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2012年07月25日

農が本なる時代(2011年12月)

農が本なる時代
 久しぶりに伊豆を訪ねることになった。計画をしたのは友人で、彼は最近、江戸時代後期の歴史に関心を寄せている。とりわけ、鎖国政策を国是とした江戸幕府の海防に興味があるらしい。沼津に宿をとり、翌日高速船で戸田(へだ)港に行き、修善寺から韮山に行き、三島から帰るというのが旅程である。友人は、関西に用事があったらしく、沼津のホテルで夕方合流することになっていた。ホテルに着くまでは、こちらの自由時間である。鉄道を使った旅も、選択によっては、快適で費用も安くなることを教えてくれたのも彼である。高崎から小田原までは、在来線で途中乗り換えしなくても行けるようになっている。「新宿、湘南ライン」を利用すると所要時間も三時間もかからない。グリーン車を利用すれば、体も疲れない。
 小田原で途中下車する。小田急線に乗り換え、各駅停車で四つ目の駅が栢山(かやま)である。この駅からほど近い場所に、二宮尊徳(一七八七~一八五六)の生家と記念館がある。二宮尊徳は、通称を金次郎といった。薪を背負いながら本を読む金次郎の像は、全国の小学校にまだ数多く残っている。勤勉で、向学心のある金次郎少年は、戦前から模範的な人物として取り上げられた。皇民思想の色濃かった戦前の教育に利用されたとも言えなくもないが、二宮金次郎の像が、戦後も撤去されなかったのも不思議である。私の卒業した小学校にもこの像があったが、石造だった。位置を変えて今も、校庭の一角に残っている。当時は、職員室の前の、玄関横にあって生徒の目に良く触れる位置にあったが、今は校庭の隅にあって、すっかり影が薄くなっている。銅像だった金次郎像は、金属欠乏による戦時中の供出によって姿を消したケースが多いらしい。我が母校の金次郎像は、石造りであったがために残ったともいえる。戦後の民主主義教育に都合が悪いということから、進駐軍であったマッカサー司令部も撤去する指令は出されなかった。教師もあえて二宮金次郎の生涯を語った記憶もない。内村鑑三が、明治の二〇年代に英文で書いたという『代表的日本人』(岩波文庫)を読むまでは、長く意識の外にあったこの人物に関心を寄せることもなく、時が流れてしまった。
 二宮尊徳の思想の規範になっているのは儒教、神道、仏教であるが、彼が生い立ちから農業に従事した中で築いた思想は、独自なものがある。〝報徳思想〟というのだが言葉では説明しにくい。至誠、勤労、分度、推譲ということが大事だと言われてもわかりにくい。至誠とは、儒教で言う徳や仁の状況に心を置くこと。勤労とはその心を行動に表すこと。分度とは、その結果得られた物質的な物を応分に消費する活動。推譲とは分度の余剰を他者に譲ることだという。平たく言うと、真面目に働き、身分相応の生活をし、余剰があれば、そのお金は他人のために使われるようにする。譲るという表現はしているが贈与ということではないらしい。
 童門冬二が『小説二宮金次郎』を書いている。かなりの長編である。人物像は、作者の構想や想像力、感性の中で描かれているので距離を置くことにするが、内村鑑三が代表的な日本人五人の内の一人にあげる理由がわかるような気がする。偉人であり、徳のある人物には違いない。社会の豊かさ、他者の幸福を考え、自立した生き方をした人である。かなり頑固で、理屈っぽく、癇癪持ちのような性格に描かれているが、早く両親を亡くし、貧困から立ちあがった経緯を考えれば仕方がないかもしれない。
 彼の生まれた家は、二町以上の土地を所有する当時で言えば本百姓であり庄屋ではなかったが、決して貧しい農家ではなかった。二宮家は、小田原藩の領内にあった。家に近い場所に酒匂川が流れていて、金次郎が五歳の時に大洪水があった。その復興の中、両親を失い、土地も家も人手に渡り、伯父の家に預けられ兄弟も別れ離れの生活を余儀なくされたのである。
 昼は人一倍働き、夜は菜種油のわずかな灯りのもとで書物を読んだ。伯父に学問は農民には必要はないと夜の読書は禁じられたが、労働の合間に本を読んだことが、薪を背負ったまま本を読む二宮金次郎のイメージ生んだ。しかし、成人した時には、身長が一八〇センチを超し、体重も九〇キロを超えていたというから、大柄な少年だったのであろう。二〇歳になるまでには、二宮家を再興している。
 若くして家を再興したという経営手腕は評判になり、小田原藩の家老の家に奉公することになり、その働きぶりと能力が評価され、借金財政に苦しんでいた家老家の財政再建も依頼されることになった。二〇代そこそこでの事なので驚かされる。見事に成果を上げ、藩主の知るところとなった。小田原藩主は、大久保忠真で名君とされ、老中になっている。藩主から直接、荒廃した村の再興を依頼されるのだが、士農工商の身分制が確立した時代に、武士の役割を一農民が担うことには、藩士の抵抗があり、小田原藩では実現できなかった。
 下野の国、今日の栃木県の桜町領の村の再生が彼の仕事になった時、小田原藩士、つまり武士の身分を得たことになる。これは封建時代にあって異例なことである。さらに後年、老中水野忠邦によって幕吏になる。民間人が、地方公務員から国家公務員になるという表現では済まない特殊さがある。なぜ、そこまで二宮尊徳は、為政者から重用されたかは説明がいる。
 江戸時代は、貨幣経済の本になっていたのは、米であった。武士のサラリーは米が基準になっていた。いわゆる俸禄である。その米は、農民の年貢によって成り立っていたが、藩の石高も実際には多く見積もられ、藩士の俸禄も家柄相応の出費があり、商人に借金をする武士も多かった。二宮尊徳が最初に行ったことは、領内の米の生産力がどれくらいなのか過去にさかのぼりデーターをとり、現地の土地も調査し、可能な生産量も見積もることだった。それは、労働に従事する農民の勤労精神があることが前提であり、藩主には、生産量にあった石高で生活することを求めた。今日では、税収の中で政治をすることを求めたことになるが、国を先頭に地方自治体もこの原則を守っていない。今も昔も同じと言えばそれまでだが、なかなか財政再建というのは、意識改革や、制度改革があって簡単ではない。
 二宮尊徳の行った、農村再建の手法を「報徳仕法」と呼んでいる。農民教育から始まり、政治家に経費の抑制を求め、しかも農民出身の下級武士がリーダーとなってやることは、不動の心がなければできなかったであろう。実際、成田山新勝寺に籠って、不動明王の力を頼ろうとしたこともあった。しかし、彼の「報徳仕法」が世に認められ、江戸末期ではあったが、関東一円や東北まで拡がっていったのは、十数年に渡り地味に農民と共に「報徳仕法」を実践したからである。資産を全て処分し、現地に妻と一緒に赴任し、農民と苦楽を共にした。あくまで土に生きたのである。
 「五常講」というのがある。金融機関であって、信用組合のようなものと考えて良い。自分の資金を投じたことはもちろんだが、小田原藩のいわば公金だけに頼らなかった。経済と道徳を融合させた明治、大正、昭和の実業家渋沢栄一を想起させるが、二宮金次郎が先達である。彼の精神がいかほどに崇高あったとしても、村の再生はできなかったであろうし、その企画が素晴らしくても、その責任者の任を与えられることはなかったかもしれない。人物の背後にある力に財力というのも無視できない。しかし、彼が人生の目標にしたのは自己の金銭とか名誉ではなかったことは、その行為と思想を見ればわかる。さらに、体制批判や幕府の政策に対しては公言していない。農民の幸せだけは考えていた。年貢だけを納めるだけの機械に似た生き方を脱し、余剰から生まれる自己の自由な生活も持てるように願っていた。土に生きることが好きであったし、農民であることを天分と思っていたからであろう。
 私の家も江戸時代からの百姓である。墓地に行くと天明時代のご先祖の墓石がある。今では雀の涙ほどの土地しかないが、農作業をして小銭位の収入を得ることができる。植物に使われて、生活の糧を得られる農業は、生きるとは何かまで考えさせてくれる崇高な職業とまで思うことすらある。ヨーロッパに産業革命が起こらなければ、天地と共にゆるやかな質素な人生を人類が享受していたとも考えられるが、もはやそれは、観念的にも現実的にも不可能であろう。
二宮尊徳が目指した徳を掘り起こす勤労という行為は、天に逆らう行為だと言っている。全ての生物が天によって生かされていることはわかっていても、人間にとって必要な生物を意図的に生かすようにするのが労働だからである。生存のための業というのは罪深いものがある。宗教の存在する由縁でもある。
 すっかり小田原の寄り道に囚われてしまって、友人の旅の企画に報いることができなくなってしまった。しかし、沼津の若山牧水が晩年居住地とし、愛した千本松原の景観は素晴らしかったし、戸田港に向かう船から見た富士の美しさは忘れがたいものがあった。戸田地区にあるロシア船ディアナ号を紹介する記念館も新鮮な歴史の再認識となっただけでなく、韮山の反射炉に深く関与した代官江川太郎左衛門(一八〇一~一八五五)の存在も知った。彼も、二宮尊徳と対面したことがある。時代が重なっている。
 最後に、江川太郎左衛門については、少し触れてみたい。江川家は、家系を遡ると清和天皇までに至る名門であり、源氏ということになる。保元の乱に敗れ、伊豆に落ちのび、豪族となり、戦国の乱世も生き延び、徳川家康に認められ、世襲の代官職として徳川時代を過ごしてきた。その統括する地域も伊豆だけでなく、駿河、相模、甲州、武州まで広がっていた。江川太郎左衛門という名前は、代々の当主が名のり、特に頭角を現し、歴史に名を残したのが、三六代目の江川英龍である。日本画も書き、今日に伝わる自画像も残している。号を持ち坦庵(たんなん)と称した。蘭学から西洋文化にも目を向け、高野長英や渡辺崋山らとも交友を持った。高島秋帆に砲術を学び、幕府に海防のため台場を作り、大砲を設置して異国船の侵入を防ぐことを幕府に進言し、東京湾に今は緑地公園のようにして残っている。反射炉も大砲製造の目的に建てられている。戸田の安政の大地震で沈没したモリソン号の代替船の建造を指揮したのも彼である。最後は、勘定奉行の候補になるが、五〇代半ばで亡くなる。今も江川邸は残されているが、国の重要文化財になっている。乾パンを日本で最初に焼き、パン祖にもなっている。江川邸の近くには源頼朝の流刑の地、蛭ケ島がある。当時、川の中州にあったという。


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