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2012年06月24日

金子みすず講演会

6月23日(土)、高崎市群馬町の市民活動センターで、「金子みすず」の講演会がありました。講師は、童謡詩人の矢崎節夫氏で、彼の講演を聴くのは今回が2回目です。東日本大震災の後、「こだまでしょうか」の詩が有名になりましたが、金子みすずという人は、あなたという立場に立って考えられる人だというのです。人の優しさというものは、そうした感性から生まれてくるものだと言いました。同感ですが、なかなかそのようにできないのが私たちです。被災者という言葉は、3人称としての言葉の響きがあります。「代受苦者」という仏教の言葉があるとのこと。良い言葉を教えていただきました。以前、金子みすずについてエッセイに書いたことがあるので掲載しました

 薄幸の女流作家、その心性の清さ(1)

 平成十七年一月十六日、東京は強風と氷雨の降る悪天候になっていた。銀座松屋で詩人金子みすず展が開かれていた。ある人から招待券をいただいていたこともあり、最終日の前日の日曜日、天気予報を無視しての東京行きとなった。
 金子みすずは、童謡詩人として今日多くの人々に知られるようになったが、死後長くほとんど無名に近かった。彼女を世に出したのは、矢崎節夫という詩人である。彼が大学の一年生の時に、『日本童謡集』(岩波書店)で金子みすずの詩「大漁」に出会った。その感動と衝撃は矢崎の心から消えず、みすず探しが始まる。「大漁」の詩が掲載されたのは、西条八十の評価が高かったからである。
 
大漁

 朝焼小焼だ

 大漁だ。

 大羽鰮の

 大漁だ。



 浜はまつりの

ようだけど

海のなかでは

何万の

鰮のとむらい、

するだろう。



七五調の響きが心地よい。それに加えて、命へのいたわり、それは人や動物にとどまらない。草花や自然界の無生物まで及んでいる。矢崎は、みすずが残した五百十二篇の手書きの詩が綴られた手帳を、みすずの死後五十数年になって、実弟から渡され、世に発表したのである。会場に展示されていたが、一九二五年、一九二六年(大正十四年、大正十五年・昭和元年)の数字が手帳に読み取れる。

金子みすずは、昭和四年に二十六歳で死んだ。自殺だった。離婚が引き金になったというが、ふさえという幼児を残しての死であった。他者を普通の人間以上に思いやれる心性の持ち主であったが、自己愛が希薄であったのだろうか。今日、いとも簡単に、しかも弱い者でも殺してしまう人間と比べてみると、なんとも対照的ではある
が、才能豊かな詩人の死は惜しい。

みすずの手帳は、もう一組清書したものが西条八十に渡されていたが、遺稿として出版されなかったのは不思議である。また、弟の上山雅輔は、作詞家、放送作家、脚本家、演出家として幅広く活躍した人物である。彼は、幼いときに親戚に養子に出され、みすずを実の姉と知らず、恋心を抱いたこともあったらしい。それはともかく、肉親としてみすずの詩の輝きがあまりにも近すぎて見えなかったのだろうか。

銀座松屋の八階の展示室には人があふれて、自筆の詩がゆっくりと見られなかったが、帰りがけに、展示の内容をまとめた本に目を通したとき、次の詩などはみすずらしいと思った。人も四季を何回か重ね、この世に生を受けた役割を終えて、また自然に戻っていくと考えるとなるほどと思う。ただ、風雪に耐えて、たくましく生きていく庭の寒梅も好きだ。新島襄の漢詩と比べてみたくなった。

 木

お花が散って実が熟れて

その実が落ちて葉が落ちて

それから目が出て花が咲く

そうして何べんまわったら、この木は御用がすむかしら。



みすずの詩である。新島襄の寒梅の詩は、

 寒梅

庭上の一寒梅

笑って風雪を侵して開く

争わず又力(つと)めず

自ら百花の魁を占(し)む

 


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