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2014年11月28日

法律門外漢のたわごと(介護保険法)

社会保険労務士試験の択一試験に必ずと言って良いが、一問だけ出題される。介護保険法は、まだ社会保険の法律の中で重みがないのかも知れないが、今後は、そうではないかもしれない。介護支援専門員という資格がある。洋風にケアマネージャーと呼ばれている。高齢者の介護サービスの計画を作る人と言ったら良いだろう。社労士よりも地味な仕事だが、高齢者やその家族を支える仕事だからやりがいがある。「あなたは、何のお仕事をなさっているのですか」と尋ねられたら、堂々と「ケアマネじゃ」と胸をはっても良い。
ところが、お手当は弁護士、公認会計士、税理士、社労士のように高額なものではない。介護支援専門員が働く事業所を居宅支援事業所というが、収支がマイナスになる事業所が多い。支出のほとんどが人件費である。
介護支援専門員には、中立、公正、守秘義務などが課せられていて、高い倫理観が求められている。それは、当然としても、基本的に残すべき記録が決められていて、実際行っていても記録がないと、保険者の監査によって減額や全部を返還させられる。
介護支援計画(ケアプラン)があっても、同意をもらっていないと介護報酬は、翌月からゼロになる。しかも、報酬単価の高い特定事業所である場合は、その月の加算もゼロになる。大変な収入減になる。
人間にはうっかりということもある。つまり過失というケースである。過失の場合は、保険の給付が全額支給されないということはない。故意は、給付されないのは当然である。不正ももちろんである。公的な保険で共通していることがある。不服や、異議申し立てができる点である。裁判に至る前の訴訟のようなものだが、実際その場面に遭遇していないのでピンとこないが、こんな話を聞いた。
地震でいつ潰れてもおかしくない家に一人暮らしをしている老人がいた。デイサービス、訪問介護、訪問看護の介護保険サービスを使っていた。居間は、一つで昼間は暗く、昼夜炬燵で過ごしている。部屋は物が散乱している。一人でトイレにも行けなくなった。担当していた、介護支援専門員は、限界を感じ、こうした困難事例を担当する特定事業所に依頼した。依頼を受けた、特定事業所の介護支援専門員は、家族、担当事業所と打ち合わせをし、入所施設も利用できるプランにし、引き継いだ。家族は、安心し、冬は施設で過ごすことができた。
ところが、監査があって、ケアプランの同意の記録がないというので、新たな計画までの数カ月は、無報酬になり、事業所の加算もその間返還しなければならない。100万円以上の金額になる。監査官は「決まりだから」と数時間の指摘で立ち去ったという。数か月間、家族や事業者と連絡をとったり、利用者も訪ね何もしなかったわけではない。
何かおかしいとは、お思いになりませんか。税務署の立ち入り検査よりも厳しい。行政は、民間を育てる役目もあると思う。不正や故意は、厳しく指導しないと制度が成り立たないから見逃すわけにはいかない。介護支援専門員は、保険者のために働いているのではない。決まりも大事だが、利用者のための行為がどうだったかは、記録が残っているのだから評価しても良いと思うし、ケアプランに署名がされた記録がなくても同意はあったことは、家族の証言があれば、証明できる。行政に異議申し立てすればと助言したいが、指摘を受けてから60日が過ぎている。もはや、その手段はない。「事業所が指定廃止にならなければ良い」とあきらめ顔。やはり、今もお上は強いのか。
  

Posted by okina-ogi at 17:28Comments(0)日常・雑感

2014年11月26日

『ホタル帰る』 赤羽礼子 石井宏著 草思社




俳優の高倉健さんが亡くなった。83歳というが、老人という感じがしない役者であった。高倉健が主役で出演した映画に『ホタル』がある。2001年に上映された。鹿児島の知覧に旅した後に観たので、印象的な映画になっている。昨日(11月25日)NHKのBSで放送された。脚本も良いのだが、健さんのせりふが渋い。映画『ホタル』の元になった話は、この本の中に多く語られている。著者である赤羽礼子は、特攻の母と呼ばれた鳥浜トメの娘で、出撃前の特攻隊員の思い出を石井宏に伝え、共著というかたちになった。
 映画に重ねるようにして、紀行文に書いた。本の紹介にもなっている。

拙著『春の海』 薩摩への旅より抜粋
 映画「ホタル」が上映されている。鹿児島の旅から帰り、その余韻がホタルの光りほどになった頃見たのである。主役は高倉健、特攻隊員の生き残りを演じている。監督は降旗康男で、大ヒットした「鉄道員(ぽっぽや)」のコンビである。朴訥で寡黙な高倉健のキャラクターが生きている。
 知覧特攻基地の近くに食堂を経営する鳥浜トメという女性がいた。店の名は冨屋食堂。トメは「特攻の母」と隊員から慕われた。平成四年八十九歳の生涯を閉じた。富屋旅館は、特攻隊員と肉親との最後の別れの場所であり、隊員同士の束の間の憩の場でもあった。トメは、店が軍の指定の食堂にもかかわらず蓄財するどころか、隊員の死出の旅立ちに旅費をさしだすようにして隊員をねぎらいふるまった。戦後は、彼らの供養のために、今日の「知覧特攻平和会館」建設の呼び水の働きをした。映画「ホタル」のヒントは、鳥浜トメに特攻隊員が残していった肉声の記憶にあった。
 宮川軍曹(戦死して少尉)は、出撃前夜、富屋旅館に来て、
 「明日は沖縄に行き、敵艦をやっつけてくる。帰ってきたときは、よくやったと喜んでほしい」と言った。トメは、
 「どんなにして帰って来るの?」
と尋ねると
 「ホタルになって帰ってくる」
と彼は言ったという。
 宮川軍曹が出撃した日の夜、次の出撃を待つ隊員が富屋旅館を訪れていた。そこに一匹のホタルが舞い込んできた。本当に宮川軍曹がホタルとなって帰ってきたと皆が口々につぶやき、見入っていた。映画「ホタル」の題名はこのエピソードから生まれた。
 特攻隊員の中には、朝鮮出身の者もいた。故国の民謡「アリラン」をトメの前で泣きながら歌って出撃していった、光山博文少尉。映画「ホタル」の金山少尉のモデルとなった。
 戦死した金山少尉の許婚(いいなずけ)が山岡知子である。知子を演じるのは田中裕子である。気丈さと、あどけない女性の雰囲気を出している。金山少尉のまさに出撃するときに「一緒に連れて行ってほしい」と泣きすがる知子と、未練もありながら飛び立っていく金山少尉の別れの場面は、男女の愛の美しさと辛さを表現していている。戦後、金山少尉の部下であった山岡曹長は知子と結婚する。同情で結婚してほしくないという知子も山岡の愛を受け入れていく。山岡も生き残りの苦しさを秘めながら漁師として生きていく。知子の命は、腎臓の病気で一年余しかないと山岡は医師から告げられていた。韓国に住む金山少尉の遺族に、出撃前に少尉が語った遺言とも言える言葉を伝える決意をする。開聞岳が見える波の打ち寄せる海岸で聞いた言葉を。その内容は、
 「トモちゃんありがとう。明日は出撃します。私は、日本帝国のために死ぬのではありません。朝鮮の家族のため、トモちゃんのため民族の誇りをもって死にます。トモちゃん万歳、朝鮮民族万歳」
 トモちゃんとは山岡の妻のことである。この金山少尉の言葉は、もう一人の部下であった藤枝伍長が聞いていたが、彼は既にこの世にはなく、金山少尉の生きた証を知るのは山岡だけだった。過去を語ろうとしなかった山岡だが、特攻体験者として尋ねられると、
 「生きているもんも、死んだもんも前に向って進んでいる」
と鹿児島弁で、若い記者にポツリという。「月光の夏」、「ホタル」という特攻にまつわる物語は、人の死から逆にいかに生きるかということを考えさせられる。
  

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2014年11月21日

『ニッポン』 ブルーノ・タウト著 森トシ郎訳 講談社学術文庫



数年前に、ブルーノ・タウトと一緒に仕事をした人の話を講演で聴いたことがある。水原(みはら)徳言さんという人で、当時、95歳を超える高齢であったが、タウトの人物像を垣間見たような気がした。タウトは、昭和8年から3年間日本に滞在し、本来の建築家の仕事はしなかったが、日本文化の優秀さを世界に紹介するような著述を残した。高崎市にある少林山の一画にある先心亭に夫人と住み、水原さんらと工芸品を創作し、その作品は、今も残っている。
桂離宮や伊勢神宮の建物を簡素で単純かつ静閑、純粋であるという表現で評価した。一方、日光の東照宮の陽明門には、感動もしなかった。本著は、訳書であるため日本語として違和感のある表現もあるが、単刀直入に見解を述べるタウトが現れている。水原さんのタウトに重なるところである。タウトは、持論を曲げなかったらしい。
日本の田園風景と農業の考察は面白い。干拓して国を繁栄させたオランダと相似していると言っている。そこから、勤勉で清潔を重んじる国民性の共通点上げている。オランダは、鎖国時代、ヨーロッパでただ一つ、日本と交易のあった国である。
政治的な発言ではないと思うが、徳川幕府が倒れ、天皇制になったことを評価している。
日本文化も天皇制のなかで培われてきたようにも書いている。伊勢神宮や桂離宮の建物が、タウトの眼にはよほど新鮮に映ったのだろうと思う。
  

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2014年11月15日

新潟平野を行く(2014年11月)

 新潟県の北、山形県境に近い村上市に瀬波温泉がある。海岸線にあって、日本海に沈む夕日が眺められる温泉地として人気がある。新潟県は、南北に長く、穀倉地帯が広がっている。日本の米の一大生産地である。特に、山間部に近い魚沼あたりは、とりわけ品質の良い米が取れる。魚沼産コシヒカリはブランド米になっている。加えて、日本酒が美味しいことでも有名で、人気のある銘柄を醸造する酒蔵がある。久保田、八海山、越の寒梅、吉乃川、景虎などなど。
 職員旅行に加わった。総勢一六名のバスツアーである。新潟へは、関越自動車道を利用する。朝九時に職場を出発し、一二時には新潟市に着いた。水上温泉までは、快晴であったが、全長一一キロもあるトンネルを抜けると天候は一変して曇りから雨になった。新潟と群馬の県境に連なる三国山脈を境に日本海側と太平洋側の気候は極端に変わる、冬の一日を体験した。気温が低ければ、当然に雪になっている。
 

越後湯沢は、リゾートマンションやホテルが立ち並んで、都会のような景観になっている。バブルがあって、マンションを所有する人も減って、ホテルとして経営している所も多くなったと聞く。スキー場もあるからリゾートとしての魅力は残っている。別荘と言う物は、利用したことはあるが、所有するには経費がかかる。ホテルに泊まった方が安上がりに決まっている。しかし、都会の雑踏の中に暮らす人には、静養できる場所になることは、事実である。ただし、家事が苦労に思わない人、特に男性はと言うことになる。私的なことになるが、現在の家が農地の中に建っていて、隣接する場所に、別棟を建てる余地がある。庵のつもりで終の住み家を考えるようになった。最近は、家と庭に関心が向くようになっている。高速道路を走っていると、雪国の家は、どこか違う。特に新築の家に特徴があることに気づいた。三階建てのように見えるが、良く見れば、一階が車庫や、倉庫になっている、そして、屋根の斜度がきつい。冬の雪対策だということがわかる。
 戦国時代、越後を支配した上杉謙信も北条氏の支配する上野の国に兵を冬進めることが困難だったことが容易に想像できる。信濃へは、千曲川に沿って進軍できたであろうが、いずれにしても冬の行軍は、上杉軍には負担が大きかったことには変わりない。新潟県は、上越、中越、下越に分かれている。糸魚川のあたりは、地図の下にあるが上越になる。日本海に面する北陸の昔の国名が、冨山県が越中、福井県が越前というように「後」や「前」は、都のあった京都からの距離である。「上」と「下」の関係も同じである。このあたりのことは、バスのガイドさんが説明してくれる。越の国の一つ、越後は、都までの距離が長く、上杉は有力大名であったにも関わらず、天下を取ることができなかったと言われている。甲斐の武田も同じである。尾張の織田は、その点では地の利があった。
 

新潟平野を流れる大河と言えば、信濃川であるが、その源流は、新潟県と長野県と群馬県である。信濃川に流れる川としては千曲川が最も大きい。千曲川と信濃川合わせた距離は、日本で最も長い。谷川岳あたりを源流とする魚野川と信濃川が合流するあたりから、越後平野が広々としてくる。冬場、雪に閉ざされてもこれだけの田園地帯を有する新潟は、豊かな国とも言えるが、冬労働する環境が少ないことは、やはりハンデになっているかもしれない。古来より、河川の氾濫による洪水にも悩まされている。大正時代になって、新潟市の洪水対策として寺泊の北に分水路が完成した。大河津分水という。
 高速道路から紅葉した山や、田園、大河の流れも見られるのだが、あいにくの天気で視界も悪い。しかし、時折陽がさして、山や里に虹が見られる。そうした虹の歓迎は、一度や二度ではなかった。畜産加工で知られる、阿賀野川に近い安田あたりでは遊園地のある山に虹がかかった。洋風の建物もあってメルヘンチックな眺めになった。俳句でもと思うが、なかなか句にならない。なにせ、虹がどの季節の季語であるか自信がない。条件さえ整えば、いつの季節でも虹は見られそうである。だから、虹を季語にしないで
 虹かかる粧おう山に観覧車
福島県から新潟県に流れ日本海に注ぐ大河である阿賀野川は、周回する河船が運行している。最上川のような川下りではない。元の船着き場に戻る屋形船である。エンジン付きなので船頭さんというわけではないが、ガイドさんが民謡などを歌ってくれる。年齢は八五歳だという。しかし、そんな歳には見えない。「船頭」という童謡がある。歌詞の出だしが面白い。
村の渡しの船頭さんは、今年六〇のお爺さん
昭和一六年の作詞だという。当時は、六〇歳はお爺さんだったのである。でも、体力はあったらしく、「年をとってもお船を漕ぐときは元気いっぱい櫓がしなる」と言っている。
 新潟の旅と言えば、美味しい魚がいただけることである。日本酒も美味しいから呑み助にはたまらない。喉黒という魚は高級魚である。昼食は、新潟市内のお寿司屋さんで喉黒丼ということになった。酢飯の上に、軽くあぶった切り身が沢山乗っている。魚自体は美味しいのだが、願わくば塩を少なめにしてほしかった。値段を見たら一七五〇円と書いてあったのでそれほど高くはない。
 今日の宿は、汐美荘というホテルで、眼の前は海岸である。既に日没に近く、あたりは暗くなっているが、お目当ての日本海に沈む夕日だけは見られなかった。村上市内にある酒蔵に寄ったのだが、案内してくれた人が、生粋の新潟の人らしく、汐美荘のことを「塩味噌」と言っているようで可笑しかった。ちょっとした発音でそのように聞こえたのだろうが、酒蔵での見学だったからそのように連想したのだろう。
 日本海は荒れていて、夜は海に面した窓ガラスに霙のようなものが当たって何度も眠りを妨げた。朝起きて見ると小雨は降っているが、雪交じりではない。沖にも暗雲がかかっていて、風も強い。
 荒海に木枯らし吹いて拉致の国
新潟からも北朝鮮に拉致された人がいる。
 

帰路の観光地は、越後の一宮である弥彦神社である。到着すると青空ものぞくが雨は降りやんではいない。弥彦山には霧が立ち上っている。社殿の背後の山も同じである。神秘的ですらある。お参りの仕方は、二礼四拍手一礼だという。その流儀に従う。
 霧立ちて弥彦の杜の神さびて
参道には菊が飾られている。世界遺産になった富士山を菊で飾ったものは見事であった。以前作った俳句がある。
天地人黄菊白菊出会うとき
結婚式の新郎新婦への花向けに作った句である。
弥彦神社は、これで四回目の参拝になる。好きな神社の一つである。
現在の弥彦神社は、焼失により大正時代に再建されたもので、設計したのは伊藤忠太という建築家である。狛犬も彼の作品である。
 

最後に立ち寄ったのは、魚沼市にある西福寺という曹洞宗の寺院である。開山堂という建物の中に、石川雲蝶という幕末の彫師の作品がある。実に見事なものだということはわかる。石川雲蝶は、日本のミケランジェロと言う人もいるようだし、日光開山堂という建物の別称もあるようだ。日光東照宮の陽明門を連想させるからであろう。弥彦神社を見た後の鑑賞だったからではないが、それほどの感慨が湧いてこない。旅行の車中で読めるように一冊の文庫本を持参していた。建築家であるブルー・ノタウト著『ニッポン』である。タウトは、日本の文化を愛したが、陽明門は評価しなかった。桂離宮や伊勢神宮に日本の美を感じ取った人である。西洋文化を肌身で知っている人だから、教会や宮殿のきらびやかな装飾に類似する彫刻には新鮮さを感じなかったからだろう。加えて、道元が開祖になっている曹洞宗の寺ということだが、道元は哲学的で、彫刻のような偶像的なものとは無縁の人だったと思っている。「是心是仏」という道元の言葉が、寺の廊下に書かれていて、「今を大事に生きる」と解説してあったが、その教えを守るようにすることなのだろう。住職さんは、宮沢賢治の詩もお好きなようで「雨ニモマケズ」の詩を寺に掲げていた。
 

新潟から群馬の県境を抜けると晴れている。山々の紅葉が夕日に映えている。赤城山の雄姿も全容がすっきりと見えた。新潟と群馬の気候の違いを痛感できた二日間の旅行であった。蛇足だが、西福寺は、赤城山(せきじょうざん)西福寺である。
  

Posted by okina-ogi at 21:10Comments(0)旅行記

2014年11月15日

『漱石夫妻愛のかたち』 松岡陽子マックレイン著 朝日文庫

著者は、夏目漱石の孫である。2011年に亡くなったが、83歳の時のこの本を書いている。漱石の孫は、他にもいるが、長女筆子の娘で、妹には、作家半藤一利の妻がいる。彼女には、生前の漱石の思い出は、漱石の死後生まれたのでない。しかし祖母である鏡子は、長命で生活を共にしている。漱石のことは、母親と祖母からの情報で、「漱石夫妻の愛のかたち」を語っている。世に漱石の妻は、悪妻として知られている。実際はそうでないという。身内の弁護でもない見解だということが、本を読むとわかる。気難しい漱石と最後まで、寄り添えただけでも尊敬に値する。同感である。精神状態に波があった漱石は、妻への心遣いや子供への愛も強かった。男の子は怖ろしいと感じていたようだが、娘の孫ということも影響しているかもしれない。漱石の作品は、高校時代からすっかりご無沙汰しているので時間ができたら読み返してみよう。  

Posted by okina-ogi at 10:13Comments(0)書評

2014年11月10日

『嬉しうて、そして』 城山三郎著 文芸春秋 1429円+税




城山三郎は、2007年に亡くなっている。城山三郎著となっているが、遺族が編集して出版したものだ。城山の生い立ちから亡くなるまでの様子が、巻末に年譜があるのでよくわかる。終戦間際だったが、海軍に志願して入っている。この経験が、作家になった動機の一つになっている。
作家になる人と言うのは、読書量が多いのは、当然としても、資料集めのための取材も半端ではないと思った。城山三郎と同じ年に生まれた吉村昭とも友人のようだが、取材をした後に作品を書くという点については、共通している。二人の作品は、結構たくさん読んでいる。
城山三郎は、戦後の経済界をリードしたリーダーを描いているが、公を優先して私欲が少ない人物ということで共通している。それに、作家仲間と積極的に交流していない。社交的でなかったということではないが、自分の領分を良く知っていた作家だったのだろう。晩年妻に先立たれたが、子どの世話は受けていたらしい。その娘があとがきを書いている。単行本の帯には、「自分のやるべきことはやり遂げた。この一言を残して世を去りたい」と書いてある。
  

Posted by okina-ogi at 09:13Comments(0)書評

2014年11月08日

般若心経




お釈迦様の尊い教えのダイジェスト版のようなものと言えば、僧侶の方に叱られそう。お葬式で講義を受けてもわからない。暗唱もできない。1日に、この般若心経を100回唱え、その文字を書くことを業としていた人がいた。京都の上京区の下宿の主人と私の大叔父である。大叔父は、98歳で亡くなったが、軍人だった人である。終戦の時は、少佐であった。大卒ではあったが、兵隊から佐官になった人で、軍隊生活が長く、その間多くの戦友を失った。棺に、般若心経を書いた和紙を子息が入れるのを見た。その枚数の多いことは驚くばかりであった。
とうてい、このような行はできないが、本を一冊読んだら、必ず書評を書いてみようと思う。文章は長くなくともよい。これが、般若心経と思えば良い。お釈迦様の教えだけではないが、吉川英治のように「人生皆師」と思えば良い。
  

Posted by okina-ogi at 22:13Comments(0)日常・雑感

2014年11月07日

「いつまでもあると思うな子と健康」

若者の安定した雇用状況が継続していないという厚生労働省の労働調査結果が伝えられている。派遣労働や期間雇用で若者の収入は不安定である。親からすると、「いつまでもあると思うな親と金」と言いたいが、子の反論として「いつまでもあると思うな子と健康」だという。
定年退職後のイメージに重なる。子というものは離れていくし、高齢になれば健康不安もある。子に自立してほしいということはもちろん、親も最後まで自立した老後を目指したい。介護や医療を受けることもあるだろうが、夫婦二人暮らし、あるいは一人暮らしが多くなることも予想される。積極的二人暮らし、積極的一人暮らしと呼ぶことにした。自分でやれることはやれるようにしないといけない。男子なら「厨房にはいるべきである」暮らしのなかで、食生活の比重は高い。
  

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2014年11月03日

『贈られた眼の記録』 曽野綾子著 朝日文庫


11月3日の文化の日、長く務める職場では地域の人達とのふれあいを求めて、お祭りを開催している。古本市のコーナーがあって、いつも店主の役がまわってくる。今年は、自分の蔵書で処分するものを選んで寄贈することにした。学生時代のもの、古い物は処分しようというくらいのつもりだったので、古本市に本を並べている時に、この本も出て来た。なんと、曽野綾子さんのサインがはいっているではないか。寄贈するのはやめて、読むことにした。
この本をいただいた時、曽野綾子さんは、50を少し越えた年齢だったと思う。私の務める施設に入居されている、ご主人三浦朱門さんのお母様の面会においでになった時に、持参された本にサインをしてくださったのである。毎週のように、作家活動で多忙だったと思うが、訪問され、職員とも気軽におしゃべりする姿に、親近感を持った。
曽野綾子さんが、白内障の手術をしたのは、40代後半だった。作家にとって視覚を失うことは、極めて深刻な事態である。音楽家が聴覚を失うことに似ている。本のタイトルでもわかるように、手術の成功によって、近眼も治ったという結果に感謝して、「贈られた眼」と表現している。カソリックの信者であることも無関係ではないが、危機に対して前向きに考えるというより、身をゆだねている。その背景には、夫や友人の支えがあり、特に朱門さんや、若い時からの友人である金沢の人との、ウイットに溢れる問答が面白い。この本を読んで、曽野綾子さんという人は、自立した女性で、しかも逞しいと思った。最近、テレビ番組で拝見したが、安倍首相の女性閣僚登用に反対意見を述べていたが、曽野綾子さんらしいと思った。その後、二人の女性閣僚が辞任した。曽野さんの「眼力」である。
  

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2014年11月01日

『石川啄木』 河野有時著 笠間書院 1200円+税



コレクション日本歌人選の35番目の著作になっている。この本は、自分で購入したのではなく、著者の母上から贈呈されたものである。3年前、手紙と一緒に送っていただいた。著者の父上と長くお付き合いさせていただいていたことがご縁になった。数学者、岡潔先生を偲ぶ会(春雨忌)で、親しくさせていただいていたのである。父上は、既に他界されていた。ユーモアがあり洒脱な白髪の紳士だった。
著者が選んだ、50首の中には、教科書にも載っているような歌もあるが、著者の視点から解説しているので、大変勉強になった。著者は、東北大学の国文科に学んだこともあり、啄木研究家ということも頷ける。この本に触発されて、函館と生地盛岡を友人と訪ね、紀行文を書いた。50首の中で2首選ぶとすれば、「不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて空に吸われし十五の心」と「縁先にまくら出させて、ひさしぶりに、ゆうべの空にしたしめるかな。」である。前の歌は、「不来方(こずかた)」を「来し方(こしかた)」と覚えていたくらいだから、いい加減なものである。不来方は盛岡城の別名である。回想の歌だから、「来し方」と思いこんでいたのだろう。後の句は、著者と同じように、正岡子規を連想した。著者がとりあげた歌は「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたゝみの上にとゞかざりけり」だが「いくたびか雪の深さをたずねけり」という句だった。十日程前に、友が遠方より訪ねてきて、たまたま啄木の歌に話が及んだ時、彼の好きな啄木の歌は、「函館の青柳町こそかなしけれ友の恋歌矢ぐるまの花」だった。この歌は、この本には紹介されていない。 
  

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