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2013年07月31日

終の住み家を老人ホームに定めた人々8

写真はお断り        我妻緑さん(昭和六十三年・夏号)
 我妻栄といえば、法律関係では知らぬ人がいない程有名である。法律図書の多くに〝監修 我妻栄〟の名前があるのを見かけるはずである。東京帝国大学法学部時代、岸信介元首相と同級であり、その頭脳は、一・二位を争うほどだったという話は巷でもよく知られている。
 我妻緑さんは、我妻栄博士の奥様である。ご主人の事から先に紹介するのは、はなはだ不敬ではあるが、お許し願いたいと思う。「博士は、どんな方でした?::明治生まれの方だから気骨があって厳格な方だったでしょうね」と推測的質問をすると、ひと言
「やさしい人でした」
と胸の奥から想いを込めておっしゃった。
 我妻緑さんは、真新しい「新生の園」の三階にお住まいである。入居してから約半月が経過したが、「ここでの生活に満足しています」とすっかり新しい環境に慣れ、生活を楽しんでおられる様子。数カ月前に田村大三氏の〝指笛コンサート〟の催しの企画があることを話すと嬉しそうに頷かれた。
 我妻さんの育った家庭は、音楽一家で、ご本人も音楽の愛好家である。語学に堪能で、フランス語、英語は相当使いこなされたようである。十年近く、パリでの生活も経験されている。ご子息の我妻洋氏も著名な文化人類学者、心理学者であるが、インターナショナルな我妻家の空気を吸って育ったからかと、なるほどとうなづけるところがあった。「メガホンの講義」(文藝春秋社・我妻令子・加藤恭子著)で癌と闘い、父栄博士を学者として生涯尊敬し、乗り越えようとした洋氏の顔が、緑さんの顔に重なるように思えた。
 〝文化としての福祉〟を標榜する「新生の園」に我妻緑さんの存在はピッタリな気がした。(翁)
  

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2013年07月30日

終の住み家を老人ホームに定めた人々7

磨かれた品性        飯島さとさん(昭和六十二年・秋号)
 東京がまだ府であった頃、飯島さんは、府立第一高等女学校(現在の都立白鷗高校)を卒業し、津田塾専門学校(現在の津田塾大学)に入学した。津田塾を創立したのは、明治四年最年少(七歳)の開拓使として渡米した津田梅子であるが、飯島さんは、晩年の津田女史の薫陶を受けた一人である。
 「津田先生のご機嫌が悪い時は、英語で講義されるのよ。日本語でお話を始められるときは、私達安心したものです」と当時を振り返って笑う。津田塾の勉強は厳しく、予習に講義の三倍の時間を費やすほどで、四十人の入学生は、卒業時には半分に減り、教員免許を取得したものはごく数名だったという。
 結婚して直ぐにアメリカに渡った。ご主人の勤務地は、ニューヨークであった。向学心に燃える飯島夫人は、コロンビア大学に入学して、近代劇や専門的な婦人帽作りを学んだ。
 「あちら(米国)は誰でも勉強させてくれるのよ。卒業は、簡単ではありませんけど」
 アメリカでの生活は、楽しく充実した日々であったようである。その頃早稲田大学の安部磯雄氏を団長とする学生野球チームが遠征試合のため渡米した。夫の同席した歓迎祝会の記念写真をご主人(早大出身)没後も大事に保管され、最近になって母校に寄贈された。飯島さんは、物持ちの良い人で、他にも貴重な資料をその関係者に寄付している。
 大正ロマンを象徴する美人画で有名な竹久夢二の絵も所蔵されている。夢二とは、知人を通じて親交があり、飯島さんに夢二が洋行のための資金作りを頼んで書いたものだという。「夢二の絵は、一味違った風格がありました。今までにない新鮮さを感じたものです」夢二のファンは、女性が多かった。
 飯島さんは、今年九十三歳。積み重ねてこられた教養が品性に現れて衰えを知らない。(翁)
  

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2013年07月27日

終の住み家を老人ホームに定めた人々6

軍国主義下の青春     淡輪(たんなわ)憲二さん(昭和六十二年・春号)
 淡輪さんの趣味は囲碁である。週に二・三日は、高崎の碁会所、近くの囲碁仲間を訪ねて外出する。囲碁は、中学校のとき、他人の対局を見ているうちに自然に覚えたという。熱中したのは会社勤めの頃。
 「僕は、会社時代から人の言うなりにならないところがあって、碁の打ち方にもそんな性格がよく現れている」四十代で初段の免状をとった。
 淡輪さんの父君は、海軍主計中将であった。
「目つきが鋭い人で、周囲はいつもピリピリしていた。子供からみたらコワイ父親でした」と柔和な表情で気さくに語る淡輪さんから厳格な父君の姿はとても想像できない。英国での滞在が長かった父君は、女性を大切にする人で
 「母はよかったでしょうね」という。これは、その後の淡輪家の家風となり京子夫人も異論はないようである。
 淡輪さんの青春時代は、日本が軍国主義への道を選択しつつあった時代と重なる。旧制福岡中学、福岡高校を経て東京帝国大学法学部に進んだが、この間に五・一五事件、二・二六事件が起こった。特に二・二六事件に加わった青年将校の一人常盤(ときわ)少尉は旧制中学時代からの友人であった。事件の四日前に一緒に酒を飲んだとき、少しも変わったところがなく事件を聞いて耳を疑ったという。
淡輪さんはリベラリストであったが、その頃から自由の学府も右寄りの学者が支配するようになった。まさに軍国主義下の青春である。
 マリヤ館にはプラム会という自治会があるが、こちらの方は奥様まかせである。「ここには、いろいろな職業の人が集まっている。一種のゲマインシャフトだから運営は民主的にやらねばなりません。顔役を作らない当番制にしたのは良かった。」自由で拘束のないマリヤ館の雰囲気作りに貢献したお一人である。(翁)
  

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2013年07月26日

終の住み家を老人ホームに定めた人々5

老化必ずしも悪ならず   中田はるさん(昭和六十一年・秋号)
 中田さんは、二年前の六月、八十歳を越えて、バルナバ館に入居した。子供達は反対したが、榛名定住の決意は揺るがなかった。
 「ここには、(人間関係の)煩わしさがない。住む人は、皆わかった人ばかり」
〝煩わしい監督なしに自己完結型の老後〟の経営理念に共鳴する一人でいらっしゃる。入居の年の八月の健康相談で、肺癌と診断された。自覚症状は、全くなかったという。
 「癌の病巣は幾何学的構造をしておりました。大きさは百円玉位。周囲がレンガで囲ったようになっていて、内部は細い線で粒状に仕切られているんです」
まるで他人事のように、初めて癌を見たときの印象を語ってくれた。
 二カ月程東大病院に入院したが、毎日新規な検査に出合い楽しくてしかたがなかったという。中田さんが話し出すと、深刻な事もそうでなくなってしまう。
 摘出手術は成功した。今はいたって健康である。
「同窓会のとき、癌と知らされすぐに手術を受けた友人と手術跡を見せあったことがある。そうしたら、彼女も同じようなところに傷があった。それは同じ手術だったのでしょうね。そのときは、お互いに顔を見合わせてつい笑ってしまった」。
 「〝癌の宣告〟についてどう思いますか」という問いはこの方には全くの愚問であった。
 「八十歳を越えると、物の見方が変わって楽になりますよ」という中田さんは、生命というものを肯定的に捉え、尊び、生きることへの感謝を忘れない。〝老化必ずしも悪ならず〟という思想もお持ちでいらっしゃる。最近少し視力の衰えたことも苦にされる様子はない。
 榛名春光園の相談室で、紅茶をご馳走になったが、終始若々しく、さわやかなお話にすっかり魅せられてしまった。カメラを向けると「若く撮ってくださいよ」とにこやかにおっしゃった。(翁)
  

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2013年07月25日

『絹産業近代化遺産の旅』

 『絹産業近代化遺産の旅』写真と文 高橋慎一 繊研新聞社 1800円+税

 職場の同僚から本を贈呈された。彼の兄が務める新聞社から発行された本とのこと。編集を担当したという。内容は、書名で想像がつく。明治から、昭和30年代くらいまで、生糸は、日本の輸出製品として外貨獲得に貢献したが、高度成長の時代とともに急激に衰退した。群馬県や長野県では、盛んに養蚕が行われたが、今では養蚕農家はほとんどない。当然蚕(かいこ)が食べる桑の畑も少なくなった。
富士山が世界遺産に登録されたが、富岡市にある富岡製糸場を世界遺産にしようとする運動が起こり、世界遺産の暫定リストに記載されている。明治の初年、国策事業としてスタートした富岡製糸場は、富岡市が管理しているが良く保存されている。
著者は、写真家だが、養蚕の歴史を県内各地に訪ね、その足跡をカメラに収め、取材文章としてまとめている。碓氷峠を越えて、長野の上田まで足をのばしている。群馬県人でも見落としがちな場所もある。近代国家を目指す過程で絹産業が貢献したことを思い起こすことも意味がある。
  

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2013年07月25日

終の住み家を老人ホームに定めた人々4

長寿にして健やか      中野貞さん(平成六十一年・夏号)
 中野さんと話していると、百歳にもう少しで手が届く年齢などとは信じられない頭の回転のよさと気力の充実を感じる。明治二十二年十二月十日生まれというから誕生日がくると九十七歳になる。新生会には、四百人近い老人が生活されているが、中野さんは、長寿番付二位。しかも、長寿にして健やかな点が光っている。
 「歩くのが億劫」。「耳が遠くなった」と体の不自由さを口に出すが、俳句を創り、書道に励む姿は精力的である。大きな虫眼鏡で聖書を読んでいる姿にもよく出会う。中野さんのとりわけすばらしいところは、他人を思いやる心の余裕とユーモアのセンス、そして淡々と死に向う態度だと思う。
 「今年の夏にはなんとかお迎えにきてもらえるような気がするのよ」と言って笑い、
 「もうそろそろ寝たきり老人になりたいと思います」と妙な宣言をして寮母をからかうこともある。
 中野さんが、今もって感謝し尊敬の念を寄せる人がいる。七歳~十四歳まで養育してくれた継母である。南国土佐の士族の娘らしく、明るい人柄で、教育に熱心な人だった。この母に大層可愛がられ、子供の時の七年間の思い出は、今も懐かしく残っている。女学校の一年のときに亡くなったが、そのときの深い悲しみ、寂しさが〝人生いかに生くべきか〟の自らへの問いかけの基点になった。プロテスタントである中野さんに、キリストの教えは決定的であったが、西行や芭蕉といった人生の求道者にも惹かれるところがあった。七歳のときに作った短歌がある。
 光陰は人をばまたず今ははや
     年の暮れともなりにけるかも
(翁)
  

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2013年07月24日

終の住み家を老人ホームに定めた人々3

人に感謝し感謝される人生 秋吉ヨ子(ね)さん(昭和六十一年・冬号)
 海に詳しい人なら〝秋吉表〟と呼ばれる潮汐表の存在を知っているだろう。全国各地の海岸、港湾の長期的な潮位を知るための基礎表とでもいうもので、作成したのは、秋吉さんの御主人、故秋吉利雄少将である。
「またお母さんのお惚気が始まった」
と茶化されても
「アキヨシは、私にとって最高の男性です」
と言い切る夫への敬愛の深さは、そのまま秋吉さんの幸福な人生を象徴しているように思えた。
 淡々として、流麗な文章の響きに似た語調が柔和なお顔に溶けて快い秋吉さんの話に時の経つのをつい忘れてしまう。
 秋吉さんは、若くしてアメリカに渡った。ルーズベルト大統領夫人の計らいで三年間滞在することができ、おかげで、多くのすばらしい友人を得ることができた。古いアルバムに貼られた、黒髪の麗しき女性の載っている新聞の切抜きや、写真の数々がそれを証明してくれている。YWCAの仕事であった。
 「チャンスはあちらから出掛けてくるのよ」
とあっさり言われたが、秋吉さんの明るく誠実な人柄が、すばらしき人々との出逢いを実のあるものにしたのだろう。求められたとき、誠心誠意で応える秋吉さんに深い信仰と教養の積み重ねを感じた。秋吉さんを頼って榛名を訪れた人は多い。
 現在、「聖書の天文学」という一〇〇年前に英国で書かれた本を翻訳し、立教大学で旧約聖書を研究されている御子息の協力を得て今年発刊される予定だという。クリスチャンでもあったご主人の夢が母子の手で果たされることになる。秋吉さんの人生は、冬の星空に似て清澄な輝きがある。(翁)
  

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2013年07月23日

終の住み家を老人ホームに定めた人々2

絶えざる自己との戦い  市村七五三八(しめはち)さん(昭和六十年・春号)
 榛名憩の園の前庭の芝生が窓越しに見える居室で黙々と暖簾作りをしている市村さんを訪ねた。大きさも違い、色も異なるビーズ玉を順番どおりに糸に通すと色彩豊かな暖簾ができる。施設を訪れる家族やボランティアの注文が絶えない。
 夜中に体を突き通すような痛みで眼が覚めることがある。痛みを忘れるのは、暖簾作りに熱中しているときだけである。「毎日何もすることがなかったら、とっくに人生ヤル気を失い寝たきりになってボケただろうな。これがあるから俺は助かっている」まさに暖簾作りは市村さんの命綱である。
市村さんは、またクイズを好んで作る。そして記憶力が抜群。クイズを始めたきっかけは、「昭和四十八年六月の第二週の朝礼で理事長さんがクイズを出してくれたのが刺激になった」のだという。そのときのクイズの内容まで覚えていた。今は自分で考え自分で作る。朝礼で発表する。クイズも生きがいの一つである。記憶の良さにについて問うてみた。
 昔、父親に「お前は勉強はどうでもよいから、いったん聞いたことは忘れるな」と言われた。だから、真剣に覚えようとする。寮母さんの就任した日は絶対忘れない。自分にとって大事な人だから。愛情を持った集中力が記憶の良さの秘密である。
 榛名憩の園が開設した昭和四十四年の七月に市村さんは入所した。その当時を振り返り、「体が不自由になり、老人ホームに入園することを決心した。そのときは泣いた。兵隊にいくときは帰れると思ったが、今度は家族との一生の別れだと思ったから。倅に負ぶわれてホームの玄関をくぐると、職員の人が多数出迎えてくれた。どんなに心がやわらいだかしれない。最初に口にした食事はカレーライス。よく見ると肉が入っている。自分の思い描いていた老人ホームと違っていた。それ以来、ここを自分の生活する場所だと決めた。だから家に帰ろうと一度も思ったことがない。面会に来るのは子供達の自由だが」
入園したときと同じ部屋、同じベッドで話してくれた。この場所は市村さんの家、指定席。(翁)
  

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2013年07月20日

終の住み家を老人ホームに定めた人々1

終の住み家を老人ホームに定めた人々

晩年を老人ホームで過ごす人々も現在は珍しくなくなった。昭和50年代初め、老人施設は少なく、まして有料老人ホームなどというものはほとんどなかった。戦後、結核保養施設からいち早く老人問題に目を向け、事業展開した人物が群馬県榛名町にいた。原正男氏である。大学卒業後、福祉施設で働きたいという希望があり、地元の人の紹介で原正男氏に会い、就職を許された。男子職員が少なかったこともあり、大変大事にしていただいた。そして、施設に暮らす数多い高齢者に出会うことができた。法人の広報誌に人物紹介の記事を書かせていただいた。その中には、現在も生活されている人もいるが、既に他界されている人に限って掲載したい。それぞれに、実りある晩年を過ごされている。

「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」
桐淵とよさん(昭和六十年・冬号)
 教育家羽仁モト子氏は、この人の純粋かつ無私無欲な人柄をこよなく愛し、婦人団体全国友の会の中央委員を依頼したという。現在、過去はあえて語らず、淡々と施設で生活されている姿に次ぎの句が浮かぶ。
 実るほど 頭を垂れる 稲穂かな
 寮母から〝桐淵のおばあちゃん〟と声をかけられることもある。失礼な呼び方には違いないが本人は一向に解せず、笑みを浮かべて相手の手を強く握り締めるのが常である。心が通じ合っているのである。
 九十歳を過ぎて俳句を始めた。
 喜びも 悲しみものせ 除夜の鐘  とよ
 桐淵とよさんは、明治二十五年一月八日群馬県新田郡に生まれた。鎌倉時代の末挙兵した新田義貞の生品神社のある地でもある。家は代々医業を継ぎ、父黒田行蔵氏は二十一代であった。
「私の家には、〝医は算術ではない〟という家風があって父も例外ではなかった。村人の中には、無料で診てもらう人もいた。この家の雰囲気が私の人生を強く支配した」と桐淵さんは言う。群馬師範(群馬大学教育学部の前身)在学中に『婦人の友』の読者となり、昭和三年、新潟県長岡市で誌友二十七人と長岡友の会を結成した。昭和五年に全国友の会が結成されたときに中央委員に推され、羽仁モト子氏死去の後は、五人の中央委員の一人として全国三万二千人の会員とともに歩んだ。〝思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ〟を自ら実践し、多くの会員から尊敬された。今も桐淵さんを訪問される会員は多い。その一人、健康福祉邑に住む梶浦初子さんは、当時の桐淵さんを次のように語ってくれた。
「羽仁先生が最も信頼された方でした。羽仁先生の思想を感受し実践される人間的な器があったのでしょう。怒りを人前で見せたこともありませんでした」
この言葉を裏付ける生き方を榛名憩の園で見た。言行一致の人生の積み重ねが、高齢になって平安をもたらしている。そんな生き証人桐淵さんに生活していただいていることを誇りに感じている。(翁)
  

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2013年07月19日

『福祉を廻る識者の声』69(磯崎千壽)

家事調停雑感                 磯崎千壽
 昭和六十二年四月から平成十一年三月まで、ちょうど日本経済がバブルの頂点を極めてからどん底の落ちるまでの一三年間、私は東京家庭裁判所で調停員として主として遺産分割の手続きに当たってきました。
 バブルによって異常に地価が高騰した結果、庶民のささやかな住まいも時価に換算すると数千万から億の単位に跳ね上がり、介護を必要とする老母一人が残された家を数人の子供が争うという風景を目にすることになりました。裁判所は親が望む限り、住み慣れた家で生活が続けられる事を第一に考える為、子供の住居についての権利は親との同居が前提となります。その為子供達は、残された親の歓心を得ようと競い合い、先月の調停期日では長男との同居を希望していた母親が、今月になると長女との同居を言い出すというような、リヤ王の一場面を彷彿とさせる情景が調停の場で繰り広げられ、遺産分割の調停として始まった手続が、親の扶養や介護の方法を話し合う場に変わった例が幾つもありました。
 その最中に心労がたたったせいか、親が急死してしまったケースは今でも忘れません。このようなケースで子が自然な情愛というより、自分の住居あるいは将来の資産の確保を考えて、同居を申し出たとの印象を受けた例が多くありました。
 現在、日本の社会の中で家族の機能は劇的に変化し、また世代間の価値観も大きく異なって来ており、老後の生活は、子に託すれば安心とはいえない状況が現実となっています。今年の四月には判断能力が衰えた場合、あるいはそれに備えて老後の財産の管理を後見人に頼むことが出来る成年後見制度が発足しました。
 同時に社会による介護ともいうべき介護保険制度もスタートし、複数の介護サービスの中から自分に必要にあったものを選び、契約することになりました。資産の運用だけではなく老後の生活も、自らの意思と責任で選ぶ厳しい時代が到来したといわざるを得ません。
 磯崎千壽(いそざきちず)。一九四二年、福岡市生まれ。一九六七年弁護士登録。新生会理事兼評議員。                                   (平成十二年・秋号)



追悼集・遺稿集              (平成十二年・秋号)
 原正男名誉理事長が他界してから約一年が経過した。ご遺族ばかりでなく、新生会にとって創業者の死は、大きな出来事であった。
 二〇〇〇年となった二月、原正男追悼集の編集委員会がスタートし、八月十五日(原先生の誕生日)に発刊となった。書名は、追悼集が「徹底の愛・不動の信」、遺稿集が「我をより高き崖下に置け」となった。カバー絵と題字は、狩野守画伯が担当された。二冊で六百ページ近い本となった。
 編集の責任を任されると、ゲラ文を何度も校正することになる。それは、戦前からの原先生の人生を自ずから辿ることになる。老年期の約二十年間、直接ご指導を受けたのが、〝近景〟とすれば、それは、〝中景〟、〝遠景〟となるが、見事一つの印象で結ばれている。それは、原先生が〝愛の実践者〟であったということである。その伝統をいかにしても護りたい。
(翁)
  

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2013年07月18日

『福祉を廻る識者の声』68(住谷正巳)

福祉と芸術                  住谷正巳
 雄大な榛名高原に広がる、新生会の老人福祉施設の中でも、穏和の園は、一歩先に踏み入れると、モダンアートミュージアムを思わせる建物です。玄関ホールから各階の壁面に至るまで、絵画や彫刻が、心地よく展示されていて、ここでは、作品とのふれあいは、日常生活に溶け込んでいるという印象を受けました。
 原慶子先生は、施設の特色を「福祉に芸術を」という言葉で、熱っぽく語られています。これは全国的にみても、大変ユニーク発想だと思います。
 この度、私の作品「風の十字架」が、中庭の芝生広場に設置されることになりました。高さは約二メートル五十センチ程で、二十二枚のステンレスの円板が、十字架の形に空間に構成されていて、風でゆらゆらと回転します。作品の創作意図は「或る日、穏和の園で起きたちいさな奇跡。風で舞い上がった木の葉が偶然作りだした十字架」です。若葉が芽吹きはじめる来春五月頃には完成する予定です。
 新生会の広報誌をめくっていたら故原正男先生が、遺言書の中で「地球市民祈りの家」を是非実現、維持するように書き遺されている記事に目が止まりました。先生が、苦難と栄光の九十二年の生涯の到達点で思念された構想は、完成すれば、新生会のシンボルとして、大きな関心を呼ぶものと思われます。
 私がこのことと関連して思うことは、彫刻イサム・ノグチのことです。彼は晩年、しばし自分を「地球人」と呼び、世界各地に設置されている自作の彫刻を「未来の贈物である」と語っていました。
 二人に共通する人類共存への熱い思いには、あらためて深い感動を覚えます。
 敬虔な信仰心と芸術の創造力を信頼している原慶子先生が、二十一世紀に向けて「福祉に芸術を」をモットーに、メッセージを発信し続けてほしいと願っている一人です。

 
住谷正巳(すみやまさみ)。一九三六年、群馬県群馬町に生まれ。彫刻家。個展多数。モニュメントは、グリーンドーム前橋外全国各地に制作。                (平成十二年・夏号)


十七歳の犯罪               (平成十二年・夏号)
いわゆる〝十七歳の犯罪〟が社会の関心を集めている。五月連休中に起こった二つの事件は象徴的である。共通していることは非情だということである。「申し訳なかった」という謝罪がない。
およそ殺人を犯せば、時間が立って自責の念に苦しむのが本来の人というものだと思う。それ以前に、「他人が喜んでいれば嬉しい。悲しんでいれば悲しい」というのが人の在り方であって、そうでなければ集団生活もないし、社会の安定、さらには人類の向上もない。
何が間違っているのか。教育や社会が悪いというのは簡単である。何よりも強調すべきは、人の心の中核は、情なのであって、決して知識や欲望ではないということである。知情意のうち、知や意は情を納得させられない。福祉を目指す同世代の若者が、生き生きしているのは〝人の気持ち〟を考えているからだろう。(翁)
  

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2013年07月17日

『福祉を廻る識者の声』67(横田金治)

新生会歌                   横田金治
 私の父は明治二十一年仏教の家に生まれましたが、長女を前橋の共愛学園校に通わせました。その縁で、前橋へ嫁ぎ、米寿を迎え岩神町に健在です。父は戦後、村の子供を集め、キリスト教の説話をしていました。葬儀の時、住職さんは「樅樹院:」と戒名をつけてくれました。
 私は長子を甘楽幼稚園に通わせ、長じて洗礼を受け、短大を卒(お)えてから同園に保母として勤務、高崎へ転居後も甘楽教会に所属しています。
 次女は、共愛学園に進み、聖歌隊に入り、音楽の道を選びました。学生の頃、榛名町の施設慰問に行くというので、私も同行し、原先生のお話を初めてお聞きしました。昭和四十年後半の頃です。
 学校を退職し、自由の身になるにつれ、福祉に関心を持つようになりました。原先生との出会いがあったからです。
 榛名町在住の五十嵐まさ路先生の作品に附曲させていただくコンビを組み、次々に新曲を作りました。先生も高校の校長を退職され、これからという時に病に倒れ、貴会の病院に入院されたので、時々見舞いに行きました。この様な関係から、現在皆さんに歌っていただいている「新生会歌」の作曲を依頼されました。歌って下さる皆さんの顔を想像しながらどのようなメロディーにしたらよいか悩みました。今年の原慶子さまの年賀状に、「新生会歌」も定着したとあり、安心している次第です。
 五十嵐先生亡きあとも、作曲を続けていきます。傘寿を過ぎましたが、合唱団員として、ベートーベンの「第九」から、モーツアルトの「レクイエム」、ヘンデルの「メサイヤ」を次々と歌っています。
 原理事長様の葬儀は、安中市と、榛名町会場の二回出席させていただき、故人の業績について一層感銘を深くいたしました。貴会の益々のご発展をお祈り致します。

 横田金治(よこたきんじ)一九一八年、群馬県富岡市生まれ。県立富岡中・群馬師範卒業。小中学校教諭・校長・社教主事。現在ふるさとのうた保存会主宰。         (平成十二年・春号)


権威の碑                 (平成十二年・春号)
四月一日、介護保険がスタート。六回にわたり新生誌増刊として特集を組んだ。今回からは、社会教育家後藤静香の思想「希望」を新生誌増刊号として連載することになった。
後藤静香の思想に惹かれた人々が集う団体が「心の家」である。代表理事は、弁護士の磯崎良誉(よしたか)氏である。今年八十九歳になられる。氏のご案内で、後藤静香の生誕の地を訪ねることになった。
後藤静香は〝荒城の月〟の作曲者で知られる滝廉太郎、日露戦争の軍神広瀬中佐の故郷大分県竹田市の近く、大野町に明治十七年に生まれた。同志の手で当地には、昭和三十三年に建立された〝権威の碑〟がある。榛名荘、新生会の創立者であった故原正男先生の社会福祉事業への情熱とその実践を支えたのは、まぎれもなく後藤静香の思想とその教化運動であった。聖地巡礼ともいうべき日は、四月一日であった。(翁)
  

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2013年07月16日

『福祉を廻る識者の声』66(櫻井丘子)

未だ見ぬ事を見たと信じて           櫻井丘子
 クリスチャンの両親の下(もと)、共愛、ICU(国際基督教大学)と教育を受け、卒業にあたり母に私は福祉か、何か世の不幸な人の為に働かなければならないのではないかと相談しました。母は『福祉は責任感や義務でやるものでもない。そんな犠牲的精神を発揮しようと思うのは傲慢な事。神様がその仕事をする人を選び用意される』と申しました。それから私は、縁あって旅館の長男に嫁ぎました。その後、弟の衞が原家の正枝さんと結婚。長男なのに原姓となって榛名へ移りました。母の申した事はこの事だったのでしょうか。私の旅館は団体旅行の波に乗り、どんどん施設を増築しました。原正男先生もお越しいただき、新生会の祝会には親類として時々お招きいただきました。先生は会場で大勢の友人を紹介されます。その度に私も立たせて下さり旅館のPRをさせて下さいました。友人の多い事と気くばりのすごさにいつも御尊敬致しておりました。御自分の後継者が女性の慶子姉である事、同じ年に連れ合いを亡くした事で、何となく私と似た立場とみて下さったのでしょうか。特別贔屓(ひいき)していただいた様に思います。
 さて旅館の経営をまかされ、つくづくと思うことは自分一人の力では何も出来ないという事です。仕事は全社員、知人をまき込んでやる。不可能を追求する。何の力もまき込んでやる。不可能はわりきり、出来る可能を追求する。何の力もない私がいろんな事を乗り越えられたのはやっぱり信仰の力かと思います。聖書に『信仰とは望んでいる事を確信し、まだ見ていない事実を確認する事である』(ヘブル書)とあります。言いかえれば経営とは、望んでいる事を確信しまだ得ぬ事を得たと信じてこれを行うことであると思うのです。
 そして私もまた『神よ、我をより高き崖の下におきたまえ』と祈りつつ目標を高くかかげて、仕事に向って行きたいと思います。

 櫻井丘子(さくらいたかこ)。一九三九年、松島一男・録子の長女。共愛学園、国際基督教大学卒業。磯部温泉舌切雀のお宿ホテル磯部ガーデン代表取締役。           (平成十二年・冬号)


有情門                  (平成十二年・冬号)
西暦二〇〇〇年。西暦の紀元を今から二千年前と定めたのは、六世紀ローマ時代で、キリスト生誕年を聖書から推定して決めた。キリストが生まれた頃の世界は、西洋にあっては、ローマ帝国、東洋にあっては、中国に漢王朝が文明国家を成していた。ドイツ、フランスといった、今日世界をリードする国々は、国家としての影すらなく、もっぱら狩猟生活を送る人々が暮らす地域に過ぎなかった。
人類の進歩を物質文明の向上と考える傾向が強い。軍事大国、経済大国であるアメリカは、今世紀に月に人間を立たせた。二十世紀は、科学技術の時代であったが、その反面世界大戦が記憶された時代であった。
人間は、生物の分類では有情門に属する。情とは他者を思いやる心。人類の真の向上は、情(愛)の広がり。精神文化を尊重する平和な千年の幕開けの年であってほしい。(翁)
  

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2013年07月15日

『福祉を廻る識者の声』65(板山賢治)

原先生の志に思う               板山賢治
 去る九月六日、原正男先生の合同葬に列しつつ、その業績の偉大さと志の高邁さに心打たれるものがあった。わたしが、原先生のご指導を受けはじめたのは、今から四十年余の昔にさかのぼる。
 「社会の欠陥より生ずる不幸な人々のための社会福祉事業を起し献身奉仕せんとす」る志をたてられた先生が社会福祉法人を創設し、アフターケアーから老人福祉へと歩を進められようとされたころである。昭和四十四年秋、わたしが厚生省老人福祉課に転じた頃よりご縁が深まり、四十七年春からは、社会福祉審議会委員としてのご高説を拝聴したことなどを経て、今日に至る。
 ふりかえってみると、先生の持論の一つに「民間の自主性」を尊重し、その「創意・工夫」を活かせという主張があったように思う。ともすると「相違・工夫」を活かせたという仕組みでガンジ・ガラメにしばりつけようとする行政へのやるかたなき忿懣を吐露されることがしばしばであったように記憶している。正論であることを理解しつつも「先生、わたくしには大いにぶちまけて下さい。しかし地元の県や市町村当局には、ほどほどにして下さい」などと六十路をこえた大先輩にご忠告申し上げたことが想い出される。
 今、わたくし達老人福祉関係者は「介護保険」への転換、社会福祉の構造改革という激動の渦中にある。「措置制度」から「選択、利用、契約制」へ、「利用者中心」の福祉を実現するためにサービスの「量と質」の拡大、向上を目指し、「競争」の時代に突入しようとしている。正に、原先生のいう「民間の自主性」と「創意・工夫」が社会福祉法人再生の「キーポイント」といえよう。「献身奉仕」という原先生の志を胸にわたくしも亦、新しい世紀への橋渡し、「福祉」から「保険」へのスムーズな転換のために微力をつくしたいと決意するこの頃である。
 
板山賢治(いたやまけんじ)。元厚生省厚生課長。日本社会事業大学専務理事。全社協常務理事を経て、現在財団法人日本障害者リハ協副会長。(社福)浴風会理事長。(平成十一年・秋号)


大往生                  (平成十一年・秋号)
 八月六日の朝、おりしも広島市に原爆が投下された日に、原先生は、忽然として天国に召された。ご遺族のお話によれば、いつもと変わったこともなく起床し、長年の習慣で自らお茶を入れ、応接間のソファーに腰をもたれてテレビの平和の式典に見入っていたということである。
 それから、わずか一時間もたたない九時十五分頃、その応接間で異変に気づいたご家族に看取られ、眠るように旅立たれたのである。まさしく大往生であった。この日も〝出勤〟するつもりでいたというから、まさに生涯現役を通したことになる。
原先生の誕生日は、明治三十九年八月十五日。現在では終戦記念日となっている。命日が八月六日。つくづくと、原先生は〝平和の人〟という感じがする。職場では、朝礼中で平和を祈念する讃美歌が唄われていた。この日は、日照り続きの後に朝から激しい雨が降り続いていた。(翁)
  

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2013年07月14日

「日本の歌100年」

 
 友人から音楽会のチラシをもらいました。彼の企画した音楽会で9月21日(土)、大宮市、日本聖公会、大宮聖愛教会で午後2時から開催とあります。内容を見ると明治から昭和にかけての代表的な日本の歌が載っていました。とりわけ目に着いたのが、滝廉太郎の「憾」です。最晩年の曲です。現代日本歌曲が最後にあり、團伊玖磨、畑中良輔、小林秀雄といった玄人好みの曲もあります。入場料も2000円とてごろ。近ければ、鑑賞してみたい音楽会です。   

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2013年07月14日

『福祉を廻る識者の声』64(志村 昭)

福祉は人の幸せを生み出すこと         志村 昭
 福祉と医療の世界に入り、早や十二年となりました。前職は銀行員です。一九六七年銀行の大阪支店へ転勤を命ぜられました。当時は、海外に行く様な気持で赴任致しました。新設開店の為の準備でした。十有余名、顔もわからず名前だけ初めて出会ったものたちでした。
 着任翌日から外回りを命ぜられ、片手に地図もう一方の手にカバン、一日十数キロは歩きました。店に戻るとミーティング、そして翌日の計画をたて帰宅するのは毎晩夜中でした。毎日のミーティングでたくさんの意見が出るのですが、不思議と翌日に持ちこすことなく、結論が出てしまうのです。そこで考えました。群馬から大阪へ出稼ぎに来た様なものです。初めて出会った男たちが、一緒になって同じ目標に向って行動するための議論は、常に相手の立場になって物事を考えることが基本なのだと。そこに他人との愛が芽生えるのではないかと。大阪では「あんさんな、大阪商人が〝考えときまっさあ〟と言う時は取り引きは考えていないという事でっせ」と教えられ、東京上野では、「下町っこと言うのは、相手の心にほれて来るのです」と言われました。埼玉県の春日部では、封建的な土地柄ではあったけれど、言葉使いに注意し、誠意をもって接することでとても良い関係をもつことができました。今でも、大阪・上野・春日部で知りあった人達とお付きあいをさせていただいております。最近この方たちとの話題は福祉のことです。特に、介護保険が実施されるにあたり、私達の老後はどうなるのでしょうかと。「私には子供がいないので、家庭介護しろと言われても無理です。在宅ケアを二十四時間してくれるのでしょうか」別の人は「年寄りは、お金で換算され評価されると言う事を聞きました。お国の為に一生を捧げて来たのに」と涙を流して語りました。こんな人もおりました。「福祉も配給制度から自給自足の時代に入るから、頭を切り換えにゃーあかんで、がんばりいや」と福祉にたずさわる私を励ましてくれました。 後藤静香先生の『天よりの声』に〝愛すれば話が解る、愛すれば心が通う〟と言う一文があります。福祉は多くの人達の幸せを生み出すことだと思います。目標は一つなのです。幸せになることです。一人一人がよく話し合い、そして理解し、お互いに愛しあうことではないでしょか。             

志村 昭(しむらあきら)。新生会事務長。                 (平成十一年夏号)


自給自足                 (平成十一年・夏号)
十五年以上前、当時奈良女子大の教授であった森幹郎先生が、〝社会福祉とは何か〟ということを「経済的効率と社会的公正」と教えてくれた。税金=公金→措置費は無駄遣いはダメ、多くの人が納得できるように使うという意味である。戦中、戦後、配給制度というのがあった。補助金も措置費も一種の配給である。 
 介護保険制度を自給自足と表現した人がいる。当を得ている。自給自足というのは、自ら汗を流し自分の生きる糧を得る行為である。配られたお金を有効に使う〝運営〟から安定した〝経営〟に使うことが求められるようになる。使い方は少し自由になると思うが、入居者のために使うことには変わらない。狩猟、採集、栽培、飼育は代表的な自給自足の方法である。そのために今から良い土壌、豊かな森を準備、確保する必要がある。(翁)
  

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2013年07月13日

『福祉を廻る識者の声』63(田中 司)

未来を覗き見る恵み              田中 司
 人間には四人の祖父母がいる。しかし、生まれた時、僕の祖父母は四人ともいなかった。妻のエイミィも同じであった。そこで我々は、祖父母というものを知らないで育ったのであるが、我々の四人の子ども達は、元気な祖父母四人に囲まれて育った。
 幼い時の祖父母の有無は、老人に対する感覚を大きく変える様な気がする。僕は、老人に対しては「近寄りがたい威厳」を感じるのであるが、我が家の子ども達は、全く逆で、老人に「かわいらしさ」を感じているらしい。孫をかわいいと思う気持の反映かもしれない。彼等は良く「おばあちゃまってかわいらしい、何々だって」等と言っていた。
 彼等の四人の祖父母の内、最初に亡くなったのはエイミィの母である。一九七八年、喘息の発作で、六八歳で亡くなってしまった。急な事でショックであった。
 次が、ずっと後になるが、エイミィの父、一九九六年、九一歳、老衰による静かな死であった。晩年視力が弱ってしまったが、頭脳の明晰さは衰えず、孫達の進路の相談にも乗ったりしていた。
 一九九七年、僕の母が亡くなった。晩年はアルツハイマー症で、全く自分を表現できなかったが、わずかな反応を整理すると、状況はかなり良く理解していた様に思える。
 母の入院後、父が脳梗塞で倒れた。今年で三年目になるが、半身不随でまだしゃべれない。対話は「イエス」「ノー」だけの一方通行だが、かなりの事を解っているらしい。
 そこで僕は考えた。父に対して、僕は、何を望んでいるのだろう。健康になって退院する事ではない。もはやそれは望めない。しかし、長生きはして欲しい。いったい、父の生きる目的は何なのだろう。
 そんな時、ふと思いついた。父は残された感覚で未来を見ているのだ。神は、父に、未来を覗き見る恵みを賜って下さったのだ。以後、見舞いに行くのが楽になった。


 田中 司(たなかつかさ)。一九四三年東京生まれ。立教大学文学研究科組織神学修士課程修了。立教小学校校長。立教大学文学部講師。                   (平成十一年・春号)


カンゾー先生               (平成十一年・春号)
 「楢山節考」や「うなぎ」などの作品で有名な今村昌平監督の新作「カンゾー先生」が昨年東映系で上映された。カンゾーは肝臓の意味で、タイトルは、映画をご覧になればわかる。昭和二十年、終戦の年、瀬戸内(岡山県日比)が舞台となり、町医者(開業医)の診察風景が描かれている。
 本誌冬号と春号と連続して、〝往診の時代〟を体験されている土岐正、土岐文英先生に回想文を書いていただいた。両先生とも八十歳を越える高齢ながら現役で活躍されている。
やがて施行される介護保険制度は、地域福祉、地域医療への比重がますます高まる時代の幕開けでもある。時代背景の違いはあるが、当時の回想に貴重なヒントがあるかもしれない。「開業医は足だ。片足折れなば片足にて走らん::」町者の父の遺訓である。四月、在宅介護支援センターがスタートした。(翁)
  

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2013年07月12日

『福祉を廻る識者の声』62(柏木哲夫)

老いへの適応                 柏木哲夫
 老いを自覚したとき、それをどうとらえるかに個人差がある。ライチャードは老人の適応のパターンを、円熟型:人生の体験を統合して、周囲の人々の中に自分の果たすべき役割を発見し、それを遂行していくタイプで、指導的立場を維持し続ける、安楽椅子型(自適型):周囲と一定の距離を置きつつ、自分の生甲斐を見つけだして、満足感いだいて生活するタイプ、逃避型(防衛型):老いた自分を守り、自分をおびやかすものから遠ざかる、憤慨型(外罰型):生活上の不満や悩みが多く、そのはけ口を自分以外のものに向ける、自己嫌悪型(内罰型):不満や悩みが多い自分に嫌悪をいだく、の五つに分けている。
 適応の問題を考える時大切なことは、それが老人を取り巻く人々との相対的な関係で決まるということである。たとえば老人によくみられる「かたくなな態度」は、その老人の価値観や考え方に対する周囲の無理解や軽視に原因しているかもしれない。したがって、老人の適応は同時に周囲の人々の老人に対する適応の問題でもあるのである。
 その次に大切なことは、適応の問題に価値づけをしないということである。たとえば
自適型の人は表面上は精神的に安定しているが、背後に人生に対するあきらめが存在するかもしれない。憤慨型の人は常に葛藤に悩み、周囲とのトラベルが絶えないかもしれないが、その人にとっては、それが最も自分に忠実な生きかたかもしれないのである。
 多くのお年寄りに接してきて、私はもう一つの感謝型の適応があると思う。自分のこれまでの人生と現在に感謝できる生き方である。
 いずれにしても、人は生きてきたように老いていく。まわりに不平をいいながら生きてように老いていく。まわりに不平をいいながら生きてきた人は、不平を言いながら老いる。生き方が老い方を決めるのである。私は個人的には感謝型の老い方をしたい。そのためには、今から自分のおかれている人間関係や環境に感謝する習慣をつける必要がありそうである。
 
柏木哲夫(かしわぎてつお)。一九三九年兵庫県生まれ。大阪大学医学部卒。淀川キリスト教病院名誉ホスピス長。大阪大学人間科学部教授。                              (平成十一年・冬号)


新島襄                  (平成十一年・冬号)
同志社大学の創立者新島襄は、今から約一五〇数年前の一月に生まれた。墓地は、京都東山にあって夫人や校僕松本氏と墓石を近くして眠っている。新島襄は、武士道に清教徒的紳士道を身につけ、天来の人柄もあってか熱情の人でありながら、謙虚で礼儀正しかった。地位、身分にかかわらず、誰に対しても〝さん〟づけだった。奥さんは〝八重さん〟と呼び、松本五平氏は〝五平さん〟であった。
原正男名誉理事長は、職員に対しては、役職名はともかく誰にも〝さん〟と呼んでいる。現理事長はさらに徹底していて、若い職員から〝慶子さん〟と呼ばれてもそれが自然と思っている。人格と人格の尊重、その上に組織の人間関係があるというのが新生会の伝統である。新島があるとき生徒に「新島さんと呼んでください」と言ったが、生徒は承知しなかった。〝先生〟と呼ばれる人はこのような人であろう。(翁)
  

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2013年07月11日

『福祉を廻る識者の声』61(日野原重明)

プライバシーと交わり            日野原重明
 全室個室のケアつき有料老人ホームの「新生会」の広報誌「新生」が贈られて来たので、これを読み、その特徴と活動状況を知る事が出来た。ここに入居の人だけでもなく、地域住民にも利用される新生会診療所のデイケアが始まり、また、在来の西洋医学を中心とする基本的な診療の他に、中国式鍼灸やリハビリテーションがデイケアと同時に行われるのを知り、非常にすばらしいことだと思った。
 私は、北欧やその他欧米の国々の福祉施設に比べ、日本のものは恐らく三〇年以上遅れていることに、約二〇年前の北欧やその他欧米の老人福祉施設を見学して気づくようになった。
 何と言っても、日本の大抵の老人施設には、入居する老人にプライバシーが与えられず、介護力も欧米の四分の一と低く、特別養護老人ホームでは、入居者の生活の質(QOL)は低く、多くの老人がおむつを当てられて寝たきりになっているのを見て、全く哀れに思ったのであった。
そこで今から、数年前から、日本にレベルの高い老人の総合施設を作る目的で、日本財団の多大の助成を得て、日本の三カ所に全室個室の老人施設を作った。まず富山県の庄川の「ケア・ポート庄川」、次いで島根県の吉田村に「ケア・ポート・吉田」を、そして三年前に長野県北佐久郡北御牧町に「ケア・ポートみまき」を完成した。新生の園も、全室個室と聞いて、本当によかったと思った。
日本には個室は反ってよくないという声を最初は聞いたが、夜間の睡眠や昼間の午睡以外は、ロビーなどに皆が出て交わりをするように訓練すれば、宗教的環境と相まって
理想的なモデル施設が作られると思っている。


 日野原重明(ひのはらしげあき)。一九一一年山口県生まれ。京都帝大医学部卒。財団法人聖路加国際病院理事長。主著書として『死をどう生きたか』(中央新書)、『老いを創める』(朝日新聞社)など、多数。(平成十年・秋号)


介護支援専門員               (平成十年・秋号)
月ぞ導(しるべ)こなたにいらせ旅の宿
仲秋の名月を見るたびに、この芭蕉の句を思い浮かべる。今年の夏は、梅雨明け宣言が延びて、八月になってもどんよりとした日が続いた。米どころ新潟では大雨で河川が破れ、低温、日照不足により収穫は例年を下回ること確実である。今年の仲秋の名月は、格別さやかに夜空にかかると楽しみにしていたが雲に隠れてしまった。
十月十一日、群馬県では介護支援専門員(ケアマネージャー)の試験が行われた。新生会からは、三十人を越える職員が受験した。介護を必要とする高齢者のケアプランを立てる人であるから、きわめて重要な役割である。
介護保険法が何となく足早に成立したために、俄仕込みのケアマネージャーの養成という感じがする。医師でも看護婦でも、資格の取得には多くの時間が費やされている。人相手の資格はなおさらである。(翁)
  

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2013年07月10日

『福祉を廻る識者の声』60(笠原浩一郎)

サバンナ礼讃                笠原浩一郎
もともとドリトル先生は獣医ではありませんでした。しかし先生は動物語が話せるために、近所のネコ肉屋に唆(そそのか)され、飼っているポリネシアという名のオームからも「ばかくさい人間相手の仕事などおよしなさい。是非、動物の面倒をみてください」と説得されて、大変人気の高い獣医になってしまいます。―しかし反面、唯一の肉親で、先生の身の回りの世話をしてくれていた妹のサラは、愛想をつかして家を出て行くし、人間の患者は一人も来なくなって、先生は大変貧乏になってしまいます。それからサルのチーチーの要請に従い、アフリカのサル王国へ疫病を治しに出掛けるのです。―これが、昔、愛読した童話、ロフティング作、井伏鱒二訳〝ドリトル先生物語〟の冒頭であります。この童話は、地球上の生きものにとって人間は極めて厄介な動物であり、他の動物とは異なり、人間は善悪の二群があり、動物と良い人間が協力して初めて、悪い人間を救うことが出来ると言っているように思います。悪い人間とは自然とその摂理を理解しない輩を指します。
昨年正月、故あってケニア、タンザニアを旅し、今年もまた南ア、ボツアナ、ジンバブエを訪れました。そこで見たものは、頂きに雪を置くキリマンジェロの雄姿やサバンナのバオバブの木陰に沈む真赤な夕日だけではありません。確かに時々ライオンやチータの狩の姿はありますが、バブーンもガゼルもインパラも縞馬もみんな悠々としいて、サバンナは爽やかで平和な風が吹き渡っており、何よりも調和が支配していました。
 今、私の医療は明らかに変わったと思っています。自らの老いを眼前に迎え、更に高齢化社会を支える一医療人として、ここに、神の摂理に従った医療を展開したいと思います。

 
笠原浩一郎(かさはらこういちろう)。一九三三年、栃木県生まれ。群馬大学医学部卒。元榛名荘病院院長。現在宏愛会第二リハビリテーション病院院長。         (平成十年・夏号)


介護保険法                 (平成十年・夏号)
 介護保険法が成立し、西暦二千年の施行に向け、県や市町村に〝介護保険対策準備室〟ができた。ケアマネージャーの試験も秋には、全国ほぼ一斉に行われる。六月九日には、省庁改革基本法が成立し、省庁は一府十二省となり、厚生省は、環境庁と労働省と一緒になり、環境省と労働福祉省の二つに別れることになる。二〇〇一年を目標としているので、介護保険法は、厚生省のもとでスタートすることになる。
 福祉の世界に保険が導入され、強制機構の再編成が行われたのは、何を意味するのか。前者の税から保険の移行は、国が口を出さない(規制緩和)、手を出さない(補助金、措置費)ことになるだろうし、後者の中央官庁のスリム化(?)は、権限を地方に委譲(地方分権)する方向に動くはずである。施設は、運営から経営という視点を持たざるを得なくなる。(翁)
  

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