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2012年08月13日

非戦の祈り、沖縄へ

非戦の祈り、沖縄へ
 硫黄島には行けない。ならば、沖縄に行こうと思った。二〇〇六年の暮れに上映された『硫黄島からの手紙』は、戦争の悲惨さを伝えるだけでなく、極限状態の中で戦わざるを得なかった人々の悲運をどこまで自分自身が受け止められるかという課題となった。
重苦しい気分は、理性では振り払うことはできない。そのためには、戦場になった地に行き、慰霊する他はないと思ったからである。
 沖縄には、数学者岡潔先生の御縁による友人がいる。陸上自衛隊に勤務した人で、二十年以上前から沖縄に住んでいる。鹿児島出身の人だが、老後のことも考えてか(?)永住地と決めている。奥様から
「あなたのような口うるさい人は、沖縄が合っている」
どういう意味か不明だが、むしろ伴侶の方が積極的だったようである。
 年賀状に、沖縄訪問のことを書いたら
「二日でも三日でも案内しますよ」
と返事がきた。加えて、出発の前に〝沖縄戦〟に関する資料を送ってくれた。その中には、ご本人にとって大事なものもあり、その心遣いを嬉しく思った。実際、親切な人なのである。大隈博行さん七十歳、岡先生を慕う人達の集い「春雨忌」では、〝閣下〟と呼ぶ人がいる。
 沖縄は、未踏の地である。大隈さんに電話を入れたら、桜は散っているという。三月八日に出発したのだが、群馬は梅が咲き始めている。服装が難しい。〝沖縄戦〟は、別だが沖縄がどんな所かは、観光案内などで調べず、全てを大隈さんに委ねての白紙の旅となった。
 沖縄の戦いとはどのようなものであったのであろうか。数多い戦記が書かれているが、光人社NF文庫『沖縄』が概要を詳しく綴っている。米国陸軍省の編集を翻訳したものであるが、客観性がある。米軍が沖縄戦に参加させた記録班の記録と日本側の資料を合わせて作成しているからである。大隈さんから送られてきた本の一冊である。
 米軍が本格的に沖縄の島に上陸したのは、昭和二十年四月一日であった。沖縄攻略作戦に参加した兵員は五十五万人で、当時の沖縄県の人口四十五万人を上回る数であった。兵員を載せた艦艇は一五〇〇隻にのぼる。アメリカ本土からはるかに離れた沖縄の沖合いに、これだけの軍隊を結集させることのできる国力は驚異である。
アメリカとの戦争の中で、日本軍が実感したのは、物量や兵器の質、兵站を無視できず、近代戦争が単なる作戦や、勇敢さだけでは勝利することができないということだったと思うが、その実戦経験が謙虚に生かされなかった。太平洋戦争が始まる前に、満州国に置かれた関東軍がソ連とノモンハンで国境紛争を起こし、壊滅的な敗北をきっした事件があった。航空機や戦車という近代装備による攻撃に、日本軍の得意の白兵戦は通じなかった。この事件の真相は、長く秘密にされていたらしい。
米軍の上陸作戦に参加した将兵は十八万人。司令官は、バックナー中将で、沖縄戦が終結する直前に、日本軍の砲弾により戦死した。米軍の司令官が戦死した戦いは、沖縄戦だけである。いかに戦いが熾烈だったかを物語っている。守備する日本軍は、十一万であったが、そのうち約二万人は現地で召集された戦闘訓練も充分でない民間人に近い人々であった。総司令官は、牛島満中将で、最後は、摩文仁の洞窟で自決した。その日は、六月二三日で、沖縄戦は、九十日の長きにわたって戦われたのである。
沖縄戦で、牛島司令官に参謀として仕えた一人の軍人の思考と生き方に関心があった。
八原博通大佐である。彼は、第三十二軍の牛島軍令部の高級参謀であった。八原大佐が、ほぼ中心になって、沖縄戦の戦略、戦法を立案したとされている。
 八原博道は、米子中学から陸軍士官学校に進み、同期の中では、最も若くして陸軍大学校を卒業した。成績優秀で恩賜の軍刀を受けている。軍人にとっては、菊の紋章の入った軍刀をもらうということは名誉なことである。八原の留学先は、アメリカであった。幼年学校からではなく、中学から陸軍士官学校に入り、アメリカの文化に触れたことは、硫黄島の司令官、栗林中将に似ている。
 八原大佐がとった作戦は、持久戦法である。沖縄の地形や地質を利用して、地下陣地を構築し、そこに立て篭もりながら米軍を迎え撃つ戦法である。強力なパンチを持つボクサーと柔道家が戦う時、寝技に持ち込み勝機を得るのに似て、「寝技戦法」と呼ばれた。そのため、上陸時は攻撃することはなく、上陸部隊はあまりの無抵抗に日本軍の罠ではないかと疑った。上陸の日が四月一日のエプリルフールにあたることも皮肉にとれた。上陸地点は、日本軍の想定していた読谷、嘉手納の海岸で、近くに飛行場があり、その日の内に無血に近い状況で占領されてしまう。このことは、沖縄守備軍にとっては、想定内のことであったが、遠く本土にあって作戦を司令する大本営にとっては不服だった。そして、悲劇が生れる。この飛行場奪回を要求して攻勢をかける指示を、牛島中将に出すのである。大本営の作戦要求の背景には、容易く飛行場を占領されたことへの不満、加えて受身の戦いがいかにも勇気に欠けていて、帝国軍人らしくないということであった。この要求は、現地司令部からしたら、現状を知らない無謀なものであったが、牛島司令官の下で参謀長であった長勇少将は、勇猛、剛毅な人物で心を動かされるところがあった。各部隊の責任者を集め賛否を問うという形をとったが、八原参謀だけが反対意見を述べた。その主旨は
「飛行場を一時的に奪回したとしても、それを守備し、日本軍機が離着陸して、米軍を攻撃するための拠点とはならない。さらに、壕を出て積極攻勢に出れば、圧倒的な火力の差で我が軍に多大な死傷者が出ることは明らかである。最初から持久戦と決めたのは、一日でも長く米軍を沖縄に止め、本土への攻撃を遅らせることである」
しかし
「この攻撃案は、牛島閣下も賛成しておられる」
との長勇参謀長の言葉で作戦は実行に移された。その結果、主力部隊に大損害を受け、作戦は失敗し中止された。従来の首里に司令部を置いた攻防戦が一カ月間戦われることになる。
 作戦の失敗に、牛島中将は、八原参謀の主張する作戦を容れなかったことを詫び落涙したという。強気の長参謀長も、これで沖縄戦の勝機は去ったと弱気になった。八原参謀も同感で否定することはなかった。
 首里攻防戦の中で激戦地であった運玉森に大隈さんの運転で案内してもらった。沖縄では、森を「むい」と発音する。したがって運玉森は「うんたまむい」である。米軍の戦史では、コニカヒルと名づけられた場所である。現在、斜面にゴルフ場が出来ていて緑も茂っている。大隈さんには、この地に思い入れがある。高校の二年間、体育の教師川崎先生の教えを受けた。
川崎先生は、中尉としてこの激戦地の戦いで生き残った方である。弾丸を何発も身体に受けたが、幸運にも急所を外れ生還する。沖縄を訪ねる前に大隈さんが大事なものとして送ってくれたのは、川崎中尉が綴った『ああ運玉』(沖縄戦記)であった。実際に戦場にあった人の文章は重い。最後、住民とともに避難する中で、米軍に遭遇し捕虜となるのだが、手榴弾を迷惑になると思い棄てる箇所があったが、軍人としての本分を棄てる川崎中尉の心情の辛さも伝わってきた。ここまで、軍人として過ぎるほどに部下とともに戦ってきた人だったからである。川崎先生は、優しく厳しい人で、叱るときは、「貴様・・・」と軍隊時代の言い方になったと大隈さんは懐かしそうに語った。
運玉森の麓と言ってよい場所に西原町があるが、この地区の人々は半数以上の世帯で死者を出すほど不幸に見舞われた。慰霊碑のある場所に案内されたが、沖縄の戦いが住民を巻き込んだ悲惨な戦争であったことを改めて現地を訪ねたことによって知った。
首里の司令部が摩文仁のある南部に撤退し、抗戦することになってさらに多くの一般住民が戦禍に巻き込まれ多くの死者を出すことになった。ひめゆりの塔のある場所には行けなかったが、そうした負傷者の看護にあたっていた女子生徒の悲劇も生れた。
沖縄戦の直前に、沖縄県知事として単身赴任した人がいる。島田叡(あきら)という人で、大阪府の内政部長から、生命の危険を知りつつその職に就いた。牛島司令官に南部転戦の非を述べたが、それは県民の生命を守る文官としての使命感だったからである。最後は、荒井警察部長と行動をともにしたが、後方不明となった。
また、沖縄県民にとって忘れられない人物が、海軍の沖縄司令官であった太田実少将である。海軍は、陸軍とともに軍事行動することなく小禄地区に築いた地下壕を拠点に米軍と戦った。戦闘開始から十日後の六月十三日に太田司令官は壕の中の司令官室でピストルにより自決するのだが、玉砕に近いことを自覚した太田司令官は、もはや本土に向けて通信手段を持たない島田知事の真意を汲んで打電する。沖縄戦の経過を真摯に伝えているので全文を載せる。
「六日二十時十六分発
左の電を次官に御通報片、取計らい得たし。
沖縄県民の実情に関しては、県知事より報告せられるべきも、県には既に通信力なく、三二軍司令部もまた通信の余力なしと認められるにつき、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども、現状を看過するに忍びず、これに代って緊急御通知申し上ぐ。
沖縄県に敵攻略を開始以来、陸海軍方面とも防衛戦闘に専念し、県民に関しては殆んど顧みるにいとまなかりき。然れども、本職の知れる範囲においては、県民は、青壮年の全部を防衛召集にささげ、残る老幼婦女子のみが、相次ぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって、軍の作戦に差支えなき場所の小防空壕に避難、なお砲爆下をさまよい、風雨にさらされつつ乏しき生活に甘んじありたり。
しかも若き婦人は率先軍に身をささげ、看護婦、炊事婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮、敵来りなば老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。
看護婦に至りては、軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄りなき重傷者を助けて共にさまよう、真面目にして一時の感情にはせられたるものとは思われず。さらに、軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜の中にはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。
これを要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕、物質節約を強要せられて、ご奉公の一念を胸に抱きつつ遂に・・・(不明)・・・報われることなくして、本戦闘の末期を迎え、実状形容すべくもなし。一木一草焦土と化せん。糧食六月一杯を支えるのみとなりと謂ふ。
沖縄県民かく戦えり。
県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」
最後の二行が特に有名だが、死の迫る中でこれほどに戦況を正視し、沖縄県民に感謝する電文を打つことが出来た太田司令官の人間性に頭が下がる。
司令官室には質素な木の机と椅子があり、生花がいけられてあった。壁には、辞世の歌が貼られている。
 大君の御はたのもとにししてこそ人と生まれし甲斐ぞありけり

 海軍壕は、漆喰やコンクリートなどで作られていて、発電室や通信室、さらには炊事ができる場所もあったらしい。大隈さんの先導で、司令官室の隣にある幕僚室に入ると、漆喰の壁に残る傷跡を指差し、参謀が手榴弾で自決した時にできたものだと説明してくれた。そして、大隈さんは部屋の壁に向かい祈りを奉げ始めた。最初は、古事記の冒頭の部分、それが終るとキリスト教のお祈り(ヨハネ伝一―四)になった。大隈閣下は、クリスチャンであった。このとき、初めて知ったのである。
 摩文仁の地を訪れた時、最初に多くの観光客のいる平和の礎(いしじ)のある場所に行かず、太平洋が見下ろせる崖下の道を案内してくれたとき
「今回は、我々はあまり皆さんがお参りすることない裏道から行きましょう。英霊もそのほうが喜ぶかもしれない」
大隈司祭(?)の意図が理解できた時、沖縄慰霊の旅は成就したと思った。そこには、はるか南洋の地で戦死した人々の慰霊碑があったのである。そこまで行けない遺族が、建てた碑である。父の兄もニューギニアで戦病死した。南方に向け合掌した。
 大叔父は、今も九十六歳で健在である。終戦時、陸軍少佐であった。『戦後五十年の回顧』―荻原行雄―の冒頭に記された言葉に、今回の沖縄の戦跡をめぐっての感想が代弁されている。
 「先の大戦は、無謀な戦いであった。孫子の兵法に、『敵を知り、己を知れば、百戦あやうからず』という諺がある。この逆で、敵情を無視した戦争であった。先ず支那事変で深入り過ぎ、引くに引かれぬ戦いとなり、遂に太平洋戦争に発展して、列強を相手に有史以来初めて、敗戦の憂き目を見ることになった。盧溝橋か保定の辺りで止めるべき戦であった。為政者が戦争の終局を誤ったのである。この大戦から、色々の教訓を得た。先ず精神力だけでは戦いに勝てず、一発打てば、十発打ちかえす物量戦で、その工業力に負けたのである。
 戦争は、国家総力戦で、制空権、制海権を得たものが勝ちを制するのであるが、勿論精神力も大切である。何れにしても、戦争は総てを壊滅し悲惨である。戦後五十年、戦いが無く平和に過ごし得たことが、敗戦の廃墟から立ち上がり、祖国の再建、今日の経済大国を築き得た所以である。戦争は、如何なることがあっても、国際間の紛争解決の手段とすべきでないことを痛感した」
人は非戦を求め、力によって人を屈服させてはいけない。平和の時代にあっても見えない戦争があることを意識したい。
沖縄旅行の余話
 沖縄に行くのに一つの抵抗があった。それは、昔から生理的に蛇が苦手なのである。道路に紐などの長いものが落ちているだけでも一瞬ギョットする。山菜取りが好きで山に入っても茂みがガサガサと音を立てると蛇がいるのではないかと思ってしまう。
過去に遡って考えてみると、ごくごく幼い時、でも三歳以上だったと思うが、とぐろをまいた蛇と家の二階で対面した像が脳裏に浮かんでくることがある。昭和三十年代、農家の二階では養蚕をしていた。蛇が二階にのぼることも珍しいことではない。そのことが、トラウマになっているかは知らないが、旅行期間中、那覇市内は良かったが、郊外のサトウキビ畑、森、道端の草むらにハブの存在が気になって、その幻影に怯えていた。実際、〝ハブに注意〟という標識などが立っていると無意識に後ずさりしてしまう。
摩文仁の丘を慰霊したとき、裏道から各県の慰霊碑のある丘をめざしたのだが、沖縄県の師範学校の供養塔から先は、岩肌が崩れやすく危険だということで、立ち入り禁止の札がロープに掛かっている。その先は、コンクリートの階段とステンレスの手摺がついても人が通った跡が無く、落葉などもあってじめじめしていて、ハブが本当に出て気はしないかと、本来ならば急階段を上ることによる健康的な汗がかけるところ、冷や汗になっていたのではないかと思った。
階段を上りあげる直前に、牛島中将と長参謀長が自決した洞窟があった。ここも立ち入り禁止になっていて、こちらは厳重に囲いがしてある。囲いの手前には、花が手向けられている。驚いたことに、大隈さんは囲いの端の隙間から、尻をよじるようにして入ろうとしている。昨夜、洞窟の案内をするのに
「荻原さん、そのスーツ姿では、洞窟には入れませんね。それにあなたの体格だと厳しいかな」
と話していた意味がこの場に遭遇してわかった。
しかし、大隈さんは、通過するのに難儀をしている。突然
「トッテください」
というので、夢中で持っていたカメラを向けてシャッターを切ったが、それは岩か、囲いのステンレスに服がひっかかったためだった。トッテは、撮ってではなく、取ってだったのである。
こちらは、到底入るのは無理なので、囲いの前で合掌し、大隈さんは中に入ってしまった。通り抜けができるので、上で待っていてほしいと指示されるとおり、海の見える高台で待っていたが、なかなか大隈さんの姿が現われない。きっと、海軍壕の中でやったように、お祈りしているのかもしれない。
「お客さん、どちらの県から着ましたか。お花はいかがです」
と花売りの老女が近づいて来たので、購入したついでに、友人のいきさつを話すと、ハブが洞窟にいると話す。心配になって、携帯電話をかけたら、後ろから大隈さんの声がした。大隈さんの慰霊する心に比べたら、なんともハブに恐怖する臆病者かと、無明に支配された自分を情けなく思った。
沖縄戦を「鉄の暴風」と表現している解説文を見た。沖縄の島におびただしい砲弾、爆弾が、陸・海・空から落とされたからである。東京空襲の場合、焼夷弾が多かったと思うが、時々今日でも工事現場から不発弾が見つかり、自衛隊が出動するのをテレビで見ることがある。
那覇空港に隣接して、陸上自衛隊の駐屯地がある。大隈さんが予約して展示室を見学することができた。後輩の自衛官である迫(さこ)一曹さんが説明してくれたが、いまだ多くの不発弾があるという。米海軍の砲弾から様々な大砲の砲弾が展示されていた。今度は、沖縄の大地にハブに加えて不発弾の幻影を見るようになった。

            拙著 『浜茄子』より


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