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2012年07月17日

謀反人の子にして朝敵の子(2011年7月)

 謀反人の子にして朝敵の子
 東北地方に大津波が襲ってから四カ月が経った七月一五日、岩手県奥州市を訪ねる。平成の市町村合併の前は、水沢市であった。奥州市庁舎の近くには、城の名残がある。さらに遡る、幕末では、この地に仙台藩の支藩があった。城主は留守氏である。この東北の小藩に下級武士の子として生まれたのが、後藤新平である。
 後藤新平については、以前、日露戦争にあって救国の立役者と称しても良い、児玉源太郎に触れた紀行の中で紹介したことがあった。台湾統治にあって、児玉源太郎総督の下にあって、民政局長として手腕を発揮したのが、後藤新平であった。後藤新平は、後に東京市長になるが、大正一二年に起きた関東大震災の後、震災復興院の責任者となった人物でもあり、東日本大震災の復興を目指す現在、人々の関心が後藤新平向けられている。
 『小説後藤新平―行革と都市政策の先駆者―』著者 郷仙太郎という文庫本を友人からもらい、彼と一緒にこの地を訪ねた。新幹線を使い、日帰りということにした。在来線も乗り継ぐ細かい旅程は、友人任せである。高崎から大宮経由で東北新幹線を利用し、北上駅で下車、奥州市行きの在来線の普通上り列車で折り返す。北上駅より東京よりの水沢江刺駅や一ノ関駅で降りなかったのは、友人の知恵である。JR東日本管内、一日フリーパスを購入していたからである。東北日帰り旅行の中に、最近ユネスコの世界遺産に登録された、中尊寺観光も組み入れていたので、北上駅から南下するコースが好都合だったのである。
 奥州駅に着いたのは、十一時前で昼食時間には早い。駅から歩いて十分ほどの距離に水沢公園があり、その一画に高野長英記念館がある。高野長英は、江戸末期の蘭学者で、幕府から危険思想の人物と見なされ、投獄され、逃亡生活の末最後は悲業の死を遂げた。高野長英は、後藤新平の大叔父にあたる。高野長英の死は、後藤新平の生まれる前なので、直接薫陶を受けることはなかった。母親や、親戚の人達から聞かされる話が後藤新平の高野長英像を心に残した。「謀反人の子」の謀反人は高野長英のことである。近所の子供たちと喧嘩した理由が、大半は「謀反人の子」という蔑みの言葉が、火種になっていた。
 高野長英記念館には、重要文化財になっている高野長英像の掛け軸があった。係員が、教えてくれたのだが、肖像画は、後藤新平が所蔵していたものらしい。杉田玄白に学んだ高野玄斎の養子になったが長英の元の姓は、後藤であり武士であった。江戸に出て学問をしたが、物足りず、長崎まで行き、シーボルトの鳴滝塾でオランダ語を習得し、医学以外の西洋の学問を身につけていった。塾頭になったというから秀才だったに違いない。才能を鼻にかけるところがあって、仲間からは嫌われたらしい。モリソン号というアメリカ船籍の商船が、幕府から砲撃されるという事件が起きた時、『夢物語』を書いて鎖国政策や異国船打払令を批判した。そのため、渡辺崋山らとともに投獄されることになった。世に言う「蛮社の獄」である。その後、高野長英は、獄中生活を続けるが、獄舎の火災があって脱獄する。逃亡生活は長く、弟子たちにも匿われ、上州の山奥にも隠れ住んだこともあった。薬品で顔を焼き人相を変えることまでしたが、江戸に戻った時に捕捉され自害して果てた。記念館では、その逃走の経路を日本地図上に展示してあった。気骨もあり、開明的な人物だったのであろう。このあたりの気質は、後藤新平に受け継がれているような気がする。
 後藤新平記念館は、奥州市役所と道路を挟んで建っている。平日だったこともあるが、来館者は我々だけである。後藤新平の生家は、記念館から離れているが、しっかり保存されている。その生家の近くに斉藤実記念館がある。海軍大将となり、総理大臣も務め、昭和天皇の信任が厚く、内大臣になったが、二・二六事件で射殺された。後藤新平より一歳若く、喧嘩好きな新平に頭を小突かれたこともあったらしい。しかし、幼い時から漢書を読破するほどの秀才であった。今では、郷土の偉人の一人になっている。後藤新平と同時代の人物で、明治になって功を成り遂げた東北出身者では、南部藩の原敬、会津藩の柴五郎の名が浮かぶが、皆「朝敵」の汚名を被せられた。それを、反骨のエネルギーに変え、立身出世した点で共通している。
 後藤新平を人材として見出したのは、熊本の横井小楠の時習館に学んだ安場保和である。明治政府の高官として、東北に出仕し後藤に出会うことになる。後に、岩倉使節団に加わり、西洋文化に触れた人である。福島県令であった時、医学校を開設し、後藤に医師になることを薦め、援助した。後には、娘を嫁に与え後藤の岳父となる。肉親以外の生涯最大の恩人ともいうべき人物である。医師として、歴史の表舞台に出るのは、自由民権運動の先鋒であった板垣退助が暴漢に刺された事件にあって、治療に立ち会う結果となったことである。
「板垣死すとも自由は死せず」
歴史に名高いこの言葉は、後世の創作だったらしい。
 その後、内務省に勤務することになり、ドイツにも留学することができた。後藤の医学者としての知識も深まり、政治への関心も広がっていく。後藤の評価を一段と高めたのは、日清戦争の引き上げ兵士の検疫である。異国の地で戦った兵士が国内に入る前に検疫を行うことにより、伝染病が広がらないようにした。多額の予算と、時間がかかったが、見事に実行し、世界からも賞賛されることになる。このことは、後藤新平の提案があったとしても、彼だけではできることではない。児玉源太郎の後ろ盾があって可能になったのである。
 児玉源太郎は、後藤新平の人物と能力を高く評価し、台湾総督になった時、彼を民政局長に抜擢する。統治の実際は、彼に任せた。そして後藤は、新渡戸稲造や、夏目漱石の親友であり、大蔵官僚であった後の満州鉄道の総裁を後藤から引き継ぐ中村是公といった逸材を登用する。武力でなく、民政による統治である。土匪と呼ばれた土着の反乱集団もやがて沈静化され、不衛生な環境も改善されていく。彼は、日本人の流儀をおしつけなかった。台湾の風習は理解するようにした。その典型が、アヘン患者の撲滅の方法である。アヘンを前面的に禁止しなかった。既に喫煙者であった物には、登録して許したが、アヘンを高額にした。新たなアヘンの常用者は許さなかった。
 後藤新平は、その後満鉄総裁になり、逓信大臣、外務大臣までになり、近い将来の総理大臣も視野にはいるほどに政治家としての実力を持つようになるが、原敬のように総理大臣になることはなかった。政党政治の人でなかったからだという人がいるが、大衆からの人気はあった。請われて東京市長になった。東京市の予算が一億五千万円であった時に、八億円をかけて東京を大改造する計画を立てた。総理大臣であった、原敬は理解を示したが、東京駅で暗殺される。結果的には、国からも市からも承認されず実現されず後藤は「大風呂敷」という綽名を頂戴することになる。市長辞任後、関東大震災により東京は壊滅状態になり、後藤に復興院総裁の役職がまわってきたが、彼が描いた構想は、ほとんど実現しなかった。予算が足りなかったこともあるが、多くの人々に絵空事のように思われたからである。現代、新幹線の線路の幅は広軌である。大地の広い満州では実現したが、国内では実現できなかった。
 後藤新平という人物評は、多くの人によって語られている。本人も著作を残している。しかし、もっとも後藤新平を詳しく後世に伝えたのは、娘婿である鶴見祐輔である。しかし、後藤新平は、人間にとって大事なのは、金や仕事を残すのではなく
「人を残して死ぬ者が上」という遺言を残している。人材活用ができる人物であった。
 民族の素質
東西の文化の粋をつかみ
新たなるものを表現しうる民族
世界の最高標準を追い
列国の選手ときそいうる民族
卑下するをやめよ
なんじの真価を見直し
足らざるをおぎない
あやまれるを正し
民族の本来の素質を生かせ

 この詩は、大正、昭和に、教育家、社会運動家として活躍した後藤静香の『権威』の中の詩の一節である。後藤静香は、大分の人で、後藤新平とは無縁の人である。この詩にもあるように、後藤新平は、日本人の素質を認め、かつ平和の民であることを信念としていた。大震災の直後の今、民族の素質を考える機会とするのも良い。


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