2012年09月27日
岡潔博士との一期一会
心に浮かぶ歌・句・そして詩26
月ぞしるべ こなたにいらせ旅の宿
芭蕉
芭蕉が20歳頃の作品とされているこの句は、俳句を嗜む人にもさほど知られてはいないだろうと思う。しかし、この句は私にとって忘れられない句になった。25歳の冬、著名な数学者であった、岡潔博士を自宅に訪問し、お話を伺う幸運があった。お話というより、講義に近かった。このことが、我が人生行路の導きとなった。次の一文は、岡先生との対面した場面を綴ったものである。
懐かしさということ
下関の赤間神宮に岡潔先生揮毫の俳句二句が掛軸になって奉納されている。当社の神官をされている青田兄が、春雨忌に持参されるので暗誦することができる。その句は
青畳 翁の頃の 月の色
めぐり来て 梅懐かしき 匂いかな
岡先生に教えられたことの一つに、過去が懐かしいというのはどういうことなのか、ということをあらためて考えるようになったことである。
昭和五十二年二月十二日に、友人にたまたま連れられて、岡先生にお会いすることができたのだが、考えれば、先生が他界された約一年後、群馬県伊勢崎市在住の黒田兄をお訪ねしたときに
「先生は、あなたをお呼びになったのですよ」
と言われ、とても不思議な気持ちとなり、何ともいいしれない緊張感を感じたのを覚えている。造化の存在をほのかに意識した人生の出発点になったからである。
岡先生にお会いしたときの思い出というか、雰囲気、何か品のある香りのような気がしているのだが、私にとって忘れることのできない印象として残っている。どうしてなのか説明できるものではないが、目を瞑ると、いつでもあのときの情景が鮮明に浮かんでくるのである。それは、一言で言うと、ただ懐かしいというしかない。先生のお話の内容は、私にはわかりにくいものであったが、見知らぬ青年に、あれほど真剣に、誠実に高齢のお身体も忘れて語ってくださったお姿に先生の真心を感じざるを得なかった。それが懐かしさの源となっている。私は、それまでの人生の中でこのような方にはお会いしたことはなかった。
過去の情景が鮮明で懐かしいその場面に少し立ち戻ってみたい。面会を頼んだ友人が、私を上座につかせたために、先生と直接対面することになってしまった。今から考えると、幸運だったのかもしれない。人は、対座して会うべきである。先生は時おり目をつぶり、やや上方をみるように、心の流れるままに語られ、質問の余地はなかった。実際、友人が質問すると叱られた。先生のお話は、知識を教えているのではないことを、二十五歳の青年だった私でも、正面で聴いていて直感的にわかったから友人の質問がもどかしかった。
私の質問は二つ。お話の流れは切らないように配慮したつもりではあった。仏教のことに触れられ
「心を説明するのに仕方なく仏教の言葉を借りているが、〝ショカク〟ということが大事です」
とおっしゃったので、私が
「〝ショカク〟と言う字は、どのような字ですか」
と尋ねると
「初覚です。悟という字は私は好まない」
二番目の質問は、先生のお話があまりにも断定的で、叱られた友人への同情もあって
「・・・かもしれない」
とおっしゃったので
「先生にもおわかりにならないことがおありでしょうか?」
と言うと
「見るもの全てわかります」
と強く答えられたが、不思議と叱られた感じがしなかった。若気の至りというか、ずいぶん傲慢な質問をしたものだと思う。その後、先生の口調は優しい響きとなり
「川は明日も同じところを流れ、道もまたそのようであり、自然には法則があって安定している。全ては造化(大自然の善意)によって生かされている。心のないものはなく石にも心があります。自分が生きているなんて思わないこと。謙虚におなりなさい。でもあなたは、わかっているかもしれないな」
当時、職にも就かず、如何に生くべきか深刻に悩んでいたときで、自分の心をわかってくださる方がいるような気持ちになり、しかも心を洗われるような気分となり、涙がとめどもなく流れ、廊下に失礼させていただいた。その後、さわやかな気持ちが何日も続いた。一方、岡先生のお心を理解する人は、この世に少ないだろうと、孤高な先生の心境を想わざるを得なかった。別れぎわ、玄関までご不自由な体ながら見送ってくださったときの言葉も忘れられない。
ひざを組んで座られながら
「ここ(首)から下は、だめだけど頭は大丈夫、タクシーよびましょうか」
という言葉が、私にとって先生の肉声の最後となった。
「見たいところがありますので、歩いて帰ります。先生お体大切になさってください。ありがとうございました」
奈良公園界隈の景色がなんともいえない深遠さを持って見えたのを覚えている。あのときからはや二十一年の歳月が流れている。
私にとって懐かしさは、先生の言葉を借りれば、日本民族の心のいろどり、青田兄が編集されている「真情」に源を発しているのだと思う。先生にお会いする機会のあった人は数多くいると思うが、〝春雨忌〟に集う方々に接して感じることは〝共通した懐かしめる過去〟を持っていることである。今、先生の「真情」を一番良く体現されているのは、お嬢様である松原さおりさんだと思うが、いつも遠方にあって、お心遣いに感謝している。
(平成十年「真情会」発行、岡潔先生二十年祭記念号掲載)
月ぞしるべ こなたにいらせ旅の宿
芭蕉
芭蕉が20歳頃の作品とされているこの句は、俳句を嗜む人にもさほど知られてはいないだろうと思う。しかし、この句は私にとって忘れられない句になった。25歳の冬、著名な数学者であった、岡潔博士を自宅に訪問し、お話を伺う幸運があった。お話というより、講義に近かった。このことが、我が人生行路の導きとなった。次の一文は、岡先生との対面した場面を綴ったものである。
懐かしさということ
下関の赤間神宮に岡潔先生揮毫の俳句二句が掛軸になって奉納されている。当社の神官をされている青田兄が、春雨忌に持参されるので暗誦することができる。その句は
青畳 翁の頃の 月の色
めぐり来て 梅懐かしき 匂いかな
岡先生に教えられたことの一つに、過去が懐かしいというのはどういうことなのか、ということをあらためて考えるようになったことである。
昭和五十二年二月十二日に、友人にたまたま連れられて、岡先生にお会いすることができたのだが、考えれば、先生が他界された約一年後、群馬県伊勢崎市在住の黒田兄をお訪ねしたときに
「先生は、あなたをお呼びになったのですよ」
と言われ、とても不思議な気持ちとなり、何ともいいしれない緊張感を感じたのを覚えている。造化の存在をほのかに意識した人生の出発点になったからである。
岡先生にお会いしたときの思い出というか、雰囲気、何か品のある香りのような気がしているのだが、私にとって忘れることのできない印象として残っている。どうしてなのか説明できるものではないが、目を瞑ると、いつでもあのときの情景が鮮明に浮かんでくるのである。それは、一言で言うと、ただ懐かしいというしかない。先生のお話の内容は、私にはわかりにくいものであったが、見知らぬ青年に、あれほど真剣に、誠実に高齢のお身体も忘れて語ってくださったお姿に先生の真心を感じざるを得なかった。それが懐かしさの源となっている。私は、それまでの人生の中でこのような方にはお会いしたことはなかった。
過去の情景が鮮明で懐かしいその場面に少し立ち戻ってみたい。面会を頼んだ友人が、私を上座につかせたために、先生と直接対面することになってしまった。今から考えると、幸運だったのかもしれない。人は、対座して会うべきである。先生は時おり目をつぶり、やや上方をみるように、心の流れるままに語られ、質問の余地はなかった。実際、友人が質問すると叱られた。先生のお話は、知識を教えているのではないことを、二十五歳の青年だった私でも、正面で聴いていて直感的にわかったから友人の質問がもどかしかった。
私の質問は二つ。お話の流れは切らないように配慮したつもりではあった。仏教のことに触れられ
「心を説明するのに仕方なく仏教の言葉を借りているが、〝ショカク〟ということが大事です」
とおっしゃったので、私が
「〝ショカク〟と言う字は、どのような字ですか」
と尋ねると
「初覚です。悟という字は私は好まない」
二番目の質問は、先生のお話があまりにも断定的で、叱られた友人への同情もあって
「・・・かもしれない」
とおっしゃったので
「先生にもおわかりにならないことがおありでしょうか?」
と言うと
「見るもの全てわかります」
と強く答えられたが、不思議と叱られた感じがしなかった。若気の至りというか、ずいぶん傲慢な質問をしたものだと思う。その後、先生の口調は優しい響きとなり
「川は明日も同じところを流れ、道もまたそのようであり、自然には法則があって安定している。全ては造化(大自然の善意)によって生かされている。心のないものはなく石にも心があります。自分が生きているなんて思わないこと。謙虚におなりなさい。でもあなたは、わかっているかもしれないな」
当時、職にも就かず、如何に生くべきか深刻に悩んでいたときで、自分の心をわかってくださる方がいるような気持ちになり、しかも心を洗われるような気分となり、涙がとめどもなく流れ、廊下に失礼させていただいた。その後、さわやかな気持ちが何日も続いた。一方、岡先生のお心を理解する人は、この世に少ないだろうと、孤高な先生の心境を想わざるを得なかった。別れぎわ、玄関までご不自由な体ながら見送ってくださったときの言葉も忘れられない。
ひざを組んで座られながら
「ここ(首)から下は、だめだけど頭は大丈夫、タクシーよびましょうか」
という言葉が、私にとって先生の肉声の最後となった。
「見たいところがありますので、歩いて帰ります。先生お体大切になさってください。ありがとうございました」
奈良公園界隈の景色がなんともいえない深遠さを持って見えたのを覚えている。あのときからはや二十一年の歳月が流れている。
私にとって懐かしさは、先生の言葉を借りれば、日本民族の心のいろどり、青田兄が編集されている「真情」に源を発しているのだと思う。先生にお会いする機会のあった人は数多くいると思うが、〝春雨忌〟に集う方々に接して感じることは〝共通した懐かしめる過去〟を持っていることである。今、先生の「真情」を一番良く体現されているのは、お嬢様である松原さおりさんだと思うが、いつも遠方にあって、お心遣いに感謝している。
(平成十年「真情会」発行、岡潔先生二十年祭記念号掲載)
Posted by okina-ogi at 19:00│Comments(0)
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