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2013年10月31日

『白萩』(拙著)根岸の里の侘び住まいⅠ

 JR上野駅から赤羽方面に向かうひとつ手前の駅が鶯谷駅である。この駅から歩いて五分もかからない場所に根岸という地名がある。線路を隔てて上野の森が広がり、その一角にある東京国立博物館で奈良薬師寺の日光菩薩、月光菩薩といった、門外不出ともいうべき天平時代の国宝が展示されているというので、いつもの美術鑑賞会(?)の友人と出かけた。その寄り道に、この地を訪ねたのである。
 東京都台東区根岸二丁目に台東区が管理する書道博物館があるのを知ったのは、つい最近のことである。今年の四月の末、桜が散り観光客が少なくなった頃に合わせて、長野県伊那市高遠町に明治の教育者伊沢修二の足跡を訪ねた。その時、中村不折が高遠ゆかりの人だと知った。中村不折は、明治の彫刻家、荻原碌山と親交があり、碌山の墓標の文字を書いた人物であることは知っていた。留学先のパリで二人はロダンにも会っている。中村不折とはいかなる人物なのか、少し詳しく知りたくなって調べていたら、彼が住居にしていた場所が、書道博物館になっている。「薬師寺展」と一緒に見られると思い訪ねたのだが、書道博物館の道を挟んではすかいに子規庵の建物があった。こちらは、木造で、表札がなければ、どこにもある民家である。子規庵は、明治の俳人、歌人正岡子規が晩年過ごした家である。肺結核から、脊椎カリエスになった子規は、死ぬ数年間ほとんど寝たきりであった。
 
 友人を誘った手前、子規庵を見ようとは言い出せない。しかもメインは、薬師寺展なのだから、時間を割く余裕もない。玄関口に無料配布のチラシがあったのでそれを見て室内や庭を想像した。書道博物館を出たら、昼時間になっていて、十二時から一時までは休館と書いてある。いずれの機会かまた改めて訪ねてみようと思った。中村不折が尋ね人であったのが、子規庵の発見で正岡子規を主役にして書くことの心変わりを許していただきたい。しかし、中村不折は、子規と知己の間柄であり、これほど近くに住んでいたことから考えても親しい日常の付き合いがあったことであろう。
 タイトルを「根岸の里の侘び住まい」としたのは、勿論、正岡子規を意識している。「根岸の里の侘び住まい」に季語を着けると俳句になる。秋や冬の季語ならば、感じが出てくる。しかし、このような俳句を子規は〝月並み俳句〟として軽蔑した。子規の亡くなった明治三十五年には、既に鉄道が引かれ、根岸という場所が、鄙びた場所ではなかったと思うのだが、根岸という地名と侘しいという感情の連鎖は、俳句をかじった人間には習性のようになっている。
 
 正岡子規の本名は正岡常規(つねのり)という。四国松山に慶応三年に生まれた。徳川慶喜の大政奉還があった年である。父親の死が早かったために六歳で家督を継いだ。家というものが、明治の初期においても重きをなしていた。母親は、八重といって儒学者の娘で、晩年の子規の看病をし、長命であった。子規の家は、士族であり、貧しさはあったが、幼い時から学問のできる環境があった。松山中学から、第一高等学校の前身である、東京大学予備門に入学している。日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎連合艦隊司令長官の参謀として大勝利に導いた参謀の秋山真之は、同郷の友人であった。二人のことは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によく書かれている。
 子規は、東京帝国大学に進み、退学はしたが明治の秀才と言える。夏目漱石とも友人であった。漱石の俳句は子規の影響が強い。子規が、日清戦争の従軍記者として中国大陸に渡り、帰路の船中で大喀血をした後に、松山で中学校教員をしていた漱石と一カ月ほど過ごしたことがあった。別れる時の一句がある
 行く我にとどまる汝(なれ)に秋二つ
行く我とは子規のことであり、汝は漱石のことである。秋二つという下五句が二人の友情を感じさせて子規の中でも好きな句になっている。
 二五歳までは、長い学生(がくしょう)期であった。旅をする時間もあったが、深く思索し、書物も読んだ。子規が新聞社に入社し、社会に出てから死までは一〇年間に過ぎない。しかも、晩年の三年間は、ほぼ寝たきりの状態であった。二〇代前半には、既に結核を発病していた。作家の大江健三郎が子規は「走る人」だったと評論しているらしい。なるほどと思う。今日の短歌や俳句に与えた子規の影響は大きい。斉藤茂吉や高浜虚子などの功績も継承者としての働きもあるが、子規の「写生論」は、ホトトギス派においては、深く流れている。
 二〇代半ばで、私も俳句を作るようになったが、松野自得という人が創刊した「さいかち」という同人誌に所属した秋池百峰先生も、「写生」という方法論を良く話していた。俳句は卓上で想像して作るものではない。スケッチが必要だというのである。『病牀六尺』の中に
 「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造化の秘密が段々分って来るやうな気がする」
という文章がある。八月七日と記されているから、亡くなる一か月前のものである。
  

Posted by okina-ogi at 11:20Comments(0)旅行記

2013年10月30日

『楫取素彦読本』楫取素彦顕彰会編 300円(税込)


 


 10月26日(土)、群馬県立女子大学で「県令・楫取素彦」の公開シンポジウムが開催された。基調講演があり、講師は群馬県議会議員でもある中村紀雄氏であった。途中から入場したので、部分的な理解になってしまったが、シンポジストにもなり、楫取素彦の存在を見直すべきだという思いは良く伝わってきた。その会場で配布されたのが、この小冊子である。装丁も昔の教科書のようになっていて、内容も平易に書かれている。小学生、中学生を読者に想定した文章でもある。著者は、中村紀雄とは書いていないが、執筆者になっている。
 楫取素彦といっても、群馬県民のほとんどに知られていないと思う。私自身も、今年の3月、防府天満宮を当社の一木禰宜さんにゆっくり案内してもらわなければ、関心を向けることはなかったかもしれない。楫取素彦は、もともと山口県の人で、晩年も防府の地で過ごしている。吉田松陰の友人であり、松蔭の二人の妹を妻にしている。後妻は、久坂玄瑞の妻になった人である。華族制度により、男爵になった人物であるが、その生き方は、地位を求めた人生ではなかった。松蔭の思想は、純粋で過激であり、しかも若かったので明治維新という革命の起爆剤の役割を果たしたが、楫取素彦は、民政にあって、人権を重視し、平和主義者のように生きている。ただ、松蔭の思想も継承していることも事実である。「至誠にして動かざるは未だこれあらざるなり」。古いようで、今日人間に求められる教育の大事な要素であると思う。
  

Posted by okina-ogi at 08:59Comments(0)書評

2013年10月29日

『白萩』(拙著)信濃の国高遠

信濃の国高遠
 
 高遠は桜の名所で名高い。数年前に、五月の連休を利用して訪ねたこともあった。その時、既に桜は散って、葉桜になっていた。今回の高遠行きも桜を愛でるのが目的ではない。車での連休中の移動は、信州の新緑を求める人々により渋滞も予想されたので、あえて桜の散り終える時期を選び、四月最後の日曜日にした。この選択は正解であった。移動はスムーズで、しかも天候にも恵まれ、快適なドライブを楽しむこともできた。途中、佐久市を過ぎると桜が満開の里もあり、山桜を見ることもできた。信州の春は懐が深い。
 和田峠を過ぎると下諏訪に入る。諏訪大社下社がある。立ち寄ることはしないが諏訪湖の湖畔で道草をすることにする。天竜川へ流れ込む水門の近くに、琵琶湖周航の歌の作詞者の銅像が立っている。小口太郎という人である。加藤登紀子が歌ったりして、親しまれているが作詞者の名前はほとんど知られていない。小口太郎は、明治三〇年に、諏訪湖に近い村に生まれ、諏訪中学校から第三高等学校に進んだ秀才である。小口太郎は第三高等学校のボート部に入り琵琶湖に船を漕ぎだした。
 
 波のまにまに漂えば
 赤い泊り火なつかしみ
 行方定めぬ波枕
 今日は今津か長浜か     
(三番歌詞)
というように、夏の琵琶湖を周航し、いつしか第三高等学校の寮歌として歌い継がれてきた。詞も良いが、メロディーに情感がこもっている。しかし、曲は誰のものか長く知られることはなかった。作曲したのは、吉田千秋という新潟県出身の東京農業大学卒業生である。吉田は、二十四歳で結核で亡くなった。曲のタイトルは、「ひつじぐさ」で詞もつけられていたかもしれない。
 小口太郎は、東京帝国大学の理学部に進み、在学中に通信の分野での発明により、特許をとる快挙を果たすが、二十六歳で夭逝する。二人とも、若くして世を去ったことが、なおさらこの歌の哀調を助長する。湖畔の柳は青み、わずかに蘆は枯れ残っている。湖面は穏やかである。ここから、高遠までは一時間あまりだが、時間は正午に近い。
 
高遠行きを決めたのは、友人に長く音楽に関わってきた人がいて、高遠に行ってみたいと言っていたのを思い出したからである。心臓の難病のため、身障手帳を持ち、数年前に車の免許も返上しているので、高遠にはなかなか行くことができないというのである。確かに、高遠は山間にあり、群馬からはそれほど遠くとも言えないのだが、交通の便は良くはない。
 彼が、高遠に焦がれる理由は以前から聞かされて知っている。ある人物の生地だからである。その人の名は伊沢修二である。日本の教育に音楽を取り入れた、明治の文部官僚である。伊沢は、高遠藩の下級武士の家に生まれている。音楽や、教育に深い関心がないので、友人ほどには伊沢修二という人物には関心が向かなかったのだが、三月に、大分県の中津に行き、福沢諭吉の足跡を辿る機会もあって、明治維新の後に日本は、西洋文化をどのようにして取り入れていったのか、少し考えてみる気になっていた。
 伊沢の生まれた高遠は、伊那市のある伊那谷からかなり奥まった場所にある。諏訪湖からは、杖突峠を越えなければならないし、山梨の県境にも近いが、甲斐駒ケ岳が聳えている。このような場所に、江戸時代には、三万石あまりの小藩といえども戦国時代に城が築かれ、城下町を形成したことは不思議である。
諏訪氏の一族であった高遠氏が戦国時代の城主であったが、武田信玄により滅ぼされ、その子の勝頼が住むこともあった。武田氏が亡んだ後、徳川家康の所領となるが、三代将軍の家光の異母弟である保科正之が一時城主になったこともある。保科正之は会津に移り、幕末には内藤氏が藩主となっていた。江戸期の大名は皆譜代であった。内藤氏の江戸屋敷は、新宿にあり、新宿御苑はその屋敷跡だという。しかし、藩の財政は常に苦しかったようである。
 
 伊沢修二の家も二〇俵二人扶持で、しかも子沢山であったため家計は甚だ苦しかった。祖父の代に内藤氏に仕えたが、それ以前、祖先は、ほそぼそと暮らしていた。さかのぼると伊沢家は武田氏に仕える武士だった。伊沢(いさわ)の名は石和からきているらしい。山梨にある地名である。家は貧しかったが、父親は、学問が好きであり、母親もまた学者の娘であった。伊沢修二を世に出したのは学問への志による。
 信州はそばの産地である。高遠も例外ではない。〝高遠そば〟が名物になっている。大根おろしに焼き味噌を入れて食べる。飽食暖衣の時代、そばのような食べ物が見直されているが、いかにも主食としては心細い。江戸時代、三食とも白い米を食べられたのは、特別な階級の人であったろう。自分の体験でも、終戦から一〇数年経った、昭和三十年代の群馬の片田舎の夕食は、うどんが多かった。そばは、現在、健康食の王様のような食材になっているが、畑地の多い信州では、貧しさを補うための存在だったのかもしれない。鎖国の中にあって、江戸時代の経済の中心になった食べ物は、米であった。
 吉川弘文館から発行されている人物叢書の中に伊沢修二が紹介されている。著者は上沼八郎で昭和三十七年に初版が出されているが、伊沢の経歴を良くまとめている。その目次の第一は〝「貧士」の家風〟となっている。その中に、少年伊沢修二を良く伝えている一文があるが、それは、伊沢の自伝からの引用でもある。
「少年の伊沢を慰めるものといえば、春山の蕨採りや蕗引き、夏山の魚とり、秋山の茸狩りであり、そして冬の信濃では、炉辺で書物をひもとくことが無上の楽しみであった」
貧しいながらも、楽しみながら生きる術を持っていた。なにより、向学心に燃える少年であった。
 高遠城址に向かうそれほど広くない道に面して高遠藩の藩校ともいうべき、進徳館の建物が今も残っている。伊沢修二はここで学び、成績が優秀であったこともあり、寮長にもなっている。伊沢の俊才ぶりは藩内に広く知られるところとなり、明治初年に明治政府は、各藩から秀材を貢進生として召集し、高遠藩からは、伊沢一人が選ばれた。後に外務大臣になった小村寿太郎も日向の飫肥藩の貢進生であった。実務官僚の養成のためであったが、能力の差や勉学態度に問題があり、再編成することになったが、伊沢修二は、エリート養成コースから外れることはなかった。
 伊沢修二、二十三歳の時のことである。貢進生として学んでいた大学南校は廃止されたが、学制により文部省傘下の学校で学んでいた伊沢は、持前のリーダーシップと学力を評価され、幹事となっていた。今日でいう生徒会長のような立場であったが、身分は文部省の少壮官吏でもある。同僚の生徒が、九段坂付近で雪を投げたのを、警察官に咎められたのを理不尽だと反論し、警察も手落ちを認め、罰金を返上することになった。しかし、時の司法大輔であった江藤新平は、司法省の面子と権威の失墜にこだわり、強引に伊沢に罰金を払わせ、そのため文部省を辞し、非職の身となった。このエピソードから人柄が良く伝わってくる。
 負けず嫌い、不合理、不正など道理に合わないものに対しては、理を持って対抗する気概、不当な権力の干渉には引き下がらない気迫、潔癖で正義感が強い、几帳面であり誠実さもある。こう書いてみると信州人の典型的な人物のような気がしてくる。良き武士道の精神も父母の教育や、進徳館の教育も加わり伊沢修二という人物を創りあげていたのかもしれない。癇癪持ちだったが、涙もろい人でもあり、エネルギッシュな行動家でもあった。「野人的叛骨精神を持った開拓的教育家」と評す人もいて、スケールは信州人には収まらず明治人としての見本のような人物とも言える。
 余談だが、多くの人が長野県の人は頭が良いと思っている以上に、理屈っぽいと感じているのではないだろうか。対して、隣県の群馬県人は情にもろいと言われている。長野新幹線は、碓井峠を抜けると速度が遅くなるという話があった。もちろん、この話は嘘なのだが、新幹線の用地買収を進める時、長野県人を説得するのは容易でなかったらしく、時間がかかったことを暗に匂わせている。
 
 伊沢修二の功績は、高遠城址の近くに生家が保存され、庭に顕彰碑が建てられているので概観することができる。アメリカの師範学校に留学し、帰国後は、東京師範学校の実質的な責任者となる。東京師範学校は、戦後の学制改革で東京教育大学となり、多くの中等、高等学校の優秀な教育者を輩出した。次に手がけたのは、教育に音楽を取り入れる教育事業で、当時文部省には音楽取調掛という不思議な名前のセクションができた。伊沢より後輩になるが、岡倉天心も音楽取調掛に一時籍を置いたことがある。
小学唱歌を編集出版し、「蝶々」や「蛍の光」、「みわたせば(むすんでひらいて)」などが収録された。伊沢がアメリカ留学の時に世話になった、メ―ソンが来日して協力したことが大きかった。
伊沢は師範学校に留学した時に、西洋音階が上手く発音できず、メ―ソンの助力を得て、音楽の科目を何とか履修することができたのである。校長が、東洋人には無理だから免除しようというのを伊沢の元来の負けん気が、克服させたのだが、メ―ソンとの出会いを生んだ。また、伊沢の英語の発音は、正しいものでないことを留学中に知らされ、その矯正のために電話の発明で知られるベルと知遇を得ることもできた。ベルから教えられた発声の矯正法である視話法を取り入れ、楽石社を創設して吃音者の矯正に貢献した。そうした、社会事業家としての功績も忘れてはなるまい。明治二十年に東京音楽学校が創設されるが、伊沢修二も校長になっている。東京音楽学校は、岡倉天心が校長になった東京美術学校と一緒になり、戦後の学制改革で東京芸術大学になっている。伊沢が目指した音楽教育は、高度な芸術性を追求することよりも、知育、徳育、体育といった教育が本来目指すものに主眼が置かれていたのだが、芸術家の養成学校のような道に舵をとっていたことを嘆いたという。
伊沢修二についての功績は、日本の教育界に留まらなかった。日清戦争の勝利によって、台湾を割譲し、民族、文化の異なる地での教育に取り組んだのである。このあたりのことは、司馬遼太郎の『台湾紀行』にも書かれているのだが、伊沢が台湾に赴任したときの世情は不穏な状況で、新しい統治者になった日本に、反抗する勢力が多く、実際抗争も繰り返された。命の保証もないないところに、教育を普及しようとしたのは、やはり伊沢の開拓精神であろうか。多くの研究者が、伊沢の教育思想は、国家主義的であり、皇民教育だったと指摘するが、明治という時代背景を考慮しないと批判はできない。
大久保利通が明治の官僚国家の基礎をつくり、民権運動が弾圧され、議会の開設を急がなったのも、民意のレベルの上がるのを待つ必要があると考えていたからだとされている。大久保という政治家は、西郷隆盛とは政治の手法と日本の将来像の描き方が異なっていたが、私情で政治を行う人物ではなかった。黒船が鎖国の眠りを覚ましたというが、庶民はどれほどの危機感を持っていたかというと、日々生きることに意識が強かった。当時日本に訪れた外国人の指摘のなかにも、大衆の多くが政治に無関心であったという内容のものがある。伊沢は、国民の教育の水準を上げることに情熱を燃やしたのである。
伊沢の台湾での教育事業は、悲劇を生む。芝山巌(シザンガン)という台北郊外にある小高い丘に教場をつくり、現地の人々教育にあたるために派遣された六人の教師は、匪族によって惨殺された。明治二九年の元旦のことである。身の安全も顧みず、護身のための武器もほとんど持たずに、芝山巌を去ろうとしなかった「六士先生」の勇気を称え慰霊のための碑も建てられたが、戦後、蒋介石軍によって破壊、遺棄された。近年再度建立されたが、政治的に撤去されるという可能性もあるという。
今日台湾は、大陸の中華人民共和国との関係に揺れている。台湾には親日家も多いと聞く。果たして台湾での日本の教育は、押し付けで多くの人々の心を傷つけてきたのだろうか。司馬遼太郎が、老台北(ラオタイペイ)として取材した人には、現在の日本人にはない美質があると書かれていたような気がする。そして、老台北自身が、日本の統治下の時代を懐かしく思い出しているような記述もあった気がする。中華民国の総統であった李登輝は、戦前、京都帝国大学の農学部に学んだ人であるが、芭蕉の奥の細道をわざわざ訪ねるほど日本文化に関心を寄せている。李登輝総統のような人物が生まれたのも伊沢の台湾における教育の布石とは無関係ではないだろう。
伊沢の目指したものを実感するには、月日はあまりにも経っているが、台湾行ってみるのも無意味ではないと思えてきた。付け足しのようになるが、伊沢修二の弟には、伊沢多喜男という台湾総督になった人物がいる。知事や東京市長も歴任した政治家であるから、兄よりも功をなり遂げたとも言えなくもないが、兄の気骨には頭が上がらなかった。多喜男の次男は、劇作家の飯沢匡で、東京にある、いわさきちひろ記念館の初代館長になった。飯沢匡も既に鬼籍に入っている。
日帰りの高遠訪問も伊沢修二という人物に偏った取材旅行のようになってしまったが、高遠ゆかりの人物は多い。ただ、自分の関心が向かない人や出来事は、見えてこない。人は見たいものしか見えないというシーザーの言のとおりである。花のない高遠城址を散策していたら、中村不折の像がない。信州高遠美術館に移設されているという立て看板があった。森鴎外や、荻原守衛の墓石に書かれた文字が中村不折のものであり、書道家としての意識が強かったが、城址下の信州高遠美術館には、見事な油絵があった。中国の故事を題材にしているのだが、中村不折には筆を改めたいと思っている。貧しさという点では伊沢修二に劣らない苦労人であったらしい。ほとんど独学の時代もあったが、向学心では、伊沢修二にひけをとらない。伊沢ほどの、国家事業に対する気概はないが、時の総理大臣伊藤博文の依頼をもっともな理由で断ったという話があって、そのことだけでも中村不折についてはいつか調べてみたいと思った。
  

Posted by okina-ogi at 17:42Comments(0)旅行記

2013年10月28日

猫騒動


 
 ここ10日程前、家の庭に見知らぬ若い猫が現れた。全身黒毛(真っ黒というほどではない)の猫で、胴が長くイタチのような体型をしている。油断をすると、家の中に入ってきて、餌を捜している。うっかり、食卓に魚の食べ残した皿を置いてあると、ずうずうしく食べている。何度も追い出すが、テラスに来て鳴いて餌を要求してくる。心を鬼にして、餌をやらずにおいたが、台風の日の後も再登場した。家には既に、先住者(老いた雌猫)がいる。二匹は飼えないので、娘が保健所に連れて行った。事情を話し、飼い主を捜してもらえるように、餌と一緒に預けてきた。ところが、5時間程経った夕方に、家の庭にその猫が現れた。保健所は、家から10キロ以上も離れている。猫がひとりで帰ってきたとは思えない。動物の窓口になっている保健所の部署は、動物愛護センターというらしいが、飼い主でもない届け出人に連絡なしで戻すなんてことはないだろうと思うが、いまだに猫は庭先で鳴いていて、何の解決にもなっていない。
 我が家は、これまで何度となく猫を飼ってきた。皆捨て猫である。今家にいる猫は、暮れの雪降る中に現れた猫である。だからというわけではないが、名前を「クレ」という。
 家が、梅園の中にあり、塀や垣根もないので、動物たちが寄りつきやすいのかも知れないが、野良猫にならないように、飼い主は責任をもたないといけない。雌猫なので、長く居座るようであれば、避妊手術(補助金がでるそうな)をしておかなければと思っている。殺処分にするわけにもいかない。
  

Posted by okina-ogi at 12:20Comments(0)日常・雑感

2013年10月25日

『白萩』(拙著)羇旅

羇旅
 俳人松尾芭蕉は、奥州多賀城祉に立っている古碑を訪ねて
「行脚の一徳、存命の悦び、羇旅の労れをわすれて、泪も落るばかり也」
と『奥の細道』に書き記している。
 はるばる訪ねてきて良かった。生きていて良かったと落涙するばかりに、表現はやや誇張されているが、感激を伝えている。羇旅という漢語を使っているが、「旅」の意味である。芭蕉は、漢文にも素養があり、漢詩からの引用も多い。
 
 芭蕉が訪ねた古碑は、「壺の碑(つぼのいしぶみ)」と呼ばれ、東北地方の歌枕として、多くの歌人に詠まれてきた。
 西行の『山家集』には
むつのくの おくゆかしくそおもほゆる つほのいしふみそとのはまかせ
の歌がある。
多賀城碑(壺の碑)は、日本三大古碑の一つであり、西暦七二四年(神亀元年)の年が刻まれている。この年は、聖武天皇即位の年であり、大和政権がこの地に多賀城という北の拠点を築いたとされている。政庁の跡もあり、周囲に柵が築かれことから、軍政一体となった陸奥国の国府として整備されたと考えられる。
 多賀城周辺には、歌枕が多い。百人一首にも収録されている
ちぎりきな かたみにそでをしぼりつつ すゑのまつ山なみこさじとは
の「末の松山」、他には奇石が連なる池で知られる「沖の井(沖の石)」、「野田の玉川」、「おもわくの橋」などがある。万葉歌人で知られる、大伴家持は、この地に赴任し、数年後に没している。家持をはじめとする都から赴任した人々の歌に触発され、平安貴族の観念的な歌を生んだ。観念的といったのは、実際に歌枕の地を訪ねたわけではなかったからである。西行や芭蕉のすごいところは「行脚」したことである。そして時間を超えて往時を偲ぶ心を持っていたことである。芭蕉が落涙する心境になったとて不思議ではない。
 個人的には、仙台市周辺には何度となく足を運んでいたが、多賀城というはるか昔の史跡を訪ねるほどの動機が生まれてこなかった。友人に歌人や俳人がいれば、松島観光のついでに立ち寄ってみようということになったかもしれないが、ついぞその機会はなかった。
 古代史を研究する友人がいて、『古代東国の王者』という大著を出版した。出版パーティーがあって、その席で署名入りの本をいただいたのだが、その内容は、専門書の難解さがあるが、多賀城碑を訪ねる強い引き金になった。三大古碑の一つは群馬県にある「多胡碑」である。もうひとつは栃木県にある。栃木、群馬、埼玉といった関東の内陸地は、地味豊かであったのか、有力な豪族が住んでいたらしい。その証拠に、巨大古墳が散在している。埼玉古墳群の稲荷山古墳からは、文字の刻まれた鉄剣が発見され、古事記や日本書紀に記述されている雄略天皇と関連する内容が読み取れるというので一時話題になった。栃木は、下毛(しもつけ)、群馬は、上毛(かみつけ)と古くは呼ばれた。毛は、豊という意味らしい。
 この一帯の豪族は、大和朝廷の臣下となり、東北地方に住む蝦夷という人々を中央政権に組み入れるために派遣されたという。多賀城碑に刻まれている鎮守府将軍大野朝臣東人は、東国の豪族の一人であったろうと友人の著書は推測している。征服者の先鋒が、関東人であるというのは後ろめたいところがあるが、多賀城碑が身近に感じられてきたのは事実である。
 
 友人、知己は全国各地にいて、年賀状などのやり取りなどをしているが、仕事を持つ身としては、なかなか会う機会には恵まれない。会うためには、時機ということもある。二年に一度くらいの周期で旅日記を書いて、友人に送っているのだが、なかには丁寧な返信をくださる方がいる。今回、多賀城跡行きが実現したのは、札幌に住むI氏からの手紙のためである。I氏の友人が仙台に数年前に定住(?)した。この人は、私の友人でもある。十回以上も住所を変えた前歴がある。大学を卒業後、宮城県側の蔵王の山麓で牛を飼っていたことがある。周遊魚のように戻ってきたとも言えなくはない。定年は二人とも過ぎているのだが、精力的に社会参加をして今も多忙な日々を送っている。I氏は、講演で忙しい。二か月前にI氏の日程に合わせ、「周遊魚氏」と仙台で会うことにした。仙台は、札幌と群馬の中間にあたる。I氏は、温泉に二泊すること以外に希望はないという。「周遊魚氏」が車の運転で移動するというので多賀城跡をリクエストしたのである。I氏とは二十数年ぶり、「周遊魚氏」とは三年ぶりの再会になる。
 五十を過ぎて、意識して旅をするようになった。子供も成人し、親の務めも半ば果たしたということもある。仕事を離れたわけではないので、休みを計画的にとることになる。長期の休みはとれないので、自ずから国内の旅になる。息抜きであったり、仕事の疲れを癒すための目的ではない。そのことは、初めての旅日記『春の雲』の後記に書いた。歴史が好きであったこともあり、そのゆかりの地を訪ねることは、楽しみになった。旅の前後、関係する書物を読むことにもなり、結構精神的な重圧も感じたが、いつしか習慣化すれば、苦にもならなくなる。何よりも現地のいろいろな事柄に遭遇し、新鮮な感動が生まれることが何よりも楽しみとなった。「月日は百代の過客にして行きこう年もまた旅人なり」なのだから、悠久な時間を意識すれば、一人旅も寂しいということにはならない。
 幾山河 越えさりゆかば寂しさの はてなむ国ぞ今日も旅ゆく
の若山牧水から、旅は孤独なイメージがあったが、彼の紀行集『みなかみ紀行』を読むと異なる感想を述べたくなる。信州や上州の山深い温泉宿を歩いて訪ね、酒を飲むのを楽しみにしていたことがわかるが、友人、知人と一緒に酒を汲み交わしている。計画的でしかも友人との再会の口実が牧水の旅でもあった。そして、紀行文として出版し、生活の糧にもなっていた。何よりも旅先で詠む短歌が多くの大正人を魅了した。
 牧水は、晩年海に近い静岡沼津の海岸近くに居を構えている。千本松原という長い年月人々に守られてきた松林が伐採される計画が浮上したことがあった。真先に反対運動を起こしたのが牧水だったのである。地球温暖化が世界の共通認識になりつつある現代よりも遥か以前の時代に環境保護を訴えたわけである。牧水が自然保護の運動家とは思えないが、緑深い山河を愛していたことは、『みなかみ紀行』を読めばよくわかる。「みなかみ」は、温泉地の「水上」ではなく、水源地の「みなかみ」である。そこには、きれいな水と木々があり、春は緑が芽吹き、夏は深緑が涼しい影を落とし、秋には紅葉して美しい。冬木立もまた良い。四季さまざまな鳥の声も聞こえる。牧水が多くの鳥を知っていることに驚かされた。
 啄木鳥の声のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける声のさびしさ
 紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の声のさびしさ
草津からさらに源流に近い花敷温泉に行く途中の短歌だが、さびしい、さびしいと言っている。同行者もあり、牧水が啄木鳥の鳴き声をさびしいというのは、読者を意識しているように思えてならない。いわば常套句に近い。この時代の大衆は、さびしさに対する共感があったように思えてならない。
 牧水には、「枯野の旅」という詩がある。その中に
上野(かみつけ)の草津の湯より
沢渡(さわたり)の湯に越ゆる路
名も寂し暮坂(くれさか)峠
という一節があるが、ここにもさびしさが詠われている。牧水のおかげで暮坂峠は有名になった。それこそ、牧水が詩にしなければ、何もないさびしい峠である。
 
 久し振りの再会を果たした三人の旅に戻る。多賀城から松島の海岸を走り、瑞巌寺に参拝して志津川に一泊の宿をとる。「周遊魚氏」の配慮で、一泊は海の宿、二泊目は山の宿となった。途中に立ち寄る観光地は、特になかったが、I氏が、鶴岡に会いたい人がいるというので二日目は、東北の背骨ともいうべき山々を越えていくことになった。古川から鳴子温泉を抜けて、庄内平野に行く大移動となった。夕方には、宿に予定している赤湯温泉までたどりつかなければならない。鳴子を抜けると、尿前の関という標識が見えてきた。しばらくすると藁ぶきの大きい民家が道脇に見えた。運転する友人に急ぎ車を止めてもらう。民家は、「封人の家」と言われ、芭蕉と曽良が泊まった宿である。気がつけば、我々は、芭蕉と同じコースをたどっていたのである。ここで、悪天候に数日過ごし、芭蕉一行は最上川を下って酒田に出たのである。この宿で
 蚤虱 馬が尿する枕もと
という句が生まれたのだが、せっかく宿屋でもないのに宿を提供してくれた主の親切心に礼を失するような句を芭蕉はあえて『奥の細道』に載せたのだろうか。玄関近くに厩があり、木造の馬がいた。しかし、客間は、ずっと奥にあって畳も敷いてある。枕もとの近くで馬が小便をしたというのは少し大袈裟である。「封人の家」を見なければ、廃屋に近い家に雨露を凌いだような状況を句から想像する。ただ、厩が母屋にあるということからすれば、それなりの家になる。
紀行文に俳句を挿入するというのは、芭蕉の趣向だが、本来俳句は説明をできるだけ省くものだと思っている。紀行文の中の俳句は理解されやすいと同時に、参考書を見せられて解答する学生のようなもので、句の鑑賞能力は身につかないかもしれない。俳句は、五七五という短い文字の中に、詩韻を込めなければならないのだから、気持ちを抑制しなければならない。牧水が繰り返し、繰り返し「さびしい」という言葉を使う短歌とは違う。だからこそ、鑑賞する者は想像を豊かにしなければならない。ただ、写真でも、構図とピントが合っていなければいけないように、俳句にもこの原則は通じる。句を説明してはいけないが、スケッチはしっかりしておかなければいけない。
 芭蕉は、旅先で多くのゆかりの人々に会っている。俳句を通してのネットワークができていたのである。I氏は、シーズネットというNP0(非営利特定法人)の理事長をしている。会員は、全国に一〇〇〇人近くいるという。シーズは種の意味だという。高齢者が集い、有意義な老後を過ごすためのサークルにしたいと考えている。I氏と芭蕉が重なってきた。I氏が、旅先で、一か所だけ強く希望した観光地があった。山寺である。数年前の元日の雪の日に訪ねたことがあったが、奥の院までは辿りつけなかった。旅の最終日は、山形でも三〇度を超える暑い日であった。三人して登ったのだが、I氏はひと一倍汗をかいている。良い汗をかいたと満足していた。I氏は昔から人のために汗をかく人だった。芭蕉もそうであったのであろう。I氏のおかげで、芭蕉の足跡を自然と訪ねることができた。旅というものは、人とのご縁を意識するものである。
 
 地元の人になった「周遊魚氏」はおかしな命名をされて、気分を害しているかもしれない。企画、運転をしてくれたのはこの人なのである。一番に感謝しているのは、あなたですとはあえて言わなくても伝わっている。時間と空間を越えて縁を感じる人々に会うのが旅なのであろう。
最後に訪ねた山寺は俗称で、正式の名称は、立石寺である。開基したのは慈覚大師だと言われている。瑞巌寺、中尊寺も慈覚大師の創建だという。東北地方に仏教を広めた天台三代座首である慈覚大師(円仁)も旅の人と言えるかもしれない。
 追記
 「真情」誌を編集されていている、赤間神宮の神官でいられる青田さんから、巻頭言の依頼の電話があったのは、仙台に旅立つ前日の夜だった。原稿の締め切りもそれほど長くはない。
 「むつかしいことは書けませんがそれで良ければ」
ということでお受けした。急ぎ、紀行文として書き終えた時に、大変お世話していただいた方の訃報を受けた。岡潔先生の次女松原さおりさんのご主人の松原勝昭先生が、青田さんが原稿依頼した日に亡くなられたというのである。既に、旅に出て四日が過ぎていた。葬儀も昨日執り行われたとのことであった。早速、さおりさんに電話を入れた。淡々と闘病生活を悲しみも深い中で語られるさおりさんに不義理を詫びたが、あらためてご冥福を祈るばかりである。
 松原先生は、自宅を春雨忌(岡先生を偲ぶ人の集い)に提供される時、食事や風呂の世話などしていただいた。自分の畑で生産した梅をお送りすると、実に上手く漬けられた。紫蘇漬のきれいな梅を差し出され
 「これ荻原さんからいただいた梅です」
とおっしゃった場面が最後の記憶になっている。その色と、みずみずしく濡れた柔らかそうなパックに入った梅がはっきりと浮かんでくる。
 あの時、遠慮したのか
「いただいてもよろしいでしょうか」
と言わなかったことが、後悔の念になって
「あの時、いただいておけば良かったですね」
とさおりさんに電話口で言ったら逆に気にしないでよろしいとなぐさめられた。
 松原先生は、ご自分のことはあまり語られなかったが、地質の関係のお仕事をされていた。若山牧水とは違う目的で山深い、渓谷にも立ち入ったことがあるらしい。どこの山だか思い出せないが、群馬県にも来られたことも話された記憶が残っている。ご遺族の思い出の他に、山河の風景が病床にあって先生の脳裏をよぎったのではないかと想像した。一方的にお世話していただくばかりで、最後も弔問に駆け付けられず、申し訳ありませんでした。「真情」のこの場をおかりしてお詫び申し上げます。
  

Posted by okina-ogi at 18:27Comments(0)旅行記

2013年10月25日

岩見太市さんのご冥福を祈ります

 古くからの友人の一人、北海道の岩見太市さんが10月4日、肝臓癌のため逝去された。以前、氏のブログで何回かやりとりしたことがあるが、4月29日以降ブログに寄稿がなく、容態を心配していた。長く癌と戦いながら、その治療の様子を綴り、前向きに本人が組織化したNPO法人「シーズネット」の活動に取り組んでおられる様子を、遠方ながら気にとめていた。
岩見太市さんの死去は、10月25日(金)に友人から聞かされ、インターネットで確認した。葬儀は、10月8日に行われたという記事になっている。笑顔の遺影が印象的である。岩見さんとのお付き合いは、28年前になる。姉妹施設の病院に勤務し、法人の広報誌の編集で御一緒したことから始まる。岩見さんが、病院を退職され、北海道に渡ったので、広報誌の編集を引き継いだ。
その後、年賀状のやりとりがあり、共通の友人と東北を旅したことがあった。今、自分のブログに紀行を掲載しており、拙著『白萩』にその旅の模様を書いている。その紀行文を紹介しつつ、岩見太市さんを偲ぶことにした。I氏が岩見太市さんである。
  

Posted by okina-ogi at 18:21Comments(0)日常・雑感

2013年10月25日

『白萩』(拙著)国内事情Ⅱ



 

 幕末から明治にかけて、中津藩の下級武士から、西洋文化の啓蒙思想家となったのが福沢諭吉である。毎日使われる一万円札が福沢諭吉だから多くの人が知っている。ただどのような人物だったかは、意外と知られてはいないのではないだろうか。昨年、大阪御堂筋近くにある適塾の建物を見学してから、機会があれば中津を訪ねて見ようと思っていた。こんなに早く実現するとは思ってもみなかったが、平成二十年三月一日が数学者岡潔先生の没三十年にあたっていて、下関の赤間神宮で記念祭が行われる日程に合わせたのである。
 福沢諭吉の旧居は、中津駅から歩いてもそれほど遠くない。旧居の横には、立派な記念館がある。駐車場も広く売店もある。観光バスも止められる広さであるが、土曜日の午後であったがそれほどの訪問者はいなかった。案内の看板を見たら、増田宗太郎の名前があった。西南戦争に加わった、増田宗太郎は、福沢諭吉の母方の親戚に生まれている。家も近かった。福沢よりも年下で、少年時代の宋太郎を可愛がっていたが、福沢が西洋かぶれしている人物だと思って暗殺しようとしたことがあったらしい。
 福沢諭吉が生まれたのは、一八三五年であるが、中津に生まれたのではない。父親が大阪に赴任していたのでそこで生まれた。父親の死は早く、母親の手で育てられたので家は貧しかった。幼い頃は、向学心もなかったが、次第に学問の面白さを覚えていく。学力もあったので、緒方洪庵の適塾では塾頭になる。福沢は、血を見るのが極端に嫌いで、医学者になろうとは考えなかった。福沢が関心を寄せるのは、蘭学から薄らと見える西洋文化である。
 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という有名な言葉がある。しかし、それは、福沢の言葉ではない。と言えりと続いているのである。西洋に生まれた平等思想を紹介したのであるが、「門閥制度は、親の敵でござる」というのもある。こちらは、福沢の身から生まれた言葉である。福沢は、能力や身分が固定される、階級社会である封建制度を酷く憎んだ。そこから「独立自尊」が生涯のテーマになった。確かに、中津藩や幕府に仕えたが、明治になっては、政界とは距離を置いている。言論界、教育界にあっては、著述によって明治の国家に大きな影響を与えている。明治の初期に生まれ、その中でも、最も古い私学の一つである慶応義塾からは、多くの人材を政府に送り、財界にも有能な実業家を出した。北里柴三郎を支援することによって医学界にも貢献している。『西洋事情』や『学問のすすめ』は、明治の人にとっては新鮮で、ベストセラーになった。今日でも岩波文庫として出版されていて、手に取る人も少なくはない。
 『福翁自伝』も岩波文庫にあるが、福沢諭吉が晩年口述筆記させたものを自ら校正して出版したものである。この本を見ると、彼の人なりが見えてくる。有名なエピソードの多くは、この本から伝えられているのだが、蘭学を学んでいた福沢が、横浜に出かけたら看板の横文字が読めなかった。それは、英語だった。それからは、英語を必死に勉強したという切り替えの早さは、英語が国際語になると見越した先見性とでもいう話である。咸臨丸で、アメリカに渡ることができたのは、木村摂津守の従僕になれたからであるが、家臣の中に船で海を渡る勇気のある人がいなかった幸運もあったが、何よりも英語を学んだことが大きかった。その後、ヨーロッパにも行くのだが、このときは幕府の随員となって、四百両の支度金をもらった。そのうちの百両を郷里にいた母親に送金している。現代のお金に換算すると、一千万円の大金である。残りのお金は、ほとんど書籍を購入するのに使っている。そして、その書籍や見聞したことが、財産となって西洋文化の啓蒙書が世に出されるのである。
 福沢諭吉は酒豪であったらしい。しかし、お金がない時代は我慢した。借金することの嫌いな人で、金がないときは使わないという主義だった。ある時、自分の寿命のことを考えて禁酒しようとしたが、喫煙することを勧められ、生涯の愛煙家になってしまったと正直に告白しているところなどは面白い。
 勝海舟とは、犬猿の仲であったようである。『氷川清話』では、慶応義塾の拡張のために資金の工面を相談に来た福沢を追い返した話があったような気がするし、『福翁自伝』には、咸臨丸の艦長であった海舟が、船酔いで部屋に閉じ籠もっているばかりだったと書いている。一方の福沢は一人船酔いの介抱にあたり、飯炊きまでしたとその獅子奮迅の働きを誇らしく述べている。晩年の口述だから、誇張もあるのだが、海舟の江戸っ子のべランメ調の大風呂敷とでもいうべき性格に似たものを感じる。『瘦我慢の説』の中で、福沢諭吉は、勝海舟の節操のなさを、痛烈に批判している。西郷隆盛と会談し、江戸城の無血開城を果たし、江戸の町を戦火から救ったのは、勝の功績と多くの歴史家は見ているが、戦う前から負けを宣言することもなかろうと、批判している。それにも増して、福沢が許せなかったのは、幕臣として軍艦奉行や、陸軍奉行までなった身分の者が、徳川家の恩を忘れ、明治政府の高官になって、枢密院の顧問になり、勲章と伯爵を受けたことである。勝にも言い分はあったが
「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張。我に与らず我に関せず」
と、むきになって反論しなかった。行蔵は出処進退の意味であるが、批評家の福沢に何がわかるか、勝手に批判しろといったところだが、勝海舟の方に軍配を上げてもよいような気がする。福田康夫総理大臣の座右の言葉だというが、政治家は、他人の批判を気にしていたら勤まらない職業なのであろう。
 福沢は、四男五女に恵まれ幸福な家庭を築いた。記念館で見た娘たちは、皆容姿端麗で、それなりに恵まれた人生を送ったようである。妻に対しても亭主関白という風でなく、女性の権利も認めるところがあった。「西洋事情」を見てきているからであろう。
 福沢諭吉は、著述、言論、教育の中で、功なり名を遂げた人物である。しかし、国家権力からは、距離を置き、言論人として常に在野の人であった。勲章などは一切拒否した。多くの各界の有力者との交流とその人脈も利用して社会的地位を築いたが、徒党を組むことをしなかった。見事、信念であった「自立自尊」の人生を生きた人物であるが、緒方洪庵と木村摂津守に対しては生涯恩を感じていた。実に、明治にあって、個性的な生き方をした人物ではある。
 
 赤間神宮での祭事と直会に出席し、博多駅前のホテルに泊まる。翌日、友人と太宰府天満宮を参拝する。この日は「曲水の宴」が開催されていた。平安時代を偲ぶことのできる春の年中行事である。梅の花が咲いている。人だかりができていて、琴の音色が流れてくるだけで、雅な衣装を着た平安貴族の姿は見ることができなかった。そのかわりというわけではないが、数年前に完成した九州国立博物館を見学できた。
 太宰府天満宮に近い山の上に建設され、エスカレーターの設置された近代的な通路が山の斜面に整備され、参拝からそのまま博物館見学ができるようになっている。展示物は豊富であるが、以前、志賀島に行った折に、金印の事が気になっていたが、レプリカだったが、金印を見ることができた。博多湾の北、玄界灘で獲れる魚で、アラと呼ばれる魚が美味いという。九州場所でお相撲さんが買い占めてしまうというのは、少し話が飛躍していると思うが、秋から冬の季節に食べる魚である。フグよりも高価だというが、一度は食べてみたいと思っていた。予約なしで、食べられたのは幸運であった。鮑の蒸したものも付けて、和食の醍醐味を久しぶりに味わえた。福岡在住の友人さえも、めったに食することはないという。刺身、煮物、味噌汁にしていただいたいが、大満足。友人などは、身が残らないように煮魚のアラを食べている。
 「こういうのをアラ(荒)捜しというんでしょうね」
というと、駄洒落が通じたようで笑っている。イタリア料理の食感も残っていたので、口直しになったかもしれない。「国内事情」で日本を見つめ直した次第である。
  

Posted by okina-ogi at 09:10Comments(0)旅行記

2013年10月24日

『白萩』(拙著)国内事情Ⅰ

国内事情
 イタリア旅行の余韻が残る、三月一日、日本航空で九州へ飛ぶ。宿泊施設と航空券がパックになっていて、通常航空料金はもちろん、ちょっとした割引航空券よりも安いと思っている。思っているというのは、友人頼みで細かく調べたことはないからなのだが、十分満足している。
 ところが、今回は大変なミスをした。航空券を見たら、席が決まっているので搭乗手続きをしないで手荷物検査の列に並んでしまった。係員から指摘されて、搭乗手続きをしようとしたが機械が受け付けない。しかたないので、カウンターの係員に頼んでみたが、予定の飛行機には乗れないという。せっかく朝早い便を予約したのだが、次の飛行機は、午後一時過ぎになるという。新北九州空港ができたというので、初めて降りてみる好奇心もあったし、目的地が大分県と下関市だったので、地理的に近かったこともあるので、どうしようかと思っていたら
 「福岡空港でよければ、八時三〇分の便がありますが、聞いてみましょう」
と言って問い合わせてくれた。結果は、搭乗できるということであったが、非常口の前で、足も延ばせる場所になった。怪我の功名ということもある。一度あることは、二度あるというが、帰りの福岡空港も、久し振りの友人との再会で話がはずみ、搭乗手続きの時間に間に合わなかった。しかし、幸運にも飛行機が遅れ、予定の飛行機に乗ることができた。機内のアナウンスは、離陸が遅れたことを乗客に詫びていたが、乗り遅れそうになった本人は、感謝の気持ちでいっぱいであった。途中走ったので、胸の動悸がおさまらなかったが、仏の顔も三度までというから、次からは、空港には余裕を持って着くようにしなければと思った。お任せばかりの海外ツアーにすっかり慣れて、一人旅の緊張感がなくなっていた。人頼りはよろしくない。
 
 博多駅から特急に乗って、大分に向かう。目的地は宇佐である。宇佐には、全国四万四千社といわれる八幡宮の総本社とされる宇佐神宮がある。八幡宮は、日本で最も多い神社である。源氏の守護神が八幡大神だというほどの知識しかないが、九州にある古い神社である宇佐神宮は、一度は見ておこうと思っていた。JRの宇佐駅は、鄙の駅のようである。バスを利用したら、次の予定地が見られないと思ったのでタクシーで行くことにした。宇佐神宮には、十〇分ほどで着いた。鳥居をくぐり、橋を渡ると本殿まではかなりの距離がある。敷地は広大である。
 主祭神は、応神天皇(一の御殿)、比売大神(二の御殿)、神功皇后(三の御殿)である。本殿は国宝である。近くに、楠の大木があった。社殿は鮮やかな朱色で、青く澄み渡った空の色と対照をなして実に美しかった。社殿に向かって深々と頭を下げる。拍手の音も良く響いた。神道の単純な礼の形ではあるが、心が静まるのを覚える。イタリアで大聖堂を見て、神社を訪ねてみたら、すっかり故郷に帰ってきた気分になった。人工的な空間よりも、神社のような自然に抱かれ調和した空間に心が癒される。西洋の文化を否定するわけではない。日本民族の固有の文化もまた良い。若い巫女さんが目に入ったので御守りを記念に買うことにした。
 この日は晴れていたが、風の強い日であった。次の目的地に行くための列車の時刻が迫っている。一台空車のタクシーが止まっていた。運転手に話しかける。
「この近くに、戦争中、航空基地があったと思うのですが、どのあたりでしょうか」
小学生の記憶でもしっかりと憶えていた。
「私の家は航空基地のすぐ脇にあって、基地に爆弾が落ちたことも憶えています。多くの兵隊さんが、特攻隊員として訓練した基地だったようですね。ここからは、少し距離がありますが、今はその面影は残っていませんが、掩体壕という飛行機を格納避難させる戦跡が残っています」
 阿川弘之の『雲の墓標』を読んだこともあり、特攻隊として死地につく無念の人生の意味を考えながら、この地で過ごした若者たちのことを思い浮かべた。
 
 宇佐から、中津に向かう。途中右手に双葉山神社が見えた。六十九連勝の記録を持つ大横綱双葉山の出身地が大分だったことを知った。中津は、城下町であったが、城を見るのが目的ではない。豊臣秀吉の名参謀であった黒田官兵衛が築いた中津城は、扇城という別名があり、昭和になって旧藩主であった奥平氏の子孫が天守閣を建築した。堀には海水が引き込まれた水城である。
  

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2013年10月23日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅶ

シーザーの寛容
 

 イタリア紀行は、書き終えたつもりでいる。しかし、どこか書き足りないという気分が残っている。また、〝締め〟ができていないという気もしてきた。ユリウス・カエサル、ジュリアス・シーザーのことについて考えていたからである。紀行の中でも、シーザーには触れたのだが、イタリア旅行中、とりわけローマ滞在中、シーザーという人物をどう理解したらよいかと思い悩んでいた。
 「ここを渡れば、この世の悲惨。渡らなければ我が身の破滅。進もう!我々を侮辱した敵の待つところへ!賽は投げられた」
ガリアから、ローマの元老院の「最終勧告」による召還命令により本国へ戻ることは、シーザーにとって政治的失脚と死を意味していた。愛するローマに反旗を翻し、ルビコン川を渡ったのは、果たしてシーザーの野心のためであったのか。野心の有無などは、問題にすべきではないかもしれない。彼は、政治家だからである。ポンペイウス、クラッススと三頭政治により、ローマの有力政治家になったのも、シーザーのしたたかな政治家としての深謀による。オリエントでの戦いにクラッススが戦死してから、三頭政治は、バランスを崩し、シーザーを警戒する元老院がポンペイウスを引き入れ、シーザーに対立させるに至ったのである。
 ここから、内戦が始まる。『内乱記』などにより、最終的にはシーザーが勝利を得たことを後世に生きる我々は知っている。ポンペイウスと雌雄を決したファルサルスの戦いや、反カエサル派を北アフリカで駆逐したタプソスの戦いなどは、塩野七生が『ローマ人の物語』でわかりやすく解説している。この内戦の期間や、暗殺されるまでの政策にまつわるいくつかのエピソードや、言葉の中にシーザーの人物像が浮かび上がってくる。
 
 共和制に拘る元老院の長老的存在であったキケロは、内戦の間、静観する立場を装い続け、いつシーザーから糾弾され死に追いやられるかと脅えていた。シーザーは、自分に「最終勧告」により、窮地に陥れようとした先鋒がキケロであったことを知っていた。シーザーは、内戦の終結がはっきりした頃、自らキケロに会う。恐れるようにして出迎えたキケロを、シーザーは馬から降りて大衆の前を肩を組むようにして一緒に歩く。そして、よい考えがあったら忠告してほしいとも言った。教養人としてのキケロの資質や、ローマを思う心情をシーザーは認めていたのである。シーザーの次の言葉は、シーザーだから言える。
「何ものにもまして、わたしが自分自身に課しているのは、自らの考えに忠実に生きることである。だから、他の人々も、そうあって当然と思っている」
キケロは、タプソスの戦いで敗れた小カトーが、シーザーの軍門に下ることを自分の信念から潔いとせず自死したことを書物に著し賞賛した。その時にシーザーがとった行動は、発禁処分ではなく、反論を書くことであった。中国、宋の太祖趙匡胤が
「行政官を、言論を理由として殺してはならない」
という石刻遺訓にも重なる。
 
 シーザーがまだ若かった頃、スッラが独裁的な権力を握ったときに行ったのは、粛清であった。こうしたタイプの権力者は多い。ソビエト共産党のスターリンなどは、その典型であろう。都合の悪い奴は消せということである。シーザーはそれをしなかった。その理由を、大作『ローマ人の物語』で塩野七生は、シーザーの精神的優位によるとしていた。つまり、劣等感があれば、敵対する者を憎み、恐れるのだと。シーザーの寛容の本源はこのあたりにあるのだろう。塩野七生が、一五年にわたり『ローマ人の物語』を書き続けられたのは、シーザーの寛容に対する畏敬ではなかったのだろうかと想像した。女性作家であるから、シーザーという男性への異性愛といったら失礼だろうか。女たらしのシーザーが、二〇〇〇年を超えてまた愛人を作ったとすれば、永遠の魂の存在を信じることができる。
 シーザーはガリア戦役から内戦を終結させ、ローマの将軍としては最高の名誉となる凱旋式を行うことができた。その時、シーザーにつき従ってきた兵士たちは、声をそろえてシーザーを称えた。
「市民たちよ、女房を隠せ。禿の女たらしのお出ましだ!」
あんまりではないかと、シーザーも抗議したが、兵士は聴き入れなかった。ただ、禿は気にかかったらしく、劣等感があったとすれば、髪が薄くなったことだったかもしれない。しかし、凱旋将軍だけが入ることを許されるユピテル神殿に近づくと、その唱和は消え、厳粛な顔つきに変わっていった。
 この兵士たちが、ストライキを起こしたことがある。長い戦役に従軍してきたことへの待遇改善の要求であった。要求が通らなければ退役するという交換条件を出した。シーザーにとっては、大事な戦いの前に、一人でも多くの兵士が必要であったし、しかも兵士たちは、ともにガリアでの苦しい戦いを戦い抜いてきた者ばかりであった。シーザーは、彼らの心理がわかっていた。そして、シーザーは、兵士に向かって
「市民諸君」
と言って、語り始め、君達が望むとおり退役しても良いといった。すると、兵士は、意外なシーザーの言葉に涙を流し、軍務を続けさせてほしいと逆に懇願した。結果、給料はあがらなかったのだが、戦いを終えた後に大いに待遇を改善した。兵士の矜持に触れる言葉を敢えて選び、兵士を奮起させる芝居だったのだが、自分に対する信頼関係を信じていたからできたことである。
 シーザーの寛容と言えば、ポンペイウスに従い、ファルサルスの戦いで戦ったブルータスを兵に命じて殺さなかったことである。愛人の子供だったからという人もいるが、命を助けられたブルータスだが、シーザーの暗殺に加わった。シーザーの有名な言葉「ブルータスお前もか」のブルータスである。シーザーの暗殺を知ったキケロは、その行為を正当化し、天罰だったとも言った。あれほどシーザーを恐れ、しかも許されたことに対してこうした豹変の仕方はなんだろうと、人格の違いを比較してしまう。キケロは、アントニウスにより殺されることになる。
 シーザーの寛容は、キリストの寛容とも違うが、社会という人間集団の中で生きていくうえで大いなる指針を包含していると思った。共通しているのは、人々の心に長く残り消えないということである。これで、イタリア紀行の結びができたような気がする。
  

Posted by okina-ogi at 08:49Comments(0)旅行記

2013年10月22日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅵ



 アッシジからローマまでは、バスで三時間ほどかかる。高速道路だが、古代ローマ人が建設した街道と重なっていたかもしれない。ローマ人が情熱を注ぎ、地味に整備したのは、道(街道)である。ローマ人が支配する地域が広がるにつれ、その道は伸びていった。アッピア街道は、ローマから南に向かう街道の一つであるが、現在も遺跡として一部が残っている。紀元前に整備されたというから驚きである。さらに驚嘆する点は、石で舗装され、歩道まであるのである。軍用道路の性格もあるが、帝国内の人々が安心して往来できたという。途中には、宿泊施設や食堂もあり、旅人や商人の便宜を図り、地図まであったらしい。途中の河川や、谷には橋を架けた。その技術は、石造りだが現在と比べても遜色がない。ユーロの紙幣の裏を見ると、ローマ時代の橋が印刷されている。


 道路だけではない、水源地から都市に水道を引いている。長く巨大な水道橋が、ローマだけでなく、ローマ帝国であったヨーロッパ、北アフリカなどに数多く遺跡となって残っている。このインフラ整備は、ローマ文明の美質と言っても良い。平和の時代にあって、多くの人々の生活を潤したであろうから。ローマにはカラカラ浴場始め、いくつかの巨大な浴場が建設された。新鮮な水と入浴ができたことは、衛生上の多くの問題を解決したであろう。医学は、ギリシャ人の方が進んだ知識を持っていたであろうが、健康管理の面からすれば、ローマ人の方が上であったかもしれない。ローマの英雄、シーザーは、暗殺されたのが五六歳の時であったが、身体は壮健であったらしい。シーザーの暗殺後、ローマの初代皇帝となったアウグストゥスは、四〇年の治世と七七年の天寿を全うしたことを考えると、紀元前後の平均寿命のことを考えれば、水道の役割は、人々の寿命に大いに貢献したことは明らかであったと考えられる。

 道路や水道の整備には莫大な費用がかかったであろう。資材は石であったとしても労力がいる。ローマは、税制が確立しており、国家の使命として建設されたという。そして、建設にあたったのは、軍隊であったという。ローマの軍隊は、建設の技術も持っていた。戦争が一段落すれば、道路を整備し、首都ローマへの交通網が確立する。〝すべての道はローマに繋がる〟という言葉の意味はここから生まれた。軍事の最前線の兵站を確保し、情報も首都にいる皇帝にもいち早く伝えることもできた。メンテナンスも平時には怠らなかった。今、日本では、道路財源について論議が活発であるが、幸いにして戦争のない時代、自衛隊が道路整備にあたるという発想にならないかと、政治の素人は考えたくなる。水道橋や古代の街道は身近では見られなかったが、イタリアに滞在中、脳裏から離れなかった。
 
 塩野七生の『ローマ人の物語』は、彼女の永遠の恋人である(?)シーザーのために書かれたというのは言い過ぎだろうか。シーザーについては、一五年間のうちの二年間を費やしている。いや、一五年間意識し続けたであろうことは、容易に想像できる。シーザーは、英語の発音表現であるが、ラテン語ではカエサルである。カエサルは、皇帝をも意味しているが、シーザーに統一することにする。
シーザーは、紀元前一〇〇年頃に生まれた人である。貴族の出ではあったが、ローマ市民に人気があり、特権階級であった元老院に所属する人々には不人気であった。それには理由があるのだが、広大な領地を占めるに至ったローマの平和を維持するための政治形態として、共和制には限界を感じ、帝政に移行させた人物だからである。ローマは、建国当初、王制であったが、元老院という今日でいえば、国会の機能を持たせていた。王室の専断で王は決められなかったのである。そして、共和制に移るのだが、最高権力者とされた、執政官は任期があり、選挙で選出されたのである。一人に権力が集中する独裁ということを極端に嫌った伝統がある。軍隊さえも文民統制(シビリアンコントロール)が厳格に機能した。そのことを知らなければ、かの有名な、シーザーのルビコン川越えの意味はわからない。小川のようなルビコン川を渡り軍隊を率いてローマへ向かうことは国法で禁じられていた。即反乱罪になるのである。

 シーザーの青年時代、スッラという人物が独裁的な権力を持ったことがある。シーザーも反対派としてそのリストにあげられたことがあった。妻との離婚を要求され、シーザーは拒否し、逃亡生活を送った。スッラも国禁を犯したが、ルビコン川でなく南のブリンディジ港からローマに兵を進めたのである。強力な軍隊が背景にあり、地中海周辺の覇権を長く維持したローマは軍政という政治形態を共和制の中で強く拒否したのである。このことは、現代の政治形態に与えた良い見本となっている。
さて、シーザーの魅力はどこにあるのだろうか。イタリアの教科書では次のように教えている
「指導者に求められる資質は、次の五つである。知性、説得力、肉体上の耐久力、自己制御の能力、持続する意志。カエサルだけがこの全てを持っていた」
莫大な借金をし、多くの女性との醜聞にも事欠かなかったシーザーであったが、借金は自分の私欲のためではなく、結果的には返済しているし、愛人とされる女性から非難されたこともなかった(?)ことも、塩野七生は彼を弁護するように書いている。愛人たちの夫の多くは元老院に所属する有力者であったが、シーザーを敵視し非難しなかったという。元老院で弁舌鋭い小カトーにメモを見ているシーザーが糾弾されるが、それは恋文であったことがわかり、元老院は爆笑に包まれ、シーザーの陰謀の疑いも晴れたというエピソードまで残っている。
シーザーは軍人としても卓越した能力を持っていた。人心掌握の能力があり、人を魅了する能力があった。『ガリア戦記』は、戦況報告書であるが、簡潔、明瞭で政敵であった、キケロさえ高く評価している。さらに、武力による支配だけでなく、征服された人々にもローマ市民権を与えるという寛容さも持ち合わせていた。その結果、ガリアからも後世、皇帝が生まれることになる。
ローマの中心部にある、フォロロマーノにシーザーの遺体を火葬したとされる場所が残っている、見学のその日も花束が供えられていた。シーザーの遺体が焼かれた後に激しい雨が降り、遺骨や遺灰はどことなく流されてしまったという。だから、シーザーの墓はない。ローマの地にしみ込み、川から地中海へと流れ去った。しかし、その名は、後の世に残った。
ローマ市内、トレヴィノ泉からそれ程遠くない市街地の一画にパンテオンがある。古代ローマの建築様式がそのまま良く残っている。ローマ帝国の初代皇帝となったアウグストゥスは、行政的能力は抜群であったが、軍事については不向きで、能力もあるとは言えなかった。義父のシーザーはそれを見抜き、補佐役を指名していた。アグリッパである。パンテオンを建築したのは彼である。百年後、パンテオンは火事で焼け、二世紀の初めにハドリアヌス帝が再建した。

 巨大なドームは石と古代コンクリートで造られている。天井からは光が注ぐ。サンピエトロ大聖堂のような目に眩いばかりの装飾はない。ツアーの自由行動のわずかな時間を割いて見ることができたのは幸運であった。この建物を、一度は見てみたかったのである。三十七歳という若さで亡くなったラファイエロはここに葬られている。建物の中には大勢の人々がいたが、不思議と心が落ち着くのを覚えた。
パンテオンは、「全ての神の館」という意味である。ローマは多神教の国であった。しかし、ローマ帝国は、東ローマ帝国の基礎を築いたコンスタンティヌスによってキリスト教を容認する。そしてやがてキリスト教は国教となり、皮肉にも西ローマ帝国は滅びる。そして、イタリア半島は中世の封建時代に向かうのである。封建時代とは、小領主が群雄割拠して身分が固定される社会である。その間、都市と都市の間での戦争が繰り返された。キリスト教は、ヨーロッパ全体に広がっていったが、ギリシャやローマの文化は忘れ去られていく。ピサの斜塔から大小の球を落とし、落下の法則をつきとめたガリレオのような科学的精神が束縛されたのも中世ヨーロッパであった。彼は、地動説を唱えたために宗教裁判にかけられている。
ミラノをかわきりに、北イタリアからナポリ、ポンペイまでをバスで移動し、ローマの文化、キリスト教文化を目の当たりにした。最高峰の芸術作品、建物、そして遺跡を見ることができた。ミケランジェロ、フランチェスコ、シーザーという偉大な人物を想い浮かべることもできた。イタリアは西洋史の宝庫である。今回の旅は、入門編にして再度訪ねる機会を作りたい。
  

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2013年10月21日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅴ




 シエナを発ち、アッシジに着いたのは、昼も過ぎていた。小高い丘に、修道院の建物や教会が白く聳えている。空は群青とも表現して良い。雲はない。
「清く、貧しく、美しく」という言葉がある。しかし、こうした生き方はなかなかできるものではない。古今東西、多くの宗教者がそれを目指し、人類の心の平安を願って実践してきたのであろうが、大衆の心に刻まれるまではいかない。そうした宗教者は、既存の宗教組織の中で、糧を得ながら生きているし、破天荒とも言えるような生き方をする必要もない。先人の教えを忠実に守り、現世のしがらみの中に生きていく。それは、それで立派な生き方である。カソリックの中での、聖人の基準は詳しく知らないが、フランチェスコという、イタリアの小さな町に生まれ、イエスキリストの教えに忠実に生きた人物には、聖人だからということ以外に惹かれるものがあった。

 フランチェスコの青年時代までの生き方は、世の多くの人々と少しも変わっていない。むしろ、富裕な商人の息子として、仲間と遊び呆けていたとも言われている。ある時は、騎士階級になろうとして戦争にも参加している。そうしたフランチェスコが、どうして一八〇度変わった生き方ができたのであろうか。
アッシジにある聖フランシスコ大聖堂には、ジョットーの描いた壁画によって、フランチェスコの生涯を知ることができる。その中で、司教裁判所の前で、全ての衣を脱いで父親に返すフランチェスコが描かれている。父子の縁を切る場面である。相続権を放棄し、「天にましますわれらの父」を父とするのである。ペルージャとの戦いで捕虜となり、病気にもなった彼は、生死の問題を深く考えるようになるのだが、騎士になる願望は捨てきれないでいた。しかし、その夢も諦め、熱病に苦しめられることもあって、ハンセン病の患者を世話したりして信仰心が芽生えていく。フランチェスコの回心が決定的になったのは、ダミアノ教会のキリスト像を前に祈っていた時のことだと言われている。キリストの像は彼に語りかけた
「崩れ落ちる私の家を建て直してくれ」
家の財産の一部を教会に寄付したことが父親に知られることになり、このまま、フランチェスコに相続権があったのでは破産すると考えた父親は裁判所に訴えるのであるが、フランチェスコが自らその権利を放棄する決意をしたのである。
 財産(フランチェスコが築いたものではなかったが)、名誉(騎士になって美しい妻を娶り、多くの召使と城に住む)を捨てて、キリストの僕となり、清貧の道を歩むことになったのは、病と戦争を深く思索したからであったと思う。彼に深い神学の素養と蓄積があったわけではないが、キリストの生き方と言葉を素直に受け止められる感性があったからだとしかいえない。その極まりは、キリストが十字架に架けられて受けた傷が、自分の体に現れたというのである。聖痕である。このことも奇跡のひとつであるが、フランチェスコならではの伝承である。
 
 彼が創った「太陽の歌」という詩がある。その詩の中で、自然との対話ともいうべき表現の中に神を見ている。太陽、月、風、雲、水、火、大地。西洋文化の中では、キリスト教といえども、人が主で自然は従である。自然は、人が支配しても良いと多くの人が考えていた。小鳥に説教したフランチェスコのジョットーの壁画が聖堂の入り口近くにあったが、この人ならできただろうと思えた。メシアンという作曲家が、それを題材にして曲を作ったことを、ピアニストの藤井一興氏から教えられたことを思い出した。
 「太陽の歌」は、長いのであるが、詩の最後は死との対話である。
主よ、ほめたたえられよ、
姉妹なるからだの死のために。
生きとし生けるもの、なにびとも、
かの女からのがれ得ない。
災いなこと、大罪のうちに死ぬ人。
幸いなこと、あなたの聖なるみ旨を行う人、
そは、第二の死は、
かれをそこなうことなきゆえに。

主をほめたたえ、祝福せよ。
主に感謝をささげ、
深くへりくだって主に仕えよ。
 彼は詩人でもあったと言える。日本人のように俳句という手法を知っていたら句も作り得たかもしれない。しかし何より行動の人だった。クララだけでなく、時を越えて、マザーテレサも彼の道に従った人なのだろう。
  

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2013年10月20日

「襄と八重」 ―記念コンサート・講演―

 

 
 10月19日(土)午後4時から、安中市にある新島学園の礼拝堂で、新島襄と八重に関連した講演会とコンサートが開催された。主催は、安中市と安中商工会を中心メンバーとする実行委員会で入場料は無料。定員600名とあったが、400~500名位の入場者があっただろうか。新島学園は、戦後間もない頃に開校した、中高一体教育の基督教主義の学校で、同志社大学に進学する生徒も多い。
 磯部温泉郷にある市営の「恵みの湯」に足しげく通うようになって、そこにあったチラシで、催しを知ったのだが、申込期限が切れる日に電話で申し込んだら、大丈夫とのこと。この日も、職場を半日勤務して、「恵みの湯」でひと風呂浴びて会場に行った。市外の住民でもあり、入場料が無料なのだから、安中市の施設を利用するのも良いと思ったのである。
第一部の講演会の講師は、同志社大学文学部教授の露口卓也氏。新島襄・八重の資料を丹念に研究している先生で、八重ブームで多く販売されている本とはまた違う新鮮な指摘に感心した。
 新島襄と八重は、やはり当時にあっても、珍しい夫婦だったということである。互いの人格を認めあったと言えばそれまでだが、二人の価値観は似ているようで違っているという。「夫婦は、価値観が違って当然なのだ」というと会場に笑いが起こった。ただ、二つの指摘に納得するところがあった。①二人は、間違えれば死につながる行為をしたこと。襄は、出国の禁を犯したこと。八重は籠城して官軍と戦ったこと。命がけの人生の後の出会いだったこと。②として、まさに文明開化の時代であったこと。襄は、西洋文明、とりわけ基督教を体得している。八重は、兄覚馬の影響もあったであろうが、西洋文化に惹かれた。しかも、性格がはっきりしている。当時数少ないノーと言える日本人女性だったこと。
大河ドラマの新島襄についての講師の印象は、実像に近いという。新島襄は、人格者で偉人であることは否定しないが、八重の回想や、生徒の証言から生徒の前では良く泣き、八重には短気な面を見せている。しかし、新島が常人と異なるのは、すぐに反省し、寛容で憐憫に富む人だったということである。それが、信仰であり、いつも悩みながら神に祈っていたという。「小田切ジョー」は良い味を出しているというわけだ。
 第二部のコンサートは、「八重の桜」のバックミュージックを作曲した、中島ノブユキ氏のピアノ演奏と弦楽四重奏。随分と多くの曲があると感心した。実のところ、この大河ドラマは、あまり見ていない。あまりにも八重の会津時代が長かったからである。10月20日は、新島夫妻が安中を訪れる場面があるという。放映も、12月初めには終了するのでこれからは努めて見ることにした。
  

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2013年10月19日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅳ

 
 日本的情緒というものが存在していると思うのだが、自己犠牲を無意識にできる心とでも表現するしかない。相手が悲しんでいたら自然と自分も悲しくなってくる。アッシジの聖フランチェスコというイタリアの中世に生きた聖人の歩みは、キリストの生まれ変わりのようでもあり、日本人の好きな良寛にも通じる心の持ち主だと比較する人がいる。フランチェスコの生れたアッシジは、日本の中田選手が在籍したサッカーチームのあるペルージャの近くにあって、それほど大きな町ではない。
 
 フレンツェからシエナを経て、アッシジを訪れたのだが、シエナがそうであったように町が小高い丘に築かれていたのに気づいた。シエナは、城壁の遺跡が残っていたし、高い鐘楼もあった。中世のイタリアは各都市の間に争いが絶えなかったという。鐘楼は、敵の襲来を確認するための見張りの役割も果たしていたのであろう。そして丘の上に住居を築くことが、防衛するためには適していたのである。イタリアのサッカーのチームが大きな都市に置かれ、戦いを繰り広げているのは中世の戦争を彷彿させるものがある。スポーツだから良いのだが、イタリアという国は、近年まで統一されなかった。ローマ帝国の基盤となったイタリア半島に地域ごとの個性が存在することはイタリア史への勉強不足であった。
 ローマ人が最初に強敵とした民族はエトルリア人であった。フレンツェのあるトスカーナ地方がその中心であった民族で、土木や建築の高い技術を持っていた。丘の上に町を築いたのは、防衛上の発想もあったが、エトルリア人の習性でもあった。そして、ローマは征服するだけでなくその技術を受け継いだのである。今回の足早の旅で、イタリアのどの都市も個性的で魅力に満ちていたが、トスカーナ地方の諸都市や、風土にその感を強くさせられた。ローマ帝国は、確かにローマ人が築いた文明圏なのであろうが、エトルリア人の存在は無視できないと思った。
 

 ローマ人は、良いとこ取りの民族体質がある。この点は、日本民族に似ている。本質は変えていないのだが、他民族の良い特質は取り入れていく。塩野七生は、『ローマ人の物語』を書き始めるにあたって、ローマ人を次のように表現した。
「知力では、ギリシャ人に劣り、体力では、ケルト(ガリア)やゲルマンの人々に劣り、技術力では、エトルリア人に劣り、経済力では、カルタゴ人に劣る」と。
 古代エトルリア人の住んでいた、トスカーナ地方は、ローマのあるラーツィオ州と隣接している。伝説なのだが、ローマを建国したのは、ロムルスとレムスという狼に育てられた双子の兄弟だとされている。政争の末、兄は弟を殺すのだが、弟の子孫がトスカーナにシエナという都市を築いたとされている。ローマが王政の時代に、何代かは、エトルリア人がローマの王になっているということからも、ローマとトスカーナは同化された一地帯であったという見方もできる。
  

 シエナのカンポ広場は、世界で最も美しい広場とも言われている。ガイアの噴水があったりして、いつも観光客で溢れている。パリオという競馬が開催されるのもこの広場であるが、現在も市庁舎として使われているプッブリコ宮殿に隣接するマンジャの塔は、有料だが昇ることができる。この旅の同行者の一人は、高いところが好きなのか、ミラノのドォーモやヴェネチアのサンマルコ広場でも高い塔に登っている。マンジャの塔から見えたトスカーナの風景はさぞかし壮観であったであろう。小麦畑、オリーブ畑、葡萄畑が広がっていたであろう。小高い丘には、集落が見えたであろう。この日も、空はくっきりと晴れ渡っていた。この視界のはるか先にアッシジがある。
 シエナを発ち、アッシジに着いたのは、昼も過ぎていた。小高い丘に、修道院の建物や教会が白く聳えている。空は群青とも表現して良い。雲はない。
  

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2013年10月18日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅲ

 

 ヴァザーリよりも前に、メディチ家が庇護した芸術家がいた。ミケランジェロである。この旅で何を一番に見たかったかと言えば、「ピエタ像」である。ミケランジェロのピエタは、代表的なものが四作品あるとされている。最も有名なものは、ヴァチカンにあるピエタ像で、二〇代の作品である。非常に写実的に刻まれていて、ひと固まりの大理石からどうしてこのような姿に創作できるのかという、ミケランジェロの天才にただ驚くばかりである。三〇数年の人生の果てに十字架に架けられたキリストを膝に抱く、マリアが若く表現されているのが特徴であるが、ミケランジェロはあえてそうしたらしい。聖霊により身ごもったとされるマリアは、乙女の姿のままであってよいという彼の発想によるのであるが、六歳で母親と死別したことも無関係ではあるまい。

 キリストの愛か母親の愛かなどと自問することは愚かなことであるが、ピエタ像からは強烈に慈愛というものを感じさせられるのである。最晩年に制作された、「ロンダリーニのピエタ」は、ミラノのスフォルツァ城博物館に収蔵されているが、細部にわたって彫られてはいない。マリアはキリストの背後にあるが、死したキリストに背負われているようにも見える。このピエタを制作したとき、ミケランジェロは視力を失い手探りで刻んだという。しかし、マリアとキリストのこの構図は晩年のミケランジェロの心境をよく表しているとも言える。この像の実物を今回見たわけではなく、解説書の写真で見たのである。
 
 ミケランジェロは長命で、中世にあって九〇歳近くまで生きたことも驚きである。システィーナ礼拝堂の創世記などを描いた天井画や最後の審判の祭壇画は、ほとんど一人での作業から生まれたという。気難しい性格の人物だったというミケランジェロの評価もあるが、建築家でもあったというからやはり天才と呼んでよいのだろう。ミケランジロは、レオナルド・ダヴィンチ、ラファエロとともにイタリアのルネッサンスを代表する巨匠である。サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ教会に設置されているモーセの像を見ることができたが、力強さと威厳がある。この教会には、聖ペテロを繋いだとされる鎖があったが、不思議とこちらには関心が向かなかった。

 
 ペテロは、キリストの十二弟子の中で、年長者であって、しかもキリストに愛された人物であったとされる。従順な人であったが、時には岩のように固い意志も持ち合わせた人物でもあった。聖書から憶測すると、キリストよりも年上で、しかも妻帯していたらしい。ペテロがローマで逆さ十字に架けられて殉教したのは、ローマ皇帝ネロの時代だとされている。ローマに大火があり、その原因はキリスト教徒によるものとされた。この時、キリスト教徒の多くが罪を着せられて処刑されるのだが、パウロも斬首された。ペテロは、ローマから逃れ、アッピア街道を歩いていたのだが、思いとどまりローマに戻り、その結果捕えられて死ぬのである。西暦六十年代というから、ペテロは既に七十に近い老人であったことになる。伝承としてだが、なぜローマにペテロが戻ったかといえば、彼の前にキリストが現れ、ペテロが師に尋ねるとキリストは
「私は、もう一度十字架にかかろうと思う」
とペテロに言ったからだとされている。彼は、本来の岩のような心の人になって、イエスの教えを伝え、神の道へと導いた人々とともに天国への階段を上ることを決意したのである。生ある限り布教しよう、命がほしいと思われても良い、生きて師の教えを伝えるのが自分の使命だと考えていたペテロも、キリストのこの言葉は、決定的であった。
 
 ペテロは、実際にアッピア街道でキリストを見たわけではないだろう。自分の心の中に、キリストを見たのであり、その言葉を聞いていたのである。キリストが十字架に架けられ、お前はキリストの仲間かと問われても否定したことや、多くの仲間の殉教にも、情を寄せながらも、傍観するような行動をとってきた。しかし、着実にキリストの教えを広めていった。だから、ペテロは今日にあっても、宗教権力とも言うべき、ローマ法王庁の始祖なのであろう。政治家的宗教者という表現は、正しくないと思うが、ペテロにはその資格があるのかもしれない。キリストの死は、若かった。ペテロの死は老年だったと言っておこう

  

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2013年10月17日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅱ



 ミラノからヴェネチアに移動する途中、ヴェローナという町に立ち寄った。既に日は暮れかかっており、足早の見学となった。シェークスピアの「ロミオとジュリエット」のゆかりの街だというのだが、それほどの感慨も湧いてこない。古い街並みが残っており、イタリアの古くからの有力な都市であったことは想像できる。ローマ時代の円形劇場だった建物は、既に照明に浮かびあがっていたが、立派な歴史遺産に違いない。ヴェネチアに着いたのは七時を過ぎていた。船でホテルへ移動したのだが、街灯のあかりが見えるだけである。千年の都というが、運河を始めとするその景観を白昼に見るのが楽しみである。ゲーテもその紀行に記した、ヴェネチアの夜を日本人には嬉しい魚料理を食べ、ワインを楽しみながら、歴史ある建物のホテルで、ようやく熟睡することができた。
 
 西ローマ帝国が、異民族の侵入により崩壊すると、イタリア半島は混乱の時代に入る。ヴェネチアの起源は、異民族の略奪から避難した人々が干潟(ラグーン)の上に住居を建て、暮らし始めたことによると伝えられている。地盤の軟弱な干潟の上に建物を築くこと自体が不思議なのであるが、木を杭にして、地盤を強化したのだという。木が水分を吸収すると、腐らず建物を支える基礎になる。ヴェネチア人の知恵である。
商業国家として発展するのだが、共和国の政治形態をとり、東ローマ帝国や、オスマントルコといった大国と対峙しながら、巧みな外交を駆使し、ナポレオンに滅ぼされるまで、千年の都をこの小さな人工的な島々を中心に保ち続けたのである。海軍力も持ち、レパントの海戦では、オスマントルコの海軍を撃破したこともある。コンスタンチノープルがオスマントルコに攻められたとき、同じ商業国家であった、ジェノバとともに援軍を出したが、東ローマ帝国の首都は陥落した。
 
 ヴェネチアの中心は、サンマルコ広場である。サン・マルコ教会、ドゥカーレ宮殿、時計塔、鐘楼などがあって、観光客ばかりでなく、たくさんの鳩が冬の日差しを受けながらのどかに時を過ごしていた。イタリアの都市には、守護聖人がいるが、ヴェネチアは、福音書を書いたマルコである。
ヴェネチアの街中を自動車が走ることはできない。島には、観光都市になってから、鉄道も引かれ、バスも乗り入れることはできる。しかし、市街地への移動は、全て船に頼らなければならない。狭い運河は、ゴンドラと呼ばれる、小さな小舟が使われる。昔は、装飾や華やかな色が施されていたが、現在は黒に統一されている。しかし、休日などには、島を離れてイタリア本土に車を走らせる住民もいるのだが、未熟な運転(?)のため事故を起こすことが多いという。逆にローマの市民は運転は荒いが、事故を起こす確率が低いというのは、塩野七生のエッセイで読んだ記憶である。
 
 北イタリアの平原を後にして、ポー川も越え、フィレンツェに向う。アペニン山脈を越える。これから先は、旅の時間の経緯は無視して紀行を綴ることにする。
フィレンツェは中世の街並みが良く保存されている。この町のドウォーモは、サンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂であるが、一七五年の歳月をかけて建設されたもので、ひときわ大きく聳えている。高台にあるミケランジェロ広場からフィレンツェの町が一望のもとに眺められるのだが、アルノ川やドウォーモは、大きく視界のなかに飛び込んでくる。風は強く、肌寒くはあったが、快晴であこがれの場所に立てたことに感慨ひとしおな気分になった。青銅でできた、ダビデ像が広場の中央に力強く置かれている。
「冷静と情熱のあいだ」という映画が上映されたが、ミケランジェロ広場の背後から航空撮影されてフィレンツェの町を映しているのが記憶に蘇ってきた。
 
 イタリアの都市で一か所だけ観光するとしたら、どこが良いかと言われれば、フィレンツェと答えなければならない。ルネッサンス期の美術作品に関心が強いからである。その作品の多くがウフィッツィ美術館に収められている。ゆっくり見れば、二、三日かけても飽きることはないだろう。ボッティツェッリの「ビーナス誕生」、「春」、レオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」、ミケランジェロの「聖家族」など、美術史に登場する作品を上げればきりがない。先年、東京国立博物館に展示されたレオナルド・ダヴィンチの「受胎告知」に順番待ちの列の中で鑑賞する機会があったが、今回ロープの先に身近に飾られているこの絵画を、足を止めてじっくり見られたことは、現地に足を運んだから成せる特権であった。しかし、ウフィッツィ美術館に入場する時の手荷物検査は、飛行機に搭乗する前のそれよりも厳重であった。
フィレンツェと切って離せられない存在は、メディチ家である。長くフィレンツェを支配したが、その祖先は薬売りだったという。家紋にもシンボリックに使われている。銀行業にも成功し、巨万の富を築き、多くの芸術家のパトロンとなり今日の絵画、彫刻、建築物をフィレンツェに残した。ヴァザーリという画家は、建築家でもありウフィッツィ美術館の建造にあたったばかりでなく、メディチ家の宮殿であったビィティ宮殿とを結ぶ回廊を設計したことでも知られている。有名なヴェッキオ橋の上を回廊が通っている。肖像画などが掛けられて美術館の一部になって公開されている。彼は、サンタ・マリア・デル・フォーレ大聖堂の天井画も手掛けている。
  

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2013年10月16日

『白萩』(拙著)イタリア紀行Ⅰ

イタリア紀行
 三十年ぶりのイタリア行となった。昭和五十三年二月、欧州三カ国への福祉施設の研修旅行であった。イタリアは、ローマとポンペイ、ナポリを訪ねた記憶が残っている。今回は、九日間のイタリアだけの旅である。全てが観光という点も異なっている。イタリアは、ユネスコの世界遺産となった場所が世界一多い国である。ローマ帝国から、キリスト教の伝播の中心となった世界の都とも言える、ローマの存在が大きい。
 ミラノ、ヴェローナ、ヴェネチア、ピサ、フィレンツェ、シエナ、アッシジ、ローマ、ナポリの各都市を足早に見て回る観光ツアーで、移動手段はバスである。移動時間と距離を計算してみたら、約二十四時間と千三百キロメートルという数字になった。まる一日かけて、東京から鹿児島県まで移動したことになる。〝全ての道はローマに通ず〟、現代のイタリアの道路網もよく整備されている。車中、慢性の睡眠不足で、昼寝の時間になったが、日本から持参した文庫本が二冊読めた。二冊とは、塩野七生の『イタリア遺聞』と『イタリアからの手紙』である。大作『ローマ人の物語』は、旅の前に読み終えたが、いかにしても長大な歴史物語のため、予備知識は断片的になっていてガイド役にはならなかった。
 ヨーロッパは、三度目になるが、そのたびに圧倒されるのは〝石の文化〟に対してである。建築、彫刻、旧市街地の道には、ふんだんに石が使われている。その中で大理石が高価なものであることには変わらない。数百年の時を経ても、建物はそのまま使われており、その外観は当時とほとんど変わっていない。ヴェネチアなどは、その典型である。長崎県にハウステンボスという観光地があるが、古さと規模が違うのはいたしかたない。門司のレトロな洋風建築も百年そこそこの時を経たに過ぎない。建造物も点在するだけである。比較すること自体がおかしい。
 
 最初の訪問地はミラノである。三時間だけの市内見学であるが、ドゥオーモのゴシック建築の外観と、教会内の天井の高さには、威圧される。外壁を包む大理石の色合いがなんとも言えない雰囲気を生んでいる。淡い薄桃色とでもいうその色は、修復中であったこともあり、印象的であった。多くの尖塔が教会の外部を飾り、天に伸びるように聳えている。尖塔の先には聖人の像が置かれている。下から見るとその存在は、はっきり見えない。一番高い塔にはマリア様がいらっしゃる。金色に輝いている。イタリアはカソリック教徒の国である。このゴシックの建築の大教会は、一三〇〇年代から、四百年以上の歳月を経て完成している。スペインのサグラダ・ファミリアは、アントニ・ガウディが設計し、今日百年を超えても建築途上であることはよく知られている。富める者、地位ある者だけでなく、多くの人々の浄財により建てられてきたのであろう。信仰のなせる業である。一人の権力者が、その在任中に建てたというローマの建築物とは性格が違っている。
 
 ミラノは、紀元前から存在した都市であった。ローマ帝国に支配されてからも、ローマに次ぐ重要都市として今日に至っている。緯度は、北海道の稚内とほぼ同じだが、冬の平均気温は零下にならない。大阪市と姉妹都市となっているのは、商業都市だからであろう。この町の守護聖人は、アンブロジウスである。紀元四世紀に生きた人である。ローマ帝国の高級官僚の子として生まれ、自身も高級官僚となった。キリスト教徒ではなかったが、ミラノ司教であったアウクセンティウスに代わって司教となるという不思議な人物であるが、民衆から押されてなったと言われており、人望があったのであろう。ギリシャ語にも精通し、古代のキリスト教の神学者として知られるアウグスティヌスを回心させた教養も兼ねた人物であった。時のローマ皇帝、テオドシウスを破門したことが、キリスト教がローマ帝国に勝利した象徴的な出来事になっている。
アンブロジウスによって、ローマ皇帝は人から選ばれるのではなく、神から選ばれる存在になった。戴冠式を行う時、それを与えるのは神の使いである司教になった。『ローマ人の物語』で、ユリウス・カエサルを愛し、彼に象徴されるローマの文化を肯定的に捉えた塩野七生にとっては、敵(かたき)のような存在である。聖アンブロージョ教会は見学コースにはなかった。
 
 ミラノ観光の一番のお目当ては、レオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」であるが、予約してもとれないことがあるほどの人気だという。近年修復も終え、厳重に管理されているという添乗員の話のとおり、近代的な管理システムの中、十五分間限定の鑑賞となった。修道院の食堂であった場所の壁に描かれているのであるが、色も薄れ、人物の輪郭も鮮明ではないが、何度となく美術雑誌でみたこの壁画を目の前にする感激は言葉にならない。キリストの十字架に架けられる直前の表情は憂いとも言えず、非常に神々しい姿に描かれているからである。キリストの背後にある窓の先にある風景にひきつけられるものがあった。ダヴィンチは、受胎告知やモナリザにしても、背景に深みを持たせる画家のような気がする。十二弟子のそれぞれの表情も、解説書の説明のように、キリストが発した言葉の後の、どよめきの声が聞こえてきそうな感じで描かれている。
 
 第二次大戦の時、空爆により、この建物は破壊されたが、この壁は奇跡的に崩壊を免れたのだが、その時の写真も展示されていた。「最後の晩餐」が描かれている反対の壁にも、壁画があるのだが、ほとんど立ち止まって見る人はいなかった。
ダヴィンチの、この世界的な壁画のある教会は、十五世紀の建造物で、内部は見られなかったが、外観はレンガの茶色が落ち着いた雰囲気を醸し出している。聖マリア・デレ・グラツィエ教会という。グラツィエは慈悲の意味である。
  

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2013年10月15日

国土保全

 全国に整備されている道路、トンネル、橋梁などが老朽化してきており、その整備が求められている。トンネル内の落下事故で人命が失われたことは、ごく最近の話である。国道、県道、など管理責任の部署は違うのだろうが、国民の税金を使うことに変わりはない。道路整備をするのは、民間の企業が受注して行うにしても多額の費用がかかるには違いない。次の発想は、素人の思いつきである。
 古代ローマは、道路を整備し、「全ての道はローマに通ず」とまで言わしめた。道路は舗装され、古代には信じられないほどの橋をかけた。その土木技術はすばらしいものがある。この道路は、軍隊が移動するための軍用道路だったと言われるが、民間人も使用した。その建設にあたったのは、軍隊であったという。補修もしたからこそ、現在までその遺跡が残っているのだろう。アッピア街道などはその典型だろう。
 自衛隊に道路補修の一部を受け持ってもらうわけにはいかないのだろうか。海外では道路工事で貢献しているという報道を耳にしたことがある。自衛隊にはその能力があると思う。材料費は別にして、人件費は、通常の手当ということになるから国費の軽減ということになりはしないか。消費税が増えても、歳出が増えれば、赤字国債を発行しなければならなくなる。
  

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2013年10月14日

心に浮かぶ歌・句・そして詩122

「青い山脈」作詞 西條八十 作曲 服部良一

1 若く明るい 歌声に
  雪崩は消える 花も咲く
  青い山脈 雪割桜
  空のはて
  今日もわれらの 夢を呼ぶ


2 古い上衣よ さようなら
  さみしい夢よ さようなら
  青い山脈 バラ色雲へ
  あこがれの
  旅の乙女に 鳥も啼く


3 雨にぬれてる 焼けあとの
  名も無い花も ふり仰ぐ
  青い山脈 かがやく嶺の
  なつかしさ
  見れば涙が またにじむ
4番もあるが省略する。夢と希望に向かって歩みだした人の気分が歌われている。戦後まもない昭和24年の作品である。声楽家でもあった藤山一郎が歌い、国民の多くに愛された歌になった。「青い山脈」という映画もあったらしいが見てはいない。ただこの歌には、明るさだけではなく、清潔感がある。戦前にあった良いもの、戦後に生まれた良いもの。その精神が合体したような心が歌われているように思えるのである。戦後の20年間位までは、戦争から解放され、貧しかったが夢に向かう純真な気持ちが残っていたような気がする。小学生、中学生の時代は、良い先生に恵まれ、懐かしい思い出が沢山残っている。
  

Posted by okina-ogi at 10:47Comments(0)日常・雑感

2013年10月13日

『浜茄子』(拙著)後記

後記
 平成も二十年になった。時の歩みは確実に進む。早いか遅いかは、個人の主観による。
五十も半ばになると、黄昏の夕日を見るような気持ちにもなるが、遠くの風景を眺めながら歩く歳でもない。『春の雲』、『夏の海』、『秋の風』、『冬の渚』と四季を意識しながら、心の赴くままに旅に出て、旅日記を書く習慣がついた。いつまで続けられるかは、分からないが、友人知己へのお便りのつもりである。旅に出ると新しい発見もあり、何よりさまざまな人物との出会いがあり、結構生きがいになっている。
 今年(平成二十年)は、人生の師である、岡潔先生の没後三十年の年にあたる。信仰でもない限り、羅針盤を失い、迷いの海を漂うことにもなりかねないのが人生なのかもしれない。人間というものは、つくづくと弱い存在だと思う。自我の存在は、やっかいだが、いつも向き合わなければ生きていけない。青年期という不確実な時代に、岡先生にお会いでき、人生の意味を考えさせられたことは幸運だったと造化に感謝している。 亡き先生の思い出を、下関の赤間神宮に奉職されている青田さんの発行する『真情』誌に寄稿したものを紀行文の後半に載せたのは、そのためである。
 四季を意識した、二順目となる紀行集の最初は、『翁草』であった。翁草は春の野草で、“おかんぽろ”などという俗称で呼ばれることもある。松尾芭蕉の足跡を意識した旅日記にしようとしたことからの自由連想のようなもので、それ以上の深い意味はない。
 今回の紀行集のタイトルは、今年の元日に秋田を訪ねるまで決めていなかった。一順目の夏にあたる紀行集は『夏の海』であったように、沖縄を始めて訪ねたこともあり、海を意識して『蒼海』とも考えていたが、防風林の基礎になり、根も染色の材料に使えるという浜茄子に焦点が定まった。次が、秋の季節そして冬となれば、その季節の植物をタイトルにしなければならない。楽しみ
でもあり、山登りの辛さもある。新年の年
賀の俳句に

「木守柿 惜福の二字 浮かびけり」
と書いて友人に送ったら
「相変わらず、お主の句は理屈っぽい」と
のご指摘を頂戴した。紀行集も、硬直した
表現の羅列になってきているかもしれない。
  

Posted by okina-ogi at 12:55Comments(0)日常・雑感

2013年10月12日

『浜茄子』(拙著)元日の秋田

元日の秋田
 強い寒気の到来で、二〇〇八年の元日、東北地方は雪になった。昨年の元日は、平泉に中尊寺を訪ねたが、春のような暖かさだったのとは対照的である。川端康成の『雪国』の有名な書き出し「トンネルを抜けると雪国だった」のように、白河あたりの栃木と福島の県境にある東北新幹線のトンネルを抜けると、いっぺんに雪景色となった。
 元日、恒例になった東北日帰り旅行も七年連続七回目となった。二〇〇一年(平成十三年)は、自分の人生の転機となった年のように思う。ただ、退職し気儘な時間を過ごすようになったわけではない。俳聖芭蕉が語り、実践したように〝人生は旅なのだ〟という意識である。そして〝不易流行〟の言葉の意味も意識し、加えて紀行文を書くようになった。日常性から少し離れてみる。そのためには旅に出るのが良い。元日は、絶好のタイミングなのである。そして、幸運なことにJRの特別割引格安切符があった。
こうは書いてみたが正直なところは、遊行の人ではない日々の労働に生活の糧を求めている庶民なのだから、動機の起点は、元日に特別割引格安切符(元旦パス)があったからであって、人生の転機になったというような言い回しは、後付のようなものである。
師走に入って、紀行文をさしあげていた、町内の知人から
「元日、秋田に行きませんか」

とお呼びがかかった。内心秋田に行ってみようと思っていたので、驚いたが、販売日が来るのを待って切符購入となった。最近は、早目に買わないと、希望の指定席券がとりにくくなっている。JR東日本の宣伝が普及したこともあろうが、七回連続元日旅行をしていることも他人の知るところとなったようである。
 大宮駅で東北新幹線に乗り換え、盛岡から秋田新幹線となる。山形新幹線がそうであるように、新幹線と言っても在来線を走るのだから、スピードはそれほどではない。しかもこの日は雪である。盛岡から秋田までは未踏の路線である。雫石盆地を抜け、峠を越えれば秋田である。田沢湖あたりの積雪はかなりのものである。日帰りでなければ、途中下車したいところであるが、なにもかも思い通りにならないのが人生である。角館には、天気がよければ武家屋敷と秋田美人をセットにして寄り道したいところである。大曲は花火大会が有名な町だという程度の知識はあるが、通過駅になった。大曲だからというわけではないのだが、新幹線は逆送し始めた。秋田市までは平坦な土地が多いのだろうが、視界は雪のためかなり悪い。『風の男 白州次郎』の文庫本に目を落とす。秋田駅には、定刻どおり十二時調度に着く。大宮からは約三時間半の所要時間であった。秋田市内にいられる時間は、夕方五時までである。
 
 千秋公園は、駅から近い。江戸時代、佐竹氏の居城、久保田城があった。小高い丘になっていて秋田の市街地が見下ろせる。元日なので、資料館などは閉まっている。市内のためか小雪は降っているが、足首が踏み込むほどの積雪ではない。
 日本史の中で、佐竹という大名の存在は華々しく登場しない。しかし、その家系をたどると、平安時代にまで遡ることができるという。家系図によれば、八幡太郎源義家の弟新羅三郎義光の孫にあたる源昌義が始祖となっている。叔父の源義清は、甲斐の武田氏の始祖であり、信玄はその末裔になる。島津氏が源頼朝の庶子の出であることを考えると、源氏の血を幕末まで大名家として引き継いだ佐竹氏は名門ということになる。家紋は、五本骨扇に月丸である。
 武家の有力者として七百年以上その家を保つことは、それだけでも奇跡に近い。同じ源氏であり、その本家筋にあたる源頼朝に帰順はしたが、鎌倉時代はそれほどの勢力を持った領主ではなかったが、南北朝の内乱期に、足利尊氏につき、戦功をあげ台頭した。戦国大名として、豊臣秀吉が天下統一を果たしたときには、常陸の国を統治し、水戸城に拠点を置き、石高は五〇万石を超えていた。佐竹氏は、五百年近くを茨城あたりに土着していたのである。秋田に国替えになったのは、関が原の合戦における、東軍(徳川家康)と西軍(石田三成)へのどっちつかずの曖昧な態度に、戦後、家康が下した断による。秋田に転封となった時の佐竹氏の石高は二〇万石であった。
 常陸に残った家臣も多くいたらしいが、秋田に移った佐竹氏は、江戸時代を通じて秋田を治めたので、今日、茨城からも秋田からも「殿様」と呼ばれる存在になっている。もちろん今日大名ではないが、明治維新後も佐竹氏は華族として残れた。それは、はっきりと幕府側でなく新政府軍についたからである。奥羽列藩同盟に入らなかったために、隣県と後味悪いしこりを残すことになった。
 秋田の県民性は、大阪の食い倒れと京都の着倒れのあわせ技で一本という感じだという人がいたが、佐竹氏の存在との関係があるのだろうか。秋田杉、尾去沢をはじめとする鉱山資源に恵まれ、しかも現在の「秋田小町」ほどのブランド米はなかったにしても、米の産地であったろうし、海の幸も考えると、江戸時代の秋田は豊かであったといえるのではないだろうか。県民性といった、血液型に近い人物評価の基準は、ほとんどが江戸時代の名残を分析しているような気がする。
 秋田県からは、温泉と美人は出るが、大物が出ないという人がいる。そう言われてみるとそんな気がする。佐竹の殿様からして地味なのだから。このさい折角だからと、インターネットやら本やらで表層的な調べ方でやってみても、その印象は変わらない。平田篤胤、内藤湖南、狩野亨吉、安藤昌益、菅江真澄・・・・。深く調べたら、世の人が知る著名人より大人物なのかもしれないが、玄人肌でやはり地味である。東海林太郎がいたと思ったが、時間が経つほどに地味と思えてくるから不思議だ。よく言えば、野心家ではなく、自己主張が少なく、売名行為からほど遠い人物なのである。平田篤胤は別にしても、内藤湖南、狩野亨吉、安藤昌益、菅江真澄といった人物は、司馬遼太郎の本を読まなければ、一生意識せずに終わってしまった人々であった可能性がある。
 
 一人くらい、惹かれる人物はと思っていたら、菅江真澄が気になってきた。『街道をゆく』シリーズの秋田散歩で司馬遼太郎がかなりのページを割いている。
 「真澄は、漂泊者であった。それも、永年東北を漂泊した。とくに秋田領内が気に入ったらしく、最後は領内角館郊外で病み、角館の知人宅に運ばれて息をひきとった。生前、自分のことはいっさい語らなかったから、正確な年齢はわからない。七十六、七だったらしい」
『街道をゆく 秋田県散歩・飛騨紀行』からの抜粋である。
菅江真澄は生涯独身で、国学を学び、医業や薬学の知識も身につけ、画技にたけ、文章もうまかった。三河に生まれ、三十近くになって信州から越後を北上し、東北地方を移り住んで『菅江真澄遊覧記』というたび日記を残した。江戸時代後期の人である。国の指定重要文化財である奈良家住宅で佐竹義和に出会うこととなり、後世に書物を残すことになったが、民俗学者で有名な柳田国男が菅江真澄を民俗学の先駆者として高く評価している。
 秋田県立博物館には、菅江真澄のコーナーがあって資料が展示されているらしい。元日は、開館しておらず旅から帰ってから、当館発行の『真澄紀行』を取り寄せようと電話したら既に在庫はないという。そのかわりに、二十数ページの真澄に関する資料を、親切にも学芸員(?)の方が郵送してくれた。郵送代の切手だけ送り返してくれればよいというが、大変参考になった。人生という旅にあって、菅江真澄というまた良き人に出会った気がした。
 ここ数年、日本の歌、とりわけ童謡に関心が向いている。名曲を残した秋田出身の作曲家がいる。名曲「浜辺の歌」は、成田為三の作曲である。作詞は林古渓であるが、多くの人々に歌い継がれている。詞も美しいが、曲は、輪を掛けるようにして美しいと感じる。成田為三は、明治二十五年に生まれたのだが、出生地は現在、北秋田市になっている。秋田師範学校から教師になったが、東京上野にあった東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学し、山田耕筰に指導を受けている。大正時代頃までは、音楽家として独立するということは困難で、教職についた人がほとんどである。成田為三も例外ではないが、ドイツにも留学している。西洋音楽を本格的に学んだ人物だからこそ名曲「浜辺の歌」は生まれたと言いたいが、この曲は、留学前の大正五年の作品である。
 成田為三の曲には、北原白秋の詞に曲をつけたものが多いのに気づく。鈴木三重吉が中心になって発行した雑誌「赤い鳥」に掲載することが多かったからである。いわゆる、「赤い鳥」運動である。「雨」・「ちんちん千鳥」・「赤い鳥小鳥」は、北原白秋の詞である。「かなりや」は西條八十作詞である。
 北秋田市は、内陸にあって海に面していないのだが、充分成田為三は、秋田の海岸を意識したであろうことは想像できる。日本海の海岸には、北海道のように浜茄子の潅木が自生している。しかし、海岸からの防風林を作るために人工的に植えられた(種を蒔いた)ものらしい。浜茄子が、海岸の砂が内陸に押し寄せるのを防ぐわけではなく、クロマツが育つために必要な植物らしい。秋田県でも江戸時代、防風林を心血注いだ人物がいる。栗田定之丞という人物で、秋田藩の役人だったらしいが、農民はただ働きさせられるので、この人のことを憎んだと司馬遼太郎は書いている。能代にもりっぱな防風林があるというが、こちらは越後屋太郎右衛門という商人が私財を投じて作ったのだとも書いている。立派な行いと言うしかない。元日の秋田海岸には行って見られなかった。成田為三を思い出したおかげで、浜辺の浜茄子の花を思い浮かべることができた。本のタイトルを探していたのである。「翁草」の後なので、夏の植物にしたかったのである。
 中村草田男の句に浜茄子を詠んだものがある。好きな句の一つである。
  浜茄子や今日も沖には未来あり
浜茄子は、浜梨(ハマナシ)で、東北人の発音でハマナス(浜茄子)となったというのだが、本当であろうか。次の紀行は海外を見据えて、イタリアから書き始められるかもしれない。市内の健康ランドの温泉に浸かり、正月気分を味わいながら、良い一年のスタートが切れたような気がする。
  

Posted by okina-ogi at 07:29Comments(0)旅行記