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2012年08月14日

敗るるも亦よき国

 戦争をテーマににすることが、いかに辛いことかということがわかりました。戦うこと、争うことは人類や生物にとって宿命のようにも思いますが、空間も時間も限られた生物(与えられた命)にとって、この性(さが)を抜け出す道はないのでしょうか。オリンピックは、スポーツという手段を通じて個人、国家の競争になっています。経済面の競争もあります。地位、名誉の競争もあります。人はどうしたら満足が得られるのでしょうか。かつてお会いした大数学者の岡潔博士は、「人は懐かしさと喜びの世界に生きている」と言われました。つまり人は、心の世界に生きている。その心の世界の中心は、「情」なのだと。物質的なもので、心は満たされない。ご縁のある人、身近な人、これから出会う人、同時代に生きる人と心通えるように致しましょう。「敗るるも亦よき国」とは、日本のことです。「敗るるも亦よき国」と表現された岡潔博士は、日本という国を愛しておられました。国粋主義者ということではありません。「自分を後にして他人を先にする」、常に自我を抑止し、生涯を過ごされました。サッカーで、韓国に敗北した後、日本のサポーターが、観客席のゴミを片付けている写真がありました。日本人もまだまだ捨てたものではない。自国のことを卑下するのはやめましょう。

敗るるも亦よき国
 昭和二十年八月十五日に先の大戦は、日本の無条件降伏で終戦となった。昭和十六年十二月八日に米国と開戦し、太平洋戦争という名称が一般的だが、日中戦争まで含めると、関東軍参謀であった瀬島龍三氏などは、大東亜戦争と呼ぶのが正しいと言っている。
 今年もまた終戦記念日がやってくる。思えば、硫黄島の戦い、沖縄の戦いを取材しながら、戦争の意味を考えてみた。国力の違う国と戦うのは無謀だということである。ならば、逆に国力の弱い国なら戦って良いのかということになるが、国と国との間の紛争を解決するのに戦争によるのは誤りだという結論になる。その結果、多くの人々が死ぬ。沖縄戦のように民間人が巻き込まれることもあるし、原爆のように最初から非戦闘員を目標にしている戦略は、久間防衛大臣の「しょうがない」発言ではすまされないものである。戦争の結果は、勝者も敗者も悲惨だということである。
 硫黄島の栗林中将の統率力、沖縄の八原高級参謀の冷静な作戦と現地の実状を無視した大本営の作戦干渉について書いたのは、生活や経営といった平時の営みよりも戦闘状況には究極の厳しさがあると考えたからである。死をみつめて生を考える思考に似ている。太平の世に命を本当に賭けているかといったら、ほとんどが否である。おかしな話だが戦争に学ぶことは多いのである。反戦、非戦を口で言ったり書いたりするのは簡単である。せめて現地を訪ね、資料を調べ、できれば時間を超えて心だけは、その場にいられるようにしたかった。
「一〇〇年兵を養うは、平和のためなり」
軍人は、戦争に勝利することが仕事であるが、国防の最善な状況は、平和であるという
山本五十六元帥の言葉は、実に重い。
 なぜ、強者である連合国と戦争に至ったか、数限りない分析がある。私観だから、極めて大雑把である。朝鮮半島を足場にして、中国東北地区に進出していったことが、紛争の火種になっている。満州国の建国は、日本が領地を保有したわけではないが、日本本土から多くの開拓民が移住している。満州鉄道は、日本が経営し、資源を確保するために鉱山などの経営にも乗り出している。行政にも関与したし、軍隊も駐留させている。
満州国は、人工的な国家で、アメリカ合衆国のように発展しなかった。臓器移植のように、生体間拒否反応が、日中戦争に発展し、英米の世界戦略からしたらば、アジアの勢力バランスを崩す国家として許容できなくなった。癌細胞のような扱いになった。
 日露戦争以来、日本の国防政策の中で、ソ連が仮想敵国になっていた。主力になるのは、陸軍である。関東軍という大陸に置かれた軍隊は、中央が制御できないほど肥大化し、実際紛争も起こしている。満州国と関東軍の存在は、太平洋戦争に至る原因といえる。決定打は、三国同盟である。相手は、ドイツとイタリヤである。米英と戦争を回避したかった。兵力、増して国力が違うことが歴然としていた。海軍、とりわけ米内光政、山本五十六、井上成美らは必死で反対したが、海軍への予算が削られるのでは困るという理由で賛成する人物もいた。
 思想統制の軍国主義下にあったが、新聞各社の論調も戦機を煽った。戦争への流れを変える力は、無かったというのが開戦直前の国情であった。天皇ですら
「戦争反対を言い出したら、自分ですら殺されていただろう」
後に語られたという。
開戦の御前会議で、直接反対の言葉は述べなかったが、明治天皇の御製
四方の海 みな同胞(はらから)と思う世に など波風の立ち騒ぐらん
を披露し、ご自身の平和を希求する心情を示された。
 
千葉県野田市関宿に鈴木貫太郎の記念館がある。終戦に至るまで、内閣総理大臣を務めた人である。小磯内閣の後を受けて、内閣総理大臣になったが、八十歳近い高齢でもあり就任を固辞したが、推されて大命降下となった。昭和二十年の四月六日に組閣を行なったが、沖縄では上陸作戦が始まっていた。鈴木貫太郎は、国会で演説する中で、陸軍が唱えた徹底抗戦を国民に呼びかける。一方、この戦争が自存自衛のもので、天皇は終始一貫して世界平和を志向していたことを述べた。表向きは、戦争遂行を唱え、国民を鼓舞したが、本音は、自分の内閣で戦争を終結しようと考えていた。
 総理に就任するときの決意が
「戦争を終結させた後、自分は殺される」
というものであった。鈴木貫太郎は、殺されかかったことがある。昭和十一年二月二十六日に起こった二・二六事件で私宅を襲われ、四発の銃弾を受けた。妻の哀願でとどめをさされず九死に一生を得たのである。指揮したのは安藤輝三大尉であったが、鈴木貫太郎自伝の中で、安藤大尉の人物像を述懐している。決行に至る前に、民間人と共に、鈴木を訪ねたことがあった。その中で、陸軍大臣は別としても、軍人が政治に深く関与することの非と、特定の人物を首班に推すということの問題点を丁寧に話したことが書かれている。当時、東北地方は飢饉もあり、身売りする人すらあることの窮状を軍人の手で変えたいとも訴えたが、同情はしつつも反対した。安藤大尉は、鈴木貫太郎を見直すが、仲間を説得することができず、自分の赤誠を示すために鈴木貫太郎襲撃の指揮をとることになった。貫太郎は、安藤大尉を間違った思想の犠牲者とだけ述べている。
 とどめをささないように指示したのは、安藤大尉であったが、安藤は鈴木の妻に
「閣下には何の恨みもありませんが、我々と意見が異なり、このような結果になった」と話し立ち去ったが、意見が違うからという理由で殺されたのではたまらない。これは、テロと言わざるを得ない。殺されなくとも、理由もわからず人事権をふるう行為も広義に解釈すればテロ行為のようなものかもしれない。
 この事件では、同時多発テロであったために多く政府要人が襲われた。高橋是清大蔵大臣のように腕を斬られ惨殺された人もいたし、渡辺教育総監のように、娘の目の前で多数の銃弾を浴びて殺害された惨劇もあった。娘は、その場面が消しがたい心的外傷になって、カトリックの信者になった。
 「君臨すれども統治せず」の総明な天皇は激怒したとされる。近衛師団を自ら率いて鎮圧するとも言ったという。陸軍の中には青年将校の行動を理解する者もいたが、天皇は明確に反乱軍という結論を出していた。明治憲法上、天皇のとった行為は問題だという指摘があり、この事件以後天皇は自ら政治的決断を表明することはしなかった。唯一の例外は、終戦のための御前会議でのいわゆる「聖断」である。
 重傷を負った、鈴木貫太郎は侍従長として天皇の側近として長く仕えていたのである。
昭和天皇の心を深く知る人物の一人として鈴木貫太郎は評価されて良い。この時、鈴木貫太郎が殺されていたら、終戦内閣を組織することもなかった。原爆投下やソ連軍の参戦で決断を迫られたが、それでも無条件降伏に対し、鈴木総理を除く最高戦争指導会議の参加者の意見は三対三に分かれている。当然、総理が決断し、天皇に奏上し決断するのが、輔弼する者の役割であるが、鈴木貫太郎は聖断を仰いだのである。そうしなければ、軍部は鉾を収めないと考えたからである。天皇と鈴木貫太郎の以心伝心の行為が亡国の危機を回避させたと言える。
 記念館に飾られた、白川一郎の描いた「最後の御前会議」の出席者の表情は、一様に重苦しく、それは地下深い薄暗い電灯のせいばかりではない。天皇のその時の発言が、終戦の自ら読み上げられた勅語に反映されている。その内容を一部省略して紹介すると
「外に別段意見の発言がなくば私の考を述べる。反対側の意見はそれぞれ聞いたが私の考は此前申した事に変わりはない。私は世界の現状と国内の事情を充分検討した結果これ以上戦争を継続することは無理だと考える。(中略)此際耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び、一致協力将来の回復に立ち直りたいと思ふ、此際私としてはする事があれば何でもかまわない、国民に呼びかける事が良ければ私は何時でも「マイク」の前に立つ、此際詔書を出す必要もあらふと思ふ、政府は早速其起案して貰ひたい。(以下略)」
 関宿は、幕末久世家が治め、鈴木貫太郎の父親は代官であり、後には地方官吏となり、群馬県庁にも務めている。貫太郎は、大阪で生れたが、関宿は幼い日々を過ごした故郷である。晩年もこの地で過ごした。記念館は吉田茂総理大臣の提案で建てられたが、今日訪れる人も少なくなっている。大宮駅から東武野田線に乗り継ぎ、川間駅からバスに乗ったが途中で降ろされてしまった。乗り継ぎに、豆バスという遊園地にあるようなバスに乗ったら二五分もかかってしまった。高齢者用の巡回バスだった。江戸川と利根川が分岐する関宿は高い堤防に守られ、昔は水運の要所であった。千葉県だが、母親の実家のある群馬県の館林までは二〇キロほどの距離しかない。
 昭和の前半は誠に不幸な時代であったが、戦前、戦後にあっても昭和天皇は名君であった。鈴木貫太郎と言う忠臣の名はとどめておきたい。決して君側の奸ではない。

         拙著『浜茄子』より


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