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2012年09月27日

茶聖千利休

茶聖千利休
 平成十六年三月七日、裏千家の十六代坐忘斎千宗室家元が群馬県榛名町にある天台宗光明寺に訪れた。梅の花は少し開き、晴れてはいたが、風の強い寒い日であった。この寺に眠る祖先に十六代目を襲名した報告と献茶を行うためである。
光明寺の開基は古く、鎌倉時代以前である。寺には、最澄(伝教大師)の像があって、除幕式には当時の天台坐主山田恵諦も立ち会っている。全国数多い天台宗の寺の中でこの寺が由緒ある寺であることを、像の建立が物語っている。
参道の突き当たりの門をくぐると、直ぐ右側の一画に、「茶聖利休居士太祖之塋域」と書かれた石碑があって、塋域には供養塔が置かれている。利休居士の太祖とは、里見義俊のことである。その兄は新田義兼でその末裔に鎌倉幕府の執権であった北条氏を滅ぼした新田義貞がいる。新田氏の三代前が源義家(八幡太郎)であるから利休の遠祖ということになる。さらに源義家は、清和源氏であるから、千家は天皇家にまで繋がる。里見義俊は、光明寺一帯の土地の地頭であり、一一七〇年に光明寺に埋葬されたことがわかっている。義俊の子の義清が田中氏を名のり、その末が利休だと言われているのである。利休は、泉州堺に生まれたが初めの姓は田中であった。名は与四郎である。
利休の前に千家についてふれてみたい。初祖千宗易(利休)の死後、茶道とともに千家の二代目となったのは利休の娘婿であった。少庵の子、つまり、利休の孫にあたる千宗旦は晩年、隠居所として今日庵を建てた。それを受け継いでいるのが裏千家である。
表千家は宗旦の隠居前の庵、不審菴をその子宗左が引き継ぎ、現在、十四代千宗左が家元である。両家は上京区にあり、史蹟名勝となっている。
武者小路千家は、宗旦の子宗守が興した。現在の当主も、十四代である。三五〇年の長き間、三家は家の継承に助け合うことがあった。徳川御三家は、紀州、尾張、水戸だが、分家は、宗家を絶やさないための知恵である。
裏千家十四代の淡々斎宗室は、同志社大学を卒業している。千家は、利休以来、大徳寺に禅の道を学び心の修行の場としてきた。茶と禅宗は中国宋の時代から古く深い関係がある。岡倉天心の「茶の本」にも書かれている。
同志社は、キリスト教を建学の基礎にして新島襄が創設した大学である。キリスト教と茶道、この組み合わせも明治という時代がもたらした流れかもしれない。裏千家茶道愛好者のための淡交会は、淡々斎宗室が始めたもので、今日では海外にも支部がある。その後、十五代鵬雲斎宗室も同志社大学に学び、現、家元坐忘斎宗室も同志社大学を卒業している。三代が続けて同志社に学んだ。
十六代は、同志社大学文学部文化学科心理学専攻で、一九七五年度に入学している。私事になるが、約二十年前、同窓会報を編集されていた恩師橋本宰先生から原稿依頼があり、送られてきた原稿が千宗之となっていた。肩書きには裏千家若宗匠とあった。現、家元が四年後輩だということを知った。「悲願と感受」というタイトルで原稿を出したことを覚えている。
 無論、家元とは面識があるわけではない。けれども、その人物が、我が家の菩提寺である光明寺を訪れるという二重の縁(えにし)に心ときめくものを感じた。一期一会というのは茶の世界に通じるものがある。手紙を書いたら、淡交会本部の関根さんという専務理事の方から達筆な封書に丁寧な返書が送られてきた。献茶会にご案内致しますというのがその内容である。
 群馬県の淡交会に所属する茶道の先生に便宜を計らっていただき、献茶会に出席することは出来たが、直接家元には会うことはできなかった。心にときめきを感じながら会えないということもある。
 午前九時半、定刻の時間に裏千家家元は光明寺に到着。黒塗りの高級車に乗って境内に入る。後部座席のドアが開き、出迎えの群馬淡交会の重鎮らしき人物と挨拶を交わし、本堂に向う家元の姿が目に入る。その身のこなしに高貴な印象は持った。翌日の新聞の地方紙に、「茶聖利休居士太祖之塋域」に合掌する家元の姿を見た。
 献茶会は、寺に増築された真新しい茶室で行われた。家元が茶を点てたのは限られた人達である。けれども、家元が寺を後にしてから、同じ茶室で茶を飲むことが出来た。茶席には、約四〇人程の人がいた。めぐり合わせか、正客の席に坐る人がいない。男性は数人。茶道の心得のない者が茶釜に最も近い席に坐らせられてしまった。
 何か役割があるとは知りながら、「特別な役割はありませんよね」と言って席に着いた。
大変な緊張感である。和菓子を頂き、黒塗りの茶碗でお茶を頂く。目の前で茶を点ててもらったのは正客の特権である。家元には茶をいただけなかったが、自分から望んだわけではなくその席に着いたことが、何かのめぐり合わせだったのかと今にして思うのである。
 掛軸があって、そこには
「真佛坐屋裏」と書かれている。茶席にいる人の中から、その意味を尋ねる人がいた。それこそ、正客の役割ではないか。
 振り返ってその掛軸を見たとき、今日の献茶式に相応しいものだと思った。意味は、「尊い仏様は、家の奥あってただ坐っていらっしゃる」
裏千家の「裏」、坐忘斎の「坐」、光明寺の「佛」が五文字の中に入っている。退席する時に気づいたのだが、家元の母君と、弟君の写真が飾られていた。伊住宗晃宗匠が他界されていたことは知らなかった。
 現家元の母、鵬雲斎宗室夫人のことは、『母の居た場所』中央公論社、千宗之著で知った。近江商人の出で、五個荘が先祖の地である。
 若竹の伸びや日の恩土の恩
という吉川英治の句があるが、現家元の両親の結婚式の仲人が吉川英治で、この句が鵬雲斎宗室夫人に贈られたことを始めて知った。鵬雲斎宗室は、水戸黄門を演じた、俳優西村晃と親しかった。特攻隊員だった縁らしい。裏千家の若宗匠が特攻隊員であったというのも凄い話である。
 『本覚坊遺文』という井上靖の小説がある。熊井啓監督により映画にもなった。利休がなぜ秀吉から死を命ぜられたのかを、三井寺の僧、利休の弟子本覚坊の追想のようにして語らせている。
 利休は一五二二年に生まれている。茶は、武野紹鷗に学び、侘び、寂びという独自の世界を確立し、茶の道を大成させた。宗祇らの俳諧を、蕉風という独自な芸術性を俳句に確立した松尾芭蕉との関係に似ている。
 利休は、織田信長、豊臣秀吉という権力者に仕えた。千姓は信長から与えられた。信長は、天下統一を目前にして本能寺で死ぬが、前日には茶会が開かれていた。戦国武士の間では、生死が背中合わせの日々に、利休が点てる茶に心を癒すことができたのであろう。古田織部、蒲生氏郷、細川三斎、キリシタン大名で知られる高山右近などの武士が、利休の門を叩いたのである。
 出陣の前に茶を点てることもあった。十五代鵬雲斎宗室も特攻隊員にヤカンで湯を沸かし茶を点てたという。秀吉から利休が死を賜ったとき、利休は申し開きをしなかったという。それは、自分の茶が多くの人々を死地に向わせたことへの、自戒の念もあったのではないかと言われている。
 秀吉は、信長の悲願を引き継ぎ天下統一を成し遂げた。下層農民から、実質的な日本の支配者になった、秀吉の政治的資質は、天運もあったであろうが、稀有なものであった。その秀吉が最後まで支配できなかったのが利休の心ではなかったかと思うのである。
 利休の造った茶室は、にじり口から身を屈めて入らなければならない。天下人、貴人も同じである。そして、数畳の狭い部屋で宗匠の点てるお茶を静かに飲むのである。
利休は、その茶室の周りに朝顔を弟子に植えさせ綺麗に咲かせた。それを知った秀吉が茶室を早朝訪ねると、あるべき朝顔は、全て刈り取られていた。そして、いつものようににじり口から茶室に入ると、利休がいて床の間にはただ一輪の朝顔が生けられていた。
金の茶室と質素な茶室に一輪の朝顔。これが秀吉と利休の茶を通した心の世界の違いとみることができる。京都北野での大茶会も秀吉らしい。ただ身分の差なく誰もが参加しても良いというところは、当時からすれば革新的な発想ではある。
 禅の言葉に「名利共休」というのがある。名誉もお金も求めない。そのかわりに自分の心が喜ぶことになる。「みょうりともにきゅうす」、千利休の名の由来である。
 権力者秀吉は、利休を恐れていたのではないだろうか。それは、表向き従順に茶人として振舞う利休ではあったが、どうしても支配できない利休の心の世界を感じていたからである。
 利休は、罪を犯して切腹したわけではない。人類の罪を一身に受けて十字架上に死んだキリストの死とも違う。
 小説『本覚坊遺文』の中に、不思議な場面がある。
掛軸に、ただ「死」という文字が書かれている。茶室にいるのは三人。ただもう日は暮れていて利休の他二人が誰なのか、控えの間にいた本覚坊の記憶には定かではない。利休ではない一人が言う
「無では無くならない、死では無くなる」
「無」という文字を掛軸にしたのではこの場の三人の心には相応しくないというのである。声の主は、山上宗二であり、彼は秀吉に茶を点て、その場で茶の心は秀吉の考えているようなものではないと言って殺されたと言われている。その時、耳や鼻を削がれたと言うから恐ろしい。もう一人は古田織部であるが、後年、家康に死を命ぜられている。豊臣方に通じたと言うのが理由だが、利休同様申し開きはしなかった。
 秀吉の暗殺を企てたという石川五右衛門の釜茹での刑は、てっきり水だと思っていたら油だったという話も聞いたことがある。秀吉が残酷だということを言っているのではない。権力という魔力が、人をしてこうした非人道的行為を生む可能性があるのである。
 利休が、秀吉により「死ね」ということになった理由は何であろうか。岡倉天心の『茶の本』には、利休が秀吉の飲む茶碗に毒薬を塗り、毒殺しようとしたからだと書いてあった。秀吉に告げた者があるらしい。利休の心の世界を支配できなかった秀吉でも、利休を殺したいというほどの憎悪は自ら起こすことはなかったと思う。権力者であったからの悲劇であったと言っても良い。井上靖の見解もそのように感じられる。
 利休と秀吉の最後の点前に
「死ななくとも良い」
と秀吉が言うと
「そうはまいりません、上様は利休に刀を抜きなされました」
と言う
「そう、強情を言うべきではない」
と秀吉は、利休が命乞いをして、自分に服従することを期待するが、茶室の床の間には、竹に短刀が刺さっている置物があり、利休の決意を表わしている。映画『本覚坊遺文』では、利休が三船敏郎、秀吉は芦田伸介である。
 死よりも心の自由が欲しいという人も中にはいるのである。こういう人は、一〇〇人に一人はいない。この時、利休が秀吉に
「お許しください」
と言っていたら今日の千家の隆盛はない。
利休は、弟子たちと別れの茶式に臨む。形見にと色々な品を贈るが、茶碗だけは譲らず「不幸の人のくちびるによって不浄になった器は決して再び人間には使用させない」と言ってなげうって割る。七十年の生涯であった。
 大徳寺の山門に自分の像を作って置いた、そのため天下人である秀吉がその下をくぐることになる。また、名声をよきことに茶器の値段を上げて利益を得たとか、秀吉の怒りに触れた理由は後世いろいろ言われているが、朝鮮出兵に苦言を呈したと言うのが、信憑性があるような気がする。徳川家康ら多くの有力大名ですら、秀吉に反論できなかった。茶とは心の平和をめざす道。利休なら言いかねない。
北原白秋が作詞した「城ヶ島の雨」という歌がある。
雨は降る降る、城ヶ島の雨
利休鼠の雨が降る
利休鼠とはどんな色なのか、茶聖利休の好んだこの色を一度見てみたいものである。


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