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2012年07月14日

震災後の水戸(2011年5月)

震災後の水戸
 平成二三年三月一一日午後二時四六分、巨大地震の発生により東北、関東地方の沿岸部を津波が襲い、未曾有の災害をもたらした。東日本大震災として歴史に刻まれることになった。戦災ではなく、自然災害だから復興には時間がかかっても、必ず国民が結束して立ち直ろうと、心を合わせることができるに違いない。
 しかし、この震災により、原子力の平和利用で国策となっている原子力発電所が津波をかぶり、一時コントロールを失い、放射能を飛散させ、地域住民の強制避難を余儀なくさせ、広範囲にわたって農産物にも被害を与え、出荷ができなくなった。海洋の汚染も危惧され、漁業にも影響が出た。この文章を書いている、五月に入っても原発問題は収束しておらず、長期化の様相を呈している。
 国民に自粛ムードが広がり、経済も衰退気味である。早く震災のショックから抜け出して平常の状況以上に、元気印にならなければならない。この自粛ムードの煽りで、倒産した企業も出てきている。旅好きの習性を持った人間として、被災地に近い場所に、五月の連休を利用して、青葉を愛でながら出掛けることにした。行き先は水戸である。
 震災直後に、北関東自動車道が開通し、高崎から水戸まで高速道路で行けることになった。しかも、日曜、祭日は、片道一〇〇〇円である。一人だけで車で行くのではもったいない感じがしたので友人を誘う。友人は、幕末の歴史に興味を持っている。
水戸と言えば、徳川御三家には珍しく尊王攘夷の藩である。その伝統を創ったのは、黄門様で知られる第二代藩主水戸光圀である。大日本史の編纂は、尊王思想を水戸藩士に根付かせた。一八四一年に第九代藩主であった徳川斉昭は、弘道館を設立した。徳川斉昭は、烈公とも呼ばれ、尊王思想が強かった。時の大老、井伊直弼が開国を主張したのとは反対に、攘夷を主張した。政争に敗れ、安政の大獄では永蟄居となり、そのまま政治生命を断たれ死去する。しかし、政敵であった井伊直弼は、水戸藩士らにより桜田門外の変で暗殺された。徳川幕府最後の将軍、徳川慶喜は斉昭の実子である。
訪ねた日、五月三日は、祭日ながら弘道館は閉館になっていた。地震により、建物が損傷したために入館できなくなっている。周囲は、塀に囲まれているが、瓦が落ち、ビニールシートがかけられている。周囲を散策し、内部は案内書で想像するだけになった。当時の藩校の学問の中心は、儒教であり弘道館も孔子廟が置かれている。ただ、鹿島神社が置かれているのが、特徴といってよい。
 昼の時間が近くなっている。友人を誘った手前、幕末の歴史に触れられるもう一つの場所に案内することにした。偕楽園近くを車で移動中、納豆の会社の車が目に入った。良く見ると、笹沼五郎商店と書いてある。納豆の老舗で「天狗納豆」が有名である。お土産にしたいと思ったので追跡することにした。そのまま、会社まで案内してくれると思ったからである。予想は的中した。買い物をして、店の人に目的地を尋ねると
「回天館ですか。知りませんねえ」
店の商品〝天狗納豆〟と関係があるかもしれない、水戸天狗党の資料館だと説明すると
「その建物なら、保和苑の近くにあります」
町名を教えてもらったので、カーナビに設定するとそれほど遠くはない。食事する場所もあるらしい。
 目的地に着いてみると、驚いたことに墓地である。さらに驚いたのは石塔が倒れ、無残な状況になっている。回天館は、弘道館同様閉館になっている。明治三年に建てられたという三七四基の天狗党烈士の墓石は倒れたままで、中には真っ二つに割れてしまっているものもあった。一基だけ倒れていない墓石があり、名前を見ると海野平彦と刻まれている。
 天狗党の乱は、歴史の片隅に追いやられてしまった感がある。自身、その詳細は知らない。攘夷の決行を求めるために、筑波山に結集した水戸藩士が、上州や信州で戦闘をしながら、福井で降伏し、多くが処刑されたという事件で、幕末の悲劇だったという程度の知識でしかない。その顛末を書いた書物も読んでいない。島崎藤村の『夜明け前』に記述があるらしいが、記憶の断片としても残っていない。せっかく水戸を訪ねるからには、資料館で知識を得るのも良いと考えたのである。資料館が閉館になっていたのでそれも叶わなかった。
 資料館になっている建物は、天狗党に参加した水戸藩士が収容された鰊倉を敦賀から移築したものらしい。ここで、藩士は残酷非道な処遇を受けた後斬首された。その数、三七四人にのぼる。指導者になったのは、武田耕雲斎や藤田小四郎で、学識もあり、有能な人物だったとされる。藤田小四郎は幕末の志士から尊敬を集め、徳川斉昭の片腕ともなった藤田東湖の息子であり、武田耕雲斎は藤田東湖の朋友ともいうべき存在であった。この天狗党の行動を鎮圧しようとしたのが一橋慶喜、後の徳川慶喜だったことが、この事件を悲劇的なものにしている。慶喜にとっては、過激な行動と映ったのであろう。しかし、断罪を下したのは、田沼意尊(おきたか)という若年寄で、かの田沼意次の子孫である。水戸藩は、尊王攘夷派と諸生党というべき保守派に分かれ、尊王攘夷派でも過激派だった天狗党は、この事件により徹底的に粛清された。武田耕雲斎の水戸に残された妻や子、そして孫まで切り殺されている。こうした血なまぐさい行為は復讐を生む。諸生党は、幕府存続のため戊辰戦争で、薩長連合軍と戦うが敗れ、尊王派であった人々に報復される。そのため多くの有為な人材が失われ、水戸藩からは明治政府の高官になった人が出なかったと言われている。大日本史の編纂、そこから生まれた水戸学、教育の場であった弘道館の存在はどのように評価されて良いのか戸惑ってしまう。
 崩れた墓地を奥まで進むと藤田東湖の墓の前にたどり着いた。墓石は倒れてはいないが、周囲が相当痛んでいる。藤田東湖は安政の大地震により江戸で圧死している。母親を助けるために落ちてきた梁の下敷きになったとされている。平成の大地震で、安らかに眠れるはずの墓に災いがもたらされるとは、なんという因果かと思ってしまう。
 帰路、津波の被害のあった那珂湊の魚市場に立ち寄る。人出が多く、すっかり活気が戻っている。新鮮な鯖を下ろしてもらい、持ち帰って、その夜友人が家でしめ鯖にしてくれたが、二人は満足しても家族のものは箸をつけることがなかった。放射能のことを気にしたらしい。震災後の水戸日帰り旅行は、消化不良だったかもしれない。


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