまり脳死の前後に人工呼吸器をはずしたりしてもよいのか、それを決める必要が生じてくるわけで、これはたいへんむずかしい問題です。
 人工臓器には脳死の問題はありません。臓器の機能と同じ水準で機能する人工臓器を開発できれば、問題の当面の解決は可能です。そちらの方にもよりいっそうの努力を注ぐ必要があると思います。

藤倉敏夫(ふじくらとしお)。一九二四年、東京生まれ、慶応義塾大学医学部卒。米国の大学、研究所に二十四年間勤務。東京医科歯科大学客員教授。              (平成三年・夏号)


雲仙普賢岳噴火               (平成三年・夏号)
 長崎県雲仙普賢岳の活動は、火砕流によって多くの犠牲者を出した。火山予知の観測技術は、火山国の日本は世界最高の水準に達しているが、自然の猛威を予測することはむずかしい。今も、島原市周辺の住民は、避難所に不自由な生活を強いられている。住みなれた家や土地を失い、先々の不安をかかえながら暮らしている人々に同情の念を禁じ得ない。
 全国からの支援の声は高まり、一億円以上の募金が集まったという記事を見た。梅香ハイツでは、有志の人たちがその募金を行っている。社会福祉施設は、とかく募金を受ける側と思われているが、赤い羽根募金はもちろん、さまざまな支援の募金活動を新生会では行っている。
〝同情〟ということを越えて行為になったとき、それは福祉の心となる。一日も早く被災民の方々に平常の生活が戻ることを祈るばかりである。(翁)
  

Posted by okina-ogi at 03:37Comments(0)日常・雑感