2012年12月01日
霊峰富士
霊峰富士
小田原から沼津、戸田から修善寺、韮山への小旅行の余話のつもりで書いている。海上から、まじまじと見た富士の美しさが忘れられなかったからである。幾度となく、東海道を新幹線で行き来した時に見る富士は、ほんの一瞬であり、視界の関係ですっきりした富士を見ることもまれであり、読書していたり、眠っていたりする間に見過ごすことが多い。
これまでの人生で、随分と山登りをしたつもりでいる。いまだに、職場の山岳同好会のようなグループに籍を置いて、毎年のようにハイキングを楽しんでいる。憧れだった、尾瀬は山登りとは言えないが、帰路は立派な山登りである。黒姫山では、遭難(?)しかけた経験もある。しかし、富士山は未踏頂のままである。還暦近くになって、体力的なことも考えれば、登ってみようという気も起らない。富士山は、遠くから眺めるだけで良いと思っている。古来、富士山は、霊峰富士として多くの日本人に親しまれ崇められてきた。葛飾北斎や、安藤広重の浮世絵などは見事だし、多くの画家の題材にもなっている。
沼津港から戸田港まで、高速船に乗って振り返るように見た富士山が強く印象に残った。山の形が美しいのはもちろん、海面から四〇〇〇メートル近く聳える様は、圧巻である。海上から鳥海山は見たことはないが、その高さからすれば富士山には及ぶまい。
冬波に 揉まれて富士の高嶺かな
あまりにも美しいものを目にした時には、こうした月並みの俳句しか浮かばないものである。沼津の海、千本松原、そして富士の眺めを愛した歌人が、若山牧水であるが、牧水の歌集を眺めていたら、富士山の歌があった。歌からも判るのだが、戸田港から沼津港へと向かう時に、詠まれたものである。
伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
「ゆ」というのは~からという意味で、山部赤人の
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りけり
もその意味で、後に藤原定家が「ゆ」を「に」に、「真白にそ」を「白妙に」に変えて百人一首に載っているが、こうした行為は如何なものか。牧水の歌に戻るが、「はしなく」という表現が、彼の感性だが、戸田港というのは小さな円形の湾になっていて、岸壁からは富士山は見えない。湾を出た時に、富士山が見えてくるのは事実で、その場所に行かなければこうした歌にはならない。俳句同様、短歌も観念的に作るものではないかもしれない。しかし、こうしたことは、絶対にということではなく、議論があり、人によって主張するところがあって良い。
野のはてにつねに見なれし遠富士をけふは真うえに海の上に見つ
「真うえに海の上に見つ」という富士山は、実際その環境で見たものとして同感する。
見る見るにかたちを変ふる冬雲を抜き出でて高き富士の白妙
富士山の姿は、高山独得の気象の変化によって、雲が湧き、その姿を隠したりすることがある。今回、海上からみた富士は、すっきりと最後まで見えた。しかし波が高く、船は水飛沫をかぶり、船内で安全を祈る時間が多かった。
若山牧水は、本名を若山繁といった。宮崎県臼杵の出身で、明治一八年に生まれている。父親は、医師であったが、祖父の代に築いた財産を、散財するような生き方をした人のように牧水の随筆『おもいでの記』に書かれている。好人物だったのであろう。一番上の姉とは、二〇歳もの歳の差があり、物心ついたときは、好々爺の印象があったという。そんな父親でも、早稲田大学に進学させてもらえたのだから、それなりの財力はあったのであろう。父親も牧水同様に酒に目がなかった。
随筆で私事に触れるのは、流儀に反するのだが、私の父も酒が好きであった。しかも社交的な人で、どちらかというと酒を飲むときは、気前がよく奢る人だったと思う。我が家の恥を晒すようだが、地主だった田畑を父の代に随分手放している。子供を、大学まで出してくれたのだから、文句は言えないが、酒は父のように飲まないと思っていた。遺伝なのだと言い訳にしているが、いつのまにやら継承してしまっている。この年になると、他界して久しくなる父親批判もしにくくなっている。
牧水の酒の歌を集めた文集が出ている。若山牧水記念館で買ったのだが、三六七もある。二つ減らせばカレンダーができるではないか。広く知られた彼の代表作は
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
だが、家族との晩食、宴会、法事の場といった一人酒ではない気分も亦よいと思うのだが、牧水は、淋しさ、悲しさを酒に求めるところがあった。というよりは、読者を意識したところもなきにしもあらずという印象がある。歌を業とする人でもあったからである。良寛の酒の歌がある。
あすよりは後のよすがはいさしらず今日の一日は酔いにけらしも
屈託がない。
人は、どのような時に酒を飲むのだろうか。おおよそ非日常の祭りなどは、酒に普段縁のない人も口にすることがあるし、旅先での宴会などは、つきものである。寂しさをまぎらす一人酒は、度を過ぎて命を縮めることにもなる。適度な晩酌は、良き睡眠に誘う百薬の長である。牧水の飲み方は、日常にあってどうであったかというと、朝二合、昼二合、晩六号、一日一升というからこれでは肝臓が悲鳴を上げる。事実、肝硬変が死因になっている。彼の飲み方は、小さな盃で、棺に入れたが前よりも増して盃の絵模様の色合いが良くなり、記念館に展示されているという。「我は蘇りなり」である。
青柳に諞蝠あそぶ絵模様の藍深きかもこの盃に
伊豆の旅から、年が明け二月になって、二人称というべき人の死に出会った。一人は医師で、酒をこよなく愛し、歴史に詳しく趣味人であった。
「一将功なりて万骨枯る」
ゴルフの後に誘われてご馳走になったのだが、酒の中での会話の内容などは、記憶に残らないものだが、十年以上も前のことでも良く覚えている。
「一升こうなりてばんこつかる」
てっきり、酒の「一升」だと思っていたら、「将」だという。一人のリーダーが功をなり遂げる過程に、多くの人々の見えない働きがあることを忘れないでほしいというのである。日露戦争の激戦だった二〇三高地の戦いのことを連想し
「乃木大将の漢詩にある言葉ですか」
と問うと、唐の詩人の言葉だという。享年七一歳であった。
もう一人は、高名な老年学の権威である。昭和一六年、彼が一七歳の時、富士山に近い身延山の階段に物乞いするハンセン病の人々の姿を見た。その強烈な印象は、脳裏から消えず、自身結核にも罹り、大学を三〇歳近くで卒業し、岡山の長島という島にハンセン病の人々が社会から隔離された施設に志願するように就職した。その後、老人福祉に転じ、厚生省に老人福祉専門官として奉職し、大学教授を経て、退官後は持論通り、有料老人ホームの年金生活者となり、執筆活動を続けた人である。学問的に老人問題を考えてきたが、老人にならなければ書けないことがあると、晩年『老いと死を考える』という本を書いた。有言実行の人で、長く指導していただいた。内村鑑三の流れをくむ無教会派のクリスチャンであった。酒とは縁のない方である。享年八八歳であった。酒もほどほどにということであるが、テーマを持った人生を過ごしたい。
小田原から沼津、戸田から修善寺、韮山への小旅行の余話のつもりで書いている。海上から、まじまじと見た富士の美しさが忘れられなかったからである。幾度となく、東海道を新幹線で行き来した時に見る富士は、ほんの一瞬であり、視界の関係ですっきりした富士を見ることもまれであり、読書していたり、眠っていたりする間に見過ごすことが多い。
これまでの人生で、随分と山登りをしたつもりでいる。いまだに、職場の山岳同好会のようなグループに籍を置いて、毎年のようにハイキングを楽しんでいる。憧れだった、尾瀬は山登りとは言えないが、帰路は立派な山登りである。黒姫山では、遭難(?)しかけた経験もある。しかし、富士山は未踏頂のままである。還暦近くになって、体力的なことも考えれば、登ってみようという気も起らない。富士山は、遠くから眺めるだけで良いと思っている。古来、富士山は、霊峰富士として多くの日本人に親しまれ崇められてきた。葛飾北斎や、安藤広重の浮世絵などは見事だし、多くの画家の題材にもなっている。
沼津港から戸田港まで、高速船に乗って振り返るように見た富士山が強く印象に残った。山の形が美しいのはもちろん、海面から四〇〇〇メートル近く聳える様は、圧巻である。海上から鳥海山は見たことはないが、その高さからすれば富士山には及ぶまい。
冬波に 揉まれて富士の高嶺かな
あまりにも美しいものを目にした時には、こうした月並みの俳句しか浮かばないものである。沼津の海、千本松原、そして富士の眺めを愛した歌人が、若山牧水であるが、牧水の歌集を眺めていたら、富士山の歌があった。歌からも判るのだが、戸田港から沼津港へと向かう時に、詠まれたものである。
伊豆の国戸田の港ゆ船出すとはしなく見たれ富士の高嶺を
「ゆ」というのは~からという意味で、山部赤人の
田子の浦ゆうち出でてみれば真白にそ富士の高嶺に雪は降りけり
もその意味で、後に藤原定家が「ゆ」を「に」に、「真白にそ」を「白妙に」に変えて百人一首に載っているが、こうした行為は如何なものか。牧水の歌に戻るが、「はしなく」という表現が、彼の感性だが、戸田港というのは小さな円形の湾になっていて、岸壁からは富士山は見えない。湾を出た時に、富士山が見えてくるのは事実で、その場所に行かなければこうした歌にはならない。俳句同様、短歌も観念的に作るものではないかもしれない。しかし、こうしたことは、絶対にということではなく、議論があり、人によって主張するところがあって良い。
野のはてにつねに見なれし遠富士をけふは真うえに海の上に見つ
「真うえに海の上に見つ」という富士山は、実際その環境で見たものとして同感する。
見る見るにかたちを変ふる冬雲を抜き出でて高き富士の白妙
富士山の姿は、高山独得の気象の変化によって、雲が湧き、その姿を隠したりすることがある。今回、海上からみた富士は、すっきりと最後まで見えた。しかし波が高く、船は水飛沫をかぶり、船内で安全を祈る時間が多かった。
若山牧水は、本名を若山繁といった。宮崎県臼杵の出身で、明治一八年に生まれている。父親は、医師であったが、祖父の代に築いた財産を、散財するような生き方をした人のように牧水の随筆『おもいでの記』に書かれている。好人物だったのであろう。一番上の姉とは、二〇歳もの歳の差があり、物心ついたときは、好々爺の印象があったという。そんな父親でも、早稲田大学に進学させてもらえたのだから、それなりの財力はあったのであろう。父親も牧水同様に酒に目がなかった。
随筆で私事に触れるのは、流儀に反するのだが、私の父も酒が好きであった。しかも社交的な人で、どちらかというと酒を飲むときは、気前がよく奢る人だったと思う。我が家の恥を晒すようだが、地主だった田畑を父の代に随分手放している。子供を、大学まで出してくれたのだから、文句は言えないが、酒は父のように飲まないと思っていた。遺伝なのだと言い訳にしているが、いつのまにやら継承してしまっている。この年になると、他界して久しくなる父親批判もしにくくなっている。
牧水の酒の歌を集めた文集が出ている。若山牧水記念館で買ったのだが、三六七もある。二つ減らせばカレンダーができるではないか。広く知られた彼の代表作は
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
だが、家族との晩食、宴会、法事の場といった一人酒ではない気分も亦よいと思うのだが、牧水は、淋しさ、悲しさを酒に求めるところがあった。というよりは、読者を意識したところもなきにしもあらずという印象がある。歌を業とする人でもあったからである。良寛の酒の歌がある。
あすよりは後のよすがはいさしらず今日の一日は酔いにけらしも
屈託がない。
人は、どのような時に酒を飲むのだろうか。おおよそ非日常の祭りなどは、酒に普段縁のない人も口にすることがあるし、旅先での宴会などは、つきものである。寂しさをまぎらす一人酒は、度を過ぎて命を縮めることにもなる。適度な晩酌は、良き睡眠に誘う百薬の長である。牧水の飲み方は、日常にあってどうであったかというと、朝二合、昼二合、晩六号、一日一升というからこれでは肝臓が悲鳴を上げる。事実、肝硬変が死因になっている。彼の飲み方は、小さな盃で、棺に入れたが前よりも増して盃の絵模様の色合いが良くなり、記念館に展示されているという。「我は蘇りなり」である。
青柳に諞蝠あそぶ絵模様の藍深きかもこの盃に
伊豆の旅から、年が明け二月になって、二人称というべき人の死に出会った。一人は医師で、酒をこよなく愛し、歴史に詳しく趣味人であった。
「一将功なりて万骨枯る」
ゴルフの後に誘われてご馳走になったのだが、酒の中での会話の内容などは、記憶に残らないものだが、十年以上も前のことでも良く覚えている。
「一升こうなりてばんこつかる」
てっきり、酒の「一升」だと思っていたら、「将」だという。一人のリーダーが功をなり遂げる過程に、多くの人々の見えない働きがあることを忘れないでほしいというのである。日露戦争の激戦だった二〇三高地の戦いのことを連想し
「乃木大将の漢詩にある言葉ですか」
と問うと、唐の詩人の言葉だという。享年七一歳であった。
もう一人は、高名な老年学の権威である。昭和一六年、彼が一七歳の時、富士山に近い身延山の階段に物乞いするハンセン病の人々の姿を見た。その強烈な印象は、脳裏から消えず、自身結核にも罹り、大学を三〇歳近くで卒業し、岡山の長島という島にハンセン病の人々が社会から隔離された施設に志願するように就職した。その後、老人福祉に転じ、厚生省に老人福祉専門官として奉職し、大学教授を経て、退官後は持論通り、有料老人ホームの年金生活者となり、執筆活動を続けた人である。学問的に老人問題を考えてきたが、老人にならなければ書けないことがあると、晩年『老いと死を考える』という本を書いた。有言実行の人で、長く指導していただいた。内村鑑三の流れをくむ無教会派のクリスチャンであった。酒とは縁のない方である。享年八八歳であった。酒もほどほどにということであるが、テーマを持った人生を過ごしたい。
Posted by okina-ogi at 20:48│Comments(0)
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