2017年01月25日
『神々の微笑』 芥川龍之介作品
遠藤周作の『沈黙』に深くこの作品が関係しているようである。短編だからすぐ読めるが、内容は、重い。芥川龍之介は、キリスト教を題材にした小説を多く書いたことで知られている。キリスト教に惹かれるところがあったのは事実であろう。自殺した時、枕元に聖書が置かれていたことも無関係ではないだろう。
結論的には断定しているわけではないが、日本ではキリスト教の神も八百万の神には勝てないと老人に言わせている。天岩戸開きを思わせる場面も描いている。そして、日本に伝道に来た神父に憂鬱な気分を持たせ、その原因が、日本の風景の美しさであったり、得体の知れない雰囲気(霊的なもの)だと語らせている。
自殺することは、キリスト教では許されないが、芥川は、キリスト教に救いを求めていたが、自分の体に染み付いていたともいうべき、日本人的な体質を脱ぎ捨てることができなかったのかもしれない。その他の作品を読んでいないので言い過ぎになっているかとも思うが。
結論的には断定しているわけではないが、日本ではキリスト教の神も八百万の神には勝てないと老人に言わせている。天岩戸開きを思わせる場面も描いている。そして、日本に伝道に来た神父に憂鬱な気分を持たせ、その原因が、日本の風景の美しさであったり、得体の知れない雰囲気(霊的なもの)だと語らせている。
自殺することは、キリスト教では許されないが、芥川は、キリスト教に救いを求めていたが、自分の体に染み付いていたともいうべき、日本人的な体質を脱ぎ捨てることができなかったのかもしれない。その他の作品を読んでいないので言い過ぎになっているかとも思うが。
2017年01月24日
映画「沈黙」
遠藤周作の小説「沈黙」が映画化され封切りとなった。小説『沈黙』の中に、司祭が踏み絵を踏む場面があった。その部分を書き抜いてみる。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私は、お前たちにふまれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をつけた時、朝がきた。鶏が遠くで鳴いた」
映画の中では、神父となっている。踏み絵を踏んだのは、棄教なのだが、信者の命を救う行為にもなっている。長崎奉行の井上政重は、実在の人物であるが、元キリシタンであった。神父が棄教すれば、信者も救われると考えていたので説得するのである。演じた役者も、名演だった。
その説得として、日本の土壌にキリスト教の苗木は育たないという言葉があった。日本も古来から、神道や仏教の信仰がある。そこにキリスト教が唯一の神を説くことを、時の権力は認めなかった。明治になって文明開化として西洋文化が入り、キリスト教の布教も許されるようになった。しかし、キリスト教徒の数は、ザビエル後の布教による信徒の数とかけ離れて多くなっていない。
なぜなのか。歴史と風土ではないかと思っている。一神教ということに、日本の土壌は合わないと言った長崎奉行も思っていたかもしれない。
「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私は、お前たちにふまれるために、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつために十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏み絵に足をつけた時、朝がきた。鶏が遠くで鳴いた」
映画の中では、神父となっている。踏み絵を踏んだのは、棄教なのだが、信者の命を救う行為にもなっている。長崎奉行の井上政重は、実在の人物であるが、元キリシタンであった。神父が棄教すれば、信者も救われると考えていたので説得するのである。演じた役者も、名演だった。
その説得として、日本の土壌にキリスト教の苗木は育たないという言葉があった。日本も古来から、神道や仏教の信仰がある。そこにキリスト教が唯一の神を説くことを、時の権力は認めなかった。明治になって文明開化として西洋文化が入り、キリスト教の布教も許されるようになった。しかし、キリスト教徒の数は、ザビエル後の布教による信徒の数とかけ離れて多くなっていない。
なぜなのか。歴史と風土ではないかと思っている。一神教ということに、日本の土壌は合わないと言った長崎奉行も思っていたかもしれない。
2017年01月21日
『失敗の本質』 共著 中公文庫
小池東京都知事の座右の書らしい。財界人でこの本に関心を寄せている人もいる。副題として、日本軍の組織的研究となっている。軍隊と企業は、その目的は異なるが組織という点においては同じである。小池知事が言うようには負けてはいけないのである。日本航空や、多額の損失を出して企業の存続が危惧されている東芝のようになってはいけないのである。組織の失敗は何から生まれるのか。
本著が分析した日本軍の戦いの中で、六つのケースを取り上げている。①ノモンハン事件②ミッドウェー作戦③ガタルカナル作戦④インパール作戦⑤レイテ海戦⑥沖縄戦である。
このうち、③と⑤どのように戦われたかは知らず、特にガタルカナル島がソロモン諸島にあることを知った。日本から随分と離れている。伯父が、ニューギニアで戦病死しているので南方の戦争には関心があったが、悲惨な戦いだと聞いて知るのを避けていたこともある。
本の内容から、負け戦を分析するぐらいなら、負ける戦をなぜしたのかを研究したほうが良いと考えていたら、そのことも最初に書いてある。そのことを分かった上で、あえて戦いの失敗を日本軍という組織に眼を向け分析しているのである。いろいろな指摘があるなかで、「主観的で「帰納的」な戦略策定―空気の支配」というのがあった。これだなという感じがした。一方、演繹的という言葉がある。客観的と言うか、冷めた判断である。日本人の良さでもあるが、情に流され易いのである。情報や状況の冷静な分析は、アメリカが優っていた。もちろん、国力の違いがあり、力のあるものに戦いを挑んでも勝つ見込みは少ない。孫子の兵法というのがあった。「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」亡くなった大叔父は陸軍少佐で終戦を迎えたが、「先の大戦は無謀な戦いであった。戦争を国際紛争の解決手段にすべきではない」という言葉を残し、この孫子の言葉を引用していた。
2017年01月19日
『足るを知る生き方』神沢杜口「翁草」に学ぶ 立川昭二著 講談社
神沢杜口は、江戸時代中期(1710~1795)の人。京都に住んだ。40歳で与力を娘婿に譲り、隠居の身になった。それから45年、85歳まで生きた。多趣味多才の人で、俳人与謝蕪村とも親交があった。蕪村の墓は、左京区の金福寺にある。
『翁草』を書いたことで知られるが、世に広く流布したわけではないので、後世神沢杜口を知る人は少ない。『翁草』は、定年退職後、それも老齢期の随想集とも言っても良い。日常雑感でもあるが、人生訓としても良い深い思索から生まれた文章もある。また、神沢杜口が79歳の時に発生した京都の天明の大火は、取材記事であり、焼失した地図も残し、今日の貴重な歴史資料になっている。
当時、神沢杜口が見聞きしたエピソードが綴られていて興味深い。江戸時代にタイムスリップした感じがする。森鴎外の小説『高瀬舟』は、『翁草』の記述からヒントを得たものである。安楽死がテーマになっている。『興津弥五右衛門の遺書』も同じで、こちらは、乃木将軍の自刃に刺激され『殉死』がテーマになっている。
現代、リタイアしてからの老年期の過ごし方は、人さまざまであって良いが、神沢杜口の行き方は、実に参考になった。彼ほどの趣味や才能はないが、共感するところが多い。俳句、将棋(神沢杜口は囲碁)、随想を書くこと等。意識してそうなったのではないが、拙著の紀行文に『翁草』がある。これも、時代を超えたご縁かもしれない。しかし、江戸時代にあって85歳の長寿を全うしたのは凄い。
2017年01月18日
『悪党芭蕉』 嵐山光三郎著 新潮社 1500円(税別)
署名が、凄い。芭蕉と言えば俳聖。求道者的なイメージもある。俳句を通じて、日本人の精神生活を豊かにした功労者だと思うし、現代なら文化勲章を受章してもおかしくない人物である。
冒頭、芥川龍之介と正岡子規の芭蕉批判が出てくる。龍之介は、芭蕉は「大山師」だと言い、子規は、芭蕉の句は、悪句駄句が大半だと酷評している。後世、芭蕉の句碑や廟を建立する輩の気が知れぬと憤慨している。
問題は、芭蕉の作品。俳句、連句、紀行文、日記である。やはり、後世にゆるぎない文学的地位を占めていると思う。とりわけ、連句については良い勉強になった。心の交流というものの味が少し分かったような気がする。親しい友人たちと連句をした経験があるが、蕉門の深さと真剣さは、群を抜いていると思った。芭蕉門下は、豪商であったり、武士であったり、医師であったり生活に余力のあるインテリ層が多い。そうした人々の経済的支援の元に生活していたことになる。長期の旅をして、紀行文が書けたのもうなずける。連句を纏めて出版し、紀行文も世に出した。大坂御堂筋で客死するが、体調が悪いのに出かけて行ったのもプロデューサーとしての仕事だったとも言える。
芭蕉の「ひとたらし」の能力は相当なものだが、俳句の魅力を伝える資質は、カリスマ的であったと思う。
2017年01月14日
法律門外漢のたわごと(雇用保険の改正)
平成29年1月1日から、65歳以上でも雇用保険に加入できるようになりました。そうであれば、65歳以上で退職した場合、基本手当てとしての失業給付が給付されるかというとそうはなりません。以前と同様、受給用件を満たせば、高年齢求職者給付金が、一時金として支給されます。
実際に、雇用保険に加入し、事業主と雇用されるものが保険料を支払うのは、平成32年の4月1日からになります。それまでは、保険料は免除になります。この改正は、何を意図しているのかは容易に推測されます。65歳以上の就労を促しているということです。その先には、年金の受給年齢の引き下げが待っているかもしれません。
2017年01月12日
『芭蕉紀行』 嵐山光三郎著 新潮文庫
古典を読むのに限るが、ガイドブックのような本も悪くはない。著者の感性もあるが、芭蕉の旅の状況を良く調べている。著者は、若いときからの旅好きで、芭蕉への思い入れもある。旅は酔狂だけでできるものではないから、旅費の工面や、旅の企画は、芭蕉一人ではできなかったことがわかる。『奥の細道』などはまさにそうであって、同行した曾良の役割は大きい。
嵐山光三郎は、作家であるが雑誌の編集などを手がけた苦労人である。編集者は、本が売れるかどうかを考えなければならない。そうした経験が、俳聖芭蕉の違った面を浮き彫りにしてくれる。『奥の細道』も読者を意識して、ただの紀行文ではなく、虚構の部分も盛り込まれていると言う。
『西行と清盛』という彼の著作があるが、面白く読んだ記憶がある。蔵書にするほど繰り返して読む本ではないと思ったから、友人にプレゼントしてしまって手元にはない。その本の中で、西行がみちのくを旅したかどうかは疑問だと書いていたように思う。また、西行が出家したのは、政争に巻き込まれることを避けたという指摘である。この本にも、人間くさい芭蕉の一面を書いているが、それはそれで面白い。
弟子の杜国との関係は、そうなのという感じがするが、渥美半島には行ってみようかなと思わせてくれた。杜国の没した地であるだけでなく「椰子の実」の歌の誕生の地でもあるからだ。旅には、旅情が必要だ。
2017年01月05日
『真情』
正月4日、『真情』という小冊子が送られてきました。号を重ね、112号となっています。年3回の発行ですから、40年近く発行し続けていることになります。発行の責任者になっているのは、長く赤間神宮に奉職し、現在は、萩市の松蔭神社に奉職している青田國男氏です。30年来の親交があります。数学者、岡潔先生の春雨塾の塾生というご縁でもあります。
本のタイトルになっている「真情」(まごころ)について、昭和49年度の京都産業大学での岡先生の講義録が載っています。講義の最後のところで、「真情」とは何かを例を挙げて語っておられ、抜粋して紹介することにします。
『日本人は無自覚的にではあるが真情を自分と思っているのである。「真情」の一例を挙げよう。
明治の初め頃の話である。
東北の片田舎に母と子が二人で住んでいた。息子が13になった時、自分は禅を修行したいと云い出した。それには家を出て師を求めなければならない。それで母と子が別れることになった。その別れる時、母は子にこう云った。
「もし修行が上手く行って、人がお前にちやほやしている間は、お前は私のことなんか忘れてしまっていてよろしい。然しもし修行が上手く行かなくなって、人がお前に後ろ指を指すようになったら、必ず私のことを思い出して、私のところへ帰って来ておくれ。私はお前を待っているから」
それから30年経った。子は偉い禅師になった。松島の碧岸寺という寺の住持をしていた。その時郷里から飛脚でこう云って来た。
「お母さんはお歳を召してこの頃ではいつも床に就いておられる。お母さんは何とも云われないが、私達がお母さんのお心を推しはかって云うのだが、どうか出来るだけ早く帰って来て一目お母さんに逢ってあげてほしい」
禅師は取るものも取りあえず家に帰って、寝ている母の枕辺に座った。
そうすると母は子の顔をじっと見てこう云った。
「この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。然しお前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ」
私はこの話を聞いた時、涙が出て止まらなかった。
子から見れば、子と母とは二つの心であるが、母から見れば母と子とはただ一つの心、真情だけになっているのである』
これが心というもの。
本のタイトルになっている「真情」(まごころ)について、昭和49年度の京都産業大学での岡先生の講義録が載っています。講義の最後のところで、「真情」とは何かを例を挙げて語っておられ、抜粋して紹介することにします。
『日本人は無自覚的にではあるが真情を自分と思っているのである。「真情」の一例を挙げよう。
明治の初め頃の話である。
東北の片田舎に母と子が二人で住んでいた。息子が13になった時、自分は禅を修行したいと云い出した。それには家を出て師を求めなければならない。それで母と子が別れることになった。その別れる時、母は子にこう云った。
「もし修行が上手く行って、人がお前にちやほやしている間は、お前は私のことなんか忘れてしまっていてよろしい。然しもし修行が上手く行かなくなって、人がお前に後ろ指を指すようになったら、必ず私のことを思い出して、私のところへ帰って来ておくれ。私はお前を待っているから」
それから30年経った。子は偉い禅師になった。松島の碧岸寺という寺の住持をしていた。その時郷里から飛脚でこう云って来た。
「お母さんはお歳を召してこの頃ではいつも床に就いておられる。お母さんは何とも云われないが、私達がお母さんのお心を推しはかって云うのだが、どうか出来るだけ早く帰って来て一目お母さんに逢ってあげてほしい」
禅師は取るものも取りあえず家に帰って、寝ている母の枕辺に座った。
そうすると母は子の顔をじっと見てこう云った。
「この30年、私はお前に一度も便りをしなかった。然しお前のことを思わなかった日は一日もなかったのだよ」
私はこの話を聞いた時、涙が出て止まらなかった。
子から見れば、子と母とは二つの心であるが、母から見れば母と子とはただ一つの心、真情だけになっているのである』
これが心というもの。
2017年01月04日
相模国一宮
元旦の日帰りの旅を続けて久しいが、初詣が目的ではなかった。そろそろ、神様に1年の願い事をしても良い年になったという自覚から、神社にお参りすることにした。茅ヶ崎市から近い場所に、寒川神社があることを知った。この神社は、相模国の一宮でもある。関東近辺の一宮でお参りしていないのは、この神社と栃木県の宇都宮市にある二荒山神社だけである。
昭和29年の元旦は、天気に恵まれた。晴れ渡り、冬の厳しい寒さもない。藤沢あたりを過ぎると富士山がくっきりと見える。元旦の富士も拝みたかったのでその願いが、先ず叶えられた。寒川神社あたりから、ゆっくりと眺めてみようと楽しみにしていたが、高速道路が邪魔して裾野が見えない。しかたなく高速道路を超え、見晴らしの良い堤防に出て、カメラに収めた。
寒川神社の人出は尋常ではない。参拝するのに1時間以上かかった。タクシーの運転手に聞いたら、1月、2月は参拝する人が多く、近くに住んでいるが季節を選んで参拝すると話してくれた。神社は、普段は人がまばらだと思っていたが、さすが一宮である。元旦のもう一つの目的は、天然温泉に入ることである。茅ヶ崎駅から近い場所に、竜泉寺の湯という日帰り温泉がある。昼食もそこで摂り、くつろぐことができた。昭和30年は、宇都宮に行くことも決めた。