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2012年09月15日

時代祭そして明恵上人

十月二十二日は、京都の三大祭のひとつ「時代祭」が行なわれる。今年で一〇二回となる。明治二十八年に第一回が開催されたのだが、この年は、桓武天皇が京都に都を移した年(平安遷都七九四年)から一一〇〇年に当り、平安神宮が創建された年でもある。第二次世界大戦などがあって中断されたこともあったが、平安講社を中心にして京都市民によって今日まで毎年開催続けられているのである。平安神宮に祀られているのは桓武天皇と孝明天皇であり、行列は、明治維新から平安時代へと時代を遡るようにして続く。出発地は、京都御所。到着地は、平安神宮である。コースは、時代によって異なるが、現在の交通事情も配慮して、烏丸通から御池通、河原町通から三条通と進むのである。
この日、とんだ勘違いで隊列が出発する時間を午後二時だと思い込んで、御所をバックに写真を撮る目的が果たせなかった。旅の同行者である友人に携帯電話で連絡したから気づいたのであるが、三条大橋までタクシーを飛ばし、先頭を歩く幕末の志士の列を見ることができた。彼は、思い通りのロケーションで撮影ができたらしい。ホテルから先発した方は、京都国立博物館で美術観賞したり、近くにある豊臣秀頼が、徳川家康に言いがかりをつけられた方広寺の鐘などのんびり眺め感傷に耽っていたのが悪かった。鐘に刻まれた、「国家安康」「君臣豊楽」だったか、家康の家と康を離し、豊臣の繁栄を願った文が家康を侮辱したというのである。天海という政治僧の知恵だというが、悪知恵を働かす人間はいつの時代にもいるものである。方広寺には、大仏もあったというが、当時の面影は少しばかり残った石垣だけになっている。友人に電話したのはこの後すぐだったのである。
京都国立博物館は、今回の京都旅行のメインにした高山寺の鳥獣戯画など所蔵しているのだが、常設展に展示されていなかった。雪舟の天の橋立図、頼朝の人物像も見られなかった。収穫と言えば、坂本龍馬の手紙を小冊子に特集してあったので買うことができたことくらいである。仕方ないので、お土産に買ったポストカードを眺めて我慢することにした。この日は、暑いくらいの秋晴れで、青空の下、一九八七年に片山東熊が設計し、竣工したレンガ造りの旧館の全容を初めて見ることができた。ロダンの考える人の彫刻と実によく調和している。入場門も同じ設計者のもので、門をいれて建物を写したら満足のいく写真になった。
三条大橋は人出で溢れている。車道は行列が進むので観光客は入れない。橋を渡りきるのに一〇分近くかかってしまった。立錐の余地がないとはまさにこのようなことを言うのだろう。
撮影場所を決めたいと思うが、車道の脇には先着の観光客が坐っている。どこにしようかと探しているうちに池田屋事件のあった場所の向かいに来てしまった。先頭が維新ゆかりの行列ならば、近代ビルの店が並んだ場所でも池田屋騒動之跡地の石碑がある場所でも良いと思った。
池田屋事件というのは、尊王攘夷思想の志士が密会している場所を新撰組に探知され、肥後藩の宮部鼎蔵や長州藩の吉田稔麿などが闘死した事件で、この事件が元で長州藩は、蛤御門の変(禁門の変)を起こすのである。御所を守る薩摩藩と会津藩を主力した公武合体派に破れ、久坂玄瑞は自刃した。彼は吉田松陰の松下村塾にあって、高杉晋作と共に双璧とうたわれた人物である。二十五歳の若さであった。吉田松陰は妹を久坂玄瑞の妻とする程その才覚を高く評価していた。その久坂玄瑞は、「七卿落」のメンバーの一人となって行列に登場している。ただし、昭和四十一年からの出場である。時代祭も、戦後になって婦人列が加わったりしてその内容は、少しずつ変わって来ている。中学生くらいの子供達が横笛を吹きながら進む勤王隊は圧巻であった。錦の御旗も隊列に加わっている。
隊列は、江戸時代、安土・桃山時代、吉野時代、鎌倉・室町時代、藤原時代、延暦時代と続くのであるが、この時代区分は、時代祭特有のものであって、隊列の先頭に立つ旗に書かれている。その流れに沿って主なものを揚げる。解説をつけると長くなるので列のタイトルだけにする。江戸時代婦人列。和宮、出雲阿国などが登場する。豊公参朝列。織田公上洛列。楠公上洛列。中世婦人列。大原女、桂女、淀君、静御前が登場する。城南流鏑馬列。藤原公卿参朝列。平安時代婦人列。巴御前、常盤御前、紫式部、清少納言、小野小町等が登場する。延暦武官行進列・文官参朝列。そして最後は、神幸列である。最後だけは説明したい。平安神宮が桓武天皇と孝明天皇をお祀りしていると言ったが、両天皇の御鳳輦(ごほうれん)に神職が前後に付き従って進むのである。神輿の屋根には鳳凰が乗っている。その後に、弓箭組列が続くのであるが、桓武天皇平安遷都の際、その警護にあたった人々である。
長時間立ってカメラを構えていたら、腰が痛くなった。一一〇〇年の歴史を三時間に短縮して見せてくれるのだから文句は言うまい。ただ、時代祭は、京都から見た歴史風景であり、さらに言えば京都朝廷から見た歴史である。都というのは天皇のいる場所なのだから当然ではある。しかし、東京に遷都されてから京都市民が〝天皇さん〟と親しみを持ち、畏敬の念も抱きつつ、一〇〇年以上も毎年多くの観光客を引き付け、時代祭を続けていることは、賞賛に値する。
旅の余話になるのだが、時代祭の前夜、知恩院の三門でオーケストラと中国の二胡と日本の琴、横笛奏者を加えたコンサートがあった。三門は道路側からライトアップされ、境内の三門側が石舞台になって、照明に浮かび上がる。実に幻想的な雰囲気になっている。夜空に星も見え、聴衆は三門から真直ぐにのびた石段に腰掛けて演奏を聞くという設定である。文化庁舞台芸術国際フェスティバルの一環としての「アジア・スーパー・クラシック@知恩院」と名をうった公演で、開場が午後六時半からの第三部「トワイライト・コンサート」を聞いたのである。日中韓の近年の名作映画に使われた音楽が演奏されたのだが、坂本龍一が作曲した「ラスト・エンペラー」のテーマ曲、武満徹の「他人の顔」のワルツ、プッチーニの歌劇トゥーランドット(トリノオリンピックのフィギュアスケートで金メダリストになった荒川選手の〝イナバウアー〟の演技に使われた曲)が印象に残った。二胡の演奏者は、姜 建華(ジャン・ジェンホワ)で世界的指揮者である小澤征爾を感動させた女性奏者である。
知恩院は、法然上人開基の寺である。明恵上人の寺を訪ねる前に、親鸞上人ほどではないが少なからず影響を与えたであろう人の寺でコンサートを聞くことになったのも何かの巡り合わせかも知れないが、旅の同行者瀧澤さんの配慮だと感謝したい。入場料は無料なのだが、事前申し込みによる整理券が必要だったのであるが、瀧澤さんのおかげで招待席に坐ることができたからである。彼は、音楽のプロデューサーを長年していて、全国にその関係者が多くいる。この企画に彼の友人が関わっていた。
演奏中、〝知恩院の七不思議〟の一つである三門の傘がどこにあるかという考えが浮かんできた。池田弥三郎の『京都故事物語』で読んだために知っているのだが、実物を確認したことがない。やはり、夜では無理なのか、ふと意識に上っただけではあった。
「小野小町と知恩院の傘は濡れずささず骨となる」
くだらないざれ歌だけは覚えているのだが、高山寺に行ったら明恵上人に邪念を洗ってもらわなくてはならない。

旅の最終日は、昨日までとうって変わって曇り空になった。降水確率も高い。栂尾の高山寺行きは、単独行動になった。恋に疲れているわけではないが、男一人である。京都駅から高山寺までは、JRのバスが出ている。片道五十分、都の西北にある立命館大学の衣笠校舎、仁和寺などを経由して行くが、市街地からそれほど遠くはない。しかし、山間に少し入ると道路の両側に山が迫り、明恵上人の時代でなくても、俗世から離れて修行する場所にふさわしく感じられる。清滝川が流れ、楓が多くあって、紅葉のシーズンは車が渋滞する程の人手となる。この日は、月曜日であり、紅葉には早く雨の予報が出ていることもあり訪れる人もまばらである。
高山寺の名の由来は、後鳥羽上皇の勅額「日出先照高山之寺」による。国宝石水院に掛けられている。寺は、奈良時代の末に開創されていたが、明恵上人により復興されたのである。上人の教えに帰依した人々は上級公家が多かった。近衛家、鷹司家、西園寺家がそうであった。藤原氏一門にとっては、氏神鎮守春日明神と同じくらい氏寺のごとく保護された寺である。
高山寺に多くの国宝、重要文化財があるのだが、本物は京都国立博物館が所蔵保管している。石水院に置かれているのは、レプリカで、知らない人には本物だと言っても疑いを持たないかもしれないが、ごく自然に院内に置かれているからやはりコピーと思うだろうか。
「仏眼仏母像」(国宝)と「明恵上人樹上座禅像」が掛けられてあって、その近くには、明恵上人が手元に置いていた運慶作と伝えられる木彫の小犬がケースに収まっている。入場者も数人で出入りする人もほとんどなく、長く上人の像の前に坐り続け、久しく像を見つめ、時に目を瞑り、想像できる限りの明恵上人を想った。
明恵上人を最初に意識したのは、二十代半ばの頃で、三十年も前になる。〝紹介者〟は、数学者岡潔氏のエッセイのどかにあった明恵上人の歌の解説であったような記憶があるが定かではない。ご縁があって、岡先生の没後、墓参と追悼の集いになった春雨忌に出席した時に、出席者の口から岡先生が語ったことして聞いたのかもしれない。
京都から帰ったらポストに赤間神宮の青田國男さんが編集する『真情』第六十四号が届いていて、ページをくくると、いつものように京都産業大学での岡先生の講義録が載っていて、明恵上人の歌に触れていてその評がある。
隈もなく照れる心の輝けば 
わが光かと月思うらむ
雲を出てわれに伴ふ冬の月 
風や身に沁む雪やつめたき
山の端にわれも入りなむ月も入れ 
夜な夜な毎にまた友とせむ
いずれの歌にも心に濁りがないという。そして仏教では真我というが、岡先生の直接の表現ではないが、私心がきわめて少ない人であると言っている。明恵上人という人は自分という存在をなるべく小さくしながら、仏の導く道を追究してやまなかった人のように思う。
 今年の七月に、北茨城の五浦に岡倉天心の六角堂を訪ねた時、岡倉天心がインドに惹かれていったと同じようにインド(天竺)に本気で渡ろうとした僧の存在を知った。上恵上人その人だった。仏教の教えというよりは、釈迦その人を慕う純粋な気持から天竺に渡ろうとしたというのである。そのことがあって、人なりを詳しく知りたいと思うようになった。白州正子の『明恵上人』、文化庁長官で心理学者の河合隼雄の『明恵 夢を生きる』はとても参考になった。河合先生は、ユングの研究者で、大学時代京都にいたので、箱庭療法などを通じて勉強させていただいたことを覚えている。最近脳梗塞で入院したという記事を見たが、お元気なのであろうか。
 明恵上人は、一一七二年に生まれ六十歳まで生きた。鎌倉時代初期の宗教家である。紀州和歌山の生まれで、父親は平重国という平家の武士であった。母親は、紀州の豪族であった湯浅氏の娘である。明恵は、若くして相次いで両親を亡くす。母親は、八歳の時に死に、父親は、九歳の時に、頼朝挙兵の中で戦死した。叔父にあたる上覚に頼って高雄に入山する。上覚は文覚の弟子であった。文覚は、荒法師として知られているが、東寺や神護寺の再興に貢献している。周旋家というか、政治に首を突っ込み過ぎ、島流しになったりしている。僧になる前は武士で、友人の妻を切り殺すという履歴の持ち主である。明恵とは対照的な血の気の多い人物と後世に伝えられている。明治の彫刻家、荻原碌山は、文覚像を製作しているが凄みのある表情と腕組していかにも厳めしい人物像が表現されている。
 明恵上人は、エピソードが数々あり、それをつなぎ合わせていくとその人なりが浮かび上がってくる。ひとつは、美男子であって女性にもてては仏教の修行に妨げになると思い、あるいは将来出世して地位を得るようなことがあると困ると思い、自分の身体を傷つけることを考えた人で、その窮極は仏画の前で右の耳を切ってしまった。ゴッホと比較しては悪いのだが、明恵の場合は覚悟の上の行為であった。明恵上人樹上座禅像は左向きに書かれているから耳がある。描いた忍性の配慮なのであろう。
 十三歳の時には「既に老いたり」という自覚を持ち、肉体の存在が煩悩や苦悩を生むと考え、墓場に夜出かけていき、野犬に身を食わせようとしたことがあったらしい。野犬は臭いを嗅ぐだけで去ったが、さすがに恐くなって、二度とはそのような行動には走らなかった。後年、明恵上人が笑い話として語った話である。
 白州正子がエッセイ『明恵上人』の書き出しで春日竜神という能の話を書いているのだが、明恵上人が天竺行きのため暇乞いに春日神社をお参りすると、「上人は日本に残って、上人を慕う人々を救うべきだ」と引き止める翁が登場して、最後は天竺行きをあきらめるという内容になっている。釈迦の教えは釈迦の生れたところに行かないとわからないというのは、正しい考えだと思う。高山寺に来なければ、明恵上人のことがわからなかったこともあるのだから。しかし、鎌倉時代にあっては天竺まではあまりにも遠く、移動の方法も不可能に近かった。
 なんと言っても明恵上人を名高くしているのは(本人が望んだ結果ではない)『夢記』に若い時からの夢を日記のように書き続け、それを分析し思索をしたことであろう。河合隼雄が心理学者として着目した点である。一点に関心を持ち続けると数日も眠らず考え続けた岡潔と似ている。天才と呼ばれる条件の一つの資質が確実に明恵上人にはある。
 鎌倉時代は、多くの新しい仏教が生れた。法然、親鸞の浄土宗は大衆の宗教になった。栄西、道元の禅宗は武士に広がった。しかし、明恵上人の宗教が宗派を作っているという話は聞かない。ただ、明恵上人のファンはいるということはわかる。山深い、栂尾まで男一人で来る人間がいるということである。
 世俗とは無縁に見える明恵上人でも、鎌倉幕府の三代執権である北条泰時に精神的な影響を強く与えたことは、武士の規範の原点になった、御成敗式目を作らせたことに繋がっているし、日本の最初の茶畑を作り茶の効用を広めたのは、明恵上人で、今も杉木立の中、日が差しこみ明るくなっている場所に茶畑が残されている。
 明恵上人の辿りついた言葉は七文字の中にあるのだというのが白州正子がエッセイで言きたかったことらしい。それは、漢字を充てているが、
 「阿留辺幾夜宇和(あるべきようわ)」
というのであるが、あるがま、自然が良いのだと理解したいが大雑把に過ぎるだろうか。明恵と同時代の聖人、アッシジのフランシスコという人はあまりにも似ている。高山寺とアッシジの聖フランシスコ」教会は兄弟教会の約束が結ばれているという。

        拙著 『翁草』より


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