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2012年07月27日

西郷南州(2012年3月)

西郷南州
 ふと鹿児島に行ってみたくなった。東日本大震災の直後に開通した九州新幹線にも乗ってみたい気持ちもあった。いつも九州旅行ではお世話になっている同級生の近況も気になっている。早いもので、ともに還暦である。高年期を与えられて、これからどう過ごすかは、重要な課題になっている。
 鹿児島を訪ねるのは、今回が三回目になる。最初は、大学四年生、母校の言い方からすれば四回生の昭和五〇年のことである。六〇から二二を引くと三八年前のことになる。当時の写真が残っていて、体型の変化には蝦蟇の心境になる。桜島の噴煙を背景にした写真には、先年亡くなった友人も映っている。彼の親戚が鹿児島にあって、一泊させてもらった記憶が残っている。その記憶も薄れているが
「こちらでは、女性は男性より先に風呂に入ることはない」
という彼のおじさんの言葉をはっきり憶えている。
 鹿児島には、知人がいる。こちらが一方的に知人と思っているだけで、迷惑に思っていらっしゃるかもしれない。紀行文集を友人、知人に勝手に送りつけている図々しさに誠実に応えてくださる御人柄に、一度はゆっくり会って話してみたいと思っていたのである。この方の近況は、時々インターネットで拝見している。年賀状をいただいたこともあり、連絡をとりご都合がつけば、今回お会いしたいと思っていた。しかし、鹿児島の住所に手紙を出しても届かず、住所は変わっているらしい。半分諦めかけていたが、年賀状には電話番号があり、失礼とは思いつつも電話することにした。嬉しいことに、憶えていてくださり、鹿児島行きのことを話すと会ってくださるという。目的も話すと、その日は時間が取れるので、案内もできると望外の返事が返ってきた
 「先生には、今生でもう一度お会いしてみたかったのです」
よほど緊張していたのか、たいそう大袈裟な言い方をしてしまった。
 電話で確認した住所に、旅の予定、待ち合わせ場所を手紙に書き、住所がわからず送れなかった『白萩』、『侘助』の二冊を同封すると、またしても丁重な手紙と、観光パンフレットが二回に分け送られてきた。それだけではない。自身のホームページ上に拙著を写真入りで、しかも目次まで紹介し、本の要点まで書き入れている。さらに、鹿児島中央駅から、待ち合わせの場所にした、「維新ふるさと館」までをご本人が歩き、写真と解説を載せている。なんとも言えない配慮である。
 二十五年ほど前に、ある研修会で講師をされた時お会いしたのが最初で最後になっていた。だから、こちらの顔もわからないと思い、昨年秋、唐招提寺で写した写真を再度手紙とともに送り、それに似た服装で旅に出ることにした。定刻に少し遅れたが、既にお待ちいただいており、ブログでお顔を拝見していたので、こちらから声かけし、再会ともいえない出会いが成就した。
 「維新ふるさと館」は、鹿児島中央駅からそれほど遠くない。町名が加治屋町である。この鹿児島城下の一地域から、多くの明治政府の要人を輩出した。その代表的人物が、西郷隆盛であり、大久保利通であるが、彼らは下級武士であった。今回は、一途に西郷さんを偲んでみたかったのである。西郷隆盛は、鹿児島の偉人で、今もその人気は失われてはいない。鹿児島の人は、今日でもそうだが、言葉よりも行いを重んじる傾向があるという。
 郷中(ごじゅう)教育という薩摩独得の制度があり、年長者が年少者の教育をした。目上に対しては、絶対服従を求められるが、年上の者は、年下の者の見本になるような行動が求められた。一番年長のもののリーダーは二才(にせ)頭と言い、西郷は二四歳まで務めたという。余程信望があったのであろう。彼の家は兄弟も多く、貧しかった。一七歳から一〇年間近く、郡奉行の下で年貢米の会計係のような仕事をしていた。その間農民の苦しい生活の実態を知った。明治政府になってからも、西郷は国の経済の基本は、農業であると考えていた。この時の体験が、あったからかもしれない。
 西郷が、その才覚を発揮するきっかけを作ったのは、島津斉彬である。幕末の英明で開明的な藩主として、幕府にも影響力を持つ人物であった。西洋の近代文化に理解を示し、実際、兵備を整え、殖産にも力を入れた。西郷が島津斉彬の目にとまったのは、西郷が提出した建白書である。その内容は、誠実さと熱情に溢れていた。殿さまは、この人物をそばに置き、政治に関わらせたいと考えた。身分は低いが、お庭方という職を与えたのである。時の名士と出会い、政治的視野と識見を深めていた。その代表的な人物が、水戸の藤田東湖であり、越前の橋本左内である。とりわけ、橋本左内を終生尊敬し、彼の手紙を最後まで所持していたという。
 島津斉彬は、幕政改革に熱心であり、篤姫を将軍家定に継がせ、発言力を高め、病身の将軍を補佐し、次期将軍に一橋慶喜を着かせようとした。これに、立ちはだかったのが、大老の井伊直弼であり、島津斉彬が急死すると、所謂「安政の大獄」によって、反対派、攘夷派を一掃しようとした。大きな後ろ盾を失い、西郷も追われる身となる。
 西郷さんのプロローグとしての記述はこれくらいにして、彼の波乱万丈の人生とその人柄に触れたい。
「死して美田を残さず」
「命もいらず名もいらず、地位も金もいらぬ」
「敬天愛人」
西郷の残した有名な言葉であるが、人生の中で見事実践して見せている。人徳というものは何とも不思議なものかと思うが、西郷には色濃くそれがある。他人を愛し、自己犠牲のできる人は私心と言うものがないというが、そこに徳がある。それは、他人が心動かせられるもので、その人の行為の中にあるとしか言えない。『南州翁遺訓』は、庄内藩の武士が、西郷隆盛の言動を綴った記録である。聖書や論語もキリストや孔子が書いたものではない。『南州翁遺訓』も感動を受けた者が記録として残したのである。そうした言葉の内容が、西郷の人生と符合するから、その精神が後世に引き継がれていくのである。京セラの創業者であり、KDDIの創設に関わり、日本航空の再建を成し遂げようとしている、稲盛和夫の座右の書でもある。彼は鹿児島の出身で、財団を作り社会に奉仕し、自らは得度し仏門に身を置いている。稀有な経済人である。
 庄内藩は、明治政府軍に降伏するが、西郷は寛容に対応し、武士としての面目が立つようにした。江戸の薩摩藩邸を焼き打ちしたのは庄内藩であったが、仕返しをするようなことはしなかった。会津藩のような結果にはしなかったのである。いまだもって、会津人と長州人との心のしこりはとれていない。負の連鎖はどこかで断ち切らなければならない。許すということはなかなかできることではないが、西郷にはできたのである。
 西郷隆盛は、心ならずも西南戦争で城山に散ったが、死を決して錦江湾に入水したことがあった。同志であった勤皇僧、月照は生き返らず、西郷は蘇生した。主君である島津斉彬が死去した時も殉死しようとしたが、思い留まらせたのは月照であった。この日、桜島に渡るフェリーに乗ったが、磯庭園に近い場所という記憶があったので、入水地点に向かって合掌した。
 曇りなき心の月も薩摩潟沖の波間にやがて入りぬる
月照の辞世の歌である。
 藩に幕府の弾圧が及ぶとして、実質的な藩主であった島津久光は、西郷を藩内に保護することをせず、奄美大島に送る。この時は、罪人扱いではなかったが、後に徳之島、さらに沖永良部へ配流された。久光は西郷が好きではなかった。斉彬と違い、保守的で、自分本位に国家を考えていた点を西郷も嫌っていた。しかし、主君である限り仕えなければならない。西郷に珍しく、大した人物ではないということを公言したこともあったが、我慢し続けた形跡がある。
 沖永良部島での待遇は悪かった。体力も衰え、この時も死を覚悟することもあったが、天が彼の出番を用意した。島の暮らしは、奄美大島、徳之島、沖永良部島を通算すると、五年近い歳月である。この間、無為に過ごしたわけではなく、読書をした。その中で、佐藤一斉の『言志四録』は、大きな影響を与えたらしい。江戸後期の大儒学者で、佐久間象山、山田方谷、横井小楠などが学んでいる。政治家がよく揮毫する
「春風接人 秋霜臨己」
も『言志四録』からの出典だと最近知った。西郷と言う人物にこの言葉が重なる。
 入水事件、島流しから辿りついた心境は、自分の命は天に託そうというものだったのであろう。そうでなければ、維新の事業の英雄的な仕事は不可能であったろう。西郷のためなら命もいらないという郷土の武士の信頼を一身に集めることができた。最後は、不平士族の不満と自分の命を引き換えにした。
 子供らがなすがままにて果てし君かな
勝海舟のこの句は、南州墓地に刻まれているが、子供らが不平士族であり、君が西郷のことである。
 坂本竜馬の西郷の人物評が面白い
「西郷と言う人は、釣鐘に例えると、小さく叩けば小さく響き、大きく叩けば大きく響く。馬鹿なら大馬鹿で、利口なら大きな利口であろう。ただその鐘をつく撞木が小さすぎた」
鐘が西郷、撞木が竜馬である。それを聞いた海舟は
「評される人も評される人。評する人も評する人」
と言ったという。今回時間がなく南州墓地はお参りできなかったが、終焉の地には鹿児島の知人に案内していただいた
「生まれた場所と亡くなった場所を見られたのだから良しとしましょう」
今回をご縁にして、知人が友人に昇格してくれると嬉しいと思った。鹿児島中央駅でお別れしたのだが、後ろを振り返らず去って行かれた。風の男、白洲次郎のようなカントリージェントルマンの雰囲気を感じた。実に爽やかである。


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