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2017年08月31日

『定年後』 楠本新著 中央公論



フェースブックの友人の紹介本である。こうしたタイトルの本は、人それぞれの人生観があってあまり関心がないのだが、さらっと読んでみることにした。帯に、大事なのは、健康?お金?孤独です。と書いてあったのが気になって購入することになった。孤独感は、大事な問題である。前向きに生きられなくなったらつまらない。お金があっても。
退職鬱ということはある。経済も、人間関係も組織に依存していたのだから、その環境から急に外れれば、精神的に落ち込むことは十分考えられる。定年と言う制度はわかっていても、無意識に気がめいってくることはあるのである。理性的には割り切れない世界である。定年後の生き方は、この本が強調しているように、前から準備しておくことだというのは、共感する。俳句に「去年今年貫く棒の如きもの」(高浜虚子)というのがある。定年前も定年後も節目を意識しないほうが良い。要は「宮仕え」を辞めるのである。自分のペースで生きられるのだということである。社会的動物ではありますが。
  

Posted by okina-ogi at 14:59Comments(0)書評

2017年08月26日

九州北岸を行く(平戸、武雄温泉編・2017年8月)

唐津からJR九州で平戸に向かう。宿泊はしないが、二日目の目的地である。長崎と平戸は、同県であるが共鳴する響きがある。キリスト教と南蛮貿易である。九州北岸を行くとしたタイトルは、福岡から唐津、伊万里、松浦、平戸への移動を意識している。最初の予定では、帰路も伊万里に戻り武雄温泉駅に行くコースになっていたのである。伊万里からたびら平戸口までは、JRではなく、松浦鉄道になっている。元々は、JRであったが、第三セクターの経営になっている。JRの民営化になって、不採算路線は、こうした形で残っているケースが多い。松浦鉄道は、佐世保と有田間を運行している。


途中通過した松浦は、漁業が盛んだが、古くは、松浦水軍が拠点を置いていた。平戸の藩主も松浦氏である。その系図は詳しくは知らない。
 たびら平戸口は、日本西端の駅である。小さな駅である。乗車券をワンマンカーの運転手に渡し、改札口を抜けると売店の前の長椅子に猫が寝ていた。この猫は帰りにも同じ場所から動かないでいた。平戸は島であって、平戸桟橋を路線バスで渡った。市街地までは橋を渡りそれほど遠くない。平戸で最初に訪ねたのは、フランシスコ・ザビエル記念聖堂である。寺院と教会の見える観光スポットがある。本当にこの坂からは、お寺と教会が重なって見える。ザビエルは、鹿児島に上陸し、山口や京都へ布教に行くが、平戸も三度訪ねている。藩主が、ポルトガルとの貿易に前向きだったことと無関係ではない。藩主松浦氏は、自らキリシタン大名には、ならなかったがキリスト教の布教は許した。多くの宣教師が伝道活動をして信者も全島に広がっていった。隠れキリシタンの歴史を経て、今も教会があり信者がいる。カソリック教徒が多い。
 

やがて、貿易の相手は、オランダに移っていく。近年になって、オランダ商館が復元され、建物が港の海べりに建っている。この白亜の洋館は、当時の平戸の人を驚かせたに違いない。島原の乱などがあり、キリスト教の布教に熱心なポルトガルは去り、オランダは、平戸を去り長崎の出島で貿易を許された。短い、平戸滞在であったが、オランダ通りという町並みで、ちゃんぽんをご馳走になった。イギリス人、ウイリアムアダムス(三浦按人)や吉田松陰ゆかりの地は訪ねられなかったが、松浦資料館で鄭成功が紹介されていた。近松の浄瑠璃にもなった国姓爺は、平戸の生まれである。たびら平戸口に戻り、佐世保経由で二日目の宿、武雄温泉を目指す。
 

武雄温泉に宿をとったのは、有田焼で知られる有田の町に近いからである。佐世保線の駅だが特急が停まる。ホテルにチェックインし、共同浴場に向かう。ここには、唐津出身の明治大正の建築家辰野金吾が設計した楼門がある。門をくぐると何種類からの共同浴場があって、元湯に入ることにした。入湯料は四百円だが、翌朝ホテルから三百円の優待券があることを知った。湯の温度は高いが、源泉の温度を下げ、入り分け出来るよう
に湯船が区切られている。二回目の朝風呂は、長湯ができた。


 日の出ともに早起きをして、再度元湯に入るために街を散策する。ホテルと元湯と正三角形の(?)一画の距離に武雄神社がある。歩いて十五分ほどである。神社を参拝するのが目的ではなく。神社の裏山に樹齢三千年の御神木がある。これは見るべき価値があると思ったのである。何せ紀元前からの樹木である。有史より古い生命体である。楠である。本殿の横の鳥居くぐり、よく整備された通路を行く。道の脇には紅葉が植わり、やがて竹林と杉林があり、その先に広々とした場所があって、ご神体は一部の幹は朽ちているが、朝日を浴びて聳えていた。木の近くまでは寄ることができない。神々しいとは、こういう雰囲気を言うのだと思った。神が宿っていても不思議ではない。ザビエル先生に感想を求めたら、無神論者と言われるに違いない。この旅の圧巻だったかもしれない。有田焼のことは、語るに及ばず、贅沢な客用皿として家に宅急便で送ることにした。もちろんお土産も含んでいる。元々陶器への趣味もない。生活用品として使えれば良いのである。有田は、秀吉の朝鮮出兵がらみの訪問である。
  

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2017年08月25日

九州北岸を行く(唐津編)

 六十五歳の誕生日を迎えるにあたり、小旅行を思い立った。八月六日から八月九日まで三泊四日の旅で、出発の日は広島、帰着の日は長崎の原爆の投下の日でもある。羽田、福岡の空港を往復する切符は、全日空のマイレージのポイントがたまり、無料で航空券が予約できたことも大きい。空と陸から慰霊をしたいと思ったからである。けれども、迷走台風が九州に接近し、その影響も考え、二週間後八月二十日に延期し、日程も一日短縮した。長崎の訪問は諦めることにした。慰霊の旅の見返りというわけではないが、長い間の喫煙の習慣を絶つことにした。旅から帰り、この紀行を書いている現在、禁煙は守られている。紀行に書くほどのことではない私事ではある。
 福岡市から列車で一時間あまりの距離に唐津市がある。県境を越え、佐賀県である。唐津市街地から烏賊料理で知られる呼子の港の近くに巨大な城跡が残っている。豊臣秀吉が晩年、ここに名護屋城を築き、朝鮮半島への侵攻の拠点とした。長い年月に風化したがその城の痕跡はしっかり残っている。近くの県立資料館の説明によれば、大坂城に次ぐ城郭の広さがある。天守閣があった場所からは、天気が良ければ対馬の島影も見ることができるという。
 

城跡には、大木が茂り蝉の鳴き声がしきりである。
太閤の 城跡とやら 蝉時雨
文禄・慶長の役という二度に渡る戦役は、秀吉の死によって終結した。朝鮮半島はもちろん、明の国を領土にしようとする野望は実現しなかった。このことが、豊臣政権の衰退滅亡を早めたとされる。名護屋城の周辺には、全国の有力大名が陣を置き、数年間ではあるがにわか城下町が出現したのである、多くの陣跡が発掘され確定されている。徳川家康も二か所に陣を置いているが、配下の兵士は海を渡っていない。
 この無謀ともいえる戦役は、多くの悲哀を生んだに違いない。明らかな侵略戦争である。四半世紀くらい前、慶州の近くにある仏国寺を訪ねたことがあった。案内してくれた韓国の人が、秀吉のことを責めていた。
 古寺に 悲話あり秋の 雨しとど
悲話の内容は忘れたが、恨みが五百年以上も国民の中に残ることを思い知らされて、心は暗くなった。この韓国人は女性であり、日本人青年に嫁ぐことになっていたからである。二人の仲人役として韓国に行った時の思い出である。
 話は飛ぶが、有田焼を創始したのは、朝鮮半島人である。有田にはこの人の碑があるという。李参平。文禄・慶長の役によって、多くの朝鮮人が日本に連れてこられたが、李参平のような優秀な陶工も含まれていた。伊万里焼は江戸期に海外に渡り、莫大な富を生むことになった。今も古伊万里といわれ貴重な価値がある。李参平は、有田の恩人であるが、今も子孫が窯を守っているらしい。旅の最後に訪ねることにしている。
 名護屋城址と唐津市街地の移動手段は、バスである。沢のような場所に稲田があるが驚いたことにもう収穫されている田もあった。友人が同行するわけだったが、こちらの日程の変更でかなわず、そのかわり割烹料理の店を予約してくれた。その店の名前は「天山」である。名前の由来は、唐津の地酒である。暑い地方の日本酒は、発酵が早まるためか製造に限界があるようだ。ホテルのチェックインを済ませ店に直行。店はホテルの隣にあった。
 予約した時間、店には客がいない。最後まで、たった一人の客となった。旅先でこんな経験は始めてである。カウンターに座り、店の主人と会話してみるが、多弁ではないが、短い言葉の中に含蓄のある内容に只者ではない雰囲気を感じた。老夫婦で店を開いている。生粋の佐賀人である。


 「佐賀モンの歩いた後に草が残らない」
しばらく聞かないでいた言葉である。佐賀の人の勤勉さを行っているのである。佐賀の乱の話になった。
 「こちらでは(乱)とは言わない。(役)というんです」江藤新平は、偉人であり。佐賀の乱は、義挙なのである。
話が進むうちに、ご主人は料理人だけではなく、多趣味な人だということがわかった。
カウンターの上に飾ってあった版画は、ご主人の作品であり、「唐津くんち」を描いている。食器やぐい飲みなどの唐津焼も自作である。無口なご主人の変わりに奥さんが教えてくれた。
「唐津くんち」は、秋祭りである。さまざまな曳山が街を練り歩くのだという。版画はその模様を教えている。話が弾み、地酒「天山」をしこたま飲んだ。二人予約にならなかった返礼のつもりもある。
  

Posted by okina-ogi at 17:19Comments(0)旅行記

2017年08月18日

映画「麦秋」鑑賞



8月17日、高崎城址のお壕に近い、高崎電気館で、小津安二郎監督の作品「麦秋」を観た。高崎電気館は、映画館としては、廃業して久しいが、建物が高崎市に寄付されたのを契機に、市が映画会を企画したのである。作品といい、上映場所と言い、まるで青年時代に戻った感じがした。しかし、高崎電気館のあたりは、すっかり人出が少なくなっている。近くの中華料理の店で夕食を済ませ高崎電気館へ。
入場者も10名そこそこ。これでは、経営として成り立たないが、問題は映画の内容である。松竹映画だったのである。松竹の富士山も懐かしい。配役が紹介される。皆鬼籍の人である。主演の原節子も数年前に亡くなっている。
舞台は、北鎌倉の原節子(紀子)の兄夫婦の家である。父親夫婦、紀子も同居している。そこに、奈良から紀子の父親の兄が訪ねて来ている。紀子の甥2人は、小学生である。毎日の暮らしの人間模様が淡々と描かれている。戦後間もない頃の鎌倉や、江ノ島が映し出されている。そうした自然描写と、バックに流れるメロディーが心に響く。
紀子の結婚の問題がテーマになっているが、親子兄弟が皆心配しているのは今以上だが、本人の意思が一番決めてなのは、今も昔も変わらない。紀子は、子連れの戦争で無くなった兄の友達の勤務医に嫁ぐことを決める。勤め先の上司から紹介された縁談は、断った。
友達の淡島千景(アヤ)がからかう。夫になる兄の友達は秋田に赴任することになっている。都会育ちの紀子が秋田弁を話す様が信じられないというのだが、二人の会話が見事な秋田弁になっているのである。少ない観客から笑い声が漏れた。
映画「麦秋」のタイトルの象徴的場面は最後にあった。奈良の旧家の前に一面の麦畑が広がっている。カラーではないので麦秋の色は、想像しなければならない。それよりも、旧家のバックの山は、すぐ耳成山とわかった。すばらしい日本の風景である。とつとつと語られる老夫婦の嫁送りの会話も良い。しかり、名作である。
  

Posted by okina-ogi at 10:50Comments(0)日常・雑感

2017年08月15日

映画「麦秋」

小津安二郎監督の映画が、終戦記念日を前後して上映されるという新聞記事を見た。上映場所は、高崎市柳川町にある「高崎電気館」。そんな映画館があっただろうかと捜してみると「天華堂」という本屋さんの近くである。最近は、車社会になったこともあるのか、街中商店街が淋しい限りである。しかし、このあたりは、高校時代の懐かしい思い出が詰まっている。
映画「麦秋」は、小津作品として名作らしいが、見ていない。1951年の上映というから生まれる前である。白黒のフイルムで、時代を感じさせる。仕事が終わったら、路線バスを使って観に行こうかと思ったが、駐車場も近くにあるようだ。7時からの上映なので近くの古くからの食堂があったらそこで腹ごしらえをしても良い。ちょっとした、過去帰りの体験が出来そうである。
  

Posted by okina-ogi at 11:23Comments(0)日常・雑感

2017年08月10日

『戦う石橋湛山』半藤一利著 東洋経済新報社



1995年に出版された。半藤一利は、文芸春秋の元編集長で、退職後は歴史小説、評論を書くようになった。漱石の孫を妻にもつ。石橋湛山は、第55代内閣総理大臣で、就任後病気になったために短命内閣であった。石橋の後総理になったのが、岸信介である。
石橋湛山という人物は、戦後の政治家としてではなく、大正から終戦までの言論人としてみると偉大な人物と言ってよい。彼の唱えた「小日本主義」が政治の流れとなっていたら、日本は不幸な戦争をしないで済んだかもしれない。満州、台湾、朝鮮、樺太の利権を手放せと言ったのである。帝国主義はやがてなくなり、小国は独立することを、人道的、経済学的な面から見通していた。
先の戦争を、非難するのは簡単だが、その時代にあって一貫して主張した言行一致の人生は尊敬するに値する。この本を読んだためか、法人の理事を辞めている。今振り返るとそれでよかったと思う。ただ、言論的批判はしていない。資金的根拠と運営的継続性のない企画には、賛同できなかっただけである。
  

Posted by okina-ogi at 11:34Comments(0)書評

2017年08月05日

禁煙チャレンジ


禁煙に何度かチャレンジしているが、タバコはやめられないでいる。海外旅行などは、断煙しているが、国に戻れば喫煙者になる。喫煙が健康に悪いという指摘から、社会が禁煙の方向に向いて動いている。受動喫煙の問題が大きい。他人の迷惑になることは、原則しない主義である。
旅行に行く機会が多く、飛行機に搭乗する時のチェックなど煩わしく感じている。久しぶりに札幌に行った時、市内にタバコが吸える場所がほとんどなかった。日本の代表的観光地である京都も同じようなことが言える。友人と喫煙できる部屋に泊まったが、どうぞ吸ってと言われても気がひける。できたら、禁煙したいと思った。
8月になってポストに「介護保険証」と「年金請求書」が立て続けに届いた。65歳の誕生日をきっかけに禁煙してみることにした。今日が5日目である。なんとか、禁煙できている。こう考えたのである。年金生活者になれば、収入は減る。タバコは結構高い。1ヶ月1万円以上かかる。そのかわり、月に2回ゴルフをしよう。最近は、1人予約という方法がある。家の近くには、幸運なことにゴルフ場が多い。どちらかと言えば、知的な禁煙だが長続きするか。
  

Posted by okina-ogi at 09:42Comments(0)日常・雑感

2017年08月02日

台風迷走



7月の21日に、南鳥島付近で発生した台風5号は、2週間近く経つのに太平洋上にあって西北にゆっくり向かっている。勢力も強く、温度の高い海上を移動しているので、衰えがない。気象庁も今後の進路を確定できないでいる。
以前から旅行の計画を立てていて、8月6日の昼に福岡空港に到着する便を予約してある。微妙になってきた。変更するなら3日前である。ホテルの予約の変更もあるからだ。マイレージの予約変更は、初めての経験である。
  

Posted by okina-ogi at 16:07Comments(0)日常・雑感