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2012年08月04日

腰越状(2012年4月)

腰越状
 漸くにして群馬では、桜が満開に近くなった。四月も半ばを過ぎている。梅の花も七分散りで、どこからともなく、いまだに甘い香りを漂わせている。七分散りの梅などという表現は、一般にはしないものである。梅農家は、梅の花の散り具合を見て、消毒をする。この最初の消毒が肝心なのである。殺虫剤と殺菌剤を混ぜて散布することによって、梅の実を守り、若葉をアブラムシなどから守ってあげるのである。収穫まで、三~四回の消毒が必要になるが、兼業農家なので、休みを利用してすることになる。風がなく、温度が低い朝方が農薬散布がし易い。
 「荻原君。江の島に、シラスを食べに行かないか」
友人で、高校の先輩から声をかけられ、断るわけにはいかない。梅の消毒は、数日後、出勤前にすることに予定を変更した。一回目の消毒は〝八分散り〟が良いとされている。
歴史好きの当方の興味をそそるように
 「近くに満福寺があるからね。店から歩いて行ける距離だから」
満福寺は、義経ゆかりの寺で、ここで兄頼朝に自分の真意を伝え、面会を請う書状を書いたと伝えられている。「腰越状」といわれるもので、原文(?)が残っている。
 満福寺は、真言宗の寺で、開基は、七四四年というからかなり古い。寺を開いたのは、奈良時代の僧、行基と伝えられている。行基は、諸国を行脚した僧として知られている。聖武天皇の時代、仏教を全国に広めようという気運が高かった。官営の国分寺を拠点に民間の寺も建つようになる。
壇ノ浦の戦いに平氏を破り、鎌倉に行き、源氏の頭領である頼朝に戦勝報告をと思っていたが、兄との間にしこりが生まれていた。義経が、京都に立ち寄った時、後白河法皇から官位を受けたことや、数々の平氏との戦いに対する、鎌倉武士の不満があり、自己本位過ぎる義経像が、頼朝の疑念を増幅させたとされる。
讒言、告げ口と言えば卑怯な行為に違いないが、この場合義経に非がなかったとは言えない。軍事の天才を誰しもが義経に認めても、政治に関しての稚拙さは、頼朝と比較すると感じざるを得ない。頼朝という人物は、非情な政治家と見ることができるが、伊豆の蛭ケ島という川の中州に長く幽閉の身となり、北条氏やその他の有力地方豪族の政治力のバランスの中で生きてきた人物である。つまり、鎌倉武士を束ねていかなければならない立場にあった。
満福寺で購入した小冊子の腰越状の要旨を見てみよう。
「わたくしは鎌倉殿(頼朝)の代官のひとりに選ばれ、天皇の使いとなって戦い、平家に倒された父(義朝)の恥をそそぎました。鎌倉殿からは、褒美がいただけるに違いないと思っておりましたのに、逆に、あらぬ告げ口によってお叱りをうけ、血がにじむほどの、くやし涙をこの腰越の地で流しています。
頼朝公の慈しみ深いお顔を拝することも長くかなわず、もはや兄弟とはいえないのも同じです。どうして、こんな不幸なことになったのでしょう。
わたくしは平家を滅ぼすこと、父に安らかに眠っていただくこと以外、何の野望もありませんでした。朝廷から武将としては最も高い位の五位ノ慰に任命されたのは、源氏の名誉でもあるはずです。なのに、こんなにお怒りになるとは。神仏に誓って偽りは申し上げませんとお手紙を差し上げても許してはいただけませんでした。
あなたのお情けで、なんとかこの気持ちを頼朝公に伝えてはいただけないでしょうか。許された暁には、ご恩は生涯、忘れはしません」
腰越状の宛先は、大江広元である。頼朝の側近で、朝廷に仕えていたこともあり、鎌倉政権の樹立に官僚として貢献している。毛利氏の祖先とも言われている。しかし、気持ちは、頼朝には届かず、義経は腰越の地を去った。書状の中にある「あらぬ告げ口」の張本人は、梶原景時で後の世に、讒言の景時の悪名を受けることになる。彼の末路は、御家人から糾弾されて、一族は滅びることになる。自業自得とも言える。
腰越から無念の思いで引き返した義経は、鎌倉が放った刺客集団を撃退したが、吉野、安宅の関と奥州平泉へと落ちのびていく。庇護者の藤原秀衡の死後、弁慶達と悲業の死を遂げる。その首は、酒に浸けられ、再び満福寺に戻ったという。腰越での決断だが、義経が生きる道を考えるなら、出家して世を捨てることも考えられるが、華々しい戦の勝利者には、とうてい思いつく選択ではなかった。
もう一つの選択は、シーザーのように「ルビコン川」を渡ることだが、精鋭といえどもいかにも小数のため討ち死にの憂き目にあっていたかもしれない。そして義経政権の基礎はなく、いずれは北条氏を代表とする、関東武士集団の天下になっていたであろう。何よりも、この二つの選択では、悲劇の英雄、日本人の愛する義経は生まれなかった。
満福寺の前を江ノ島電鉄が走っている。踏切を渡るとすぐ寺に続く階段がある。この日は、月曜日であったこともあり、寺を訪れる人は少なかった。春の暖かい、空気が流れていて長閑である。
 春うらら眠り猫居て満福寺
腰越状(2012年4月)

 気持ちよさそうに、受付の窓辺で猫が寝ている。太平の世を満喫しているようでもある。今、江の島付近は、シラス漁が始まっている。江の島までわざわざ出向いたのは、シラス料理を食べることである。腰掛港にごく近い国道一三四号線に面して「池田丸」という漁師の店がある。船宿でもあり、釣り船も所有し、新鮮な地魚料理が食べられる店として人気があるらしい。日曜日でなくあえて月曜日にしたのも友人の知恵と情報分析の結果である。しかも、寺詣りを先にしたのは、昼時間をずらす意味もあった。予想どおり、店の前に行列は出来ておらず、江の島が見える二階で、シラスづくしの定食と地魚の刺身定食を頼み、仲良く分け合うようにして食べた。少し長居をして、ビールなど飲みながら、春の海をぼんやりと眺めていたかったのだが、二時も近く、ラストオーダと言われれば、退散せざるを得ない。「あかもく」という冷凍した海藻をお土産にして帰路につく。
春の海ひねもすのたりのたりかな 蕪村
「海の中には母がいる。母の中に海がある」三好達治の詩の一節が自然と浮かんできた。海を見る小旅行も内陸に住む人間には癒しになる。


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Posted by okina-ogi at 12:40│Comments(0)旅行記
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