☆☆☆荻原悦雄のフェイスブックはこちらをクリック。旅行記、書評を書き綴っています。☆☆☆

2012年12月31日

 山本覚馬のこと

 
 

 山本覚馬は、新島襄の夫人となった新島八重の兄である。同志社の創立と深く関わった人物として知っていたが、その詳細に立ち入って調べたことはなかった。いつ購入したのか記憶がないのだが、書棚を見ていたら、『山本覚馬傳』という本が目に入った。京都ライトハウス刊となっており、校閲は、私が学生時代の同志社大学の総長だった住谷悦治である。昭和五一年に発行されており、買い求めたがそのまま本棚に眠っていた可能性がある。著者は、青山霞村となっており、初版は昭和三年とある。改定増補と書かれているので再編集した復刻本である。青山は、同志社交友となっている。
 NHKで、新島八重の物語が、来年放映されることになり、にわかに書店に新島八重関連図書が並ぶようになった。そのため、八重の兄であり、同志社創立に関与した山本覚馬の人物像が語られている。その何冊かに目を通し、気づいたのは、この本からの引用がほとんどだと気づいた。同時に、山本覚馬という人が、世間に知られていないが、新島襄にも匹敵するように感じられてきた。ドラマで、どれほど紹介されるかは、分からないが、その人物像の概要を追ってみたい。
 山本覚馬は、会津藩の上士、砲術師範の家に一八二八年に生まれている。長男であり、弟は、鳥羽伏見の戦いの傷がもとで死に、妹の八重は末子で、覚馬との間の年の差は一七もあった。ちなみに八重の夫である新島襄とは一五の年の差である。他に兄弟が二人あったが夭逝している。
 会津には藩校である日新館もあり、幼い時から勉学に励み、成績も良かった。母親が賢い人でその影響が大きかった。成人してからは、砲術の勉強のために、佐久間象山や勝海舟に学び、生涯にわたり影響を受けることになる。高島秋帆や江川太郎左衛門にも間接的に学ぶところがあり、西洋砲術の優秀さを知った。洋式化を図ろうとしたが、藩の要職にあった人達に理解されず、一時、お役御免になったこともあった。
 薩長の攘夷による馬関戦争や薩英戦争で、日本の海防の守りの欠陥と、大砲の能力があまりにも非力だということがわかると、山本覚馬が再び登用されることになり、藩主が京都守護職になると、銃砲隊とともに都の治安の任務に就くことになる。禁門の変では、長州藩を破る活躍を見せたが、その戦いで眼を負傷し、それが原因で失明に至り、脊椎損傷も併発し、眼の見えない歩行困難な身体障害者になってしまう。鳥羽伏見の戦いには加われず、京都に残り薩摩藩により捕縛されてしまい、幽閉生活を送ることになるが、破格の待遇だったという。
 光を失い、行動の自由が奪われてしまう身になってから六五歳で亡くなる二〇数年間が、山本覚馬の真骨頂である。明治政府に罪を許された後、京都府の政治顧問となり、府政に関わっていく。その見識がどこから生まれたかというと、先にも述べたように、佐久間象山や勝海舟に加え横井小楠との親交があったこと。西洋留学から帰った西周(あまね)との交流による西洋知識の吸収であった。西を知ったのは勝海舟からの紹介だったらしいが、山本覚馬が西洋文明に関心をもっていた証拠である。西周は、津和野藩の出身で、森鴎外とも縁戚で、福澤諭吉のように西洋文明を日本に啓蒙した人物として知られている。
 人間の素質というものを考える時、志と人格の深化というものを抜きにはできない。山本覚馬は、薩摩藩邸に幽閉中、口述筆記によって「管見(かんけん)」という意見書を残している。筒の先の狭い穴から世の中を見るという謙った書名にしているが、その内容は、これからの日本の在り方を先駆けて見透している。また、失明の寸前で、その意味も含まれているのかも知れない。吉田松陰は、斬首を待つ前に、『留魂録』を残した。坂本龍馬は、「船中八策」を残し刺客の刃に倒れた。いずれも、公を思う気持ちがあったからである。これが、志という側面である。人格の深化とは何か。盲目になっても耳学問ということがあるように、知識は吸収できる。かえって、本質的な情報を選択するようになるかもしれない。新島襄に会う前に、山本覚馬は、キリスト教への理解を示し、後年受洗することになる。
 「管見」には、どのようことが書かれていたかというと、『山本覚馬傳』に掲載されている。慶応四年戊辰五月となっており、二二項目からなっている。項目だけを揚げる。
「政体」・「議事院」・「学校」・「変制」・「国体」・「建国術」・「製鉄法」・「貨幣」・「衣食」・「女学」・「平均法」・「醸酒法」・「条約」・「軍艦国律」・「港制」・「救民」・「髪制」・「変沸法」・「商律」・「時法」・「歴法」・「官医」。項目だけ見ても多岐に亘っている。
 こうした新しい時代の政治を京都で実践したのである。政治には、権力とお金、人々の賛同が必要になる。まず、政治力ということから言うと、政治顧問という立場である。今日で言えば、政策ブレーンというところであろうか。西周の推薦だったが、後に長く京都府政に関わる槇村正直との蜜月時代に開明的な事業が、京都に生まれる。日本で最初の小学校、中学校、「女紅場」の名で知られる女学校の開設は、日本で最初となった。
府立病院と医学校の創立。集書院(図書館)の開設。活版印刷による新聞の発行。工業、商業、農業の振興。博覧会の開催により、外国人の関心を向けるようにするなど、天皇が去った旧都の復興に奮闘している。
槇村正直は、京都府知事から貴族院議員となり、男爵となり栄達した明治維新の典型的な立身出世した人物だが、見識の上では、山本覚馬に及ばない。最後は、意見の相違を見るが、小野組転籍事件の時は、訴えられ拘束された槇村を救出するために、不自由な体で東京に行き奔走する。その時に同行し介添えしたのが新島八重だった。
また、西南戦争が勃発した時、西郷軍の敗北を予言したが、西郷隆盛は、国家にとって有為な存在であるとの信念から、助命のため自分を折衝にあたらせてほしいと願い出たこともあった。風雲渦巻く時代、国家の行く末に熱き思いを持って、時には意見、立場を異にする者に対し、硝煙の中を生き抜いてきた者だけが知る情の発露が、義侠の心で行動をかきたてることがあった。
新島襄、山本覚馬という、志と深化した人格の持ち主が、出会い同志社は創立されたと思う。神の摂理というならそうなのだろう。山本覚馬は、歴史的人物として、今日以上に評価されて良い。妹八重のドラマを通じて、そうなればと願う。


同じカテゴリー(日常・雑感)の記事画像
晴耕雨読
「秋刀魚の味」・「彼岸花」
映画『晩春』小津安二郎監督 松竹映画
映画「関ヶ原」鑑賞
映画「麦秋」鑑賞
台風迷走
同じカテゴリー(日常・雑感)の記事
 『天才を育てた女房』 (2018-02-20 20:31)
 確定申告 (2018-02-19 17:12)
 家屋点検 (2018-02-05 14:42)
 岡潔大人命四十年祭 (2018-02-03 11:57)
 晴耕雨読の家計事情 (2018-01-26 16:47)
 晴耕雨読 (2018-01-23 12:43)

上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
 山本覚馬のこと
    コメント(0)