2013年02月04日
鈴木セイさんのお別れ会
榛名湖に通じる県道、安中・榛名湖線を左に折れ、ロイヤル・オークカントリークラブゴルフ場の途中にはんな・さわらび療育園がある。重度心身障害者の施設で社会福祉法人榛桐会が運営している。この法人を設立したのが鈴木セイさんである。
1月24日に亡くなられ、2月2日に高崎のラサ中山という葬儀場でお別れの会が行われた。101歳に近い長寿であった。姉妹施設である社会福祉法人新生会に勤務した関係で、何度となくお会いし、年賀状のやりとりもさせていただいた。ご高齢になられてからおつきあいであったが、非常に誠実で、気配りに優れ、行動的な方だった。
鈴木セイさんに最初にお会いしたのは、昭和51年だったと思うが、榛名町の広報誌に吉川英治文化賞の受賞の記事があって、施設見学も兼ねてお会いしてみたいと思って、当時自動車の免許もなかったのでバスで出掛けた。見学案内をしてくださり、帰りは職員の車に鈴木セイさんも同乗し、ご自宅まで送っていただいた。ご自宅は、榛名荘のバス停の前で、そこからバスに乗って帰ったのである。
翌年、榛名荘に隣接する社会福祉法人新生会に就職することになった。現在法人の理事長をされている原慶子さんが、同志社大学の出身でお声をかけていただいたのである。そのおかげで、今も尊敬する原慶子さんの父上である原正男先生とお会いすることができ、定年の年まで社会福祉の仕事をさせていただいている。
お別れ式の引きものとして『パッションに生きた鈴木セイ先生』という本をいただいた。編集したのが原慶子さんである。鈴木セイさんは、自分のことをあまり書いていない。行動の人だったということを改めて知らされた。しかし、そういう人には書き残してくれる人が必ず現れる。聖書もキリストの弟子が書いたものである。鈴木セイさんは、クリスチャンで洗礼名は、マルタである。マリヤの姉である。この人も行為の人であった。
1月24日に亡くなられ、2月2日に高崎のラサ中山という葬儀場でお別れの会が行われた。101歳に近い長寿であった。姉妹施設である社会福祉法人新生会に勤務した関係で、何度となくお会いし、年賀状のやりとりもさせていただいた。ご高齢になられてからおつきあいであったが、非常に誠実で、気配りに優れ、行動的な方だった。
鈴木セイさんに最初にお会いしたのは、昭和51年だったと思うが、榛名町の広報誌に吉川英治文化賞の受賞の記事があって、施設見学も兼ねてお会いしてみたいと思って、当時自動車の免許もなかったのでバスで出掛けた。見学案内をしてくださり、帰りは職員の車に鈴木セイさんも同乗し、ご自宅まで送っていただいた。ご自宅は、榛名荘のバス停の前で、そこからバスに乗って帰ったのである。
翌年、榛名荘に隣接する社会福祉法人新生会に就職することになった。現在法人の理事長をされている原慶子さんが、同志社大学の出身でお声をかけていただいたのである。そのおかげで、今も尊敬する原慶子さんの父上である原正男先生とお会いすることができ、定年の年まで社会福祉の仕事をさせていただいている。
お別れ式の引きものとして『パッションに生きた鈴木セイ先生』という本をいただいた。編集したのが原慶子さんである。鈴木セイさんは、自分のことをあまり書いていない。行動の人だったということを改めて知らされた。しかし、そういう人には書き残してくれる人が必ず現れる。聖書もキリストの弟子が書いたものである。鈴木セイさんは、クリスチャンで洗礼名は、マルタである。マリヤの姉である。この人も行為の人であった。
Posted by okina-ogi at 09:19│Comments(0)
│日常・雑感