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2012年07月19日

天橋立(2011年9月)

天橋立
 
日本三景の一つ、天橋立にはいつかは訪ねてみたいと思っていた。雪舟が描いた水墨画は見ているが、現地に行き、直にその全貌を眺めてみなければ、その自然の美観を味わうことはできない。天橋立は地形的には砂嘴で、三保の松原や野付半島が著名である。長い年月をかけた、自然の営みが築いた傑作とも言える。天橋立のある宮津湾は、比較的高い山に囲まれていて、その頂から眺めると違った景観の天橋立が見られる。
 雪舟の「天橋立図」は東側、宮津湾から内海の阿蘇海への視野に浮かぶ天橋立で、「雪舟観」と呼ばれている。天橋立の先端が切れていて、外海と内海が繋がっていることがわかる。今日では旋回する橋があって、相当大きな船が通行できるようになっている。北側の傘松公園から見る天橋立は、「斜め一文字」と言われ、多くの人々に親しまれている景観である。南側にある文殊山から見る天橋立は「飛龍観」といって、その形が龍に見えなくもない。『丹後国風土記』には、伊邪那岐尊が天に上るために掛けた梯子が寝ている間に倒れてできたという記述があるらしい。荒唐無稽な話にも思えるが、古代から奇跡的な景観に対し、恐れ多いものを人々が感じていた証である。
 天橋立駅に着いたのは、昼十二時を過ぎていた。西舞鶴から、北近畿タンゴ宮津線を利用した。ローカル線で海辺を走り、車窓からの風景は良い。途中由良駅を過ぎたが、安寿と厨子王のゆかりの地という標識が見えた。森鴎外の『山椒大夫』は、悲しい話である。
 安寿恋しや、ほうやれほ。
 厨子王恋しや、ほうやれほ。
 鳥も生あるものなれば、
 疾(と)う疾う逃げよ、遂(お)わずとも。
盲(めしい)の母親と厨子王の再会の場面、子の安否を思い続ける母親の言葉が、この作品の圧巻である。
 名物「あさり丼」をお預けにして、文殊山にリフトで登る。頂上からの眺めは見事である。「股のぞき」に挑戦したが、前に出た腹が邪魔して、窮屈で少し目眩がした。なるほど天に架かる橋のように見える。すっかり、観光スポットの一つになっている。帰路は、モノレールを利用した。「飛龍」が少しずつ近づいてくるような感じがする。旋回橋を渡り、松林の中にある店で「あさり丼」にありつけた。ビールを注文し、「黒ちくわ」を一品加える。焼きたてのちくわは格別である。「黒ちくわ」もこの地の名物である。
店の前には、自転車が置いてある。四十分三百円で貸し出してくれる。天橋立の根元まで行ってみたくなった。距離にして三キロくらいあるだろうか。往復には、自転車を使えば、四〇分は充分な時間である。この日は、風が強く、内海は波立っている。しかし宮津湾は静かである。松林があるためだろうか、左(内海)と右(宮津湾)の海面の様子が対照的である。途中、歌人や俳人の碑があるが、横目に見ながら通り過ぎる。あまりゆっくりもできない。与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑があった。天橋立の近くには、与謝野町がある。鉄幹の父親がこの地の出身で、夫妻で晩年近く、この地に逗留し、その時創った短歌だという説明書きがあった。
小雨はれ みどりあけのの虹ながる 与謝の細江の朝のさざ波   寛
人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく天の橋立       昌子
夫妻の次男は、外交官であり、その息子が国会議員で、財務大臣にもなった与謝野馨だということは良く知られている。妻昌子は、堺の商家の出身で、いずれは深入りしたい歌人と思っている。与謝野蕪村や松尾芭蕉の句碑には目をやらず、制限時間内にお店に自転車をお返しすることができた。
 以上が、天橋立紀行の全てであるが、この旅を企画してくれた友人がいる。彼も同行した。こんな旅程も考えられるのかという驚きのコースと経費には、脱帽かつ感謝であった。
 「新潟港から敦賀港への船中泊で行こう」
というのが往路の骨格になっている。我々の旅の起点となる高崎駅から、関越自動車道を高速バスが運行している。新潟からの敦賀へ行くフェリーは週一回、それも日曜日の夕方しか出ていない。船中泊というのは、旅費と宿泊費がセットになっているようなもので、きわめて経済的である。翌朝には敦賀に着く。港からバスで敦賀駅に行き、JRで東舞鶴駅まで行く。戦後、引き揚げ港になった舞鶴も一度訪ねてみたい場所であった。天橋立観光までのコースは、私の我儘を聞いてもらったようなものである。
 舞鶴では、父親がシベリア抑留で数年間の抑留生活の後、本土に帰ってきた港が舞鶴港だったこともあり、「引き揚げ記念館」があるというのでコースに加えてもらったのである。
駅からは、距離もあり、バスの運行本数も少なくタクシーを利用した。当時の桟橋を再現した平桟橋にも立ち寄り、引き揚げ者や父親のことも想像して見たが、強烈な感慨も湧いてこない。記念館で、引き揚げ者の著作や資料を買って読んでみたが、体験者にしかわからない世界だが、引き込まれる文章にはなっていない。やはり、作家という職業は、成り立つのであって、山崎豊子の『不毛地帯』は幅広く読まれた内容を備えているのであろう。この機会に読んでおこうと思った。群馬県議会議長を務めた中村紀雄氏は、文才があって『望郷の叫び』上毛新聞出版局 は良く取材して書かれている。
 故人となった父親が、思い出したくもないと言いつつ、酒に酔った時、息子に話したロシア語で記憶に残っているのは、「ハラショー・ラボータ」(良い労働者)という言葉である。ノルマというのもロシア語だと思うが、しっかり働く者が良い労働者で、早く帰国できると強制労働に駆り立てられたのだという。父親は、自分が「ハラショー・ラボータ」だったから日本に帰れたのだと息子に言い聞かせるように話した。酒量が進むとまたこの自慢話が始まるかと思ったものである。失敗談は、何度聞いても他人には、面白く感じるが、自慢話ほど辟易するものはない。また、「働かざる者食うべからず」は、レーニンの言葉だとも言った。父親を共産主義者だとは一度も思ったことはないが、赤化教育に洗脳されたこともあったのだろう。しかし、息子が
「シベリアに一緒に行ってみようか」
というと、必ず拒否された。自分が「ハラショー・ラボータ」と認められ、比較的温暖なカスピ海に近い場所で働けたので無事日本に帰れた。そのお陰で、お前が生まれた。
そして、ロシア娘に惚れて現地で暮らそうと考えなかったからだと余計なことまで言った。辛い思い出を装飾するような話だが、何割かは真実だと思って聞いたものである。
「これで、荻原君の戦後は終わったかな」
と友人は、引き揚げ記念館には入館せず、待たせていたタクシーで一言。もはや「岸壁の母」もいない。しかし、ソビエト、とりわけスターリンという時の為政者は、ひどいことをしたと思わざるを得ない。ソビエトが労働者階級の国とは思えない。敗戦国の人々とは言え、住環境も劣悪で、満足な食物も与えず、六十万人以上の人々を、戦後長い間強制労働させたことは、国際法上許されることではない。労働基準法で最も罰則が重いのが強制労働であることからしてもしかりである。
 友人は、舞鶴に鎮守府があったことに想いを寄せている。しかし、赤レンガの倉庫群は残っていても、日本海軍の資料館がないことを残念がっていた。現地に来てわかったのだが、自衛隊基地の中に「海軍記念館」があることを知った。予約制で、月曜日は見られないというので、今回の見学は不可能であった。


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