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2015年12月29日

赤松小三郎という人物



今年、上田城址を訪ねたとき、この人の顕彰碑があった。街中を散歩していたら、通りにこの人の旗がたなびいていた。いったいどのような人なのか気になった。12月に鹿児島に行き、桐野利秋のことを思い出した。幕末の頃、中村半次郎といい、人切り半次郎と恐れられた。赤松小三郎は京都で中村半次郎ら薩摩藩士に殺害されている。このことは、はるか後にわかったことで、当時は下手人は不明であり、葬儀は、薩摩藩士が多数参列している。赤松小三郎は、西洋の兵学に詳しく、薩摩藩士に講義し、多くの門下生がいた。桐野利秋もその一人だった。東郷平八郎もそうだった。上田城址の碑文も東郷平八郎が揮毫した。複雑な政治的背景があるにしても不運の人である。また、いち早く議会制度の構想を持ったともいう。坂本龍馬の有名な船中八策も、赤松小三郎の私案の焼き直しの可能性があるというから驚きである。
上田市には池波正太郎の記念館がある。売店にあった『人切り半次郎』が目に留まったがその時は購入する気にならなかった。桐野利秋に好印象を持っていなかったからだろう。池波正太郎の本は読んだことがないので作家に対する好奇心もある。さらに、歴史上の人物に好き嫌いを前提に読む習癖への挑戦でもある。正月に読むことにする。赤松小三郎暗殺の経緯や場面も出てくるだろう。
  

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2015年12月28日

元旦旅行



2002年から、元旦は旅に出ることにした。月日の流れるのは早いもので、来年が15回目になる。JR東日本に元旦パスというのがあって、北の旅が多かった。2002年は、浅虫温泉に行った。盛岡、青森間の新幹線が開通していなかったので特急を乗り継いだ。良く日帰りが出来たといまさら思う。
還暦を過ぎてからは、西に方向転換した。一番は、経済的理由。天然温泉に入ってゆったり過ごすことは変わりない。さて、2016年は?暮れになっても計画が立っていない。それも、元旦でなく大晦日になる可能性が出てきた。友人と会うことが条件になりそうである。彼は、東京に出てくるが、元旦は親族との新年会がある。藤沢市あたりで会うとすれば、12月31日である。
藤沢から江ノ島が近い。温泉旅館はあるが、日帰り入浴はできない。良く調べると、橋を渡って右側にりっぱな温泉つき健康センターらしきものがあったのを思い出した。調べてみると年末年始無休とのこと。海を眺めながら、運がよければ富士山も見ることができるかもしれない。元旦に拘ることはない。大年日帰り旅行でも良い。
  

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2015年12月26日

皇居一周(おぎ散歩)



よくテレビなどで皇居の周りをランニングする人の姿を見ることがある。インターネットで「皇居一周」を検索してみると、途中にトイレや休憩場所も設置されている。距離は5キロメートルほどで、信号も無く手頃な散歩コースになっている。皇居の緑も目に優しいし、近代ビル群も気にならないだろう。
途中に、東京国立近代美術館もあり、特別企画展でもあれば、道草を食っても良い。歴史に興味があれば、桜田門事件を思い浮かべることもできる。小学生の修学旅行の定番だった二重橋の見学もでき、その前で記念写真をとっても良い。
ぐるりと一周して、東京駅に向かい右手を見れば、東京中央郵便局のレトロな建物が見えてくる。近年建物の一部を残し、近代的ビルに生まれ変わった。古い建物の2階と3階が東京大学総合博物館の展示施設になっている。入場料は無料である。時間によって、見学前か見学後に食事もできるだろう。
1月中旬以後の日曜日に決行しよう。ハイキング仲間の了解を取れている。下見の必要は無いが、下調べはしておこう。東京都美術館でボッティチェリ展もあるようだから、立ち寄っても良い。同行者の同意も必要になる。
  

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2015年12月24日

『龍馬を超えた男 小松帯刀』 原口泉著 PHP文庫



著者は、鹿児島市に在住。幕末の薩摩藩に詳しい。著者は、維新の立役者として小松帯刀があまり評価されていないことを遺憾に思っている。その理由を解き明かすとともに、再評価されてほしいと願い執筆している。
12月半ばに、鹿児島を旅し、改めて銅像が多いと感じた。西郷隆盛、大久保利通、東郷平八郎、鹿児島中央駅にある「若き薩摩の群像」等々。小松帯刀の像もあるのだが、建立は、それほど昔のことではないようだ。
小松帯刀は、薩長同盟、大政奉還に大きな役割を果たしていることを知った。司馬遼太郎の影響もあって、その立役者は、坂本龍馬だと思っていた。慶喜の決断を促したのは、小松帯刀と書いている。有名な二条城に島津久光の名代として列席していたのである。また、薩長同盟も大坂の小松帯刀邸で成立したと書かれている。「龍馬を超える男」というタイトルもこのあたりのことを指している。また維新後数年で亡くなったことも維新の活躍の印象を薄くさせたが、何よりも官位などには関心が無く、薩摩に帰り明治政府に率先して家禄を返上している。無欲と言うより「私心のなさ」が、今日の評価になっていると指摘している。
  

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2015年12月19日

『幕末を呑み込んだ男 小説 五代友厚』 黒川十蔵著 1600円(税別)



この本も、鹿児島の集成館で購入した。小説である。五代は、薩摩藩では、西郷隆盛や大久保利通のような下級武士ではなかったが、薩摩藩独得の郷中制度の中で育っている。だから、藩士の間には、身分にとらわれない交友関係があったようだ。この小説では、小松帯刀が親友として描かれている。小松帯刀は島津久光の側近として倒幕の立役者になった人物である。病弱であったため、明治初年になくなっているが、人心を掌握できる才覚があった。
五代友厚は、父親が琉球の行政に関わっていた関係で、幼い時から海外への関心を持つことになる。長崎の海軍伝習所に学び、上海に行き、ヨーロッパまで行って見聞を広めている。英語も身に付け、西洋の政治、教育、文化も理解し、とりわけ経済に関心を向けた。
明治政府になって、その才能を買われ、官吏になるが実業界に転じる。役人としても有能だったが、そこに収まらない器だった。この点は、渋沢栄一に似ている。政商と言われ、鹿児島の人達からは、良く思われないところもあったが、今日、稲盛和夫のような経済人(鹿児島出身)が評価されるように、五代も見直されて良いような気がする。小説から思い描く五代は、幅広い知識、構想力、決断力、胆力、交渉力、多才な人脈、私欲のなさを備えた人物だという感じである。朝ドラに登場する五代は、スマート過ぎる感じがする。NHKだからと言うわけではないと思うが。
明治維新によって、都は東京に移った。大久保利通などは、大坂遷都を考えていたようだが、そうはならず大坂の町は衰退した。それを救ったのは、五代友厚だったと言える。大坂商人を商工会議所を創設してよく束ねた。この点、京都の衰退を救った山本覚馬にも通じるものがある。
  

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2015年12月17日

大隅半島の旅(2015年12月)

 今年は暖冬なのか、師走になっても寒い日が続かない。数カ月前から計画していた鹿児島行きは、十二月半ばになった。日本の南端にあるだけに、さすがに暖かい。昼間は、コートいらずである。目指すは、鹿児島市からさらに南にある大隅半島である。この旅行を企画したのは、友人で、当初の計画では、鹿児島市から指宿まで鉄道で行き、フェリーで大隅半島に渡り、バスで鹿屋市に行くことになっていた。列車の車窓から錦江湾を眺めながら、船で海を渡るのも良い。海なし県の人間にとっては、海には憧れがある。
童謡「海」、「海は広いな大きいな。行ってみたいなよその国」の作詞者は、群馬県の人である。
 大隅半島にある鹿屋市には現在でも、海上自衛隊の基地がある。戦前もこの地に、海軍の航空基地があった。この基地から終戦近くになって特攻機が飛びたって行った。薩摩半島にある知覧基地からの特攻も知られているが、こちらは、陸軍による。特攻機の機数は、海軍の方が多かった。そのことは、意外と知られていない。いずれにしても、将来の日本を背負う、有為な青年が尊い命を犠牲にした。
 以前、知覧にある特攻平和記念館を訪ね、自分の中では特攻についての整理はできているつもりだったので、今回の旅のメインテーマにはなっていない。ただ、手記などが展示されていて改めて、慰霊の気持ちが高まったのも事実である。鹿屋航空基地資料館については、これ以上触れない。
 鹿児島市内には、以前から尊敬している人がいて、数年前お会いして知己を得た。厚生官僚から、大学で教鞭を執り、研究者の道に進んだ人である。その生きる姿勢に共感し、再度親交を深めたいと思っていたのである。前回お会いし、フェイスブックにより友人に加えていただいている。紀行文などを小冊子に纏め、友人知己に贈っていたが、ブログで掲載する方法も教えていただいた。大変な読書家で、退職後も思索を深められている。メールで鹿児島行きのことを送ると、我々の旅に同行してくださることになった。
 維新の偉人を多く出した、加治屋町に近いホテルで待ち合わせ、フェリーで垂水へ渡るコースとなった。鹿児島の港から垂水港までは四十分位で行ける。左手に櫻島が見える。角度を変えると、櫻島も円錐形に見える。晴れていて、近くにその雄姿を見ることができた。


 垂水市には、友人が訪ねてみたい理由があった。「軍艦行進曲」を作曲した瀬戸口藤吉の生地だったからである。垂水市のタクシーの運転手に案内してもらったが、公民館の垣根に看板があるだけであった。軍艦マーチは、すっかりパチンコ店のメロディーになった感があるが、友人には名曲として記憶されている。鹿児島市内にある「ふるさと偉人館」で、フェントンが作曲した「君が代」のメロディーにも痛く感心していた。共に軍楽隊が演奏する曲であった。軍隊と音楽には人並み以上の関心を持っている。戦争を鼓舞する手段と言うことではなく、明治以降の日本の音楽の歴史に軸を置いている。鹿児島の友人の配慮でもある。
 垂水市から鹿屋市へ向かう道は、しばし海岸線を走る。列車ではなく車での錦江湾の眺めになった。彼方に開聞岳が見える。街路樹を見ると南国に来たという感じがする。背の高い椰子や低いのがあって「ワシントン」、「フェニックス」は覚えたが、他のものは、失念した。赤い実をつけた木は、「クロガネモチ」で、ヒヨドリが好んで食べるのだと言う。運転手は、鳥に詳しい。幼い時、トリモチで野鳥を獲って遊んだらしい。この旅で、鳥の句をものにしようと思っていたが、肝心のヒヨドリが現われないのでは、句も創れない。
 

 鹿屋市にある海上自衛隊の航空基地資料館に立ち寄る。観光バスが何台も停まっていて平日であっても入場者は多い。多くの航空機が、資料館の周囲に置かれている。ひときわ目に付くのが飛行艇である。二式大型飛行艇として知られているが、日本にはこの一機しかないという。館内には、ゼロ戦があった。約一時間の見学だったが、友人からすれば、もっと時間をかけて見たかったかもしれない。
 次に向かったのは、肝付町である。島津氏に征服される前に肝付氏が治めていた土地である。鹿児島市在住の友人の奥様の実家があって、石高の高い由緒ある家柄の武家で立派な門がある。一昨年、老朽化が進んだ門を、昭和三十年代の写真を参考に修復した。その門と屋敷を見せていただいた。日高家は、江戸初期からこの地に屋敷を構えた。現在残る家に、西郷隆盛も立ち寄ったらしい。愛犬を連れて狩をし、温泉などで体を休めた後のことだったのだろう。歴史を感じる。
 武家門の施主の思いや冬の空
自費で改修した思いは、いかばかりかと想像して見た。門の上の冬空は青々としていていた。この門の前の通りを流鏑馬祭りの行列が通る。若武者の射手は中学生だという。日高家と同じような門を持つ家が、続いていて、歴史的景観が残されている。
 武家門を見学する前に、町の食堂で昼食になった。店の古さは、四、五十年前に立ち戻った感じがした。地元の人で空席がないほどである。メニューも多い。店のおすすめの「魚フライ定食」を注文。なんと三枚のフライが出てきた。他にサツマイモと野菜のてんぷらも付いている。キャベツの千切り、ポテトサラダと皿から溢れんばかりである。もちろん味噌汁つきである。値段が五百五十円というから驚く。タクシーの運転手も同席した。
 

 大隅半島は神話の地でもある。古事記や日本書紀を詳細に読んだことはないが、およその流れは、分かっているつもりである。肝付町にある神代三山稜の一つ吾平山上稜に案内してもらった。石橋を清掃している業者以外に参拝者はおらず、原生林に囲まれた神域の雰囲気は格別なものがあった。正月には多くの人々が訪れるらしい。神代三代は、天孫ニニギノ命から始まる。天照大神の孫にあたる。高千穂の山に降臨したと言われる。
ニニギノ命は大山祇神の娘コノハナサクヤ姫の間にヒコホホデミノ命をもうけ、その子がウガヤフキアエズノ命である。吾平山上稜は、この命の御稜ということになっている。明治になって政権が朝廷に移ると、神代三代の御稜を特定する必要に迫られた。政治的な目的もあったが、訪ねて見るとヒコホホデミノ命がお隠れになったといっても不思議ではない場所に感じる。御稜の前を流れる清流は、まるで伊勢神宮の五十鈴川のようである。
山形や福島、栃木などの県令や警視総監を歴任し「鬼県令」、「鬼総監」と恐れられた三島通庸も調査に加わった。三島通庸は、尊王思想の持ち主であったが、調査の中で熊襲の踊りを見た時、自分の中に流れる血と同じものを感じたと言う。熊襲は、時代が下って、景行天皇の御世にヤマトタケルノ命によって征伐されている。薩摩隼人の血は熊襲の血が流れているのかもしれない。鹿児島に戻り、夕食を共にすることになったが、友人が予約してくれた店は、熊襲亭であった。不思議な巡り会わせとなった。肝付町の芋焼酎「小鹿」も店に置いてあり、郷土料理のコースに満喫することができた。このような旅はなかなかできるものではない。
  

Posted by okina-ogi at 17:35Comments(0)旅行記

2015年12月16日

『三島通庸』 前田光政著 みやざき文庫 1800円(税別)



3年ぶりに鹿児島県を訪ねた。明治維新の雄藩からは、英傑やら有為な人材が出ている。
最近は、五代友厚が注目されている。別に、五代の足跡を訪ねてみようと思ったわけではないが、鹿児島中央駅にある「若き薩摩の群像」の彫刻に顕彰される、留学生には、予備知識を得て旅立った。海外留学の上申書を薩摩藩主に書いたのは、五代なのだが、留学生の多くは、それなりに見識を深め、明治新政府や実業界で活躍している。
海外は見なかったが、実務官僚の少なかった明治政府にあって、政治家になってもおかしくない胆力のある人物がいた。鬼県令、鬼総監と言われ、恐れられた。新島襄は、晩年、医者から無理ができない体と診断され、妻であった新島八重は、新島の行動を日常口うるさく管理するので「三島巡査」と言ったというエピソードも残っている。三島通庸のことは当時の人には広く知られていたのである。
鹿児島の観光地として、島津家の別邸のある仙巌園は有名であるが、その隣に集成館があり、島津藩の歴史を紹介している。ここには、鹿児島県に関わる書籍が多く置かれている。その中にあったのがこの本である。読んでみると、なんとも個性的な人物である。寺田屋事件に連座した人物で若い時から尊王思想が強く、生涯変わらなかった。自由民権論者を弾圧している。しかしながら、相当強引にインフラ整備を行ったことでも知られる。驚くべきは、上州遷都構想を持ったことである。確かに群馬は、地震の災害が少ない。
現代、彼の評価はどのようになるのか。五代友厚との比較もある。
  

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2015年12月12日

花鳥風月



自然の営みに関心を寄せ、慈しみ、愛でることは、俳句の大事な心がけだと思う。俳句には季語があって、まずはそれを覚えなければならない。関心がなければ覚えられない。しばらく俳句から遠ざかっていたら、意外と鳥の句がない。花鳥風月というではないか。
荻原に一点白き鷺遊ぶ
という句しか思い出せない。
身近にいる、カラス、スズメ、セキレイくらいは判別できるが、シジュウカラ(四十雀)、ミソサザイ(三十三才)という季語で句を作る自身はない。還暦を過ぎたと言うのに鳥には、いかに無頓着だったということを反省している。
老いの名もありとも知らで四十雀 芭蕉
という句を鑑賞する資格もない。
冬の鳥という季語があるから、この季節、鳥を題材にするのなら、この季語を使ってお茶を濁すようなこともできるが、佳句にはなるまい。今後、努めて野鳥に関心を寄せてみたい。庭先に餌箱を置いてみようかとも思う。
  

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2015年12月09日

『薩摩スチュ-デント、西へ』 林望著 光文社時代小説文庫 838円(税別)



鹿児島中央駅に「若き薩摩の群像」の彫刻群がある。その数15名である。幕末、薩摩藩が、秘密裏に西洋留学に送り出した青年達の像である。明治になって、この若き留学生は、政界、官界、実業界他多方面で活躍することになる。長州藩も同様に、若き藩士を留学させている。「長州ファイブ」の中には、伊藤博文、井上馨などがいた。
俗にカルチャーショックというが、見るもの、聞くものが全て新鮮である。どのように異文化を吸収、消化するかは個人の資質になるが、各自が使命感に溢れている。薩摩藩の選ばれた人々だったからである。中には、攘夷思想の者もいて、直接殿様(島津久光)から説得されている。藩上げての大事業だったのである。
薩摩藩出身の武士ではない人物も含まれていたが、大半は薩摩武士である。会話が多いので、薩摩言葉が随所に出てくる。著者は、鹿児島の人ではない。書くこととしゃべることは違っていても、良く薩摩言葉を的確に表現している。さらに、この南の雄藩の武士の気質も良く描いている。
朝ドラに登場する五代友厚は、既に上海に渡ったこともあり、リーダー的兄貴分のような存在になっている。藩に海外留学を提案したのも彼である。薩英戦争の後のこの身替りの早さも、薩摩の特徴である。
  

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2015年12月07日

「海難1890」鑑賞

イオンシネマで上映される映画は、55才以上だと割引になる。買い物のついでに映画鑑賞するのも良い。封切りの翌日、「海難1890」を観ることにした。製作の背景は、鑑賞後知ったのだが、日本とトルコ政府の協力があったようだ。
映画のタイトルである1890年(明治23年)は、トルコの軍艦エルトゥールル号が和歌山沖で台風のために遭難し、多くの死傷者を出した年である。その惨事に、串本の漁民は、命がけで遭難者の救出にあたった。漁民は、仲間の遭難にも漁を休み捜索、救出にあたることは当たり前であった。お互い様なのである。相手が、外国人であろうとも同じである。古く鎌倉時代、元寇の時、台風で遭難して亡くなった元軍の兵士を葬った蒙古塚というのを志賀島で見たことがある。
人の真心は、他国の政治感情を動かすことがある。しかも100年以上の月日が経っても。トルコとの関係にはそれがある。逆に、憎しみが続く場合もある。どこの国とは言わない。どちらが、良いことかは自明である。
「真心」とは何か。愛、慈悲などとは言いたくない。「馬鹿も、利口も命はひとつたい」という青春の門の炭鉱労働者の言葉が忘れられない。共同生活の中で「自分を後にして他人を先にする」という行動が日本人には濃厚に引き継がれてきた。庶民の心である。今日そうした心は継承されず、希薄化してきているのも事実である。
映画館に入ると、観客は老夫婦らしき二人しかいない。上映前だったこともあり、「封切り直後なのに関心ないのかな」と言われ、何と返答して良いのかわからず、「貸し切りになるところをお邪魔が入り申し訳ありません」と言うと苦笑いしている。後部座席で、指定された席ではない席でお邪魔にならないように鑑賞したが、久しぶりに涙が流れてきた。心の美しさ「真心」への感動である。
  

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2015年12月02日

友情ということ

武者小路実篤の小説に『友情』というのがあった。中学3年生の頃読んだ記憶がある。粗筋も覚えていないが、遥か彼方の読後感は残っている。3角関係の話になっていて、中学生には理解しにくい内容だが、感情的には響くものがあった。もてない男は、違うところで勝負しなければならない。恋愛と友情はどこか違っている。
友人はいるが、友情を持った友人はどれほどいるか。その基準は何に置くべきかと考えることがある。不一不二という言葉がある。そのような関係だと言えば抽象的だろうか。手紙の最後にこの言葉を使うことがある。今日まで、この言葉を使った友人は、わずかであり、その時の特別な心境も加わっている。気恥ずかしいのである。
情と言う心の働きは、深いものがある。言葉では伝わらないが、他者の心に響くのである。長い年月、離れ離れになった友人と再会し、懐かしさもあるが、実に過去の自分に対する記憶を留めてくれていることがある。その時、その瞬間、深く心を通わせていたからそうなるのである。「人は、懐かしさと喜びの世界に生きている」と言った人がいる。
  

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2015年12月01日

わたらせ渓谷鐵道の旅(2015年11月)

 桐生から間藤間をわたらせ渓谷鐵道が運行している。JR東日本から経営が移り、第三セクターとしてスタートして久しい。紅葉の季節、一度は乗ってみたいと思っていたので、いつものハイキングのメンバーを誘った。いつもは、車をレンタルして、運転手役なのだが、今回は添乗員といったところである。
 問屋町駅から両毛線で桐生駅に行き、わたらせ渓谷鐵道に乗り換える。ホームは同じだが、切符は改めて購入することになる。スイカを利用する人は、改札口を出ないので、乗る前にホーム内に設置された機械で処理することになる。そのことを知らずに、車内で車掌さんに証明してもらい、帰りに桐生駅で手続きをすることになった。「一日フリーきっぷ」というのがあって、今回の日帰り旅行では、費用も安く済み、途中下車も自由で、施設利用の割引の特権も在る。
 前回のハイキングは、来年放送予定の大河ドラマ「真田丸」を意識して、上田城と別所温泉をコースに選んだ。仲間の誰と言うことなく「おぎ散歩」ということになった。今回の企画もまかされることになった。花輪駅で途中下車し、花輪小学校を見学することにした。この小学校は、昭和六年に建築された木造の建物である。こうした木造校舎は、全国でも保存されているものは少なくなっているが、花輪小学校は国の登録有形文化財になっている。
 

 駅から近く、踏切を渡って建物が目に入る。私が学んだ小学校も、中学校も木造校舎であったから懐かしい風景である。開館少し前だった。玄関前で待つと二宮金次郎の石造が在る。これも同じである。違うのは、玄関の両サイドに兎と亀の像があることだ。「うさぎとかめ」の唱歌の作詞者である石原和三郎のゆかりの建物だからである。石原和三郎は、この小学校を卒業し、校長として赴任している。明治二十四年のことである。
 玄関に入ると、左の部屋が職員室になっている。右は、応接室のようになっていて、恐らく校長室があったようである。はっと驚いたのは、壁に卒業生の運動競技の記録が掲示されている。
 母校の小学校は、昭和四十六年、在校生の放火で焼失したのだが、その玄関には、唯一自分の記録が残っていた記憶があった。記録が塗り替えられると、名前はこの掲示板から消える。卒業後、三年の出来事であった。各教室には、さまざまな展示があって、歴史を振り返ることができる。階段で二階に上ると、さらに階段があって会議室のようになっている。母校と同じ構造になっている。この建物の設計者の図面が、当時の校舎に使われた可能性もあると思った。そして、廊下に粋な展示があった。給食がはじまってからの昼食のメニューの変遷である。昭和二十七年とあったから私の生まれた年である。内容は、コッペパンと鯨の竜田揚げ、脱脂粉乳のミルクである。あれほど不味いものはないという記憶があるが、器もアルミでよく再現されている。同行したメンバーも同世代の人がいたので、同じ感想で共感した。
 この建物は、一人の卒業生の多額の寄付をもとに建設された。校舎の近くには、銅像も在る。今泉嘉一郎という人で、秀才であった。東京帝国大学の工科に進み、農商務省に入り、榎本武揚が大臣の時、欧米の製鉄技術を学ぶために留学し、官営八幡製鉄の創業に関わっている。その後、日本鋼管の創立にかかわり、「日本の製鋼、鋼管技術の先駆者」と言われた。銅像を設計したのは、今泉嘉一郎の友人で、帝大時代の同期生の伊東忠太である。建築関係で最初の文化勲章を受章した建築家であるが、その弟子にあたる大川勇がこの校舎を設計している。屋根に換気口がついたデザインも、他の学校にない設計になっている。受付にいた人の話では、当時は高価であった、チークやラワンの外材も使用されたという。
 一時間余りの見学で駅に向かう。駅に着き、しばらくすると「うさぎとかめ」のメロディーが流れる。ライトをつけて、レトロな列車がホームに入る。改札はない無人駅である。「一日フリーきっぷ」を見せて乗車。次に向かうのは、足尾駅の一つ手前の通洞駅である。トンネルもあり、渡良瀬川を見ながら走る。河原の石がいやに白っぽく見える。
 冬の川あまたの石の白さかな


 足尾銅山の歴史は古い。江戸時代に鉱床が発見され採掘されていた。一時閉山同様になっていたが、明治になって、国の近代化の中で銅の需要も高まった。本格的に銅山開発に取り組んだのが、古川市兵衛である。多くの労働者が足尾の町に住み、渡良瀬川の上流の山村の人口は増えた。しかし、下流で公害問題が起こり、国会でも社会問題として取り上げられるようになった。この運動の先頭に立ったのが田中正造である。第二次大戦後も採掘は続けられたが、昭和四十八年に閉山になった。
 鉱山の坑道に入り、採掘がどのように行われていたかを見学できる観光施設がある。通洞駅から近い。メンバーの中には女性もいるが、見学は可である。朝ドラで炭鉱開発の話になっているが、女性が労働することは問題があったし、相撲の土俵に女性が上がってはいけないような考え方があったようである。坑道内の作業は、過酷な労働環境の中で行われたことが実感できる。暗いし、水滴が落ちてきたり、坑道が崩れることだってあるだろう。労働基準法では、坑内労働の条件を厳格に示している。昼食を足尾の町で摂ることにしたが、食堂は少ない。列車の中で、弁当を販売していた理由がわかるような気がした。観光施設に行く前に、駅に近い食堂に立ち寄る。メニューは多いが、注文できるものには限りがあった。聞けば、明日で閉店するという。しかも、店員がボランティアで調理以外はセルフサースだという。値段だけが高く、店員の応対も良くない。ラーメンを頼んだが、美味しいという感じはしなかった。新しい建物も建っているが、古い建物が多い。人口減と高齢化が進んでいるように思えた。
 

 帰路、水沼駅で下車。駅に温泉施設がある。次の列車まで一時間半以上の待ち時間があって、温泉に入り併設の広間で休むことができる。「おぎ散歩」は、歴史が絡んでいるがこうした観光サービスもセットされている。次のコースは来春、若葉の頃の軽井沢を考えている。
  

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