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2016年05月31日

逍遥の歌

旧制高校、旧制中学校の時代には寮歌があった。有名なのは、一高、三高の寮歌である。寮歌は、現代でも、大学の応援歌として歌い継がれている場合が多い。同志社大学と言えば、ミッション系大学でこうした歌の類はないと思われるがそうではない。まさに、「同志社大学逍遥歌」として応援歌になっている。
同志社は、建学の精神をキリスト教に置き、新島襄らによって設立された。逍遥歌には、キリスト教精神が読み込まれているかと言えばそうではない。京都周辺の風物が歌われているのである。学生時代から、校歌より愛着を持っていた。今も断片的だが、口づさむことができる。クラブの宴会などで、酔って歌った記憶も懐かしい。
歌う前の口上が良い。「古き名門の娘に恋するが真の恋であって、裏町の陋屋に住める乙女に恋するが真の恋でないと誰が言えようか・・・・」裏町、陋屋、乙女などという表現が良い。逍遥とは思索して歩くさまを言うのだろうが、世間から離れて学問に打ち込む姿でもある。
同志社大学逍遥歌
1.古都の春葉未だ陽に染まず
紫紺の陽光(ひかり)雲居より
塵外境の平和の地
おお同志社に進みゆく
我が人生は堂々たり
2.近江舞子の波高らかに
瀬田の唐橋渡り行く
自由と正義の力もて
おお同志社の強者(つわもの)よ
我が人生は遥々たり
3.比叡の嵐なにものぞ
緑陰深し延暦寺
誇りの歴史かがやかん
おお同志社の柱なれ
我が人生は怒涛たり
4.祇園の宵も今宵のみ
永遠(くおん)の杯に倫安(とうあん)す
四年(よとせ)の学びなしおえて
おお同志社を去りゆかば
我が人生は安らかれ


  

Posted by okina-ogi at 11:54Comments(0)日常・雑感

2016年05月28日

雑誌『サライ』 小学館 700円



今年は、宮沢賢治生誕120年の年にあたる。賢治に関わる企画が目に付く。『サライ』6月号に、宮沢賢治の特集が載っている。普段買わない雑誌だが、購入して読んだ。正直、宮沢賢治の詩や、童話を深く理解できていないが、その生き方になぜか惹かれるのである。宗教学者の山折哲雄が、宮沢賢治の世界を鋭く解説している。有名な『雨ニモマケズ』についてである。
賢治が思いつくままに書き付けた、手帳の写真が載っている。最後には、日蓮宗のお題目が書かれている。37歳で亡くなる2年前に書かれたというが、病弱な身に迫る死を意識しながらの生き様が素直に表現されている。
農学校の教師でもあり、科学的な素養があった人であるが、命に対する深いいたわりの心が強い。社会に対し、人に対し、動物に対し、植物に対し、石に対し、宇宙に対し広がっていく。賢治の世界が、4次元的といわれる所以である。山折哲雄は、賢治が「風」に関心を持っていることを指摘している。アニミズムの世界にも通ずるという。この点に痛く共感した。
これは余談であるが、賢治はベジタリアンだったと指摘している人がいる。同じ6月号の特集で「肉で長生き」が載っている。なんとも、皮肉な組み合わせになっている。
  

Posted by okina-ogi at 09:57Comments(0)書評

2016年05月27日

植木の移植



終の栖のつもりで建てた家が完成し、梅林の中にあるのでどうもしまりがない。せっかく建築家がモダンな家にしてくれたのが生きない。人工的なものは、好まないが、庭は別である。北側には築山、南側は芝生、和洋折衷になった。
オダマキ、ミヤコワスレ、芍薬、アヤメは築山の麓に。芝生側には薔薇を植えることにした。薔薇の垣根ができれば、せっかく庭先にできた家庭菜園へ行きにくくなる。洒落てバラのアーチにしようと思ったが、つる薔薇の苗は小さい。時間をかければよいが、母屋の一角につる薔薇があったのを思い出した。通りに面した場所で、伸びると通行人の迷惑になる。アーチの根元に移植しようと思って造園業の友人に相談したところ、根回しをして季節を選んで移植したほうがよいというアドバイスをもらった。
長く根付いて成長した花木の移植は簡単ではないという理屈は、人間社会にも当てはまる。若い時は転職もそれほど難しくないが、中高年の転職は、容易ではないということに似ている。転職のタイミングやそれなりの準備が必要になる。
庭造りについて、良く考えて見ると、初めて家を建てた時の発想と変わっていない。芝を植え、薔薇を植える発想は同じである。芍薬についてもそうである。芍薬などは、十分な管理ができなかったこともあり絶えてしまった。終の栖になる庭だから、今度はいとおしみ手をかけてやらねばなるまい。
  

Posted by okina-ogi at 16:03Comments(0)日常・雑感

2016年05月18日

伊能忠敬の人生



5月17日「BS11」で伊能地図の作成で知られている伊能忠敬を取り上げていた。佐原市にある伊能忠敬記念館を訪ねたことがある。彼の足跡や、測量に使用した器具が展示されていた。インテルサットの地図と伊能地図が比較してあって、その誤差の少ないことに驚かされた。地図を作成することを始めた歳は、55歳。現代人の年齢と比較はし難いが、定年退職後の年齢とも言って良い。伊能忠敬は49歳で隠居している。
冴え返る水郷佐原偉人あり
江戸時代の学問の水準が高かったことを番組は強調していたが、何よりも伊能忠敬の生き方である。隠居してから、暦学や天文学を学者について勉強している。商才もあって、婿養子に入った伊能家の財産を10倍くらいに増やしている。商才と学才は違う。算術という共通点はあったとしても。
「一身にして二生を経る」という言葉があるらしい。誰が言ったのかは知らないが伊能忠敬にふさわしい。第二の人生などとは言わないが、宮仕えが終わったら、自分の好きなことがやれたらと思う。伊能忠敬のように、後世に残るような業績は無理にしても、少しは世の中の役に立つことであれば良い。年金収入で趣味に生きるというのでもない。
  

Posted by okina-ogi at 15:50Comments(0)日常・雑感

2016年05月12日

法律門外漢のたわごと(再就職手当)

離職すれば雇用保険から失業給付が行われ、長い期間ではないが生活保障が行われることになる。できれば、給付を受けない間に就職先が決まればよいが、それほど再就職は簡単ではない。再就職手当は、就職促進給付として支給される。基本手当をそれほどもらわず安定した職業や、新たに事業を起こした人に支給される。お祝い金のようなものと考えて良いかもしれない。雇用保険も生活保護費のように、もらったほうが得と考え勝ちだが、働く先が見つかることが、保険者も被保険者も良いのである。
近年は、再就職手当を支給されたものが、再就職先に6カ月以上勤務し、以前の職場よりも賃金が低下したような場合には、就業促進定着手当が、追加的に支給されるようになった。保険のことだから、受給資格条件や手続きは、細かいので触れない。
  

Posted by okina-ogi at 11:57Comments(0)日常・雑感

2016年05月10日

『農民画家」ミレーの真実』井出洋一郎著 NHK出版新書 820円(税別)



東京国立博物館で開催されている「黒田清輝展」で購入した。黒田清輝に関する図書がなかったからである。ミレーと黒田清輝との関係があるのではないかというのが購入の動機でもある。読了後、その記述はなかったのであるが、黒田清輝が渡仏した前のフランス画壇を知ることができた。
著者は、ミレーの絵画、人物に詳しい。ミレーの絵画を所蔵することで知られている山梨県立美術館の学芸員として勤務した職歴がある。ミレーの絵は、日本人には、人気がある。清貧、敬虔、農民画家というイメージが定着している。偉人という評価もある。それは、表層的な見方であるというのが著者の見解である。
ミレーの農民を描いた絵画は、フランスの片田舎、バルビゾン村で描かれたものが多い。バルビゾン派と呼ばれる画家と住まいを同じくして描いたものである。中でも、とりわけテオドール・ルソーは、最も心を許し、影響を受けた画家である。
バルビゾン派には、日本ではあまり知られていないが、コンスタン・トロワイヨンという画家がいる。牛を始めとして野外の動物を好んで描いている。古くからの友人で、故人となったが、河野喬という人は、トロワイヨンに魅せられ、図録まで自費出版して紹介している。何とも心癒される絵なのである。
ミレーに戻るが、代表的な作品である「晩鐘」、「落穂拾い」、「種を蒔く人」は、彼の人物評価が変わろうと名画であることは間違いない。
  

Posted by okina-ogi at 12:04Comments(0)書評

2016年05月07日

黒田清輝展



黒田清輝展が、上野の東京博物館で開催されている。昨年の五月の連休にも「鳥獣戯画」の展示を観るために東京博物館に行った。来訪者が多く、東京芸大の近くにある黒田記念館に立ち寄った。常設展示だが、画家の人なりは、知ることができた。今回は、海外留学からの、作品が展示されている。法学を学ぶための留学が、絵画に変更になったことは、昨年予習してあったので驚きはしなかったが、養父は良く許したと思う。養父は、西郷隆盛とも親交があった薩摩藩士である。
黒田清輝は、1866年の生まれだから、今年が生誕150年になる。そのこともあり、企画展が開催された。黒田清輝がフランス留学中師事したのが、ラファエル・コナンという画家である。外光派と言われている。彼の作品が何点か展示されており、そのように言われる根拠になった絵であることがわかる。屋外に裸婦を描いている。自然光が注いでいる。黒田清輝も影響されていることがわかるが、留学時代「読書」が評価されている。モデルになった女性はフランス人の恋人だという。
帰国後、京都を訪れた印象が「舞妓」であり、後に妻になる芸者を描いたのが「湖畔」である。彼の代表作の一つだが「湖畔」は、薩摩藩士であった樺山資紀が所有していた。孫である白洲正子は、身近にこの絵を見ていた。美術の教科書で見た黒田清輝の絵である。
東京美術学校に学んだ群馬県安中市出身の画家湯浅一郎は、黒田清輝に学び、群馬県立美術館に展示されている絵の画風は、黒田清輝の影響が想像できる。新島襄の肖像画を描いたのは湯浅一郎である。安中市にある新島襄記念礼拝堂に掛けられている。
展示会場を出る手前に展示されていたのが、「智・感・情」というタイトルの3体の裸婦像である。背景は金色、それぞれの感情を仕草で表現している。フランスから画材として導入した裸体像は、日本では物議を醸した。絵に腰巻をされて展示されたこともあった。西洋文化を取り入れる時の生みの苦しみに違いない。
黒田清輝は還暦を迎えずになくなっているが、帝国美術院院長の要職や貴族院議員にもなっている。初代の帝国美術院院長は、森鴎外である。森鴎外の住まいは、上野の森の近くにあった。「観潮楼」として文人たちのサロンになった。今は、跡地に記念館が建っている。次回、上野の森に行く時は訪ねて見ようと思う。この日、東京都美術館では「若冲展」があったが、人出も多いと思い遠慮した。若冲の作品は見ているし、鹿児島から見える友人に夕刻会う約束もある。

  

Posted by okina-ogi at 13:18Comments(0)日常・雑感

2016年05月06日

伊那谷の春(2016年5月)



 信州は、山々に囲まれ、水が豊富で、大きな川が流れ、その川に沿うように盆地がある。代表的なのが、善光寺平、佐久平、松本平、伊那平である。県歌「信濃の国」にも歌われている。伊那市のある伊那平は、諏訪湖から発する天竜川が流れ、形状は細長く、伊那谷と呼ぶこともある。桜で有名な観光地、高遠も近い。
 ここ何年も、信州の春の風景が見たくて、五月の連休を利用して訪ねている。今年は、諏訪で御柱祭が開催されていることもあり、友人を誘い、諏訪から伊那谷を目指すことにした。伊那には、一度は訪ねてみたい場所があった。観光地や、旧所、名跡ではない。日本一の生産量を誇る、寒天食品を製造する会社である。伊那食品工業という。戦後創立された会社である。当時から、会社経営の先頭に立っている人物がいる。塚越寛という人物である。この人の著書を読んだことがある。四年前のことである。『リストラなしの年輪経営』、タイトルが良い。
 塚越寛は、一九三七年に長野県に生まれ、終戦の年に父親を亡くしている。高校生の時に、結核になり、三年間闘病生活を体験している。そのために、東大受験を断念したというから、秀才でもあったのであろう。それよりも、経営の理念が素晴らしい。二宮尊徳を尊敬し、経営に道徳がある。実績も上げている。四十八年連続増収増益の記録を持つ。その記録は、経営者が経営哲学を曲げなかったら伸びていたかもしれない。健康ブームに乗って増産を求められたことがあった。塚越社長は、増産に反対であった。しかし、従業員から強く増産の要望があった。塚越社長の経営理念の一つに、働く人の幸せを重視するというのがあり、情に流されたわけではないが、結果は失敗であった。過剰投資の付けがまわり、ブームが去った後、在庫が残ることになった。
 初心に戻り、現在は安定した「年輪経営」になっている。「売り手よし、買い手よし、世間よし」は、近江商人の有名な「三方よし」の考え方である。伊那食品工業は、それに加えて「将来もよし」を加えている。持続発展する企業である。成長は、急激ではなくても良い。ゆっくり育つ樹木のように。そのこともあり、一九八八年に、伊那谷の森林の中に工場、事務所を造り、庭園も造り、販売所も造り、レストランやホールもある。これもいっぺんに整備したのではなく、年月をかけて今日の姿になったのである。「かんてんぱぱガーデン」という名称で呼ばれ、来訪者は多い。
 昼食は、「さくら亭」というレストランですることになった。「春の御膳」というちらし寿司をメインにした定食で、味噌汁や漬物にも寒天の素材を使っている。食べて見れば違和感はない。森の中のテラスで、木漏れ日の差し込む食事は、なんとも表現できない良さがある。「かんてんぱぱガーデン」が斜面にあるために、遥か彼方に残雪のある八ヶ岳連峰も見ることが出来る。子供たちは、広い芝生で遊び、弁当を広げて食べている家族もある。人々の幸せの空間を作っている。
 職員の応接も良い。おもてなしの心である。マニアルがあるというより、心遣いを感じるのである。庭の手入れも、業者任せにしないで、草取りや、チューリップなどは職員が植えている。また、駐車するとき、庭木に向けてバックで停めない。出勤する時、右折して会社内に入らないようにしている。渋滞の原因になり、地域の人の迷惑にならないことを心がけているのだという。日本にこうした会社があることは誇りにして良い。上場企業でもないことも特筆できる。
  

Posted by okina-ogi at 17:55Comments(0)旅行記