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2014年01月10日

『業政駆ける』 火坂雅志 角川文庫 714円(税込)

『業政駆ける』 火坂雅志 角川文庫 714円(税込)
 

 正月の読書は、友人から借りた本。戦国時代の群馬にも、こんな知将がいたのかというのが驚きでした。信玄に負けなかった男という触れ込みですが、専守防衛ということです。黒田官兵衛と比べるとローカルですが、上州人の感涙に触れる(?)歴史小説になっています。大軍で押し寄せる武田軍を6度も追い返す実力はどこにあったかというと、業政の人心掌握力なのですが、軍略にも長けていたようです。また、城址として今日残っている箕輪城が難攻不落のように書かれていたのですが、自宅からも近く、何度か訪ねていて信じがたいものがありました。大坂城などが頭にあるからでしょうか。業政の側近に、上泉信綱(柳生新陰流と関係深い)がいて、その戦いぶりも描かれています。大河ドラマにならなくても、テレビドラマになりそうな小説です。
  

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2014年01月09日

『侘助』(拙著)後記

後記
 春が近くまでやって来ているというのに、数日前から毎年恒例の花粉症にかかって憂鬱な気分である。若い時は、春は山菜とりに行き、杉林などは気にもかけなかった。体質が変わったということなのであろうが、長く蓄積したものが表面化したとも言える。
 「春の雲」から紀行風エッセイは八作目になった。その時々の、心のキャンパスにスケッチをしてきたつもりだが、読み返してみても、自分の思い出にはなっているが、本を差し上げた友人知己の方々には、大雑把なスケッチに水彩の色を落とした程度の絵のようなものだろうと想像している。平山郁夫画伯のように、そのスケッチに本格的に色をつけてみたいとも思うが、それは、紀行を書こうと思い立った時の動機と違うことになる。
 諸行無常。その時の心の流れ、惹かれるもの、偶然出会うものなどを表現できればよい。人間は生きているのでなく、生かされているのだという先人の教えをどこまで実感できたか、恰好をつければそういう表現になる。心の流れが切れないように、自分の「聖書」=『春雨の曲』(岡潔著)を読み返すことだけは忘れないようにした。しかし、いかにしても難解である。頭でわかろうとするからであろうか。
 そんなとりとめもないことを、編集後記に書きながら、自宅で、国会中継を見ていたら、地震速報があり、その数秒後に大きな揺れが起きた。この日は、風が強く、玄関先に飛び出したら、駐車してある車が揺れている。かなり長い時間揺れは収まらない。被害は甚大で、刻々と悲惨な状況が映像で流される。押し寄せる津波から避難できなかった人が数多く犠牲になっている。宮城県、岩手県の海岸地帯では、住宅も流され、一つの町が壊滅同然になったところもある。


 上空からの映像は衝撃的だった。農地や家屋が、アメーバ―のように侵入する津波に飲み込まれていく。人間が築き上げてきたものが一瞬にして失われていく、映像に言葉を失った。移動する車もある。行く先を塞がれ流されていく。映像の中にいる人、それを見ている人、なんともその置かれた立場の違うことか。
 〝東日本大震災〟、この戦後最大の震災は、日が経つうちに被害規模が明らかになってきたが、死者の数は不明である。二万人以上になるかもしれない。揺れで崩壊し、津波で流された家屋も十四万戸に近い数になった。避難所が二千か所近く設けられ、二十五万ほどの人が不自由な避難生活を余儀なくされている。道路や鉄道も被害を受け、復旧の目途が立っていない。まさに国難といってよい。
 加えて、この震災により原子力発電所が被害を受け、放射能漏れの問題が、周辺住民だけでなく、東北、関東甲信越の広域の人々を悩ませている。東京電力、自衛隊、消防、警察が被害の拡大を食い止めるために、必死の活動をしている。とりわけ、東京消防庁の消火活動の働きには、敬意を表したい。隊員の次の言葉は、最前線で活動した者でしか語りえない。
 「普段の消火活動では、救助する人は前にいる。今回は、事情が違っている。周囲、目の前には放射能という見えない敵がおり、守らなければならない人は、背後にいる。国民という多くの人々である」
 隊員には、妻子がいる。普段から、非常時のために訓練しているとはいえ、恐怖の中での決死の働きであった。素直に頭を垂れたい。
今、日本国民は試練に立たされている。結束してこの難局を乗り越えたいと思う。
  

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2014年01月08日

『侘助』(拙著)伊東忠太という人

伊東忠太という人
 明治になって、西洋文化が日本に浸透していったが、建築もしかりである。初めは、外国人居留地になった、港の周辺に瀟洒な西洋館が建ち、今も函館や横浜、神戸などの地に歴史的建造物として、数は多くないが残っている。日本人が、専門的に西洋建築を学び、建築した建物は関東大震災や東京空襲に遭遇したが、今も東京の近代ビル群の中にひっそり残ったりしている。そうした建物をじっくり見てみるのも面白いと思った。
 明治から昭和にかけての建築家に、伊東忠太という人物がいる。慶応三年(一八六七)に山形県米沢に生まれ、東京帝国大学の工学部を卒業し、日本で建築家としては最初の文化勲章を受けている。夏目漱石と同年の生まれである。その名は、薄っすらと意識したことはあったが立ち入って知ろうとする機会はなかった。数年前、大阪の御堂筋界隈を散策した時、北御堂に立ち寄り、大谷探検隊で知られる大谷光瑞が神戸に建てた二楽荘のことを知った。設計者が伊東忠太である。この建物は、現存していないが華麗な建物であったらしい。
 

 築地市場に近い場所に、築地本願寺がある。設計したのは伊東忠太である。昭和九年に竣工している。戦災に遭わなかったのは、近くに聖路加病院があったからであろう。米軍は、聖路加病院を空襲の対象から外していた。進駐後の医療の拠点にしようと考えたのかも知れない。地下鉄の築地駅からごく近く、建物はインド風の外観をしている。石段を登り、建物に入ると結婚式が行われている。香が炊いてあって、仏式の結婚式の体験がないので、違和感はあるが厳粛な感じはある。一階に下りる階段には、動物が置かれている。建築の装飾に動物を配置するのは、伊東忠太の特徴であるらしい。象、牛、鳩、馬、どれも微笑ましい姿をしている。神社建築も多く、平安神宮、明治神宮、郷土米沢の上杉神社も彼の作品だが、新潟の弥彦神社は、建築はもちろん狛犬も伊東忠太のデザインである。
 
 この日は、東京国立博物館で開催されている平山郁夫展を鑑賞するのが目的だったが、築地本願寺と大倉集古館という伊東忠太の建築も見てみようと、いつもの職場の美術愛好メンバーに許可をとってコースに加えたのである。最初の案では、美術見学を最初にして、築地は最後にするつもりだった。新鮮な魚介類の買い物ができると思ったからである。逆になったため、築地場外市場の店で、上等な寿司を昼食にすることができた。平山郁夫展も閉館に近かったためか来館客も比較的少なく、同行者には満足してもらえた。
 築地という地名の由来だが、埋立地からきているという。江戸時代から沿岸を埋めて陸地を拡張していたのである。築地は地を突き固めた土地という意味なのである。重機のなかった時代だから、人海戦術で大変な労力を要したであろう。築地はまた、日本海軍と深く関わっている土地でもある。明治の初めに、海軍の兵学寮ができ、海軍士官、将官を養成し、日清日露の大戦を戦ったのである。後に、兵学寮は、海軍兵学校と名称を変え、広島の江田島に移った。絵画鑑賞の人達には、無関係なことで、余談として記したまでである。
 

 昼食後、場外市場にあるテリー伊藤の兄が経営する卵焼きの店などを見て、地下鉄で大倉集古館に向かう。神谷町で降りて、ホテルオークラをめざす。このあたりは丘陵地になっていて坂が多い。霊南坂はホテルオークラからアメリカ大使館脇に向かって下る代表的な坂である。大倉集古館は、ホテルの玄関前の一角に建っている。こちらは中国風建築様式である。二階に上がる階段に動物の姿があった。蛙である。大倉集古館は、美術館になっていて、横山大観や下村観山、川合玉堂などの日本画の大家の作品が展示されている。西郷隆盛と勝海舟の書が並んで掛けられていた。古美術品もあって、展示されているのは一部である。
これらを蒐集したのは大倉喜八郎である。彼は、明治、大正の実業家として巨額の財を成した。いわゆる政商で、武器商人という一面もあるが、公共事業や教育事業に私財を投じて社会貢献もしている。新潟新発田の名主の子として生まれたが、江戸に出て、鰹節店の奉公人から財閥を築いた才覚は、驚きである。


 伊藤忠太の設計した大倉集古館であるが、建物の外観はシンプルに見えたが、内部の意匠は、建築の門外漢にも趣向を凝らしていることが感じ取れた。二階にはテラスもある。今では、近代ビル群の谷間にあるように建っているが、建築当時は威容を誇っていたであろう。伊東忠太という人は、八七歳という長命であったが、精力的に仕事や研究に実績を残した。今も論争になっているようだが、法隆寺の柱とギリシャのエンタシスとの関係に言及したことは有名である。それを実証するための調査旅行もしている。建築の中に登場する動物だが、幼いころから妖怪の存在を信じていたらしく、数多いスケッチを残している。「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるも彼の存在を知っているのだろか。妖怪博士という称号を贈っても良いかもしれない。平山郁夫画伯の絵画展のことがすっかり希薄になってしまった。
  

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2014年01月07日

『侘助』(拙著)鹿島立ち(下)

 伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神は、国生みをしたり、とうてい生物界の存在のようにしては描かれていない。伊邪那美が火の神を生み、その火傷がもとで死に、黄泉の国に行くことになるのだが、この生みの苦しみ中で嘔吐したり、小便をしたり、大便をした時に神様が生まれたという表現は、何を意味しているのかと不思議でならなかったが、「母なる大地の変動だと解釈すればよい」という故人となられているが、元鹿島神宮の宮司東実(とうみのる)氏の見解には納得いくものがある。ちなみに、建御雷神の出生のありさまは、火の神を伊邪那岐が刀で怒りのために切り殺し、その血が流れて生まれたと書かれている。これは、火山噴火による溶岩流を想像させる。浅間山も富士山も活火山である。そういえば、関東には浅間神社という名の神社が多い。ただし浅間(せんげん)神社と呼ぶ場合が多いような気がする。我が家から数百メートル離れた場所にある神社がそうである。
JR鹿島線の途中佐倉駅を通過する。一昨年、伊能忠敬の記念館を訪ねた。佐倉市は、小江戸と呼ばれ、古い街並みが残っている。柳並木のある小野川を渡った。佐倉の先に潮来がある。このあたりは水郷地帯である。利根川を渡り、もうひとつの利根川(北利根川)を過ぎると北浦に出る。東海道の浜名湖を渡っているような気分になった。一キロ程水の上をはしることになる。晴れてはいるが、日は低く冬の独得の日差しになっている。駅から鹿島神宮は近い。徒歩五分くらいで行ける。日本三大楼門といわれるだけあって朱塗りの門は立派である。人出でごったがえしている。本殿は、楼門から近く、しかも参道の脇にある。本殿の位置関係を調べて参拝したわけではないので少し物足りなさがあったが、先には奥宮があるというので広い神宮の森を行く。木立が高く、道は薄暗くなっていて照明がついた場所もある。参道の左脇に開けた空間があり、そこには鹿が飼われている。奈良の春日大社の鹿と違って放し飼いではない。餌をやるのも御法度らしい。ハット気づいたのだが、春日大社と鹿島神宮の関係も深い。春日大社は、藤原氏の起こした神社である。建御雷神も祭られている。藤原氏の始祖は、藤原鎌足であり、中大兄皇子と大化の改新を実現した功労者である。平安時代は藤原氏の時代といってよい。鎌足は、中臣氏であり、一説には鹿島神宮の神官の子だとされる。氏の社に建御雷神を祭ることは不思議ではない。そして、後に鹿島神宮の大宮司が建御雷神の御分霊を鹿に乗せて奈良に旅立ったとされる。
「鹿島立ち」という言葉がある。旅立つことの意味だが、鹿島神宮に祈願して無事を祈ることから、防人に結びつく言葉の印象が強い。実際、東国の人々の多くが防人になった。大和朝廷は、東人の勇猛さを認めていたのである。多くは、東国からはるか離れた九州の地の防衛に徴集されたのである。建御雷神と経津主大神の「鹿島立ち」と重なってくる。防人の歌は万葉集にも多く残されている。
筑波嶺の早百合の花の夜床にも愛しけ妹そ昼も愛しけ
霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我は来にしを
 別離の辛さも隠さず詠んでいるところは、先の大戦に召集された兵士の残した歌とは対照的である。幕末、尊皇攘夷が民族的な思想として燃え上がったことがあった。この思想の震源地は、水戸藩だとされる。水戸藩には、水戸光圀以来、皇国思想が流れていた。その思想の源泉として鹿島神宮の存在があることを知った。その幕末に、強烈な尊皇攘夷の思想を持った鹿島神宮の神官がいた。佐久良東雄(あずまお)という人物である。桜田門の変に加わった武士を匿った罪で投獄され
「われは天長朝の直民、何ぞ幕粟を食まんや」
として、断食して餓死したという。
 鹿島神宮に至る途中、塚原卜伝の像があったのに気づき、帰りに立ち寄った。生誕五〇〇年を記念して建てられた。塚原卜伝は剣聖と言われている。一四八九年に鹿島神宮の神職の家に生まれ、塚原城主の家に養子に入った人である。生涯に三回にわたり修行の旅に出て剣を磨き、晩年は将軍や名だたる武将に剣術を教えたとされる。上州出身の剣豪上泉信綱とも接点があったらしい。武家政治になってから鹿島神宮は剣術の総本山のような存在だったのである。塚原卜伝は若い時の剣術修行の旅では、真剣勝負や戦に出て多くの人を殺めたことを深く悩み、鹿島神宮の森で瞑想に耽り、ようやく悟るところがあった。剣は殺傷のためにあるのではなく、いわば心を磨く手段となるようにあることの意味に気づき、それはまさしく建御雷神以来の和の精神だと気づくのである。剣の奥義など説明できるものではないし、塚原卜伝の晩年の旅で伝えたものは、彼の精神、心の在り方だったのであろう。
 

 銚子は素泊まりとなり、犬吠崎で朝日を見ることもなかった。せっかく常陸(日立)の国近くに来たのだから、お日様を拝むくらいの行為はすべきだった。銚子まで来て「ちょうしっぱずれ」になったかもしれないが、考えを変えれば、今年は「ちょうしがよい」ということでもあるかもしれない。夜の鯖料理には大満足した。二日には朝早く出発し、香取神宮を参拝して、帰宅後その日の当直勤務でこの文章を書いている。
  

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2014年01月06日

『侘助』(拙著)鹿島立ち(上)

鹿島立ち
 平成二三年の元旦の旅は、近くて遠い地となった。今年で、元旦旅行は、十年連続となるが、当初は初詣が目的ではなかったが、ここ数年は、気づいてみれば寺社詣になっている。日本人は、神社などには不思議とお祭りや祝い事でもなければ足を運ばない。スポーツの戦勝祈願や合格祈願という場合もあるが、普段はひっそりとしている。それでいて、小さな神社も含めれば、全国各地に数多く点在している。長い間維持されてきているのだから、日本人にとって大切な存在だということくらいは分る。
 

 鹿島神宮は、一度は参拝したいと思っていた。芭蕉の鹿島紀行が頭の片隅にあったからだ。この神社は、利根川河口に近い、茨城県鹿嶋市にある。群馬の高崎市からだと鉄道もあるのだが、近くて遠い感じがする。新幹線の開通と無関係ではない。最近の旅は、距離と時間が必ずしも比例していない。今回は、JRの日暮里駅から近接する京成電鉄で成田まで行き、JR成田駅から終点の鹿島神宮駅を目指すことになった。往路、普通列車を乗り継いだら五時間近くもかかってしまった。銚子に宿をとっていたので、下総の一宮である香取神宮との元旦ダブル参拝と考えていたが、不可能になってしまった。
 鹿島神宮の祭神は、建御雷神(たけみかづちのかみ)である。この神様は、神話では大国主命(おおくにぬしのみこと)と外交交渉により、国譲りを成し遂げたとされている。その時、持参したのが十握剣(とつかのつるぎ)であり、その剣を波の打ち寄せる浜に突き立てて、その前に座り大国主命と談判した。長刀であり直刀であったとされる。我が国最古のものとされ、鹿島神宮に奉納された刀が残っている。今から一三〇〇年前に造られたものとされる。国宝である。レプリカであるが、鹿島神宮の宝物館で展示されている。
 

 大国主命も出雲を中心とした中国地方を治め、相当な勢力を持っていたが、最終的には武力で決着しようと考えなかったが、何度も天津神(あまつかみ)の使者の要請を断っていた。しかし、今回は建御雷神の迫力に、国を譲ることにした。ただ息子たちに意見は聞いた。兄である事代主神(ことしろぬしのかみ)は納得したが、弟の建御名方神(たてみなかたのかみ)は、反対し戦いを挑んだが敗れ、諏訪湖まで逃げて降参したとされる。諏訪大社の祭神になっている。ちなみに、大国主命は大黒様、事代主神は恵比寿様として七福神の一員として後世人々に慕われている。
 大国主命は、政権を譲った代わりに、全国の神々を治める権限を得た。その拠点が出雲大社である。十一月は、全国の神様が出雲に集まることから、神無月と呼ばれるようになった。大国主命という神話の神様には、最近夙に親しみを感じている。三十年来の友人で赤間神宮の神官である青田さんが『真情』誌の「古事記問答」でわかりやすい解説を書いている。兄弟神に殺され蘇生したり、須佐之男命(すさおののみこと)から試練を受けたりして、人生逆境と苦難の連続にも関わらず、「因幡の白兎」の話のように優しさを失っていない。年を重ね少し太ってしまったが笑みを浮かべている。ちょっとした女性好きの性癖は、許容の範囲といっておこう。人が嫌がることでも引き受けられるなんとも慈愛に満ちた神様である。
 剣は武力の象徴なのかもしれないが、交渉する者同士の人徳や品格、見識が争いを治めることができることをこの神話は教えている。神話の時代にあって外交交渉に鍔迫り合いはあったが全面戦争を回避できたという故事になっている。この時、建御雷神に同行したのが経津主大神(ふつぬしのおおかみ)で香取神宮の祭神になっている。この神様も天津神である。初詣に二か所の神社を選んだのは、両社が関係深いからであり、しかも距離が離れていないからである。蛇足とは思うが、明治以前、神宮と呼ばれていたのは、この二社と伊勢神宮だけである。このことは、創建が古いという事と皇室とのゆかりがあるということを意味している。

 伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の二神は、国生みをしたり、とうてい生物界の存在のようにしては描かれていない。伊邪那美が火の神を生み、その火傷がもとで死に、黄泉の国に行くことになるのだが、この生みの苦しみ中で嘔吐したり、小便をしたり、大便をした時に神様が生まれたという表現は、何を意味しているのかと不思議でならなかったが、「母なる大地の変動だと解釈すればよい」という故人となられているが、元鹿島神宮の宮司東実(とうみのる)氏の見解には納得いくものがある。ちなみに、建御雷神の出生のありさまは、火の神を伊邪那岐が刀で怒りのために切り殺し、その血が流れて生まれたと書かれている。これは、火山噴火による溶岩流を想像させる。浅間山も富士山も活火山である。そういえば、関東には浅間神社という名の神社が多い。ただし浅間(せんげん)神社と呼ぶ場合が多いような気がする。我が家から数百メートル離れた場所にある神社がそうである。
  

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2014年01月05日

元旦の大磯(2014年1月)

元旦の大磯
 今年の元旦は、年末から大磯に行くことを決めていた。一昨年の元旦、小田原に出掛けたこともあり、東京の雑踏を気にせず移動できる高崎発の湘南ラインが痛く気に入った。友人とも一緒である。大磯は、海水浴場もあるが、季節が違う。昨年の大河ドラマで新島襄が登場し、その終焉の地が大磯だったので自然と足が向いた。没後一〇〇年以上も経ているが、その最後の足跡を残した地を踏んでみようと思った。そして、暫くは新島襄のことは、距離を置いてみようとも思った。
 視聴率は低かったようだが、「八重の桜」は、近年異色の大河ドラマだったように思う。徳川長期政権の中に生まれたとしか言えない会津精神に充満した八重さんと、海外に渡らなければ攘夷思想家になったかもしれない二人が出会い、日本人自らが教育とキリスト教を合体させ、新しい国づくりの基礎を築こうとしたことは、西洋文化をいち早く取り入れようとした時代だからこそできたことかも知れない。新島襄が、ただ宣教師のように、教会を作り伝道だけをしていれば、心臓を悪くして寿命を縮めることもなかったかもしれない。加えて、洋食で通したことも、日本人の体質に無理があったとも考えてみたくなる。八重さんにも新島襄も武士の精神の上にキリスト教があるような気がする。内村鑑三や新渡戸稲造などにも同じ事が言えるかもしれない。
 

 大磯駅を降りて、海岸に向かって坂道を下ると、国道一号線に出る。少しカーブする信号機の近くに、新島襄終焉の地の石碑が立っている。さほどの広さはないが、小木も植わっている。墓碑には、生花が供えられていた。説明板には、百足屋旅館の写真もあった。ここで新島襄は、四八歳の生涯を閉じたのである。明治二三年一月二三日のことである。石碑は、昭和一五年に建立され、石碑の文字は、徳富蘇峰による。蘇峰は、キリスト教から離れたが、新島襄への思いは終生持ち続けた。新島襄の臨終の様子は、ある画家の手により描かれ、蘇峰が発行する「国民新聞」に掲載されている。蘇峰だけでなく、京都から駆け付けた八重さんの姿も描かれている。
 この日、同行の友人は体調が悪く、近くのコンビニに立ち寄り小休憩をすることにした。彼も心臓に持病を持っている点では新島襄と変わらない。海が好きな人で、今回同行した動機に海が眺められることもあったに違いない。コンビニの先には西行ゆかりの鴫立庵がある。このあたりで作ったとされる西行の有名な歌が
 心なき身にもあわれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮れ
である。年末年始は開館していないが、いつもは観光客に開放され、催しも行われている様子である。庵の前には石橋がかかり、小川が流れている。西行が滞在した当時は、背の高い草が周囲に茂っていたのだろう。だから鴫立つ沢と詠んだ。
 

 短歌は、作らないのでこの歌を借用して
心ある身にも利欲は知られけり鷺立つ沢の秋の夕暮れ
とパロディー風の狂歌まがいの一首を作ってみた。鷺は、詐欺と掛けている。アベノミックスで欲得に執着する人もいるだろう。二日に年賀状を書いたので、この歌を書いてみたが、受け取った人はどう思っただろう。元旦に届いていた年賀状に、この歌を諌めるような言葉を送ってくれた人がいたので、これは、軽いジョークだと思ってもらえたかも知れない。
「道下有食 食下無道」
中国の満州国のラストエンペラーの一族の書家の書いた言葉と説明があったが、東洋風の教訓のような響きがあるが、新島襄が残した言葉といっても不思議がないとも思った。
「人はパンだけで生きるものではない」
という聖書の言葉を連想したからである。
さらに国道を進み、今は資料館と公園になっている吉田茂邸があった場所に行く計画だったが、目的地は二キロ先である。友人の体調を考えても無理があるので砂浜のある海岸に行くことにした。海岸近くをバイパスが走り、道の下に通路があって海辺に出られるようになっている。明日はこの道を箱根駅伝の選手が走る。
 この日は強い風が吹いていて、東海道線の列車にも遅れが出るほどだった。砂浜の風はさらに強く感じ、砂粒が服に当たる。友人は土手に坐り、風を避けるように海を眺めていた。波しぶきも高いので、海に近寄らないようにして海岸線と遠景の山をカメラに収めようとしたら。帽子が飛ばされた。帽子は、車輪のようになって回転して砂浜を走りだす。いつまで経っても倒れず、追えども追えども追いつかない。三〇〇メートル以上先で漸くにして掴むことができた。その追っ駆けっこを友人はユーモラスな風景と余裕で見ていたらしい。こちらは必死な気持ちになっているのにも関わらず。
 「僕の帽子どこへ行くのでしょね」
という感じだったと言うと友人は笑っている。彼は、音楽に詳しく、西条八十の詩を思い出してくれたのだろう。森村誠一原作の映画「人間の証明」に出て来る詩である。海も見られ、滑稽な場面に遭遇し、少し気分も良くなったと思えば良い。
 国道を横断して駅に戻ることにした。その途中に標識があって、島崎藤村旧邸と書かれている。藤村が晩年過ごしたのは、大磯だったということを初めて知った。昭和一八年の夏、亡くなる前に
「風が涼しいね」


 と妻に話したというその家である。旅に出た時の偶然の産物のようなものがあるが、今回もそれに近い。藤村がこの地を選んだのは、気候が温暖だということもあるようだが、左義長に興味を惹いたこともあると説明板に書かれている。どんど焼のことである。群馬では古くから続く正月行事だが、海辺に近い大磯にもこうした行事があるというのは、新鮮な驚きである。藤村の生まれた木曽路にもありそうな行事だが、確かめてはいない。相当な昔訪ねた馬籠、妻籠あたりを再訪しても良いと思った。
 大磯から近い、平塚の駅近くに天然温泉があるということを調べてあった。ゆっくり湯に浸かり家路につくというのが、元旦日帰り旅行のいつものパターンである。「古代の湯」という名前が面白い。相当古い地層から汲み上げられている。掘り当てた人の執念も凄い。平成になってからの温泉源の発掘だったらしい。先ほどの浜辺の珍事の疲れも取れたような気がした。
  

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2014年01月04日

『侘助』(拙著)黒田藩五十二万石(下)

 今度は、徳川家康に警戒されることになった。家康も、長政の功績は、小早川秀秋を東軍に寝返らせたことにより、第一だと考えていた。望みは全て叶えるといったが、家康の考えに任せたのである。その結果が、五二万石の福岡の地であった。甘受したということであろうが、今日の福岡の発展を考えれば、良い場所を選らんだともいえる。
もともと、福岡は、博多の名が残るように、商人の町であり、海外貿易が古来より盛んであった。近年、福岡城内、平和台球場のあったところに、外交施設であった「鴻臚(こうろ)館」跡が発掘された。秋月に出かける前の午後、見学したが復元された建物や、想像図は立派なものである。福岡城の敷地も広く、天守閣は残っていないが、高台で博多港が見渡せる。このあたりは、福崎といったが、福岡の名は、福崎の丘ということではない。黒田家の発祥の地ともいえる岡山の福岡の名を如水が残したかったからだとされる。そのため、商人の町である博多と城下町である福岡が共存するような大都会になっている。如水の辞世はすっきりしている。
おもいおく言の葉なくてついに行く道は迷はじなるにまかせて
 

 この旅の前に本のタイトルは、『侘助』と決めていた。季節的に、秋月で侘助が見られるかとも期待したが視界の中にはなかった。それはそれとして残念であったが、友人との再会もでき充分満足し、また感謝している。友人とは遠方にあってもありがたい存在である。第一号になった『春の雲』の書き出しでも福岡の友人を訪ねている。下関から福岡に出て柳川に行った。日付が紀行に残っていて、平成九年の九月であった。あの時から、一三年の歳月が流れている。
今生での人との関係は、時が移るとともに同じ空間にいても疎遠になったりもするが、触れあった心や思い出というものは残るものであって、良い思い出こそは大事にしたい。福岡の友人との出会いは、学生証を拾ったことがご縁になった。その拾った場所が、同志社大学の正門前に今も残っている喫茶店である。四〇年も前のことである。その店の名前が『侘助』であった。今回の旅先で、友人が乗車用のカードを紛失した。今度は名前が書いてあるわけではないから拾い主が現れないと思うが、いやに印象に残った。
  

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2014年01月03日

『侘助』(拙著)黒田藩五十二万石(中)

 秋月郷土館で購入した本がある。『第一四代城主―秋月黒田藩黒田長榮』、著者は、現理事長である。著書といっても自筆本ではないが、御人柄が伝わってくる好著である。この本で、長榮氏の半生を知ることもできたが、「華族」制度について良く理解することができた。華族制度は、明治政府によって明治一七年に定められた。封建社会の階級制度はなくなったが、公家や大名、維新の功労者に爵位が与えられた。いわゆる「公候伯子男」の順になる。公爵になったのは、公家では摂政家である近衛家や徳川宗家であり、薩摩藩の島津家、長州藩の毛利家、維新の功労のあった木戸家、大久保家、岩倉家である。維新の元勲であった木戸孝允、大久保利通、岩倉具視は既に世になかったが、子孫が爵位を受けた。天皇を中心として近代国家を目指す中で考えられた、貴族制度のようなものである。天皇の藩屏ということである。今では、叙勲制度がその名残だと思うが、こちらは一代限りの栄誉である。華族の子弟は、学習院で学んだ。帝国大学の進学も容易にできたらしい。
 秋月黒田藩の城主であった黒田氏の爵位は子爵であった。黒田長榮さんが、二〇歳の時、宮中に呼ばれた。従五位となるためである。これは、宮中の席次であり、軍隊では大佐の待遇にあたる。華族の特権でもあった。戦後華族制度は廃止されたが、先の大戦では、華族の戦死者や犠牲になった人も多い。有事になれば率先して国を守り、天皇の外郭となって働かなければならなかった。女王陛下のために、率先して戦場に出たイギリスの貴族にも似ている。
 

 黒田藩の藩祖は長政であるが、父親の如水は稀代の人物といってよい。天運があれば、天下人になっていたかも知れない。童門冬二などの小説を読むと性格がそれをさせなかったと書いている。加えて切れ者過ぎたということも。政治家としても軍師としても実績を残し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と政権が移る中で、見事、家の隆盛を果たしている。秀吉には、その功にしては少なすぎたともいえる中津一二万石に甘んじたが、息子に家督を譲り、長政を陰で支え、関ヶ原の功により、筑前黒田五二万石の大大名に導いたのである。
 黒田官兵衛と名のっていた頃、小寺家の家老として、毛利氏につくか織田信長につくか迷っていた頃、織田信長の将来性を確信し、交渉にあたったことがあった。伊丹城主であった荒木村重の説得に失敗し、一年有余獄に繋がれたことがあった。獄から出た時には、歩行も困難な体になっていた。生命の最大のピンチであった。このあたりのことを吉川英治が小説に書いているのである。信長は、黒田官兵衛が寝返ったと疑い、人質になっていた長政を殺せと命じる。それを匿ったのが、竹中半兵衛であった。二人に友情が生まれ、秀吉を支えるのだが、病弱な竹中半兵衛は若くして死ぬ。
 織田信長が明智光秀によって殺されたという報をいち早く知ったのが、黒田官兵衛である。秀吉は主君の死の悲しみも受けとめながら、次は自分が天下を取ると心の中で考えていた。その心を黒田官兵衛は見抜いたように
「次は殿の天下になりますぞ」
と囁くのである。ここから、秀吉が有能な部下と認めつつも、黒田官兵衛に警戒心をおこすのである。この男に天下取りの野心があるかは分からないが、その資質は充分にあると認めるのである。劉邦と韓信の関係に似ている。ライバル意識が働いたのである。後に、側近が
「上様の後、天下を狙うのはどなたでしょうか」
と聞くと、秀吉は、誰だと思うかと反問し、皆が徳川家康や前田利家の名前を挙げると、以外にも
「黒田の禿げ頭」
だと答えた。それを知った黒田官兵衛は、隠居して如水と名のるのである。自分に野心がないことを示すためであった。しかし彼は、隠居の身ながら、朝鮮出兵や小田原攻めにも秀吉に協力するのである。秀吉が死に、次は徳川家康の天下になることを長政にも話し、石田三成とは敵対する。当然関ヶ原の戦いでは東軍にくみした。兵は、長政が戦場に連れて行ったので、中津藩には兵力は残されていなかった。しかし、蓄財していた財力を使って兵を集め、九州の石田方の城を攻め、範図を広げた。この時も如水に天運は向かなかった。関ヶ原の戦いが、意外と早く決着したからである。東軍と西軍が膠着状態になれば、次は自分の番だと考え九州全土を拠点にしようと考えていたのである。
  

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2014年01月02日

『侘助』(拙著)黒田藩五十二万石(上)

黒田藩五十二万石
 手元に「徳川幕府諸侯格式一覧表」がある。それを見ると黒田藩は、五十二万石で、徳川の御三家を除いた諸侯のうち五番目の大藩である。一番は加賀百万石の前田家であるが、正確には、百二万二千石である。黒田家は、筑前(福岡)の国主で初代が黒田長政である。黒田長政の父が、秀吉の参謀として頭角を現した黒田孝高(よしたか)=(如水)である。長い間親しくさせていただいている方に、黒田を祖先に持つ方がいて、話を伺ううちに黒田親子(如水と長政)に関心を抱くようになった。恥ずかしながら、二人は同一人物だと思っていたくらいで、戦国時代のことには、とんと暗い。
 黒田如水のことを調べようと思っていたら、吉川英治の著作があることを知った。タイトルも『黒田如水』である。若い時の黒田如水について小説にしている。吉川英治の作品を読むのはこの本が初めてかもしれない。吉川英治は文化勲章を受賞した大作家であるが、『私本太平記』、『宮本武蔵』などの大作が多く、尻込みして今日まで至ってしまった。登場人物の言葉のやりとりや心理描写、物語の展開にひきこまれ、大家の本は違うと思った。秀吉のもう一人の名参謀竹中半兵衛も登場する。黒田如水は、このころ黒田官兵衛と名のっていた。
 

 福岡には、学生時代からの友人がいる。十二月になったら、黒田藩ゆかりの地を案内してくれることになっていた。〝黒田藩ゆかりの地〟というのもおかしな言い方なのだが、秋月という鄙びた城下町がある。この地に黒田藩の支藩があった。石高は五万石である。黒田長政の三男の長興(ながおき)が藩祖である。既に城はないが、世が世であれば、一四代目の藩主が健在で、現在九〇歳に近い高齢ながら、秋月郷土館の理事長をしている。戦前までは華族であった。秋月郷土館には、藩主が愛用した甲冑、刀剣の他、肖像画、書跡などが展示され、旧藩士の末裔が寄贈した高名な画家の絵画などが展示されている。敷地内には、藩士の住まいも保存されていて、当時の武士の生活を垣間見ることができる。この郷土館の建物は、友人の親戚の建築家が設計し建築した。友人の母方の人で、母親は、秋月の人である。
 福岡からは、西鉄を利用した。途中乗り換え、甘木駅が終点である。田園地帯が広がっている。甘木駅に近い大刀洗には、陸軍の航空基地があった。今は、麒麟麦酒(株)の工場があるという。九州説による邪馬台国の女王、卑弥呼の里も近い。旅に出ることにより、現地に足を運んだからの発見である。甘木駅からはタクシーを利用する。既に紅葉はない。もう半月も前ならば、紅葉狩りの観光客で人出が多かったに違いない。時期をずらし、閑静な秋月を訪ねられたことが良かったかもしれない。山を背にした秋月の城下町は意外と狭い。タクシーを降りる前に運転手が教えてくれたのだが、石造りの橋があった。長崎の眼鏡橋に似ている。今から二〇〇年前に藩主の命で造られ、数年前は、自動車も渡っていたという。花崗岩でできた橋で、秋月の観光スポットのひとつになっている。時の藩主は、長興から八代目の長舒(ながのぶ)である。名君だったと今日でも秋月の人に記憶されている。黒田長舒は、日向高鍋藩から黒田家を継いだ人である。長舒の叔父が上杉鷹山である。彼は、鷹山の政治を尊敬していた。もともと、秋月氏は、その名からわかるように、長く秋月の地を治めていた。鎌倉時代からの名門であったが、秀吉によって、国を追われたのである。江戸時代、黒田家と秋月家は縁戚関係になった。長舒の祖母は、秋月黒田家四代藩主の長貞(ながさだ)の娘であった。
 

 秋月郷土館の前の道は、「杉の馬場」と呼ばれている。城の玄関ともいえる長屋門へとのびている。名前からすれば往時は杉並木だったのであろう。今は桜が植えられている。春は花見客で賑わうのであろう。杉の馬場から、何筋かの道があり、下っていくと郷土の偉人ともいわれる人物の屋敷跡がある。時間がなかったので訪ねられなかったが、一人は、緒方春朔(しゅんさく)である。秋月藩の藩医で日本最初の種痘を成功させた人だという。ジェンナーよりも六年早い一七九〇年のことである。もう一人は貝原東軒である。こちらは、「養生訓」で知られる貝原益軒の妻である。帰路もタクシーを利用したのだが、運転手が、緒方春朔は、蘭学者緒方洪庵であり、貝原東軒は貝原益軒だというので少し疑問は残ったが、その時は信じてしまった。
「昔の人は良く名前を替えますからね」
緒方洪庵も種痘と関係があった記憶も残っていたので尚更だったのであろうが、幕末の人だから、同一人物というのはおかしいとは思いつつも。同乗している友人も
「そうなんですか」
と納得した様子なので、帰宅するまで不問となった。友人の父親は、医師で、家系を辿ると黒田藩の御典医だと聞いていたこともある。帰宅後、お礼の電話をしたら、友人が父親から聞いたが、緒方春朔と緒方洪庵は別人だという。観光地のタクシーの運転手なのだから、少し勉強してほしいと思った。
  

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