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2014年12月24日

『昭和の遺書』 梯久美子著 文春新書 730円+税



『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』の著者である。2006年の作品だが、取材力と核心をついた、しかも爽やかな筆の運びに、将来有望な作家になるだろうという予感がした。次の作品が待ちどうしいとも思った。現在、日経新聞に「愛の顛末」というコラムを担当していて愛読している。人物に関心を寄せたエッセイになっている。『昭和の遺書』も同じ視点と言えるだろう。
芥川龍之介(昭和2年)に始まり、昭和天皇で終わっている。55人の魂の記録である。終戦前後までは、軍事関係者が多い。時代背景を考えれば当然ともいえる。2・26事件の首謀者の一人として処刑された、北一輝は、実子がなく養子の息子に法華経の教えを守るようにだけ遺言した。北は、佐渡の生まれだった。日蓮の配流された土地である。また、処刑の際の態度は、冷静だった。銃殺のとき「坐るのですか、これは結構ですね。耶蘇や佐倉宗吾のように立っているのはいけませんね」と超然としていた。天皇陛下万歳を唱えましょうかと弟子の西田税に言われて「それはやめましょう」とあくまで冷めていた。東京裁判で文官としてただ一人絞首刑になった広田弘毅は他のA級戦犯で死罪になった軍人が「天皇陛下万歳」を唱えた時、「そうですか、漫才やりましたか」と言ったという話を連想した。広田弘毅も55人の一人だが、遺言はない。カタカナだけの手紙である。宛名は「シズコドノ」である。妻は、広田の処刑の前に命を断っている。
もう一例揚げると、これまた軍人だが最後の海軍大将となった井上成美である。昭和50年に86歳で亡くなったが、終戦後は、隠棲するように横須賀の海の見える質素な家で過ごした。二つの遺書がある。昭和8年のものと晩年のものだが、共通してあっさりしたものである。簡潔といえば、それまでだが心情は一切述べていない。このあたりのことは阿川弘之の本に詳しい。
昭和という時代が終わって四半世紀の時が流れた。戦後の昭和しか体感していないが、いろいろなことがあって、いろいろの人が生きたのだと改めて昭和という時代を見つめ直すことができた。
  

Posted by okina-ogi at 16:54Comments(0)書評

2014年12月23日

『雪国』 川端康成著 新潮文庫 362円+税




「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」というこの小説の書き出しが有名だが、どんな内容なのか。映画化もされているようだが、観る機会もなかった。越後湯沢に、友人が長期宿泊しているので、再会するために出掛けることになり、この小説を読むことにした。長編小説と思っていたが、それほどの長さではない。
『雪国』の舞台は、越後湯沢で、川端康成は高半旅館で執筆したとされている。当時の建物は、取り壊されて今はないが、執筆した部屋は残されているという。湯沢駅には、主人公ともいうべき駒子の像がある。土産物にも「駒子もち」という菓子が売られている。
東京に妻子がある島村という男が、息抜きのようにこの温泉町に泊まり、そこで出会った駒子に心を寄せるようになり、何度となくこの町を訪ねる。島村と駒子の会話と描写が小気味よく繊細に描かれている。島村がもう一人気にかけた女性がいて、葉子という芸者である。小説の初めに描かれているのは、列車の中に病人のような男性と葉子が寄り添っている場面である。暮れかかる列車の窓を鏡にした描写である。このあたりが、川端康成の感性なのだろう。そして、小説の最後にも葉子が登場する。おそらく焼死したと思われる葉子の姿を描いている。
この小説が書かれたのは、昭和10年前後で川端康成は30代だった。思想や表現の自由が制約されたであろう時代に書かれた小説ということも頭に入れて読んでみた。島村という男性は、川端自身を意識したものではないとされているが、果たしてそうだろうか。幼くして両親と死別し、成人する前に祖父や姉を失い天涯孤独のように生きてきた川端康成の心理の考察もしてみたかったが、あまりにも荷が重い。結婚生活に満たされなかった、家庭的になれなかった川端康成というのは、俗的な見方かもしれないが、そんな気持ちもした。ノーベル文学賞を受賞したが、70歳を過ぎホテルで独り死んだ作家である。自殺だったかどうかは、明らかではないようだが繊細な心理を持った作家であることは理解できた。しかし、他の作品を読んでみようという気はしない。
今回、越後湯沢を訪ねたのは、島村のように女性に会いに行ったわけではない。大学教授をしている友人がいて、国家公務員共済組合の経営する宿を予約してくれたからである。彼もこの小説は、読んでいるらしく宿での話題にはなった。名作には違いないのだろうが、それほど心に沁みて来るものはない。滞在中二度読んでみたが、感想は同じである。
  

Posted by okina-ogi at 15:10Comments(0)書評

2014年12月19日

『昭和への遺書』 岡潔著 月刊ペン社

本に自筆で「○○君より贈呈」と書かれている。日付があって昭和52年4月25日となっている。岡潔を自宅に訪ね、高揚した気分が残っている頃に、友人が買い求めて送ってくれたのである。時は、春である。繰り返し、繰り返し読んだ記憶がある。もうこの本は、再版されていないと思う。昭和50年の刊行なので、岡潔の最晩年の著作になる。副題があって、「敗るるもまたよき国」となっている。岡潔は、俳句も作っている。号は、石風で「敗るるも亦よき国の冬の朝」からとっている。愛国心という以上に、日本を憂い、人類存続を危惧した人である。本書にも、その思いが綴られている。
この頃岡潔は、心そのものを探求し、内容は難解になっている。仏教用語で心を説明しているのだが、無差別智という言葉が出て来る。真我というのも仏教用語である。その対象としての自我というものを抑止することを述べている。無差別智を働かせるには、自我が邪魔になるというのである。無差別智の内容はわからないが、自宅で聴いた話を思い出し、その主旨がよくわかった。心の働きは、造化の主宰によるということである。大学で自然科学の流れの中にある心理学を学んでいたので180度の転換である。行動主義の心理学というのがあって、刺激と反応との関係から心理を研究する理論だった。なにかものたりないものを感じていたので、岡潔の考えに惹かれた。
さらに、文化や芸術への著述もあり実に新鮮な内容だった。日本の歴史にも触れ、紹介される詩歌が心に沁みた。岡潔が評価する人物も登場し、その人たちの著作や人物像をこの本によって調べて見ようと言う気になった。
  

Posted by okina-ogi at 14:57Comments(0)書評

2014年12月13日

果樹園の中の小さな家

 


よほど幼い頃の記憶である。古い農家の冬の日に囲炉裏の近くにあった絵本の思い出がある。広い畑の中に、様々な果樹が植えてあって、季節に実を食べることができる。春は花が咲いて気持ちが良い。そんな畑の中に、小さな家がある。家といっても、寝泊まりするほどの設備はなく、農機具を置いた作業小屋で、果樹の管理人が昼に弁当を持って仕事に来た時の休憩場所である。子供は、暮らしがどんなものかを知らない。こんな家で、毎日のんびり考え事をしたりして過ごせればどんなに楽しいかと素直に思ったのである。
 私の家は、それなりの地主で、先祖から受け継いだ田畑や山林が点在していたが、戦後の農地改革で多くの農地を手放すことになった。そんなことが心労となったのか、祖父は、私が生まれる前になくなり、祖母も私が幼稚園に入る頃亡くなっている。ほんのわずかな思い出しか残っていない。もしかすると、この絵本は祖母が買ってくれたのかもしれない。父には、子供に絵本を買うようなセンスはなかったと思う。
 父は、長いシベリアの抑留生活から帰り、長男ではなかったが農家の跡取りになった。兄がいたが、ニューギニア戦線で戦病死した。優秀な人だったらしく、祖父は、その死を悲しんだ。父が帰還した時、祖父は
「お前のようなものは、死んで帰ってくれば良かった」
と言ったらしい。私が子供の頃、お酒に酔った時この話を何度となく聞いた。そして、祖母は、その時
「良く生きて帰ってきてくれた」
と言ってくれたのだという。母親と言うものは偉いものだと言って、必ずその時は、父は涙声になる。
 残された農地の中で、榛名山が良く見える高台に、広々とした畑があった。野球場は無理かもしれないが、ソフトボールの球場ならばできそうな広さがあった。少しの傾斜はあるが、気にならない程の平らな土地で、私が小学生の低学年の頃までは桑畑だった記憶がある。養蚕で生計を立てた時代だった。その養蚕も駄目になり、桑の木は抜かれ、大根などを作ったことがあった。夏の暑い日、父に連れられ、大根の種まきの手伝いをしたこともある。喉が渇き、近所の家の井戸の水をもらいに行き、その冷たく美味しい水の思い出は忘れられない。今その井戸はない。
 その後、この畑は梅原になった。私も就職し、この畑に行くこともなくなった。父の管理も十分ではなく、いつしか篠や蓬がはびこり、すっかり荒れ地になってしまった。西瓜畑になったこともあった少年時代、畑に寝そべり青空を眺めながら、西瓜を食べた頃を想像することもできなくなっているほどの荒れようだった。この畑に、土地は相続しなかったが、家を建てることになった。昭和も残り少なくなった昭和六三年のことである。
 北側には牛舎があり、しかも南側には長野新幹線が通る計画が決まり、宅地にすべき場所に苦労したことを思い出す。用地買収があって、半分以下の土地が残った。それでも面積は三〇アール近くもあり、農地も充分なほどの広さである。父が植えた梅の木も四〇年を超え、老木になっている。子供の頃絵本で見た『果樹園の中の小さな家』が叶ったとも言える。父から相続し、梅だけではなく、桃や、プラム、サクランボ、蜜柑、林檎などを植えてみたが、売り物になるものはできなかった。
 定年退職し、この畑の一画に、終の住み家として庵のような家を建てようと思っている。幼い頃の絵本の記憶と夢の実現ができそうで、この畑に感謝している。最後は、土に帰ると思うと農業もできる環境に住める喜びも大きい。榛名山は、今日も美しい。
  

Posted by okina-ogi at 14:25Comments(0)日常・雑感

2014年12月11日

天才数学者 岡潔の謎

友人からのメールで、数学者岡潔をテレビで紹介するという内容であった。関東では、TBSで12月10日の夜の9時過ぎの放送とのこと。ラジオでは、武田鉄矢の「三枚おろし」という番組で取り上げられたばかりで、にわかに岡潔が脚光を浴びるようになったのは不思議だが、嬉しいことである。
テレビ版を見たら、天才と呼ばれる人々の頭脳に焦点を当てた見出しになっている。岡潔は、亡くなった頃、奇行のあった変人のように週刊誌が書いたこともあり、面白おかしくとりあげるのではないかと思っていたら、そうではなかった。
岡潔には三人の子供がいるが、長男と次女は健在であり、この番組の中でも、有りし日の父親を淡々と語っていたのが印象的であった。ひしひしと父親の愛情を受け止めている話ぶりに涙が流れてきた。兄弟愛も感じられる。特に次女のさおりさんは、毎年自宅に今も岡潔を慕う、遠来の者を泊めて、食事など世話をなさっている。「春雨忌」という集いである。私もお世話になっている。家庭以外に心をかよいあえる場があることにいつも感謝している。これも、岡潔の教えである。「一つ家に夜の雨聞く宿りかな」という岡潔の句もある。涙の背景である。
  

Posted by okina-ogi at 16:08Comments(0)日常・雑感

2014年12月10日

『春宵十話』(5) 岡潔著 毎日新聞社

岡潔は、数学者であったが、芸術や文化についても深い洞察力を持っていた。作家では芥川龍之介と夏目漱石の作品を評価し、とりわけ芥川龍之介の言葉を本著の中に引用している。二人とも俳句も作った文豪である。俳人の俳句鑑賞と岡潔の観賞力は次元が違うように感じ、俳句と言うのはそういうものかと思うようになった。
西洋文化については、近代数学をやりながら、あまり肯定的に見ていない。「ローマ時代は暗黒の時代」とも言っているし、ギリシャ文化についても、岡潔の文章を引用、抜粋すれば次のようになる。
「ギリシャ文化の系統といっても、二つの面がある。一つは力が強いものがよいとする意志中心の考え方である。芥川龍之介が『ギリシャは東洋の永遠の敵である。しかし、またしても心ひかれる』と表現し、また私の親友だった考古学者、中谷治宇二郎が『ギリシャの神々は岩山から岩山へと羽音も荒々しく飛び回っていた。しかし、日本の神々は天の玉藻の舞いといったふうだった』のもこの点を指したものだと思う。この部分は決してとり入れてはならない。何事によらず、力の強いのがよいといった考え方は文化とは何のかかわりもない。むしろ野蛮と呼ぶべきだろう」
また、真善美とは「悠久なものの影」という芥川龍之介の言葉の引用も記憶に残ったし、「秋深き隣は何をする人ぞ」の句を「茫々たる300年、この荘重の調べをとらえ得たものは独り芭蕉あるのみ」という彼の言葉を引用しているのは印象深い。他のエッセイ『紫の火花』も芥川の作品からとっている。
  

Posted by okina-ogi at 08:57Comments(0)書評

2014年12月09日

『春宵十話』(4) 岡潔著 毎日新聞社

『春宵十話』の中に、「日本的情緒」という項目がある。その中に、善行のできる人を紹介している。岡潔の三高時代の友人で松原と言う人がいたが、試験日を間違い単位不足で卒業証書がもらえなかった。追試験をできるように、友人達が嘆願したが、本人は、意に介せず郷里に帰ってしまった。そのとき、彼の残した言葉は、「自分はこの講義はみな聞いた。(ノートにみなうずめたという意味である)これで試験の準備もちゃんとすませた。自分のなすべきことはもう残っていない。学校の規則がどうなっていようと、自分の関しないことだ」というものである。
そして、岡潔は、
「このくにの人たちは、社会の下積みになることを少しも意としないのである。つとめてそうしているのではなく、そういうものには全く無関心だから、自然にそうなるのである」と言っている。岡潔は、自分の名誉のために、有名になるために数学の研究をしたのではなく、菫が菫のように咲いただけだと人生を振り返っている。
さらに、「今の教育は、個人の幸福が目標になっている」とも言い、戦後民主主義の中で「国民の一人一人が取り去り兼ねて困っているこの本能に、基本的人権とやらを与えようというのですか」とも言う。権利ばかりを要求することは、教育の目標になってはいけない。道義が必要だとも。
  

Posted by okina-ogi at 12:47Comments(0)書評

2014年12月08日

『春宵十話』(3) 岡潔著 毎日新聞社

この本を読んで思うことは、日本の良さ、日本人の心の再発見である。戦前の教育は、全てが間違いなのではないという自覚である。他者のことを思いやることは、いつの時代でも大事な心の働きである。とりわけ、人の悲しみがわかるということが大切だと言う。どうすれば良いか、「自分のことを後にして他人を先にする」ということを心がけることだ。そうするには、自我を抑止すること。これが、むずかしい。キリスト教のように、自分を愛するように人を愛するというのとも違う。見返りなども求めない。本来の日本人は、無意識にこうした行為ができる。善行とは、こうした行為だというのである。こうした、行為が少しでも実行できるかということが、人生の課題になった。
還暦を過ぎた今日、こうした意識は忘れてはいないが、実行できたかは疑問である。ただし、毎年のように岡潔ゆかりの人達の集い、春雨忌に出席し、自分以上に、自我抑止を心がけている人達と再会することにより、自分の識も向上するように心がけてきた。他界した人もいるが、この友人関係は岡潔が残してくれた大切な贈り物だと思っている。
  

Posted by okina-ogi at 22:15Comments(0)書評

2014年12月06日

『春宵十話』(2) 岡潔著 毎日新聞社

岡潔の本を最初に手にしたのは、『春宵十話』ではない。『春風夏雨』であった。名前は忘れたが、学生時代、同志社大学正門前の古本屋で買った。高校生の時、三島事件があったことに起因している。三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊の建物で割腹自殺した事件である。テレビの取材を受けた岡潔の言葉と姿が印象的だったからである。三島由紀夫の小説、とりわけ『金閣寺』、『仮面の告白』もその頃読んだ記憶がある。金閣寺に近い下宿を選んだのもまんざら無関係ではない。
大学を卒業して2年目の、昭和52年2月12日の午後に直接本人に会うことになった。大学の後輩に誘われたのである。今から考えると、面識のない若者に電話だけでよく会ってくれたとその幸運に感謝している。しかも自宅で高齢の身ながら、1時間余り、淀みない話に感激した。そう表現するより、心が囚われてしまったという方が正しい。その時の、情景が残っていて、懐かしさという感情に襲われる。
翌年3月、岡潔は亡くなった。もう直接話を聞くことはできない。もっと詳しく、岡潔を知るためにはどうしたら良いかと考えて、著作を捜したが購入するのが困難だった。『春宵十話』は、購入したのではなく、職場の大先輩の自宅を訪問した時に、もらい受けたのである。宝物を得たような気分になった。はしがきの冒頭に、「人の中心は、情緒である」と書かれている。さあ、これから岡潔の講義が始まるのだと、ページをめくったことを思い出す。
  

Posted by okina-ogi at 09:07Comments(0)書評

2014年12月05日

『春宵十話』 岡潔著 毎日新聞社




初版は、1963年である。今は、光文社から文庫本が出版されているが、この本を昭和50年代手に入れようとするのは大変だった。想像するに、購入した人は、世に言う「座右の書」にした可能性がある。古本として書店に出す人が少なく、この当時には絶版になっていたと思う。人の書いた本を「聖書」というのもおかしいが、『春宵十話』は何度も読み返し、人生の羅針盤にしてきた正に「座右の書」である。
 岡潔が、数学研究の功績で文化勲章を受賞した数年後、毎日新聞の記者が口述筆記として世に出した。当時は、小学生で岡潔の存在すら知らない。岡潔は、この時62歳で、今の自分の歳と同じである。文化放送の武田鉄矢の「今朝の三枚おろし」という番組でこの本が紹介されたのに刺激を受けて、書いてみようと思った。決して書評などというものではなく、感慨のようなもので、「私の中の岡潔」という内容である。この本に出会ってから長いので数回に分けて書いてみたい。
  

Posted by okina-ogi at 08:53Comments(0)書評

2014年12月03日

「今朝の三枚おろし」

武田鉄矢のトーク番組。ラジオ番組は自ら聞くようなことはなかった。休日、雨降りで家で過ごしていたら、職場の友人から電話が入った。月~金曜日の朝、文化放送でこの番組をやっているので、是非聞いてほしいというのである。数学者、岡潔の『春宵十話』をもとに、トークをやっているという。彼は、私が岡潔に惹かれていることを覚えていてくれたのである。
 「今朝の三枚おろし」というのは、どんな番組なのかと、インターネットで検索して見ると、以外にも長寿番組で、二十年近く放送されている。音声が収録されていて、たまたま『史記』を題材にしたものだった。「陳勝、呉広の乱」。司馬遼太郎の『項羽と劉邦』で読んだことがある。もちろん出典は、司馬遷の『史記』である。
 切り口と語りが小気味よい。中国を統一した始皇帝は、国を法律で治めようとした。しかもあまりにも厳格にしたために、民衆には鬱屈した気分が蔓延していた。その気分を爆発させたのが「陳勝、呉広の乱」であった。期日までに目的地に着かないことは、リーダーである陳勝は、その罪により斬首されると決まっている。言い訳は、聞き入れられない。それならば、決起しようと考えた。呉広が呼応し、民衆も蜂起し、最初1000人も満たない反乱軍が10万人近くなった。小さなデモも政権を揺るがすことがある。一党独裁の今の中国にも同じ可能性があるという指摘である。
 さて、岡潔の『春宵十話』は、どのような切り口で語られるのであろうか。火曜と水曜の朝聞いた。金八先生だから、子供の教育に関心が向く。「人づくり」などというのは傲慢である「人は大自然が作る」。正確には「造化が人を作る」。造化とは、大自然の善意のことである。木曜、金曜の放送が楽しみである。
  

Posted by okina-ogi at 12:51Comments(0)日常・雑感

2014年12月01日

『認知症にならない負けない生き方』 山口晴保著 サンマーク出版 1300円+税




著者から郵送でご寄贈いただいた。翌日が日曜日だったので、早速拝読。以前にも著書を頂いているが、専門書という感じではない。プロローグとエピローグを最初に読む。先生らしさが、よく出ている。「難しいことをわかりやすく書く」しかし、それが難しい。直筆のサインがあって、「共生」と書いてある。これまた先生らしい。
プロローグの書き出しのタイトルが振るっている。「認知症にならない生き方」なんてない。本のタイトルと矛盾してはおりませんか。更に読み進むと、「認知症に負けない生き方」というのも良くない。依頼された出版社の人に削除を求めたという。けれども、このタイトルが出版社の企画なので飽きらめたというのである。シリーズになっていて、「がん」、「脳卒中」、「うつ」がある。
 山口先生は、マスコミに登場することが多くなった。NHKや民放でお顔を拝見することが多くなった。ダンディな方で、お人柄は違うが久米宏に似ている。話し方もスマートだが、ユーモアもある。長い認知症の方ふれあいで、笑いの大事さを知って、実行されているのだろうが、どちらかというとシャイな性格でいらっしゃると思っていた。笑いのことは、本書にも多く書かれている。情緒のことは、心理学のテーマでもあって、尊敬する数学者の「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」という言葉もまんざら、認知症と無関係でないと思っている。
 長生きすれば、認知症のリスクは高くなる。リスクの反対は、薬(くすり)だという。駄洒落に近いと思うがなるほどである。先生も、私も老いを意識する年代になった。そのことを前向きに考えているところが、本書に一貫して流れている。若いころ、もう退官されたが、筑波大学の教授をされた、井上勝也先生が、太宰治の「浦島」という小説を例にして「ボケは仏の慈悲」と言っていたのを思い出した。ボケなどいう言葉は、今日で死語に近いが。
 山口先生は、同じテーマを30年以上、研究されてきた。病理学的研究の面は知らないが、臨床的な面での研究は知っている。施設のお年寄りと関わって来られた姿を拝見しているからだ。最近テレビや、執筆、講演で活躍されていることを話すと「長年同じことをやってきたからですよ」といたって謙虚な言葉が返ってきた。趣味に写真があって、こちらもプロ級。毎年のようにいただいていた年賀状の写真も楽しみの一つだったが、最近は、公私ともにお忙しそうで数年前の年賀状が最後になっている。なにげなく贈っていただいた本に感謝したい。

  

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