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2012年06月20日

労農船津伝次平

労農船津伝次平

 紀行『侘助』は、「津山日記」で書き終えたつもりでいる。原稿を、印刷所に送る寸前になって、高校の同級生で、群馬県立女子大学の教授である熊倉君からのシンポジウムの案内を思い出した。彼は、群馬学という郷土研究の副センター長になっていて、シンポジウムでは司会の役になっている。内容が良かったら取材記事として載せてみようと思った。その日は三月五日(土)の午後で、会場は、前橋市立原小学校の体育館である。シンポジウムのテーマになったのが、船津伝次平(ふなつでんじべい)である。群馬県には、昔から「上毛かるた」というのがあって、小学校で子供たちが覚えることになっている。かるた大会もある。「上毛かるた」には、郷土の偉人が登場する。
こ 心の灯台内村鑑三

て 天下の義人茂左衛門

ぬ 沼田城下の塩原太助

へ 平和の使い新島襄

れ 歴史に名高い新田義貞

わ 和算の大家関孝和

そしてろが労農船津伝次平である。

 船津伝次平(一八三二〜一八九八)は、前橋藩領の原の郷の名主の子として生まれた。平成の合併で現在は、前橋市になっているが、数年前は、富士見村の一地区であった。前橋市街に近いが、広い赤城山の裾野にあり、緩やかな傾斜地になっている。船津伝次平の祖先は、甲州武田氏に仕える武士であったが、武田氏滅亡後、この
地に定住したとされている。三代目からは、代々当主は伝次平と名乗り、彼が四代目になる。
 それほどの大地主ではなかったが、父親は寺子屋を開き、俳句を嗜む教養人であった。伝次平も向学心が強く、父親に学び、自らも近隣に師を求め、和算や儒学を学んだ。俳句も父親譲りで終生の嗜みとした。若い時から勤勉で、農業が肌に合い、研究心があり、農業技術を体験の中から身につけていく。村人に人望があり、父親の死後、後継者として名主に推される。この時、二七歳である。栽培に関する工夫として、静岡の石垣イチゴに引き継がれた「石苗間」は、ある時下草刈りに出かけた時、石の近くの下草が良く茂っていたのに気付き、石の保温により草の発育が良くなっていることを発見する。石を河原から拾ってきて茄子苗の間に入れたところ茄子苗が良く育った。また、茄子の艶、味のためにどのような肥料が良いかも試してみた。肥料の三大要素である、窒素、リン、カリのことを知識として知らなかった時代のことである。後年、明治政府が東京駒場に開いた農学校で日本に招聘されたドイツ人から知ることになる。まっすぐな山芋を収穫する工夫をしたのも、彼の知恵による。
 船津伝次平の偉いところは、こうした技術を村人に教え、普及しようとしたことである。自分だけが富もうとは考えなかった。江戸時代には、飢饉があり多くの餓死者が出た。貯えがあれば、飢饉を凌ぐことができる。農業の中心は、米作であるが、低温の夏の不作もあるが、水がなければ立ち行かない。原の郷は、火山灰地の上にあるために、水の浸透性が高く、水不足になった。その解消のためには、植林することだと思い立つ。この事業は一人ではできない。加えて森が育つのは、数十年先のことである。将来を展望した発想は村人にはなかなか理解されなかったが、実現する。植えたのはクロマツである。今日、群馬県の県の木になっている。
 農業そのものに従事したかった彼は、一度は名主をやめるが、明治元年、三十七歳の時に、前橋藩主から大総代を引き受けるように命が出る。伝次平は坊主頭になり、断ろうとするが、名字帯刀と禄の支給はもちろん鬘を被ることも許されその任に着く。根っから農作業が好きだったのである。
 伝次平の父親の彼に家訓のように残した言葉は

「余分な蓄財のために商売はするな。結果がはっきりしないような事業に手を出すな。自分の耕作能力以上に土地を所有するな。人を使用するなら二人くらいにして、家畜は馬一匹でよい。冬の農作業のない時は、学び、農繁期は書物に目を通してはいけない。家業に専念しろ」
であった。彼はそれを良く守った。
 やがて、船津伝次平の存在は、政府の高官の知るところとなり、大久保利通の強い要請により、駒場農学校の指導者になる。明治の殖産に、彼の実践技術生かしたかったのである。一方、イギリスやドイツから農業指導者を高額な給料を出して招いたが、当時イギリスなど農業機械を導入した大規模経営の農業は、現実的ではなかっ
た。船津伝次平が、就任後間もなく大久保利通は、不平士族によって暗殺される。その後、農政に関わった井上馨は鹿鳴館で知られるような、極端な洋化主義者であったので、駒場農学校を辞職する。父親の教えと彼の農業観である。筋を通したのである。
 今日、高齢化した農業の後継者が問題になっている。長男が後を継ぐという状況にはない。技術の継承がない。サラリーマンをやめて家業を継ぐなどというほどに農業は生易しくはない。農家の生まれである、自分自身がそのことを良く自覚している。
食糧自給、農産物の海外との自由商品化など、難問がやまずみである。戦後になっても、農業従事者は多かった。今日では、日本は工業立国で、外貨の獲得は、工業製品に頼っていることは自明である。しかし、食の問題は命に直結している。農の勤労精神から、勤勉さも生まれ、多くの優秀な人材が地方から輩出した。今では、農家の体裁もない我が家から、教員、軍人などが育っていったが、彼らが農業を親とともに過ごした少年期の話を聞かされる。船津伝次平のような勤労と勤勉を体現し、日本の農業に貢献した人物は稀だが、彼の次の精神は、農業に従事するものには引き継がれるようにしたい。
それは、『中庸』の中に出てくる「率性之曰謂道」という言葉である。天に命ずる、之を性と謂うに続く「性に率う、之を道と謂う」の解釈だが、伝次平は、率を「したがう」と読まず、「ひきいる」と読むのが正しいと考えた。つまり、農作物には手をかけてやらなければならない。そのかわり、人間のためになるようにする。自然農法といっても放置して良いというものではない。人も最後は土に還る。船津翁の人生は、これからの自分の生き方の指針になっている。


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