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2014年03月11日

3・11を考える(3)

 原子力発電の問題は、単純にこれが良いと言い切れる問題ではない。東京都知事選挙で、にわかに「原発廃止」が一つの争点になったが、選挙結果からは選挙民の判断は、多様な選択肢を持って投票に臨んだと考えられる。電力と言うエネルギーを使わなければ生活できない社会になっているからだ。
 

 現在、原子力発電所は稼働していない。火力を中心に電力を賄うことができている。多少のコストはかかるにしてもしかたない。大事故ではあったが、一度起こったからそれでもう原発は駄目というのもいかがなものだろうか。
 今現在、福島第一原発は、廃炉に向けて苦闘している。これ以上の放射能汚染を出さないようにということで、何も生産的なことにつながっていかない。だがそうだろうか。多くの困難を克服し、想定以上に早く廃炉にすることができ、安全対策も確立することができたらば、世界各国で稼働している原子力発電の安全性にも寄与することができる。また、廃炉にてこずり、被害を拡大していくようだと、原子力発電は、人間のコントロールできない危険な手段という結論になっていくだろう。そのようであれば、世界の国々も原子力の発電を廃止の方向に向かわせることになる。人に害があり、コストもかかり、人の生活に寄与しないということが自明ならば、人類は原子力による発電から、異なる選択し持つに違いない。人類が手にした「火」は、管理できるから意味がある。
  

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2014年03月10日

3・11を考える(2)

 鎌倉の大仏さまが津波に襲われたという話もある。室町時代のことで、諸説あるらしいが、かなりの高さの津波が鎌倉市街を襲ったことは、事実のようである。数百年の周期か、過去に日本沿岸は津波の被害を受けている。そのたびに復興し、今日に至っている。地震国日本の宿命のようなところがある。この国に住む限り、いつの時代にも地震を意識し、沿岸部の人は津波に備えなければならない。
 

 復興のことである。まずは、生活のことである。被災した人の健康の配慮であり、働く場所の確保である。そして住宅の再生。共同して暮らす集落の復興ということになる。今日は、情報や流通が過去と比べて比較にならない位進んでいる。東日本大震災でも素早い救援と義捐金により政府も民間も対応したし、がれきの処理にも時間がかかったが、多くのボランティアの働きも大きかった。雇用保険によるセーフティーネットも活用された。
 しかし、近代だからこそなのだろうが、いまだに仮設住宅に被災者の多くが住んでいることである。多くの人が肉親を亡くし、津波の恐怖を忘れられないこともわかる。しかし、沿岸部の人は漁業や、その地形を生かして生活してきた。このような大津波は、何百年に一回だということを考えれば、元住んでいた場所に、家を再建するのが良いと思うのだが、これは暴論だろうか。とにかく命が一番大事なことは、自明なことであるが、今回一番に学んだのはいかに早く高台に逃げることだということである。人間は、動物なのだから植物と違って移動することができる。非常時の避難場所と避難ルートがしっかりしていれば、ほとんどの人が命を失わないで済むと思う。身一つとは言えないが、車や家財は置き去りにして逃げたい。高台移転は、コストと時間がかかる。震災や戦災後の東京は、同じ場所に見事に復興していることも考えると。
  

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2014年03月09日

3・11を考える(1)

もう数日で、東日本大震災から3年が経つ。新聞やテレビで報道特集が組まれるようになった。この間、個人的に震災地の支援はそれほどできなかったが、震災地を訪ねることはできた。震災の日、テレビで見た映像はショックだったが、現地に行ってみるとその規模の大きさに驚く。街そのものが消え去ったという感じである。
 一日も早い復興をと考えるが、それほど簡単ではないことは、政治家や、行政人、企業人でなくともわかるが、過去の歴史に学ぶことはできないかと思う。規模の違いはあるが、今回の震災ほどではなかったとしても津波の被害はあった。東北では、三陸津波が比較的近い災害であるが、安政の大地震でも津波による被害があった。1954年の12月のことで、2日連続で大地震がおこり、三重県や愛知県、静岡県の沿岸を大津波が襲ったという記録が残っている。死者も数万人を越え、多くの家屋が崩壊、流失した。下田ではロシアの軍艦ディアナ号が損傷し、修理のため西伊豆に移動したが沈没している。政情不安の幕末のことであり、経済的な損失もあり復興は大変だったことが想像される。
  

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2014年03月08日

心に浮かぶ歌・句・そして詩149

「落ち葉のように」 詩 大手拓次

わすれることのできない
ひるのゆめのやうに むなしさのなかにかかる
なつかしい こひびとよ
たとひ わたしのかなしみが
おまへの こころのすみにふれないとしても、
わたしは 池のなかにしづむ落葉のやうに
くちはてるまで おもひつづけよう。
ひとすぢの髪の毛のなかに
うかびでる はるかな日のこひびとよ、
わたしは たふれてしまはう
おまえの かすかなにほひのただよふほとりに。

音楽プロデューサーをしている友人が企画した音楽会に大手拓次の詩が歌曲として歌われる。作曲は、清水脩となっている。音楽会のタイトルは「日本の歌」である。第5回となり、副題として―唱歌誕生から芸術歌曲―までとなっている。
大手拓次は、群馬県安中市にある磯部温泉の旅館の息子として生まれ、多くの詩を遺したが、生前世に発表することもなく、病の中に独身のまま亡くなっている。その詩は、群馬県前橋市の詩人萩原朔太郎に影響を与えた。
今も磯部温泉は、温泉地として知られ、雀のお宿として名高いホテル磯部ガーデンがあるが、この旅館も大手拓次の親せき筋になる。女将は、櫻井丘子さんといって、大ホテルをきりもりしている。
  

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2014年03月06日

黒海周辺

 ウクライナの政情が不安定になっている。ソ連邦に属していた時代から独立してウクライナ共和国になったが、政治が安定しない。ヨーロッパ有数な穀倉地帯になっていて、しかも地下資源も豊なことを考えてみれば、経済も安定していて良いと思うが、財政的にも危機的な状況にあるという。
 黒海に飛び出すように、クリミア半島があるが、この地区が火種になって、ウクライナ共和国を一層混乱に向かわせている。第二次大戦終結のために、連合国の首脳の会談があったヤルタもこの半島にある。ロシア軍の基地もあり、ロシア系住民が多いこともあり、ロシアに拘りがある。まさか、米ソが戦うなどという事はないと思うが、情勢は緊迫している。


 クリミア戦争は、日本の幕末に起こった大戦争である。ナイチンゲールもこの戦争で活躍した。改めて彼女の人生を見るとすばらしい。日本とこの時代の関係で思い浮かぶのは日露和親条約のことである。伊豆下田で結ばれたのだが、安政の東海大地震で、ロシア軍艦ディアナ号が沈んだ。やはり、伊豆の戸田で日本人の手で新たな舟(ヘダ号)を建造し、乗組員を国に送り届けたということがあった。
 クリミア半島の近くの、ロシア領にあるソチでは、冬季オリンピックが開催されたばかりである。パラリンピックの開催も間近に迫っている。平和の祭典と国際紛争勃発の危機、黒海周辺から目が離せない状況になっている。
  

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2014年03月05日

心に浮かぶ歌・句・そして詩148


仰げば尊し」

あおげば とうとし、わが師の恩。
教(おしえ)の庭にも、はや 幾年(いくとせ)。
思えば いと疾(と)し、この年月(としつき)。
今こそ 別れめ、いざさらば。

互(たがい)にむつみし、日ごろの恩。
別るる後(のち)にも、やよ 忘るな。
身をたて 名をあげ、やよ はげめよ。
今こそ 別れめ、いざさらば。

朝夕 馴(なれ)にし、まなびの窓。
螢のともし火、積む白雪。
忘るる 間(ま)ぞなき、ゆく年月。
今こそ 別れめ、いざさらば。

 卒業式の季節になった。今は、小学校の卒業式でこの歌が唄われることが少なくなったようだ。明治17年に発表された唱歌で歴史は古い。作曲、作詞とも不詳である。原曲があるらしいことが最近分かった。この歌の歌詞が古臭いとか、歌詞が民主的ではないと歌うのを反対する人がいるが、国民的に愛される曲だと思う。
 小学校時代の思い出は、はるか昔の記憶になりつつあるが、この歌を口ずさむと、当時の木造校舎や、校庭の桜の木などが脳裏に蘇ってくる。先生の顔も懐かしい。歌は世につれだから、卒業式に強制できないとしても、歌われ続くよう願う。
  

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2014年03月03日

心に浮かぶ歌・句・そして詩147


「春よ来い」        作詞 相馬御風   作曲 弘田龍太郎
 今日は、3月3日桃の節句である。里にも数週間前の大雪の残雪があり、まだ寒い。桃の花も咲いていない。春は、もう少しというところである。日曜日の讀賣新聞の閉じこみ版に童謡「春よ来い」が紹介されていた。作詞した相馬御風の郷里は新潟県の糸魚川市である。古代から翡翠の産地として知られているが、雪国である。春を待つ気持ちは一段と強い。
 相馬御風は、早稲田大学の出身で母校の校歌の作詞者としても知られている。「都の西北」である。良寛の研究者としても知られている。またその生き方も、良寛を範とするところがあった。作曲した弘田龍太郎は、高知県の安芸市の出身だが、自分の作品について多くを語らなかった人で、どことなく人生観が似ている。

春よ来い 早く来い
あるきはじめた みいちゃんが
赤い鼻緒の じょじょはいて
おんもへ出たいと 待っている

春よ来い 早く来い
おうちのまえの 桃の木の
つぼみもみんな ふくらんで
はよ咲きたいと 待っている
  

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2014年03月01日

心に浮かぶ歌・句・そして詩146(まどさん逝去)

「ぞうさん」
まど・みちお作詞/團伊玖磨作曲
ぞうさん
ぞうさん
おはなが ながいのね
そうよ
かあさんも ながいのよ

ぞうさん
ぞうさん
だあれが すきなの
あのね
かあさんが すきなのよ
 2月28日、詩人のまどみちおさんが亡くなった。104歳というから大往生である。幼稚園の子供が大きな声で歌っているのが「ぞうさん」である。子供達は無心に歌っているが、「おはながながいのね」は、悪口だとまどさんが明かしている。「そうなんだ」と思ったが、深入りはしない。
 まどさんの多くの詩を知らないが、インターネットを見ると多くのファンがいることがわかる。引用されている詩も良い。まどさんの詩は、北原白秋に認められたと各社の報道記事に載っていた。「そうなんだ」と思ったが、こちらは納得。北原白秋、西條八十、三木露風が活躍した時代の香りがする。日本の童謡の原点を継承している詩だと思う。
 とりわけ、まどさんの詩は小世界や命へのいたわりへの関心が強い。童心の季節も深く平易な言葉で描いている。まどさんは、長い老年期を生きたが、決して飽きることはなかった日々だったことを想像する。むしろ、まどさんの心の窓は、広くなったかもしれない。ご冥福を祈ります。
  

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