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2012年11月11日

藤原京を行く(2012年11月)

 最近、津田左右吉博士の『古事記及び日本書紀の研究』が出版され、読む機会があった。戦前の皇国史観からすると不敬罪に当たると告訴される原因を作った著書のひとつである。前書きを、東大総長だった南原繫が書いている。専門家でなければ分からない記述があり、極めて難解な著書である。博士の言わんとすることは、『古事記』や『日本書紀』が全て歴史の事実を語っていないということである。ただし、書かれている内容が、現代人からすれば不合理に見えても、当時の人々は、芯からそのように考えたということを想像しなければならないとも言っている。皇室の歴史的存在を否定しているわけではない。天皇制を批判したわけでもない。戦後は、早稲田大学の総長の依頼に対し固辞し、学究の道を続けている。文化勲章を受賞し、天皇制は、民主主義社会に適応できると、左翼的な人からは、変節したのではないかと批判を受けた。博士の考えは、戦前も戦後も一貫し、世に媚びることはなかったと言える。
 
藤原京を行く(2012年11月)

『古事記』は、712年、『日本書紀』は、720年に編纂されている。今年は、『古事記』成立から一三〇〇年になる。近年、太安万侶の墓が特定された。哲学者の梅原猛は、『古事記』の編纂者は、藤原不比等だという新説を出しているが、都が藤原京にあった時代である。藤原京は、かなり広大で、大和三山を包み込むような広さがあるように想定されている。天武天皇は、壬申の乱後、飛鳥浄御原宮で即位したが、藤原京に遷都したのは皇后の持統天皇であった。この都も、710年に遷都され、わずか十六年間しか使用されなかった。政権が成熟安定するための遷都かと思うがめまぐるしい。『古事記』の完成には天武天皇の発案からだとすると、四半世紀以上の長きに渡って編纂されたことになる。大事業である。
 


 ローマ帝国の時代の史跡は、古い文献が残され、多くは歴史的建造物として説明できるし、紀元前の物も保存されている。石造建築ということがそれを可能にしているのだが、文字を持っていたことが大きい。中国の歴史も同じである。日本は、古墳が多く残されているが、その時代の書物はない。というよりは、記述するすべがなかった。正確な歴史書ではないにしても、『古事記』や『日本書紀』が、古代史の覗き窓になっているのである。



「大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鷗立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」
天智天皇、天武天皇の父君である舒明天皇の有名な国見の歌が、頭の片隅にあり、国見をしたと伝えられている天香具山に登ってみようと思い立ったのが、今回の奈良行きの動機になっている。還暦を過ぎ、これまで全国各地を旅してきたが、行き着くところは、日本の故郷ともいうべき奈良を年に一度は訪ねてみようと思うことである。その手引書は、『古事記』、『日本書紀』、『万葉集』ということになるのだろうが、多くの先人が、登ろうとしても登れない山である。学問的に深入ることはできない。自分にできることは、ただ大和路を歩くだけである。
 藤原京を行く(2012年11月)


 十一月四日(日)の奈良公園は、多くの人々で賑わっている。正倉院展が奈良国立博物館で開催されている。第六十四回となり、昨年に続き鑑賞することにした。今年展示される宝物のメインは、瑠璃の坏(つき)と螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ)である。他にも、至宝の品々があるが、この二つの宝物の前に人が群がっていた。まじかで見ようとすれば、順番待ちになる。この後、天香具山に登り、日の暮れないうちに法隆寺に近い友人を訪ね旧交を温める予定になっている。あまりゆっくりと見ているわけにはいかない。興福寺の金堂の解体工事を横目に見ながら、近鉄奈良駅に急ぐ。橿原神宮までは、四十分程かかる。途中田原本という駅があったが、この地は太安万侶のゆかりの地だという。墓は、奈良市郊外の茶畑のある田原地区にある。近くには、志貴皇子の稜がある。機会を見て訪ねたいと思っている。
 橿原神宮に着いたのは、二時に近かった。駅から少し距離があり、境内も広く、参拝すれば、藤原京から天香具山まで徒歩での往復で日が暮れてしまう。友人を待たせるわけにもいかない。かといって、明日は早く奈良を立ち、上野で「出雲―聖地の至宝展」を見たいとも考えていた。思案し、畝傍山を背景にした神殿に拝礼していたら、博物館は月曜日で閉館だということに気づいた。明日、ゆっくり見ればよいという結論になった。
 友人宅は、聖徳太子とゆかりのある信貴山も近いのだが、長屋王とその妃である吉備内親王の墓がある。徒歩では遠く、訪ねることはできなかった。長屋王は、天武天皇の孫にあたり、壬申の乱で功績のあった高市皇子の長男であった。天皇の位につく資格もあったが、左大臣となって国政を担った人物である。しかし、藤原不比等の息子達の策略により、妻や子供達と死に追いやられた悲劇の人物である。後世、無実の罪だったとされる。近年、平城京に隣接する土地にスーパーが建つことになり、発掘調査が行われ、数々の出土品から長屋王の屋敷跡だということが判明した。結果的には、スーパーが建設され、史跡として保存されることにはならなかった。これもまた悲劇と言って良い。
 


 友人宅から、橿原神宮駅までは、近鉄を乗り継ぐことになる。藤原京あたりには、それほど史跡はない。夜遅くなっても今日中に帰宅すれば良いので、橿原考古学研究所の付属博物館で情報を仕入れて、ゆっくり天香具山まで歩けば良いと思ったら、月曜日で閉館だった。昨日、来館しておけば良かったと思ったが、後の祭りである。「日本国の誕生に迫る」という特別展が開催されていた。行き当たりばったりの計画だったと言わざるを得ない。
 橿原神宮駅の一つ手前の畝傍御陵前駅から歩きだす。コインロッカーが見つからず、キャリーバックを引きづりながらとなった。お土産を友人に渡しているので軽くはある。しかし、散策するには褒められた格好ではない。最初の史跡は、本薬師寺跡である。天武天皇の発願で建立されたが、今は礎石が残されるのみである。平城京遷都とともに、西の京に移された。周囲には、ホテイアオイが水田に植えられ、紫の花がまばらに咲いている。最盛期は過ぎているが、粋な計らいである。満開に咲く時期の景観は、さぞ壮観であろう。
 藤原京を行く(2012年11月)


 藤原京の内裏跡に行くには、少し遠回りになる。なるべく天香具山までは、直線的に歩きたい。飛鳥川を渡りしばらく行くと、朱雀大路跡の史跡が目に入る。北に目をやると、田園地帯が広がり、はるか先に、朱色の杭のようなものが見える。そのあたりが、内裏跡である。その先に耳成山が見える。藤原京を横目に見ながら、車がしきりと通る広い道の歩道を行くと、正面に目指す天香具山が見えてきた。もう一キロの距離はない。山の近くまで民家が迫り、登山口がわからない。農家らしい家の脇道が坂になっているので、そのまま登っていくと、登山口の標識があった。道も整備され一〇分ほどで頂上にたどりつくことができた。あたりは、木々が生い茂り、一方向しか見ることができない。その方向に、畝傍山が見えるようになっている。椅子に座り、往時を想い、しばらく眺め入った。誰も頂上にはいない。帰り際、地元の子供らしい数人が、母親らしき人と登ってきたが、すぐ下って行っていなくなった。登り口は数か所あるらしい。国見の歌にあるような、池は見られなかったが、「国見」の達成感が残った。
 秋更けて
天香具山我一人
        優海


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Posted by okina-ogi at 07:09│Comments(0)旅行記
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