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2012年06月22日

群馬地域文化の先覚者「井上房一郎」

群馬地域文化の先覚者「井上房一郎」

 井上房一郎(一八九八〜一九九三)は、企業人でもあったが、文化、芸術に深い理解を持ち、郷土高崎を拠点にして、地域文化の旗手として功労のあった人物である。
高崎市城址に建つ群馬音楽センター、群馬の森に中にある群馬県立近代美術館は形に残る、彼の遺産のようなものであるが、晩年まで情熱を注いだ文化事業があった。
「高崎哲学堂」設立事業である。アメリカの著名な建築家、レーモンドの設計した建物は、モデルとしては残されたが建築として竣工を見なかった。しかし、彼が設計し、事務所として使用していた建物を、ほぼ設計どおりに建てなおした井上邸が、今日、紆余曲折を経ながら、高崎市が管理し、「高崎哲学堂」となっている。

 この建物は、高崎駅西口に近く、高崎市美術館と隣接し、高崎市が井上邸を管理するようになってからは、敷地が一体となって来館者が見学できるようになっている。
市の中心部にこんな緑豊かで静寂な空間があるのかと目を疑うほどの庭園が美しい。建物は、古い木造建築で、どちらかというと地味な外観をしている。しかし、屋内に入ると和風ではあるがモダンで、気持ちよく暮らせる工夫がなされていることがわかる。井上房一郎の生前の暮らしぶりを垣間見るような感じがあって、井上がこの建物を愛し、多くの政財界人や文化人を招き、事業構想、理想や文化論など語り合ったのであろうという思いが湧いてくる。

 お盆に入って自宅のポストを開けるとメール便で書籍が届いている。差し出し人は、熊倉浩靖君とある。開封してみると『井上房一郎・人と功績』熊倉浩靖著 みやま文庫が目に入る。井上房一郎の評伝である。早速、まえがき、目次、あとがきに目を通し、携帯でお礼と慰労の電話をする。いつかは、井上房一郎の評伝を書く人物が現れるだろうと思っていたが、熊倉君が先駆けになることは、必然だと思った。彼は、高校時代から井上房一郎にその才能を見出され、長く房一郎のもとで、高崎哲学堂の設立運動に関わった人である。熊倉君の一方の師である、京都大学の名誉教授の上田正昭からも「井上先生の評伝をまとめることは君の責務」だと何度となく言われたと「あとがき」に書かれている。表紙には、和服姿でコーヒーカップを持ちにこやかにしている井上翁の写真があり、表紙を開くと、井上邸の写真もあり、群馬県立近代美術館に寄贈された美術品もカラーで紹介されている。
「後に続く者(井上房一郎の生涯とその功績を研究し世に伝える者)の礎になる」というのが彼への電話の中身である。 読書感想文ではないが、本の内容を紹介したい。書き出しは、父井上保三郎の記述から始まっている。井上保三郎は、高崎に明治維新の頃に生まれた人で、夏目漱石と生年がほぼ同じである。今日、会社組織としては残っていないが、井上工業株式会社の創立者である。彼は、建設業で成功を収めたが、多くの商工業の会社設立に関与し、商工業都市高崎の発展に寄与した。その数、三〇社以上である。渋沢栄一を想起させる。彼の精神は、「只是一誠」だという。次のエピソードなどは、井上保三郎の人なりをよく顕している。
 明治四四年に、山形煙草専売局新設工事を請負った。請負代金は、現在の金額で三十億円である。煉瓦造りの設計になっていて、経費削減のため、現地で煉瓦を製造することにした。その結果、煉瓦を焼く煙が原因で、桑が枯れるという公害問題が発生した。農民は、竹槍を持ち、立ち退きを迫った。保三郎は、単独で農民の代表に会い、被害にあった桑の弁償と、自分の購入した土地に桜桃を植えて村に寄付すると告げた。その誠意に村人は、感動し理解者になったという話である。保三郎には、観音信仰があり、後年、私財を投じて白衣観音を建立した。
 この白衣観音の原型モデルを製作したのは、伊勢崎市出身の彫刻家森村寅三という人で、このモデルを森村のアトリエから自転車の荷台に積んで運んだのが、若き日の田中角栄である。彼が自伝の中に書いているらしい。田中角栄が、戦前、井上工業に籍を置いていたことは、『異形の将軍―田中角栄の生涯』津本陽の中にも書かれている。
 さて、井上房一郎であるが、明治三一年に高崎市に生まれている。この本で知ったのだが、彼の母親は、房一郎が三歳の時に亡くなっている。房一郎という人は、父親の財の恩恵は受けたが、母親の愛の記憶は、薄かったかもしれないということである。彼が、芸術に憧れたことの、深層心理に母親の早い死が関係したかもしれない。
 二五歳の時、フランスに渡る。大正一二年の二月のことである。それから昭和四年に帰国するまでヨーロッパで過ごす。七年間も海外に滞在できたのは、父親の理解と、財力による。うらやましい限りである。しかし、この経験を帰国後無駄にしなかった。この間、西洋文化に触れるが、房一郎の、芸術観に影響を与えたのが、デカ
ルトとセザンヌだったというのは、この本で初めて知った。ピカソにも惹かれている。自我と理性の尊重は、東洋思想から離れるが、老年期の井上房一郎の好々爺のような姿に触れている印象からすると意外であった。
 戦前の房一郎を語る場合、必ず触れなければならない人物がブルーノ・タウトである。ドイツから、亡命するような形で日本を訪れたタウトは、本来の建築ではなく、工芸の分野で房一郎と業績を残す。タウトを積極的に迎え入れたのは、房一郎だと思っていたが、頼まれたという話も意外であった。沼田出身の建築家、久米権九郎から依頼されたのだという。しかも、県の嘱託という形をとるという条件だったというのである。数年前、高崎哲学堂で、当時タウトや房一郎と一緒に仕事した水原徳言の講演を聞き、タウトは自信家でプライドが高かったという証言と一致する。
 戦後の房一郎の活躍は、高崎市民オーケストラを今日の群馬交響楽団へと育てたこと。その活動拠点となる群馬音楽センターの建設である。映画「ここに泉あり」でも全国に知られるようになった、房一郎や団員達の苦労は想像に絶するものがあった。
直接楽団の運営に携わった丸山勝廣は自著『泉は枯れぬ』で当時を回想している。今もご健在でピアノリサイタルを開催している風岡裕子さんは、ご縁があり、手紙のやりとりなどをさせていただいているが、当時の苦労話を聞かさせていただいている。
映画の中で、風岡さんの役を演じたのが岸恵子であるが、映画公開前のことであるから、六〇年以上前の話である。
 房一郎の偉いところは、こうした活動に市民を招き入れ協賛を得るとともに、自身も多額の費用を投じたことである。房一郎の言葉によれば「自分を犠牲にして、より多くの市民の対等の参加を呼びかける」
という手法である。群馬県立近代美術館にも、自分のコレクションを惜しげもなく寄贈している。こうした精神がないと、理想は高くも多くの浄財は集まらない。
 最後の文化事業「高崎哲学堂」設立は、建物としては繰り返すが実現していない。房一郎の志に共感し、哲学堂の理事長を引き継いだ原一雄は、表現は正しくはないが、哲学堂をときには、葬儀会場につかってみたらどうだろうと提案された時、反対したが、今から考えると企業人としての房一郎のアイデアだったと見直したという。民間の事業が継続されためには、収入の道も確保しなければならないことを、房一郎は体験の中で知っていたのである。しかし、原一雄に
「全ては途中で終わることを覚悟しなければ、どんな運動もできない。真摯な想いを貫くなら必ず人々の賛同を得て運動は続けられていく」
と語ったという。原一雄は歌人であり、高崎市における実業家でもあった。即興的なしまりのない感想文になったが、熊倉君に評伝を纏めた苦労に感謝を表したつもりで
ある。


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