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2012年07月20日

関ヶ原へ(天橋立続編・2011年9月)

関ヶ原へ
時間は、前後したが、天橋立に戻る。観光を済ませ、高速バスで大阪に泊まる。船では充分に寝られないと思い、大阪の宿は、豪華さは求めないが安眠できそうなホテルを希望していたら、都会の真ん中で天然温泉に入れると聞いてびっくりした。しかも二人で八千円もしない。部屋も広い。シングルでも通常は、一万五千円以上する。キャンペーン中なのか、ホテルの事情に詳しい友人ならばの選択である。
 翌日のコースは、友人の希望の延長線上にあるが、こちらも興味のない場所ではない。長浜と関ヶ原に下りて戦国時代に想いを馳せてみるような設定になっている。長浜は、豊臣秀吉のゆかりの地であるが、時も時、NHKの大河ドラマに合わせ、浅井三姉妹の観光コースをバスが巡回している。淀君、初、江の父浅井長政の居城小谷城が長浜の近くにある。我々はというより友人が行きたいと思った場所は、国友鉄砲の里資料館である。国友鉄砲鍛冶のことは、司馬遼太郎の近江紀行に記述がある。種子島に伝わった鉄砲が、翌年には、この地で国産化され、信長を始めとした大名に大量に使用されるような経緯がある。資料館は、バスの運行に合わせ、一時間も見学できなかったが、古い街並みを歩くことができた。友人はもっと長く滞在したかったらしい。資料館の人は、本物の火縄銃を出して解説してくれた。
 火縄銃を作るにあたって最大の難問は、銃身の元の留め金に合った螺子の溝を刻むことであった。日本では当時、螺子の原理がわからなかった。見よう見まね、試行錯誤の上完成した時は、国友村の鍛冶に歓声が上がったとしても不思議ではない。戦国の世から、江戸の太平の時代にになって、火縄銃の需要は減少し、国友の鍛冶職人は激減した。その過程で、国友一貫斎のような偉人が出る。天体望遠鏡を作り、惑星の観測や太陽の黒点の動きを観察している。国友村が天保の大飢饉の時、その天体望遠鏡を売り、救済資金に充てたという美談が残っている。大変な発明家でもあったらしい。今も資料館の近くに屋敷が残っている。
 長浜市街地に戻り、鉄筋建築の長浜城の天守に昇り、琵琶湖と琵琶湖沿岸、小谷山、伊吹山を眺める。快晴の日、よく眺望はきいた。伊吹山の山なりは人工的な感じがする。それもそのはず、戦後、コンクリート会社が許可を得て山肌を削ったのである。愚かしいことである。展望台には、場所は確定できなくとも、賤ヶ岳古戦場、姉川古戦場の方向がわかるようになっている。天下分け目の合戦といえば関ヶ原である。関西方面には何度も足を運んでいるが、関ヶ原はいつも通過点である。
 関ヶ原には、家康の東軍と三成の西軍の合戦の地だけでなく、古代の関である不破の関があった場所としても知られている。芭蕉が訪ねている。野ざらし紀行に句があって
 義朝の心に似たり秋の風
 秋風や藪も畑も不破の関
関ヶ原の合戦を飛び越えた時代に芭蕉は想いを寄せているところが興味深い。不破の関は、壬申の乱、大和朝廷にゆかりがある。古代の三関の一つであったが、平安時代に廃止されていたので、芭蕉の時代のはるか昔の史跡である。政権争いの生々しい合戦よりも、不破の関のものわびしさに心が引かれたとしても不思議はない。
 関ヶ原の合戦の両陣営の場所を訪ねる時間はない。関ヶ原町の庁舎の近くに、歴史資料館があって、合戦の模様を解説している。八分間の解説付きでパノラマで見られる。団体客と一緒に一回。見知らぬご夫婦と一回。最後は自分でボタンを押して見た。
小冊子「関ヶ原合戦」を購入し、周囲を散策。石田三成の陣地のあった笹尾山には、旗が立っていてそれほど遠くない距離に見える。三時近くなので西日があたってよく見える。この時間には、勝敗が決していて、西軍は敗走している。西軍が敗れたのは、小早川秀秋の裏切りだとされている。その陣のあった松尾山も見ることができる。この戦に反対した西軍の武将に大谷吉継がいる。もはや、家康の力は強く、抗すべきではないと石田三成を説得したが受け入れないのを知って、友人だった三成の義に殉じたとされている。彼は、皮膚病、一説にはハンセン氏病を患い、顔を布で覆い、目も悪く、足腰も不自由で、部下に担がれた輿に乗って指揮したと伝えられている。大谷吉継が石田三成と親しくなったのは、ある茶会で、吉継が飲んだ茶碗が回し飲みされた時、吉継の病気がうつることを恐れ、飲むふりをする者の中で、三成だけが茶を飲み干したことに感激したからだという。敦賀五万石の城主になり、豊臣政権では三成と同様官僚としての技量を発揮したが、武将としての資質に非凡なものがあった。率いた兵は少なかったが、西軍で必死に戦ったのは、吉継が筆頭であろう。
吉継は秀秋の二心を疑っていたので、自軍を二手に分け松尾山の秀秋に備えていた。しかし、一万三千の兵には、二千の兵では、いかに奮戦すれども勝ち目はない。総崩れとなり、吉継は自刃し、西軍の敗北は明らかになった。島津義弘の隊は、家康の本陣を目指し、敵陣を突破するという離れ業をやってのける。追撃されたが、殿(しんがり)役が次々に追手と戦い島津義弘を逃げ帰らせたのである。明治維新で幕府を倒した薩摩藩ではこの過去の出来事は、深く藩士の心に刻まれることになった。
 西軍の総大将格であった、毛利秀元や長曽我部盛親は、戦闘に加わらず、勝敗が決するのを見届けて退却した。政権がどちらに移っても、家が存続する道を皆考えていたのである。日和見と言われても、政治家は権力の動向を無視できない。
友人は、歩き疲れたのか、駅周辺で時間を潰し、関ヶ原散策には同行しなかった。心臓に無理をかけられない持病がある。身障手帳一級を所持し、旅先の旅費は介助者として半額なった。新潟から敦賀、天橋立から大阪を経由し、高崎から名古屋駅までの交通費は約一万円である。こんな旅は、何度もできるものではない。名古屋で食事をして、お礼を述べて駅で別れ、新幹線で先に帰ることになった。


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