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2013年12月28日

中山克己さんを偲ぶ

中山克己さんを偲ぶ
年の瀬に中山克己さんが亡くなった。84歳だった。男子の平均年齢を超え長寿だったが、職場の人に教えられ突然の訃報というに近かった。中山さんとは、25年以上前からのお付き合いで、群馬銀行の外郭団体である群馬経済研究所に勤務されている時に、現在私が勤める法人の創設者の自叙伝の執筆をお願いしたのがご縁になった。その後、法人の30年史編集の顧問なっていただいた。昭和63年のことである。
中山さんは、誠実でマメな人柄で、人好きだった印象が残っている。銀行員にしては、珍しく(これは、言い過ぎですが)文才があった。ご自身も随想を書かれて著書を贈呈していただいたことがあった。私も旅日記と称して数冊の紀行文の小冊子をさし上げたことがあったが、そのたびに丁重なお手紙をいただいた。
おつきあいした当時は知らなかったのだが、俳人でもあった。この点は、共通の趣味といえるが、中山さんは「群青」という句会に所属し、本格的なものだった。数年前の夏、群馬町の県立土屋文明文学記念館でお会いしたのが最後になった。その時、『群馬の俳人 私の風景 1999 写真・久保田淳子』あさを社 という本を署名入りでいただいた。群馬県下の俳人が句を寄せている。中山さんも写真付きで載っていたが、次のページには奥様の句も載っている。夫婦して俳人だったことは、驚きであった。おしどり夫婦というのは中山ご夫妻のような夫婦を指すのだろう。
一句ご紹介したい。
「ふり仮名の如く妻添い初観音」
ご冥福をお祈りします。
  

Posted by okina-ogi at 17:27Comments(0)日常・雑感

2013年12月28日

映画『永遠のゼロ』鑑賞

映画『永遠のゼロ』鑑賞
友人のフェースブックを見ていたら、『永遠のゼロ』が上映中だということを知った。特攻をテーマにしているらしい。『風立ちぬ』でもゼロ戦が話題になった。以前、法人の記念誌の編集で大変お世話になった方の通夜があり、葬儀場がイオン高崎に近かったので、終了後に鑑賞することにした。
 この日、事前の予告なく安倍首相が靖国神社を参拝した。当然のことながら、中国、韓国から批判の声明が出された。ここまでは、想定内だったであろうが、アメリカからも好ましい判断ではなかったという声明が出された。安倍首相は、平和と非戦の思いで参拝したと、隣国に理解を求めたが、通じそうもない。国民の反応を見ると意外と賛成が多い。しかし、マスコミは、国益を考えるとマイナスだったと論じている。結果は、今後の外交を見ないとわからないが、プラス方向にはいかないだろうと思う。『永遠のゼロ』を観た後にそう思った。
 日本人は、最近はそうでもなくなったが、「情」というものに動かされる。「知」や損得では感動しない。主人公が、愛する家族を残して、特攻になぜ志願したかは、映画の中で誰もはっきりした答えを持たなかったが、日本人としての「良心」、つまり「真情」によるのだと思った。
 戦争ほど愚かしいものはないと思う。戦でなくて世の中の紛争を解決したい。ただ、評論的に言うのはやめたい。3.11の時、高層ビルに突っ込む航空機を見て、「神風だ」、「真珠湾」だと叫んだ人がいた。映画の中で、主人公の孫が友人達との会食会で、「特攻は自爆テロ」だと言うとむきになって反論する場面があった。私も彼の気持ちが良く分かる。戦う意思のない民間人を攻撃したわけではないのだから。
 この飽食暖衣の時代、国のためや、他人のために死ぬようなことはないと思うが、「自分を後にして他人を先にする」考えは古びてはいない。人の喜びは「与えられるより、与える」ことだと教えてくれた人がいた。
  

Posted by okina-ogi at 13:39Comments(0)日常・雑感

2013年12月28日

『侘助』(拙著)中欧を行く(下)

 一般ツアーに便乗する旅と違い、また少人数であったこともあり思い出に残る旅になった。音楽や絵画鑑賞の他に、個人的な目的もあったが、それは、地理に暗いことや、団体旅行による時間的な制約もあり実現できなかった。精神分析の大家、ジグムント・フロイトの記念館を訪ねて見たかったのである。一五年前のウイーン訪問の時は、早朝の散歩で、開館前で、建物の前を素通りしただけだった。大学で専攻した心理学は、深く学んだと言えないが、フロイトの著作は真剣に呼んだ記憶がある。あまりにも、無意識の存在を強調し、性的な欲望と結び付ける考え方に、憂鬱な気持ちになったが、その思索の深さと発想には惹かれた。そうした中で光を与えてくれたのは、ユングであった。
 

 ユングの研究者が京大にいた。文化庁長官となり、先年亡くなった河合隼雄である。心理療法としての「箱庭療法」には興味があった。同じ京都にある大学だったが、直接の講義は聴けないので、公開講座に行ったことを憶えている。
 フロイトの精神分析については、これ以上深入りしないが、「心」について考える習癖のある者は、一度は通らなければならない関門のような存在かもしれない。無意識という問題は、後年、以外にも著名な数学者との出会いによって氷解した。分かったという傲慢な言い方は、今でもできないのだが、「無意識」は「造化」という東洋の言葉に置き換えられた。「造化」を神と信じれば信者にもなれるのだろうが、それほどの確信があるわけではない。ただ「人は、生かされている存在である」という大雑把な理解である。そのことを教えてくださったのが、岡潔先生であった。それ以来、なるべく自我を抑止し、悪いことはしないように生きてきたつもりであるが、悲しいかな無明に支配された衆生の域を抜けないでいる。「自分を後にして他人を先にする」というのは、行為としてなかなかできるものではない。フロイトには悪いのだが、青春時代の麻疹をもたらした
 人の面影を、この旅を利用して追って見たかったのである。再度、ウイーンを訪ねる機会もあるだろうから、その時、気持ちの中にフロイトの存在が消えなかったならば、実現させたいと考えている。
 個人的な目的というよりは、関心事として西ローマ帝国の滅亡後、水道事業はどうなったのかということである。
「ウイーンの水(水道水)は飲めますが、プラハは駄目ですよ」
旅行前の添乗員のアドバイスである。ウイーンはアルプスの水が引かれていているのだという。水源地とウイーンまでは二〇〇キロの距離がある。しかし、設備工事が完成したのは、近年のことである。ヨーロッパの中世は、ローマの正の遺産とも言うべき、水道事業は、引き継がれたとは思われない。塩野七生の『ローマ人の物語』では、帝国滅亡後の一五〇年後に蛮族の侵入を恐れるがため、自らの手で水道の坑道を封鎖してしまい、その後の記述もない。イタリア以外のローマ帝国が支配していた地域の諸都市にも水道設備が建設されたが、その後維持使用されたかは定かではない。水道事業の公共性というローマ人の進んだ思想は、中世ヨーロッパには引き継がれなかったとみるべきだろう。ブラチスラヴァの旧市街地の広場にあったのは、井戸であり、近郊に水道橋の遺跡などは見られなかった。それは、ローマの文化を継続する意志だけでなく、諸国間の紛争が絶えなかった時代だったからであろう。
 現代ではあるが、ウイーン市民がはるか二〇〇キロ先の清水を飲んでいることは、すばらしい。そして、美味しいワインもある。十一月には新酒が解禁となる。ウイーン郊外の農村地帯に新酒を飲ませてくれるワイン酒場があるらしい。軽音楽と家庭料理付の酒宴をホイリゲと呼んでいる。ベートーベンが散策して「田園」を作曲した場所に重なる。今回は、その機会に恵まれなかった。しかし、帰国後、群馬日墺交流協会ではホイリゲの集いを企画していて、直輸入したワインが飲める。今回旅行に参加したメンバーとも再会できる。その日は、十一月二八日である。
 一五年前のオーストリア旅行の雑感が残っている。訪問したのは一月で、モーツァルトの生地ザルツブルグも訪ねている。四三歳の時である。老人福祉関係の機関紙に寄稿したものである。旅に関連する部分を抜粋してみた。
 外から見た私
 囲碁好きの人なら〝岡目(傍目)八目〟という言葉の意味がよくわかると思う。対局者以上に、傍から見ている方が冷静になれて、勝敗の動向がよく読めるということがよくある。海外旅行など珍しいことではないが、国外に出ると日本のことがよくわかるというが、これも一種の〝岡目八目〟であろう。
 (中略)
 この一月、〝ウイーン・ザルツブルグ音楽の旅〟というツアーに入って〝文化〟に触れる機会を得た。音楽はもちろん、建築・彫刻・絵画どれも目をみはる物ばかり。私が感心したのは、暮らしの基本である衣食住に誰もが個性を発揮しているように見えたこと。お金をかけているのだろうが、日本と比べて極端にお金をもっているわけではないのだから、センスと関心度の違いということになる。比較文化論じみてくるが、〝消費〟と〝蓄積〟ということばに置き換えて、日本は家にしても木造で五〇年もしないうちに建て替えるようなケースが多いが、ウイーンでは、百年も前の家を内装を変えたりして使っている。祖父の代からの机や食卓などの家具を使っているなど珍しくない。日本なら仏壇などを除いたら、新築と同時に、古いものはさっさと捨てて新しい家具をそろえる。〝良い物を大事に長く使う〟ここが便利主義に走りがちな日本と違うところかと思った。暮らしの豊かさを実感するのは、決して所得水準の高さだけでなく、むしろお金の使い方、センスである。〝人の手が加わった良い物を大事に、しかも自分の生活に溶け込ませて使う〟、これが、今回の旅の最大の収穫であった。
 日本の文化が悪くてヨーロッパが良いということではない。福祉についてもそう思う。福祉については歴史が違うのだから、日本が学ぶべきところが多いのは当然。しかし残念ながら、国民の福祉への意識度が違う。古い施設を見たが、アメニティーがある。人の手が加わっている証拠である。自分を職場から離れたところに置いてみる。できたら一人が良い。肩書きや身分など関係なく自分としてふるまうしかないから、普段の自分が見えてくる。
  

Posted by okina-ogi at 09:14Comments(0)旅行記

2013年12月27日

『侘助』(拙著)中欧を行く(中)

 
 


 カレルシュタイン城からプラハ市内までの郊外には、別荘地があって、週末や、夏休みを別荘で過ごす習慣があることを教えられた。都会人が、自然の中でゆったり過ごしたいという願望は、日本人以上だと思った。音楽会や、美術鑑賞、教会での礼拝も心の洗濯にはなっているのだろうが、別荘で過ごす時間は、家族や友人との絆を深めることになっているのだろう。この夜には、オペラの鑑賞が予定に入っている。ロッシーニの作品で「セビリアの理髪師」が国民劇場で上演される。その前に、少し早い夕食をとることになった。食事には、お酒がつきものだが、時差ボケもとれない旅行二日目の夜ということもあり、添乗員から飲みすぎないようにという注意があった。チェコは、ビールの消費量が世界一の国だという。黒ビールがおいしいと言うので、中ジョッキに二杯飲んだ。セーブしたつもりである。食事の途中、流しのおじさんが演奏してくれる。日本の曲までサービスしてくれたのだが、旅行メンバーの中に声楽家の若い女性がいて「オオソレミオ」をリクウェストして歌いだす。その声に惹かれて、隣の部屋から客が顔を出し、歌が終わると、大拍手で「ブラボー」ということになった。
 ホテルに帰り、ほろ酔い気分も抜けて、正装してオペラ会場に。席は、最前列から三番目という絶好のポジションだった。会場内の雰囲気は見事である。建物の装飾が豪華である。演奏付き三時間というのだからオペラは贅沢である。日本で鑑賞すれば、数万円というところだが、一万円もしない。内容は素晴らしいのだが、さすが言葉の意味もわからず長時間の鑑賞に睡魔が襲ってくる。まるで修行のようにして観て聴いた。
チェコスロバキアは、二〇年前は、一つの国であった。一九一八年にオーストリア・ハンガリー帝国から独立し、共和国になった。初代大統領がマサリクである。プラハ城前の広場に彼の像があった。細身で長身の姿に見えた。近くで、「モルダウ」をヴァイオリンで演奏している人に出会った。マサリクはチェコ人を母に持ち、父はスロバキア人であった。プラハ大学の哲学の教授でもあり、ジャーナリストでもあった。国際感覚を持った自由主義者で、チェコの民族性も無視しなかった。妻は、アメリカ人である。この両民族の国家は、二つの世界大戦とソビエトの共産主義のくびきから解放され、チェコ共和国とスロバキア共和国に分かれた。円満な離婚のようでもあり、ビロード革命と呼ばれている。


 スロバキアの首都はブラチスラヴァである。オーストリアの首都ウイーンから六〇キロメートル程の近距離にある。ドナウ河の近くの丘の上にブラチスラヴァ城がある。ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジアも足繁く滞在した由緒ある城だが、火災で一五〇年間放置されていたが、きれいに修復されつつある。丘の下の道路を挟んで聖マルチン大聖堂がある。マリア・テレジアはこの教会で、ハンガリー王として戴冠式を行った。この教会も修復中であった。
ハプスブルク帝国という呼称は適当ではないと思うが、ハプスブルグ家が収めた帝国といった方が良いかもしれない。長くオーストリアのウイーンに都を置いた。スイスの北東部、ライン川上流に近い小さな城主が、突然神聖ローマ皇帝に選出された。ルードルフ一世である。一二七三年のことであるが、それから約七〇〇年の間に、神聖ローマ皇帝を長く務め、帝国を治めてきた貴族であるハプスブルク家は、戦によらず、婚姻によって領土を拡大していった。
 一八世紀の女帝ともいうべきマリア・テレジアは、女性であったため神聖ローマ皇帝にはならなかったが、帝国の改革に着手し、政治手腕を発揮した。彼女は、人材活用に長けていた。宰相になったカウニッツがその代表的な人物である。帝国の政治は、皇帝をとりまく数人の人物の補佐によって行われていた。財務大臣、外務大臣、内務大臣それを統括する宰相である。ナポレオンと渡り合ったメッテルニヒの時代は、外務大臣を兼務した。有能なスタッフと皇帝のリーダーシップが帝国の運命を大きく左右する。フランツ帝は、マリア・テレジアにとって良き伴侶であった。一六人の子供に恵まれた。早世した子供も多かったが、フランスのブルボン家のルイ一六世に嫁ぎ、革命によって断頭台に消えたマリー・アントワネットは娘の一人である。
プラハから、ウイーンまでは空路で一時間もかからない。ウイーン訪問は、一五年ぶりである。束の間の記憶しかないが、オペラ座やホーフブルク王宮あたりの景観は、当時とほとんど変わっていない。日曜日の朝、皇室礼拝堂で聴いた、ウイーン少年合唱団の讃美歌もその場所、その声である。ウイーン滞在二日、旅の四日目は、午前一一時から楽友協会でウイーンフィルの演奏会が予定されていた。小沢征爾が指揮した、ニューイヤーコンサートの会場である。ツアーの面々は二派に分かれる。音楽組と絵画組とに。音楽組五人、絵画組四人。既に旅行前、演奏会のチケットを購入していたのは、三人で、娘がウイーンに長く定住していてその配慮で、その日なって演奏を聴くことになった人がいた。加えて、当日券を買って聴いてみたいという人がいた。三〇〇席ある立見席で、極めて安価で求めることができるが、購入できる保証はない。見事願いは成就して、五ユーロで購入できたという。
 

 絵画組が訪ねたのは美術史博物館である。この美術館を薦めたのは私である。一五年前にウイーンを訪問した時も、足を運んでいる。レンブラント、ブリューゲルといったネーデルランドの画家の作品が展示されている。この美術館を鑑賞後、音楽組と合流してリヒテンシュタイン美術館を見学することになっていた。この美術館の収蔵作品もネーデルランドの画家の作品が多いのである。芸術は、音楽ばかりではない。絵画も心の調べを表現している。ブリューゲルの絵に再会した。「バベルの塔」をはじめ、「農民の踊り」も展示されていた。彼の作品は、多くの人間が描かれている。当時の世相も知ることができる。宗教画や肖像画が多く描かれていた時代にあって特異な画家である。しかし、今回じっくり見たいと思っていた絵がある。イタリア、ルネッサンス期の画家、ラファイエロの「野中の聖母」である。


 二人の子供を見つめる、聖母マリアの姿は清楚である。子供は裸であり、無垢である。平和そのもの、命そのものという感じがする。その対象に、ピエタがある。十字架から降ろされた我が子を抱くマリアである。リヒテンシュタイン美術館で見た、レンブラントが描いた、刑死後のキリストと、マリアの顔から血の気が引いている絵は強烈であった。生と死、人間の宿命を感じざるを得ない。その間にドラマ(人生)があるのだが、聖母子の生と死の構図に、キリスト教のカソリックの信仰を見るような気がした。ブラチスラヴァの旧市街地の広場近くに、聖母子像を見たが、紅葉の木々に包まれて印象的であった。黄葉が、まるで萌黄色のようであり、今まさに葉が萌え出ずる春のように感じたからである。俳句にできないかと思案したが説明句になってしまう。
聖母子像 萌黄に紛う黄葉かな
御子抱く 母も黄葉に抱かれて
 キリストの余りある愛の行動、犠牲という崇高な終焉、それ自体純粋な父性の精神と言い切れるのか。プロテスタントの、敬虔で、つつましい印象と同義と言えるのか。背後にあるマリアの存在、大地という存在を無視して神を語れるのか、その結論は出なかった。自分にとって、そもそも一神教の世界は理解しがたい。多神教の方が余程気が楽である。少なくとも男女二神という方が救われる。日本人だと思った。種と土、農耕民族は太陽が好きである。
最後の晩餐、つまり旅行メンバーの打ち上げは、王宮の近くのアウグスチナーケラーであった。ワイン蔵のような場所で、ウイーンでも名の知られた居酒屋らしい。ウイーンと言えば白ワインだというが、赤ワインも飲みつつ、大いに旅の思い出を語りあえた。ウイーン在住の音楽家である、同行者の娘さんが、赤飯を炊いてきてくれた。日本に帰る日、娘は父や我々を見送ってくれた。彼女は、ウイーンの森近くに住んでいる。
父娘別離 ウイーン郊外氷雨降る
  

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2013年12月26日

『侘助』(拙著)中欧を行く(上)

中欧を行く
 一昨年のイタリアから北上して、オーストリアとチェコ、スロバキアを旅することになった。九名の小グループの七日間の旅である。主催は、群馬日墺交流協会である。墺の文字で推察できると思うが、音楽愛好家の団体で、五〇人近くが会員になっている。墺とは、オーストリアのことで、この地域は中欧と我が国では呼んでいる。ドイツやポーランド、ハンガリー、スイスなどの国々も中欧に入る。戦後、中欧の一部の国々は、共産圏に組み込まれた時期があったが、現在は、EU(欧州連合)に加盟している国が多くなっている。
 

 EUは、通貨を統一しているわけではないが、ユーロが広く使われている。イギリスは依然としてポンドであり、今回訪問したプラハのあるチェコは、コロナである。しかし、国境を越えてのヨーロッパ旅行の入国手続きが緩和され、移動しやすくなった。オーストリアの首都ウイーンからスロバキアの首都ブラチスラヴァへ日帰りで行き来したのだが、高速道路をノンストップで国境を越えることができた。検問は全くない。列車での移動も同様である。
 イタリアでは、ローマ帝国を強く意識して旅をし、紀行にもそのことを書いた。しかし、その後のヨーロッパの歴史についてはほとんど知識を持ちえていないが、ローマ法王庁を核としたキリスト教がアルプスを越え広くローマ帝国が支配していた地域に伝播していった歴史と捉えても良いかもしれない。四世紀から、一五世紀に至る千年以上に渡る期間が中世と言われる時期で、この時期に当たる。王族、貴族といった一部の実力者が人々を支配し、階級的な区別が固定していた時代である。
 実力者が群雄割拠する中、今日のドイツを中心とした地域の中に、神聖ローマ帝国という宗教を権威とした共同体のような不思議な帝国が誕生した。オットー一世が初代とされる。西暦九六二年のことである。ここから、中欧を軸とした帝国が、ヨーロッパの歴史を動かしていく。その中で、長きにわたり、神聖ローマ帝国を維持させ、光り輝いたのが、ハプスブルグ家である。ハプスブルグ家については後に触れたい。旅先で、ガイドさんがうまい解説をしてくれた。神聖ローマ帝国を、範囲は狭いが、今日のEUと思えば良いというのである。EUには、ローマ法王庁のような権威が背景にあるわけではないが、政治、経済の上での自由主義経済、民主主義的政治形態といった共通項がある。
 日本人のツアー客にさらに分かりやすいようにと思い
「日本史で言うなら、ローマ教皇が朝廷で、神聖ローマ皇帝が幕府のようなものですかね」
というと
「そんなスケールの小さいものではありません」
余計な説明は無用というばかりにお叱りを受けたが、喩があまり大雑把過ぎたとは思いつつも、自分では納得いくところがあると、旅から帰ってもその考えは変わらない。隣で、日本から我々を引率していた添乗員さんが笑っていたからである。この人は、歴史への見識が深い。
 ヨーロッパと日本との時差は、十月だと七時間である。しかも、気流の関係で往路は時間がかかる。行きは、辛くて一日が長い。飛行機の中は、なかなか眠れない。温度管理ができていて、寒さは気にならない。トイレに行く時、上着を脱いで行って帰ってくると、ユーロ紙幣を入れた財布が内ポケットにない。座席の下を見たが、隣席に人もおり狭くて捜しにくい。飛行機は、高度を下げて目的地に向かっている。乗務員には、話そうと思っていたが、財布を身につけていなかった自分が悪いと半分諦めかけていたら、後ろの席から
「これ、あなたの財布とはちがいますか」
と財布を差し出す女性がいた。今回の旅の同行者のOさんである。足元に光るものがあったので分かったという。財布は黒であった。暗雲立ちこめた気の重い旅の始まりに雲間が割れて光が差し込んできた気分になった。彼女の姿がマリア様に見えてきた。旅の中では、マリア様と呼ばしていただいた。この旅の中で、キリスト教におけるマリアの存在、さらにはカソリックの歴史を少し覗いてみたいと考えていたので、この財布紛失は、二重に忘れられない出来事になった。


 最初の訪問地はプラハである。カレル橋から見たプラハ城の町並みは実に見事である。多くの戦乱もあったが、良く歴史的建物が残ったものである。ロマネスク、ゴシック、バロックなどと称する建築様式がこの町には見事に残っている。到着日の翌日、案内されたのはカレルシュタイン城である。プラハの町から西南に四〇キロ程言った山の頂に建てられている。カレル四世は、神聖ローマ皇帝であり、チェコ王でもあった人物で、チェコ人から「祖国の父」と尊敬されている。彼は、チェコの守護聖人の筆頭ともいうべき、ヴァ―ツラフの末裔である。ヴァ―ツラフ広場に名を残し、ホテルは広場の近くにあった。チェコの民衆が民主化に立ち上がった「プラハの春」の舞台になった場所でもある。カレル四世のカレルシュタイン城の築城は、一三四八年に開始された。日本の室町時代にあたる。彼は、またプラハの町の骨格を作ったともいえる。聖ヴィート大聖堂やカレル橋の建設を着工し、カレル大学を設立し、市街地も新たに整備した。この時代は、「黄金のプラハ」と呼ばれている。ゴシック建築が多く建てられ、尖塔が林立する今日のプラハの景観もこの時代に発している。
カレルシュタイン城の中を案内してもらったが、暖炉もあり冬の寒さを凌げるようになっている。日本を旅立つ時は、二〇度近くあった気温が、この日は昼でも六度くらいしかならなかった。木々は紅葉し冬も到来したといってもよい。コートの冷たさが腕に伝わり、耳が冷たい。城内には、騎士の住居もあったが、祈りの場所である聖母マリア教会がある。プラハ城もそうだが、城と教会がセットになっている。カレル四世の時代、大司教座があったため、プラハ城の中にある聖ヴィート大聖堂は壮大で長い年月をかけて完成に至っている。宗教の権威と政治の権力がなければ成し得ない事業である。同行者にプロテスタントの信者さんがいて


「私たちは教会にこんなにお金はかけない」
という一言が印象に残った。
 カレルの息子のヴァ―ツラフ四世も神聖ローマ皇帝になったが、カレルほど有能ではなかったために、プラハは衰弱の道を辿ることになる。この時代に登場するのが、ヤン・フスである。ローマ教会の腐敗に反旗を翻したのである。確かにカレル四世は、ローマ法王庁の権威に深く結び付き政治を行ったが、高位の聖職者を優遇したために、教会の腐敗の芽を作ってしまった。カレル大学の総長までになった、学識あるフスの知性と良心はこの事実を無視できなかった。尋問にも意見を曲げず、その結果火刑に処せられた。「真実以外の何物にも従わない」というのが辞世の言葉のようになった。心を売るようなことはできなかったのである。考えを変えれば、命は保証すると言われてもそれをしなかった。ルターの宗教改革よりもほぼ一〇〇年前のことである。
彼の死は、後にカトリック教徒の間に争いを生むきっかけとなった。フスの唱えたキリスト教を信奉する人々の力は抑えきれず、カトリック側も容認せざるを得なくなったが、一六二〇年「白山の戦い」でフス派は、決定的な敗北を受けて、首謀者とされる人々は、広場で処刑され、カレル橋に晒されるという悲惨な結果を生んだ。舌や手足を切られて処刑された人もいた。キリスト教とは、程遠い行為である。清教徒は、イギリスを離れ新天地に向かったが、この時代、宗派間の融和というのは、一神教であるキリスト教では難事だったというべきなのだろうか。
 フスが自らの死も享受した考えとは良く理解してはいないが、現世の権威の中にある矛盾に目をつむってはいられなかったということではないだろうか。彼の晩年の死までの道のりを見ると、安政の大獄に斬首された吉田松陰を想起させられる。何か体質が似ている。チェコ民族の魂を純粋培養したような人物ではなかったであろうか。
後年、この国には、スメタナという音楽家が生まれた。現在、市民会館の中にスメタナ・ホールがあり、プラハの春音楽祭のメイン会場になっている。彼の命日である五月一二日に演奏されるのが「わが祖国」である。その交響詩の中の「モルダウ」は、日本人にもよく知られている。次郎物語の映画のバックミュージックに使われたのを覚えている。スメタノの代表的なオペラ「売られた花嫁」は有名である。彼は、ベートーベンと同じように、中年を過ぎ、五〇歳のころ聴力を失った。「わが祖国」の作曲は、その後の作品だというから驚きである。精神病となり亡くなったという。
  

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2013年12月25日

『侘助』(拙著)配流の島佐渡へ(下)

 


 友人の旅の目的はともかく、佐渡に渡るにあたり意識した人物は、世阿弥である。世阿弥は、能の世界でも、明治になるまで忘れかけられた存在に近かったらしい。今日では『風姿花伝(花伝書)』が有名で、能という芸の奥深さを伝えている。世阿弥の生涯を知るために教材にしたのは、白洲正子の『世阿弥』と瀬戸内寂聴の『秘花』という小説である。『秘花』は、瀬戸内寂聴の八〇代の作品である。世阿弥の言葉で、人口に膾炙されているのは「秘すれば花なり」であり、小説のタイトルもこの言に由来する。「初心を忘るべからず」も世阿弥の言葉であることも併せて知った。
 今日まで、能の実演を、正式な舞台を前にして見た体験はない。テレビの実況で演じられているのは知っているが、意識して鑑賞したこともない。日本の芸能の中で能ほど自分にとって無知な世界はない。だから、能について語ろうとも思わないし、その資格もない。しかし、世阿弥という室町時代に能を確立した人物の概要は紹介したい。
 世阿弥の父親は、観阿弥であり、観世流の能の創設者である。観阿弥の母親は、楠木正成の姉妹だとされている。世阿弥は、幼い頃から父親の指導を受け、能の芸を高め散った。世阿弥の幸運は、室町幕府三代将軍、足利義満に寵愛されたことである。童子であった世阿弥の舞に一目惚れしたのである。世阿弥は、この時一一歳であった。相当の美少年だったらしく、信長と森蘭丸のような関係になったと伝えられているが、真偽のほどはわからない。
 二一歳の時に、観阿弥が死去し、観世座を継承する。そして、父親から伝授された芸を、言葉に表したのが『風姿花伝(花伝書)』である。三七歳の時の作品だとされている。元雅、元能の後継者にも恵まれ、七〇歳の齢を超えた頃、世阿弥の身辺に不幸が訪れる。元雅は、死に、元能は、出家する。世阿弥は、六代将軍足利義教により、佐渡に流されることになる。罪という罪はないほど、理不尽な配流としか言えない。七二歳の老境を襲った不運である。足利義教は、為政者として善政とは程遠い政治を行ったために、守護大名に暗殺されている。足利義教は癇癪持ちで、気分にむらがあり、無闇に人の首を刎ねたり、領地を没収し、世阿弥のように遠島を命じたりもした。これでは、家臣や、側近の者は枕を高くして寝ることもできない。足利義教の末路に同情は寄せられなかったようだ。ようやくにして、世阿弥は赦免され、京に帰ることができた。既に、妻は世を去り、数年して八〇歳の生涯を終える。一休禅師の計らいもあり、大徳寺の真珠庵の墓地に眠っている。
 佐渡に流された、世阿弥の足跡は詳しく知らないが、佐渡博物館に「佐渡状」の写しがあった。娘婿の金原禅竹に宛てたものである。少しの不自由はあるが、芸の道を捨ててはいない。悲痛さはなく、世を恨むような表現はない。配流は、人為的に世を捨てさせる行為とも言える。かの聖女、マザーテレサが指摘したように、人は相手にされず、無視されたときが辛い。配流という行為は、死は与えなくも、生きながらえながら人を世から隔離する残忍な行為ともいえる。順徳天皇は、その行為に二〇年しか耐えられなかったが、世阿弥は、高齢にもかかわらず前向きであった。瀬戸内寂聴は、それに惹かれて『秘花』を書いたのであろう。
 「秘すれば花なり」とは、意味深長な言葉である。観阿弥の言だともされる。能は、能面をつけて演じられる。表情は、観衆に見られることはない。しかし、この能の仮面芸術としての様式以上に、精神的な能役者のあり方を、伝えようとしたのだと思われる。白洲正子は、エッセイの中で、兼好法師の徒然草の一節を引用しているが、それは
「物に争はず、己を曲げて人に随ひ、私が身を後にして人を先にするに如かず」
この、無私の精神は、茶や俳句の世界にも通じ、日本文化の底辺に流れているような気がする。日本人には、道徳がないという人がいるが、道徳のような戒律を超えている。
 「初心を忘るべからず」は、平凡な言葉にも見えるが、『花伝書』には繰り返し書かれている。世阿弥は、演じる人であり、創作する人であり、論ずる人であった。その点、能の世界では、万能、天才の逸材であるが、『花伝書』自体、父観阿弥の教えを忠実に書き伝え、実践してきた結果生まれたものである。現代流に言えば、生涯学習の教えとも言える。さらに、自己の精神的、芸術的向上は、次の世代への継承を重視している。現代の観世流は、観阿弥の直系ではない。観阿弥が世阿弥に教えたのは、血の継承よりも心の継承だった。世阿弥の生き方は前向きだと書いた。佐渡には金山もある。チリの鉱山に閉じ込められた人に世阿弥の精神を伝えたいと思った。
紀行を書き終えた頃、友人から旅の俳句が届いた。無理にこちらからお願いしたのであるが、最後に
「切れ切れの記憶も辿って創ってみたが、以降は句の注文には応じられんのであしからず」と、今回で、友人の句の掲載は終わりとする。
旅の時間の流れに整理して、七句そのまま載せる。
○日盛りやとろりと眠る波の上
○そもそものはじめを忘れところてん
○日盛りを歩く海辺の宿屋まで
○海鳥(うみどり)の声する闇やメロン喰う
○佐渡に寝て波も銀河も夢の外
○沖くらくけふも風なき百日紅
○緑陰に客待つバスも眠りをり
  

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2013年12月23日

『侘助』(拙著)配流の島佐渡へ(上)

配流の島佐渡へ
 

 島民の人々からすれば、不快なタイトルであろう。配流、すなわち島流しの意味であるが、権力者の勘気に触れ、古代から佐渡は、貴人、偉人の配流の地になった。八世紀以前、国府が置かれ、佐渡国となっていたが、鎌倉時代、執権北条泰時の時代に起こった、承久の乱に後鳥羽上皇とともに関与し敗れた、順徳天皇は、その代表的人物で、行在所になった真野地区には真野宮跡として、その史跡が残されている。この場所に近年、「佐渡歴史伝説館」が開設され、精巧なロボットにより流罪になった人物の歴史が語られている。日蓮、世阿弥も登場する。北朝鮮に拉致され、帰国した曽我あゆみさんの夫であるジェイキンスさんが販売店でおせんべいを売っている。このことは、流罪とは、関係ないが、佐渡が人間の運命の中で数奇な島となっているという印象を重ねている。
 ここ数年、岡山県在住の友人と、交互に訪ねられたり訪ねたりの旅をしている。彼は、今年で定年になった。当方と違い、時間は充分にある。希望が佐渡であった。我が家に一泊し、翌日佐渡に渡り、最後は、空路岡山に帰らなければならないので、新潟の海辺寺泊を宿泊地にした。名所、旧跡には関心の薄い人で、旅館の食事と温泉に配慮しなければならないと考えていた。今回、それも必要なさそうだと分かった。目的は、語らいと酒と将棋をさすこと。今年の七番勝負は、こちらが片目を空けただけの無残な結果に終わった。こちらの苦渋な心境も察せず、一回負けたと悔しがっている。それに加えて
「佐渡は、とりたてて見所がなかった。一度で充分」
などと、素っ気のない感想をのたまった。寺泊に近い出雲崎に良寛堂や記念館に案内しようとしたが、時間の無駄と言うばかり。佐渡を眺める良寛像を、車窓から眺めた時も
「あれは、唯の人形じゃ。人は、行いと文章、歌で判断すればよい」
したがって、記念館も案内しなかった。月曜日は、休館日でもある。
帰路に着いた日、自宅から電話があった。
「大変お世話になりました。来年はこちらにいらっしゃい。夏ではない方が良いと思うが。家にも泊まってもらってもかまわないから。将棋は、少し練習しておけよ」
最後の一言だけが余計である。
 佐渡にはフェリーで渡る。八月に佐渡汽船が所有する一隻が故障して運休している。運よく一等席が予約できた。所要時間は、新潟港と両津港に二時間半である。途中、イルカらしき姿も見られた。海は穏やかである。デッキに出ると海風が心地よい。この日も猛暑日ではあったが、海上に出ると暑さが凌げている。両津の港に入ると、船の近くカモメが群れをなして飛ぶようになった。餌付をしているのだが、歓迎の乱舞のように感じて少し嬉しくなった。配流の人々とは違う。日蓮が、佐渡に渡ったのは、寺泊からで、着いた地点は、小佐渡丘陵地のある前浜海岸に近い、松ヶ崎あたりだったとされる。しかも、海は荒れていた。しかも小舟である。日蓮がお題目を唱えると海が鎮まったという伝説が残っている。日蓮の宗教は、純粋で他の宗派を批難し受け入れない過激なものに当時の為政者に映った。北条時宗は、滝の口の法難で知られるように、僧侶の身分と知りながら処刑まで考えた。死は免れたが、佐渡に流された。その時、日蓮は、五〇歳を超えていた。流刑地、佐渡の塚原で行った問答の中で
 我日本の柱とならむ
 我日本の眼目とならむ
 我日本の大船とならむ
と信念を言い放った。
その地に建てられた、根本寺にその額が掛けられていた。
内村鑑三が著書『代表的日本人』の中で、日蓮を取りあげている。
 

 我々の乗ったフェリーは、着岸し埠頭に降り立ったが、佐渡も熱い。今宵の宿は、加茂湖畔にある。汽水湖である加茂湖と佐渡一番の高峰である金北山の山並みが美しい。夜は、この湖で養殖された牡蠣が食膳に出た。翌朝五時前に目覚め、ベランダに出ると山の端近くに月が朧に光り、街灯の湖面に映る姿に風情があった。
 佐渡の湖 まだ明けやらず 夏の月
そういえば、芭蕉の句に
 蛸壺や はかなき夢を 夏の月
がある。こちらは、須磨の海岸だったか。少しは、この句に影響されている。
  

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2013年12月22日

『侘助』(拙著)高原滞在記

高原滞在記
 高原とは、草津高原のことである。日本の代表的な温泉地の一つである。背後には、草津白根山が聳え、夏は登山客、冬はスキー客で賑わう。この高原に滞在すると表現するには、最低三泊位しなければその資格がない。この夏、三五度を超える〝猛暑日〟が続いた。お盆入りした、八月十四日(土)から十七日(火)まで夏休みを草津で過ごすことにした。天気予報では、この間の関東平野部の気温は、猛暑日と呼ばれるようになった三五度を超えると予想され、そのとおりになった。
 宿にしたのは、〝別荘〟である。自分の所有と言いたいところだがそうではない。経済力があるわけでもないので生意気なことは言えないが、別荘などというものは、「金持ちの贅沢」位に思っていた。叔父は、既に六年前に他界しているが、草津と油壺に別荘を持っていた。山と海に二つの別荘とはうらやましい限りだが、誘いを受けても、仕事が忙しいことを理由に利用させてもらうことはなかった。今思えば、旅好きな人間だから、利用する時間はできたはずである。とうとう海の別荘には、行けなかったが、残念なことをしたと後悔している。というのも、既に人手に渡っているからである。叔母からすれば維持するのに負担が大きい。叔父のようには、利用する頻度も少なかったに違いない。油壺と言えば、城ケ島も近く、風向も明媚で、海の幸もあり、別荘を拠点に鎌倉散策もできたはずである。
 

 変な偏見は持たない方が良い。ある人が、ゴルフは「亡国のスポーツ」だと言ったが、どういう意味なのかいまだに理解できない。健康にも良いし、友人関係も深めることができる。決して安い趣味とは言えないが、年にそれほど行けるわけでもない。会員権を持ってゴルフをしている人はごく一部で、ビジターの人間が多いはずである。
 別荘も必ずしも「金持ちの贅沢」とは言い切れないかもしれないと、今回の草津滞在で思った。三泊したのは初めてだったが、別荘の良さを満喫した気分になれた。下界は三五度を超えても、日中寒暖計は三十度を超える日はなかった。森の中にあるためかもしれないが風が流れ、実に涼しさを感じる。朝方は、布団をしっかりかけていないと寒いくらいである。だからよく寝られる。寝苦しい夏に、熟睡できることがなんともうれしいことかと思った。加えて、時間がゆっくり流れていく感じがなんともいえない。同じ風景を見ているかもしれないが、浅間山も遠望できる場所にあり、近くの山の木々の緑も鮮やかで、日差しの色も刻々と変わり飽きることがない。
 今回の別荘滞在は休養のためばかりではない。主な目的は受験勉強のためである。社会保険労務士の試験が八月二十二日に迫っていて、自宅用の模擬試験を二日間にわたりやってみようと思ったのである。別荘なら集中してやれると考えたのである。一回の試験時間は、午前午後合わせると五時間近い。午後の試験時間は、三時間半だから、終わると頭がボーとなっている。しかし、点数はともかくいやに達成感が残った。
 かれこれ十年近くこの試験に臨んでいるがいまだ合格点にいたらない。合格率は、八パーセントとかなり難関である。自分では八合目までは登っていると思っているが、暗記する数字や、法改正があると、すぐ五号目くらいには落ちてしまう。年齢的な能力や、どうしても受かりたいという気持ちがないから仕方がないかと自己弁護してみるが、本質的に性に合っていないからなのだと思っている。好きになれないものを勉強するほど見に着かず苦痛なことはない。
なぜ、福祉とは無関係ではなくも、法律分野の試験を受けてみようと思ったかというと、時を同じくして事務職をお役御免になった時、現職中は目の前の問題を解決するのに夢中で、専門的知識を身につける時間もなかったことに動機が行きつく。人事や労務管理には基本である「労働基準法」もまともに見つめたことがなかったのである。若い時から、社会には疎いところがあって
「お前は、霞でも食べて生きているのか」
と呆れられたほど、金銭感覚も社会的常識も希薄な人間だった。いまでも、そう生きられれば良いと思っているが、国家間の外交に、軍事力を無視できないように社会的に無垢な人間の専守防衛のような意味もある。法律や経済は所詮、生きるための方便なのだろうが、良寛さんのようには生きられないのも事実である。
職場の同僚から
「毎年、毎年求道者のようですね」
と皮肉とも励ましとも取れる言葉をいただくが、要するに試験に受からなければアマチュアである。趣味というより修行のようで、早く解放されたいものだ。
 「生涯学習だよ」
とは言ってみるが、内心辛いものがある。
知人に、群馬県の社会保険労務士会の会長をした人がいて、事務職にあったころ時間短縮制度の就業規則作成で大変お世話になった。高校の大先輩でもあり、いまもゴルフでお付き合いさせていただいているのだが
 「荻原さん、試験は集中力だよ」
と、ゴルフ仲間ならではの的確なアドバイスはしてくれるが、本人の精進と能力が及ばず合格という頂上には至っていない。頂上には、至らなくとも山登りの経験はできた。職場のコンプライアンス(法令遵守)や自分も含めた友人知人の年金のことにも役には立つかと思えば、集中力のない勉強も無駄にはなっていないと思う。
 少し、私事に触れ過ぎたが、別荘の良さは、思索するには最適な環境だということである。作家が鎌倉など閑静な場所に居をかまえたり、旅館に長期滞在する気持ちも共感できた。すっかり別荘が好きになった。別荘を建てた叔父は、
「充分元をとるほど使った」
と言っていたが、年間の管理費もばかにならない。二四時間、いつでも草津の湯に浸かれることを考えれば、妥当な対価なのかもしれない。居間には、今も叔父の残した遺品が数多く残っている。写真の趣味があることは知っていたが、残されたアルバムには、草津近辺の風景や、高山植物などの写真が収められている。構図と言い、鮮明さといい素人離れしたものに見える。几帳面に、レンズの絞りなども書かれているものもあり、自動式のカメラを使用したものでないこともわかる。油絵もやっていたらしい。自画像の絵が額に収まっている。老年期のものである。やはり兄弟で、父親の面影もある。筆も残されており、絵の趣味があれば絵も描ける。
 

 すっかり、別荘の魅力に魅せられ、叔母が「山の別荘」も将来手放したいと思うのであれば、自分が引き継ぐと言いたいところだが、その経済力はない。やはり、別荘を持つには、身分相応の経済力が必要である。友人から、暑中見舞いに頂戴した、日本酒を飲みながら、何か良い手立てはないかと考えていたら、会員制度にしたらどうかと思いついた。不特定多数では、叔母の所有する限りはできない。気心知れた友人で、読書や思索を好み、自然を愛し、別荘の良さをわかってくれる人なら良い。年会費は、五万円として、五人もいればオーナーの負担も少なくなる。別荘で、友人との語らいの時間もできるかもしれない。サロンにもなる。年間に会員一人が一週間も滞在すれば、それこそ元もとれるということになりはしないか。会員の家族や、友人も一緒に泊まれることにすれば、別荘会員制度も実現可能のような気がするのだが。
  

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2013年12月20日

美作温泉巡り(2013年12月)

美作温泉巡り
 美作は古い地名である。岡山県北部に位置し、名湯がある。津山市に住む友人がいて、ここ数年お邪魔して、観光案内をしてもらっている。おかげで、だいぶ土地勘も働くようになった。友達のよしみで温泉に浸かれるようにという希望を述べてある。内容は、友人まかせである。
 マイレージによって、羽田、岡山の往復航空券が無料になった。日曜日の昼近くに友人が、自家用車で空港まで迎えに来てくれた。以前、待ち時間にビールを飲んで運転を任されたことがあったが、今回はそうならなかった。津山に戻る途中、法然上人ゆかりの寺に案内してほしいと頼んでいたことも無関係ではないようだ。将棋の高段者ということもあり、想像もつかない手を指すことがある。しかし、あとあと考えると、緻密に計算されていて配慮もある。個性的ではあるし、ずけずけものも言うが実行力のある男であることは、昔から変わっていない。だから、友人関係が続いているのだろう。
 津山市に近い、久米南町に誕生寺がある。法然上人が生まれた地に建てられたのでその名前がある。創建したのは、熊谷直実とされている、鎌倉武士で、法然上人の弟子になった人物である。源平の戦いで、一の谷を義経軍が急襲して勝利した時、平家の公達、平敦盛を打ち取った。大変な武勲ではあるが、この世の無常観を感じ、後に仏門に入るきっかけにもなった。「青葉の笛」という唱歌に歌われている。
 

一の谷の 軍(いくさ)破れ
討たれし平家の 公達(きんだち)あわれ
暁(あかつき)寒き 須磨の嵐に
聞こえしはこれか 青葉の笛

誕生寺には、樹齢八五〇年とも言われる銀杏の木(公孫樹)がある。法然上人が比叡山に修行に旅立つ時に地に挿した枝が伸びたとされ、逆木とも言われる。こうした伝承の公孫樹が、岡山県内にあり、友人はそこへも案内してくれた。このあたりの配慮が、何とも憎い。津山市に隣接する奈義町の菩提寺にある。この寺は、那岐山の山中にあり、かなりの標高がある。津山市街からも距離があり雪の心配もあった。この日は寒い日で、頂上には暗雲がたれこめ、積雪も確認できる。山道の途中で崖崩れあったらしく通行止めで、寺までは車を置いて歩くことになった。寒さといい、思い出に残る見学になった。運転してくれた友人の友達は、誕生寺の近くに住んでいて、その大きさに驚いていた。話には聞いていたが、実物を見るのは初めてだったらしい。


 友人の自宅に連泊するのも申し訳ないと思い、一泊は近くの温泉に泊まるように提案したが、結果はそのようにならなかった。そのかわり、標題にしたように美作の温泉を案内してくれた。二日目の温泉地は、湯原温泉である。恵庭市の山間部にあり、湯原ダムの下流、旭川の川沿いに温泉街がある。露天風呂が有名で、西の横綱として評価が高い。東の横綱は、群馬の宝川温泉という番付表の木の看板があった。宝川温泉も群馬の北部にある秘境のような場所にあって、上流にダムがあることも似ている。
 

 一〇度を切る寒い日であったが、川原にある露天風呂には、数人の男性が入浴していた。勧められてもさすがに入る気持ちにはなれない。近くの旅館に入り、昼食を食べて日帰り温泉と決め込んでいたら、駐車場に停めてあった車で引き返すことになった。このあたりが、こちらの読みにない一手なのである。帰路、名勝神庭の滝を見せようという意図と昼食は、蕎麦と考え、店を決めていたのである。神庭の滝は、中国地方一というだけあって圧巻であった。野ザルが沢山いるのには驚いた。
 夕食は、彼の経営する飲食店で食べることになっている。湯原温泉から彼の自宅に帰り、夕食まで時間があったので風呂をいただくことにした。湯原温泉で昼風呂に入っていたら湯冷めしていたかもしれない。振り返ってみると、朝食を除き、外食は美味しい食事を頂くことができた。台湾料理、手打ちうどん。そしてこの夜は、アンコウ鍋である。最終日は、湯郷温泉で高価な和食のコースになり、ホテルの温泉で湯に浸かることができた。美作の三湯といわれるのが、湯原温泉と湯郷温泉と奥津温泉で、今回その二つを案内してもらったことになる。湯郷温泉のホテルは、亡くなった彼の父親が支配人をしていたホテルでこちらから指定していたのだが、泊まれなくても充分思いは達することができた。
 次は、群馬に来てもらって温泉を案内しても良い。候補は四万温泉と宝川温泉である。時季はできたら夏が良い。山の緑に包まれてゆっくりしてもらえばと思う。ただ群馬で上手い食事に案内できるかは自信がない。彼は美食家でもあるからだ。加えて、将棋の実力の差を感じている。今回は一勝二敗だったが、内容を思い出してもかなりの棋力の差を感じる。こちらに攻めの鋭さと粘りがない。大局観もあるだろうが、それは才能の問題もあるので認めないことにする。
彼の友人には大変世話になり一緒に群馬に来てほしいとも思った。最終日は、この人の運転で空港まで送ってもらい、友人も私と一緒に昼酒が飲めた。うっかりして、携帯電話を友人の家に置き忘れ、湯郷温泉から空港まで行く予定が狂い、津山に引き返したことも大変な迷惑をかけることになった。怪我の功名という表現は正しくないが、以前友人が贈り物にしてくれた牛肉の干し肉を売っている店の前を通りお土産にできたことである。酒も飲めないし、将棋もするわけではないが、すっかり話があって親しくなれた。なによりも人柄が良い。
  

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2013年12月20日

『侘助』(拙著)式年造営御柱大祭

「式年造営御柱大祭」
 長野県諏訪大社で七年に一度行われる「御柱(おんばしら)祭」の正式な呼称である。
平成二二年は、「御柱祭」の年にあたる。たまたま、七年前の連休中、上諏訪駅から諏訪湖畔のレトロな温泉で有名な片倉館に立ち寄ったことがあった。その日は、昨夜来の風雨が収まらず、悪天候だったことを憶えている。駅前に人だかりがあったので近づいてみると、ニュースキャスターの筑紫哲也が取材に来ていた。癌を公表し、先年他界した。あの時、迎えに用意されたタクシーの中でおいしそうに煙草を吸っていた。
 隣県、群馬に住んでいて、日本三大奇祭と言われる「御柱祭」は、一度は観ておこうと思っていた。諏訪には、ここ数年意識して訪ねるようになった。湖畔も美しく温泉、美術館などがあって好きな観光地の一つである。昨年、アララギの歌人島木赤彦の記念館を訪ねた時、諏訪の下社の御柱は見た。目通りが三メートル以上の樅の木が使用されるので高さは、二〇メートル近くはある。友人を誘い、長距離運転になるので、交代要員というわけではないが、娘も一緒に行くことになった。「御柱祭」のことは、テレビで見ていて興味があったらしい。
 

 「御柱祭」は、一気に急な斜面を御柱が氏子を乗せて滑り落ちる〝木落とし〟が注目される。怪我人はもちろん死人が出たこともあった。危険極まりない神事だが、中止しようということにはならない。今回の「御柱祭」でも死者が出た。〝木落とし〟ではなく〝建御柱〟で氏子が落下して起こった事故による。「御柱祭」の概要を説明する。
 御柱になる樅の木を山から伐採し、里まで運び、諏訪大社に運び、神社の四隅に建てる祭である。諏訪大社の由来には諸説あり触れないが、創建は国内最古とも言われている。現在、信濃の国の一宮になっている。諏訪湖周辺に四社があり、上社は本宮と前宮に分かれ、下社は春宮と秋宮に分かれている。上社と下社では、〝木落とし〟や〝里曳き〟〝建御柱〟の日程を重ならないようにして観光への配慮をしている。それぞれの境内に四本の御柱が建つので、御柱は一六本ということになる。
 

 五月三日の「御柱祭」は、上社の〝里曳き〟であった。町内を太い縄で曳く。御柱にはメド梃子が斜めに前後左右に突き出し、その上に若者が数人乗り、掛け声とともに数メートル曳かれる。梃子で揺することによって曳き易くなるらしい。その時にラッパが鳴るのだが、音楽に詳しい友人は閉口している。進軍ラッパを連想したらしい。娘の方は野球場の応援ラッパみたいだと言う。確かに勇壮さもあり、気を入れるにはラッパも良いのだが、和洋不調和の感は拭えない。女性の高い澄み切った唄が時たま流れてくる。木やり唄だったらしい。子供も唄っている。こちらは、伝統的な里曳きに唄われてきた。祭りの深遠さが伝わってくる。
「御柱祭」が日本三大奇祭の一つだと言ったが、古代人にとっては神聖な行事だったに違いない。柱を建てるということはどういう意味があるのか、今では地元の人は深く考えていないらしい。理屈ではないのである。この祭りのために諏訪地方の人々は準備し、危険もあるが生き甲斐になっている。諏訪を離れて暮らす人々は、祭の時は必ず戻ってくる。そして、家族、親族、地域の人々の絆を再確認するのである。集団生活をうまくやれる知恵が日本人にはある。祭りもその知恵の一つかもしれない。
 日本文化をどんどん煮詰め、最後に残るのは、人間を含めあらゆる自然界を主宰する存在への帰依であり、そのことを「情緒」を鍵に説いた人物がいる。心理学的に考える、あるいは、デカルト的に考える私という心ではなく、造化の心というべきもので、前者が第一の心であれば、後者は第二の心だというのである。
 祭は、人生の中で言えば陽である。その陰には、辛い労働があったことが想像できる。祭りには酒も飲めるし、御馳走も食べられる。しかし、神事なのである。無礼講の中にも神様への感謝を忘れてはいない。戦前までの労働の大半は農業である。今日のように機械化も進んでおらず、農作業は辛かった。個人的体験を言えば、遠い昔、田植えや稲刈りを親から手伝わされた記憶しかないが、不幸にも親が残していった農地が梅林になっていて、ここ一〇年ほどは兼業農家のような生活をしている。勤めとは違う労働の辛さ、それは肉体的なことの方が多いのだが、労働の充実感を感じることの方が多い。なぜかと考えるのだが言葉にならない。最近少し思うのは、植物との共存の喜びである。確かに夢中になって仕事をしている自分を発見することがある。祭りもまた夢中になれる。そんな時、第二の心に無意識に繋がる体験ができているのではないかと思ったりもする。
 大阪万博で「太陽の塔」をデザインした岡本太郎は、「御柱祭」の常連客の一人だった。「芸術は爆発だ」といった岡本先生は、晩年には、木落としに参加したいと言って諏訪の人を困らせたことがあったと、地元紙の取材記事に載っている。その夢は果たされなかったが、養女から送られた岡本太郎の写真を腹掛けの中に入れて木落としに参加した氏子がいた。最後まで、木から落ちず、今では、彼の写真は、生前ご縁のあった男たちにリレーされ急坂を滑り落ちているとその記事は結んでいる。
 

 「御柱祭」は、縄文文化を愛した岡本太郎には魅力があったことは容易に想像できる。「御柱」は、大黒柱も意味しているらしい。大国主命、すなわち大黒様に由来する。柱を新しくすることは、神殿を建てなおすことを意味している。七年に一度、建物を新しくすることは、費用もかかるし、建てなおすほど古くなっているわけでもない。お伊勢さん、すなわち伊勢神宮は、二〇年に建物自体を建て替えている。この「式年遷宮」の年は三年後の平成二五年に行われる。
 諏訪湖畔には「タケヤ味噌」の工場がある。創業が一八七二年というから老舗のような存在である。間欠泉センターの近くにあって、「味噌会館」で土産用の味噌を販売している。一日五〇食という限定の豚汁が一〇〇円でいただける。これは実に具沢山で美味しかった。使用されている味噌を購入し、我が家でも試作してみたが、遜色はなかった。味噌の素材が良いのだろう。
 帰路は、一般道でなく高速道路にした。日曜日、祭日は距離に関係なく一〇〇〇円という割引制度に便乗し、諏訪から松井田までを移動したが、途中で娘にハンドルを任せることにした。聞けば、高速道路を走るのは、自動車教習所以来だという。友人を後ろの座席に避難させ(?)たが、「御柱祭」以上の緊張感があった。
  

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2013年12月19日

『侘助』(拙著)奈良の桜

奈良の桜
 極めて平凡なタイトルになった。念願の吉野行きが実現した。桜の名所は、日本各地にあるが、代表格は吉野山であろう。こよなく桜を愛した西行もここに庵を結んだ。吉野の桜の多くは、山桜である。本居宣長が詠んだ
 敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花
である。吉野に向かう途中、近鉄沿線の桜は満開であったが、吉野山の桜は咲き始めたという感じである。
 吉野について、充分に下調べをして出かけたわけではないので、中千本あたりを歩くことにした。花を愛でる場所は、下千本、中千本、上千本、奥千本というふうになっていて、桜も麓から咲いていく。西行庵がある場所は、奥千本よりもさらに先である。吉野に宿をとったわけではないので、西行庵に歩を進めることは断念した。
 

 吉野山の桜は、自然に増えたわけではない。役行者(えんのぎょうしゃ)以来、山岳修行者が苗木を植えたという話がある。今でも植樹をしている。吉野駅では、協力を求め募金を呼び掛けていた。お参りはしなかったが、金峯山寺は修験道の総本山になっており、寺院の建物としては東大寺に次ぐ大きさだという。吉野山でひときわ目立っており、上千本から写した写真が観光案内に良く使われている。
 吉野は、壬申の乱に勝利した、大海人皇子、後の天武天皇が身を潜めた場所として知られている。それ以上に、吉野を有名にしたのは、後醍醐天皇がこの地に皇居を置いたことである。鎌倉時代の後、南北朝という不思議な時代があった。朝廷が二つに分かれたのである。その御座所となったのが、今日の吉水神社である。世界遺産になっている。
 何気なく立ち寄った吉水神社には、重要な文化財が建物のそこかしこに置かれている。いつも国立博物館などで展示品を見るので、無造作のように見えて、レプリカなのかと思ってしまう。建物自体が、書院造の様式を残す貴重なものらしい。しかし、南朝の皇居というには、あまりにも小さな建造物である。後醍醐天皇のここでの暮らしぶりが想像できない。後醍醐天皇は、隠岐の島に流されたことがあった。その途中、天皇を奪回しようとした人物がいた。児島高徳である。有名な「天莫空勾践時無非范蠡」の十字の詩が、門前の立て札に書かれていて、その横で巫女さんが募金していた。
 花にねてよしや吉野の吉水の枕の下に石走る音
                    後醍醐天皇
 

 時代は前後するが、吉水神社は、兄頼朝に疎まれた、義経が身を隠した場所でもある。「義経潜居の間」もあった。静御前と別離を惜しみ五日間を過ごした場所とされる。踊りの名手であった静御前の舞を見おさめとして、弁慶達従者と大峰山を越えて奥州に落ちのびていったのである。大峰山は女人禁制であった。『義経千本桜』は見たことはないが、悲哀に満ちたロマンスは日本人好みで、まさに桜の舞台がふさわしい。
 吉野山峯の白雲踏み分けて入りにし人の跡ぞ恋しき
                     静御前
 太閤秀吉が徳川家康や、前田利家ら多くの要人をひきつれて吉野で花見をしたことがある。その時に、置かれた狩野派の襖絵も神社内にあった。秀吉は、金の茶室を作ったことでも知られるように派手なことが好きである。この時、我が世の春を満喫したのであろう。吉水神社は、この花見の本陣になっている。一目千本からの眺めは素晴らしく、秀吉は絶景だと唸ったという。平成の一目千本も見事な眺めである。新幹線と近鉄線を利用する間に時間があるので、本を数冊持参したのであるが、吉川英治の『黒田汝水』を読むと、秀吉が人情の機微に触れることに長けた人物として描かれている。秀吉の周りには有能な人物が集まったのも事実である。
 奈良の松原邸に着いたのは夕方であった。近畿圏や下関、群馬から五人が集まり宿泊させていただくことになった。岡先生のお嬢様である松原さおりさんと孫の始さんが食事の世話などをしてくださる。さおりさんの御主人の勝昭先生は一昨年他界された。昨年は、三人の春雨塾の塾生だった人が亡くなった。さおりさんに伺うと、今年で三二回目の春雨忌だという。数えてみたことはないが、半分近くはお邪魔しているかもしれない。ここまで、それほど大過なく人生を過ごしてこられたのも、この集いが心の支えになったのは事実である。
 

 松原邸から歩いて数分の距離に新薬師寺がある。新となっているが、薬師寺よりも創建は古い。新は「あらたかな」という意味である。天平一九年(七四七)に聖武天皇の妃である光明皇后が、夫の眼病の平癒祈願のために建立された。当時は大伽藍であったが、落雷がもとで現本堂のみが焼け残ったのである。もともとは厨房であったらしい。平成の大修理が済み、この建物には薬師如来坐像とそれを取り巻くように十二神将が周囲を睨んでいる。十二神将は干支の仏であり、そのうち一一体が天平時代のもので国宝である。一体は昭和に造られていて、干支は辰である。派夷羅(ハイラ)大将で手に弓矢を持っている。自分の干支は辰である。堂内には、創建当時の十二神将の色彩を復元した伐折羅(バサラ)大将が展示されていた。今日の像からは想像できない色鮮やかさである。
 朝の一〇時からは岡先生の京都産業大学での四〇年前の講義のテープを拝聴することになっていた。その前の時間を利用して新薬師寺を訪ねたのだが、桜が満開で青空に向かって美しかった。秋は境内を萩の花が彩る。薄暗い本堂の中でしばし瞑想に耽っていたら、薬師如来が岡先生やさおりさんに重なってきた。深い祈りと慈悲の心を発しているような存在に見えてきた。十二神将が我々塾生になるのだろうか。円陣の周囲にいるから等距離である。方角が違うだけである。個性と役割が異なるからであろうか。その一二神将に加えていただくことを前提とし、最も若いのが(昭和生まれの像)派夷羅(ハイラ)大将(辰)というのも面白くはある。春になると職場の組織図が届く。組織図というのは管理者が上にいる。管理者を真ん中にして新薬師寺のように円陣にできないものか。管理者の近くに日光菩薩のような中間管理者がいても良い。
 昼からは、参加者が増え花見をしながら関西電力会館で会食となった。その後、岡先生の眠る墓地をお参りした。霊園の桜も満開である。近くには白豪寺がある。椿が美しい寺で知られている。
  

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2013年12月18日

『侘助』(拙著)上野周辺散策

上野周辺散策
 彼岸入りした三月二〇日(土)、東京国立博物館で開催されている特別展「長谷川等伯」を見に行く。会期が短く、二日後には終了することもあってか、入場まで三〇分もかかり、しかも展示会場になっている平成館の中も人で溢れている。近くに寄って作品を鑑賞するのも難しい。四月一〇日からは京都国立博物館で開催されるのだが、四月三日から六日まで奈良方面に出掛ける予定があるが、日程が重ならない。翌日の日曜日は、悪天候が予想され、この日の選択となったのである。
 以前、『上野周辺散歩マップ』という小冊子を手に入れ、東京国立博物館の芸術鑑賞のついでに上野の森の周辺を散策してみたいとも思っていたので、この日は彼岸期間中ということもあり、谷中墓地に行くことにした。老人ホームに勤務したこともあり、墓参の習慣はあるほうだと思うが、我が家の墓地にはお勤めを果たしていないようで、妹から釘をさされていたこともあり、その日の朝、珍しく墓参をした。うっかり、前日娘が用意してくれた水の入ったペットボトルを忘れてしまったが、昨夜来の雨で花差しに水が溜まっていたので、それで良しとすることにした。後から墓参する妹からまたご先祖様に対する感謝の念がないと言われそうである。
 JR日暮里駅を降りるとすぐに谷中墓地に着く。ここには著名人の墓がある。地図にも記されているが、徳川慶喜の墓を別にすれば、案内板が出ているわけではない。だいたいこのあたりだろうと推測して訪ねることになる。行き着くまでは、行ったり来たりということになった。線香や切り花を売る店があって、なかなかの賑わいである。桜にはまだ早く花見で一杯という風景はないが、生死が共存している空間という感じがする。先祖とともに墓地で酒を飲んでも不敬ということにはならないだろう。
 谷中墓地周辺には、北原白秋や幸田露伴といった文人が住んでいたが、いまその住居はない。墓地があったからではないだろうが、空襲の被害を受けなかった地域らしい。幸田露伴邸跡には、当時から植えられてあった珊瑚樹が残っている。幸田露伴の小説に描かれた『五重の塔』も戦災に遭わなかった。しかしこの塔は、昭和三十二年に焼失してしまった。放火のためであった。この塔の下で、男女が灯油をかぶり心中したのである。今は塔の礎石だけが残っていて、焼失前の塔と夜中に炎をあげて燃え上がる塔と焼失後の無残な姿の塔の三枚の写真が展示されている。この写真は、近所に住んでいた朝日新聞の記者が撮影したもので、この人は、いまも九十代で健在だと教えてくれた人がいた。
 

 この塔の前で不思議な人物に遭った。五重の塔の焼失の顛末を教えてくれたのもこの人である。数分話し込むと実に歴史に詳しい。こちらもそれなりの歴史好き、ベンチに移動して歴史談議となった。どこから来たかと尋ねられ
「群馬からです。長谷川等伯展を見に行く途中、谷中の墓地めぐりでもしようとここまで来たのです。著名人の墓が多いと聞いておりましたので。朝倉文夫彫塑館も立ち寄ろうと思ったのですが、工事中で休館中でした。数年先まで、開館とならないようですね。お墓だけは先ほど見てきましたが、りっぱでしたよ」
と話すと
「朝倉文夫の展示会が六月に東京芸大美術館でありますよ。彼のお墓のことですが、大変お金がかかっているでしょうね。なぜかと言うと、文字が浮き彫りになっているからです。万成石という芸術家が好んだ石を使っています。お弟子さんが建立したようです。それから、長谷川等伯展ですが、しばらく並ばないと入れないようですよ。でも八時まで時間延長しているから」
と親切で、芸術分野にも詳しい様子。しばらく、朝倉文夫の話題になると
「私は、文化庁の歴史審議委員の一人でテレビにも出演しているんです。今日は嫌なことがありましてね。『なんでも鑑定団』という番組ご存知でしょ。そこに出演している俳優の石坂浩二に会う約束をしていたんですが、ドタキャンされましてね。講演会の予定があったのをキャンセルして会うことにしていたのにね。ひどい奴だ」
と言って鞄から講演の資料に使う予定だったというコピーを取り出す。徳川家の家系図や、幕末の藩主の名前や石数が書いてあり、その後明治になって華族制度ができ、どのような身分になったかもわかるものらしい。今日国会図書館からコピーしてきたもので、一級の価値のあるものだと解説に熱が入る。
 もし欲しければ譲ってあげてもよいと言う。サインもしてあげるからと筆ペンも取り出す。これだけ、谷中墓地の解説やら、文化庁の審議委員をなされている方からの貴重な歴史に関する講義を聴かせていただき、しかもコピーまでくださるというのである。そして名前まで明かしてくれた。菊池稔とおっしゃった。
「譲ってくださると言ってもコピー代くらいはお支払いしますよ」
というと、一級資料だから一四六〇円だという。A3のコピー用紙四枚なので、丁重にお断りすると鞄に戻し、また歴史談義になる。谷中墓地は東京都の管理になっているが、法的な扱いがどうなっているかも教えてくれた。実に親切な人なのである。東北訛りもあってどことなく親しみがわいてくる人柄である。約一時間も話しただろうか。最後に
「とっても価値のある資料なんだがね」
と残念そうに去って行かれた。
「良いお話ありがとう」
とお礼を言って別れる。不思議な人だなあと思った。帰宅して、インターネットで「菊池稔」を検索してみると記事があるではないか。写真まで載っている。本人のブログではなく、被害(?)に会った人の記事である。場所も上野公園あたりで、話の内容や手口も似ている。記事を載せているのは女性らしい。変なオジサンと書いてあったが同感である。一種の詐欺なのだが憎めないと思った。昼時だったのだから、食事にでも誘ってもう少しご高説を拝聴すべきだったかもしれない。谷中墓地の案内をお願いし、それこそお礼を差し上げてもよかったとも思った。いずれ、お会いできることがあるかもしれない。
 谷中墓地の中には、実に名の知られた人物の墓が多い。歴史ロマンに惹かれ東京の霊園などは観光名所になる可能性もあるだろう。ともかく首都東京の墓地である。偉人探訪にとっては実にコンパクトな場所になっている。そうした行為を否定するつもりはないが、地下に眠る人物がどのような生き方をしたか、そしてその生き方に共鳴するところがあるか、そのことを第一とするべきだろう。著名人ということが、特別な意味を持っているわけでもあるまい。今日では、テレビの映像の力が強く、その画面に露出する人間に関心が向きやすい。自分との関係は、一方通行に近い。これまで歴史上の人物に惹かれ、そのゆかりの地を訪ねたのも、著名人の墓参りに近い行為なのかもしれないが、その時の自分の心境や生き方への煩悶のようなものがあって旅立った必然性を紀行文を読み返しても感じる。旅の中で墓参りをした人物も十本の指を超えている。既にこの世を去っている人間には会えるわけはない。しかし、その人が残した作品や、生き方には触れることができる。長谷川等伯には、絵を通じて会えるわけである。作品の鑑賞はするつもりはないが、絵師としての人生ドラマがあり、精進というものが感じられた。
その余韻のある中、東京国立博物館の出口のあたりで著名人に遭遇した。亀井静香国民新党党首である。相手は、こちらのことは知らない。ふと思ったのは、亀井大臣も我々と同じように、順番待ちするのかなという興味であるが、政治家が芸術に関心があることは何の不思議もない。亀井大臣の趣味に絵画があることは、知っている。
  

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2013年12月14日

粛清

粛清
 実に嫌な言葉である。最近の報道などによると、北朝鮮では、金正恩書記長の叔母の夫である張氏が解任されたという。その直後に裁判にかけられ、その日のうちに処刑されたという。国外の人達にとっては、突然の出来事のように見えるが、政権が移ってから徐々に進んでいたのだろう。理由が分からないところは、秘密主義の国だから当然とは思うが、なにやらドロドロした感じがする。お金、女性にまつわるスキャンダルとかいう情報も流れているが、身内の権力闘争だから醜さもある。罪状は、国家転覆を謀ったことだというが、果たして真実だろうか。
 
 独裁国家や、一部の支配者層が長く国を支配する国家に良くあるのが粛清である。異物を排除する、その大義が何とも陰湿である。原理主義のように、思想的に寛容でない場合に起こる。近くは、スターリンの粛清が知られている。しかし、いかにしても粛清というのは、嫌な言葉だ。反対意見を言っても殺されない国に住めて幸せに思う。
 
 粛清とまではいかないが、政治の世界では「左遷」、「配流」ということも起こりうる。北朝鮮の今回の出来事を見ると、そうした言葉も人道的にさえ感じられるから不思議である。権力者、あるいは権力中枢の意志があまりにも冷酷である。恐怖政治そのものである。こうした国では、権力を持つ人間同士に疑心暗鬼が生まれ、いつかは、内部崩壊するに違いない。しかし繰り返すが、国民が不幸である。心の自由さえない。権力に対して従順となり、狂信的にその政策に追従し、賛美するものも出て来る。
  

Posted by okina-ogi at 17:31Comments(0)日常・雑感

2013年12月14日

『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(下)



 賀川豊彦は、明治二一年に神戸で生まれているが、父純一は、徳島県の自由民権運動の創始者の一人で、県の高官の職にあったが、母と相次ぐようにして豊彦が四歳の時に亡くなっている。母は、芸妓であった。記念館にある写真を見ると母かめは、なかなかの美人である。父の実家は徳島県の大麻町にあって藍の商いもする富農な庄屋であった。その所在を今回確かめたわけではないが、地名からして記念館のある坂東からは遠くはない。現在の鳴門市の中である。
若くしての両親との死別、その後引き取られた父の実家の賀川家は、父の海運業を継いだ長兄の事業の失敗で破産し、叔父の保護を受けながら経済的に苦しい少年期、青年期を過ごした。徳島中学から明治学院に進み、神戸の神学校に入学するが、結核を患い死の淵をさまよう経験もする。相次ぐ人生のマイナス体験をプラスに変えたのはキリスト教の信仰であった。
 賀川豊彦が亡くなってから、半世紀ほど経っているが、記念館の展示物を見て回ると、行動力と活動の範囲の広さ、著作の多さに驚かされる。神戸の貧民屈での救済活動が今日まで広く知られているが、労働者運動や普通選挙運動にも深く関与し、協同組合運動にも熱心だったことがわかる。
館内に置いてあった資料を見て驚いたのは、群馬県にある高崎ハムの創設に関与しているという記事である。高校の同級生に高崎ハムの専務をしている人がいて、唐突な行為とは思ったが電話してみると、「昔のことは良く分からない」という返事。年史のようなものがないかと思ったのである。少々の内容ならインターネットで調べられる時代、早速「高崎ハムと賀川豊彦」で検索してみると、その概要がわかった。賀川豊彦は、御殿場に農民福音学校を開校し、生徒で、ハムの製造技術を学んでいた勝俣喜六という人が派遣され、農民資本としての「高崎ハム」が創設されたのだという。昭和一三年の十月のことである。
奇しくも同年同月、たった一人の結核患者の療養所が榛名山麓に開設された。今日、財団法人榛名荘(総合病院)と隣接する社会福祉法人新生会(老人施設)となっている。創設者は、原正男氏(一九〇六―一九九九)である。原正男先生とお呼びした方が良いのだが、二〇年程職場で御指導いただいた。原先生も、賀川豊彦と同じ、結核で死線をさまよった経験の持ち主で、十代の半ば、学生であった時、安中教会で賀川豊彦の講演を聴いている。感動的な講演だったらしく、雷による停電があっても、聴衆は固唾をのんで聞き入ったという記述が自伝に残っている。確かに、賀川豊彦は聴衆を引きこむ弁舌家だったようである。
賀川豊彦は、あまりにもマルチな社会運動家で捉えきれないが、社会評論家の大宅壮一が高く評価していることも知った。こうした情報の断片も、書物からではない取材旅行で得られることが多い。大正時代のベストセラーになった『死線を越えて』は復刻版が出ているようだが、いずれ時間をおいて読んでみようと思う。
 
 日本紀行の最後の県になった徳島県の旅は、ここまでで十分満たされているのだが、翌日、お伊勢参りのついでのような気分で、鳴門海峡の近くに近年オープンした大塚美術館と渦潮を見に行くことにした。江戸時代は、お伊勢参りに行く人が多かった。日々の労働もきつかっただろうし、生活も単調だったと想像される時代、信心を理由に伊勢神宮を参拝することは許され、日常から解放される旅でもあった。そのついでとばかり、道中、名所旧跡や芝居などを見て国に帰ったのである。旅には息抜きがあって良い。物見遊山という言葉もある。
大塚美術館は、大塚製薬が創業七五周年事業として開設され、世界の名画のレプリカが一〇〇〇点ほど展示されている。全て原寸で陶版である。館内には、システィナ礼拝堂まである。約三時間見て回ったが見事な技術である。ドイツ文学者の中野京子が著書『怖い絵』で解説しているゴヤの絵もあった。その印象は、小林多喜二の『蟹工船』の読了感に似ている。自他が極端に対立している。そのような言い方が不適切であれば、戦争による残虐な行為や、過酷な労働が作者の心を支配し、その悲痛な心境や、呻きのような気分があまりにも赤裸々に表現されていると感じられたからである。
大鳴門橋架橋から渦潮を見たが、その影響かどうか知らないが
鬩ぎ合い 鳴門に消えよ 春の潮

というような絶叫するような句ができてしまった。トロワイヨンの牛の絵が一枚あったが、なんとも言えないやすらぎを感じられたのがせめての救いだった。トロワイヨンという画家を紹介してくださった方は昨年他界されている。高価なトロワイヨンの絵と解説文による自費出版の著書をいただいたが、絵は色彩がなかった。絵のタイトルは、忘れたが、この日見た絵は大きなもので、牛飼の男性と牛が草原の中を寄り添って歩んでいる。牛の息遣いと、背後から明るい日がさしている様子が見事に描かれている。戦争は、論外にしても、労働は喜びとなるようにしたい。資本家、使用者と労働者の対立からは良い結果は生まれない。賀川豊彦の数々の社会運動の下には、キリスト教の信仰がある。


  

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2013年12月13日

『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(中)

 
 初めて降り立つ徳島空港は、吉野川の下流域にあり、紀伊水道に接している。二月の寒さは残っているが晴れていた。少し風が強い。徳島市内には、バスで行く。路線バスなので三〇分はかかった。ホテルは確認したが、チェックインには早いので、JR徳島駅から、香川県高松市に至る高徳線で、初日の目的地である坂東に向かう。途中、池谷駅で分岐していて一つ目の駅である。車両一台の普通列車で極めてローカルな感じがする。ワンマン列車で、乗客も少ない。沿線の畑には、梅や菜の花が咲いている。板東駅は、無人駅であった。
 徳島県出身の往年の名投手で、現在タレントで活躍している坂東英二が育った地であるらしいが、そのことがこの地を選んだ理由ではない。大正の中期、この地に俘虜収容所があった。日本は、第一次世界大戦に参戦した。日英同盟により、中国の青島の要塞を守るドイツ軍と交戦し、降伏により四六〇〇人以上の俘虜を日本各地に収容することになった。その俘虜収容所の一つが、坂東俘虜収容所であった。現在、その跡地は公園になっていて、ドイツ館などの展示館が立っている。ドイツ館に隣接して、戦後ノーベル平和賞の候補にもなった賀川豊彦記念館もあり、この地を訪ねることになったのである。
 
 板東駅からは徒歩である。街中を抜け二車線の広い道に出ると、その先には高速道路が走っている。駅で手に入れた簡易な地図を広げる。左手に寺がある。西国巡礼の一番札所霊山(りょうぜん)寺である。ちょっとお参りして先を急ぐ。先ほど視界に入った高速道路をくぐると、大きな朱の鳥居が立っている。阿波国の一宮大麻比古神社の鳥居で、参道の両脇には、真新しい燈篭がならび、社殿まで続いているがその距離は、一キロ程はあるだろうか。一宮と言えば古い社に違いないから、ドイツ館や賀川豊彦記念館を訪ねる前に参拝することにした。日頃の心の汚れを少しでも洗い流しておこうという安易な思いがある。
 
祓川橋を渡り、神域に近づくと大きな楠があり、千年を超える木は御神木となっている。拝殿の前で拝礼するが、周囲に人は数えるほどしかいない。初詣となれば人で溢れるのであろうが、閑散としている。
  坂東俘虜収容所の痕跡は皆無に近いが、俘虜たちが築いた石橋は、ドイツ橋として残っている。不幸にも収容所で亡くなったドイツ人の墓もある。大麻比古神社から、ドイツ館に向かう。途中レトロな洋館が目に入ったが、こちらは一代目で中には入れない。二代目ドイツ館の二階に坂東俘虜収容所の様子が分かる展示コーナーがあった。収容所の開設は、大正六年(一九一七)とある。今から九〇数年前のことである。この収容所の存在を知ったのは、数年前「バルトの楽園」という映画を見たからである。収容所のロケ地が観光地として残されたが、昨年閉鎖された。
この時代、日露戦争と同様、俘虜に対する人道的な配慮は、国際条約もあり良く守られていた。近代化を進めた日本が一等国の仲間入りするためにも必要であった。有名な乃木大将とステッセル将軍の「水師営の会見」が象徴的である。歌に曰く「昨日の敵は今日の友」である。武士の情けも残っていた。板東俘虜収容所に収容されたドイツ人は、約千人である。ちょっとした村の人口であるが、狭い空間での囚われの暮らしは辛い。しかし、彼らにとって幸運だったのは、所長になった松江豊寿という大佐が管理者になったことである。展示コーナーには、松江大佐の遺品や、写真、紹介記事があった。父親は、会津藩士である。
 少し横道にそれるが、明治維新後の会津藩ほど辛酸をなめた藩はないかもしれない。白虎隊の悲劇や西郷頼母一家の自刃をもたらした会津戦争では、負傷者を虐殺したり、遺体を放置し埋葬させなかった。官軍といわれる長州、薩摩連合軍の非道な行為が今も、会津人の心に残って消えないという話を聞く。特に長州人、すなわち山口県に対しては。明治になってからも、青森の斗南(となみ)に移され、不毛の地で苦しい生活を強いられたこともあった。西南戦争では、会津藩士を警察官として採用し、西郷軍に抜刀隊を編成し立ち向かわせている。この時の戦死者は七〇人ほどで、田原坂を訪ねた時に、碑に刻まれていたのを見たことがある。
 

 藩士の子供の中には、軍人を目指すものもいた。松江豊寿もその一人であった。陸軍と言えば長州であり、その総帥ともいうべき山形有朋などは、会津出身者が、将官になることを嫌ったという。義和団の乱の「北京籠城」で知られる柴五郎が初めて大将になったが、柴は松江大佐の先輩になる。松江豊寿は、少将となり予備役になった。人格、識見からすれば、大将になってもおかしくない人物であったが、人事には上官の好き嫌いや、閥というものがからむ。苦しみを体験した者にわかる不遇な状況に置かれた他者への同情、会津出身ということは、松江所長の人格的資質と無関係ではない。映画「バルトの楽園」の松江所長を演じたのは松平健である。
 その対極的な人物が、久留米俘虜収容所の真崎中佐である。後の二・二六事件の影の首謀者と見られ、終戦後A級戦犯として指名されたが、罪はのがれることになった真崎甚三郎大将である。俘虜に対しては、管理的で高圧的な態度でのぞみ、部下が殴ったりするのをあえて止めもしなかった。映画の真崎中佐を演じたのが坂東英二である。真崎という人は東京裁判でも知られるように、自己保身のかたまりのような面がある。概してこのような人が出世するものである。
 松江所長が俘虜たちから、模範的な管理者として慕われた理由は何であったかと言えば、部下に暴力は禁じ、ドイツ人の生活様式を最大限に許したことである。それは、彼らの文化を尊重したことになる。収容所には、職人や技術者もおり、パン屋、肉屋、お菓子屋もできた。ハムやソーセージといった肉の加工技術、酪製品などの製造も地域の人には、驚きであった。町工場に行き、機械の技術指導に行くことも許可し、非常に喜ばれ給料まで出たという。収容所の俘虜達は、労働がない日はスポーツに汗を流し、テニスやサッカー、ボーリングに興じ、周囲の日本人が暇があれば煙草やお茶を飲んで過ごしていることを彼らからは不健康な生活習慣と映った。
 俘虜の中には、音楽家もいた。オーケストラが編成され、地域の寺などを会場に演奏会が開かれた。祭り好きというか、開放的な徳島県民の気質もあってか、回を重ねるたびに盛況になった。日本の曲も演奏されたが、ベートーベンの「歓喜の歌」が合唱付きで演奏されることになった。映画「バルトの楽園」でも感動的に描かれている。ちなみにバルトは髭の意味で、松江所長は立派なカイゼル髭の持ち主だった。大正九年にヴェルサイユ条約にドイツ帝国は講和条約に調印し、収容所の俘虜達は解放された。その後、日本に残った人もおり、坂東俘虜収容所体験者ではないが、神戸に「ユーハイム」の名でドイツ菓子バームクーヘンの会社を残した人物もいた。ドイツ館の一階は、土産物が並び、とりわけドイツワインに目がいったが、手荷物になるのを嫌い、クッキーと関連図書を買い、隣接する賀川豊彦記念館に向かう。
  

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2013年12月12日

『侘助』(拙著)踊りと渦潮の国へ(上)

踊りと渦潮の国へ
 踊りは「阿波踊り」、渦潮は「鳴門の渦潮」のことである。したがって、国は「徳島県」となる。いまだかつて徳島県には足を踏み入れる機会がなかった。そして、徳島の地に立てば、日本国内の都道府県を全て訪ねたことになる。全国制覇である。ここ十年ほど、意識して旅に出たが、紀行文を振り返っても、香川県と愛媛県以外は訪問したことになった。
 二月二〇日(土)出発、徳島市に宿をとり、翌日には帰宅するという慌ただしい旅である。新幹線で大阪か神戸に行き、高速バスで淡路島に渡り、大鳴門橋架橋から徳島に入るという陸路による移動も考えたが、時間がかかり現地での行動に制限があるので、羽田からの空路を選ぶことになった。
 羽田空港から徳島空港までの便はJALだけである。株式会社日本航空は、この日、東京証券の株式市場から退場することが決まっていた。株価は一円となり、取引が事実上不可能になったのだから、いわゆる〝紙くず〟になったことになる。最近、電子化になったので〝紙くず〟にもならないとも言える。日本最大の航空会社が、いろいろと報道されてはいたが、会社更生法の法的手続きの対象となって一時的には、倒産同様の状況に追い込まれたのである。
昨年、山崎豊子原作の「沈まぬ太陽」が上映された。登場する航空会社「国民航空」は、明らかに日本航空のことである。親方日の丸の経営体質、労働組合の権利意識の強さと数の多さ、政治家や官僚も加わった採算の取れない国内空港の開港。そのような状況の中で、慢性的な赤字が続き、世界不況と新型インフルエンザの影響により、国際線も、国内線も大きな赤字を出し膨大な債務超過になって、政権も変わったこともあり、とどめを刺されることになった。国策会社としての日本航空は五〇年以上の歴史があるが、どこかで軌道修正ができなかったかと思うが、まだ正式につぶれたわけではない。公共的な事業だから、政府も援助せざるを得ないが、再生はうまくいくのだろうか。
この日、株はゼロになってもかまわないが、墜落なんてことがないようにと祈るような気持ちにもなった。行き帰り、飛行機は満席状態で、職員の対応も親切だった。この緊張感が続き、安定軌道に経営が乗ることを祈るばかりである。
 
 阿波の国徳島を江戸時代治めていたのは蜂須賀家である。豊臣秀吉が日吉丸と言っていた時代に、野武士のような身分で行動をともにし、秀吉の出世とともに阿波一国の城主になった蜂須賀小六正勝を始祖とする。「墨俣の一夜城」として知られる信長と美濃斉藤氏との戦いの築城には秀吉の下で貢献したことや、信長が朝倉攻めのとき浅井氏の裏切りに会い、退路を断たれ窮地に落ちいった時も、秀吉が殿(しんがり)軍を引き受け運命を共にした。秀吉の参謀であった蜂須賀氏が徳川の世も徳島城主として続いた背景は知らないが、明治時代なって華族になった蜂須賀氏の末裔が、皇居に参上した時、部屋にあった菊の紋章入りの煙草を数本つかむのを見て、明治天皇は、先祖の出自に触れられ、公爵様は閉口したことを司馬遼太郎がどこかでエピソードとして紹介しているのを思い出した。偏見は持つまいとは思うが、蜂須賀の殿さまや城には関心が向かなかった。しかし、徳島市には、眉山という市内を眺望できる小高い山があり、登って夜景を見たわけではないが、記憶に留まった
  

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2013年12月11日

『侘助』(拙著)元旦の弥彦(下)

 

 暮れにはすばらしい著書に出会った。『メッテルニヒ』塚本哲也著である。平和の問題に光が当てられている。塚本さんは、元毎日新聞の記者で、ウイーン、プラハ、ボン支局長であったことがある。岸信介担当の政治記者であったことは、よく知られている。ヨーロッパ滞在が長かったこともあり、ハプスブルグ家の歴史に関心をいだき続け、前作『マリー・ルイーゼ』に続く作品を書き上げた。二〇〇二年に脳出血で右半身が不自由になり、麻痺がありながら、左手一本で書き上げた。最愛の奥様の死の悲しみの中での大作である。夫人は、塚本ルリ子さんといって、ピアニストだった。御夫妻で、群馬県の社会福祉法人新生会の有料老人ホーム「穏和の園」に入居されたが、二〇〇五年に他界された。奥様の父親は、国立がんセンターの総長を務めた塚本憲甫で、在職中に癌のため死去した。義父を描いた『ガンと戦った昭和史』(文春文庫)で講談社ノンフィクション賞を受賞している。兄の木村裕主も毎日新聞記者で、講談社ノンフィクション賞を受賞している。。兄の作品は、イタリアのムッソリーニを描いている。
『メッテルニヒ』は、王政ではあったが、外交によって、ヨーロッパの国々の平和を保とうした。一方、ナポレオンは、戦争によってヨーロッパを統一し、フランスの自由・博愛・平等を広めようとした。ナポレオンは英雄として日本人のほとんどが知っている。その人生もドラマチックではあるが、メッテルニヒは、ナポレオンの偉大な政治家としての資質も認めながら、〝戦争屋〟と捉えている。これは、塚本さんの眼でもある。
ロシア遠征に敗れたナポレオンとメッテルニヒがヨーロッパのあり方について語り合う場面がある。ナポレオンは、沢山の人々が戦争で亡くなっても、ヨーロッパが統一されれば良いという。メッテルニヒは、それは、暴論だという。ナポレオンからすれば、戦いは聖戦と言いたいのだろうが、第二次世界大戦や太平洋戦争を歴史に持つ今日の我々からすれば、メッテルニヒの政治観に軍配を上げたい。同じように、モスクワを目指し侵攻したヒットラーとナポレオンの動機は違うのだろうが手段は戦争である。第二次世界大戦にあってメッテルニヒのような外交官は存在しなかった。無条件降伏で終わっている。
現代、世界を見回して、政治が王政によって行われている国は、形式は残していてもほとんどない。メッテルニヒについては、王政を維持した上でのヨーロッパの平和と安定を考え、革命を嫌い、言論を弾圧したことにより保守政治家という批判もあるようだが、二〇〇年前の時代を考えると、酷評はできない。ただ、オーストリア・ハンガリー帝国の王政というのは、皇帝の政治的発言力と権力が強く、補佐する閣僚の分野は、内政と外政と財政からなっていたというから、あまりにも庶民からは程遠い政権といえる。ローマ帝国の政治形態の方が進んでいたと言えなくもない。
  

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2013年12月10日

『侘助』(拙著)元旦の弥彦(上)

元旦の弥彦
 弥彦とは、新潟県の弥彦山のことである。麓には、越後の一宮である弥彦神社があり、その周辺は温泉もあり、観光客で賑わう。正月元旦は、北への旅を続けている。今年で九年目になった。年賀はがきは、既に投函済みで、恒例にしていた俳句ができなかったので、新年の御挨拶文になったが、そこに北への旅を宣言してしまった関係上、少しの躊躇いはあったが決行することにした。年末から年始にかけて、東日本とりわけ日本海側の天候は大荒れと予報されていたからである。
 新潟は、群馬の隣県で日帰りにしても余裕がある。せめて天候の回復も考えて、朝は、ゆっくり雑煮を食べて出発することにした。高崎で長野新幹線から上越新幹線に乗り継いで燕三条に行き、そこから弥彦線を利用する計画にしていた。元旦の群馬は、風はあるが晴れ渡っている。赤城、榛名、妙義の上毛三山もその姿をくっきり見せている。ただ、谷川岳あたりは、暗雲がかかり視界不良である。水上に近い上毛高原駅あたりから雪が降り出し、トンネルを抜け湯沢駅に停車するとまったくの銀世界である。屋根の積雪も三〇センチは有に越えている。雪も降り続いているが、新幹線は減速する様子もない。長岡駅の近くになり、弥彦線の運休を知った。新幹線が走っていれば、在来線も大丈夫だろうというのは、甘い考えだった。長岡を過ぎたあたりからは、青空も覗いている。雪も山間部ほど多くはない。なぜ、運休になっているのか不思議である。燕三条でその原因が強風のためだとわかった。数年前に羽越本線で強風による死傷事故があった。元旦の初詣客のために臨時便を出すことにもなっていたが、運休になっている。安全第一である。臨時のバスも出ていない。弥彦の山は駅から見えている。地図で見ると一〇キロはある。ここで引き返したのでは意味がない。一人タクシーに乗ることにした。行き先が同じ人がいれば同乗して割り勘という手もあるが、タクシー乗り場には人がいない。昨年まで、元旦パスという特別乗車券で安価で移動できたのだから、こういう場合は、体型に合わせて太っ腹ということである。
 タクシーの運転手も、同情してか街中で一端停車し精算した上で、神社まで帰り道だからといって乗せてくれた。弥彦神社までの観光案内も行き届いていた。
「正面に見えるのが弥彦山ですが、右手にも頂が見えるでしょう。多宝山と言います。弥彦山の左手の低い山が国上山と言って良寛さんの庵が残っています。弥彦山の高さは、今度東京にできる新タワーとほぼ同じ高さで標高六三四メートルです」
 こちらから質問したいこともあるのだが、次から次へと観光案内が続く。根が親切なのである。嫌味は少しも感じられない。

「前方に見える赤い大きな鳥居、お客さん何メートルあると思います」
と質問され、ようやく口を開く機会が与えられた。
「二八メートル位ですかね」
「なかなか感がよろしいですね。三〇メートルです。神社の文字が書いてある額の大きさは何畳分の広さがあると思います」
「八畳?」
「これまた近い。良いカンしてますよ。一二畳なんです」
随分と違うではないか。和歌山に三三メートルの鳥居ができて、この大鳥居は、日本一の高さではなくなったが、鳥居の横には日本一の表札がある。建設当時のものだから、嘘の表示ではないと運転手は、細かく説明してくれた。やっと質問する番が来た。
「弥彦神社の近くに競輪場があるでしょう。弥彦山に登るロードレースも開催されるそうですね」
「よく御存じで。競輪場は日本で最初の公認の四〇〇メートルの陸上競技場を改造してできたものなんですよ。しかも神社の敷地を借りているんです」
これは驚きである。公営ギャンブル施設が神域にあるのだから。それにしても、日本一の高さとか、日本で最初とかお国自慢の匂いもしてきたが、人柄がその臭さを消している。
 
 弥彦神社の参拝はこれが初めてではない。数年前の夏、子供たちと立ち寄ったことがある。境内は広く、社殿の背後に弥彦山があり、素直に手を合わせ、頭を下げることができる。元旦ばかりではなく、旅に出て多くの神社に参拝していることに気づいた。主なものを西から揚げると、宮崎神宮、宇佐神社、大宰府天満宮(以上九州)。赤間神宮、出雲大社、厳島神社(以上中国)。伊勢神宮、平安神宮(以上近畿)。明治神宮、靖国神社、氷川神社、諏訪大社(以上関東甲信越)。塩竃神社(東北)。今年の元旦に参拝しようとした神社は、善知鳥神社であったが実現しなかった。この神社は青森市にある。
 
 神社というのは、日本人にとってどのような存在なのか。神職にある友人が一人いる。下関の赤間神宮に長く奉職されている青田國男さんという方だが、二五年以上『真情』という小冊子を送っていただき、神道の内容に触れる機会がある。その赤間神宮から、いつもは神棚に捧げるだけの神饌米が、今年の暮れには三が日に食べきれないほどの袋入りになって送られてきた。その中に添えられた文章に和歌があり、日本人の原点は米作りだと実感した。その一首は
豊かにも稔る稲穂のかがやきは 神のめぐみのしるしなりけり
労働の喜び、食への感謝を自覚し、大地に根付いた生き方をしなければならない。天と地の間にあって、人の心の働きで大事にしたいのは情である。今年の年賀状には、そう書いた。弥彦線が運休し、タクシー利用になったことが、結果的にはそのことを再認識させてくれた。悪天候の中で、人出も少なく驚くほど道路の渋滞もなく、ゆったりと参拝もできた。それに、たぬきのお宿で知られる、かつて本陣だった冥加屋旅館の展望風呂に一人ゆっくり入ることもできた。職場に出勤し、気のきく同僚が御神籤入りのお菓子をくれた。中吉ではあったが
「対立は避けよ、争うより和の心が結局は勝ち」
と書いてある。金運にも恵まれるとも書いてあったが、こちらは当てにしない。
  

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2013年12月07日

『侘助』(拙著)由布院の秋(下)

「亀の井別荘」の歴史に少し触れておく。大正から昭和の初期にかけて活躍し、別府温泉の観光の祖というべき、油屋熊八という人物がいた。九州の温泉地の発展を夢見た人である。その油屋熊八が、由布院の自然に惹かれ、金鱗湖の近くに作った山荘が「亀の井別荘」の始まりである。犬養毅や頭山満など政界の著名人や、与謝野晶子や菊池寛、高浜虚子なども泊まり、その名を知られるようになった。油屋熊八に経営を任されたのが中谷已次郎(みじろう)という人で、中谷健太郎さんの祖父にあたる。大変な趣味人で教養人であったが、そのためか庄屋の子でありながら財産を失い、夜逃げのようにして別府に流れてきた。油屋熊八は、中谷已次郎の芸術的感性を買い、「亀の井別荘」を貴人の宿に仕上げようと考えたのである。その伝統は今日にも引き継がれている。
 「亀の井別荘」は、貴人の宿に相応しく、客室も少なく、通路伝いに離れの宿になっていて、古い民家を移築した建物もある。それだけでなく、自然を生かした庭園が見事である。湯殿のある建物も趣がある。さらに料理に地元の食材を生かし、もてなしも洗練されている。一〇〇人近くの従業員がおり、大旅館にはない人情あるきめ細かいサービスが行き届いている。当然のことながら宿泊費も高い。しかし、それは納得のいく対価である。そうは言っても、一泊四万五千円は、庶民にしては破格の値段である。今回あえて「亀の井別荘」を宿にした理由が他にあるからである。
 
 中谷宇吉郎には、弟がいた。中谷治宇二郎という人で、考古学者であった。パリに留学し、同じ頃、文部省の数学留学生であった岡潔と出会う。多変数関数の分野で、世界的発見により文化勲章を受章した数学者である。二人のとりくんだ学問は異なっていたが、学問の理想において共感があり、無二の親友になった。パリ留学中に中谷治宇二郎は、病を得る。この間、岡潔は中谷治宇二郎の研究や療養のための費用も負担した。はるばる日本から夫のもとに訪れていたみち夫人と安価な宿を見つけ、自分たちの生活費をきりつめて暮らした。かけがえのない友のため留学を延長した。そして、三人は一緒の船で神戸まで帰ったのである。
 二人は別れ、岡潔は大学に戻り、数学の研究を続けられたが、中谷治宇二郎は、伯父中谷已次郎のいる由布院に療養することになる。そして、帰国後も、岡潔は、ある時は一人で、ある時は夫人と幼い子供(長女)を連れて由布院を訪れたのである。病床に伏す中谷治宇二郎の傍らに横になっている岡潔の写真が残っている。フランスでしたように、学問の理想を語りあったであろうことが想像できる写真である。昭和九年頃の話である。中谷治宇二郎は昭和十一年に三十五歳の若さで亡くなり、岡潔も他界して三十年以上になるが、二人のお子さん達は健在である。
 中谷治宇二郎の長女は、法安桂子さんという。岡潔の次女は、松原さおりさんという。この二人が由布院で再会することになった。以前からも御二人は、時々旅行などして、父親同士の友情を引き継いでこられた。先年、中谷兄弟の故郷、片山津温泉にご一緒させていただいたことがある。今回は、友情を育んだ思い出の地に我々、岡潔の思想に魅せられた人々(春雨村塾生)をお誘いいただいたわけなのである。
毎年、春には、岡潔先生を偲んで春雨忌が行われ、長く参加させていただいている。由布院行きのことも話題には出されたが、なかなか実現できなかった。最初に、由布院はあこがれの地と書いたが、二人の若き学者の友情を深めた地という特別な意識があって、由布院に行ってみたいと話していたことを、松原さおりさんは、心にとめてくださっていたのだろうと思った。お誘いくださったのは感謝というほかはない。加えて、一年に一度しか会えない、関西方面の打ち解けて話せる方々と素晴らしい宿に一泊できたことも忘れない思い出になった。
夕食の時、法安さんに父君のことをお伺いしようとも思ったが、留学前に生まれ、帰国後のほとんどを療養していた父親と、はるか離れた母親の実家のある岩手県で過ごされたことを考え、お尋ねすることはしなかった。いくつかの中谷治宇二郎の俳句が残っている。
漣の渡る湖明けきらぬ
戸を開くわづかに花のありかまで
子等遊べ主なき庭のはだん杏
繊細で、情愛の深い、優しい人だったことが句に滲み出ている。
由布院での療養の日々の句も写生句であるが、自然の営みに中谷治宇二郎の心が溶け込むような感じがする。
落葉して日毎に風の通いけり
雪雲の危うきかたや渡り鳥
幼子一人渡り鳥見る秋の原
一戸建ての我々の宿の一室に岡潔の色紙が飾られていた。宿の配慮ある計らいである。
めぐりきて梅懐かしき匂いかな
中谷治宇二郎との再会の喜びを呼んでいるような気もする句であるが、今生のことを超えた深い情緒を詠んでいるのだろう。

 中谷健太郎さんの弟である、中谷次郎さんが宿に残されている岡潔の色紙を見せてくれた。「行雲流水」の四字が書かれている。「自然は造化の放送する映像である」という岡先生の言葉を思い浮かべた。横から、さおりさんが
「父も、真面目に書くとしっかりした字を書くなあ」
と一言。中谷宇吉郎の雪の結晶のスケッチの入った色紙も見せていただいた。
 サイレンの丘越えていく別れかな
岡潔の随想に出てくる中谷冶宇二郎の句は、不思議な句だと思っていたが、さおりさんのお話で謎が解けたような気がした。由布院岳の麓から峠を越えて別府に至る道のあたりは丘のように見える。町にサイレンが鳴る中、その丘を岡潔自身が越えて行ったのである。今では、牧場もあり木々が少なく草原のような景観になっている。岡と丘、言葉をかけているところが、工夫なのだが、心情は辛い。
 法安さんのおかげで、御親戚であることもあるが、中谷健太郎さんや、溝口薫平さんにも直接お会いできたことも望外の出来事であり、何よりも由布院の希望を裏切らない自然ともてなしに、再度この地を訪ねてみたいと思った。ドラマのある人生とご縁の大切さを感じた旅でもあった。世界的建築家である、磯崎新の設計した由布院駅を降り立つと駅前通りの前方に聳える由布岳は、町の象徴になっている。
  

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2013年12月06日

『侘助』(拙著)由布院の秋(上)

由布院の秋
 
 由布院は、憧れの地になっていた。九州には何度も訪ねているが、この地にはいまだ足を踏み入れていない。今日、由布岳の麓に広がる小さな盆地は、日本でも人気の温泉保養地になっている。かつては、別府温泉から近い由布院は、鄙びた温泉地で訪れる人も少なかった。それが、年間四百万人近い観光客が訪れるまでになっている。『由布院の小さな奇跡』新潮新書、木谷文弘著にそのあらましが、見事に描かれている。
 昭和三十七年、東宝の映画助監督をやめて旅館の跡継ぎになった人物がいる。中谷健太郎さんである。中谷健太郎さんの伯父は、雪の結晶を人工的に作った科学者である中谷宇吉郎である。父親が亡くなり、母親から帰ってきてほしいと言われ、伯父に相談すると
「すぐに由布院に帰れ」
であった。その頃、中谷博士は癌を患っていたらしい。女優の奥さんを連れての帰郷であった。映画作りのセンスが、さまざまのアイデアを生み、奇抜とも思えるイベントを生んだ。しかし、それは、中谷さん一人でできるわけではない。共感する友人がいた。中谷健太郎さんが経営する旅館「亀の井戸別荘」の近くにあって、今日由布院を代表する旅館「玉の湯」の溝口薫平さんである。溝口さんは、博物館の勤務から縁あって、玉の湯に婿入りした人である。溝口さんは、教養ある文化人で、「ホラ健」と渾名された中谷健太郎さんの企画を理解し、実務的に実現させた人である。若い時に、結核体験もあり、忍耐強さと、温厚な人柄の持ち主である。中谷さんにはもう一人、強力な同志がいた。「山の上ホテル夢想園」の志手康二さんである。志手さんは、故人になられているが、由布院の町の人々に信頼が厚く、理解者を増やした。由布院の奇跡的と思われる、町おこしは、この三人の力によるところが大きい。
 この三人組は、ヨーロッパの田舎の温泉地に視察旅行に行ったことがある。その旅行資金の保証人になってくれた人物がいる。若い町長の岩男頴一(ひでかず)である。由布院の古くからの有力者の家に生まれ、由布院を愛する一人であった。別府温泉とは違った観光地を目指し、三人の若者に町の将来を託したのである。由布院のモデルになった、温泉地は、ドイツのバーデンヴァイラーであった。小さなホテルのオーナーであった人の次の言葉は、三人の心に深く刻まれた。
「町にとって最も大切なものは、緑と空間と、そして静けさだ」
 
 今回宿泊した、亀の井別荘は、紅葉した木々の中にあり、まさにそのことを実現させている。たまたま立ち寄った、「玉の湯」は玄関先が雑木の森になっている。昆虫に人一倍関心のある溝口さんが、あえて雑木に合う土砂に入れ替えて作った森である。「玉の湯」は、「虫庭の宿」とも呼ばれている。「山の上のホテル夢想園」には行けなかったが、インターネットで見ると、遥か由布岳を遠景にした高台に露天風呂があり、「空海の湯」と名付けてその自然を見事に取り入れている。温泉街にある道路は道幅も狭く、車の往来を不便にしている。だから車の騒音も少ない。町を流れる川には、クレソンが繁茂し、ゴミもほとんど見られない。そして由布岳が見事である。麓あたりから、幾筋もの湯煙が立ち昇っている。
 今日の由布院の緑豊かで、閑静な環境を守るにはいくつかの苦難の歴史があった。一つは、由布院の盆地そのものがダムの底に沈む計画もあった。ゴルフ場の開発により、貴重な高原植物が絶滅する危機もあった。バブルの時代、大資本による大型旅館の建設により、高層化した建物が建築されそうにもなった。そのような度に、中谷さん達を先頭にして反対運動が起こされ、由布院の自然破壊は免れたのである。そして、映画祭や、音楽会などの手作りのイベントが続けられ、癒しの観光地が全国に発信され、今日に至っているのである。
 かつて私自身も、〝町おこし〟に、情熱を注いだことがある。平成の市町村合併により、私の住む榛名町は、高崎市に編入された。梅や梨の産地としては、知られてはいたがこれといった産業のない人口三万人弱の中山間地帯にある小さな町であった。榛名湖という観光地があり、佐藤惣之助が作詞し、高峰三枝子が唄った「湖畔の宿」のモデルになった場所ではあるが、それこそ「山のさびしい湖」であって、観光客は減り続けていた。昭和六〇年、東京から重い心臓病をかかえ、健康不安のまま帰郷した人がいた。彼も、映画製作に憧れ、旅行社にも務めた経験があり、企画力があった。由布院の、中谷健太郎さんと重なるものがある。若い時から、音楽を愛し、昭和六一年に、彼の中学時代の同級生を中心に「榛名町で生の音楽を聴く会」が結成され、高校の後輩である私もその一員になった。
 当時、小さな町に文化ホールなどはない。高崎市には、群馬交響楽団を育てた、高崎市民の募金をもとに造られた音楽センターがあったが、榛名町の会場に音楽愛好家を呼ぼうというのが趣旨であった。小さな手作りの音楽会は、町の保健文化センターや農協の研修室を借りて行われた。演奏の合間にワインを出したこともあった。地元が商品化した梅ジュースを出し、宣伝に一役買ったこともある。
 第四回は、町にある老人ホームの研修室で開催された。社会福祉法人新生会が経営する老人施設には、有料ホームもあり、四〇〇人近い入居者がいた。特別養護老人ホームの慰問のような企画ではないので、音楽を聴きたいと思う健康な老人が対象となった。もちろん入場料は有料である。経費のことも考え、ギタリストの独奏になった。「スペインの幻想」と題し、「アルハンブラの思い出」、「禁じられた遊び」、などの名曲が奏でられた。圧巻は、南米の曲「花まつり」であった。感激のあまり涙を流す老人もいた。この様子を、群馬県の地域振興課の職員が参加していて、新聞に紹介された。一〇〇名の聴衆の六割が外部の人々であった。私は、この法人に勤務し、老人ホームがあまりにも地域の人々の意識と隔絶していることを痛感していた。入居者の家族以外の人が自然に施設に運ぶ機会が作れないかと考えていたので、有料の音楽会は、「開かれた老人ホーム」の足がかりになると思った。その後、新しい老人ホームが建設され、食堂は「福祉文化ホール」となり、「榛名町で生の音楽を聴く会」の主会場のようになった。
 
 やがて、町にはシンボルである榛名富士をイメージした文化ホールが完成し、町の企画になったが、特徴ある音楽会が開催され、自治大臣賞が贈られることになった。とりわけ、群馬県出身のピアニストで日本歌曲伴奏の第一人者、塚田佳男氏を音楽監督に迎え、十一年連続して開催された「榛名梅の里音楽祭&『日本の歌』スプリングセミナー」は、ユニークな企画であった。こうした活動と由布院の中谷健太郎さんたちの取り組みから、与えられる教訓とは、郷土愛のような心が最初にあって、それを形にしようと志を同じくする人々の共同作業の中に本質があり、文化ホールのような箱物は、あくまで結果の産物であるということである。由布院は、箱物にこだわらず、人々をひきつける催しを今も継続している。
町を活性化するには、古い言葉になるが、中谷健太郎さんや溝口薫平さんのような草莽の士ともいえる人物の存在が必要である。かつての榛名町の草莽の士の名前は、滝沢隆という。文化会館の音楽プロデュースは滝沢さんが中心になった。彼は、日頃から、文才はないと言っていたが、「ホラ滝」という綽名はつかなかったが、弁舌はなかなかのものである。由布院の町おこしのことは、よく知っていて、都合がつけば同行したかったとも言っていた。彼には、研修報告のようなつもりでこの紀行を書いている。
  

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