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2012年07月12日

石川啄木が好きだった花(2012年7月)

 蕗ばかり 席にもたれて北の旅
よほど昔、北海道をバスで移動した時、これでもかというばかりに蕗が道脇に生い茂っていました。今回、函館から、岩手の盛岡まで列車とバスで移動し、目に付いたのが馬鈴薯畑で、薄紫の花が咲いていたのが記憶に残っています。今年は、啄木が明治45年に亡くなってから100年になります。啄木の好きな花のひとつに馬鈴薯の花があることを知りました。男爵という種類のジャガイモです。啄木紀行のタイトルにしました。
石川啄木が好きだった花(2012年7月)

馬鈴薯の花
 今年は、歌人石川啄木没百年の年にあたる。全国各地の啄木ゆかりの地で企画展が開催されている。啄木の出生地は、岩手県盛岡市の郊外にある。当時の地名は、渋民村であるが、現在は、盛岡市に編入されている。JR東日本の経営から移ったが、第三セクターにより鉄道が残され、渋民という名前の駅が残っている。
 先年亡くなられた、かなりの年上だが、永年親しくさせていただいた方の奥様から、『石川啄木』笠間書院という御子息の著書が送られてきた。啄木の心の変容を、代表的な歌から解説し、短歌には疎い自分でも良く理解できる内容になっている。表紙に書かれてあった歌が
不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸われし
十五の心
であった。確か、二十五年以上前のことだが、この歌を盛岡城址で見た思い出が残っている。句帳に
  秋霖を 梢に凌ぎ 啄木碑
という句が残っている。季節は、初秋だったのだろう。出張研修のついでに立ち寄ったのかもしれない。
 歌にある「不来方(こずかた)」は、盛岡の別名である。「来し方」という言葉に似ていたためか、この歌を誤って理解していたかもしれない。しかし、「空に吸われし」という啄木の感性はこの歌の核心であろう。碑文の文字は、金田一京助である。啄木の第一の理解者であり、支援者と言える。
 著者は、河野有時と言い、東北大学で文学を専攻された方で、「コレクション日本歌人選」の中で六十人の一人として石川啄木を執筆されている。この本に刺激され、啄木の足跡を訪ねてみようという気になったのである。是非私も同行したいという友人がいて、一か月以上前から綿密に旅程を考えてくれた。啄木については、共通の旅のテーマになっているが、彼には別の目的もあり、それには、こちらも違和感はなく、昔からの悲願のような目的地ということを知っていたので、企画をお願いした。
 啄木は、常光寺という寺の住職であった石川一禎、母カツの長男として明治十九年二月二十日に生まれた。名は一(はじめ)である。両親にも歌の素養があったようである。そうした家庭に生まれたこともあり、幼いころから作文が優れ、冬にはカルタ(百人一首)に夢中になったという。村では神童と呼ばれ、尋常小学校では、全ての科目が「善」であった。「オール五」という評価が、今日、あるかは知らないが、頭脳優秀であったことは事実である。行状という態度、振る舞いの評価も「善」であることから、優等生であった。
名門、盛岡中学の入学時の順位は百二十八名中十番であった。このままの成績が続けば、旧制高校、帝大コースと進むことになったであろうが、文学に傾倒し、学業を疎かにし、授業の欠席、家の経済事情も加わり、中学は中退となった。ただ、文学仲間には野村長一(胡堂)、金田一京助がおり、その後の短い人生であったが、良き人脈となった。早熟と言えば早熟だが、雑誌『明星』に学生の頃から投稿し、退学と同時に十六歳という若さで、文学者になるという野心を抱きながら上京する。『明星』を主宰していた与謝野鉄幹を頼ったのであるが、あえなく失敗したが、与謝野家の人脈は残った。再起を期して、故郷に帰り、尋常小学校の代用教員として子供たちと過ごすことになるのである。
『雲は天才である』などの小説も執筆している。

十九歳という若さで結婚している。この若さでの結婚は、当時としては珍しいことではないが、結婚式には出席していない。その奇怪な行動に、友人たちは妻となるべき女性に結婚を考え直すように説得したが、彼女は啄木への愛を貫き彼の帰るのを待った。堀合節子という人で、盛岡女学校に学んだ才女である。盛岡市内に「啄木新婚の家」として残されている。
啄木の性格なのか、一つの職場に長く留まることがない。寺の住職の再任が不可能となり、父親が家出し、啄木も代用教員を免職となり、母親と妻子を置いて、函館に単身職を求めて津軽海峡を渡ることになる。明治四十年五月、啄木二十一歳の時である。代用教員から新聞社に勤め、母と妻子を呼び寄せることができた。啄木は、函館の街が好きだったらしい。四か月に過ぎない函館の生活に、深くかかわった人物がいる。宮崎郁雨は、妻節子の妹の夫であった。彼も歌人で、啄木の詩才に惹かれ、金田一京助同様、経済的な面で支援した人だということが、この旅で啄木の足跡を訪ねた唯一の場所である函館の文学館の展示で良く理解できた。啄木の晩年に、啄木の誤解だと思うが、絶縁状を出されたのにも関わらず、啄木の墓地を函館の海の見える場所に作ったのは彼である。啄木は、後世に名を残したかもしれないが、人格的な面ではこの人の方が上かも知れない。
函館を去り、小樽に移り、野口雨情とともにわずかな期間働くが、釧路に移り、東京で職を求めることになる。職を転々とすることは、別に悪いことではない。妻子があり、当時とすれば親の扶養を義務付けられていたような時代に、経済的に不安定な家庭生活の道を選んだのは、啄木の文人としてのエゴともいえないが、運命といった方が適切かもしれない。
今回の、啄木紀行の取材旅行は、函館から始まった。ゆかりの場所は、函館には何か所もあるが、末広町にある函館文学館だけにした。古い銀行の建物を改装し展示している。二階に啄木のコーナーがあるが、没一〇〇年にあたるので特別企画としての力の入れようが分かる。しかし、見学者は少ない。文学館の職員が慣れない英語で若い男女の見学者に説明していたが、二人はバンコクから来たとのこと。宮沢賢治ほどではないと思うが、啄木も国際的な存在になっているのだろうか。一階には、函館ゆかりの文人が紹介されている。亀井勝一郎、今東光、今日出海、井上光晴などのコーナーがあった。
多くの啄木自筆の資料が展示されていたが、とりわけ目に着いたのは、手紙である。森鴎外への手紙と、葉書があった。鴎外は、啄木の歌を高く評価していたらしい。漱石への手紙は目に留らなかったが、親交があった。入院中の漱石の見舞いをしたことがあるらしい。明治の二人の文豪に、二〇歳そこそこの無名に近い文学青年が出会うことができたのは、与謝野鉄幹の存在が大きい。鉄幹に誘われ、森鴎外邸での歌会に出席し、一位になったことがあった。若山牧水、北原白秋といった歌人との交流もあった。特に、若山牧水は、啄木の臨終にも立ち会い、随筆に啄木のことを多く書いている。啄木は、彼の残した、日記や評論などを見ると社交的(?)で、著名人に会うことに積極的で、何より自信家で野心家のように感じられる。
「近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ。学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持っている。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある。『破戒』は確かに群を抜いている。しかし天才ではない。革命の健児ではない。・・・・・」
啄木の日記からの引用だが、小説の大家のような評である。正岡子規のようでもある。啄木は、皮肉にも小説家としては、世に認められなかった。
 翌朝早く、函館駅から青森行きの特急に乗る。津軽海峡を初めて列車で渡ることになった。青函連絡船で津軽海峡を渡った経験はある。列車だとまことに早く津軽半島に渡ることができる。途中蟹田という駅で降りて、フェリーで対岸の下北半島に渡る。下北行きは、友人の希望である。むつ市の大湊に「北洋館」という海上自衛隊の資料館があり、バスで行くことになったが、本数がなく二時間フェリーの着岸した脇野沢で時間をつぶすことになった。食堂に入ると客は我々二人だけである。「北洋館」に着いたのは、二時近くで、四〇分程資料館を見学し、タクシーを呼んで恐山に行く。友人は別行動で、下北駅で落ち合うことにした。恐山のことは、啄木のことと関係がないので書かないが、イタコさんがいたら、啄木の霊を呼び出してもらおうかと思ったが、その日は不在で、酔狂な思いつきは実現しなかった。もう亡くなって一〇〇年も経っていれば、イタコさんと雖も呼び出すことはできなかったに違いない。
 その日は、八戸で泊まり、青い森鉄道といわて銀河鉄道を利用して渋民駅を目指す。函館から蟹田までもそうであったが、沿線の風景を眺めていたらジャガイモの花が咲いている。啄木の歌にもジャガイモを歌ったものがある。
 馬鈴薯のうす紫の花に降る雨を思へり都の雨に
 馬鈴薯の花の咲く頃となりにけり君もこの花を好きたまうらむ
八戸駅から渋民駅までは二時間を要した。
 啄木記念館は、生家となっている常光寺の近くにある。代用教員として教鞭をとった渋民尋常小学校の二階建の校舎も移築されてあった。
 ふるさとの
 山に向かいて言うことなし
 ふるさとの山はありがたきかな
歌を三行にして書くのは啄木の流儀である。このふるさとの山は、里近くの山も当然に啄木の脳裏に刻まれているのだろうが、ひときわ高い岩手山が西方に雄然としてある。しかし、東方には姫神山があることを知った。名前の通り、岩手山とは対照的に女性的な山である。
 啄木の生涯には、暮らしの貧しさが常にのし掛かっていたが、死の直前まで、朝日新聞の職員として月に三十円の給料はあった。金田一先生の給料よりも高かった。しかし、彼には扶養する家族が多かった。「働けど働けど我が暮らし楽にならざり」の原因は、家族構成にもあったが、結核という病気が啄木家を苦しい生活に追い込んだ。母も、啄木も、妻も、子も結核で死んだ。啄木は、臨終の間際に、薬を買えない家計の事情を若山牧水に嘆いている。 


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Posted by okina-ogi at 16:30│Comments(0)旅行記
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