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2012年07月30日

大和心(2012年4月)

大和心
 


 敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花
江戸中期の国学者、本居宣長の歌は、新渡戸稲造が『武士道』の中で紹介している。極端な皇国史観、軍国主義的な要素はない。大和心を
 「日本人の純粋無垢な心情」
と表現し、日本人が好きな山桜と西洋人が好むバラと対比させている。
 国の重要文化財になっている、宣長自筆の自画像の中に、自筆の歌として書かれている。六一歳の姿を描いたとされている。自画自賛ということであるが、今日では悪い意味のように使われているが、絵も見事、文字も見事である。
 四月一日(日)に、岡潔(数学者、文化勲章受章者、奈良女子大教授、京都帝国大学卒、一九〇一~一九七八)先生の春雨忌に出席の予定があり、名古屋から松阪で途中下車して奈良を目指すことにした。松阪市は、本居宣長の生地である。蒲生氏郷が築いた松阪城址の一画に本居宣長記念館がある。隣接して、生家であり、『古事記伝』や『玉勝間』を書いた家が移築されている。鈴屋と呼ばれる家である。
 この日、日本列島は、大荒れに荒れた。強風で各地に被害が出た。台風ではないが、爆弾低気圧という春の嵐に、三重も例外ではなかった。松阪への道すがら、桑名に立ち寄り、芭蕉の足跡やら、東海道桑名宿の面影を訪ねてみようと思ったのである。
その希望は、駅前に出た瞬間に挫かれた。駅構内の店で購入した、ビニール製の簡易な傘を広げた途端、軸が曲がり壊れてしまった。風は強いが、雨が小降りだったので、駅から近い、本統寺には辿り着けたが、七里の渡しに行くのは断念した。本統寺は、桑名別院本統寺で、地元の人は「ご坊さん」と呼んでいる。
 この寺を、芭蕉は訪ねており、境内の門の近くに句碑が立っている。すぐ近くには、親鸞聖人の銅像が高い台座の上から見下ろしている。芭蕉の句は
 冬牡丹 千鳥よ雪のほととぎす
季語のオンパレードのような句は芭蕉には珍しい。「野ざらし紀行」に収められている句だが、もう一句
 明けぼのや しら魚白きこと一寸
桑名と言えば、しら魚に増して有名なのが、蛤である。将棋指しの常套句で
「その手は、桑名の焼き蛤」
というのがあるが、桑名と喰わないの意味を重ねている。せっかく御当地に来たのだから、昼に焼き蛤を食べることにした。駅前近くを走る国道一号線(東海道)近くに、「丁子屋」という江戸時代から抜け出てきたような店がある。事実、創業が、天保一四年というから、一七〇年の歴史がある。「丁子屋」と言えば、静岡市の郊外にある、とろろ汁で有名な丸子宿の「丁子屋」も有名だが、店の人に尋ねると、名前も同じだが、関係はないとのこと。「昼はま膳」は税別二五〇〇円だったが、蛤しぐれ茶漬けがとりわけ美味しかった。
 桑名駅からは、近鉄を利用する。途中、風は強いが日がさしてくることもあり、時間も充分あるので、本居宣長のお墓にも行けるかと思ったが、松阪駅前にある観光センターに立ち寄ると、係員さんの迷いない
「おやめなさい」
という、的確なアドバイスに、納得できた。天候は回復せず、本居宣長のお墓までは、距離も遠く、しかもぬかるんだ山道を登らなければならないという。お墓に拘ったわけではないが、お墓に拘った本居宣長に関心があったのである。
「市内にもお墓がありますから、そこへ行かれたらどうです。樹敬寺という寺です」
 評論家小林秀雄の大作『本居宣長』の単行本を一五年以上前にある人からいただき、読破できず、そのまま本棚に置き去りにしていたのを思い出した。本居宣長の文章の引用が多く、内容も難解のために、再挑戦をしたものの、すっきりと頭の中に入ってこないことは、以前と同様である。しかし、断片的に、契沖、懸居大人(賀茂真淵)との深いつながりを憶えていて、彼の思索に影響を与えたことを再認識した。
 賀茂真淵は、本居宣長とはかなり年齢差があり、真淵が伊勢神宮を参拝した帰りに、
松阪に立ち寄り、宣長に面会の機会が与えられた。「松阪の一夜」という、その出会いを紹介した対談の模様は、戦前の小学校の教本に載った。その内容を記憶している人は、かなりの高齢者になる。真淵は、宣長の若いながらも学識の深さと、学問に向かう真摯さを認め、しかも目指す日本人の心の原点である「古事記」への関心で一致していた。真淵は、万葉集の研究にその頃打ちこんでいたが、それを土台にして「古事記」に進もうと考えていたが、年齢的に時間がなかった。宣長には、後継者への期待があった。
 「古事記伝」は、三二年をかけ、六十九歳の時に完結した。古事記自体が、難解であり、成立から長い年月を経ていることもあり、研究者の文献も少なかったことを考えれば、一筋に研究に人生を費やしたことは、脅威に値する。鈴屋の二階に書斎があり、「懸居大人(あたがいのうし)之霊位」の掛け軸を掛け、思索に疲れれば、鈴の音に心を癒し、時には門人と研究の成果を共有し、医業(小児科)にも関わった。鈴のコレクションは多く、今も記念館に展示されている。彼の家を鈴屋(すずのや)と呼ぶ由縁である。
 本居宣長の研究の終着点である「大和心」を言葉で表すとどうなるのか。「もののあわれ」、「まごころ」、「かみ」などへの解説を読んでも、難解であるが、「情」という心の働きを重視していることがわかる。
 敷島の大和心を人問はば朝日に匂う山桜花
という彼の歌で説明するしかないのかもしれない。「大和心」は、論理的に言語では説明し、相手に納得させることができないのかもしれないとも思う。
 かくすればかくなるものとは知りながらやむにやまれぬ大和魂
これは、吉田松陰の歌だが、見事このような心情で人生を全うした人である。
我々のような、凡人が「大和心」に触れたいと思うならば、万葉集を読み、後世の秀歌に多く接し、その感動を自分の人生の中で、歌として再現してみることだと思う。花が多くの人に感動と癒しを与えてくれるように、創作した歌が人々の心を動かすならば、「大和心」のある証になるということはできないだろうか。もちろん、俳句という表現形式でも良いのである。
 『本居宣長』の著者小林秀雄は、『人間の建設』という新潮社から出版された書に、数学者との対談を載せている。その数学者とは、岡潔である。古本でもなかなか手に入れられなかった本を、これまた知人から十年以上前にいただき、あらためて分野が違うが、日本の知性というか碩学に敬服するところがあった。数学、文学はもちろん、幅広い分野で、二人の間には、深い共感がもたらされたことは、言うまでもない。共感の一つに
「難しいことが面白くなるのでなければ、学問をしたとは言えない。難しい事は、やり続けていれば面白くなるものである」
と言った発言が、どちらからともなく語られていた記憶が残っている。
 岡先生が、晩年、数学の大功績を残した後、日本の将来を憂い、心そのものを解き明かし、説明しようとした世界は、果てしなく難解な世界で、未完成になった『春雨の曲』は、我々の理解を超えているし、小林秀雄の評論もまた難しいところが多い。本居宣長の『古事記伝』もまたしかりである。宣長の末裔(養子の弟子大平の子孫)に本居長世という作曲家がいるが、難しい世界に触れた後は、宣長が鈴の音を聞いたように、彼の作曲した童謡を聞きたいと思う。「七つの子」や「赤い靴」は彼の作曲である。


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