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2014年04月30日




山仕事をしている人は、蕨が群生している場所を知っている。しかし、その場所は他人に教えないものだ。身内にも教えないくらいだから、自分で奥山に踏み入って見つけるしかない。若い時、義父が蕨採取の絶好の場所を教えてくれた。群馬県と長野県の県境である峠の近くで、南斜面に蕨が群生していた。それも太くりっぱなものばかりだった。リックに収まりきれないほど採れた。コゴミ、ゼンマイ、ギボシといった山菜もあったが、それらには見向きもせず、蕨だけを採取した思い出が残っている。その夜は、夢の中に蕨が出てきたに違いない。
ちなみに、蕨のアク抜きは、灰を掛け、その上に熱湯を注ぎ一晩置くというのが一般的だが、小麦粉でもできるようだ。しかし、小麦粉は料理に使えるので、アク抜きの材料がないときの非常手段ということか。
  

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2014年04月29日

タラノ芽



新緑に先駆けるように、刺とげの木の先に芽を膨らませ、開こうとするところが収穫の時期である。天ぷらにすると何とも言えない美味しさがあるというので人気がある。杉の植林が進み、山に足を踏み入れてもタラの木が少なくなった。競って、人が山に入るので、既に芽を摘まれていたり、幹ごと切られたりして採取が難しい。しかし、手頃なタラノ芽を発見した時の喜びは、格別である。刺が刺さらないように皮手袋でとるようにする。
山歩きをしながら、採取するのが楽しいのだが、小さな木を抜いてきて畑に植えておくと、木が増えて楽に収穫できるが、少し大きくなると枯れてしまうことが多い。
  

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2014年04月28日

新緑



一年で最も気持ちの良い季節になった。里山を見ると、日一日と柔らかな緑が増していく。ところどころに山桜が咲き、色どりを添えている。常緑の杉や桧の濃い緑もまた良い。鳥のさえずりもどこからとも聞こえてきて心地よい。梅林の下草には、タンポポの花が咲き、菜の花も黄色の花を揺らしている。
まさに、「萌え出る春になりにけるかも」である。この時期の春の山を表現した季語がある。「山笑う」。好きな季語の一つである。この時期は、山菜も豊富である。
  

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2014年04月25日

乗りやすい馬を選べ、遠乗りにはそれがよい

 株式のことはこれくらいにしたい。所詮資産の運用の一つだと言うことである。どんな株が儲かるかなど確実に言える人はいない。株式投資をする時の姿勢として、この格言は納得できるものがある。基本は、長期保有でいきたい。「乗りやすい馬」とは自分が選ぶ銘柄のことだと考えれば良い。
少額投資非課税制度(NISA)は、その内容を見ると「乗りやすい馬」を購入することを促しているように見える。5年も10年も同じ馬に乗るというのも難しいと思うが、体重(株価)が減らず働き者(配当)が良い。年金生活者ならば、配当が高く、長続きするのが良い。取得株価よりも下がっても、配当がそれを埋めていれば長期保有ができる。
  

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2014年04月24日

どんな株とも結婚してはならない

欧米人の格言らしい。好きな会社の株を買うことは間違ってはいないが、経営が長期的に不振になれば株を手放しても構わないわけだから、戦艦大和の司令長官のように、会社と運命を共にするなどということは考えなくても良いわけだ。できれば、好きな株を長期保有したいところだが、そのような株は少ないようだ。売ると言う行為は、一時的な離婚とも言える。
社員持ち株制というのがあるが、株式会社に務めたことはないからそうした経験はないが、社員は、退職するまでは保有している場合が多いのかそれもわからない。ストックオクションは、新株予約権と訳すようだが、こちらは社員が自腹で購入しなくても自社株を手に入れることができる。
銀行員は、自社株以外は、株を購入することは少ないようだ。企業と融資の取引があっていろいろな情報が入るから、インサイダー取引を指摘されることがあるからだろう。
 「どんな株とも結婚してはならない」という格言を鵜呑みにする必要はないと思う。
  

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2014年04月23日

ただ人は情けあれ(2014年4月)

 京都で、同窓会があって、一人を除いて、三九年ぶりの再会ということになった。もう一生会う事もないと思っていた同窓生も多かったようだ。小学校、中学校、高校といった同窓会は地域性もあって開催されやすいし、集まりやすくもあるが、大学の同窓会は、なかなか企画されないものだ。
 


 会場になったのは、聖護院御殿荘という旅館である。会場の玄関は、お寺のようでもある。物故者もあって、開会の前に黙祷となった。同じゼミの友人も夫婦して亡くなっている。乾杯のご指名があって音頭をとることになった。理由は、遠方から来たということと、恰幅がいいという理由らしい。女性はそれほどではないが、男性は受付の時にも顔と名前が一致しない。
 近況報告ということになって、一七人の参加があり、一時間は超えた。三九年を五分で語るという事になれば、話は尽きないということになる。企業に勤めた者もあり、教師、公務員、自営業とさまざまであるが、地道に職業を全うし還暦を過ぎたという印象が強かった。それよりも、同志社人らしく新島精神が一人一人に流れているという感じを嬉しく思った。ゼミは違っていても、担当された先生の人格と思想によるのだろう。乾杯の時、ふと口に出て来た言葉が「ただ人は情けあれ」であった。
 昨年、恩師は喜寿を迎え、代々のゼミ生が集い、奥様とともに御祝いをさせていただいた。その時も、乾杯の役が回って来て、同じことを申し上げ酒杯を上げた思い出が残っている。室町時代に詠まれた歌で『閑吟集』の中にある。
 ただ人は情けあれ朝顔の花の上なる露の世に
恩師の好きな歌だが、情というものを人生の中で何よりも大事にしたいという事である。
「京都という土地は別に懐かしくないが、皆さま御一人御一人が懐かしい。はるか過去になったが、その時の心のふれあいが懐かしく感じさせる。その心の働きが情です」と言ってこの歌を引用した。そして最後に
「これからの皆さまの心の健康とご縁が益々深まることを願い乾杯致しましょう」
と言って、再会を祝した。
還暦を過ぎれば、病気にもなりやすく、体調を崩しやすくもなる。「ご健康を祈念して」などとは言いにくいのである。そうなったら、そうなったで、つきあっていくしかない。日々を前向きに生きる心の健康の方を願いたいと素直に思うのである。近く、また会う機会が訪れることを願いたい。ご縁が深まることを願うということである。
 幹事から提案があって、次回はいつにしましょうかというので挙手を求めたところ二年後ということになった。オリンピックのように四年に一度というのは、歳柄長過ぎるということだろう。遠方の者からすると、温泉旅館で一泊できるような企画が良いと言おうと思ったが、企画してくださる関西の次回幹事にお任せすることにした。ただ、新島襄ゆかりの地である群馬に住む卒業生としては、有志だけで、同窓会という事でなくても良いから、温泉地に宿泊して安中や伊香保を案内しても良いと思った。今日の宿泊は、ホテルではなく恩師の家である。二次会はない。久しぶりに会ったにしてはものたりなさも残ったが、体力的にも昔若かった時のような無理もできないのも事実である。
 「ただ人は情けあれ」についてである。情の大事さを繰り返し語った人物がいる。数学者の岡潔である。和歌山県橋本市役所前に昨年顕彰碑が建ち、そこに刻まれた碑に、
「日本民族は情の民族である。人と人との間によく心が通い合うし、人と自然との間にもよく心が通い合う。この心を情というのである。日本民族は情によってつながっているのである」とある。日本民族を同窓生に置き換えてみてもよい。心について学んだ心理学科の同窓生は同感してくれただろうか。
  

Posted by okina-ogi at 09:18Comments(0)旅行記

2014年04月22日

インカムゲイン

預貯金の利子などもインカムゲインである。郵便預金が10年も預けておけば、大変な利子がついて帰ってきたという時代はとうの昔の話である。株式でインカムゲインと言えば配当のことだが、会社によって配当はさまざまである。4パーセント台の配当は、高配当である。昨年までは、軽減税率が適用されて税率は10パーセントだったが、今年から20パーセントに戻る。また加えて復興税もある。少額投資非課税制度(NISA)は、いろいろな条件がつくが、配当の税を免除しようというものである。つまり、長期保有を促しているということになる。売却した場合は、一度きり税は免除となる。
年金生活者は他に収入がなければ、余剰資金があれば、配当収入を生活資金として考えてもよい。NISAを利用することも考えられるが、あくまでリスクは承知しておかねばならない。同じ高い配当が続くとは限らないし、株価が下がるということもある。譲渡による利益のことをキャピタルゲインというが、これも配当と同じ税率がかかる。
  

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2014年04月18日

志賀直哉邸



奈良市の高畑町に志賀直哉の旧居が残っている。その旧居の通りの反対側に、みかさ荘という古風な旅館があって、ここ数年、数学者岡潔を偲ぶ会「春雨忌」の宴会場になっている。毎年、家の前を通るが入館して見学することはないが、志賀邸は、女子大のセミナーハウスになっていて、いろいろな催しが開かれているようだ。
土塀に囲まれているが、2階の部分が見える。和風建築に見えるが、内部には洋風の部屋もあるようだ。敷地は435坪もあり、建物も134坪ある。昭和4年に建築され、10年近く家族とともに住み、名作『暗夜行路』もこの家で執筆された。多くの文人もこの家に集い、サロンにもなった。
2階からは、若草山や春日山が見え、奈良が好きだった志賀直哉にとっては、安住の地だったに違いない。志賀直哉というと東京にはあまり住まず地方を転々として暮らしていたという印象がある。ちなみに、三笠山というのは、若草山、春日山あたりの山の総称でその中に御笠山という小山がある。地元の人は花山と呼んでいる。
平面図を見たら、広さといい、部屋の内容といい庶民の家ではない。プロレタリア作家の小林多喜二も志賀邸を訪れたようだが、ビックリしたに違いない。毎日、一流の老舗旅館に滞在している気分になるだろうが、ここまでは望むべきもない。

  

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2014年04月18日

現代の庵(2)

寝室と書斎
30年近く前に建てた家に書斎を作ったが、寝室と兼用だった。壁に本棚を作り、机を置いて読書して見たが何かものたりない感じがした。そとの採光が充分でなかったこともある。寝室は暗くても良いのだが、書斎は少し明るくしたい。気分転換に庭や、遠くの山を眺められたらとも思った。
寝室を区切り読書できる空間を作りたい。小さな本棚を置き、パソコン一台を置ける机があればよい。日差しがあるので、窓は北側にあれば良い。書庫などは、寝室に置かず、廊下の片側に並べておけば良いだろう。寝室には、衣類を収納できる場所を作りたい。庵的な住宅の基本は、寝室と書斎にある。

居間
2面は腰の高さ位の収納庫を作りその上は硝子戸にしたい。収納庫の上には置き物もおけるだろう。反対側は、暖炉風な内壁にして、暖房がおける空間を作る、まきストーブは、掃除が大変だし、管理できる自信がない。もう一面は、台所だが、ガスは使わない。電磁調理器と電子レンジが置ける流しがあれば良い。
居間は、サンデー毎日の身分になれば、一番活用されるだろうから12畳位の広さはほしい。もちろん洋間で天井は少し高くて良い。冷房は備えず、プロペラ式の扇風機を天井につけたい。暖房の効率を良くすることもできる。

客間
日本人には、一つくらいは和室の客間がほしい。もちろん床の間は、必要。6畳位の広さがあれば良いが、押し入れは収納の関係で絶対必要。応接間兼遠来の客の寝室にできる。
普段は、書斎にも使ってみても良い。冬場は、掘り炬燵が置けるようにしたい。裏庭に向かって縁側があればと思うが、あまり贅沢なことは言えない

  

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2014年04月17日

現代の庵

幼い頃、祖母が生きていて、同じ敷地に隠居部屋と称して別棟があった。食事だけは一緒にしたが、普段は一人静かに暮らしていた。時たま、近所の友達に会いに行く時、同行することがあった。幼稚園に行く前のことだから、ほのかな記憶しか残っていない。
たまたま、今も農家で農地を所有しており、農地の転用さえ農業委員会で許されれば、宅地にして、母屋の隣に庵を建てる空間がある。読書と物書きが趣味だから、簡素な一軒家に住もうかと考えている。庵みたいな空間に住みたいと若い時から考えていたようで、友人から「あなたは、昔から庵みたいなところに住みたいと言っていた」という証言もある。数年間だが、借家住まいで、家が狭かった時、書籍は知人の所有の別荘に預かってもらい、その一室を借りていたことがあった。
さて、どんな庵風別棟が良いか。資金に限りがあるので大枠を考えて見た。
坪数   20坪以下
部屋数  寝室(ベットとパソコンが置ける空間があれば、テレビはなくても良い。なるべく近くにトイレがあり、浴室はシャワー室で良い)
居間とキッチン(洋間、書籍も置き10畳位の広さがほしい。窓はなるべく広くとり、通風と採光を大事にしたい)
客間(和室で床の間はほしい。押し入れは収納のために必要。6畳間)
廊下(なるべく少なくする)
  これで20坪に収まるのか自信がない。
  

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2014年04月17日

西行庵



西行は平安時代末期から鎌倉初期の人、とうてい庵など現存しているわけはない。
吉野山の奥千本に御堂のような西行庵があるが、庵をこのあたりに結んだであろうとの想像で復元したものだ。横幅270センチ、奥行180センチ、高さ65センチの大きさしかない。
23歳で妻子を捨てて出家したというから尋常な決断ではない。諸説あるらしいが、戦乱の世である。政争の渦中の人になりたくなかったのだと思う。それはそれとして、若い男の一人暮らしは辛くなかっただろうか。そういった俗人的な発想は、やめよう。自然に溶け込むようにして、多くの名歌を生んだ。桜の歌が多い。
 願わくば花のもとにて春死なんその如月の望月の頃
桜の時季になると西行のこの歌が思い出される。

  

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2014年04月16日

平尾山荘



幕末、勤王の歌人だった野村望東尼が住んだ山荘。福岡市にあるが、今も閑静な場所に建っている。藁葺き屋根で、廃屋のように見えるが、内部は小奇麗になっている。平野国臣や高杉晋作も匿われるようにしてこの山荘に滞在したことがあった。
10年前くらいに訪ねた時、椿の花と馬酔木の花が咲いていたのが印象的だった。
庵住む 尼にせめての 椿かな
部屋は、和室が三間位だったと思うが、一人で住むには十分な広さである。望東尼は、姫島に流され、高杉晋作により救出され、晋作を看取ることになる。
面白きなき世を面白く と晋作が詠むと それに望東尼が 棲みなすものは心なりけり
とつけて時世の歌が完成したと司馬遼太郎の『花神』に書いてあったような気がする。
一方、晋作の菩提を護ったおうのさんは、出家して東行庵に住んだ。高杉晋作の墓地の近くにあって、こちらは瓦屋根の建物だが、庵というべき広さである。


  

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2014年04月15日

芭蕉庵




  奥の細道の紀行の最初に出てくる深川の芭蕉庵がどんな間取りになっているかはわからないが、狭い和室と、縁側がついていたくらいのこじんまりとした空間だったのだろうと思う。芭蕉は、旅を住処にしていたので庵は仮の宿だったのかもしれない。
  芭蕉庵といわれるものを見たのは、京都の与謝蕪村の墓のある金福寺と、滋賀県の石山寺の近くにある幻住庵であるが、住まいというには、あまり質素である。良寛さんの五合庵はさらに質素なものであった。到底現代人には暮らして行けそうもない。
  

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2014年04月14日

子規庵



漱石の友人でもあった、正岡子規の住まいは、上野に近い根岸にあった。当時の面影を残す家が今も残されている。漱石山房と違い、坪数は少ない。母親と妹の三人ぐらしであった。病室が書斎であった。その部屋の南面は、当時には珍しいガラス戸で、辞世の句にした糸瓜が垂れ下がっている風景も見ることができた。隣の間の南面は、縁側があり、体調の良い時は、縁側で日光浴もできたのだろう。
子規庵には、一度見学したことがある。病状六尺の部屋は、日が差し込み、意外と明るい部屋に感じた。庭もこじんまりしていて、子規がスケッチし、句にした葉鶏頭などが植えられていた。

  

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2014年04月13日

漱石山房



名作の多くを執筆した漱石の家は、意外と広い。一人住まいの庵ではない。平屋で60坪ほどの広さで、女中部屋まであった。玄関から右手に書斎があり、ベランダが取り巻くようにしてあった。そのベランダで寛ぐ漱石の写真が残っている。庭には芭蕉の木が植わっていた。
最後の作品は『明暗』だったが、午前中創作し、午後は、くつろいだようだが、創作の余韻が充実した喜びとなって残ったという。書斎の隣は、客室になっていて、多くの弟子たちが漱石を訪ねた部屋になっている。木曜会という集まりである。芥川龍之介も訪問している。
玄関から一番左の部屋が子供部屋になっている。そのとなりに食堂があり、かなりの広さである。家族一緒に食事をするのにも十分な広さである。漱石の住んだこの家は、戦災で焼けてしまったが、漱石の生誕150年を記念して記念館の構想が、新宿区で進められているようだ。

  

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2014年04月12日

終(つい)の住み家

小林一茶の句に
「これがまあ終のすみかか雪五尺」というのがある。北長野に住んでいた小林一茶は、母屋を火事で失い、土蔵に住み、そこで亡くなった。雪5尺ともなると、関東に降った雪を超えている。孤立世帯にもなる。
4月12日の朝刊に平成35年には、高齢者世帯が4割を超え、3分の1は、一人暮らしになるという厚生労働省の推計が載っていた。住まいは、集合住宅であったり、一戸建て住宅であったりするが、親子で家族同居は少なくなるようだ。
旅好きなことから、いろいろなホテルに泊まって思うのは、究極の住み家は、寝室とトイレと浴室だと思う。ただ、食事を作るとなれば台所は必要。越後湯沢に泊まった時、売れないリゾートマンションが宿泊施設になっていて、その部屋には、流しがついていた。
介護されるということは別にして、自活できる老人がどのような家に住むかを自分なりに考えて見た。「庵」というものがある。芭蕉や西行に憧れているから、かなり観念的に考えているところもある。積極的一人暮らしの家が「庵」だと思う。
現代的「庵」を設計するとすれば、どれだけの広さがあれば良いか。どんな部屋と設備があれば良いか。収入が年金中心になるのだからあまりの贅沢もできない。居間兼書斎、寝室。来客者のための和室もほしい。トイレと簡単なシャワー室。
「これがまあ終のすみかか20坪」
1000万はかかりますね。少し贅沢すぎるかな。
  

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2014年04月11日

ふるさと納税




 最近、ふるさと納税に関心を持つようになった。東日本大震災があってから、東北地方の復興のために地方自治体に寄付ができる、ふるさと納税を考えてみようと思うようになった。申告すれば税が免除されることもあるから、無理のない寄付ができる。なかには、故郷の名産を送ってくださるというからありがたい。寄付は、あくまで見返りを求めるものではないが、市町村も故郷をピーアールできるわけだから、気にかけることもないだろう。
ふるさと納税に少し誤解があって、地方から都会に出た人が生まれ育ったふるさとに寄付するものとばかり思っていた。そうではないようだ。誰でもどこでも寄付ができるようだ。ようだ、ようだというのは未だ寄付したことがないからだ。
過日、和歌山県の橋本市を訪ねる機会があった。紀ノ川の流れる風光明媚な町である。橋本市は、昨年、市役所の入り口に市の名誉市民である岡潔の顕彰碑を建立した。世界的な数学者として文化勲章も受章している。さらに、平成30年には、記念館を建設という。
市の担当者に確認したところ使途は、指定できるという。給与所得があるうちに毎年度寄付するようにしたい。地元で採れる柿も送ってもらえるようだ。一度は味わってみたい。
  

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2014年04月10日

桃源郷(2014年4月)

 四月五日に京都に途中下車し、その日の夕刻から奈良に二泊した。東海道新幹線沿線から京都、奈良は桜が満開である。こんな春の旅は初めてである。昭和五三年の三月に、数学者の岡潔先生が他界され、御遺族を中心に有志によって亡き師を偲ぶ会が始まって、今年が三七回目になる。春雨忌という集まりになって、遺族の方の家を宿として提供くださっている。最初出席したのは、三〇代の始めだったと思うが、確実に半分以上は出席している。今年も、一〇数名の人が出席したが、高齢化が進んでいるのも事実である。
 四月七日、岡先生の次女の松原さおりさんと有志六名で、和歌山県橋本市を訪ねることになった。現在、岡潔は、橋本市の名誉市民になっている。昨年の十一月に、顕彰碑が建立され、除幕式があった。その碑は、橋本市役所の駐車場の入口のバス停の近くに建てられた。熱心に岡潔を顕彰し、後世に広くその功績を伝えようと活動されている方のご案内で、岡先生ゆかりの地を訪ねることになったのである。
 

 橋本市には、JRで乗り換えなしで行ける列車がある。JRの奈良駅は、改装されて広く新しくなった。古い駅舎も残され、古都にふさわしい駅になっている。奈良駅を起点にし、奈良盆地を南下するのは初めてかもしれない。各駅停車なので、駅の名前が新鮮である。最初の駅の名は、京終。表札の送り仮名を見ないと何と読むのかわからない。「きょうばて」と読むのである。次の駅が帯解。こちらは「おびとけ」、近くに安産祈願の寺があることで知られている。
 天理駅を過ぎて暫くすると巻向駅になる。「まきむく」これも奈良らしい響きのある地名である。このあたりは、万葉集の香りがする場所で二十年近く前にゆっくり一人歩いた思い出がある。古墳も多い。次の駅が三輪駅である。山そのものが御神体になっている三輪山が見えてくる。麓には大神神社がある。大国主命とゆかりのある神社である。このあたりは、三輪ソーメンが作られていることでも知られている。
 

 桜井駅から列車は、西に方向を変える。耳成山、香久山、畝傍山が見えてくる。「大和は国のまほろば」と言われる場所はこのあたりである。一昨年、藤原京跡を見て香久山に登った。それほど高い山ではない。持統天皇の
春過ぎて夏来にけらし白妙の衣ほしたり天の香久山
の歌で知られる大和三山の一つに数えられる山である。隆起した山ではなく火山だったというが、今ではそうしたことも想像しにくい小高い丘のような山である。標高は、一五二メートルしかない。
 高田駅からは、車両は反対方向に走り、南下しながら吉野山に向かう。御所駅の右手には、葛城山が見えてくる。千メートル近くの山で頂上付近には残雪らしいものがある。山の向こうは大阪になる。県境を越えて五條市に入り、最初の駅が北宇智である。斉藤茂吉の『万葉秀歌』に出て来る天智天皇が詠んだ
 たまきわる宇智の大野に馬並めて馬踏ますらむその草深ね
はこのあたりの場所らしい。右手には金剛山があり、山を越えれば、楠正成が北条軍の攻撃を死守した千早城の跡がある。五條駅を過ぎて橋本駅についたのは、十一時十九分。奈良駅からの所要時間は、一時間四十分ほどだったが、春の風景を満喫し、歴史ある場所を見ながらのゆっくりとした列車の旅ができた。
 橋本駅には、昨日の春雨忌に参加された、Sさんが自家用車で迎えに来てくださった。遠来の客として車に乗せてもらい、他の四人はタクシーを利用し橋本市役所に直行。粋な計らいで紀ノ川を渡り、遠回りして市役所に着いた。幼い頃過ごした松原さんへの配慮でもあった。紀ノ川は広く流れも緩やかである。この地の出身の水泳の前畑秀子や古川勝も、プールのなかった時代この川で泳いだのかもしれない。
 


 岡潔の顕彰碑は真新しかった。右の碑には略歴。左の碑には似顔絵と、岡潔の遺した言葉が刻まれている。その全文を紹介する。
「日本民族は情の民族である。人と人との間によく心が通い合うし、人と自然との間にもよく心が通い合う。この心を情というのである。日本民族は情によってつながっているのである 岡潔」
著書『一葉舟』からの抜粋である。 
岡潔は、数学者でありながら、知よりも情の働きを大切にした。そして難解な数学の研究も情緒の中でやり遂げた天才的な数学者であった。記憶力も抜群で土井晩翠の「天地有情」の詩を諳んじていたらしい。かなりの長文である。その字句も現代人からすれば難しい漢字が使われている。しかも詩の気分も込めて晩年の京都産業大学の講義で朗読した。今もそのテープが残っていて、昨日の春雨忌の勉強会でそれを聴いた。
 来年には、和歌山県で国体が開催される。そのために一部を残して高速道路が整備された。今の期間は無料だという。紀ノ川を高い場所から眺めることができるというので、その道路を利用して粉河市に向かう。途中見た眺めと、桃の花が咲いているのを見ていたらまさに桃源郷のように見えて来た。粉河市には、岡潔が通った粉河中学がある。旧制中学で当時の木造の校舎はなく、校門だけが残り、校舎は鉄筋の建物になっている。廊下は五〇メートルもあり、階段式の教室があったらしい。岡潔は、この中学から三高、京都帝国大学と進学したのである。
 

 岡潔の足跡を最後に見て、橋本市から南海電鉄で大阪に向かい散会となったが、途中に御幸辻という駅がありこの近くに平成三〇年に岡潔記念館が着工される。岡潔の生地は、この駅の先の紀見峠という大阪との県境にあり、代々庄屋を務める家柄だった。祖父の文一郎は、郡長にもなり当時村であった紀見村の発展に貢献し、立派な顕彰碑が建てられている。
 昼食をした旅館の近くには、粉河寺があり、副住職が短い時間に寺を案内してくれたが、御三家のひとつである紀州藩の財力を見た気がした。建物や山門も立派だが、枯山水の石庭は、独得なものであった。岡潔の故郷は、桃源郷のように見えたのは、文化もあり経済的にも豊かな土地柄だったという背景も加わっているからそう思えたのだろう。 樹齢千年のクスノキも見事だった。
  

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2014年04月09日

「物質はない。映像である」

日常生活の中で、このことを実感することは少ないし、人は逆に物質はあるとしか思えないものだ。どうして物が見えるのか。またどうして生きているのだろうかなどと考えることもない。
株式投資というものを考えた時、「物質(お金)はない。映像である」と思えて来るから不思議である。価格は、常に変動している。まるで映像のようである。ただ、売却した時だけが価値が固定して物質(お金)になる。
賃金と言うのがある。これは、労働の対価である。ただ経営者には、賃金というものはないが報酬はある。「ウサギとカメ」の昔話があるが、亀の歩みのようにのろくても着実に働いて得るお金の尊さが、逆に身に沁みて来る。株価の上下に一喜一憂することは、あまり意味がない。投機ではなく、投資なのだから。
  

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2014年04月08日

難平


ナンピンと読む。中国語のような響きだが、株式用語である。一度買った株が値下がりした時、平均取得額を下げるために同じ株を買いますことだが、心理的にはやりにくいのも事実である。「下手なナンピン、スカンピン」という好ましくない相場の格言があるそうだ。営業成績が落ち、終には倒産して株式がゼロになってしまう。株券はただの紙くずになるという事だが、今は電子化になったから紙くずにもならない。  

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